「術式完了」
全ての処置を終えたと自分で理解できた。自然にその言葉が口から出ていた。きっと過去のわたしも口にしていたんだろう。
「後は病院で管理を」
「ルル──BJ、ありがとう」
「あなたにその名前を呼ばれるなんてね。局所麻酔でよく頑張ってくれたわ。いい患者よ」
「いい恋人になりたかった」
「キリコが死んだって無理ね」
クリードは苦笑し、安堵して髪を撫でる母親は泣いた。エミリーは子供好きの隊員と楽しい話をしている。母親はそれを見てまた泣いて、クリードは静かに言った。
「かあさん、泣くのをやめてくれ。私は生きている。エミリーだって生きているんだ」
これだけ弱った身体で、クリードはまだ誇り高く生きている。妹も生きていると理解している。
あと15分。わたしだって耐えられないほど辛い。苦しい。母親はきっとこんな感情じゃ済まない。感情をどこかに逃がしたくて息を吐いたら、キリコがクリードからは見えない位置で背中を一度だけ撫ででくれた。キリコはこう言う時、とても気が利くんだ。誰も傷付けない。違うわたしが得意そうに言った。そうね、わたしもそう思う。きっと知ってる。
「先生、ドクター、ちょっといい?」
グラディスに呼ばれた。クリードたちから少し離れ、大広間から中庭へ出られる壁一面のガラスドアの前で話す。
襲撃者が入った時に閉じられたと言うガラスドアの向こうに、大富豪の家のお約束なのか、大きなプールが見えた。あまり家の中を歩き回らないようにしていたわたしは、ここにプールがあることを初めて知った。元気になればエミリーも──考えたくないと思ってしまった時、グラディスが話を始めた。
「退避してくれ。お願いだ」
理由の説明もなく、そして、お願いだ、と言った男が言いたいことなどすぐに分かった。キリコもわたしと同じだったのか、溜息を堪えて「分かるよ」と言った。
「それでも悪いが、俺は残る」
「言うと思ったよ」
「薬の管理をした。俺の患者なんだ」
「──わたしの患者よ!」
何てことを言うの。わたしが診ていたのに──思わず感情が高ぶって、少し大きな声を出してしまった。患者を取られるって思った。でもこの感覚が懐かしいような気がした。キリコがほんの少しだけ笑って、なぜか懐かしさが急に現実味を帯びた。
「俺たちの患者だ。エミリーもクリードも」
「……それでいいわ」
キリコがわたしの腰を抱いた。クリードからは見えないから。
「そういうことだ。俺は行かない。こいつだけ頼む」
「分かった、って言うのがセオリーなんだけど、無理でしょ。行くわけないじゃない」
赤毛の少佐はわたしが開きかけた口を無理矢理塞ぐように、わたしが言いたかった言葉を言ってしまった。開きかけた口を閉じ、わたしはグラディスを少し見直してやった。わたしのことを結構分かってるみたい。
「デルタで爆弾処理ができる奴はいないのか」
「全員できる。ただ、爆弾の種類が確定できない。新型か改造型ってことしか分からない。爆弾処理班の無線指示でも解除作業が危険なんだ」
「対策本部から別の連絡はないか?」
「え?」
「伝わらなかったか」
「──ドクター、何言ってんの?」
わたしもグラディスもキリコの言う意味が分からなくて、思わずまじまじと見ていた。キリコは何かを考える顔をした後、エミリーを見て、悔しそうに眉を顰める。
「引き千切れないのか?」
「それも分からない。隊員にやらせるわけにはいかない。もちろんあなたたちにも、クリードたちにもね。これだけは力尽くで止める、絶対にやめてくれ」
先に太すぎる釘を刺された。もちろんそんなことは考えていなかった。でも本当は、ギリギリになればやってしまうんじゃないかって思った。わたしもキリコも、きっと。
「隊長、退避命令を」
ベネットが敢えて無表情にしていると感じさせる顔でやって来た。彼ももう無理だと分かってる。グラディスは頷き、クリードたちの方へ歩いて行こうとする。わたしたちもそうした。
罪のない少女が無残に死ぬさまなんて考えたくない。救いたいのに手段が見つからない。
「……何? どういうこと?」
不意にグラディスが足を止めた。無線だ。しばらく受信した後、わたしたちを振り返った。わたしは息を呑んだ。
「……分かった。入れろ」
グラディスのこんな目を──憎悪と殺意だけに満ちた目を見たことがなかったんだと思う。でもその目はわたしに向けられたものじゃなかった。
「ドクター」
「どうした」
「あなたに呼ばれたって言ってるって話なんだけど、本当?」
グラディスはキリコに、憎悪と殺意を向けていた。
そんな目を正面から受けても、キリコは笑った。
「間に合ったか」
「本当かって訊いてるんだ」
「本当だよ」
「どうやって呼んだ」
「おまえさんに爆弾のタイプを説明した時、例の盗聴器から同じモールス信号を発信しておいた。あいつも自分の手元の受信機で受信設定だけはしてたはずだからな」
「くそ、あいつもモールスできたのか」
「一か八かさ。──環境を整えろ。すぐ来るだろう」
「テロリストを迎えろって?」
「今は唯一の希望だ」
「Fxxk。所詮あんたもアウトローだ。いつか死ね」
「誰でもいつか死ぬ、おまえさんの望みは叶うよ」
話が全く分からない。グラディスが速足で隊員たちの方へ向かってから、わたしはキリコを見上げた。
「どういうことなの」
「爆弾のスペシャリストが来る。おまえも知ってる奴だ」
「分かりやすく言ってよ」
キリコは笑い、わたしの唇に軽くキスをする。グラディスにはばれてない。タブロイドに載せられたら恥ずかしくて死んでしまう。でも今はそれどころじゃない。
「アメリアの友達だ。一度会ってる。玲太だよ」
「──玲太?」
キリコは頷いた。わたしのところへ来てくれた高校生。彼が爆弾のスペシャリスト? どういうこと? 何も分からない。混乱しかけたその時、大広間の入り口から少年が駆け込んで来た。
本当に玲太だった。スクールバッグを背負っている。ここまで全力で走って来たんだろう。息を切らせて汗だくだ。誰かが何かを言う前に、彼はグラディスに言った。
「どこだ」
「そこの女の子」
「本当に子供じゃねえか。クソが」
「見ての通りだ。それが何か?」
「──このタイプなら外部の衝撃じゃ爆発しない。でも解除もできない。引き千切ったら爆発するやつだ。外して遠ざけて、爆発させるしかない。すぐ始める。俺を紹介して後の相手は頼む」
グラディスは眉をひそめて露骨に嫌そうな顔をした後、それでも玲太の要望を受け入れた。グラディスから事情を説明されたのか、隊員たちはできるだけ緊張した空気を出さないようにしているみたいだった。
「エミリー、レイタだ。アメリアのお友達だよ。学校で同じクラスなんだって」
「アメリアねえさんの? そうなの?」
「初めまして。日本から来たんだ」
玲太はエミリーと軽く握手をしたが、母親とクリードには目もくれない。既にエミリーすら見ていない。
その首の爆弾を見ていた。
わたしはもう耐えられなかった。突き飛ばされるまで、あるいはここから引きずり出されるまで、エミリーの傍にいたかった。エミリーの隣に行くと、エミリーは笑ってくれた。わたしも何とか笑った。わたしたちの傍にキリコも来てくれた。
「少佐さん、あんたが流暢に喋れる言語。連絡用に」
「──ドイツ語にしろ。他の隊員も分かる」
「いいよ」
「防護服の用意がない。きみ、持って来てないの?」
「あんなもん、見た目で子供が怖がる。作業しにくくなるからいらねえ」
玲太はあっさりドイツ語に切り替えてグラディスと会話をし、わたしを驚かせた。でも次の瞬間から、もうそんなことは驚くべきことでもないんだって思った。
スクールバッグから取り出した、わたしには分からない道具をエミリーの首の爆弾に当てて行く。エミリーは少し嫌がった。わたしは言った。
「肌がかぶれそうだし、寝る前に取ってもらいましょう。中々外せないから道具がいるんですんって」
「ふうん。──でも、これをくれた人の顔が怖かったからもういらないわ」
「怖かったのによく頑張ったわ。もう少し頑張って」
あと6分。
玲太は来た時とは違う汗をかいていた。瞬きひとつしない。指先に全ての神経を集中させているのは見れば分かった。エミリーが怖がらないことが不思議なほどだった。
身動きしたがるエミリーをおとなしくさせるためか、玲太はドイツ語で「歌でも歌わせな」と言った。
「そうだ、エミリー」
グラディスが明るい声でエミリーを呼ぶ。
「好きな歌は何? 僕の姪に教えてあげたいんだ、何か教えて」
「好きな──ドクター、そうだ、ねえ、あの歌を聴いてくれる?」
「もちろん。歌える?」
キリコが優しく言う。本当に優しい声だ。エミリーが嬉しそうに笑うほど優しい。クリードと母親がきっと涙を堪える力になったくらいに優しい。わたしが泣きたくなるほど、本当に優しい。
玲太が軽く息を吐いた。今までにないほど鋭い目になっていた。指先の動きがより慎重になったことが分かる。
あと5分。
お願い。──お願い。早く。
「──誰かが言うの」
子供らしい可愛い声、それでも質の高い教育を感じさせる正確な旋律がエミリーの唇から流れ出した。
誰かが言うの 愛は川なのだと それはか弱き葦を沈めるような
誰かが言うの 愛は刃だと それは心を切り裂いてしまうような
ああ、あの歌──わたしは思い出した。知っていたんだと思う。何年か前、この美しい曲を世界中の人が聴いた。きっとその人たちの中にわたしもいた。
誰かが言うの 愛は渇きだと 苦しいのに永遠に求め続けてしまうものだと
「──でも私は言いたい」
わたしの隣にいたキリコが歌った。エミリーが笑った。キリコも優しく笑った。
二人は一緒に歌った。
でも私は言いたい 愛は花だと
そしてあなたはその花の種
「──心が傷付くことを恐れていては」
グラディスが歌った。エミリーが笑った。グラディスも優しく笑った。
心が傷付くことを恐れていては 愛の素晴らしさを学ぶことなどできない
夢の目覚めに怯えていては 夢を叶えることなどできない
クリードは母親に支えられて身体を起こし、エミリーの手を取った。エミリーは笑った。クリードも笑った。わたしが見たことのない、優しい、家族への愛を伝える笑い方だった。
誰かに奪われることを恐れて心を開けないのなら 誰にも喜びを与えられない
死を恐れて生きるなら それは生きているなんてことじゃない 生きる意味がない
「──ひとり孤独で寂しい夜が続いても」
ベネットが、デルタフォースの隊員たちが歌った。
荒れた大広間で身体に爆弾をつけられ、数分も経たないうちにきっと死んでしまう女の子を囲んで歌っていた。女の子は嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑いながら歌っていた。
ひとり孤独で寂しい夜が続いても 長い道をひとりで歩き続けても
あなたはあなたの愛が 誰かを幸せにできることを知っている
「──忘れないで」
わたしも歌った。時間は見なかった。エミリーだけを見た。
エミリーはただ幸せそうに笑ってわたしを見て、こんなに幸福な歌声を聴いたことがないとわたしに思わせるほどに、美しい声で歌った。
忘れないで どんなに厳しい冬の夜でも
雪のはるか深く下 そう ずっと深い下に 愛しい太陽を待つ種が眠っている
時間なんて見たくなかった。見なかった。でもキリコがわたしの腰を抱いて力を入れた。それで全てが分かった。もう時間がない、本当にもう──きっとこの歌が終わる頃には、もう。
やがて訪れる春に咲く 薔薇の種
「──取れた!」
一瞬で全てが弾けた。血を吐くような叫びが、爆弾を外した少年の精神が限界だと教えた。
時間──10秒。
キリコがわたしとエミリーを突き飛ばすように玲太から距離を取らせ、それでもエミリーだけは抱いて床に転がった。わたしはクリードと、クリードを守ろうとした母親にまとめて覆い被さった。
グラディスが玲太から爆弾を奪って走り出した。隊員たちが一斉に発砲した。短機関銃の音ばかりだって分かった。何を撃ったのか分からなかった。
次の瞬間、中庭に続くガラスドアが砕け散る音が濁った色のクリスタルの共鳴のように響いて、ガラスの欠片が弾けるかのように飛び散る。
わたしは顔を上げた。ガラスの創傷は処置が面倒なんだよな、とキリコが溜息をついて言っているのが聞こえた後、スコールのように降り注ぐガラスの破片で血まみれになったグラディスが、手にした爆弾を中庭のプールに向けて思い切り投げる姿が見えた。
「あんな傷、わたしが綺麗に治してやるわよ」
「頼もしいよ、ブラック・ジャック先生」
キリコが笑い混じりの声で言った次の瞬間、何かがくぐもるような音と共に、プールから大きな、大きな水飛沫が上がった。
一斉射撃をした隊員たちが大歓声を上げ、口笛を吹き、手を叩く。大騒ぎの中、ベネットが血まみれの隊長に「だからあんたは俺たちがいないと駄目だって言っただろ」なんて言って、グラディスが「死ね」って言い返しているのが聞こえた。
「子供に使うなんて聞いてなかった。くそが」
体力も精神力も限界だったのか、床に引っ繰り返った玲太が日本語で呟く声が、きっとわたしの耳にだけ届いた。わたしにも聞かせるつもりがなかったはずの声だったのかもしれない。
「何で自分で売った物を自分で壊さないといけねえんだ。やってらんねえ」
何かを理解してしまうような気がして、わたしは聞こえない振りをした。彼は天才で、きっとたまたま爆弾に詳しくて、きっとアメリアに呼ばれて、ここに駆け付けて、そして命をかけてエミリーを救ってくれた。
わたし自身ですら騙せないことは分かっていた。
でもそれでいいと思った。それでいいと思わなければいけない瞬間を知っているのだと、きっと過去のわたしがそうだったんだと知った。
「終わったの?」
言ったのはエミリーだった。誰もがエミリーを見て、愕然とした。あれだけ無邪気に何も知らない顔で、美しい歌を歌っていた少女が、初めて恐怖と対面したかのように震えていた。クリードが言った。彼の声は泣いていた。
「終わったよ。──よく頑張った。よく頑張ったよ、エミリー」
「わたし、頑張った? 頑張れた?」
「もちろんだ。素晴らしいよ。──もう終わった。きみは私たちの誇りだ」
「──怖かったの!」
そしてエミリーは激しく泣き出した。クリードも、エミリーを能う限りの力で抱き締めた母親も泣いた。
わたしも泣いた。
本当は何もかも分かっていた少女の恐怖を考えるだけで、泣く以外に何もできない、キリコに抱き締められて安心するような、醜い自分が情けなくて仕方なかった。
それからはまた大騒ぎだった。テロリストたちのことはもうわたしには分からなかった。ただクリードとエミリー、それからグラディスを病院に移送する必要があったから、それに集中するしかなかった。グラディスは行かないで仕事をすると言い張ったけど、キリコに文字通り首根っ子を掴まれて軍用救急車に押し込まれていた。ベネットがキリコに「すんません、よろしく」と言っていた。
「俺はクリードたちの病院に行く。おまえは陸軍病院へ行ってくれ。グラディスのガラス創傷はおまえじゃないと綺麗にできない」
お互いに行くべき病院がある。それに医者が付き添うのは当たり前だ。わたしも医者としてそれは理解できた。でも──医者としての何かを忘れそうになったわたしを、キリコが笑って、それから丁寧に抱き締めてくれた。宝物みたいに扱ってくれているようで、嬉しかった。
「迎えに行くよ」
「──また?」
「何回でも、どこにでも」
深く唇を合わせて、少し長い間キスをする。それでわたしは安心できて、グラディスが乗った軍用救急車に向かった。先にピノコとユリさんがいたものだから思わず笑った。
応急処置だけでまだ血まみれのグラディスにユリさんが、その美貌に似合わないくらいに結構な剣幕で何かを言っていて、ピノコがけらけら笑っている。わたしに気付いた三人が同時に、三者三様に「遅い」と言ったものだから、わたしはまた笑ってしまった。
「グラディスくんったら血止めだけでいいなんて言うのよ。馬鹿みたいだわ」
「装備があったから頭皮と顔だけだし、そもそも女の子じゃないんだから気にする必要ないし」
「ちぇんちぇいならぜーんぶ綺麗にできゆのわよ!」
わたしは応急処置で見た時の傷を思い出して、ざっと計算した。
「その傷なら普通、結構残るけど。わたしなら丸っきりなかったことにしてあげられるわよ」
「おいくらですかね、お医者様?」
「数千万円になることもある、って言ってたのはあなたでしょ」
「陸軍に請求して。それにしても高いな、ほんと」
「ガラスの創傷は面倒なの。傷が残らないようにしてあげられるんだから感謝しなさいよ」
「随分自信がおありのようで。思い出したの?」
「全然」
わたしは肩を竦めた。でもピノコとユリさんを見て、自然と笑顔になれた。
「家族がいればどうにでもなるわ」
わたしの家族はそれで笑ってくれて、わたしを安心させてくれた。
救急車がゆっくりと動き出す。軍用救急車は普通の救急車より広くて、設備も少し違っている。ピノコとユリさんが興味深そうにあれこれグラディスに質問を始めてうるさがられていた。
たぶんこういう光景は前にもあったんだろうなってちょっと笑ってから、わたしは後部の扉の窓から遠ざかるオールドマネーの家を見る。警察や軍の車両に囲まれた、映画でしか見られないような大きな家にわたしがいたなんて信じられなかった。
開いた門扉の前に救急車が停まっている。クリードたちが乗っている救急車だ。後部ドアの前でデルタの隊員と話しているのはキリコだった。
キリコがふとこっちを見て、微笑んだ。
笑ってくれたことに安心して、だから、ほんの少し前の言葉を思い出せた。
『迎えに行くよ』
ねえ、必ず迎えに来てね。
会いに来るんじゃなくって、迎えに来てね。
覚えてないことばっかりだけど、これだけは覚えてる。
わたしはあなたを愛していて、あなたもわたしを愛しているってこと。