タキシードを用意する金を経費にしろと赤毛に言ったら、そんなの当然だと返された。招待から当日まで日が短く、特注扱いでかなりの額になったが、俺の知ったことじゃなかった。さっさとBJを救出しない国が悪い。
「今日の15時にやっと日本政府が正式に要請を出した。普通は受理手続きまで半日くらいかかるけど、今回は特別扱いでもうデルタに救出命令が出てる。16時付けでね」
「あいつはよっぽど外務省に嫌われてるんだな。一応高額納税者だろうに」
「まあ、日本としても色々あるんでしょ。無免許の闇医者ってだけじゃなくてもさ。先生ってベトナム戦争の時に渡航歴があるじゃない? 日本の外務省がベトナムにいる日本人に向けて退避勧告を出してた時期にさ。そんな経歴じゃ勝手にしろって思われても仕方ないよ」
「なるほど、俺でも思うだろうさ」
普段なら気が進まないフォーマルパーティへ出席する支度を整える。タキシードを着るのは久し振りだ。俺を迎えに来た礼装用の軍服姿のグラディスは溜息をついた。
「銃が持てない。入り口でボディチェックがあるんだ。SP役のベネットに分解式を隠し持たせる。彼はスーツだからタキシードよりは隠しやすいんだ。取り敢えずそれだけ覚えておいて」
「分かったよ。襲撃予想がある連中の情報は?」
「襲撃予想ですって? そんなもの全くありませんよ、ドクター!」
グラディスはわざとらしいまでに明るい声で宣言した。俺はそれ以上問いかける気になれなかった。調べていないはずがないし、襲撃する連中が今日のように邸内に入りやすいチャンスを逃すはずがない。だがグラディス──実際に襲撃があれば対応する小隊の隊長──がわざとらしくそう言うのであれば、俺から問うことはもう何もなかった。
「襲撃があろうがなかろうが、俺はあいつを連れて帰るぞ。昨日の時点でクリードに話をしているなら遠慮はいらないだろう」
昨夜のクリードとルルの会話は当然盗聴していた。玲太が仕掛けた盗聴器は予想以上に役に立っている。
「もちろん。何言ってんの、デルタだってそのつもりで出動してるんだよ。正面玄関から邸内に入るデルタは僕とベネットだけだけど、もう小隊が家の近くで待機してる。あとは僕の合図待ち」
「デルタの突入前に俺が正面玄関からあいつを連れて出たらどうなる?」
「そのまま車呼んで帰って再会のセックスでもすれば? 久し振りなんだ、優しくしてあげなよ」
これで把握できた。俺とBJがどうなろうと、デルタフォースは突入を前提とした計画を立てている。そこに確実に武力を必要とする瞬間があると予測しているからだ。
「確認する。いいか」
「どうぞ」
「デルタフォースは今日、クロオ・ハザマの救出命令で出動している、という認識でいいな?」
「公的に残る記録は今のところそれが全てだね」
言外に「別の目的もある」と告げる男に、俺は腹を立てなかった。俺の女が無事に戻って来ればいい。この機会を利用して政府がオールドマネーに対して何をしようとも、俺の知ったことじゃなかった。
渡された小型無線機を耳に入れ、髪で隠し、発信機は辛うじて襟とボウタイの境目の裏側に取りつけることができた。タキシードの難点はシルエットが決まり過ぎていて、何かを隠し持つには向いていないと言うことだ。
「その勲章、ブロンズスターか。本物か?」
グラディスの軍服の胸に下がる勲章を見る。この年齢の少尉なら持っていてもおかしくない、だが周囲への箔付けになる──アメリアが喜ぶ──勲章だ。
「まあね。僕の年齢で表に出せる勲章ってこれくらいしか持ってないんだよ」
「他にも持ってるのか」
「殊勲十字章とかシルバースターとか」
「──そりゃ確かにおまえさんの歳じゃ見せにくいな」
俺の人生には価値のない勲章と言う存在ではあるものの、軍事有事のこの国ではかなり高位の勲章であることは確かだった。逆に授与されるには若すぎて偽物を疑われるか、身元を特定されやすくなるかのどちらかの危険を孕むかもしれない。
「一応特殊部隊だし。それなりに命懸けだから受章の機会も多いさ。ドクター絡みの任務みたいな方がイレギュラーなんだよ」
「勲章を外に出しにくいなんてな。本末転倒だ」
「ドクターだってベトナムでもらってるでしょ」
「パープルハート(負傷兵への勲章)だけだ」
「驚いたよ。殊勲飛行十字章くらいもらっててもいいはずなのにね。安楽死の是非はともかく勇敢な軍医だったことは間違いないんだから」
「色々とな」
「──ふうん?」
グラディスの反応は俺の密林の中の事情を知らないものだった。軍は完全に隠匿しているらしい。敢えてこの男に教える必要はない。俺が話すはずがないと知っているグラディスはすぐに興味を失った顔を作ったが、俺は少しばかりの親切が必要だと思った。
「調べるな」
「何で」
ほら、案の定だ。この男が──機密を扱う優秀な軍人なら調べようとしないはずがないんだ。俺の目を見るグラディスの目が、久し振りに違うものになっていた。──気狂いの目だ。気狂いの振りをすることもある男だが、何かを求める時には本物の気狂いの目をする。
「おまえがどんな立場でも死ぬ。おまえの父親にも不都合が出る」
こいつがどうなろうが俺の知ったことじゃない。だからと言って詳らかにされたい過去でもない。
しばらく俺たちは見詰め合っていた。睨み合っていたと言ってもいい。やがてグラディスの目から気狂いの色が消え、「分かったよ」と小さな声で返事が返って来た。
「にいさん、迎えの車が──あら、素敵。似合うわね」
「ロクター、ギィしゃん、かあっこいいのよさ!」
日本から到着して数日、俺の家にいる妹とあの小さな娘は物珍しい物を見た感情を褒め言葉にして笑顔になった。お嬢ちゃんが久し振りに笑ったので俺は安心する。先生はどこ、と俺に会った途端に言った時の顔はしばらく忘れられそうにない。
「ロクター」
「うん?」
「本当に、ちぇんちぇいは今日帰って来るのわよね?」
「もちろん
「嘘をついたら怒るのわよ」
「お嬢ちゃんに嘘をついたら先生に嫌われちまうよ」
お嬢ちゃんは「ひひ」と小さな娘らしい笑い顔をし、今から楽しみで弾みそうな身体を持て余しているようにも見えた。事情を話した時には幼い子供ではなく明らかに大人の顔をして聞いていたのに、俺に「必ず帰ってくる」と言うことを確認してからは、ずっと子供のままだった。
「グラディスくん、お願いね」
お嬢ちゃんよりも多少詳しい話を知っている──情報機関とデルタフォースが深く関わっているということ──ユリは、それだけをグラディスに言う。グラディスはいつも通りの軽快な口調で「どうってことないよ」と言って笑ってみせた。
「そろそろ行って来る」
「行ってらっしゃい」
ユリが俺に家族のキスをする。するとお嬢ちゃんが俺の脚をつついた。
「しゃがむのわよ」
内緒話でもしたいのかと屈み、目線を合わせると、お嬢ちゃんの小さな唇が俺の頬に当てられた。流石に驚いた。初めてのことだ。
「今のは恋敵にちゅーしたんじゃないのよさ」
「ふうん?」
「ちぇんちぇいに届けて欲しいのわよ」
俺は何を言えばいいのか分からず、それでも確かに引き受けたことを伝えたくて、頷いて手を差し出した。お嬢ちゃんは見た目に似合わない大人びた顔でにやりと笑い、恋敵と強く握手をしてくれた。手を離した時にはもう子供の顔に戻っていた。
目的を達成するための時間が迫り、俺とグラディスは車へ向かった。思ったよりも似合うスーツ姿のベネットが待っていた。
「失敗したら殺す」
「イエス、サー」
ユリやお嬢ちゃんの前では見せなかった軍人の顔と、いつもより少し低い声での物騒な宣言に、普段見せるふざけた態度はどこへやら、真剣な返事をした部下の姿に感心してから俺は勝手に車に乗り込んだ。
普段は堅く閉ざされているオールドマネーの邸宅の正門が開かれている。既に19時を回ってとうに陽も落ちている時間の今、正門から続く庭はライトアップされ、続々と集まる高級車を照らしていた。
「防犯に金かけてるなあ。カメラの数が凄いし、警備員の配置が上手い」
助手席ではなく、後部座席で俺の隣に座ったグラディスが呟く。俺には見えない部分も見えているのだろう。職業柄と言うやつだ。
「これだけ照らせば中々部外者は入り込めない」
「デルタなら?」
「楽勝」
「頼もしいな」
「伊達に税金使って訓練しちゃいないさ。世界最高峰の自信があるよ」
見栄ではなく事実なのだろう。BJの奪還に問題がなければどうでもいい。
車を降りるとすぐに近付いて来た執事に、他の招待客とは違う方向へ案内された。クリードのバースデーパーティが開かれる大広間ではなく応接室だ。理由は分かっている。
「まあ、ドクター・キリー、ようこそいらして下さったわ!」
「お招きをありがとうございます。とてもお美しい」
「ありがとう」
今まで見た中で最も華やかで美しい姿のアビゲイルが俺を迎える。俺はこの場に相応しい挨拶をして握手をした。アビゲイルは一瞬だけ残念そうな顔をしたが、すぐに隠した。称賛のキスでも欲しかったんだろう。俺じゃなければ引き寄せられるようにキスしていたと思う。それほどまでに今日のアビゲイルは美しかった。
「ギィ、来てくれてありがと。来なかったら一生恨もうと思ってたわ」
「女の子との約束を破る趣味はないよ。すごく可愛いね」
愛しの王子様が来てくれて頬を上気させたアメリアに、グラディスは握手ではなく頬に軽くキスをしていた。若い男女のスキンシップとしては上手いかもしれない。アメリアは年相応に充分可愛らしく、ドレスがよく似合っていた。ユリもプロムでこんなドレスを着ていたな、と思い出し、そして自分が歳を取ったとしみじみしてしまいそうだったので、少し努力してその記憶を遠くへ追いやる。
「お兄さんは? まだ主役が出るほど人が集まってないでしょ」
「自分の部屋にいるわ。にいさん、昨日から変なのよ。ルルが出てっちゃうからだと思うんだけど」
「へえ、あの女医さんが?」
「そうなの。前からエミリーが歩けるようになったら出て行くって言ってたけど、昨日歩けるようになったから、今日のパーティが終わったらその足で出て行くんだって。ちょっと急すぎない?」
「急だね。でもお兄さん、よくOKしたね。世間で噂になってるのに」
「でしょ、わたしもそう思うの。でも、それで落ち込んで部屋に閉じこもってるなんて、だったら反対すれば良かったのにね。──胸のこれ、勲章? もう持ってるの? 凄くない?」
「そんなに凄いやつじゃないよ。頑張ったで賞みたいな感じ。5個でもっと頑張ったで賞に交換してもらえる」
確かにブロンズスターは5回受章すればシルバースターに格上げされる。それにしても頑張ったで賞とは。
車を降りた時からオープンにしている無線から、今のアメリアの声がFBIとデルタフォースに届いているはずだ。俺は怪しまれない程度にアビゲイルに話しかけた。
「エミリーが歩けるようになったんですね。おめでとうございます」
「ありがとう。ドクターがおっしゃった通り、予想より早かったわ」
「彼女が良い患者だったからですよ。とても頭の良い子なんでしょうね。──彼女がホームドクターをお辞めに?」
アビゲイルは困ったように眉をひそめ、それから笑った。
「ドクターがご存知の人に戻れるといいんだけど」
俺は初めて、アビゲイルに心から本心で微笑んでみせた。
「そんなことまで気にかけて差し上げるあなたが素晴らしいと思いますよ。きっと彼女は幸せになれるでしょう」
彼女が幸せになるか、それとも俺が幸せになるか。そんなことはアビゲイルに関係ない。だが俺の心からの言葉は恋に溺れかけた女の自尊心をくすぐるには充分で、アビゲイルは嬉しそうに、そしてどこか艶めかしく笑った。俺は艶めかしさに気付かない振りをし、アビゲイルはそれに落胆した。
昨日までの──アビゲイルの肩を抱く必要があった俺なら、その落胆を回復させようと甘い言葉を囁いたかもしれない。だが今、この家にこの状況で入り込んだ以上、その必要はなかった。本音を言えばルル、否、BJの姿を見たら、そのまま手を引いてこの家を後にしたかった。だがそれはBJ自身が許さないであろうことも知っていた。
記憶があろうがなかろうが、あいつは変な部分で義理堅い。エミリーが昨日歩けるようになったのに、まだこの家にいることがその証明だ。最後の礼儀としてクリードのパートナーを務めてやるつもりなのだろう。
「住むところと、彼女が一生困らないだけのお金の用意はしてあるの。彼女が出て行く時に渡すつもりよ。でもきっと、それはわたしたちの傲慢なんでしょうね」
アビゲイルが少し変わった、と俺は思った。上流階級の傲慢な女が外に生きる意味を求める人間の心を考え始めている。
残念だ。酷く残念だった。もしBJを隠そうとしなければ、真実の善意だけでBJを保護したのなら、俺は彼女を心から敬することができただろうに。
「あなたは普通の人よりも、多くの愛を彼女に与えています。過去、歴史の中でも、多くの詩人や聖人が謳った愛を、彼女は感じることができるでしょう」
アビゲイルは僅かな間、俺の言葉を噛み締めているような顔をしたが、やがて微笑んだ。俺も微笑み返してやった。こればかりは嘘ではないと、ほんの一部でも信じられた。その程度にはアビゲイルは善の性質の女で、たとえ理性からの人工的なものであっても、確かに、誰かに愛を与える人間だった。
認める気はないが、クリードとて根本は愛に生きている。クリードだけではなく、アメリアもそうだろう。第三者へ愛を与えられる人間たちだ。
そしてBJも。いや、BJこそが愛を持つ者だと、俺は信じていた。誰かを憎む時もその根本には愛が絡む。誰かへの愛で憎まざるを得ない。そして憎悪を消化した時、昇華する前に自分を責める。根本の愛を穢したような気になるからだろう。
だが憎悪よりも何よりもひたすらに、自分の世界に存在する対象を愛するBJは、ただただ一途で美しいのだ。産み出した娘を、記憶の中の母を、ユリを、そして俺を、それから──患者を。愛するとはまさにこのことだと教えてくれるような存在だ。
口にすれば途端に陳腐になるような、長い長い歴史の中で使い果たされた言葉でも、俺は心底思うのだ。
全ては愛だ。あいつの全てが愛だ。
俺が愛しているあいつは、存在の全てが愛だ。
「今日は、彼女の未来も」
その女を、俺は今日、やっと奪い返しに来た。
「心の中でお祝いして差し上げてはいかがですか」
善の心のみで微笑み、頷くアビゲイルに、俺は微笑み返した。あと数時間も経たないうちにこの女は俺からの愛が偽物だったと気付くんだろう。同情はしない。ただ、俺のやり口が批判されるべきものだと言うことは分かっていた。
偽物の愛を振り撒きながら、真実の愛をくれる女を取り戻しに行く。それこそBJが聞けば激怒するような行為だと、よく知っていた。
上流階級でもバースデーパーティの始まりは庶民と同じだった。招待状に書かれた時間に招待客が待つホールに主役が現れ、挨拶と祝いの言葉に明け暮れる。乾杯の後、先に来ていた小児科部長と主治医は妻を伴い、クリードへの挨拶の順番を待っていた。挨拶は社会的地位によって順番が決まっている。
俺はアビゲイルのパートナーと言う立場から早めの挨拶ができるはずだったが、アビゲイル自身が他の招待客の挨拶に揉まれ、結局は後回しにされた。別に挨拶をしたいわけでもなかったのでそれで良かった。むしろクリードの一歩後ろでいかにも義務的に微笑むルルの様子を窺いやすく、助かったほどだ。
ルルはBJの時の見事な営業力はどこへやら、人見知りを何とか隠そうと精一杯だった。オールドマネーの一家の当主であるクリードのパートナーと言う立場のルルに興味を示す客は多かったが、女性と辛うじて握手をする程度だ。これはクリードたちの手回しだろう。男性がルルに触れることが決してないと分かった。その点は安心できそうだった。
アメリアは年上の赤毛の王子様を若い連中の間に連れ回し、同年齢の少女たちから羨望の眼差しを受けて満足そうだった。グラディスは顔に微笑みを貼り付け、アメリアの飲み物に気を遣っているように見える。その実、周囲への警戒を怠っていない。定期的に俺と目が合い、何もないことを確認された。ベネットは壁際、SPたちが集められる場所でじっと立っている。いざと言う時には真っ先に動くだろう。
あとはいつ、俺が動くかだ。デルタの都合なんぞ知ったことじゃない。そもそも俺の行動に制限をかけるなら、グラディスがとっくに申し出ているはずだ。俺はいつでもルルを──BJを連れて帰ってもいいということになる。
「ドクター、フォート・デトリックに興味のある方がいらしているの。少しお話をいいかしら」
「お兄さんへの御挨拶がまだですが、それでもよろしければ」
「ごめんなさいね、今は上院議員や企業の人と話しているはずよ」
「そちらの方が重要ですね」
フォート・デトリックに興味があると言ったのは、まだ駆け出しの議員だった。クリードのバースデーパーティに来られるような立場ではなさそうだったが、アビゲイルを経由して招待されたと言う。そんな連中も多いのだろう。こうやってこの家は政治との関わりを保ち続けて行くのだ。俺はしばらく彼と話をし、たまにルルの様子を窺った。開会から一時間も経っていないのにもう疲れた顔を隠し損ねている。
「アビゲイル、失礼」
もうどう思われても構わなかった。どうせ今夜で切り離す女だ。堂々と俺の女のために働かせることにした。
「ルルが疲れています。ここは男性も多いし、パニックになりかねない。休憩を勧めることはできますか」
「そんな──大変。でも今わたしが行ったら騒ぎになってしまうわ、どうしましょう」
「アメリアに頼むとよろしいでしょう。その後、少し私が診察します」
アメリアなら若さゆえの我儘でルルをクリードの傍から引き離してくれる。その後はアビゲイルがクリードの隣にいればいい。アビゲイルは頷き、一家を取り仕切る女の顔をしてアメリアの方へ歩いて行った。やがて姉妹はクリードとルルの方へ向かう。グラディスが俺を見て、俺もグラディスを見た。グラディスの唇が「幸運を」と動き、耳の無線機から声が聴こえ、俺は「神のご加護を」と呟いた。
ルルがアメリアに腕を引かれ、クリードの横から無理矢理離される。アビゲイルが「あの子ったら!」と言っているような表情とジェスチャーでクリードのパートナーが一時休憩だと示していた。上出来だ。一瞬俺を見たアビゲイルに褒美として微笑んでやり、大広間を出るアメリアとルルを静かに追った。
二人に追いついたのは客を入れないプライベートゾーンに近い場所だった。警備の人間に止められる前に声をかける。
「二人とも、大丈夫か」
「ドクター!」
足を止めたアメリアが振り返り、俺を見てほっとしたように息を吐いた。同じように振り返ったルルを見て俺は笑いそうに──可愛くて仕方なかったから──なる。追って来た俺を見てもう泣きたくて仕方ない、でもアメリアの手前我慢をしている、そんな顔だ。
「ルルが疲れてるから部屋で休ませてあげるようにって、ねえさんが」
「分かってる。私が勧めたからね」
「そうなの?」
「人が多いし、彼女が疲れるのも無理はないよ。少し心理的な診療をしよう。心配ならアメリアも一緒にいてくれて構わないしね」
「ルル、どうする、診てもらう?」
ルルは咄嗟に答えられず、俺とアメリアを交互に見ながら狼狽えていた。可愛い。俺はやはり笑いを堪えながら言った。
「アメリア、心配なら少尉を呼んで来て、一緒に立ち合ってくれないか。それなら彼女も安心できる」
「そうする。どこに行けばいい?」
「彼女の部屋に」
「分かった、待ってて!」
役目を言い渡されて張り切ったアメリアは、可愛らしいドレスの裾を翻してグラディスを探しに行った。俺はもう隠す必要もない無線の発信機のスイッチを無造作に入れる。
「小鳥がプラスワンを呼びに行く。当分ついばまれてろ」
すぐに「盛りやがって」と小声で返って来た。これでアメリアはルルの部屋に来ない。グラディスが何とかしてくれるはずだ。
それから俺はルルを──BJを見た。メイクで全身の傷を隠し、デコルテの露出が多いドレスを纏う女は俺の知らない人間に見える。だが確かに美しく、もしもクロオ・ハザマが不発弾の悪夢に見舞われなければ、きっとこんなにも美しい女になっていたのだろうと知らしめるものだった。
「少し休もう」
俺は日本語で言った。
「出て行くのはその後でも間に合うよ」
BJは唇を噛んで頷いた。何度も頷いた。可愛くて仕方なかった。
部屋に入るなり、BJは俺の袖を引いた。それが合図だった。二人のメイドの視線など何も考えず、俺はBJを抱き竦めていた。メイドたちが静かに、だが急いでドアを閉めたことには驚いたが、そんなことはどうでも良かった。抱き竦めたBJの唇を塞ぎ、深いキスをして、愛してるよ、会いたかった、と囁く方がよほど重要だった。
「わたしも」
わたしも、わたしも。BJは泣き声で、それだけを何度も繰り返した。他に言葉が出ないかのように、ただただ、わたしも、と言うばかりだ。それが愛しくて俺はまた深いキスをする。
二人のメイドが流れるように動き、寝室へのドアを開けた。目の端で見えた俺は流石にそれはと思ったが、彼女たちは練習したかのように見事に宣言した。
「メイク直しはお任せ下さい」
「紳士服のアイロンは5分で終えてみせます」
「ルル様のドレスを破らないようにご注意下さい」
そして二人は声を揃えた。
「クリード様以外は誰もお通ししません」
仕える主への忠誠を見せつけつつ、だが行動を制限しないメイドたちは、俺たちを押し込むように寝室に誘導し、そして静かにドアを閉めた。
見事なまでの流れにやや茫然としかけた俺を許さないかのように、BJが首に腕を回し、飛び付くように、噛み付くようにキスをして来た。こんな時に、こんな場所で。そう言って止められる俺などどこにもいなかった。
キスに応えながら抱き上げてベッドに降ろし、タキシードの上着を脱ぎ捨てて放り投げ、首を絞めつけていたボウタイを毟り取った。それだけでBJが泣き出した。どうした、と我ながら慌てて問う。しゃくりあげながら答えられた。
「離れないで、お願い。──離れないでよ」
こっちは最低限のことをしているだけなのに勝手な女だ。だが俺はとにかく胸が締め付けられて、そして愛しさが溢れそうになる。
「ごめん、離れないよ」
誰かが聞けば──そうだ、無線がオンになったままだ──笑われてもおかしくないほどに焦った声で応え、辛うじて襟元の無線を切ってから抱き締めた。
ドレスを破らないようにと言ったメイドの言葉を思い出し、焦る手をどうにか宥めながら脱がせようと、焦っているくせに馬鹿みたいに丁寧になる。苛立ったのか、馬鹿、とBJが言って自分で脱ぎ始めた。初めて抱いた日を思い出した。陸軍病院で二人がふたりになった時も、結局BJは自分で脱いでしまったのだ。その時も俺を馬鹿と罵った。何も変わっていない。俺たちは何も変わっていなかった。
愛してる。会いたかった。待たせてごめん。何度も俺は言った。寂しかった。連れて帰って。愛してる。何度もBJは言った。
触れ合った肌は溶けそうに熱い。やがて溶ける。どこまでが俺でどこまでが俺の女の肌なのか分からなくなる。あの時もそうだった。こんな思いを味わいながらまた抱き合う日が来るなんて、想像もしていなかった。
「キリコ」
BJの唇から零れるだけで、それが俺の名前と言うだけで、信じられないほどの幸福感に支配される。
「キリコ、──呼んで。わたしのこと、わたしの名前、呼んで」
深く繋がりながらBJがねだる。泣きながらねだる。ああ、そうだ、記憶を失ってからきっと誰も呼んでやっていないのだ。俺は耳元に唇を寄せ、自分の中にある愛を全て込めて呼んだ。
「クロオ」
その瞬間、BJは今までにないほど激しく泣き出した。慰めることもできず、俺はただかたく抱き締めた。BJがかたく抱き締め返して来た。快感も快楽も忘れるほどに抱き締め合って、肌が、存在が溶け合う熱に溺れた。
「このまま帰ろうか」
俺が言うと、腕の中のBJは少し笑った。
「できないわ。今日が終わるまではここにいるって約束だから」
「不義理をしたのに随分義理堅いな」
自分に愛を囁き続けた男のバースデーパーティで、迎えに来た男と寝る。不義理どころの話ではないのかもしれない。BJは息を吐き、そうね、と言った。俺はBJを抱き締め直し、構わないさ、と言った。
「あなた、最後までいてくれる?」
「当たり前だ。どんな時間になってもおまえと帰る。ユリもお嬢ちゃんも待ってる」
「ユリ──お嬢ちゃん」
覚えていない、それでも存在を忘れ切れなかった苛立ちなのか、BJは少し不安そうに言った。
「覚えていないの。大事な人たちなのは分かるんだけど」
「知ってるよ。気にしなくていい」
「思い出せなかったらどうしよう」
「そうだな」
BJにキスをして、俺は用意してあった答えを言った。この不安は必ず口にするはずだと知っていた。
「もう一度知り合えるチャンスだ」
「──先に考えておいたでしょう、その答え」
「まさか」
二人で笑いながらまたキスをする。笑えるのならいい。もし思い出せなくても、あの二人ならまたBJと愛し合うことができるはずだ。強要するつもりは微塵もないが、ユリとお嬢ちゃんが決してBJの手を離さないことを俺は知っていた。
床に放り投げた俺のドレスシャツから妙な音が聴こえた。トン、トン、と何かを叩くような音だ。モールス信号音だった。
BJが身を起こして訝しむ顔をしたが、俺は思い出して溜息をついた。流石に赤毛が怒るかもしれない。シャツを拾い上げて襟元を探り、音を発していた無線の発信スイッチをオンにした。モールス信号で『早く出ろ』と伝えられたからには仕方ない。
「──どうした、何かあったのか」
『何が離れないよ、だ。盛りやがって』
グラディスの声は小声だが、充分に苛立ちが伝わった。俺としてはギリギリで発信スイッチをオフにしたことを褒めて欲しい。
「おまえさんがアメリアを足止めしておいてくれたお陰で良い時間を過ごせたよ。ありがとう。アメリアはどうした」
『親戚と話してる。僕はレストルーム。──いつまでそこにいる? クリードの挨拶行列がもう終わる。そろそろアビゲイルがあなたと先生を探し始めるよ』
「もう行く。服に皺が寄ったから少し時間がかかる。何とかしておいてくれ」
『次からきちんと畳んでからやることをお勧めするね。15分だ。それ以上は知らない』
「よろしく」
無線をオフにし、BJを抱き寄せる。
「俺はあと15分で戻る。急いで服にアイロンをかけてもらわないと」
「行かなきゃいけないのは分かってるけど」
「けど」
「……嫌だわ」
「俺もだよ。じゃあこのまま帰る?」
「……できない」
「知ってる。──あと二時間もすれば終わるよ。それまで我慢しよう。俺も寂しい」
「あなたも? 寂しいの? あなたが?」
「もちろん。どれだけ寂しかったと思ってる?」
BJは答えなかったが、満足気に笑って俺にキスをし、ベッドサイドのハンドベルを鳴らしてメイドを呼んだ。二人はベッドの上の裸の俺たちを見て眉ひとつ動かさなかったが、俺とBJの服を持って寝室を出る時、小さく「ロックだわ」と声を揃えて呟いていた。意味が分からない。
心得たメイドたちがまずは服の状態を直してくれる時間を待っていると、BJがふと思い出した顔で言った。
「終わったら、少しアビゲイルと話すことがあるの。正確には彼女がわたしについて教えてくれるんですって」
「大抵は俺も知ってることだと思うが、まあ、挨拶も兼ねて聞いてやれ」
「あなた、どうするの」
「何が?」
「アビゲイルとのこと。言っておくけどわたし、他の女と二股をかけられるなんてお断りよ」
強気なことを言いながら拗ね切った顔をするものだから、俺はつい笑ってしまった。笑われて不愉快だったのか、何よ、と俺を叩いて来る。
「彼女とは二度と会わない。誠実に話をするよ」
前半は真実で、後半は嘘だ。俺はそこまで出来た人間じゃない。だがそれでBJが明らかに安心した顔をしたので、これはついても良い嘘だったと自分を評価した。
タキシードのアイロンが終わり、手早く着替える。まだ服を着ていないBJがベッドの中から俺の袖を引いて別れを嫌がった。そんなに嫌ならもう一緒に帰ろう、と言ったら、それはできないんだから、と困ったように眉をひそめて泣きそうになったので、俺はやや慌てて機嫌を取らなくてはいけなかった。
「あと二時間。それで全部終わりだ。一緒に帰れる」
「置いて行かないでね」
「行くはずないよ」
「キスしてから行って」
記憶障害を起こす前のBJもベッドの中では素直になったものだが、今はそれ以上に素直だ。素直と言うよりは要望を口にすることを躊躇わない。これはこれでクロオの本質の一面なのだろう。いつもこうならいいんだがと思った反面、こうじゃなくても可愛いからいいんだ、と思ったのも確かだった。
丁寧にキスをして、縋りたがるBJに何度も必ず一緒に帰るからと言い含めて何とか寝室を出る。俺の後ろ髪なんて切ってしまいたかった。
待っていたメイド二人がすっとハンカチを差し出す。何かと思う前に声を揃えて告げられた。
「お口にルル様の口紅が」
それはどうも、と俺は何とも決まり悪く返事をし、彼女たちの好意を有り難く受け入れたのだった。
二人のメイドの視線を気にする必要ももうない。後でクリードに報告されても構わなかった。コーヒーテーブルの前にしゃがみ込んでも二人は何も言わなかった。そこにあった盗聴器を回収し、胸の浅いポケットに入れる。シルエットが乱れたが、廊下にあった花瓶の花を挿せば誤魔化せるだろう。
部屋を出る直前、入った時には気付かなかったものをドアの真横に見付ける。
「──これは?」
メイド二人に問うと、今度は一人が答えた。
「ルル様がこのお屋敷にいらした時お召しになられていたお洋服と、お持ちになられていた鞄です。先ほど、わたくしがクリード様のお部屋から勝手ながら持って参りました」
「失礼」
BJ自身が見れば怒ったかもしれないが、俺は鞄を開けた。あの医療鞄だ。中身は俺の知る限りの内容と変わっていない。それからBJのトレードマークとも言えるコート。医療器具の数々は健在だった。そして紅いリボンタイ。それを見た瞬間、なぜか俺はやっと心の底から安堵していた。
「クリードが隠していた?」
「クリード様がお持ちになられていたことは確かでございます」
「なるほど。──きみの判断でこの部屋に持って来た?」
「さようでございます」
「どうして?」
クリードの家に使えるメイドが個人の判断で行うべきことではないはずだ。彼女は相棒と顔を見合わせて、それから言った。
「このお洋服が一番、あの方にお似合いですから」
「──彼女の世話をありがとう。もう少しよろしく」
二人が同時に俺に礼をする。俺は大広間へ急ぎ足で戻った。BJもそのうちまた現れるだろう。あと二時間? ──いいや、その前に何としても出て行かなければ。