色んな人が歌ってきたように 10

 綺麗な女だ、と思った。誰か分からないと言うほど愚かでもなかった自分に安堵した。だが、分からなくても誰も俺を責めないだろう。小児科部長や主治医よりも俺に何くれとなく話しかけるアビゲイルに適当に返事をしながら通された応接室にいたBJは、とにかく別人のように綺麗で、小児科部長と主治医までも目を奪われていたようだ。赤毛は──反応なし。よろしい。大変よろしい。
「こんにちは、レディ」
「……こんにちは」
 挨拶をすると短く、小さく返って来た。すぐに目を逸らされる。
 華やかで美しいとしか言えないアビゲイルの影に隠れるようにしながらも、BJの女としての存在感はひどく目立った。アビゲイルは俺に夢中でそんなことに気付かないだろうが、ともすれば女の嫉妬心をかきたてる美しさだと思う。俺の欲目と言わば言え。
 だがそれだけだ。美しいし、綺麗だし、最高の女に見える。それでも俺は今のBJ──ルルを可愛いとは思わなかったし、キスをしたいとも、抱きたいとも思わなかった。
 先週と同じようにルルと薬についての話をする。この時だけは俺が見慣れた天才医師、BJの顔になっていた。
 エミリーの投薬について特に問題は見受けられない。血液検査をする必要はあるが、異常値を予測できる懸念事項は何もなかった。今後の投薬計画書を見せると──目的はどうあれ医療行為だ、真面目に作った──ルルは黙ってそれに目を落とし、時間をかけて真剣に読む。隣のアビゲイルはそれを気にしながらも俺に視線を寄越し、俺は他の連中に気付かれない程度に微笑んでやったりと小細工に勤しんだ。
 クリードはずっとルルの様子を気にしている。素晴らしいナイトだ。惚れているのは間違いないと断じて良さそうだった。
 家の外では既に、オールドマネーの男が傷だらけの日本人女性に入れ込んでいるという噂が広がり切っている。この様子なら誰が見たって信じるだろう。
「分かりました。わたしはこれでいいと思う」
「ではそのように。今後は私ではなく薬剤師が対応することになります」
「でも、ドクター・キリー」
 アビゲイルが口を出した。きっとこう言うだろう。何かあればお電話差し上げてよろしいかしら。
「何かあればお電話差し上げてよろしいかしら。わたしたち、どうしても不安で」
 予想通りだ。俺は自分への称賛として微笑んだ。アビゲイルが勘違いしようが知ったことではなかった。口元を綻ばせてはにかんだアビゲイルの様子で、勘違いされたことが分かった。
「構いませんよ。主治医の先生でもいいですし、私でも」
 主治医は既にアビゲイルの目的に気付いているのか、やや苦笑して「いつでもどうぞ」と頷いた。そう言えばアビゲイルには俺のアパートメントの電話番号を教えていない。今のところは教えるつもりがなかったが、この流れだとそうもいかないようだ。訊かれた時に答えればいいだろう。
「アメリア、ここは駄目だ。戻っていなさい」
 小さな子供に言い付けるような口調でクリードが不意に言った。ドアの方に目をやれば、僅かに開けた隙間からアメリアが覗いていた。ここは俺の後ろに立っている赤毛の出番だ。放っておいた。見る間にアメリアの顔が赤くなったから、片目でも瞑ってやったんだろう。意外なことにルルが口を開いた。
「もう17歳よ。聞いたっていいわ、家族のことなんだから」
「──邪魔をするんじゃないぞ」
 ルルが言った途端、クリードは言を翻す。ルルはこの男に対してかなり影響力があるようだ。昏い感情が渦巻きそうになり、静かに心の奥底に封じた。
 アメリアは嬉しそうに応接室に入り込む。フォート・デトリック近くのダイナーで会った時よりも、いわゆる清楚な服装だった。赤毛の少尉への恋心は結構なものらしい。
 ルルの隣にくっつくように座り──なるほど、赤毛がよく見える位置だ──それから驚くことに、BJと顔を見合わせて少し笑い合っていた。可愛らしいと言えば可愛らしい光景だった。何だかんだでこの家で、ルルとしてならば上手くやっているのかもしれない。
「先生方、また長くお世話になるんですもの。お時間があればおもてなしさせて下さらないかしら」
 アビゲイルの熱心な勧めで、俺たちは広い中庭での軽食に招かれた。ルルのカウンセリングをどうするかアビゲイルに確認したかったが、個人的に話しかければクリードの不審を招く。しばらくは様子見だ。
「中庭ならSPはいらないんじゃない? うちは安全なんだし。彼にも、中で何か差し上げたら?」
 こちらはアメリアの熱心な勧めで、グラディスは中庭が見える部屋でやはり軽食を振る舞われることになった。案内するわと張り切ったアメリアに連れられて行くグラディスにちらりと目線をやると、一瞬だけ目が合い、自分の胸当たりを叩いてみせた。俺の胸ポケットに入っている小型無線のスイッチをオンにしておけと言うことだ。盗聴器ではなく無線と言うあたりでやや気が引き締まる。無線なら緊急時に交信が可能になる。──緊急の瞬間が来るかもしれない、と言うことだった。
 スイッチを入れ、小さな受信機をさり気なく耳に入れて髪で隠した。
 クリードとアビゲイルの社交術は流石のもので、階級と育ちを余すところなく見せつける。小児科部長や主治医との会話が弾み、俺も適当に受け答えをしておいた。末席のルルは特に話す様子を見せず、淡々と軽食を胃に収めている。食欲があるなら身体の心配をする必要がなさそうで、ここは俺を安堵させる材料になった。
 だが気付いたこともあった。ルルは俺を決して見ない。一度として俺に視線を向けなかった。特段寂しいとは思わなかったし、不思議でもなかった。アビゲイルが俺に好意を持っていることを聞いたか、見抜いているかのどちらかなんだろう。いくらこの家で上手くやっている様子とはいえ、家の実権を握る女の想い人に必要以上の接触をしないと決めているだけだ。こういう部分は変わっていない、と思った。
 クリードの世間話の合間を縫うように不意に受信機が反応した。アメリアと話しているグラディスが発信スイッチを押したのだ。
『え、ごめん、もう一回──来週? 来週の金曜日かな?』
『そう、来週の金曜日よ。あなたも来られない?』
『お兄さんのバースデーパーティに? 僕が?』
 俺は他人に気取られないよう、そして話しかけられないよう、少し軽食に集中する振りをする。
『パーティだからパートナーが必要なの。学校の誰かに頼むのも嫌だし、だからってねえさんが選んだ人も嫌なのよ』
『魅力的なお誘いだけど、仕事が入るかもしれないな』
『フォート・デトリックの警備? 夜もやってるの?』
 そりゃあそうだ、と言ってやりたくなった。あそこは24時間警備が必要な兵器研究所なのだから。グラディスがどう出るかと思っていたら、あっさり突破口を開いた。
『24時間の交代制なんだ。ドクター・キリーが出掛ける時だけ、僕はSPの仕事を優先させることになってるけどね』
『じゃあ、ドクターがにいさんのパーティに招待されるとしたら? 家の中なら安全だもの、あなたも手が空くでしょ?』
 そんな適当なSPがいるものか。今こうやって距離を取っているのも不自然だと思われる可能性があると言うのに。ついでに言うと俺はクリードのバースデーパーティへの出席なんぞ御免被る。
『どうだろう。僕が離れてもいいように、もう一人SPをつけられれば可能かもしれない』
 こいつは口先から産まれた。絶対にそうだ。そしてこの口先から飛び出した言葉は、おそらく俺たちにとって有益なものだ。
 もう一人のデルタ隊員、あるいは関係者を堂々とこの家に入れられることになる。
『じゃあ決まりね! ねえさんに言ってみる!』
 気に入らないどころでは済まない男のバースデーを表面だけでも祝ってやる必要性が決定し、溜息を押し殺すのにひと苦労だった。
 それから、間久部からの情報を思い出す。既にグラディスを通して関連部署に上がっているはずだが、部署がどんな動きをしているかは俺の知るところではなかった。──『近いうち、あの家が襲撃される』。素人の俺でも想像がつく話だ。
 クリードのバースデーパーティの日、間久部の情報が現実となる可能性が高い。
『ねえさんはにいさんのパートナーの予定だったけど、たぶん変わるわ』
『ふうん? 誰?』
 待て。ちょっと待て。
『ドクター・キリーよ』
 勘弁してくれ。いいや、勘弁して下さい。
『自分では隠してるつもりみたいだけど、今日のためにすっごい力入れて準備しちゃってさ。今の食事だって最初は先生方は何がお好きなのかしら、って言ってたくせに、最後はもうドクター・キリーの名前ばっかり言ってたもん』
『ってことは』
『決まりでしょ。もう頼んであるか、帰り際に頼むんじゃない? ドクターだってうちと縁ができるなら来てくれるでしょ。大抵のことなら思いのままになるんだもん』
『ドクターに出世欲があるとは思えないけど、まあ、女性に恥をかかせないために来てくれるかもしれないね』
 俺はこいつが嫌いだ。しみじみ思った。妙に俺を分かった口を利く。そうだな、相手がBJを隠した家の女じゃなければ、恥をかかせないように協力してやったかもしれない。
『でも、それだとお兄さんのパートナーはどうするの。主役が一人なんて有り得ないよ』
『にいさんのパートナーは──まあ、ルルかなあ』
 手に持ったティーカップを握り潰さなかっただけでも俺は世界中に称賛されるべきだ。この話の流れならそうなることは当然と言えば当然かもしれないが、かと言ってクリードほどの地位がある人間なら、何も記憶障害を起こしている日本人女性ではなくてもいくらでも都合がつけられるだろうに。──いや、言うだけ無駄だ。クリードは喜ぶだろう。アビゲイルは自分が良いことをしたと思い込めるだろう。
『メイクするだけであんなに変わるなんてね。見たでしょ? 前から美形なのは知ってたけどさ、傷を隠したらまるでアジア系の女優みたいだったなんて』
『きみは前から知ってたの?』
『まあね、猿にしちゃ──ごめん』
『いいよ。ごめんって言えるなんて素敵なことだ。ちょっとずつ直せればいいんじゃない?』
『そうする。──綺麗な顔してるって思ってたの。あの睫毛なんて羨ましいくらいよ、マスカラいらずじゃない?』
『きみも充分可愛いと思うけど』
『──そういう話じゃないから!』
 真っ赤になるアメリアが目に見えるようだ。
 不意に視線を感じる。ティーカップを置き、視線の主を見た。見た瞬間に視線を外された。俺はもう一度ティーカップを手に取り、カップの縁に口元に隠しながら、彼女だけに見えるように唇の端を笑いの形に持ち上げた。
 また俺を盗み見ようとしていたルルと視線が合い、すぐに逸らされたが、唇を軽く噛んだ瞬間を見逃さなかった。その仕草は照れたり意地を張ったりする時、BJがする癖と同じだった。
「──具合でも?」
 ルルに医者としての声をかける。具合が悪いなどと思ってもいないが、俺がルルに声をかけて兄姉に怪しまれない言葉と言えばこの程度だ。ルルははっとして顔を上げ、「別に」と言った。
「そう見えたら失礼したわ」
「先日も具合を悪くされていたようだから、気になって」
 俺を見て赤くなった、耐え切れなくて顔を伏せた。ただそれだけだ。思い出したのか、ルルはまた唇を噛んだ。
「今日は元気よ。気にしないで」
「If you say so」
「──エミリーの様子を見てくるわ。失礼」
 我ながら厭らしい手だと言う自覚はあるが、ルルをこの席から離すことに成功した。何のことはない、アビゲイルにさっさと俺を誘わせたかったのだ。いくら記憶がないとはいえ、恋人の目の前で他の女からの誘いを承諾する姿を見せたくない。
「ルル、大丈夫かしら」
「本人が言うなら大丈夫でしょう。余計な真似をしました」
「余計だなんて──」
「私も失礼。すぐ戻ります」
 クリードが席を立った。いけすかない。どうせルルの様子を見に行くんだろう。だが俺がこの席を今離れるのは不自然だ。
 それからしばらくアビゲイルを中心に雑談が進む。俺への感情には圧倒されるばかりで、小児科部長と主治医は苦笑を通り越してにやにやする始末だった。さっさとこの件を終わらせてこの家と縁を切りたいと俺が考えてるなんて、思ってもいないんだろう。確かにオールドマネーの後ろ盾は表社会の人間にとっては魅力的なのだから。
「そう言えば皆さん、突然で申し訳ないのだけれど、来週の金曜日の夜のご予定はいかがかしら。クリードのバースデーパーティがあるの」
 やっと言ったか。俺だけを呼んでは世間体が悪いのだろう、同時に声をかけられた小児科部長と主治医が断るはずもなく、無論俺もお声がけを頂戴した。
「それでわたし、恥ずかしいんだけど、この歳になってもパートナーがいないの。よろしかったらドクター・キリーにお願いしたいんです。いかがかしら?」
 にやつきを堪えるためにティーカップを口に運ぶ小児科部長と主治医をぶん殴ってやりたいと思ったのは確かだが、俺は努めて笑顔を作った。
「あなたを奪いたがる男性が出れば考え直すことになりそうですが、喜んで」
 アビゲイルは満足げに微笑み、小児科部長と主治医は同時に紅茶を飲み干していた。


 小児科部長と主治医はそのまま帰った。俺はもうしばらくこの家にいることになる。アビゲイルは何やかやと理由をつけていたが、俺一人がここに残る事情を勘繰った二人は、今頃送りの車の中で下世話な話をしているだろう。
 アメリアから解放された──ずっと無線で聴いていた俺からすれば情報を搾り取ったようにしか思えなかった──グラディスは、また涼しい顔でSPの振りをし、俺の傍に立つ。
 やっと二人切りになれそうだと言わんばかりの態度のアビゲイルに少々ならず食傷を感じ、俺は流石に口にすることにした。
「彼女──ホームドクターの、失礼、お名前を失念したのですが」
 アビゲイルの女心を微塵も刺激したくない。敢えて名前すら忘れた振りをした。
「ルルかしら?」
「そう、彼女。ルルでしたね。カウンセリングが必要なら少しお話をしたいのですが。もちろん、あなたの御都合を優先で」
 その時のアビゲイルの表情は俺の語彙では表現しにくい。だが過去の様々な経験から、アビゲイルはアビゲイルで不自由な人生なのだということが分かった。患者よりも自分のことを優先すると、惚れた男から言われた時の悦び。それを顔に出す──それ以前にその悦びを認めることすら自己嫌悪を呼び起こすであろう、善なる人間でいるための努力。
 お気の毒様。俺はそうとしか思えなかった。違う形で会えばもう少し優しい感情を抱いてやれたかもしれない。だが今はどうあっても、そんな甘いことを考えてやれるはずもなかった。
 俺の女を隠した家の人間に、気を砕いてやる必要なぞどこにもないのだ。
 エミリーの様子を見ていた、あるいはクリードと何かしら話をしていたかもしれないルルがアビゲイルに連れられて、俺が待つ応接室に現れる。クリードも当然のように一緒だった。
「カウンセリングなんて聞いてないわ。クリードとアビゲイルが言うから来たけど、そんなの必要ない」
 開口一番、ルルはそう言った。不機嫌そうで、その表情はBJと同じものだった。自分の意思を無視した決定に納得していないのだ。ああ、可愛いな、と俺は思う。
「あなたがお嫌なら強制しません。強制できるものでもありませんからね。私にできることはあなたのお手伝いだけです。今よりも少し、自分と向き合いたいと思ったらいつでも連絡を」
「──男の人が怖いんじゃないのよ、きっと」
「そう思うんですね?」
「そうね、そう思う」
 それきりルルは黙る。アビゲイルがルルの肩を抱き、勇気を出してみましょう、と言った。カウンセリング的にはあまり良い声がけではないが、放っておいた。俺はルルをまともにカウンセリングする気などなかったからだ。
「ドクター・キリー、失礼だが」
 ルルが座るソファの真後ろに立ったクリードが口を開いた。
「自信がないのなら、やめて欲しい。あなたが精神科に通じているという話は聞いたことがない」
「精神科の領域ではありませんからね」
 演技も誤魔化しも抜きで、俺はつい本気で言った。今の時代、心の傷をまだ精神科の領域だと考えてしまう人間が多い。クリードの勘違いも仕方ない。とはいえ、俺の中の医者としての感情がクリードに反論した。
 立場上だろうか、反論されることに慣れていないと言った不快げな顔でクリードが俺を見据える。睨まれたと言ってもいい。
「心療内科の領域になります。近年、少しずつ重要視されるようになっている分野です。これからは更に注目されるでしょう。私は精神科より、心療内科の臨床について詳しいと言う確信があります」
「専門は薬学ですよね?」
 いいや、神聖なる安楽死さ。無論、クリードにそんなことを言ってやる必要はない。同時にクリードを観察した。こいつは既に俺のことを調べている。グラディスがフォート・デトリックをはじめ、公的に閲覧が可能な部分の俺の情報を全て書き換えていたことは先見の明だと言えるだろう。
「よくご存知ですね」
「姉から今日の話を聞いて、失礼ながら調べました。ドクター・キリー、マサチューセッツ州の聖ポール高校を卒業、カナダのブリティッシュコロンビア大学を経て、ワシントンのメディカル・スクールを修了──国家試験合格後はベトナムへ従軍し、名誉戦傷章を受けている。復員後はフォート・デトリックでウィルス兵器に対抗する広範囲ワクチンの研究を続けているとか。素晴らしい経歴だ。間違いありませんね?」
 立派過ぎて詐称することが恥ずかしくなるほどの経歴だった。ドクター・キリーはそういう人物になっているのか。背後に立つ赤毛を褒めてやりたかった。
 医学生としてのスタートをカナダにした時点でその後の詳細を追いにくくしている。国や州を跨ぐと様々な書類のやり取りが必要になる上、時間が経てば紛失の可能性がないとも言えない。つまりこの情報が真実か否か、短時間で確かめるには材料が少なすぎるのだ。時間をかければ断定も可能だろうが、今の状態では無理としか言えなかった。
 そして思った。これを全部覚え、そらんじたクリードも大したものだ。ドクター・キリー──俺への警戒心がよく分かる。もっとも、この程度の警戒心がなければオールドマネーの当主など務まらないだろう。
「あなたが精神科に明るいと信じられる材料が何もない」
「心療内科ですよ。そこはどうぞお間違えなく。診療方法も治療内容も異なるものなのですから」
「ではその心療内科だ。カウンセリング? ルルが男性を怖がる理由がそれで明らかになるのか? 明らかになったからって治るのか?」
「それはまた違う考え方になりますね。男性恐怖症が治療するべき症状であるのか否か、それ以前に彼女が本当に男性恐怖症であるのかを見極めることが大前提です」
 どこまで理解されるか分からないし、知ったことじゃない。俺はクリードの知識を増やしてやる義務なぞない。だが目的がある。ルルと話をする状況を作る必要がある。
「心療内科がカウンセリングを必須とするわけではない。それ以前の状態で、適した投薬で症状が改善する場合もあります。ただ、彼女の場合は──お聞きする限り、カウンセリングが必要だと考えられます」
「自信がない医者の詭弁にしか聞こえない。姉があなたを推薦するからお話を聞こうと思いましたが、しかし、信用に値するとは思えない」
「クリード、違うわ。彼は信用に値する医者よ!」
 ルルが言った。悲鳴のような声だった。
 次の瞬間、俺だけではなく、アビゲイルも唖然とするしかなかった。
「きみに何が分かる!」
 クリードが怒鳴ったのだ。
 背後にいたグラディスが咳払いをし、笑いを堪えたことを俺に教えた。こいつにとっては面白い出来事だったらしい。
 だが怒鳴られたルルがびくりと身体を震わせたことがすべての事実で、そして俺はクリードに殴りかからなかった自分を褒めた。
 身体を震わせたルルが明らかに自分を守るため、腕を顔の前に挙げたのだから、そう思ったって当然だろう。
「──レディ、こちらへ。大丈夫、ここから一度出ましょう。大丈夫です。怖いことは何もありません」
 自分の無意識の行動に驚いたのだろう。ルルは茫然としながら、それでも震えていた。平気、と言いながら、その声が震えている。
「ルル、すまない、今のは──」
「失礼、あなたはまた後程。少尉、きみはそこで待っていてくれ」
 ルルに言い訳をしようとした──本当に怒鳴るつもりなどなかったのだろう、俺への不信感が抑えられなかったがゆえの、そして惚れた女が絡んだゆえの激情からだ──クリードを医者として本気で制し、俺はルルに「バルコニーへ出ましょう」と声をかけた。クリードは絶望の顔をしてから、それでも俺を憎悪の目で睨み付ける。善なる人間の剥き出しの憎悪、何て心地良い。
「アビゲイル、弟さんにお茶を差し上げて下さい」
「ええ、──ええ、分かったわ」
「レディ、ここは空気が悪い。少し外で深呼吸をなさるとよろしいでしょう」
 まだ震えながら浅い呼吸になり始めたルルに辛抱強く何度も、しかし静かに声をかけ、何とかバルコニーに出すことに成功した。
「大丈夫ですよ。彼が落ち着いたら改めて話をしてみるのも良いでしょう」
 バルコニーのテーブルに着き、俺は患者を慰める医者の顔で話をする。ルルは何度も頷き、何とか落ち着こうと努力していた。BJもパニックになった後、こんな姿を見せる。だからこのルルもひどく可愛らしいと思えた。
「彼の名誉のために言っておかなくちゃいけない」
「ええ」
「彼に酷い目に遭わされたことは一度もないの。本当よ。嘘じゃない」
「それは良かった」
 今怒鳴られたことは充分暴力に値する。俺はクリードを暴力的ではないと言い切るつもりには到底なれなかった。
 だが、今のルルの言い分に関してだけは心底良かったと思った。先日の件は事故でしかないと、クリードに悪意があろうはずもなかったと、俺もよく分かっていた。ただ、怖がらせたと言う事実だけは忘れないし、許すことができない。今の件も含めてだ。
 人間、確かに感情を抑えきれないことがある。俺もBJに声を荒げたことがないとは言えない。だが明らかに男性への潜在的恐怖を抱えている問題を話し合おうと言う席で、当の本人を怒鳴り付けるなど論外を遥かに超える罪だった。
「では、他の原因があるのかもしれませんね」
「覚えていないの。誰かに酷いことをされたのかもしれない。でも分からないの」
 ルルの声は泣いていた。泣くまいと必死で堪えながら、失敗して目尻から涙を流し、しゃくりあげている。
 泣く女を抱き締めてやれない今、俺は世界で最も存在価値がない。いいや、抱き締めても良かった。このままこんな家からこいつを掻っ攫って、逃げ切ることができるのなら、俺は間違いなくそうしていた。だが今はそれができない。
 BJが外国人でデルタフォースが救出できない状況だから? オールドマネーが相手だから? そうだ、それがどうしたと言えるほど、俺は世間を知らないわけでも、家族を愛していないわけでもなかった。
 大統領も既に知っているこの件で、大統領の対立派閥の家の顔に泥を塗るような真似をすればどうなるか。大統領は政治的な不利益を受ける可能性がある。それは図らずも、大統領に恩恵を受けるBJにも不利益が及びかねない。
 そして既に大統領からの指示を受けて動いているFBI、CIA、デルタフォースの面子はどうなるのか。彼らのプライドを踏み躙った後、俺の家族たちはどうなるのか?
 直接的な攻撃は何もされないだろう。だがじわじわと、まともな社会では生きて行けないよう、未来を狭められて行く。手に取るように分かった。軍医の頃からそんな人間を何人も見て来た。
 それがどうした。俺は俺の女さえいればいい──そう言い切れる人間でありたかった。妹の未来など、恋人の娘の未来などどうでもいいと、なぜ俺はそう言えない人間にしかなれなかったのか。
「わたし、何も分からないの。記憶がないのよ」
「アビゲイルに聞きました」
「そうなの?」
「ええ。──だからと言って、あなたが何かを怖がることを、このままにしておいて良いとは思えません。少なくとも私はそう思いますよ」
「でも死ぬわけじゃないから」
「死ぬわけじゃない、だから?」
「死ぬわけじゃないんだから、あなたに──アビゲイルたちに迷惑をかけたくない。記憶をなくす前だって、こんなに酷い傷があったって生きてたんだもの」
「なるほどね」
 迷惑をかけたくない? 何を言っている。おまえは何を勘違いしている? ここで親切にされ過ぎて、何かを勘違いしているんじゃないか?
 おまえはこの家の人間に車で轢かれ、病院へ連れて行ってもらえなかったどころか、エミリーを理由に監禁されているだけだとなぜ気付けない? おまえのことだ、記憶を失ってもエミリーのことが気にかかるだろう。見捨てて行けないと思うんだろう。失った記憶の奥底で、一度診た患者を手放すことなどできないと思っているんだろう。確かにそれは間違いじゃない。
 だがおまえは根本的なことから目を逸らしている。
 どんなに親切だろうと、善なる人間の顔を見せようとも──クリードもアビゲイルも、この家の人間は、自分たちの都合でおまえの人生を踏み躙ろうとしている人間だってことを。
「私は、あなたが既に生きる力を取り戻していると思いますよ。記憶がなくてもね」
 本音を言った。大丈夫だ。どんなことになっても。
 俺の言葉でおまえが取り乱そうと、哀しい思いをしようと、俺が全て引き受けてやる。
 だから戻っておいで。
 おまえは俺の女なんだよ。
「メイクをするだけで──そうですね、気になる傷を隠すだけで、明るく笑えるようになる女性はいくらでもいる。それこそ心療内科の分野かもしれません。あなたも今日、以前よりも明るく笑っていた。それはよろしい傾向ですし、あなたが望むなら今後も続けてみれば良いかもしれない」
 そして付け加える。本来の心療内科の治療であれば決して言わないことを。
 俺が得意とする毒を塗り込むように、言った。
「記憶をなくす前のあなたが、それを善しとするとは思えませんがね」
 毒が効いた。まだ涙が止まらないまま、ルルが俺を見た。涙のせいではなく、瞳が揺れている。既に理性を取り戻した瞳だ。この女は脆く、だがとても強い。ルルであろうが、BJであろうが──根本はクロオ・ハザマだ。俺は心底そう思い、そしてまた、その存在を愛しいと思い知った。
「あなたは」
「はい」
「ドクター・キリー、よね」
「どう思います?」
 ルルは黙った。黙ったまま俺を見詰めてる。俺もルルを──俺の女であるはずの存在を見詰め返した。
 俺も、ルルも、何も言わないまま時間が過ぎる。背後の室内ではクリードとアビゲイルがこの上なく心配しながら待っていることだろう。クリードは俺がルルに何をするか、何を言うかと気が気ではないだろう。俺を今すぐ叩き出したいのかもしれない。それを阻止するためにグラディスを室内に残した。グラディスは二人を監視しながら、俺の無線機からの情報を全て頭に叩き込んでいるはずだ。
 ルルは何も言わなかった。じっと俺を見詰めるだけだ。少し笑いかけてやっただけで赤くなったあの女ではなかった。貪欲に、自分の何かを探す人間の目をしていた。
 だから俺は言えた。
 日本語で言った。
「会いに来たよ」
 その途端、ルルは──BJは両手で口を抑え、ふたつの大きな瞳から大粒の涙を溢れさせた。流れ続ける涙は嗚咽を堪える手の甲を伝い、記憶を失くす前の彼女なら決して袖を通さなかったであろう、女性らしいワンピースの襟を濡らして行く。 
 俺の背後で声が聞こえた。声と言うよりはちょっとした喧騒だった。クリードがバルコニーに出ようとし、グラディスが止めたのだ。お聞き下さい、と、あの赤毛の口から出たとは思えない、丁寧な言葉だった。
「いかなる場合、いかなる場所でも、彼の治療行為の妨害は許されません。合衆国の法律の下、フォート・デトリック、陸軍管轄施設に関する契約に明記されています。ご理解下さい」
 それらしい理由を言い聞かせる赤毛の声が背後に聞こえる。「ドクター・キリー」ではなく、「彼」と言った小賢しさが俺を助けた。後日ドクター・キリーの存在が問題になったとしても、これでは文句のつけようがない。ドクター・キリー? それは昔の名前だ。俺はキリコだ。
 クリードが必死で押し退けようとしているようだが、デルタフォースの隊長相手では無理な話だ。しかもフォート・デトリック、つまり国家機密に関わる施設の名を出されれば、いくらオールドマネーと言えど無理がしにくい。
「玲太が伝えてくれたの?」
 BJの唇から零れたのは日本語だった。俺は微笑み、やはり日本語で返した。そう言えばあの崖の上の家ではいつも日本語だ。そういう決まりだった。崖の上の家では日本語で、死神の家では米語で会話をする。いつの間にか決まっていた。二人がふたりになって、自然に決まった二人だけの決まりごと。それをなぜか今、思い出した。
「そうだよ」
「ドクター・キリコに会いに来てって、書いたのよ」
「うん。だから会いに来た。遅くなってごめんね」
「あなたはドクター・キリーじゃないの?」
「それも俺だけど、昔の名前だ。他の誰にも内緒だよ。おまえに会いたくて、ドクター・キリーって名乗ってたんだ」
「じゃあ、あなたはドクター・キリコなのね」
「そうだよ」
「嘘じゃないのね」
「嘘じゃないよ」
 BJの涙は止まらない。指で拭ってやりたかった。だが今はできなかった。グラディス──SPがクリードを止めてくれている以上、「ドクター・キリーは患者に指一本触れていない」という事実を貫く必要があった。後でクリードがどんな手を使うか分からない。不利になりかねない材料は全て排除するしかなかった。
「あなた、わたしの何なの?」
「何だと思う?」
「分かるようで、分からないの」
「それなら、思ったままで構わないよ」
「愛してるって思ってもいいの?」
「思っちゃいけない理由でもあるのか?」
 BJは少し黙った後、眉をひそめて笑って、「ないわ」と言った。俺は微笑んだ。
「あなたに妹はいる? 女優さんみたいに綺麗で、それから──きっととても強い、素敵な人よ」
「いるよ」
「じゃあ、アジア人の、小さな女の子を知ってる? とても可愛いの。あんなに可愛い子が他にいるわけないの。本当にとっても可愛いのよ。夢の中で、あなたと、あなたの妹と一緒にいたの」
 俺は何を言っていいか分からないほどに、胸の奥底にじわりと広がる熱を感じた。熱と言うより感動に近いのかもしれない。それが正しい言葉なのかも分からない。言葉が見つからないとはこのことだ。泣きながら話し続けるBJを促すため、黙って頷いた。BJはまた話した。
「スペインにいたの。ガリシアってところ」
「四人で行ったよ」
「フランスのアンティーヴにも」
「行ったよ」
「あなたとわたしと、あなたの妹と、あの子と?」
「そうだよ」
「あの子は誰なの? 大切な子よ。でも名前が分からないの。きっと、凄く、物凄く大切な子なのに」
 この家を出たら。俺は決めた。この家を出たら、あの子に電話をしよう。ワシントンへ来てくれないか。ちょっとだけ辛い気持ちになるかもしれないけど、でも、きみの力が必要なんだ。電話をしてそう言えば、きっとあの子は駆け付けてくれる。
 BJとあの子の間にある、二人の愛にだけは、俺は勝てないと知っている。
「可愛いことに異議はないね。おまえがこの世界に産みだした最高傑作で、おまえが誰よりも愛する家族だ」
「……わたしの娘、ってこと? わたしが産んだの?」
「血の繋がりはない。ただ、おまえがいなければあの子は現実的な意味での生を受けることはできなかった。おまえの娘だと言ってもいいし、おまえの最高のパートナーだと言ってもいい。──今は分からなくてもいい。いつか思い出せた時に必ず納得できる」
 BJは迷った顔を数秒見せた後、頷いた。それから指で涙を拭う。メイド二人に念入りに施されたはずのアイメイクが涙で崩れていたが、俺はそれが醜いとは思わなかった。
「俺がドクター・キリコだと、誰にも言わないでくれ」
「どうして?」
「きっと、もう会えなくなる」
 瞬間、BJはまた泣き出す。可愛くて愛おしくて、こんな存在がこの世にあるなんて、それなのに抱き締められないなんて、俺は信じることができなかった。抱き締めること、キスすることを阻む全てを憎んだ。ドクター・キリーの本当の名がドクター・キリコだとクリードが知れば、俺の素性など半日も経たずに調べ上げられるだろう。家に入り込もうとするドクター・キリーよりも余程単純な人生だ。そこで確実に分かる。ブラック・ジャックと俺が親密な関係にあるということが。
「嫌よ」
「そう」
「わたし、寂しいの」
 何を言えって? どんな顔をしろって? 俺には分からなかった。クリードたちに見えないと知っていたから、きっとそのまま、感情を顔に出せた。俺だって寂しいよ。そんな顔をしたんだろう。BJの瞳からまた涙が溢れ出したから、それで分かった。
「寂しくて、夢を見たくないの。あなたが夢に出て来るのが嫌になるの」
「どうして?」
「起きたらあなたがいないんだもの。だったら夢なんか見たくない。最初っから独りぼっちの方がまだましだわ」
 BJの指が動きかけ、そして止まった。ああ、この女は──俺は心底、この女に感服した。分かっているのだ。縋りたくても、今縋ってはいけないと。クリードやアビゲイルに、俺たちが既知だと教えてはいけないと。何も事情を知らない、思い出せないのに、直感して理性で分析し、理解している。何て女だ。何て──信じられないほど賢い、いい女なんだろう。
「一度だけ言うよ」
 きっと俺の望み通りの答えは得られない。分かっていても言った。俺が満足したい、ただそれだけのために訊いた。
「このまま、俺と帰ろう」
 BJはしばらく俺を見詰めた後、その大きなふたつの瞳から、よくも枯れないものだと思ってしまうほどに涙を流した。それが答えだった。俺は微笑むしかなかった。
 嬉しかったからだ。
 そしてBJは答えた。
「エミリーが歩けるようになるまでは、帰らない」
 ここにいるのは医者だった。俺に縋りたくて泣いていたはずの女が、一瞬で医者になった。泣きながらも、これだけは決して翻せないと、医者の顔で俺に告げたのだ。
 俺は頷いた。おまえのその答えが嬉しい。
 愛しているよ。愛している。
 その言葉を、今、この瞬間に口にできるおまえを、心から愛しているよ。
「クリードが怖い?」
「怖くないわ」
「愛されてるんだろう?」
「どうして知ってるの?」
「色々とね」
「あなたに誤解されたくない」
「大丈夫だよ。──泣かないで。誤解なんかしないし、クリードがおまえに酷いことをしていないなら、俺は迎えに来る日まで安心できる」
「キスもしてない。本当よ」
「そうか」
「信じて」
「信じるよ。大丈夫」
「でもあなたを夢で見なければ、クリードを愛していたかもしれない」
 このクソビッチ。俺は悪気なく、苦笑混じりに思う。これはBJを責めるべきことじゃない。こいつは無意識で駆け引きが上手い。今だって何の計算もなく、事実を口にしただけなのに、俺の心をいとも簡単にざわつかせた。その事実がどれほど俺の嫉妬心と焦燥感を掻きたてるかなんて想像もしていなかっただろうに。そして俺は──男は、またぞろこの女への執着を強くする結果になる。
「エミリーが歩けるようになったら、一緒に帰ろう。迎えに来るよ」
「それまで会えないの?」
 来週末のクリードのバースデーパーティできっと会える。俺は言わなかった。グラディスとアメリアの会話から考えると、ルルはまだバースデーパーティのことを知らされていない。今、俺から言うのは浅慮な行為になる。
「わたしも、一度だけ言うわ」
 俺は頷いた。BJは涙を流し続けながら俺を見上げて、言った。
「わたし、メイクを落としたら醜いわ」
「おまえがそう思うなら、おまえの中ではそうなんだろう」
「あなたはどう思うの?」
「おまえに傷があることは知ってるし、世間がおまえを醜いと思いたがることも知ってる」
 俺は違うよ。口にすることはない。必要がない。
 BJが泣いた。
 泣きながら、笑った。
「それでもあなた、わたしを愛しているのね」
 どうして。それしか、思えなかった。
 どうして──こんなにも。
「おまえの何もかもを、とっくの昔から」
 こんなにも愛おしい存在が、俺の人生にもたらされたのか。
「おまえだって知ってるだろう。──愛しているんだよ」
 何かに耐え兼ねたのか、それとも感極まったのか。こればかりは俺には分からなかったが、声を上げて泣き出したBJがひどく、恐ろしいほどに可愛くて、愛しくて、ああ、どうして今この瞬間、この女を抱き締めて、キスをしてはならないのかと、強く強く、何かを憎んだ。


 必ず迎えに来るよ、愛しているよと何度も言ってから、俺はBJを連れてバルコニーから室内へ戻った。
 クリードはすっかり意気消沈し、ソファに沈み込んでいた。これがアメリカの経済を支配するオールドマネーの一家の当主なのかと疑問を持ってもおかしくないほどに項垂れ、惨めにさえ見えた。だから俺は知る。
 この男は本当にBJを愛している。
 アビゲイルも気の毒なほど憔悴していた。こんな弟を初めて見たのだろう。もしかすると、女性に怒鳴った姿も初めて見たのかもしれない。縋るように俺を見て来る。俺は溜息を押し殺し、申し出るしかなかった。
「クリード卿、私とお話しなさるおつもりはありませんか」
 誰よりも先にBJが俺を見上げた。俺は目で「黙っていろ」とBJに告げる。彼女は何も反応せず、それでも不意に言った。
「落ち着いたけど、少し頭痛がするの。わたしはこれで失礼するわ。──ドクター・キリー、お世話になりました。もう大丈夫」
「何かあればいつでも連絡を」
「ありがとう。でもきっと、本当に大丈夫よ」
「──If you say so」
 あなたがそう言うなら。
 BJは俺を見てから少し笑い、右手を差し出した。
「あなた、その言い回しが似合うと思う。──素敵よ」
「お大事に。よくお休みなさい」
「ありがとう」
 自然に見える握手で、俺たちは再会してから初めて肌を触れ合わせた。少しでも長く、一秒でもいい、触れ続けていたかった。だがそれは許されないミスに繋がる。手を離す時、BJのてのひらを指先で撫でた。BJは顔色ひとつ変えず、俺に撫でられたてのひらを左手でなぞるように触れてから、それきり俺に視線を向けることもなく、応接室から出て行った。
 ほぼ同時にクリードが呻くように俺に言う。
「ドクター、あなたに話すことなんて何もない。帰ってくれ」
「心療内科を試してみるおつもりは?」
「意味がない」
「価値はあります」
「どんな?」
「あなたが怒鳴り付けてしまった彼女に、落ち着いて謝る気持ちになれるかもしれませんね」
 別にクリードなどどうでもいい。だが俺としては──グラディスと打ち合わせをしている暇もなかったが、おそらく同じことを考えているはずだ──こうなったらバースデーパーティにクリードのパートナーとしてBJが選ばれてくれた方がいい。パートナー同士は基本的に離れて行動することがない。デルタが突入してBJを救出する際、主役のクリードと一緒にいるのなら、場所の確認をしやすいと言うメリットがある。
 俺の心情としては複雑だが、ここでクリードとBJが断絶せず、ある程度友好な関係でいてくれた方が都合が良かった。
「謝っても意味がない。どうせ彼女は私を愛さない」
 意味がないと言いながら、クリードは話し始めた。俺はグラディスに目配せをする。グラディスはすぐに理解し、アビゲイルに何事かを囁いた。アビゲイルは俺とクリードを交互に見やり、それから不安そうな顔を隠そうともせず、静かに応接室から出て行った。グラディスもそのまま出て行き、扉を閉じて姿を消す。
 二人きりになった俺とクリードは向かい合って座ることもない。クリードは上座のソファに沈んで項垂れたまま、俺は壁に寄り掛かって、医師らしさを失わない程度にだらしなく立つ。
「彼女とは?」
「ルル。──いいや、ブラック・ジャックだ。あなたも医者なら知っているんじゃないか?」
 知るも知らないも、と言う気分だ。俺は断りもせずに煙草に火を点ける。釣られるようにクリードも同じことをした。
「会ったことはありませんがね。身体的特徴の噂を信じるとすれば、彼女がブラック・ジャックだと言われても納得できます。ここにいる理由は知りませんが」
「記憶がないんだ」
「記憶障害、ということ?」
「そういうことだ。彼女は言わなかったのか?」
「患者の話を他の誰かにするわけにはいきません」
 クリードは低く笑う。また嘲笑だった。何をあざ笑いたいのか分からないこともなかったが、辛うじて男としての尊厳を無視しないでおいてやった。いくら嫌いな男でも、自嘲する姿を笑ってやるほど俺は優しい人間じゃない。
「彼女がブラック・ジャックだと、自分で名乗ったわけではないようですね」
「もちろん。彼女がこの家に来てから調べさせた」
 俺に「この家に来た理由」を意図的に説明しなかった。救護義務違反であり、告発があれば刑事事件に成りかねないことは理解しているらしい。
「FBIから彼女を帰すように──どこに帰すのかは知らないが。帰すようにと要請が来たよ。聞く謂れはなかったから断ったがね」
「なるほど」
「FBIだぞ? 流石だよ。今の間抜けな大統領を篭絡しただけのことはある」
 俺は答えなかった。あの関係を篭絡と言うのなら、この男は深い部分までの情報を手に入れていないということだからだ。余計な情報をくれてやる必要なぞあるはずがない。
 BJと大統領は色恋の関係などではない。互いにメリットとデメリットを理解した上で、利用する時、利用される時を楽しんでいるだけだ。
「彼女だって自分の意思でここにいるんだ。帰せと言われる筋合いはない」
「自分の意思で?」
 エミリーが歩けるようになるまでは、と言う意思表示は俺も知っている。だが恋人とはいえ患者から聞いた話を他人にするわけにはいかない。知らない振りをした。
「エミリーが歩けるようになるまではここにいるそうだ」
「あと半月──見た限りでは来週にも歩けるようになるとは思いますがね」
「行かせたくない。彼女を手放すなんて考えられない。──記憶なんて戻らなければいいのに」
「そこまで愛した理由は?」
「女子供が好みそうな物語だよ。私の思い通りにならない女なんて初めてだった」
 それからクリードは語った。先ほどは隠そうとした「彼女がこの家に来た理由」をまず語った。俺は医師としての顔で患者を裏切り、胸ポケットの無線機の向こうにその話を流し続けた。
 始めは事故を隠すだけのはずだった。利用するつもりだった。今の大統領と爛れた関係にあるのなら、対立派閥に与するクリードの一家としては歓迎するしかない存在であることは間違いない。
「私の思い通りにするなんて、普通の女より簡単だと思った」
「その理由は?」
「あんな傷がある女が、しかも記憶がなくて不安な時、私のような地位の人間に優しくされれば簡単に落ちるとしか考えていなかったんだよ」
 俺は返事をしなかったが、それは正しいと言えば正しい考えだったと内心で認めた。腸が煮えくり返るような怒りを覚えたのも確かだが、心の中に封じた。
「ところが彼女は魅力的だった。──私に正面からノーを突き付けた女性は初めてだったんだ。惹かれたよ。笑ってくれてもいい」
 笑うものか。上流階級が身分違いの相手に惹かれる時、往々にしてそんなケースがある。心理学的にも間違ってはいない。
「記憶を失っても名医だった。彼女がいなければエミリーは今も苦しんでいたし、近いうちに死んでいたかもしれない」
 クリードは語る。医師としての強い彼女の顔と、記憶のない女性としての弱い彼女の顔と、自分を何が何でも受け入れてはならないと抵抗する姿の全てを愛したと言った。俺はただ相槌を打ち、心の中では理解を示していた。まさにそれがあの女の魅力だと知っていたからだ。あいつは強く、弱く、そして自分が最善だと信じる結果のためならどんなに苦しくても歯を食い縛る。
 そうだ。だから俺は愛したのだ。
 心底、この男が嫌いだと思った。殺してやりたいとまで思った。医師としてあってはならない感情かもしれない。ならば今だけ、俺は医師をやめる。一人の男として、恋人を奪われた人間として、その恋人を利用しようとした男を前にした人間として、殺意を持たずにはいられなかった。
「彼女は存在するだけで、私の過ちを突き付けるんだ。私は彼女が来てから自己嫌悪ばかりだった」
「過ち? あなたが?」
「人種差別など愚かなことだと思っていたのに、私は心の中で、人種差別ありきで物事を考えていた。白人に産まれなかった人間は哀れな存在だってね」
 アメリアを思い出した。可哀想な人だちだと家族に教えられ続けていたのに、ルルを見ているとそうではないと気付き、家族の教えと自分で気付いた事実の狭間で揺れる少女は、さっきルルの隣に座って二人で笑い合っていた。
「ルルが来てから、私こそが愚かだと知ったよ。私が差別主義者だった。何てことだ。このショックは結構なものだよ。あなたには分からないだろうけどね」
「分かりませんね」
「そうだろうね」
「ただ、あなたと同じように彼女に事実を教えられ、自分の中の差別意識を過ちとして向かい合い、善い方向へ歩もうとするアメリアが同じ家にいます」
「アメリア? ──なぜあなたがアメリアのそんなことを知っている?」
「ルルの記憶を取り戻す薬はないのかと、フォート・デトリックまで私を訪ねて来たんです」
 クリードはそれこそ、雷に打たれたかのような顔になった。表情が豊かな男なのだとやっと俺は気付いた。本当はカウンセリング前に知っておくべきことだったのに。クリードへの憎悪が俺の医師としての能力を曇らせていた。大いに反省すべき点だ。
「あの子が? あんなに差別の言葉ばかりを言っているあの子が、ルルのために、あなたを訪ねて行ったって?」
「ええ。しかもフォート・デトリック──軍事施設があるエリアへ来るなんて、きっと勇気が必要だったでしょう。アメリアは勇気ある少女だ」
 神よ、とクリードは呟いた。泣き声だった。俺の手前、決して泣くまいとしていることが分かる。俺は新しい煙草に火を点け、見ない振りをしてやった。
「正直、私は人間の差別心が完全になくなる日は遠いと思っています。だがあなたが差別心を恥じると言うのなら、それを否定する気もありません」
「あなたは差別主義者と言うことか?」
「まさか。たかが肌が白いくらいで何が優れているって言うんです? 皮膚を剥がしてご覧なさい、腹を割くのもいい。誰もが同じ造りをしている。一目で分かりますよ」
「……よく聞く言い分だよ」
「神は真実に気付いた者に愛と平穏を与える。それだけのことですよ」
 クリードは深く息を吐き、またソファに沈み込んだ。いつの間にか陽は傾き、部屋の中は薄暗い。
 俺はひとつだけ、クリードの前に救いの糸を垂らしてやった。日本の童話だったろうか。救いようのない悪人が地獄へ落ちそうになった時、生前の唯一の善行の報いとして、細い、細い、蜘蛛の糸がもたらされたのだ。
「彼女に話をしなさい。そうすれば彼女はあなたを許し、愛そうとするかもしれません」
 俺への不信感を拭い切れない目を向ける哀れな男に、俺は優しく、医者が患者を愛する時の顔で微笑んでやった。
「全てを話す必要はありません。ただ、あなたがどうしても彼女に詫びたいと思うことがあれば、それだけを話せば良いんですよ」
 俺が垂らした糸が切れるかどうかは、俺の知ったことじゃない。


「お優しくてびっくりだよ、ドクター・キリー」
 ベネットが運転する車の助手席から、グラディスが溜息混じりに声をかけて来る。そうか、と俺は返しておいた。
「あれで先生がクリードといい関係になったらどうすんのさ」
「その時はその時さ」
「報告書にどう書けって?」
「ドクター・キリコ、非常に有能」
「否定しないけどさ!」
 グラディスが大きく息を吐いて背もたれに寄り掛かった。こいつもこいつで気が張る時間だったんだろう。
「でもまあ、クリードをが先生を怒鳴ったのは良かった。先生には悪かったけどね」
「良かった理由は?」
「ドメスティック・バイオレンス」
「──DV?」
「当たり。流石ドクター。最近、心理学とかの方で聞くんじゃない?」
「昔からある現象で、名前がついたのが最近ってだけだ。──ああ、なるほど」
 俺が理解したと知ったのか、グラディスは機嫌の良い声で続けた。
「怒鳴るのもDVだ。これで『クロオ・ハザマが暴力を受けている』って理由付けができる」
「弱いな。おまえさんの上の人間がDVを理解しているか? 言いたかないが、男が女を怒鳴るのは当たり前のことだって思ってる世代だろうし、俺の世代でもほとんどそんなものだぞ」
「ドクターもそう思うわけ?」
「まさか。冗談でもやめてくれ」
「それならいいじゃない」
 グラディスは笑う。ようやく見付けた突入のための突破口をどう活かそうか、考えるのが楽しくてたまらないんだろう。
「ドクター自身が先生の可哀想な姿を見てるんだ。僕だって証人だ。僕は上にこう言うね。『我らが合衆国の国家組織たるFBIの要請に関わらず、クロオ・ハザマを解放しない。暴力はエスカレートするものだ。人前で怒鳴り付けるとは、既に彼女に対して感情をコントロールできなくなっている証拠に他ならない!』──オールドマネーだろうが何だろうが、突入する理由としちゃ充分さ。その前に日本の外務省から救出要請が正式に来る必要があるけど、流石に来週には来るだろうし。これでも動かないなら大統領命令を出してもらうしかないよ」
 俺はつい笑った。グラディスが上の連中を前に力説している姿が目に見えるようだ。だが、これはこいつがふざけているわけではないということも分かっていた。この男はBJを嫌っている。それでも軍人として一人の人間を不当な環境から救出しようと真摯であることは確かで、俺は素直に感謝した。
「って言うか、僕、あの人ほんと嫌いだけど」
「充分知ってるが、何だ」
「あれ、滅茶苦茶可哀想だったし」
「おまえさん、笑ったくせに」
「DVの材料が取れたからに決まってんだろ。──男性恐怖症の女の人にやっていいことじゃないよ。恐怖症じゃなくたって肉体的に自分より弱い相手を怒鳴るなんて、あいつ、頭おかしいか育ちが悪いか両方だ」
「オールドマネーで育ちが悪いってのは考えにくいな、頭がおかしいんだろ」
 言ったのは運転席のベネットだ。今日もタイニーと家の中に入り込み、図面を確実なものにするため、探索を続けていたはずだった。
 グラディスが警備兵だと言う設定を貫くため、尾行を用心してフォート・デトリックに向かう道すがら、俺は思い出した。
「お嬢ちゃんとユリを呼ぶ。向こうのCIAに連絡しておいてくれ」
「あ、呼ぶんだ? ──まあ、先生があれだけ言ってるなら呼んだ方がいいか。すぐ呼ぶの?」
「来週半ばでいいだろう。あまり早くても会わせてやれない」
「微妙なんだよね。クリードの家への襲撃がいつになるか──確かにバースデーパーティの時を狙うのが一番やりやすんだけどさ。あの家の正門がフルオープンになるなんて、当主のバースデーか葬式くらいしかないよ」
 どこの勢力が狙っているかもはっきりしていない。いや、グラディスは知っているのかもしれない。俺に言わないと言うことは、俺が知る必要がない、或いはこいつが腹に何か一物抱えているだけの話だ。
「赤毛」
「赤毛って言うな」
「もうこのやり取りも飽きた。諦めろ。──俺に何も言わないなら、俺は当日、何か起きても勝手にするぞ」
 グラディスは黙る。素知らぬ顔だ。返事すらしないこの男は珍しい。腹に一物どころか、既に全てを決定しているのだろう。
「ま、何とかなるって。俺たちがいるから」
 ベネットが世間話のように言った。
「この人は俺たちがいねえと駄目なのさ。逆に言やあ、俺たちがいれば大丈夫ってことだ。ドクターもBJ先生も、金曜の夜には同じベッドで眠れるよ」
「そういう台詞って僕が言うべきじゃない? あと、前半は間違ってる」
「よく言うよ。あんた、ホワイトハウスの時だって──」
 それから運転席と助手席の二人は喧々囂々と過去の話で盛り上がっていた。否応なしにその話を聞きながら軍籍にあった頃を思い出す。
 蒸し暑い記憶が蘇りそうになり、俺はシートにもたれ掛かって目を閉じた。どうせベトナムを思い出すのなら、今はあの可愛かった医学生の女を思い出したかった。