色んな人が歌ってきたように 06

「先生のスカートとアップヘアがめちゃくちゃ可愛いと思った人、挙手」
 帰りの車の中、助手席のグラディスの出題に俺は速やかに手を挙げる。グラディスも挙手していたので褒めてやる。非常に可愛いとしか言えなかった。それから、俺を気にする姿は今まで見た中でトップクラスに可愛かった。運転席のベネットが「だろ?」となぜか得意げに言い、俺の殺意をまた買うという真似をしてグラディスに「ほんとに喧嘩売るのやめて!」と一撃喰らっていた。
 小児科部長は思った以上の情報を持ち、思った以上の働きをしてくれた。記憶障害を起こす前のBJに会った時の話を聞いた時点で、俺は闇に口利きをしてやることに決めていたのだが、エミリーの退院に急遽絡ませると言い出した時には別の礼を用意したくなったほどだった。
「最後のあれって何だったの。男性恐怖症でも持ってたっけ、あの人」
「潜在的な男性恐怖症はあるだろうな。でもまあ、あれは違う」
「違うって?」
「どうってことはない」
 俺は笑い、あの時のBJを思い出して、ああ、可愛いな、と思った。とにかく可愛かった。立場や場所を考えなければ、きっと我慢できなくてキスをしていただろうってほどに。
 あの時に顔を覆って俯いたのは、俺に見詰められて、照れて赤くなった顔を隠したかっただけだ。
「いや、報告書に書かないといけないから言ってよ」
「……書くのか?」
「書かないとまずいんだって」
「……いや、じゃあ、ドクター・キリコにも不明であるとの言質、って書いとけ」
「……馬鹿夫婦の馬鹿な夫婦生活を垣間見せられたような気がする……もう嫌だ、この任務……!」
 誰が夫婦だ、何が馬鹿な夫婦生活だと大いに突っ込みたいところだったが、これで赤毛が黙るなら馬鹿に甘んじる。しかしこいつの口を本気でいつか縫ってやりたいと言う本音がまたぞろ強くなる。
「で、ベネット、できた?」
「完璧。俺とタイニーでしっかりやっといてやったぜ。他にできる奴はいないね」
「よく言うよ、マーガレットちゃん」
「それはやめろって!」
「何だ、マーガレットって」
 ベネットへの殺意を下げられるような材料があると察した俺の問いに、グラディスが笑って教えてくれた。
「任務の時にさ」
「隊長、やめろって!」
「隊長命令だ、黙れ。──目的地までの道筋で、マーガレットの畑があったんだ。そこを通り抜けるのが最速だったんだけど、こいつ、畑を潰さないでくれって大騒ぎしてさ。それ以来、隊の中のあだ名がマーガレット。ついでにコードネームもマーガレットにしてやった」
「なるほど」
 笑っていいか分からないが、とりあえず俺は納得した顔でミラー越しにベネットを見た。ベネットは顔を赤くし、唇を「Fxxk」と動かす。それでも運転が乱れないのは流石の一言だ。
「まあ、確かにあの辺のマーガレットは商売物だったからね。迂回してやったよ。こいつの実家、花屋だしね」
「──そうか」
 笑わなくて良かった。俺はシートに深く腰掛け直す。デルタフォースと言う特殊な場所でも、こんな話があることを知れて妙に嬉しくなったことは伝えないでおいた。俺が軍にいた時も、こんな話がいくらでもあったような気がする。俺の過去の記憶は悪いことだけではないのだと思える幸せを、誰にどう言えば理解してもらえるのか分からない。
「にしても、先生、あれ本当に何も覚えてないね。医療のことだけはすっごい覚えてたみたいけど」
「ああ。骨の髄まで医者だ、あいつは。やることがあるならしばらくは大丈夫だろう」
「僕もそこは安心した。FBIもまだ時間がかかるって言ってたし。あの家で随分大事にされてるみたいだし、最低限の安全は確認できた。──ベネット、帰ったら図面を上げてくれ。今日中だ。盗聴器を仕掛けた部屋も間違えないで書いてくれよ」
「イエス、サー」
「個人の部屋は?」
「無理だ。中に人の気配がする部屋には入れなかった」
「メイドかもね。ああいう家には必ずいる。先生の部屋は分からないか。とにかく図面を頼む」
「図面って?」
 俺の問いに赤毛の隊長はあっさり答えた。
「そのうち攫いに行くかもしれないから、今のうちに家の中を把握しておきたかったんだよ。僕たちが先生と話してる間に、ベネットともう一人、タイニーって奴に家の中の捜索をさせただけ。盗聴器も可能な限りね。家の図面起こしを今日中に、って話さ」
「──よく見つからなかったな」
「ベネットとタイニーはこういうのが上手いんだ」
 ベネットが得意げに鼻を鳴らした。
「隊長は俺たちがいないと駄目なんだ。どんな任務でもな。お陰で苦労ばっかりだよ」
「殺すぞ」
「今やったらあんたも死ぬだろ」
 二人の会話に苦笑して、俺は少しBJについて考えることにした。あの家で大切にされていることはよく分かったし、健康そうだった。だが気になることがある。あいつに会う前、俺とグラディス、部長は「握手も含めて決して身体に触れたり、性的なことを連想させるような言葉を言わないように」とアビゲイルからかなり強く要請された。あれは要請と言うより命令だ。人に命令することに慣れた家の女が、これだけは、と強く強く言って来た。
 俺は正直、BJは潜在的な男性恐怖症を持っていると確信している。あれだけ闇の男たちを、時には政治家をあしらい、時には渡り合い、時には女を武器にして、この上なく強気な顔と言葉で自分の思い通りにするような女だが、裏を返せばそれは弱点だ。そうしなければ男が牙を剥くと思っているのだから。
 あいつは過去、洒落にならない性的被害に遭っている。俺と出会う以前のこととは言え、考えるだけで関係者を全員殺したくなるような被害だ。一人は俺があいつに黙って闇に依頼して殺したが、全員は難しい。でもいつか殺したい。医者としての自分の立場を忘れることになっても、それほどに俺は関係者を憎んでいる。
 あの生き方、暴力と性犯罪が当たり前のように付き纏う世界で生きることを選んだのはBJ自身だ。それは確かだった。だからと言って怯えることがお門違いだとは思わない。
 俺もこれに気付くまで時間がかかった。知り合って長い間、BJは俺にもそれを隠し続けた。ふたりになる少し前にようやく気付いたほどだ。
 今でも俺はそれに触れていない。今後も俺から触れる予定はない。あいつが助けを求めれば対応するつもりだった。だが今、その気配があの家でちらついた。アビゲイルがあそこまで強く言った以上、何かあったとしか思えない。
「ドクター」
 煙草に火を点けながらグラディスが声をかけて来た。
「めっちゃくちゃ怖い顔がミラーに映ってるから、何とかして」
「そんな顔をしていたか」
「誰かを殺す算段でもしてるのかと思う程度にはね」
「場合によっては殺すさ」
「やめてよ、軍人の前でそういうこと言わないで」
 本気で嫌がるグラディスに笑い、俺は煙草を咥えて煙の中に感情を流した。確かに殺してやろうと思っていたかもしれない。あの家で性的な何かが、BJに起きていたのだとしたら。
「話を変えてくれ。嫌なことを考えすぎて気分が良くない」
「自分で考えておいて、その言い分は勝手すぎじゃない? ──あ、フォート・デトリックの方の契約書とか全部、一応ダミーに変えておいたから。ドクター・キリーにしておいたよ。フルネームもちょっと変えておいたから注意して。スタッフにも承服命令が出るように手配した」
「手回しが早いな。助かるよ」
「まあ、クリードが調べるだろうしね。次にあの家に行くのっていつになるんだろう」
「薬効のチェックのために来週だ。正確な日時は部長なりから連絡が来る。そこで問題がなければ次は一ヶ月単位で先になる。まとめて薬を渡すのがセオリーだからな。しかも病院の薬剤師が対応できるから、俺の意見は必要ない」
「じゃあ、ドクター・キリーが出入りできるのは下手すりゃ来週だけってことか。思ったより時間がないな。FBIをせっつかないといけないかも」
 それからグラディスは溜息をついた。
「うちの国の国籍か、永住権さえあればなあ。今日中にでもデルタで掻っ攫えるのに」
 そればかりはどうしようもない。俺も釣られて溜息をついてしまった。
 でもあいつは全てを忘れているわけじゃない。希望はそこにある。医療のことは問題なさそうだ。あの神の指が健在かどうかは未知数だが、少なくとも知識的にはそこいらの医者など足元にも及ばない。薬について説明する時、俺は敢えて最新の薬学知識を凝縮して話した。あいつは一度として理解に戸惑うことなく、見事に付いて来た。
 それから──“If you say so”。
 “あなたがそう言うなら”。
 これに反応した。何のことはない、単に相手の意思を尊重するというだけのセンテンス。でも俺とあいつの中では決して忘れられない記憶の中に刻み付けられている。
 それを覚えているならいい。俺はこれだけで充分だ。
 電話をするべき時かもしれない。ベネットが手に入れた番号はとうに暗記していた。指定された時間を思い出しながら、再び思考に沈んだ。グラディスは放っておいてくれた。


 指定された時間は午後2時、あるいは午後10時だ。アメリカは22時と言う表現をしない。軍隊だけが24時間表記を使う。日本や他国の表記に慣れた俺には少し戸惑いを感じるものだった。
 5回コールしても反応がなければ切ろうと決めて、時間ちょうどにナンバーをコールする。3回で女の声が応答した。
『Hello、わたししかいないわ』
「ベネット軍曹から伝言を頂いた者です。アビゲイル?」
『そうよ』
 受話器の向こうの声は緊張していた。普段はこんな秘密めいた行動をしないのだろう。家で会った時の彼女の印象は、清く正しく、上流階級の誇りを大切にする傲慢な女だった。
『名乗って頂ける?』
「同じ日に二回も?」
『何ですって?』
「妹さんの夜の服薬は済みましたか?」
 アビゲイルが大きく溜息をつき、神様、と呟く声が聞こえた。俺が誰だか分かったらしい。
『ドクター・キリーね。お陰様で薬は飲んだし、もう眠ったわ。──ずっとルルが付いていてくれてるの』
「クロオ・ハザマ」
『何ですって?』
「彼女の本名です」
『──ちょっと待ってね。少し落ち着きたいの』
「構いませんよ」
 煙草に火を点ける音がした。吸わないように見えたが、女は見た目によらないらしい。BJで思い知っているはずだったが、改めて知った。
『あなた、彼女の何なの』
「医業について意見交換をすることが多い立場ですね」
 本能か、それとも理性か。ここで俺がBJの恋人だと言う必要はないと直感した。むしろ最初にクリードの存在を聞いた時から思っていたのかもしれない。
『意見交換? ──彼女、とんでもない天才医師って言うじゃない? あなたが彼女のレベルに相応しいってこと?』
「なぜご存知?」
『クリードが調べたわ。本当ならうちのホームドクターなんかになってくれるような人じゃないって』
「いや、報酬次第では有り得ますがね。世の中の難病患者が嘆く結果が付随する程度で」
 既に調べていたという事実に俺は憤りを感じたが、強いマインドコントロールで口調に現れないように気を付けた。
 調べていたということは、あの家に留め置く必要などない。さっさと日本大使館に連絡するのが筋だ。BJを抱き込むことで箔付けしたい闇の組織ならともかく、オールドマネーの一家ともあろう者が、無免許の闇医者を手元に置こうとする理由──簡単に察しがついた。
「お調べになったことは、彼女に伝えましたか?」
『いいえ。クリードが隠し通すつもりなの。わたしは言うべきだって言ったけど、当主に逆らうことはできないわ』
「彼女の家族が手続きをすれば、日本から正式に身柄引き渡しの要請が出ます」
『オールドマネーの権力をご存知?』
「なるほど、納得しました」
 日本からの要請を受けたアメリカ政府からの連絡があっても、オールドマネーの一家は簡単にそれを蹴るだろう。アビゲイルはそれを俺に教えた。それほどまでにBJを囲い込んでおきたい理由など簡単だ。
「金と権力がある男性のたちの悪さと言ったら、同性ながら呆れる次第ですよ」
『あなたにも分かるの?』
「予想ですよ。どうやら正解のようだ」
『そうね。彼女を愛することは別に構わないし、素敵な人だからわたしも嬉しいけど──弟のやり方はどうかと思うのよ』
「あなたと弟さんの意見が一致していない、という結論でよろしいですね」
『一致していないわ。さっきも言ったけど、当主に逆らえないことだけは理解しておいて頂戴』
「ご苦労なさっておられる」
 当主に逆らえない女の不満を感じ、俺は糸口を掴んだ気分になった。
「既にFBIとCIA、デルタフォースが動いています。それから、フランスのマフィアも」
 しばらくの沈黙の後、アビゲイルはまた「神様」と呟いた。いくらオールドマネーとは言え、その 4つの存在が同時に動くことは無視できないのだろう。それを見越して言った俺のささやかな勝利だ。
『何てことなの。──何て人だったの、彼女は。あんなに可愛らしくて優しい人なのに』
「彼女自身が今申し上げた組織のいずれかに属しているわけではありません。彼女を重要視する人間が所属する場所です」
『わたしには理解しきれない。本当に可愛らしい人なのに』
「ええ、彼女はとても可愛らしい。あなたのおっしゃる通りです。あなたが彼女を大切になさっていることが、今日、よく分かりました。彼女を知る者として感謝します」
 本音半分、相手をコントロールするための話術半分だ。アビゲイルは全て本音だと思ったんだろう、それから声音が少し親しげになった。狙い通りだ。それからしばらく、アビゲイルに話をさせる。俺はそのいちいちに同意し、アビゲイルの洞察力を褒め、慈悲深いあなたがいたからこそ彼女は幸せなのだと繰り返した。時間が経てば経つほど、アビゲイルが受話器越しに俺に寄り掛かって来る。実際に会っていれば手を握り、肩くらい抱いてやっていただろう。
『大事にするのは当たり前よ。元々はわたしの家のせいなんだから』
「それはどういう意味で?」
『わたしの母が乗った車が──』
 そこでようやく、俺はこの騒動の発端を知ることができた。同時に超上流階級の事故隠しを知ることになる。俺が聞いたことによって外に流出する可能性があるが、アビゲイルは口が軽いわけじゃないだろう。俺の話術に乗ってしまっただけだ。無論、俺は流出するような相手に話すつもりは微塵もなかった。あの赤毛に言う程度だ。あいつも任務に関係する以上、他言はしない。
「大丈夫。私は誰にも言いません。ここでの話は電話を切ったら全て忘れます。彼女が無事であることと、あなたが素晴らしい人であること以外はね」
『ありがとう。──ドクター・キリー、あなた、素晴らしい人なのね。ルルのお友達なのだもの、当然よね』
「ルル──美しい名前ですね。旧いドイツ語だ。真珠は彼女によく似合う」
『そうよ。流石、よくご存知ね。クリードがつけたのよ』
「それは素晴らしい」
 二度とその名を俺が口にすることはない、と決めた。心が狭いと言われても構わない。既にクリードは俺の敵になった。
 いや、クリードは俺だけの敵ではなくなる。もしクリードがFBIの交渉に応じなければ、更に事態はこじれるだろう。あまりにも政府側が手をこまねくようなら、下手をすれば間久部が乗り出してくる可能性もある。赤毛がそれを許すか? 許すはずがない。ああ見えて正義感が強い軍人が、マフィアの乗り込みを歓迎するとはとても思えない。大統領まで巻き込んでの大騒動になりかねない。
「きっと彼女は今、健康でもあるんでしょう。完全に体力が戻るまではまだ少し時間がかかるかもしれませんが、あなたがいてくれるなら安心できます」
『そんなに彼女のことを考えているのに、どうして今日知らない振りをしたの?』
「彼女が私を知らない様子だったからです」
 俺は用意していた答えを告げた。
「彼女が気を使ってくれたのかと思ったんです。彼女は無免許医で、私は現在フォート・デトリックのプロジェクトに関わっている立場だ。私の仕事の立場に配慮して、まあ、つまり──アウトローである彼女自身とは見知らぬ仲だと演じてくれたのかと思っていたんですよ」
 嘘をつく人間は妙に長い台詞を話す。身をもって証明してしまった。まだまだ修行が足りない。だがアビゲイルは納得してくれたようで、「最初に分かっていれば」と嘆く声を出した。
『正直言ってしまうと、わたし、どうすればいいのか分からないの。クリードには逆らえないし、でもルルが家にいてくれるのも嬉しいの。本音を言えばクリードの恋が実ってくれればいいと思ってる。結婚はできなくても、一緒にいるだけでも』
「結婚はできなくても?」
『──彼女は日本人で、あの見た目よ。世間で差別されやすい人は、つまりオールドマネーでは差別の対象になるってこと』
「なるほど」
『勘違いしないで、わたしがそう言ったんじゃないわ』
 俺の声の変化に──修業が足りない。少なからず憎悪が滲んだ自覚がある──慌てたアビゲイルが必死で言い訳をしようとした。俺は「失礼」と言って、受話器越しにまた肩を抱き寄せることにする。
「分かっています。あなたがそんなことを言うはずがない。──失礼、彼女がそれで辛い思いをした話をいくつか知っているものですから、つい思い出してしまって」
『そうなの? 何てことなの』
「あなたが気にかけて下さることがどれほど有り難いか、どう説明すればいいか分からないほどです」
『そんなの──そんなの、当たり前のことよ。間違っているんだもの。彼女には責任がないことなのに』
「ありがとう。あなたがいてくれなければ、彼女は今、とても寂しい思いをしていたでしょう。全てあなたのお陰だと、私は思いますよ」
『あなたに言われると救われた気持ちになるわ』
 再び肩を抱き寄せることに成功した。こればっかりはあいつに見せたくない、聞かせたくないな、と思った。俺があいつの女言葉の営業を見たくないのと同じようなものだろう。俺はあれが一番嫌いだった。だから大統領に会いたくないんだ。大統領の前では、あいつは必ずこの上なく可愛い、日本訛りの女言葉で喋るから。
 それからもアビゲイルは話し続けた。途中には、彼女にとっては単なる家庭の愚痴だと思えるようなことも口にした。それがどれほど俺にとって有益な情報か、彼女に教える必要はなかった。
 取り敢えず分かったことがいくつかある。次女のアメリアの素行があまり良くないこと、人種差別について適切な──クリードとアビゲイルが望むような──教育ができていないこと、先代の当主、つまりアビゲイルたちの父の死後、母が何ひとつ自分で決定できない人間になってしまったこと。ゴシップ誌に売れば煙草代程度にはなりそうだったが、生憎俺は煙草代を喜ぶ収入帯ではなかった。
 いつの間にか3時間以上もアビゲイルと話していた。途中で彼女は酒を飲み始めた。俺が勧めたのだから文句を言う筋合いはないし、彼女の酔い方は多少口が軽くなる程度で、みっともないものではなかった。話のほとんどは彼女の愚痴だ。安楽死の仕事でもこういったケースになる場合は多く、俺は特に苦痛とは感じない。アビゲイルをコントロールするだけの対話なら、安楽死を求める彼ら、彼女らを前にした時よりも余程気楽だった。
 時間は更に消費されて行く。電話番号をダイヤルしてからゆうに4時間は経っていただろう。アビゲイルがようやく、俺が知りたかったことを口にした。
『ルルは──その、あなたが知らなかったら忘れて欲しいのだけれど』
「ええ、すぐに忘れますよ」
『……男性に怖い目に遭わされたことがあるのかしら』
 裏を返せばあいつがあの家で、そんな目に遭ったか、あるいはそんな態度を見せたということだ。どちらでも良かった。
 どちらでも、俺の憎悪を沸き上がらせるには充分だった。
 One、two、three。数を数える。ほんの少しばかり冷静になれたと自分を信じられるようになってから、俺は答えた。
「彼女の名誉のために詳細は伏せますが、あなたの推察は間違いではありませんね」
『──何てことなの。どうして──』
 アルコールの力もあっただろうが、アビゲイルは耐え切れなくなったかのように泣き声を漏らした。俺はしばらく彼女に意味のない優しい言葉をかけながら、落ち着く時を待った。俺自身を落ち着かせる必要もあった。
『クリードが』
「ええ」
『彼女を怖がらせてしまったの。やましい気持ちなんてなかったのに』
 それからアビゲイルは、何があったのかを語り出した。俺は呻きたくなる衝動を抑えながら、相槌を打つことに専念した。
 そんなことを知らなかったのだからクリードは悪くない、昔なら黄色人種への暴力なんて誰も気に留めなかった、クリードが落ち込む必要なんてなかった──アビゲイルが言った、あるいは俺への油断とアルコールの力が本音を言わせた瞬間が、最大の怒りを覚えた俺の忍耐力が試される、最も厳しい瞬間だった。怒鳴り付けないように必死の努力をした。分かっている。アビゲイルの言うことは、クリードの家族として決して責められるべき言ではない。
 肌の色のことも、この女はこれからの時代に決して口にしてはならないことだと分かっている。そしてそれを受け入れようとしている。今はそれに失敗しただけだ。人間はどうしても、綺麗ごとだけで過ごせない瞬間がある。アビゲイルは今がその瞬間だっただけだ。
 彼女は少し酒が過ぎていた。それからも様々なことを俺に吐き出し続けた。俺はただ相槌を打ち続けた。
 ええ、そう、そうでしょう、あなたは悪くない──何度も同じ言葉を繰り返しながら、オールドマネーの女の愚痴を聞き続けた。現代と過去の伝統の狭間で苦しむ女を哀れに思いながら、ああ、会いたいな、と思った。
 会いたかった。恋しいと言えばいいのかもしれない。蓮っ葉で強気な顔で歩く黒いコートの女が、そのコートを脱いだ瞬間にたちまち人見知りになって、可愛いよと俺が言うだけで顔を赤くして、小さな声で恥ずかしそうにキスをねだる姿を思い出して、恋しくてたまらなかった。
 また同じ時間に電話が欲しい、とアビゲイルは言った。ルルのことを教えてあげられるからと何度も繰り返した。そんなことは建前で、抱かれた肩を離されたくないのだということはすぐに分かった。俺の目的は達成された。あと数日もしないうちに、この女は俺を愛するだろう。
 毎日は難しいかもしれない、けれど必ずまた電話をしますよ、と約束して俺は電話を切った。
 空が白み始めていた。ひと眠りしたらフォート・デトリックでいつも通りの仕事をしなくては。先日の問題を片付けなければならない。それを終えたらしばらく休みを取ることにしよう。
 夢に出て来るかもしれない。だがその姿を俺は恋しいと思わない。
 夢になど出なくていい。
 現実で抱き締められるあいつしか、俺は会いたいと思わなかった。たとえ俺のことを覚えていないとしても。
 それでも夢に見た。夢だとすぐに分かった。蒸し暑いベトナムで、まだ未熟すぎたあいつが、未熟すぎた俺に向かって泣いてみせた。大嫌いと泣くあいつが可愛くて仕方なかった。ああ、ごめんね、俺はもう行かなくちゃいけない、迎えが来ているから。
 あの時、本当は抱きたかったのだと、抱きたいと思う欲を必死で堪えていたのだと、目が覚めてから思い出した。
 だからこそ憎悪した。筋違いの憎悪だと分かっていても、俺は憎悪した。クリードと言う男。俺の女を怯えさせた男。何があっても許さないと決めた。


 フォート・デトリックで会った赤毛は、いつも通り警備用の迷彩服を着ている。昨日のスーツ姿が嘘のようで、俺は何となく笑ってしまった。笑われたと知ったのか、赤毛は眉毛を跳ね上げる。短機関銃を持った状態で不機嫌な顔をするのはやめて欲しい。ほら、前を通りがかった職員が急に歩く速度を上げて逃げていったじゃないか。
「データ次第だが、午前中に全部片付ける予定だ」
「ふうん」
「ランチでもどうだ。おまえさんの奢りで。談話室でもいいんだが、たまには外で昼飯を食いたい」
「領収書を切っても恥ずかしくない店にして」
 仕事の話だと察した赤毛はすぐに答えた。1時に、と俺は言って、13時に、と赤毛は答えた。ああ、そうだ、こいつなら24時間表記が通じて当たり前だった。
 気になっていた問題は全て片付いた。後は今回の仕事の期間中、汚染されたシェルターの清掃状況のチェックと、現場関係者の安全管理を続ければいい。簡単なように見えて、実際は様々な数値の因果関係を考え続ける必要がある仕事だ。いざとなれば一般の研究員にはできない残酷な判断を下す可能性も考えられる。今の大統領の任期中は俺を監視下に置きたいという政権の本音に加え、残酷な判断を迫られた時の責任を俺に押し付けたいという思惑もよく分かっていた。それでも関わった以上、今のプロジェクトから積極的に抜けようと思えなかった。結局俺は甘い。過去に痛い目に遭っていても、それでも──責任という厄介なものを投げ出せない。
 だがその分、俺はこの国に要求することができる。闇の人間が国家の闇を知った。それだけで奴らには脅威だ。
 俺は過去、確かにこの国の大義のために戦った。それは今でも恥じないし、嘘じゃない。それでも無条件でこの国を愛し続けることができるかと問われれば、残念ながらノーとしか言えない闇を見過ぎた。
 約束の時間になり、グラディスと適当な店に入る。領収書を切っても恥ずかしくない店がいいと指定されたが、女との約束でもない限り、そこまで気を使うつもりはない。
 俺が朝、一服するために必ず寄るカフェ兼ダイナーにした。朝はカフェでランチタイムからはダイナーになる店は珍しくない。この辺りは警官や警備のための軍人も多く、迷彩服のグラディスも目立たない場所だ。グラディスもそれが分かっていたのか、文句を言わなかった。
「主な目的じゃなかったんだが、副産物があってな」
「ふうん、何」
「長女を落とせる」
「──まじかよ」
 仕事を忘れた若者の声で、グラディスは半ば唖然とした顔で俺を見た。こういう時は歳相応の青年だ。こういう時だけは。そしてこの本気の反応で、俺の家の電話は国家に盗聴されていないと確信した。他の勢力が盗聴している可能性はあるが、知る方法がない。精々テレフォンセックスを控えるくらいしか名誉のための自衛方法がない時代だった。
「何てことしてんの、ドクター。昨日? 何したの」
「電話をしたんだ」
「ふうん」
「三日もあれば落ちる。来週、あの家に行くまでに使い道を考えておけ」
「悪くないね。ありがとう。──先生には知られないように気を付けてね」
「あの女が誰かに言うことはないだろうよ。弟が日本人に惚れこんだことを無理矢理納得できるような理性の女だ、プライドも高い。表社会で有名でもない医者と懇ろになったなんて口にできやしないさ」
 グラディスがしばらく無表情になり、やがて静かに言った。
「いいね、それ」
「何が」
「使える。悪いんだけど、また電話することがあったら聴かせてくれない?」
「なるほど。で、俺は敢えて彼女にスキンカラーの話を振ればいいのか?」
「とんでもない。彼女がそんな気持ちになったら話を聞いてあげてよ、ってこと」
 大統領でさえ手が出しにくいオールドマネーの弱みを握れる、だから電話を盗聴させてくれ。赤毛の口元に浮かんだ笑みがそう言っていた。しかもアビゲイルの家──クリードが当主として存在するあの家は、現政権に対立的な立場であることが確実だ。現政権、現大統領と懇意であるグラディスが見逃すはずのない好機だった。だから俺は言えた。
「デルタがあいつを救出する件、早めに何とかしてくれ。国籍が問題だとしても、可能な限り早く」
 自分であの家に入ったからこそ分かっていた。なまじな人間がBJだけを連れ出せるような造りの家ではなかった。警備員がいることはもちろんだが、それに加えて家の造りが複雑で、隅々まで分かっている者でなければ迷うほどの部屋数がある。ベネットとタイニーが図面を書いたはずだが、だからと言って簡単に目的を達成できるはずがない。
 だからこそ俺は言った。心底から、その言葉を伝えた。
「あんな家、デルタじゃないと無理だ。フォート・デトリックで俺にまともな仕事をさせたければ、早いとこ俺の女を取り返してくれ」
 初めて、正面からデルタに頼んだ。デルタの隊長は食事の手を止め、俺を数秒見詰めた後、今まで聞いたことがないほど誇り高い、そして訓練された軍人の声で言った。
「最善を尽くします。どうぞご安心を、ドクター」
 ミリタリー映画なら感動的なシーンだったのかもしれないが、俺とグラディスの間ではそんな感情が行き来することなどなかった。俺は俺の女を無事に取り戻すにはこの男の力が必要で、この男は俺をフォート・デトリックで働かせ続けて監視下に置いておきたい。ただのギブアンドテイクだった。
「で、ここのダイナーにした理由は?」
「おまえさんの制服でも入りやすいだろう」
「ああ、そうなんだ。じゃあ偶然かな」
「何のことやら」
「次女がいる」
 グラディスが一瞬だけ視線を動かし、クリードの上の妹を示した。情報収集をしているグラディスなら次女を知っていて当然だ。俺は次女の外見を知らなかったが、一目で分かった。超上流階級の子女としては眉を顰められそうだが、最近流行の、少しばかり露出が多い服に身を包んだ金髪の娘がいる。数人の男女の友人たちとメニューをめくり、軍人や勤め人が多いダイナーの中では、いくらランチタイムとはいえあまり歓迎されない騒ぎ方をしている。
「──オールドマネーのお嬢様が来るような地域じゃないだろう」
「あの子が通ってるハイスクールと、ちょっとブロックが離れてるはずだけどね。何しに来たんだろう」
 俺は少し考える。アビゲイルから聞いた限りの情報に過ぎないが、できないことはないし、失敗してもどうということはあるまいと思った。
「赤毛」
「赤毛って言うな」
「失礼した。で、赤毛」
「もう死ねって言うのも飽きた。何」
「ハニートラップの訓練は?」
「ない。そういうのは情報部の仕事」
「俺だと歳が離れ過ぎて失敗しかねない。おまえさんが適任だ」
 俺はアメリアが中心になって場違いな賑やかさを振り撒くグループを見る。アメリアを含めて少女が三人、少年が三人。よく見れば明らかにアメリアに異性としての目を向け、何かと絡みたがる少年が一人いた。若くて結構、と思いかけ、流石に加齢感が過ぎると自身を戒めながら、グラディスに言った。
「次女を落とせ」
「……ドクター、やけに今回積極的じゃない? 女性に関して」
「女を抑えられた家は隙だらけだ。夜中に鍵を開けて待っていろって言えば本当に開ける」
「ユリちゃんに聞かれないようにね」
「当然だ」
 女性の権利向上に賛同することが多い妹を思い出し、女性蔑視発言をした俺はつい身を震わせた。あの気の強さで文句を言われたら頭痛が起きる。絶対に言わないでおく。
「あの子、未成年でしょ。やるのは無しだよ」
「馬鹿言え、必要ならやれよ」
「所詮アウトローの倫理観だな。やだやだ」
 グラディスは溜息をついてから迷彩服に着いている少佐の階級を示すファスナー式のワッペンを引っぺがし、ポケットから取り出した偽装用の少尉の物に変えた。それからしばらく彼女たちを観察し、頷いて立ち上がる。
 明らかに客たちが辟易している騒ぎが繰り広げられるテーブルに、赤毛の少佐が近寄って行く。店内の軍人たちは面白そうな顔で、勤め人たちは心配そうな顔でその光景を見ていた。若い少尉が更に若い子供たちを相手に間違った手段を取らないで欲しい、そんな顔だった。
 俺は煙草を咥え、グラディスがどんな行動を取るかを予測する。普通の手段なら注意をし、ひと悶着起こした後に和解へ持ち込み、そこからアメリアと距離を詰めようとするだろう。だが俺ならどうするか──考えている間に、グラディスが「俺ならこうする」と思っていた手段をあっさり披露した。
「嫌がってる。やめときな」
 騒ぎを注意するでもなく、グラディスの初手はアメリアの隣に座っていた少年の腕を捻り上げることだった。俺も同じ行動を予定していた。席を立つ前に子供たちを観察していたのは伊達ではなかったようだ。
 腕を捻り上げられた少年は、何かとアメリアに触れていた。そしてアメリアは密かに嫌がっていた。声を上げなかったのは彼女なりの周囲への気遣いだろうか。被害に遭っている以上、そんな気遣いは不要なはずなのだが。アビゲイルから聞いてた印象と随分違った。我儘でヒステリックな少女だと聞いていたのだ。
「てめえ、この──」
 少年はグラディスに凄んでみせたが、現役の軍人、しかも正体はデルタフォースの隊長相手に通じるはずもない。グラディスは彼に一瞥もくれず、アメリアに言った。
「僕の席はあっちだ。そこにいるのが嫌ならおいで。いたけりゃそこにいな」
 強引も強引で、事情を知る俺すら鼻白む。だが上流階級のお嬢さんの心には響いたようで、自分のバッグを持ち、先に歩き出したグラディスを追った。店内の大人たちも驚く展開だった。
 そのグラディスが元の席、つまり俺の前に座ったのだから面倒くさいと言えば面倒くさい。まさかここまでの急展開に持ち込むとは思ってもみなかった。
「ドクター、彼女も一緒にいいかな」
「もちろん。どうぞ、嫌な目に遭ったね」
「ありがとう。でも大丈夫」
 強がっていることは明白だが、それを指摘するような野暮なオッサン役は御免被る。
「荷物はそれだけ? もう何か食べた? 学校は?」
 グラディスはメニューを渡しながら、アメリアが答える前に次々に質問して行く。心理学のテクニックとしては正しい。デルタフォースの訓練の質の高さが垣間見える瞬間だった。
「まだ食べてない。来たばっかりよ。学校は今日は昼までだったの」
「それにしちゃ随分長くうるさくしてたけどね。──ちょうどいいや、僕、パンケーキが食べたかったんだ。半分こしない? チョコレートとベリーならどっちが好き?」
「え、あ、えっと──ベリーかな」
「最高。僕もベリーが良かったんだ。気が合うね」
 後は簡単だ。俺はグラディスの手腕と呼ぶまでもない作業を傍観することにした。グラディスが俺──フォート・デトリックに通っていることを店員に知られている、つまり身元証明がしやすい人間──がいる席に連れて来たのはわざとだ。未成年の少女を店の外に連れ出すのはまずい。場合によっては二人切りでテーブルに着くのも問題になる。
 赤毛の少尉はアメリアに楽しい話を振りつつも、ボーイフレンドでもないのに触って来るような男の子と一緒にいるべきじゃない、自分を大事にしなきゃ、と真っ当なことを言いつつ、ほんの数十秒で彼女の警戒心を解くことに成功した。俺は置き物になることにした。アメリアの目が秒単位で恋する少女のものになって行く経過が中々面白い。
 アメリアが最初にいたグループの席をちらりと見ると、借りて来た猫のようにおとなしくなっていた。それでもアメリアを狙っていた少年は面白くないのか、たまにグラディスを睨み付けるように視線を送って来ている。グラディスの代わりに俺が視線をくれてやると、可哀想なくらいに縮こまって目を逸らした。まあ、片目のオッサンに睨まれるのは良家の坊ちゃんには刺激が強すぎるだろう。
 パンケーキが来る頃にはアメリアはすっかり赤毛の少尉を信用し、頬を染め、熱っぽい目で見上げていた。グラディスはわざと気付かない振りをしてハイスクールの生活を聞き、彼女を褒めそやす。置き物と化した俺はコートハンガーに成り切ったいつかのニューヨークを思い出していた。
「日本から留学生が来てるの。いっつも独りぼっちなんだけどね」
「声をかけてあげればいいのに。喜ぶよ。ランチに誘ってあげるのもいいんじゃない?」
「でもオリエンタルよ」
 グラディスが演技を忘れ、表情を消した。俺も似たような顔だったんだろう。俺とグラディスの表情に気付いたアメリアが、急に慌てて背筋を伸ばした。
「──ごめん。いけないのは知ってる。家にいる日本人のお姉さんにも嫌なこと言っちゃうんだけど、どうすればいいんだろう」
 瞬時、俺と赤毛は視線を交わし合った。任せる、と俺は目で示す。グラディスは気のいい青年少尉の顔に戻り、そうなのか、とアメリアに頷いてみせた。
「日本人が嫌いなの?」
「嫌いとか、そんなんじゃないわ。いけないのは本当に知ってるけど、でも、小さい頃から大人たちがずっとそういう風に言ってて──どうしたらいいか分からないの。そのお姉さん──ルルって言うんだけどね。ルルに会うまで、本当は間違ってることだって分からなかった」
 あいつは何をしているんだ。あの家で教育的指導でもしているのか。それはそれで意外だった。あいつは案外、差別的な扱いをされると権利を主張するよりも引いてしまうことの方が多い。医療に関することでもなければ、ほとんどは暴言や不当な扱いに甘んじる。たまに逆手に取って利益を上げることもあるが、それは珍しかった。
「ルルは凄く頭がいいの。わたし、日本人はレベルが低いって思ってた。敗戦国で、ベトナムにも参加しないで。お金ばっかりの猿の国なんだって。でもルルは違うの。本当に凄い人なの」
「思っちゃうことは仕方ないけど、口に出さない方が可愛いまんまでいられるよ。褒め言葉を言っている方がいいね」
「思っちゃうのは仕方ないの?」
「そりゃあそうだよ。人間だもん、思うことまでコントロールしきれないよ。コントロールするのは口に出す言葉と態度の方だ。このおじさんもそう言うはずだよ」
 誰がおじさんだ。いや、確かにおじさんと呼ばれても文句は言えない年齢だが、こいつに言われると腹が立つ。とはいえ、いきなり会話に引き込まれた俺としては黙ってもいられない。
「構わないと思うよ。思っても言わない。そうすれば次の世代は思うことすらなくなっていく。きみが言葉と態度をコントロールすることで、きみより幼い世代が正しい方向へ成長して行ける。きみに妹や弟がいるなら、少しだけ考えてみてもいいかもしれないね」
 妹、と言うワードを出したのはわざとだ。案の定、アメリアの表情が揺らいだ。それから驚くことに俯き、目に涙を溜める。俺たちの様子を窺っていた周囲が──さすがワシントンの研究施設エリアだ、『正しい』大人が多い──注意深い視線を送って来て、俺はやや焦って「問題ない」と軽く手を振ってみせた。
「ねえさんとにいさんも、差別は駄目っていつも言うの。でも、そんなふうに言ってくれなかった。とにかく駄目だからって、可哀想な人たちを差別しちゃいけないって、そんなことばっかり言うから。でもルルは可哀想じゃないし、留学して来てる子も可哀想じゃないのに。どうしたらいいか分からないの」
 可哀想、ね。分かっていたことではあるが、あの家の新陳代謝にはもう少し時間がかかりそうだ。だが、理性で被差別者を愛そうとする彼らは批判されるべきではなく、むしろ努力をしている事実を称賛されるべきなのかもしれなかった。
「確かにそんなんじゃ難しいよね。僕だって迷いそうだ。──ルルや留学生はどういう子なの?」
「留学して来てる子は凄く頭がいいわ。どの教科も凄くって──ルルも頭がいいの。お医者さんなんだって。うちのホームドクターみたいな人で、今は妹のエミリーを見てくれてる」
 やっと妹の名前を言った。俺の出番だ。
「エミリー? ──違っていたら失礼、そのルルって言うお姉さんは、顔や身体に目立つ傷がある?」
「……知ってるの?」
 訝しむ顔になったアメリアに、俺はこの上なく優しく笑ってやった。
「私はキリー、妹さんの薬について意見を差し上げる立場だ。昨日、きみの家に行ってルルと話をしたよ。──彼は私の護衛だ、SPとして一緒に来ていた」
 アメリアはぽかんと口を開け、それから「嘘ぉ」と少女らしい声を漏らした。
「本当に?」
「本当だよ」
「──何てことなの! 神様!」
 アメリアは歓喜の叫びを挙げ、俺の手を取り、激しく上下させた。再び店内の正しい大人たちの注目が集まり、今度はグラディスが「何でもない」と手を振って示すはめになった。
「わたし、あなたに会いに来たの。フォート・デトリックで研究してる人だって聞いたから」
「私に?」
 これには驚いた。だが、それでアメリアがここにいる理由も納得できた。一人で来るのは気が引けて、学友たちを連れて来たんだろう。性質の悪いガキが紛れ込んでいたようだが。
「薬に詳しいんでしょう? ルルの記憶を戻せる薬はないの? このままじゃ、ルルがにいさんの愛人にさせられちゃう」
 思わず「神よ」と呟いた俺を責める奴は誰もいないはずだ。グラディスでさえ「神様」と呟いたのだから。