色んな人が歌ってきたように 14

 襲撃があったのは予想通りと言えば予想通りで、俺が大広間にクリードや上流階級の人間と人質になるのは予想外だった。襲撃があればBJを連れてさっさと逃げる──ベネットがいれば何とかなる予定だった──はずだったんだが、俺はどうやら自分で思っているよりも医者として生きているらしかった。
「逃げそびれたね、ドクター」
「残ったと言って下さい」
 クリードは笑おうとして失敗し、苦痛に顔を歪めた。
 肩付近から血を噴き出したクリードを見た瞬間、俺の身体は勝手に動いていた。不本意極まりない。残ろうとした護衛のベネットに戻って赤毛に報告しろと言い、逃げ出す人々と逆方向に走っていた。
 つい先日はこいつを殺してやりたいと思っていたのに。クリードの出血を止めるために応急処置をし、俺はもう少し冷酷であるべきだと心底思った。
 クリードの左大腿部に襲撃者たちの誰かが撃った流れ弾が当たったことが俺の運の尽きだった。お陰で今日の予定が潰れたし、タキシードは血まみれだ。だが同じく逃げられなかった、あるいは残ったのか、この家の主治医と小児科部長も似たような姿だった。二人もクリードの、そして他の負傷者の治療に当たったのだ。彼らの妻は幸いにも逃げ出せたらしい。
 いや、おそらく彼らも脱出できたはずなのだ。それなのにここに残った。彼らは医者だった。
 不幸中の幸いで、重傷者はクリードだけだった。後は生命の心配をするような負傷者がいない。よりによって今日の主役が、そしておそらく襲撃者たちの一番の狙いが重傷を負うとは皮肉なものだ。それとも襲撃者たちはわざとやったのだろうか。
「大腿動脈を損傷しています。止血はしましたが、それだけです。吻合──縫い合わせるという意味ですね。それが終わるまでは楽観できません」
「ドクター、ここは私を安心させるようなことを言うべきなんじゃないのかい」
「私は真実を告げることをモットーとしておりますので」
 会話ができるのならまだ安心だ。だが明らかに出血多量だった。俺や他の医者二人がいなければ確実に1分程度で死んでいた動脈を損傷しているのだ。早急に手術が必要だった。最低でも輸血をしておきたい。止血はテーブルクロスやナプキンで行えたが、それだけだ。
 それよりも俺はクリードが痛みに耐えていることを素直に称賛したかった。大腿動脈をやられた激痛に気絶すらしない。とんでもない精神力だった。
「普通は気絶するんですがね」
「残念ながらできなくてね」
「立派な精神力をお持ちでいらっしゃる。戦場でも中々見かけない」
「ベトナムに行ったそうだね」
「そうですね」
「それは本当の経歴なのか?」
 脂汗を浮かべながらクリードは俺を見る。俺の正体を知っている──細かい経歴も闇では結構知られているものだ──小児科部長もちらりと俺を見た。俺は苦笑した。
「俺はドクター・キリーじゃない。昔の名前だよ」
 ドクター・キリーの顔を捨てた俺に小児科部長は肩を竦め、主治医は事情が分からないながらも何かを察し、俺から少し距離を取った。真っ当な人間の反応だ。
「では、ドクター・キリコかな」
「よく知ってるな。闇に関わったことなんかないだろうに」
「ブラック・ジャックのことを調べた時に、あなたの情報も入って来たんだ。名前が似ているとは思ったが、経歴がベトナム以外は全く違うし、──見た目の情報があればすぐ分かっただろうな。隻眼で銀髪なんて、滅多にいるはずがないって言うのに」
「見た目の情報はよっぽどじゃなきゃ出回らないものでね。それこそBJくらいに特徴がなければ早々知られない」
「小児科部長が連れて来たドクター・キリーが偶然あなたで、偶然ルルの恋人だった。神様は面白いことをなさる──なんて、流石に言えないな」
「ご明察。おまえさんの家に入り込めるように、俺たちが仕組んだのさ」
「と言うと?」
「おまえさんが思っている以上に、俺の女はアメリカでの行動を監視されている。突然消えれば担当機関が動く。これで満足してくれ」
「死ぬかもしれない相手にサービスが悪いね」
「死なないと思っているものだから、どうしてもそこまで親切になれない」
「確証は?」
「人は風邪でも死ぬ」
「なるほどね」
 疲れて来たのだろう。クリードの声に力が入らなくなっていた。損傷がじわじわと体力を奪っている。確かに今すぐは死なないが、放置すれば分からない。そもそも失われた血液が多く、長時間を過ごせば多臓器に影響が出かねない。
 専門外とは言え小児科部長と主治医も同じ見立てなのか、俺と視線を交わし、それぞれ「危険だ」と言う意思を疎通させた。
「せっかく来てくれた客人たちに申し訳ない」
 クリードは溜息をついた。俺は大広間を見渡す。襲撃者たちに一角に集められた人数は男女を併せて11人だ。他の数十人は逃げ出せたのにお気の毒に。短機関銃を持った男たちに囲まれて床に座らされている。俺たちはクリードを倒れた場所から動かせないと言う理由で少し離れていた。
「クリードはまだ生きているんだな?」
 顔を覆面で隠した男──リーダー格だろう──が、ヒスパニック訛りの米語で話しかけて来た。俺は小児科部長と主治医を制し、会話を担当することにした。暴力に慣れない二人では面倒が起きかねない。
「生きている。輸血と手術が必要だ。早急に」
「この家と繋がりの深い政治家連中が要求を受け入れれば必ず帰す。それまで持たせろ」
「外の人間と交渉するなら差し入れを申し入れてくれ。クリードの血液型の輸血パックと──」
「持たせるんだ」
 俺に短機関銃を向けて恫喝する。闇に慣れた俺には大した衝撃でもなかったが、期待されていることは理解できる。望み通りに頷いてやった。
 襲撃されてからおよそ2時間経っている。予定通りならもうバースデーパーティは終わり、俺はアビゲイルに一発程度殴られてから──数発でもいいが──BJと帰る時間だったはずだ。それがどうして胸糞の悪い男の生命を握ってやっているものやら。
「ドクター」
「何だ」
「私以外の客人を全員解放するよう、言ってくれないか。頼むよ」
「──構わないよ」
 その要求はおそらく無駄だ。奴らだって馬鹿じゃない。いや、世間的には馬鹿だが、警備が厳重なこの家を襲撃し、政治家を交渉のテーブルに着かせることに成功している。特殊部隊の突入に対する用心もしているはず。ここで人質を減らし、突入の難易度を下げるとは思えなかった。
「クリードの伝言だ」
 俺は近くにいた覆面の男に声をかけ、要求を伝える。覆面ごしに鼻で笑った男は、取り敢えずといった風情でリーダーに話をしに行った。意外にも少し話し込んでから、リーダーは宣言した。
「クリード以外は出て行っていい。──ああ、片目、おまえは残れ。クリードが死なないようにするんだ。死んだらおまえも殺す」
「ありがたくない場内指名だな」
 言いながら、俺は眉を顰めないようにすることが精一杯だった。嫌な予感がする。人質を解放できる理由──他に人質と同等の価値を持つ何かがあると言うことだ。
 小児科部長が立ち上がる前、俺に囁いた。
「闇に依頼することがあれば」
 彼なりの精一杯なのかもしれなかった。そう言えばまだ闇にこの男の支払い遅れについて便宜を図ってやっていない。終わったらすぐに電話しておこう。数秒考え、念のためと言う気分ではあったが、安全策として思い付いたことを頼んだ。
「前回の数字で待機を。それで分かる」


 俺の耳に入ったままの無線機は生きている。髪に隠れているが、いざ見つかったら補聴器だとでも言うしかない。それはともかく、無線機の向こうから全ての話が聞こえていた。
 どんな感慨を持つべきかは分からなかったが、BJがグラディスの手術痕を自分の手によるものだとすぐに気付いたことに何よりも安堵した。あいつは医者だった。分かっていたのに改めて強く思った。
 ユリとお嬢ちゃんが到着した後の騒ぎは酷かったし、その後の突入に関する話し合いも酷い。グラディスや他のデルタ隊員の苦労が本気でしのばれた。
 何を置いても酷いのはBJも突入に同行するということだ。監視の目のせいで俺から発信ができず、来るなと言えないことがもどかしかった。
 いや、来ればクリードは助かるだろう。BJの指先に記憶が戻らないとしても、おそらく持って来るはずの医療器具があれば俺でも手術ができる。だがここまで無事に辿り着ける保証なんてどこにもない。
「ドクター」
「何だ」
「母とエミリーは脱出しているんだろうか」
「隠しても無駄だろうからはっきり言うが、できていない。俺が知っている理由は訊くな」
 クリードは深く息を吐いた。痛みを堪えるものではなく、絶望の溜息だった。
「まったく、誕生日に何てことだ。大怪我はするし、人質になるし、好きな女には逃げられるし」
「誕生日は来年も来る。怪我は治る。運が良ければ救出される。好きな女はまたできる」
「あなたに励まされたくないよ。好きな女の恋人だなんて」
「よく知ってるな」
「ブラック・ジャックを調べたと言っただろう。ほぼ内縁だと聞いたよ」
「そんなの、俺も初耳だ」
 思わず苦笑した。闇の連中は思った以上に俺とBJをセットにしたがっているらしい。それはそれで都合がいいこともあるんだろう。
「あまり喋らない方がいい。体力を温存しておけ。いつデルタが来るか分からないからな」
「来るのかな。調査だと、あそこの隊長はこの家を嫌っているはずだ。大統領の腰巾着じゃないか」
「来るさ。隊長の意思じゃない。デルタの役目だ」
 クリードは軍人じゃない。従軍経験もない。だから軍人の気持ちなど分からないのだろう。グラディスに限らない。軍人とはそういうものなんだ。
 左目の記憶の中で俺は知っている。任務だと認識すれば、彼らは私情を捨てるのだ。俺はそんな奴らを何人も見て、何人も診て、そして何人も安らかな眠りに導いた。
 とはいえ無線で聴いた限り、グラディスはしっかり大統領の腰巾着としての成果を手に入れられそうではあるのだが。あいつはやっぱり頭がおかしい。医療が関わった時のBJには及ばないが。
 その時、浅い胸ポケットが一瞬震えた。俺は監視役が視線を外した隙を突いて震えた物を取り出した。
 ルルの部屋に玲太が仕掛け、俺が回収した盗聴器が、受信機と繋がった振動だった。指で数度叩き、てのひらに握り込んだ。
「クリードの様子は?」
 リーダーが近付いて来る。広い大広間の中では移動も大変だろうが、部屋の隅にある電話で政府側の交渉人と話を繰り返しているらしく、同じ場所には留まれないようだ。
「良くはない。手術と輸血が必要だ」
「すぐに死ぬのか」
「このままなら覚悟が必要になる」
「そうか。医者がいて良かったよ。無駄に人を殺すのも後始末が面倒だしな。──クリード、おまえが武器と薬の横流しをやめさせたお陰で迷惑しているよ。おまえが献金している政治屋が関連企業に圧力をかけて、横流しを再開すればすぐに助けてやる」
 やっとこの状況の原因を知ったクリードが、弱った姿を忘れさせるような声で言った。いいや、吠えた。
「有り得ない。そんなことは許さない。私の代で終わりにするべきことだ!」
 この男はミスター・ライト、正義を貫こうとする善なる男だ。だがもはや完全な善ではいられない。ブラック・ジャックさえいなければ善のままでいられた男になった。
 正義の叫びを聞いたリーダーは覆面越しに笑った。それから短機関銃をクリードに向ける。
「あまり人を殺したくないが、気が変わりそうだ」
「好きにすればいい。むしろ私が死んでも何も意味はない。喜んで軍が突入するだけだ」
「おまえはまだ殺さない。ドクター、持たせろよ」
 それからリーダーは部下に向かって言った。
「連れて来い」
 嫌な予感がした。クリードも同様だったのか、起き上がろうとして激痛に呻く。俺はクリードに横になるよう強く言ったが、どうしても嫌な予感が拭えなかった。誰も見ていないと信じて耳の無線機の発信スイッチに触れ、入っていることを確認した。
 数分後、クリードは暴れるように起き上がろうとし、俺は何とかそれを留めながら、神よ、と呟きそうになる。だが神なんぞいないのだと思い出し、育った環境の中で培われた口癖すら忌々しいと思った。
「可愛いネックレスだろう。ちょっと男の子っぽいけど、いいんじゃないかな」
 リーダーはやはり覆面越しに笑う。首に太いチョーカーにも見える物をつけられた寝間着姿のエミリーが引きずられるように現れた。後ろには失神しそうな母親が何とか自力で歩いて付いて来ていた。
「どうだ、クリード。妹によく似合うと思わないか?」
「母と妹に手を出すな。私以外は解放すると言ったじゃないか。──それは何だ。外せ!」
「あまり興奮するな。傷に触る。──ドクター、分かるかな?」
「予想はついた」
「クリードに説明してやってくれ」
 俺は息を吐き、クリードに「エミリーが分からなくておまえが分かる外国語は」と問うた。クリードは怒りと憎悪に震えながら、ドイツ語かフランス語、と答えた。だから俺はドイツ語で教えてやった。
「小型の時限爆弾だ。大爆発するほどじゃないが、人一人や周辺は吹っ飛ぶ」
 言い終えると同時にクリードの身体と口を抑えた。怒りと憎悪の絶叫と身体の動きを同時に封じられた男は歯軋りをし、やがて力を抜き、俺のてのひらの下で「殺してやる」とミスター・ライトらしからぬ言葉を呻いた。
「タイマーはもう入っている。あと57分だ。──俺は電話をしてくるよ。おしゃべりをしたくてたまらないんだ」
 クリードの様子が楽しくて仕方がないと言わんばかりに笑い、リーダーはこの場を離れた。エミリーは覚束ない足取りでクリードに近付く。まだ歩けるようになったばかりなのに何てことを──そしてどこまで非人道的なことをするのかと、俺は怒りを覚えた。
 耳の中の無線機から低い声が聞こえた。
『爆弾のタイプは分かる? 57分あれば爆弾処理班が間に合うかもしれない』
「エミリー、お兄さんの隣に座ってあげてくれないか。怪我をしてしまったんだ、励ましてあげて」
 エミリーは頷き、おとなしくクリードの隣に座った。母親は精神的な衝撃で倒れそうだったが、母と言う役目を思い出したのか、エミリーを支えながらクリードの頬を撫で、微笑んで「大丈夫よ」と言った。
 エミリーの首に仕掛けられた爆弾について説明したかったが、インカムもなく、無線機そのものを口元に出せない今、かなり難しい。そして時間を考える。──『どちらが速いか』。
 結論は出なかった。後日の衝突の責任は俺が請け負うと決め、手の中の盗聴器と無線機を、それぞれの手でさり気なく叩くと言う難易度の高い真似をするはめになった。
 かと言って、俺は爆発物の専門家ではない。軍で得た知識と、闇で生きる間に得た経験則から情報を導き出すしかなかった。
 無線の向こうで爆弾処理班を手配したグラディスが、BJに向かって厳しい声で宣言した。
『会った瞬間に彼氏に抱き付いたら、写真撮ってタブロイドに載せてやるからね』
 闇稼業の人間としてそれだけは勘弁だ。どうやら再会のキスはお預けになりそうだった。
 そしてデルタフォースの隊長は俺に向かって言った。
『突入する』
 映画のように突入の号令などかからない。無線の向こうから複数の気配が動く音が聴こえ、当分俺たちは待つしかできないと知った。
 クリードを見る。意識を失いかけている。出血量がやはり多すぎた。
「クリード、寝るな。起きろ」
「……眠ったら死んでしまうぞ、って?」
「風邪でも死ぬって言っただろう。こんな場所で寝たら風邪をひく」
「にいさん、ドクターが寝ちゃダメって。起きてて。お怪我が痛い?」
「クリード、頑張って起きていて頂戴。お願いよ」
 エミリーが無邪気に、母親が必死で言う。俺はこんな状況がとにかく嫌いだ。好きな医者なんかいない。いたとしたらそいつは医師免許を持った精神異常者だ。
「クリード、意地を見せろ。──もうすぐ俺の女が来る。おまえから逃げた女だよ」
 ドイツ語で囁くと、クリードは震える瞼を押し上げて俺を見た。
 俺を睨んだ。
 小気味良くなって俺はにやりと笑ってやった。クリードは明らかに憤慨して、声無く罵りの言葉を唇から零す。医者としては心強くなる患者の反応で、一人の男としてはざまあみろと言ってやりたくなる反応だった。俺がこの時どっちの立場だったかは明言したくない。
 エミリーの爆弾に目をやる。タイマーの数字が見えた。あと45分。侵入者どもの残虐過ぎる行為への怒りを顔に出さないよう、努めてエミリーに微笑んでみせた。エミリーは爆弾だと知らないのだろう。不安な様子もなく、俺に微笑み返してくれた。
 耳の中の無線機から、低く小さく声が届く。
『正面玄関制圧』
 銃声は聞こえず、大広間の中にいる男たちの様子も変わらない。静かに『片付けた』のだろう。俺は手の中の盗聴器を叩いた。
「ドクター」
 クリードの声には力がない。だが目に光があった。間に合え。どうかBJが間に合うようにと俺は願う。嫌いな男だ。許せない男だ。それでも今この瞬間、俺は医者で、この男は患者だった。
「私は諦めない」
「それはいいことだ」
「彼女を諦めないと言うことだ」
「なるほど」
 さて、望みなんぞないぞと言ってやるべきか。それとも患者を励ますために耳障りのいいことを言ってやるべきか。
 決めかねていた時、不意に廊下から銃声が聞こえた。それから悲鳴、襲撃者たちの怒号が響き渡る。声は襲撃者たちのものだけだった。だからこそ分かった。デルタフォースが着実に仕事をしているということが。
「襲撃か!?」
 大広間にいた男たちが一瞬で殺気立ち、ほとんどが迎撃に向かうために大広間を出て行く。だが数人は残っている。リーダーと監視役も残っていた。リーダーが電話の向こうに何かを怒鳴っている姿が滑稽に見えた。
「クリードの隣に伏せて。大丈夫、何も怖くない。心の中で好きな歌を歌っても構わないくらいだ」
 大広間の中の誰よりも速く状況を理解した俺は、母親とエミリーに言った。
「ドクター、わたしね、歌ならあれが好き」
「何だろう。──さあ、横になって。お母様に抱いてもらうといい」
 母親は俺の言う通り、エミリーを強く抱いてクリードの隣に横たわった。片方の手を延ばし、クリードの手を握ったのは母親だからなのだろうか。俺にはもう遠すぎる記憶で思い出せなかった。
「ザ・ローズ。知ってる?」
「ああ、ベッド・ミドラーかな」
「そうよ」
「俺もあの歌は好きだな。後で聴かせて。ちょっとうるさくなるから耳を塞ごう。目も瞑るんだ。みんなそうする」
「分かったわ。今日は色んなことがあるのね。かあさんたちに避難訓練って聞いたけど、アトラクションみたい。顔を隠してるのは悪い人の役なんだって、あの人たちが言ってたわ」
「そうだね。これからもっと凄いことが起きる。楽しみにしてて」
 エミリーは状況が理解できていない。不幸中の幸いとしか言いようがない。首の爆弾のことは知らないままでいて欲しいと願わずにはいられなかった。
 銃声と混乱、血と煙にまみれた喧騒が急激に近付いて来る。横たわったエミリーと母親、横たわらない俺を交互に見た監視役の男が混乱した目で短機関銃を俺たちに向ける。俺は動いた。クリードの背の下に隠しておいた銃を抜き、構えて男に突き付ける。男が完全に状況を理解できず動きを止めた瞬間、俺は撃った。
 俺は医者だ。だが生命が時として平等ではなくなると知っている。俺は俺の患者を守るために撃った。それだけだ。急所には当たらなかった。肩より少し内側に鉛の弾が潜り込んだ。
 幸いと言うべきか、それとも俺が急所を外したことを隠してくれる絶妙のタイミングと言うべきか。俺が撃ったのとほぼ同時の瞬間だった。大広間に駆け込んだ隊員が信じられない速度で監視役を背中から正確に撃ち、動きを瞬時止めさせた後、2発撃ち込んで生命の糸を断ち切った。
「待たせたな」
 目から下だけを覆ったフェイスマスクを降ろした隊員はベネットだった。
「隊長の機嫌が滅茶苦茶悪い。扱いに手を焼くのは覚悟しておいてくれよ」
「全部聞こえてた。妹の無礼は後で詫びる。──銃をありがとう。助かった、と思う」
「ずっと私の背中が痛かった。デルタには責任を取ってもらいたい」
 思ったよりもしっかりとした声でクリードが不満を言った。組み立て式の銃をかろうじて俺に渡してから脱出したベネットは肩を竦め、「助けに来たんだからチャラだ」と言った。
 それから俺は見た。
 ああ、と思った。それくらいしか言葉が出なかった。
 指示を飛ばしながらも短機関銃を撃ってテロリストどもを殺して行く赤毛の男なんぞ見たくもなかった。
 だがその後ろから、黒尽くめの服と紅いリボンタイの女が現れたその瞬間、その光景、今の感情は、きっと一生忘れられないと知った。
「再会のキスをしたら写真をタブロイドに載せられるんですって。残念だけど後でお願い」
「いくらでも」
 あの姿で、あの医療鞄を持って、俺の女と同じ顔をした名医はクリードの横に膝をついた。
「先生!」
 目を開けたエミリーが叫ぶ。それでクリードも目を開けて、それから信じられないようなものを見た顔になった。
「エミリー、夜の薬は飲んだ? ドクターがいたから大丈夫かしら」
「ちゃんと飲んだわ」
「そう。クリードの怪我を励ましていてくれたのね。よくやったわ」
 エミリーは得意げに笑い、母親はエミリーを抱き締める。BJは医療鞄を開け、取り出した麻酔と器具を当然のように俺に渡す。俺に異論はない。
「大腿動脈損傷。中等度出血。止血は圧迫の後に見た通り」
「一回外す。抑えて。麻酔はその後」
「クリード、意地の見せ時だ。おまえから逃げた女の前で醜態を晒すなよ」
 ドイツ語で言い、クリードの意識を怒りではっきりさせてやりながら抑え付ける。俺は何て患者想いの医者なんだろう。
 止血をしていたテーブルクロスを外した瞬間、どっと血が溢れ出る。母親がエミリーの顔を胸に抱き、神様、と泣き声で呟いた。
 そこからは速かった。BJの記憶は戻っていない。だが指先は確実に、身体の持ち主よりも先に記憶を取り戻していた。処置の前の麻酔はなかった。そんな暇がなかったからだ。クリードは傷と処置による激痛に襲われていたはずが、歯を食い縛り、呻き声ひとつ上げなかった。俺が抑え付けていなかったとしても、生理的な反射以外では意地でも動かなかっただろう。
「鉗子止血完了、麻酔を。方法と量は任せる。麻酔はあなたの方がきっと詳しい気がするの」
「If you say so」
「……それ、きっとあまり人前で聞きたくない言葉だと思う」
 輸血の一式を手にしながら、BJは僅かに赤くなった。
「クリード、よく我慢してくれたわ。普通なら先に麻酔をかけるんだけど時間がなかったの。これから縫合するけど、今度はきちんと麻酔を打つから大丈夫よ。すぐ効くわ」
「よく気絶しないもんだ。見てる方が痛い」
 麻酔を用意しながらぼやく俺に、クリードは激痛の中、男のプライドを全て力に換えて俺ににやりと笑ってみせた。
「あなたの女が来たらしいが、私の恋しい人が戻って来てくれたとも言える」
「前者に過ぎないね。痛みで譫妄でも始まったのか? 処置を急がないと」
「やめてよ、他に話題はないの? こんな時に嫌になるわ」
「やあ、エミリー。気分はどう?」
 ヘッドガードとフェイスマスクを外したグラディスが声をかけて来た。麻酔を打ち終えて広間内を見ると、リーダーを含めた数人が武装を解除され、床に制圧されていた。数人しか見えないと言うことは、その他の連中の住む世界が変わったと言うことだろう。素早過ぎる結果に感嘆するしかなかった。
「こんな避難訓練、初めてよ」
「避難訓練──そうだね。ちょっと凄すぎるよね」
「何だか怖いことばっかりで、どうしたらいいのか分からなくって」
「そうだよね、でも怖いことは終わったよ。もう大丈夫」
「あの人たちは悪い役なんでしょう? にいさんを本当に怪我させちゃったのは事故?」
「そうだね、彼らはやり過ぎた。お兄さんは災難だよ。──寝る前にそのネックレスを取っちゃおう。それをつけたままだと怖い夢を見ちゃうからね。ちょっと見せてくれる?」
 BJもエミリーの首の爆弾のことを知っているのだろう。唇を噛み、それから無理に笑ってエミリーに声をかけた。
「その人の言う通りよ。ここでは一番正しいことを言うわ。今だけね」
 最後の言葉に俺は心から同意したくなったが、クリードの麻酔の効きを確認する方を優先した。所定の方法で確認を終え、BJに「完了」と告げる。BJは頷き、大腿動脈に取り掛かった。
 BJの指は相変わらず神が宿っている。信じ難い集中力と判断能力、そして多くの医療者の想像と現実を遥かに超える技術は何度も目にしているが、見るたびに言葉を失う。こんな医者が表社会に出られなかったこと、これは大袈裟でなく世界にとって損失だったかもしれない。
 だが彼女本人が選んだ人生こそが彼女の生きる世界だ。惜しんでも仕方ない。そして表社会でこの女が生きていれば、俺は間違いなく触れることもできなかった。ならばこの世界で共に生きることを幸せと思う。
 グラディスがドイツ語で無線に話しかける。聞きながら俺は目の前の患者から意識を背けそうになってしまった。
「爆弾処理班の到着まで30分? もうちょっと面白いこと言えよ。死ね。制圧した連中は解除方法を知らないって言ってる。本当かどうか分からないけど口を割らせて処理するには時間がない」
 俺はエミリーの爆弾のタイマーを見る。
 地獄へ落ちろ。まだ生きて、床に這いつくばっているリーダーに言ってやりたかった。
 地獄へ落ちろ。無様な死に向かって生きろ。
 おまえは殺すにも値しない。
「キリコ、確認を──」
 天才外科医が言いかけ、俺の視線に気付いた。そしてエミリーのタイマーに目をやってから目を見開き、俺を見た。今にも泣きそうな目になったBJを抱き締めてやりたかった。
 俺たちの目に信じたくない数字が見えていた。
 あと20分。
 BJは深く息を吸い、長く吐いてから、再び己がするべきと決めたことに向かい合った。俺もそうした。
 それ以外にできることが、俺たちには何もなかった。