色んな人が歌ってきたように 03

 エミリーが誤診だったことはすぐに判明し、それからの対処は早かった。オールドマネーに釘を刺された病院は、来年の寄付金のためにも全力で小さな子の治療に当たった。幸いにもエミリーは病気の患部以外は健康寄りの子で、翌々日には手術が終わり、今後の様子見は年単位で必要になるけれど、命の心配はないと言われた。
 わたしの扱いは今まで以上に下にも置かぬものとなって、わたし自身が戸惑うほどだった。今までも充分にもてなされていたのに、想像の上を行く扱いになった。移動させられた部屋はメインルームとベッドルームが分かれ、広いバルコニーが着いている。バスルームもレストルームも全くグレードが違って、こんなところで生活したら一般の生活に戻れなくなるんじゃないかって心配したくらいだった。わたしが一般の生活をしていたら、の話だけど。
 クリードやアビゲイルはもちろん、わたしを轢いた車に乗っていた母という人も、わたしに感謝することしきりで、お願いだからもう気にしないで、とわたしが要請するほどだった。特に母と言う人は、すぐに適切な処置をできなかったことをずっと悔やんでいたらしい。
「もっと早くお目にかかりたいと思っていたのに、勇気を出せなかったわたしを許して頂戴」
「今こうやってお会いしています。何も問題はありませんわ」
 白々しいわたしの返答にも感動し、涙を流し、それから何度もまた礼を言う。歳を取ってから産まれ、可愛がり抜いている末娘のエミリーの誤診を見抜いたことも、彼女の感動を増す理由になっているようだった。
 そしてわたしはしばらく、日本大使館に行くことを諦めた。エミリーが早々に退院し、家で療養すると聞いたからだ。
 主治医はもちろんいるけれど、エミリーが落ち着くまでは滞在して欲しいとクリードに正式に要請された。
「エミリーもずっと、きみに会いたいって言ってるんだ。きみが助けてくれたことを分かっているんだよ」
「役に立てたのは光栄だけど、あまり期待はしないで頂戴。それが条件よ」
「──いいのかい?」
 クリードの顔が輝いた。わたしは苦笑する。わたしに惹かれていると言った愚かな男は、きっと今、様々な理由で喜んでいるんだろう。
「それから、アメリアが突っかかって来たら全力でやり返すわよ。それだけは覚えておいてもらわないといけないわ」
 怪我をさせないように気を付けはするけど、最悪の場合は分からない。わたしだって身を守る権利があるし、アメリアは過ちを正す義務がある。人種差別は根強い問題だけど、これからの時代は過ちとされていくはずだ。それが心底納得できない人がいるとしても、表向きでもしていかなきゃいけない時代になるんだから、若いあの子は今のうちに覚えておいた方がいい。
 その晩、わたしが正式な依頼で滞在すると聞いたアメリアは、案の定わたしに嫌味を言いに来た。わたしはどこ吹く風、そよ風の方が気になるくらい。
「聞いてるの? 図々しいわね、どうやってにいさんに取り入ったのよ!」
「馬鹿言わないで。お兄さんがわたしを好んだだけよ」
 わざと曖昧に、でもハイスクールの少女には少し刺激的な単語を使う。アメリアはあっという間に怒り心頭で、またわたしに飛びかかって来ようとしたが、わたしにやり込められた時のことを思い出したのか、「ビッチ!」と叫んで部屋から出て行った。超上流階級の娘にしては度が過ぎる悪口だったけど、そこまで考えてやる必要はない。
 朝夕の二食はクリードとアビゲイルと取るということがいつの間にか決まっていた。アビゲイルは夕食時にボランティアで出掛けて不在の時もあったけど、家で資産管理の仕事をしていると言うクリードは必ずわたしと食べる。最初は面倒だと感じたものの、数回もすれば慣れた。超上流階級のテーブルマナーは映画でも見られないようなものだったけど、それを知っていて、そして嫌味がない程度に気を付けて実践するわたしを見て、クリードとアビゲイルは密かに感心していたようだった。
「名前がないと不便じゃない? わたし、何度かあなたに呼びかけようと思ったんだけど、どうしたらいいか分からなくて」
 何度目かの朝食の時、アビゲイルが不意に言った。そういえば何度かアビゲイルが言葉に詰まってから、わたしに「ねえ」と声をかけることがあったような気がする。あれはそういうことだったのかも。
「仮でいいから、何かあると助かるわ。もしあなたの希望があれば教えて欲しいの」
「希望って言われても」
 わたしはそういうネーミングが苦手だったようで、ちょっと困る。花子とかそういうのが分かりやすいのかしら。日本人っぽいし。
「私もそう思っていたんだ。少し考えさせてもらった」
 クリードが、おそらく多くの人を魅了するような笑顔で言った。ここ数日で気付いたけど、彼はとても魅力的な人間だった。第一印象が最悪だったから余計にそう思うのかもしれないけど。
「きみに特に希望がなければ、でいいんだけど。──ルルってどう?」
「──素敵だわ!」
 猫じゃあるまいし、って言いそうになったわたしより早くアビゲイルが感動の声を挙げた。やっぱりこの数日で分かったけど、彼女は情が深くて感激屋だ。上流階級の女性にはよくある性質だ、って、きっと記憶を失う前のわたしが評してた。
「ドイツ語で真珠とか、そういう意味よね。いいじゃない、日本は真珠が有名だし、彼女自身が素晴らしく美しいもの!」
 美しくないわ、って言うのはもうやめた。ここ数日、どうせ押し問答になって、最後にはわたしが本気で嫌がって、アビゲイルが半泣きで謝るパターンばっかりだったから。これに関してだけはアメリアの悪口の方が気が楽だった。
「古い言葉だから、今はあまり使われないけどね。真珠、──平和、優れた、そんな意味だよ」
 姉の反応に満足したクリードは笑みを深くし、今度はわたしに「どう?」と問う。
「きみのことだから、何かしら文句を言われるのは覚悟してるよ」
「──猫みたい」
 すると姉弟は同時に笑った。こいつら、たまに苛立つ反応をしてくれる。人間に猫の名前をつけるなって言いたいわけよ、こっちは。
「いいじゃないか。きみは猫みたいだし」
「わたしが?」
「気紛れで我儘で、でもとても可愛らしい」
「──冗談でしょ」
 反論する気もなくなって、結局そのままルルがわたしの名前になった。でも頭のどこかで、ドイツ系じゃそう珍しい名前じゃないよ、ただし婆さん世代だけど。って違うわたしが言っていた。わたしは案外、色んなことを知ってるみたい。
 名前のことはともかく、彼らはずっと親切だ。わたしがあまり要求しないということもあるかもしれないし、それからエミリーのことを何かと訊くからかもしれない。エミリーはまだ退院してないけど、一両日中にはこの家に戻って来る。だからわたしは少し気になったことを訊いた。
「エミリーを一人にしていたの?」
「どういうことだい?」
「あの時、エミリーは苦しいのを誰かに訴えたくて部屋を出たって言ってたわ」
 クリードは頷いてみせたが、わたしが言いたかったことをすぐに理解してくれた。
「普段は必ず部屋に二人、使用人がいるんだ。ミアやケイラみたいな人たちがね」
「ええ」
「あの時はたまたま、本当にたまたまいなかったらしい。一人はティーポットのお湯を受け取るために廊下へ、もう一人は腹具合が悪くて部屋を出ていた」
「今後はないということ?」
「あってはならないことだね」
「あなたが言うなら安心ね」
 言ってから、わたしは随分この男を評価していたのだと気付いた。エミリーがチアノーゼを起こした時の手回しや、権力、財力を躊躇わずに使う傲慢さ、それでも下品ではない点に感心したのかもしれない。クリードが嬉しそうに笑った。アビゲイルが「あらあら」と訳知りな声を出したので、何となくまずいなって気になった。
 それから急に、夢の中の銀髪の男を思い出した。それから、銀髪の女性も。あの二人は誰だったんだろう。わたしが頭の中で作り上げた幻影でしかないとは分かっていても、ひどく懐かしいと思った。


 その日の午後、わたしはアビゲイルに連れ出された。もう動けるようになっていたし、頭痛も滅多に起きない。疲れるでしょうけど、とアビゲイルは言った。
「そろそろ、外に出てみましょうよ。そんなに遠い場所じゃないし、長くはいないわ。ちょっとだけわたしに付き合って頂戴」
 わたし自身、少し運動量を増やすべきタイミングだと考えていたので申し出は有り難い。でも目立つような場所は嫌よ、と口から自然に出ていて、アビゲイルは少し悲しそうな顔をした後、それでも笑ってくれた。
 いつの間にかだいぶ服が増えていた──アビゲイルが外商に言い付けてどんどん買ってくれているらしい──クロゼットの中から、ミアとケイラがわたしの意見も聞かずに服を選び出してくれる。こんなワンピース、着方も分からない。脚を出して外に行くのは嫌と言ったら、予想してたみたいに、ミアがにっこり笑ってカラータイツを示してくれた。髪はよく分からないけど、古い映画の女優がしていたようなアップスタイルにされた。メイクだけは絶対に断った。
 驚くほど広い、ホワイトハウスみたいな正面玄関の車寄せを初めて見た。執事が待っていた車に乗せてくれて、先に乗っていたアビゲイルが「いいじゃない」と褒めてくれた。
「メイクは? ちょっとするだけで、あなた、凄く変わるわよ」
「どこへ行くの?」
 メイクについては何も議論する余地がないと知らせるために、敢えて話を変えた。賢いアビゲイルはすぐに察してくれて、説明を始める。
「我が家がずっとやっているボランティア。孤児院の院長に小切手を渡しに行くの」
「善行ね」
「わたしたちの階級の義務よ」
 それからアビゲイルは悪戯げな笑みを浮かべてわたしを見た。
「クリードには内緒よ。あの子、あなたを家から出したくないくらいに好きになっちゃってるから」
「冗談はやめて」
「冗談じゃないわ」
「冗談であるべきよ」
 それでアビゲイルは黙った。わたしは少し、姉を通じてクリードに釘を刺すことにした。
「彼がわたしを、その──そういうふうに見ているのは知ってる。でも受け入れられないわ。わたしがあなたたちの家にいるのは、ある程度記憶のことに目途がつくまで、記憶障害になった原因として責任を取ってもらうことと、何よりエミリーが理由よ。それ以外はないわ」
 それに、とわたしは付け加えた。
「クリードの階級で、あの家の当主なら、わたしをそういうふうに見ることそのものが間違ってる。彼はあなたたちと同じ階級の、誰もが美しいって言える女性を──白い肌のね。そんな女性と愛し合うべきだと思う」
 アビゲイルは急に、居心地が悪そうな横顔を見せた。いつも朗らかで誰にでも優しい彼女は、それ以外の自分を知らなかったのかもしれない。きっと今、色んな現実を叩き付けられて驚いているのかもしれなかった。
「ルル」
 わたしのことだと気付くまで少し時間がかかって、返事をする機会を逃した。アビゲイルがそれで涙目になってしまって、わたしは慌てて「わたしのことよね」と言わざるを得なかった。
「そうよ。──わたし、知らないことがたくさんある。あなたより、クリードより年上なのに、きっとあなたたちより知らないことがありすぎるし──ごめんなさいね、ルルならきっと怒らないから、言わせて頂戴」
「構わないわ」
「わたし、そんなふうに──本当は考えていたんだわ。でもそれって、何だか差別みたいで。だから目を逸らしてたのよ」
「わたしには分からない」
「あなたに、知らない間に酷いことを言っていたのかもしれない。ごめんなさい」
「──酷いと思ったことはないわ」
「本当に?」
「本当よ」
 嘘じゃなかったから、わたしは少し笑ってみせた。
「酷いなんて思わない。それよりずっと、あなたがわたしの肌の色や見た目を気にしないように頑張っていてくれることが、凄く嬉しかった」
 自分で言って分かった。違うわたしが言った。そうさ、そうとも。彼女は愛すべき人だ。差別を差別とも気付けないような階級のはずなのに、わたしを受け入れようと無意識で努力していたんだ。素晴らしいと思わない?
 ええ、とても。とても素晴らしい女性だわ。
「だから、クリードが血迷うようなら、アビゲイルから言ってあげて。生まれや育ち、今の地位に相応しい人を探すべきなんだって」
「──でもあの子は本当に、あなたが──」
「クリードは幸せよ。あなたみたいに、真剣に考えてくれるお姉さんがいるんだもの」
 わたしはそれで、クリードの心を受け入れることはないとアビゲイルに伝えた。クリードは確かに魅力的な男性かもしれない。でもわたしは恋や愛の対象として彼を見ることはできない、見ることはないだろうって、なぜか分かっていた。
「ルル」
「ええ」
「それでもわたし、あなたが好きなのよ。これは本当なのよ」
「ありがとう。わたしもきっと、アビゲイルが好きよ」
 まあ好きだね、と違うわたしが言った。だからわたしは本当にアビゲイルが好きだと分かった。
 それからしばらく、アビゲイルを落ち着かせるために話をした。わたしは誰かを落ち着かせる技術を持っているのだと分かった。やがてアビゲイルは落ち着いてくれて、いつもの彼女に戻った。
 車が到着した孤児院は、決してみすぼらしい場所ではなかった。上流階級の慈善事業に守られて、衣食住が保証され、子供たちは決して引け目を感じない生活ができるのだとアビゲイルは言った。わたしは相槌を打つだけで、違うわたしが知っている、孤児院や施設にありがちな哀しい面を忘れようとした。
 孤児院の庭で、子供たちが元気よく遊んでいる。その中に数人の軍人がいた。迷彩服だから一目で分かる。ボランティアの陸軍兵たちだ。この国はたくさんの問題があるけれど、それよりもたくさんの人たちが助け合おうとする面もある。わたしはそれを知っているような気がした。
「アビゲイル、待っていたわ。こちらは──あら、──どうも」
 応接室に現れた院長はアビゲイルに満面の笑みを見せた後、わたしに対しては露骨に表情を消した。どうってことはなかった。慣れてる、って思った。わたしはこういうことに慣れていたんだろう。それに今日はアビゲイルに付き合って来ただけだし、精々お供と思われれば上等だ。
「ルルよ。しばらくエミリーの健康管理をしてもらうの」
「あら、そうなの? 看護師さんかしら。素晴らしいわね」
「お医者様よ」
「中国の? 日本かしら?」
「──小切手を渡しに来ただけなの。今日はあまり長くお話を聞けないけど、何かあったら連絡を頂戴。できる範囲でお役に立つわ」
 アビゲイルは素早く、院長のわたしへの差別意識を見抜いた。見抜いたと言うよりは、きっと彼女の性格かもしれない。差別に限らず、誰かが誰かを正当な理由なく貶めることを嫌うんだと思う。
「いえ、待って、びっくりしちゃって。その──女性でお医者さんなんて──」
 しどろもどろって言葉がここまで相応しいことも滅多にない。それから、お金って凄い、って思った。お金って凄い、大好き。違うわたしが言っていた。そうか、大好きか。うん、分かる。やっぱりわたしはわたしらしい。
「それに今日は陸軍のボランティアの方も来ていて、朝から忙しくって。疲れて失礼な態度を取ってしまったかもしれないわ」
「外にいた人たちかしら」
「ええ、そう」
「疲れてるなら尚更、長居は申し訳ないわ。来月またお邪魔するわね。忙しかったら代理に誰かを寄越すかもしれない」
「アビゲイル、だから──」
 面倒な会話を聞くのも馬鹿馬鹿しくて、わたしは庭に目をやる。男性たちが陸軍の兵士だったのは意外だった。纏わりつく子供たちがとても楽しそうで、見ているだけで幸せになれる。わたしは結構子供が好きらしい。
「外に出てる。院長先生と話があるなら用件だけでもお聞きしたら? 終わったら声をかけて」
 アビゲイルの返事を待たないで、わたしは庭へ出ることにした。服装が服装だから一緒に遊ぶのは難しいかもしれないけど、ままごとをしている女児たちに声をかけることくらいは──やめておこうかな。顔の傷で怖がられそう。男児なら結構面白がってくれるんだけど、女児は早いうちから遠慮を覚えるからちょっと難しい。ああ、予想がつくってことは、わたしはこういうことを経験していたんだろうな。
 中庭の隅で子供たちと軍人たちを眺めていたら。不意にスカートの裾を引っ張られた。驚いて見降ろすと、3歳くらいの女児がわたしを見上げている。ぽかんと口を開け、わたしの顔を凝視していた。ああ、珍しいのか。肌の色も髪の色も、それから傷も。
「いちゃいの?」
「なあに?」
「おかお、いちゃい?」
「平気。全然痛くない」
 地面に裾を着けないように何とか気を付けながら、女児と同じ目線までかがむ。
「名前は?」
「りりー」
「そう。わたしはルル」
 リリーは私を遊び相手に任命してくれたようで、行きたい場所にわたしを引っ張って行く。気紛れな幼児に翻弄されながら、わたしは嫌じゃなかった。少し年かさの子が遊ぶ遊具に乗りたがったので乗せてやると、リリーは大声ではしゃいだ。可愛い。幼児独特の舌足らずな話し方も、何もかも。
「ちぇんちぇいがねぇ」
「──え」
 先生、と言いたかったんだと思う。でも急に、わたしの中で何かが動いた。何だろう──凄く、何かが騒ぐ。小さな子が脳裏をよぎる。小さな子。女の子。あれは──何? 培養ポッド? 何? 中に何か──
「ちぇんちぇいがねぇ、りりーはまだちっちゃいから、これで遊ぶはらめよって」
 脳裏をよぎった女の子が笑った。わたしに手を振った。健気に笑いながら。

 ちぇんちぇい、行ってらっちゃいなのよさ!

「──失礼、具合でも?」
 弾けるように女の子の姿は消えた。わたしに声をかけたのは一人のヒスパニック系の軍人だった。リリーは新しい遊び相手が来たと思ったのか、きゃっきゃと可愛い声を上げて彼に纏わりつく。彼は器用にリリーを抱き上げて、それでもわたしを心配する。
「ベネット軍曹、陸軍の兵士です。今日はボランティアでここに」
 彼は律儀に名乗ってくれた。わたしは頷き、「ルル」とだけ答えておく。
「日本人?」
「多分ね」
「多分?」
「あまり人に言うことじゃないから」
「それは失礼。気分が悪いように見えたんです。下心はないですよ、ボランティア中にそんなこと、神様が許さない」
「信じてるわ。ありがとう、疲れただけだと思うの」
「そうですか。必要なら送りますよ。むしろそうした方がいいかもしれない」
「一緒に来てる人がいるから──」
「オールドマネー?」
 彼の声が突然低くなった。目の光が鋭くなったのも、きっと気のせいじゃない。どうしよう。でも怖いと思わない。むしろ背筋が伸びたような気がする。舐められるなよ。違うわたしが言った。
「その子に聞かせていい話なの?」
 自分の口から無意識に飛び出した言葉に驚いた。わたしが軍人に向かってこんなことを言うの? どうして?
 でもベネットはわたしよりもわたしの言葉を理解していて、頷いてからリリーに言った。
「──リリー、オブライエンは分かる? 彼に肩車をしてもらっておいでよ」
「はあい!」
 男の腕から降ろされたリリーは、きっと既に顔を覚えていたんだろう、一人の兵士の方へ走って行く。
「単刀直入に言うと、俺はグラディス隊長──少佐の部下だ」
「……分からないわ。どなた?」
「俺が分からない? 少佐が分からない?」
「どちらもよ」
「OK、俺とあなたは直接の面識がないから、俺を知らないのは当たり前だ。でも少佐を知らないのはおかしいって言い切れるぜ」
 わたしは答えなかった。黙っていれば勝手に喋る。なぜかそれが分かった。わたしはこういう会話に慣れていることも分かった。──わたし、どんな人間だったの?
「どうしてドクターに行先を言っていないんだ?」
「ドクター?」
「ドクター・キリコ」
「え?」
「──分からないのか?」
 ベネットは驚愕の顔をした後、何かに気付いたように「まさか」と言いかけた。でもすぐに口を閉じて、気のいいボランティアの軍人に戻った。
「ルル、お待たせ。もう、院長先生ったら長話で」
 オールドマネーの優しい女性がやって来る。軍人と話しているわたしを見て少し不思議そうな顔をしたけど、すぐに彼に向かって手を差し出した。ベネットが軽くそれを握る。
「アビゲイルよ。彼女の連れなの。彼女が何か?」
「ベネット軍曹です。いや、少し具合が悪そうだったので心配になってしまって。良ければ彼女を送ります」
「具合が悪いですって? まあ、ルル、疲れたのね。もう帰りましょう。もうひとつ用事があったけど、それはキャンセルするわ!」
「ああ、いえ、あなたに御用がまだあるなら、私が軍用車できちんとお送りしますよ」
「いいえ、本当に結構よ。お世話になったわね、ありがとう」
「アビゲイル」
 わたしの手を引こうとしたアビゲイルに、わたしは言った。
「この人、わたしを知っているかもしれない」
「──かもしれないじゃなくて、知ってるんだ。あなたは──」
「とにかく帰るのよ」
 アビゲイルが上流階級ならではの上品さと傲慢さで宣言した。小さなバッグの中から素早く小切手帳を取り出して書き付ける。そしてそれをベネットに押し付けた。ベネットはプライドを傷付けられたような顔をした後、小切手を見て──わたしからは見えなかったけど、きっと彼にとっては大きな額だったんだろう──それを胸ポケットにしまった。
「ルル、行きましょう」
「アビゲイル、待って。この人、わたしを知ってるの。お願い、もう少し話をさせて。──わたしは誰なの? 名前は? 日本人なの? 少佐って誰? ──ドクター・キリコって誰!?」
「ルル、やめて。後で話しましょう。あなた、軍曹、彼女を興奮させないで。小切手は持ったわね? もう行って頂戴」
 わたしが取り乱した姿を見たのか、他の軍人がこちらに近付いて来る。ベネットは「分かった」と小声で言い、それから大袈裟に「すみません」と気のいい軍人が反省してみせた声でアビゲイルに言った。
「出過ぎた真似をしました。失礼します」
 馬鹿をしやがって。わたしの中のわたしが言った。そうね。認める。馬鹿をしたわ。失敗した。取り乱すべきじゃなかった。目の前に現れた手がかりを、一瞬で、自分のせいで失った。


 車に乗る前から酷い頭痛が起きた。持って来ていた鎮痛剤を飲み、とにかく早く効果が出るように祈って、シートに深くもたれて目を閉じる。アビゲイルが心配して声をかけたい、でもかけたら邪魔になるという風情でおろおろしていたので、わたしは手を握っていて欲しいと頼んだ。これでアビゲイルは自分にできることがあるのだと安心する。
 頭痛が酷くて、ベネットから聞いたことを反芻することも難しかった。頭痛が治まってからにした方がよさそう。
 車寄せには先に別の車が停まっていた。アメリアが学校から帰って来たところだった。こめかみの血管がずくんずくんと動いているのが分かるくらいの頭痛の今、彼女を相手にするのは流石に避けたい。そうは思っても勝手に喧嘩を吹っ掛けてくるんだろう。
「ねえさん、お帰りなさい。猿の散歩に行ってたの?」
「アメリア、お願いだからそんな口を利かないで。またクリードに叱ってもらわなきゃいけないわ」
 アビゲイルが叱っても無駄らしい。わたしは何とか車から降りた。頭が痛い。少しふらついた。アメリアの減らず口が飛んで来るって時に、何て面倒な。
「何よ、具合が悪いの? またそうやってにいさんに取り入ろうったって無駄なんだから」
「アメリア! もう部屋に行きなさい!」
「分かったわよ! パッチワークの練習でもしようかしら!」
 その言い草にわたしはつい笑ってしまって、また叱り付けようとしたアビゲイルの気勢を殺いだようだった。
 部屋に戻ってすぐに横になった。ベッドルームまで行く気力すらなくて、メインルームのソファに引っ繰り返ってしまう。鎮痛剤はまだ効かない。精神的な頭痛なのかもしれない。それでも車の揺れに耐えなくていい分、ベネットの話をゆっくり思い出すことができた。
 気になる言葉を拾い上げて行く。少佐。ドクター・キリコ。行先を言っていない。
 ミアとケイラが小さな声で何か話していた。じきにケイラがベッドの横に来て、わたしがまだ起きていることを確認してから話しかけて来る。
「アメリア様がいらっしゃいました」
「ご勝手に。起き上がらないって先に言っておいて」
「かしこまりました」
 パッチワークの練習をしてるはずのアメリアが入って来る。ハイスクールの女の子がしたがる派手な格好だ。クリードたちが彼女に手を焼いていることは見た目からもよく分かった。
「何よ、頭痛? 猿でもそんなことがあるのね」
「あるみたいね」
「学校に交換留学生が来たのよ。日本人の男で、結構米語が話せてさ。でもあんたと訛りが似てるから、やっぱりあんたは日本人よ。日本の猿」
「そう」
「──怒んないの?」
「好きなだけ言っていいわ。クリードには告げ口しないでおいてあげるから」
「馬鹿みたい。そのまま死んじゃえば? 面倒が消えて万々歳よ」
 わたしは目を閉じて息を吐き、そうかもね、と言った。途端にアメリアが怯んだ気配を感じる。
「死にそうなの? ちょっと、ねえ」
「大丈夫。疲れただけ」
「寝れば?」
「寝てたのよ」
 わたしの返答で自分が単なる邪魔者扱いされていることを察したのか、アメリアは何も言わず、そのまま部屋を飛び出して行ってしまった。捨て台詞のひとつくらいあると思ったのに、妙におとなしい帰り方だ。今は助かる。本当に頭が痛い。
 ドクター・キリコと言う言葉が何度も頭の中で繰り返された。ドクター。男性か、女性か。医者か、研究者か、それとも別の。軍人が言うのなら軍医だろうか。
 それから少佐。でもこっちは範囲が広すぎる。アメリカの陸海空軍に少佐がどれだけいることやら。考えようがない。だから結局、ドクター・キリコについて考える。
 考えても結果は出なくて、出るはずがなくて、わたしは頭痛を抱いたまま眠りに落ちた。


 左目が潰れた銀髪の彼はテラスの庇を修繕している。傍らにはワインボトルがあって、凄くだらしない。でも凄く格好いい。ここはスペインだって、なぜか分かった。スペインのガリシアだ。とても田舎で、でもとてもいいところ。
 彼はわたしに気付いて微笑んで手を止めた。凄く素敵で、わたしは笑い返せた。
「ねえ」
 彼を呼ぶ。何となく分かった気がした。彼のことが。
 彼はきっと、とても優しい。
「うん?」
「何をしてるの?」
 彼の笑みが深くなる。
「にいさん」
 わたしが彼の答えを得る前に、部屋の中から銀髪の女性──あの女性だ──が出て来た。びっくりするくらいに美しい人で、女優さんかと思った。にいさん? 兄妹だったの?
 にいさんと呼ばれた彼は、すっと部屋の中へ入って行ってしまう。待って、って言えなかった。声が出なかった。
 彼と妹が入って行った部屋の中が見えた。
 小さな、とても可愛い女の子が、わたしを見て笑った。
 三人の姿がそのまま消えた。最初から誰も存在しなかったかのように、誰もいなくなった。
 わたしは急に寂しくなって、泣いた。いつまでも泣き続けた。泣いたら誰かが抱き締めてくれるんじゃないかって期待しながら泣いた。
 でも、誰も抱き締めてくれなかった。


「ルル、起きるんだ。──ルル」
 起きたらいつもと違う光景が見えた。クリードのアップだ。状況が理解できなかったけど、クリードがとても心配している顔だということだけは分かった。
「きみがひどくうなされてるって、ミアとケイラが知らせてくれた。ドクターを呼んだからね。大丈夫かい?」
「大丈夫じゃないわ、全然よ」
 わたしは情けないくらい泣き声だった。クリードはうん、うん、と頷いてみせてくれる。とりあえず同意してやるという行為に意味があると知っている男なんだ。だからわたしはまた泣き声を漏らした。
「分からないの」
「うん」
「何も分からない。どうして置いて行っちゃうの」
「置いて行かれた?」
「そうよ。ひどい。わたしだけ置いて、みんな」
「それは哀しかったね。夢でも寂しかっただろう」
「寂しかったわよ!」
「うん、──うん」
 我ながらヒステリックな声を上げてしまったのに、クリードは辛抱強くわたしの話を聞いてくれる。いつの間にか手を握られていた。振り払う気になれなかった。それくらい夢の中で寂しかった。あの三人に置いて行かれたことが凄く、すごく寂しかった。
「夢だよ。もう起きた、夢は終わりだ。私がいる。もう寂しくないよ」
 クリードがわたしを宥めている間に医者が来た。それでわたしは何とか落ち着き、医者が打とうとした薬剤名を聞いて断った。そんなに強い薬を打たれたら長く眠り込んでしまうし、起きた時に動けない。そう言ったら医者は鼻白んだが、次に、「あなたは間違いなく医者でしょう」と言った。
「エミリーのことと言い、薬の知識といい、看護師や薬剤師とは違う。医者の視点と知識ですよ」
 念のために、と医者は鎮静剤と注射器を置いて部屋を出て行った。普通の患者には決してしないことだけど、わたしが適切な使い方をすると思ったみたい。
「騒がせてごめんなさい」
「謝ることは何もないよ」
 クリードは優しかった。決して暇な男ではないだろうに、わたしのために部屋まで飛んで来てくれたなんて。
「私は休憩できる時間なんだ。しばらく一緒にいよう」
「わたしのために休憩を使わないで。休む時には休むべきよ」
「じゃあ、休憩のためにもきみとお喋りがしたい。きみの頭痛が治まっていれば」
 頭痛は消えていた。だからわたしは素直にそれを言った。クリードと二人の時間を過ごしていいとは思えなかったけど、まだ残る夢の寂しさに負けてしまった。
「誰に置いて行かれてしまったんだ?」
 クリードはわたしの隣に座り、手を握ったまま優しく問う。分からないの、と答えるしかなかった。
「分からない。でも知っている人たちなの、絶対に」
「──思い出しかけているのかもしれないね。どんな人だったの?」
「分からないけど、前にも夢に見た人と、違う時に何となく思い出した人と──小さな女の子」
「名前や見た目は?」
「名前は分からない」
 それがひどく寂しくて、鼻の奥がつんとした。慌てて目元を拭って、溢れかけた涙を隠す。
「二人は銀髪なの。兄妹だったわ」
「銀髪の兄妹か。二人並んだら目立つだろうね」
「女の子はたぶん、日本人だった」
「何歳くらい?」
「3歳か、4歳か──とっても可愛いのよ」
 言った途端、急にまたわたしは寂しくなって泣いてしまった。クリードに慰められる理由をこれ以上作りたくなかったのに、何てミスだろう。でも我慢できなかった。
 クリードはわたしの手を握ったままだった。いつの間にか肩を抱かれていた。突き飛ばしてでも距離を取るべきなのに、愚かなわたしはできなかった。違うわたしがわたしを冷めた目で見ている。でも、それでも、今のわたしの寂しさが分かる? 独りぼっちなんだって、夢で思い知ってしまったなんて。自分が何者なのかも分からない。こんなパッチワークみたいな顔と身体で独りぼっち。どうすればいいのか分からない。
「パッチワークの猿の色仕掛けなんて見たくないわよ、離れなさいよ」
 剣呑すぎる声は誰のものかと考えるまでもない。勝手に入り込んだアメリアだ。クリードが大きく息を吐いてわたしの肩を離し、立ち上がってアメリアを叱った。
「いいか、二度とそんなことを口にするんじゃない。恥ずべきことなんだってどうして分からないんだ?」
「弱ったところに付け込んで肩を抱くことだって充分恥ずべきことじゃない? 学校にもそんな奴がいるけど、女の子を食い散らかして問題になってるわ」
「アメリア!」
「ほら。最近ハマってるんだけど、これ好きじゃない香りだったからあんたにあげるわ」
 アメリアがわたしに小さな遮光瓶をふたつ投げつける。精油だ、とすぐに分かった。それからなぜか分からないけれど──ううん、もう分かる。きっと過去のわたしも精油に触れる機会があったんだ。すごく、懐かしくなった。急に胸があたたかくなって、あんなに寂しかったのに、もう寂しくなくなった。
「ネロリが2、オレンジが3の割合で焚くのよ。頭痛に効くんだって。オリエンタルの猿がわたしたちと同じ作りか分かんないけどね」
「アメリア、いい加減に──」
「ありがとう」
 わたしが素直に礼を言ったことに驚いたのか、アメリアは面食らった後に「はいはい」と言ってそっぽを向き、クリードはアメリアを叱るべきか褒めるべきかの感情の間にいるような顔で「ふむ」と唸る。わたしは純粋に嬉しかった。
 好きじゃない香りだった、なんて。どっちも若い女の子が好きな香りなのに。
 急に銀髪の男を思い出した。寂しくなりそうだから忘れたかったけど、彼が精油の遮光瓶を持っている姿がなぜか見えて、格好いいな、って思って、少し笑った。
「何を笑ってんのよ」
「──嬉しいのよ。ありがとう」
 嘘じゃなかったし、そう言った。アメリアはふんと鼻を鳴らし、急ぎ足で部屋を出て行ってしまった。
 銀髪の彼と、それから彼の妹と、あのとても可愛いのことは、もう少し、たまに思い出してもいいような気がして来た。思い出せるならきっと、お別れにはならないだろうから。独りぼっちのわたしの夢の中だけでも、まだお別れしたくなかった。