いつまでもベッドにいるわけにはいかなくて、わたしは何とか現実に戻った。最後まではこの場所にいると自分で決めたのに、今はもうキリコと一緒に帰りたくて仕方ない。本当にわたしは醜い女だ。
ミアとケイラに頼んで、先にメイクを直してもらう。ベッドの中で顔だけではなく身体の傷を隠したメイクも崩れてしまっていた。こんなことを仕出かしたのに二人は何も言わないでいてくれた。よく思い出してみれば彼女たちがわたしとキリコを寝室に押し込んでくれたような気がした。
「彼はもう行ったわよね?」
「ドクター・キリーでしたら、先に。ルル様が最初にお召しだったお洋服と、お持ちだった鞄を気にしていらっしゃいました」
「わたしの?」
「あちらです。ご覧になりますか」
ケイラがメイクの手を止めて、ドアの横に置いてあった一式を持って来てくれた。クリードの部屋から勝手に持って来たと聞いて、その行為がメイドとして間違っていると思ったけど、好意に感謝するしかなかった。
「大広間にお戻りになる時、このお洋服は無理ですけれど、家をお出になられる時にはこちらがよろしいかと思ったんです」
「そうする。クリードはその時返してくれる気だったのかも」
するとミアとケイラは顔を見合わせて笑った。
「あのまま、ドクター・キリーと出て行かれるんじゃないかって思ったものですから。ちょっと急いじゃいました」
「そう言われると──」
とんでもない醜態を晒したことはよく分かる。それからミアが言った。
「ドクター・キリー、あの俳優と似てらっしゃるから。初めてドクターがこの家にいらした時から、きっとルル様の恋人だったんじゃないかってケイラと予想してたんです」
「当たりだったわ。あなたたちに訊いた方が色々と早かったみたいね」
「あの時だったら流石にお答えできませんでしたわ。クリード様のことがありましたもの。お給金がもらえなくなっちゃったかも」
「彼はそんなことしないわよ。でも、気を使わせてしまったわね。ありがとう」
身体のメイクを終えて、またドレスを身に付ける。この優雅なドレスはわたしにとってひどく疲れるものだった。しかも踵の高い靴を当然のように履かなければいけない。クリードの隣に立つだけで、一時間も経たないうちに疲れてしまった。あと二時間、何とか我慢しなきゃ。
その時、急に家の中が騒々しくなった。
「何?」
「──ルル様、出ないで!」
ドアに向かおうとしたわたしをケイラが制するのと、銃声が響いたのは同時だった。銃声──信じられない。この家で? 警備が万全の、オールドマネーが住むこの家で?
ミアがバルコニーに走り、窓を閉める。ケイラはわたしを寝室に押し込もうとした。わたしはそれを拒み、耳を澄ませる。聞こえる。怒号、悲鳴、銃声──銃声はすぐにやんだ。でも悲鳴は続いている。また銃声、今度は聞き慣れないはずの、でもわたしは聞いたことがある種類の銃声だった。
「短機関銃」
「え?」
「軍やマフィアが使う──普通の人は持ってない」
「ルル様、警備が来るまで寝室で。ベッドの下に──」
ドアが丁寧に、でも独特のリズムで叩かれた。ケイラはミアに頷き、わたしに「家の人の合図です」と教えてくれる。わたしは開けてと言った。家の誰かがここまで逃げて来たのかもしれない。
「ルル! まあ、無事だったのね!」
「アビゲイル、アメリア!」
「にいさんが狙われたの。大広間で銃撃が──」
「入って、早く」
「グラディス──少尉?」
「こんばんは、先生」
パニック一歩手前の顔で飛び込んで来た姉妹を部屋に押し込み、ドアを閉めて、赤毛の少尉はわたしの姿を確認する。それから「ブラック・ジャックと合流」と手にした何か──小さな機械だった──に言ってからわたしを見た。
「脱出する。僕はあなたの救出のためにここに来た」
「救出?」
「ギィ、どういうこと」
「アメリア、黙って。──発信、場所はブラック・ジャックのメインルーム」
それから少尉はそれを耳に入れた。不意に違うわたしが言った。便利なもんだな。だからわたしも言った。
「無線?」
少尉はわたしを一瞥し、「そうだよ」と短く答えた。わたしは不思議な感覚に襲われた。前にも見たことがあるような気がした。少尉はわたしの戸惑いを見たのか、立ち上がって言った。
「盗聴器じゃないよ。ご安心を」
「そういう意味じゃ──そうね、多少は安心したわ。でも少尉──」
「ああ、ごめん、僕、少佐なんだ。少尉ってのは嘘。だから言うこと聞いて」
「だからの意味が分からないわ。まともじゃないとは思ってたけど」
礼装用の軍服の肩の階級章が嘘だと言うことは何となく信じられた。この男は若いけど、でもまともじゃない。アメリアから聞いていた通りの経歴なら、この状況でただ一人で、落ち着き払って作業ができるとは思えない。
「僕の正体は後だ。脱出を急ぐ」
「キリコは?」
「──彼は僕の部下が守っている。問題ない」
「一緒に帰るのよ」
「僕の知ったことじゃない。だったら無理にでもさっさと帰るべきだった。ドクターはこの襲撃を知っていたんだ、いくらでもできただろう?」
「──どういうことよ!」
「素直に僕と来るか、脅されて来るかすぐに選んで。僕は前者を勧める。それなら彼女たちも連れて行っていい」
アメリアが悲鳴を上げた。釣られたようにアビゲイルも絶叫する。バルコニーの窓の外に武装した男たちがいた。でもグラディスが「僕の部下だ」と言った。
「救出部隊だ。先生──この女性を救出に来た。今ならきみたちも全員、責任を持って脱出させてやる。先生が行かないで、何が何でもここに残る、自分の男と帰るって言うなら全員見捨てる」
「卑怯な男ね」
「何とでも」
「行けばいいんでしょ、早くしなさいよ!」
「いいね、それ。ちょっと女の子っぽいけど先生って感じ。──全員すぐに出る。質問も文句もなしだ。邪魔になるようならその場で殺す。先生以外は死んでもいいんだから」
王子様だったはずの男に死んでもいいと言われたアメリアはパニックの余り泣き出すことも忘れ、アビゲイルは神様、と繰り返すばかりだ。少佐がバルコニーの鍵を開け、次の瞬間には音もなく武装した男たちが入り込んで来る。アビゲイルたちは震え上がり、抱き合っていた。わたしは彼らを見据えた。グラディスが苦笑した。
「本当に記憶ないの? その肝の据わり方、全然変わってないんだけど」
驚くほどスムーズに、わたしたちは邸内を脱出した。連れて行かれた先は家から少し離れた場所に既に展開されていた対策本部だ。テントとテーブル、椅子が用意されているだけでも、軍服姿の男たちが動き回り、空気が緊張していることが分かる。
ドレスやメイド服のわたしたちは場違いも場違いだった。邸内から辛うじて逃げ出せた人たちは病院に連れて行かれたらしい。死者はまだいないと聞いて安心した。
対策本部に入るなり、グラディスはインカムをつけて誰かとドイツ語で話し始める。周囲の彼の部下たちもドイツ語だった。途中でグラディスはわたしをちらりと見て、「この人はドイツ語が話せる、でも気にしなくていい」と言って、部下たちは了承の返事をしていた。わたしは何となく悔しくて、ドイツ語で──話せるなんて思ってもみなかった──言った。
「何を気にするなって言うのよ」
「米語だと他の連中やそこのお嬢さんたちにこの後の作戦が分かっちゃうから。先生ならどうでもいいや」
「わたしがみんなに通訳したら?」
「先生はそんなことしないよね。ドクターの救出作戦なんだから」
わたしは息を呑んだ。何を言っているの、とアビゲイルがわたしに縋ったが、わたしは何も答えられなかった。
「説明しなさいよ。そうじゃなきゃ通訳してやるわ」
「クソビッチが。いいよ、米語で説明してやる。──正面玄関と裏口から武装勢力が襲撃して来た。人数は20人程度。武器は短機関銃を確認してる」
「それで?」
わたしは自分を落ち着かせようと必死になりながら、それでも動揺した顔を見せてはいけないとなぜか分かって、努めて冷静に言った。聞いたアビゲイルたちは息を呑み、また、神様と呟いていた。神様なんてどこにいるのか知らないけど、それで落ち着くならいくらでも呼べばいい。
「正体が分からない」
「本当に?」
いやにはっきり言ったグラディスの声に違和感を得て、わたしは問う。グラディスは少し笑い、わたしの違和感を肯定した。でも言を翻そうとはしなかった。
「正体なんて知ったこっちゃない。今の僕たちの任務はドクター・キリコの救出だ」
「──キリコは脱出していないのね? あなたの部下が守ってるって言ったくせに、嘘つき」
「残念、脱出したなんて言ってない。それに脱出しようとしたんだ。正確には僕の部下が脱出させようとした。でもできなかった。ドクターが拒んだんだ」
「意味が分からないわ」
「クリードが被弾して応急処置が必要だった。残って今、一緒に大広間で人質になってるよ」
わたしは黙り、少し考えた。状況を整理したい。整理するまでもなく異常事態だけど、キリコの行動を考えて、それから溜息をついた。
「そうね、彼ならそうしちゃうんだろうな」
「流石恋人。分かった口を利く」
「──怪我の程度は?」
わたしはまたドイツ語に切り替えた。アビゲイルたちにまだ教えない方がいいと直感したから。もし教えてもいい程度の怪我なら先に家族に説明していてもおかしくないんだから。グラディスもドイツ語に切り替えてくれた。
「左大腿動脈損傷」
「キリコがいて良かったわね」
「小児科部長と主治医もかなり働いた。やっぱり医者って凄いよ」
その声には本物の敬意が込められていて、ろくに知りもしないのに、わたしはこの男らしくないと思ってしまった。
「待って、説明して頂戴」
アビゲイルが喘ぐように要請した。何とか自分を落ち着かせようと必死になったことは明白だった。彼女は強い人間だ。
「今起きたことは何が目的で、誰が起こしたものなの? クリードが怪我?」
「不明。クリードは生きてる」
「どれだけの怪我を?」
「──未確認。中に医者がいて応急処置をした情報が入ってる」
一瞬、グラディスがアビゲイルとアメリアに気を使ったのかと思った。でも違うわたしが言った。そうじゃないさ。──そうね、そうじゃない。わたしもなぜか分かった。重傷だと教えて救出を強く懇願されるのが嫌だったんだ。
「あなたはアメリアのパートナーでしょう?」
「そうなるように仕向けた。僕とドクター・キリコで」
「何よ、それ」
聞いていたアメリアが泣き声を挙げた。グラディスはアメリアを一瞥もしない。アビゲイルに続けて言った。
「彼はドクター・キリーじゃない。ドクター・キリコ、あなたたちが轢き殺し損ねて家に隠した天才医師の恋人だ。そこの彼女のね。彼女を取り返すためだけにFBIとCIA、僕たちの小隊が動員された。大統領もご存知だ。他に質問は?」
「──何から質問すればいいの。わたしとアメリアを利用したってこと? ルルのためだけに?」
「ルルなんて知らないね。ブラック・ジャック先生だ。間違えない方がいい」
「どう考えればいいのか分からない。あなたにわたしの気持ちが分かる? ほとんど毎日真夜中まで電話して、あんなに優しかったのに──いつだってわたしを優先してくれて」
「そこで男の話とはねえ」
不意に隊員たちが動き、アメリアを抑えた。強く拘束する抑え方ではなくて、要はグラディスに殴りかかろうとした瞬間を止められただけだった。アメリアは可愛いメイクが台無しになるくらい涙にまみれていて、とてもじゃないけどわたしは正視することができなかったし、その資格もないと思った。
「騙したのね! 酷い! ──酷い! あんなに優しかったくせに! フォート・デトリックで助けてくれた時から嘘だったの!?」
「差別用語を口にするような女はお断りだよ。もう用事はない、もうすぐ世話役の役人が来るからゆっくり休むんだね」
「頑張ったのに! わたし、頑張ったのよ! 悪いことを言わないように頑張ったのに! 酷いじゃない!」
「じゃあ、次に好きになる男は分かってくれるよ。もう黙ってくれ、お姉さんと話がある」
冷たい言い草だったのに、前半部分は妙に親切めいていた。この男の本心なのかもしれない。そうだったらいい、と思えた。でも次にアビゲイルに投げた言葉で、この男は救いようのない冷酷な奴だ、と考え直した。
「あなたとドクター・キリコ──あなたにとってはキリーか。二人の電話は初日以外盗聴してる。ドクターの許可済みでね。随分まずい話も──あなたの家にとってまずくて、こっちにとってはいい話を聞けた」
アビゲイルが悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。わたしは思わず近寄ろうとしたが、アメリアに突き飛ばされた。グラディスがよろけたわたしを支えてくれて、それでアメリアは更に怒りを覚えたようだった。
「やっぱり猿なんか家に入れるべきじゃなかったんだわ! 消えなさいよ! オリエンタルの猿なんか絶対許さない!」
「アメリア、静かにしてくれ。僕の部下にもアジアンがいる。僕が怒る前に口を閉じるんだ」
アメリアは泣き出し、アビゲイルもアメリアを抱き締めて泣いた。わたしはもうどうしたらいいのか分からなかった。こんなはずじゃなかった、こんな──キリコはアビゲイルに誠実に話をするって言っていた。わたしだって責められるこをと覚悟で話そうと思っていた。どうしてこんなことに。わたしが知らなかった場所で、何て恐ろしいことが起きていたんだろう。
「先生、気にしなくていいから」
わたしの表情で察したのか、グラディスが言った。
「同盟国の外国人に対する救護義務違反、誘拐、監禁になるんだ。分かる? 先生がどう思っても、こんなことを許していたらこの国の正義はどうなる。だから僕たちは必ず解決する必要があった。どんな手を使っても」
「それで二人の女性を踏み躙るの?」
「あなたの権利を踏み躙られていたのにお優しいね」
「──もう何を言えばいいのか分からないわ。あなたがアビゲイルとしたい話って何なの? こんな状態の彼女と何が話せるって言うのよ?」
グラディスは煙草に火を点けた。それからちらりと床の上のアビゲイルを見降ろし、鼻で笑った。驚くほど冷たい笑い方だった。いつの間にか周囲にいる彼の部下たちの表情が、何となく辟易したものになっていることに気付いた。
「隊長、あんまりいじめんなよ。雰囲気悪すぎるって」
「うるさいんだよ、ベネット。大体、きみがドクターを無理矢理連れて来れば万事解決だったんだ。大変なミスだ、明日から一週間ボランティアして来い」
スーツ姿だったから気付かなかった。ベネットだ。彼がキリコを守っていた人なんだろうか。だったら連れて来てくれれば良かったのに。わたしはそう思った。でもすぐに、クリードが負傷したのならそれはきっと無理だったって思い直した。
グラディスが不意に無線のインカムに向かって「何」と言った。どこからか連絡が入ったんだろう。
「ああ、いや、いいよ、聞こえない。──違う、聞かないんじゃない、聞こえないんだ。分からないよ。侵入した武装者たちがどんな人間かなんて分からない。じゃあまた、ドクター・キリコについて何か分かればすぐに知らせて。オーバー」
無線を切った途端、グラディスの部下たちが笑い出した。男たちの笑い声に包まれて、わたしは急に怖くなった。見抜いたのかグラディスが「黙れ」と言った。たちまち彼らは黙る。それからグラディスは溜息をついてわたしに言った。
「今のはわざとじゃないけど、怖がらせたのは悪かった。ごめん。──記憶が戻ればきっと大丈夫だし、戻らなくてもドクターが必ず何とかしてくれる。あなたにも、他の女性にも何もしない。これは信じてくれていい」
「ルル、大丈夫?」
わたしに裏切られたはずのアビゲイルが気付き、涙まみれの顔で立ち上がってわたしを抱き締めた。アメリアまで同じことをした。なんて酷い。わたしがどれほど醜いか思い知らされる。この人たちはどうしてこんなことができるんだろう。
「ごめんなさいね、ルル」
「どうして謝るのよ」
「あなたを誘拐したからこうなったのよ。ごめんなさい。わたしには当然の報いだわ。──辛かったでしょう。わたし、あなたの前で無神経なことをしていたわね。ドクター・キリー──キリコって言うのね。彼のことを──」
「やめて、そんなこと言わないで。──言わないでよ。わたしをどこまで惨めにしてくれるの」
泣きそうになったけど何とか堪えた。アビゲイルやアメリアの前でわたしが泣く資格なんかないと思った。確かに発端はわたしを隠匿したことだけど、だからってここまで、彼女たちが女性として傷付けられる理由なんてあったんだろうか。
「本当はこんなことにならなくて良かったはずなのよ。少尉──少佐ね。彼はわたしたちに猶予をくれたのに、わたしたちは拒んだの」
「どういうこと」
「少佐はFBIを通して、わたしたちにあなたを返すように要求させたのよ。デルタフォースの隊長からの強い要請で、ってFBIの人は言っていたわ。この彼よね?」
グラディスは頷き、わたしは映画の中でしか知らなかったはずの特殊部隊の存在に、なぜか違和感を持たなかった。知っている。そう思った。わたし、この赤毛の少佐を知っていた。孤児院でベネットが言ったことは正しかったんだ。
「その時にあなたを返していれば、こんなことにならなかった。ドクターも少佐も、きっともっとスマートにわたしとアメリアとさよならしてくれたはずよ」
だからわたしたちの自業自得なの、とアビゲイルは言った。アメリアが声を上げて泣き出した。
「知らなかったわよ。にいさんとねえさんが決めたの? かあさんが乗った車が轢いちゃったから、うちで面倒見るからって、わたし、それしか聞いてなかった。ルルって何なの? どうしてこんなことしたのよ!」
「先生」
グラディスが新しい煙草を咥えて言った。
「どこまで覚えてる?」
「──わたしがたぶん医者ってことと、キリコのこと、キリコの妹とわたしの大切な子と──あなたを知ってるってこと、喫煙者ってこと」
赤毛の男は無言でわたしに煙草とライターを投げる。わたしは一本咥えて火を点け、投げ返した。
「ユリちゃんとピノコちゃんは思い出したの?」
「正確には覚えてないけど、きっとわたしとキリコの家族よ」
グラディスはしばらくわたしを見た後、頷いた。
「ここに呼ぶ」
「どうやって? どこにいるの?」
「ドクターの家で待ってる。ユリちゃんの実兄が人質になってるのも確かだし、どちらにせよ呼んだ方がいい」
グラディスはベネットに指示を出した。すぐに呼ぶこと、上の許可はいらない、文句があったら死ねって言っておくから、と随分物騒なことを言っている。でもこれがこの男だ、って何となく分かった。
「あなた、口が悪いわよね。それも思い出したわ」
「先生に言われたくないんだけどねえ。その話し方、どうにも嘘っぽくていけないや」
「ルルはこれでいいのよ! あんたに何が分かるの!」
わたしにしがみつき、アメリアが泣きながら叫んだ。わたしは慌てて煙草を遠ざける。ミアとケイラがすっと動いて、グラディスの前のデスクに置いてあった灰皿で受け止めてくれた。
アメリアは泣きじゃくっている。彼女はこの状況に理解が追い付いていない。そしておそらく、わたしを兄姉が計画的に隠匿していたことを本当に知らなかったんだ。あまりにも可哀想で、わたしは彼女を抱き締めた。その資格はないと分かっていても、そうしなくてはわたしまで泣いてしまいそうだった。
「アメリアは知らなかった。アビゲイル、それでいいね?」
「知らなかったわ。わたしとクリード、母で決めた話よ。ルルを利用したかった。大統領への揺さぶりにね」
アビゲイルはわたしを見ないでそう言った。わたしなんかをどうやって利用したかったのか。大統領への揺さぶり? 一体どういうことなんだろう。わたしには到底考え付かなかった。
「OK、信じるよ。それを証言するつもりはある?」
「どこに?」
「FBIとCIA。もしクリードが無事に家から出られたら、あなたとお母様と一緒に──まあ、多分この家の人間全員だけど。保護プログラムが適用される。ただし誠実な証言が必要なんだ」
「保護プログラム? 犯罪者の報復から守るための?」
「そう、よくご存知で。ドクターから聞いてるよね。フランスのマフィアも先生のために動いてるって。ここで僕たちが解決したって知られたら、メンツを潰されたと思って報復に来るだろう。僕たちはどうってことない、よくあることだし慣れてる。でもあなたたちが恨まれないとは言えない」
だから包み隠さず証言を。グラディスはそう要求した。アビゲイルは承諾した。わたしは──これはブラフだ、と分かった。グラディスを見る。わたしは言いかけた。まく──
「先生、何も心配しないで。誠実な証言さえしてくれれば、国家が責任を持って対応できる」
グラディスが優しく言ったのは、三文字を言いそうになったわたしを制するためだ。わたしは三文字を飲み込んだ。まくべ。──間久部。わたしはそう言おうとした。誰かなんて分からない。でも今、間久部はそんなことしないわ、と言おうとしたのは事実だった。
「教えてよ」
アメリアがしゃくりあげ、わたしにしがみついたまま言った。
「ルルはどんな人なの。──どうしてこんなにたくさんの機関がルルのために動いたの?」
グラディスはわたしを見る。わたしもグラディスを見た。だからわたしは言った。
「わたし、知りたい」
「アビゲイルが知ってる」
「あなたの方がきっと、わたしの悪いところまで知ってる」
アメリアがグラディスを見て、知りたい、と言った。
グラディスは息を吐き、頷いた。それからおもむろに言った。
「日本人。無免許の天才外科医で、一回ごとの報酬が数千万単位になることも珍しくない。要はアウトロー。通り名はブラック・ジャック、さっき言ったフランスマフィアのボスのロクロー・マクベとは幼馴染」
「つまらない映画みたいな設定ね」
「馬鹿言うなよ、神様が描いた最高に面白い漫画だ。──ブラック・ジャックは大統領に気に入られている。でも愛人関係なんかじゃない。ホワイトハウスのテロの時、大統領の娘を救った。僕の命も救った」
それからグラディスは付け加えた。
「傷を見る?」
「──見せて」
わたしが言うと、グラディスはあっさり礼装の上着を脱ぎ、放り投げた。部下の一人が素早く受け取ってコートハンガーみたいに背筋を伸ばす。でも彼だけじゃなかった。他の部下たちも一斉に背筋を伸ばした。まるでその傷を持つグラディスを──隊長を名誉だと言わんばかりに。アビゲイルとアメリアが息を呑み、ミアとケイラが「ロックだわ」と呟いて、こんな時じゃなければわたしは笑っていたかもしれない。でも今は笑えない。
傷を曝け出す人を前に、笑える医者なんかどこにいるものか。
わたしはその傷を見て、ああ、と思った。ああ、──覚えてる。
「上腕動脈から重等度の出血があったわ」
「そうだね」
「キリコが圧迫止血した。それがなかったらあと5秒で死んでた。わたしの処置が間に合わないところだった」
「その通りだよ」
「心臓には弾が届かなかった。防刃ベストが役に立ってくれたから」
「うん」
「心臓手前、肋骨で止まったから、弾を入れたまま一度閉じたのよ。緊急事態だったし、ろくな設備もなかったから。その後、陸軍病院に移動してからわたしが処置し直したの」
「全部合ってる。傷の縫い方が他の医者にはできないくらい綺麗ってことも付け加えておいて。それから──あなたじゃなきゃ、僕は死んでいたってことも」
次の瞬間、彼の部下たちがわたしに向かって敬礼した。グラディスはそれに驚いてから苦笑して、やっぱりわたしに敬礼した。わたしは面食らったけど怖くはなかった。だから「やめてよ」と言えた。彼らに敬礼してもらえるような人間じゃない。わたしがアウトローって言うなら、きっと軍人はわたしのような存在が嫌いなはずだ。
「つまり、こんなことが緊急事態にできちまう天才外科医ってこと。アメリア、分かった? これだけのことができる医者は他にいないんだ。どこの国でも、どんな組織でも先生を欲しがる。こんなのまだ簡単な方だ。先生は信じられないくらい、神様みたいな技術でたくさんの人を救ってる。やらずぼったくりのクソビッチって言う通称もあるけど」
「分かったから──ふ、服を着てよ!」
真っ赤になって慌てるアメリアが可愛い。この分じゃグラディスの話を理解できていないかもしれない。でもわたしは納得した。やらずぼったくりのクソビッチと言う響きも妙に懐かしい。きっとキリコ以外の誰かに言われたんだろう。キリコは絶対そんなこと言わない。
わたしは医者だ。自分が手がけた患者の傷を見て、一瞬で細部まで思い出すことができた。
わたしは医者なんだ。
「それは失礼。──着替える。持って来て」
部下が礼装ではない制服と──装備を持って来た。わたしは息を呑む。部下たちは確かにこれを着用しているけど、目の前の赤毛の男がこれを着た瞬間、始まるんだって分かった。
始まるんだ。キリコを助ける作戦が。
「ドクター・キリコの妹さんと、ブラック・ジャック先生の保護下のお嬢さんが到着しました」
ベネットが軍人の声で報告した。彼の後ろに銀髪の女性と、それから小さな女の子がいて──わたしは走り出していた。慣れないドレスの裾を踏んで転びかけたけど、転ぶ前にその小さな子を抱き締めて、みっともなく、彼女を巻き込んで地面に倒れ込んでしまった。
恥ずかしいなんて思う暇もなかった。わたしは泣いていた。地面に転がったまま彼女を抱き締めて、声を上げて、子供みたいにわあわあ泣いた。小さな子もわたしにしがみついて泣き出していた。ごめんね、ごめん、と何度もわたしは言った。言いながら泣いた。ちぇんちぇい、ちぇんちぇい、と舌足らずにその子は何度も呼んでくれた。何て可愛いんだろう。こんなに可愛い子は他にいない。
「先生──よかった。──よかった」
銀髪の女性が涙目で、それでも微笑みながら、地面に転がって泣き続けるわたしたちを抱き起こしてくれた。わたしは彼女にも抱き付きたくて、片腕を延ばした。ほぼ同時に彼女もわたしを抱き締めてくれて、それから泣いた。
「よかったわ。よかった。心配してたのよ。ずっとよ。よかった」
「分からないの。でも──会えて嬉しいの。本当よ」
「分かってるわ。わたしもピノコちゃんもそうよ、嬉しくって。大丈夫、きっと全部うまくいくわ」
号泣するわたしとピノコを抱き締めて、美しい彼女は何度も「よかった」と言ってくれた。よかった、大丈夫。そう繰り返してくれた。言い方がキリコに少し似ていて、彼女がキリコの妹なんだって分かった。
「グラディスくん、ちょっといいかしら」
わたしたちが少し落ち着いた頃、彼女はグラディスを呼んだ。旧知なんだろうか。
「何」
「煙草は消して」
「ああそうか、ピノコちゃんがいた、ごめん」
言われた通りに煙草を消し、何、とグラディスはもう一度言った。次の瞬間、小気味よいほど鮮やかに、頬を打つ音が夜空に響いた。隊員たちが一斉に動こうとし、グラディスが手でそれを制する。それから言った。
「痛い」
「当たり前よ、痛いように叩いたんだから」
「合気道の段持ちが試合以外で一般人を殴るのって問題じゃないの」
「誰が一般人よ。──何してるの? どうしてにいさんが人質になんてなってるのよ。お願いって言ったでしょ!? どうってことないよって言ってたくせに、御立派なデルタフォースのくせに、にいさん一人守ってくれないわけ!? 税金返してよ! 納税者を舐めるんじゃないわ!」
「よく言われるけど僕たちも納税してるんだよ」
「知ったこっちゃないわよ!」
「いや、そこは知っておいてよ!」
女優のように美しい彼女が鬼の形相でグラディスに詰め寄っていた。グラディスは分かった、分かった、これから突入するから、って何度も言ってるけど、彼女に腰が引けているのは明白だ。ここに意外な力関係があるのかもしれなかった。アメリアが面白くなさそうな顔をしていることに気付いたけど、流石に見ない振りをしておいた。
「正直に言っちゃうと、今のとこ、僕らがクリードを救出する義務はないんだ」
グラディスの宣言に、アビゲイルとアメリアは愕然として口を開けた。わたしも同じような顔だったかもしれない。どうして、とアビゲイルが言い出す前に、グラディスは続けた。
「デルタフォースは対テロ部隊だ。フォート・デトリック──生物兵器研究所に関わるドクター・キリコを護衛、救出することは部隊の任務として妥当。でもテロかどうか分からない状況で、それを目的に突入することはできない」
「でもドクターと一緒にいるんでしょ!? 怪我してるのよ、助けてよ!」
アメリアがなりふり構わずグラディスに縋る。グラディスは彼女の身体を優しく放しつつ、妥協できないことを告げた。
「軍人ってのは杓子定規でね。あんまりイレギュラーって対応できないんだよね」
「お金なら欲しいだけあげるわよ!」
「賄賂を持ちかけたことは忘れてやる。二度と言っちゃいけない。──相手がテロリスト集団かどうかが分からない以上、デルタは基本的にクリードの救出を目的に含められない。ドクターを最優先で連れて帰るついでに、僕たちの手が余っていれば救出できる」
さっき敢えて武装集団の情報をシャットアウトしたのはこのためだったんだ、ってわたしは分かった。無線で説明されたはずなのに、聞こえない振りをして拒んだ。でもその理由は何なんだろう。キリコ一人を助けるのが精一杯だから? ──違う。彼らがそんなことを認めるはずがない。
その時、アビゲイルが言った。
「あなたの目的は何なの」
「任務の遂行」
「いいわ、じゃあその任務の中にわたしの弟の救出を含めて頂戴」
「人の話聞いてた? 無理。クリードは対テロ部隊からすると対象外だ」
「駆け引きは御免よ、時間があるとは思えないから。──何が望みなの。言えばいいわ。世間話で結構だから。そうよ、わたしとおしゃべりしましょう」
するとグラディスはあっさり言った。何ももったいぶらず、要求だけを突き付けた。
「あなたの家が支援している派閥と縁を切ってもらう。献金も何もかも引き上げる。半年以内に」
「──次の大統領選までにってことかしら。今の大統領の対立派閥を支援していることが気に入らないの?」
「僕が気に入ろうがどうだろうが、それこそ関係ないね。おしゃべりは楽しいけどね」
わたしに政治は分からない。ただ、グラディスが今の大統領の対立候補に圧力をかけたいということは分かった。そうか、オールドマネーの一家なら、そんなこと造作もない。
アメリアは数秒考えた後、言った。
「分かったわ。神に賭けて誓う」
「楽しいおしゃべりをありがとう。──発信、武装集団の情報を詳細に」
満足したグラディスの声は機嫌が良く、無線の向こうの人物も驚いているようだった。漏れ聞こえる声が少し苦笑していた。
「ああ、やっぱりね。クリードに締め付けられた連中か。要求はもう来てるんでしょ? ああそう、その辺は交渉人に時間を稼いでもらって。──テロリスト集団と認定、デルタフォース、突入を要請する。早急に連絡を」
「独り言だけど」
アビゲイルが呟いた。呟きでもしっかりと周囲に聞こえる声で。
「クリードにもしものことがあったら、全力で大統領の敵に回るわ。精々働いて頂戴、税金泥棒」
「だから僕らも税金払ってるんだってば」
その点にだけ納得がいかなかったのか、グラディスが溜息をつき、部下たちが笑いを堪えていた。
不意にわたしは気付いた。ピノコと言う子を抱いたままだったからかもしれない。でも急に嫌な予感がして、背筋が寒くなった。
「エミリーは?」
そこにいた全員が一斉にわたしを見た。
「エミリーはもう逃げたのよね? そうでしょう?」
アビゲイルとアメリアが息を呑んでグラディスを見る。グラディスは煙草に火を点けようとしてピノコを見てからやめて、それからわたしを見た。
そしてあっさり言った。
「まだ中にいるよ。お母さんも」
「訂正よ!」
アビゲイルが叫んだ。わたしは彼女が叫んだ姿を初めて見た。
「全員救出しなさい! かあさんとクリードとエミリーに何かあったら全力で大統領の敵に回ってやるから!」
「デルタに伝達。返事はいい、先生が怖がるから。──A、B、Cチーム。各チーム一人確実に拾え。Dチームと僕は準備通りドクターをピックアップ。突入許可が降り次第始める。最終確認をしろ」
とうに全員の救出を計画していたのだと赤毛の男は示し、悟ったアビゲイルは真っ赤になり、ユリという女性は「これだからこの子は」となぜか赤毛に向かって子供扱いの台詞を呟き、ピノコはわたしにぎゅっと抱き付いた。
ああ、この子、わたしが考えてることが分かってる。
止める気もない、止められないからって思ってる。
なぜか分かって、だからわたしは言えた。
「わたしも行く。クリードは怪我をしてる。エミリーもどうなってるか分からない。キリコは医療道具を持っていないはずよ。クリードに応急処置しかできてないんでしょう?」
「推奨できない。あなたを守り切ることができないかもしれない」
「自信がないの?」
わたしは思い切り挑発したつもりだった。プライドが高いに違いないこの男が、女に挑発されて乗らないはずがないと思ったからだ。でもそうじゃなかった。わたしは軍人というものを理解できていなかった。
「ない」
「……そこまであっさり言われても」
「僕たちの任務の邪魔になれば、僕たちはその要素を切り捨てなきゃいけない。任務を達成することは重要だ。でも最重要はそれじゃない。隊員たちを全員、無事に家族のもとに帰らせることが僕の役目で、最重要だと決めていることだ」
ユリさんがわたしを抱いた。ピノコはわたしにしがみついた。わたしは何も言えなかった。彼女たちがわたしの家族なのだと、なぜか強く実感した。
「あなたを守る仕事が増えることによって、僕の部下が危険に晒される確率が上がる。受け入れられない。──ここにいるんだ。ドクターは必ず連れて帰って来る。クリードたちもね」
わたしは唇を噛んだ。ピノコがわたしにしがみつく力を強くした。それがわたしの脚を鈍らせようとした。
でも違うわたしが言った。
いいや、行く。あそこには私の患者がいるんだ。
だからわたしはピノコをユリさんに預け、理解したピノコが泣き顔でユリさんに抱き付く姿を目に焼き付ける。
それから言った。
「わたしのことなんて気にしないで、任務を遂行して頂戴」
「──あなたは僕が守る。僕から離れるな。離れたら撃ち殺す。いいね」
今すぐにでも殺すんじゃないかって目でわたしを見ながら、赤毛の少佐は言った。キチガイみたいな目だ、とわたしは思った。
その時、急に対策本部の周囲が騒がしくなった。何があった、とグラディスが無線のスイッチを入れて情報を促す。
「分かった、ありがとう」
無線での通信を終え、彼はまずわたしを見て言った。
「人質が解放されて正面玄関から出て来た。ただしクリード一家とドクター・キリコは確認できない」