たぶん今、わたしはとても高価なベッドに寝かされている。きっと普段の生活で日常的に眠れるような場所じゃない。目を開けてからしばらく経って、目に飛び込んだのがベッドの天蓋だと理解してからそう思えた。だからって、ここがどこなのか分かるわけじゃない。
特に眠気が追いかけて来るわけでもなかったから、起き上がろうとする。途端に全身に痛みが走って、痛い、と零してしまった。部屋の中に誰かがいたのだと分かったのはそのお陰だ。誰かが静かに立ち上がり、お目覚めです、と、たぶんドアを開けて誰かに言っている声が聞こえたから。
もう一度起きてみようとしたけど、やっぱり痛くって、諦めた。すぐに白衣を着た男性と、たぶん看護師かな、って分かる格好の女性が現れて、わたしに話しかける。
「ご気分は?」
それでどう答えろって言うんだろう。よく分からないし、何だか馬鹿馬鹿しくなって、わたしは「別に」とだけ言った。医者は少し黙った後、勝手にわたしの手首を掴む。脈を取られている間も馬鹿馬鹿しくって、早く終わらないかな、と溜息をついてしまった。
それからあれこれ問診のようなものをされて、最後に問われる。
「お名前は?」
どうせこの質問がされることはなぜか分かっていたから、素直に答えた。
「知らない」
言ってから、医者たちはわたしが取り乱すことを期待しているのだと分かった。そんな目だ。彼らの予定通りに取り乱してやろうとは思えなかった。でも確かに、医者たちが期待することの一環として、急に不安になった。名前が分からないなんておかしい。だからって彼らがわたしの名前を知っているとは思えなくて、溜息をついて「鎮痛剤が欲しいわ」と言った。とりあえず身体が痛かった。
医者が鎮痛剤の点滴を刺して部屋を出て行った。身体は痛いものの、首を回すのは痛くないことに気付く。可能な限り首を回して部屋の中を見ると、庶民とは無縁の上品な家具や、明らかに上質な調度品に満ち溢れた部屋だということが分かった。それでも今自分自身が置かれた状況も名前も分からない。
「こんばんは」
鎮痛剤が効き始めた頃、見計らったかのように一人の男性が現れた。若くて美しいと言える男だった。金色の髪や白い肌、青い瞳なんて、物語の中にしかいないような典型的な上流階級だ。ここは彼の家の一室かもしれない。それならこの部屋の金のかかり具合も納得がいく。
「私はクリードだ。名前が分からないという話は聞いたよ。あまり焦る必要もない場所だから、今はゆっくり休んで」
休んでいたところに勝手に入って来たのはこの男なのに。不意にそんなことを思った。もしかしたらわたしは皮肉屋なのかもしれない。それはともかく、クリードと名乗った男の言葉には嘘らしい嘘もなく、まずはゆっくり休んでも良いと言われたことだけには感謝した。
「眠るまで話相手が必要なら、ここにいるよ」
優しい声で、上品な話し方だった。わたしは息を吐いて目を閉じた。
「あなたに任せるわ。何かを考えるのが面倒くさくって」
鎮痛剤の中にはおそらく誘眠剤も入っていることだし、放っておいてもそのうち眠ってしまうのだろうけど、この男がそうしたいのならそうすれば良いと思った。男は話題を選ぶのが上手くて、わたしの眠りへの道を邪魔することなく、さりとて独り切りにすることもなく、結果として誘眠剤のおかげで眠ったのか、それとも男のおかげで眠ったのか、判断がつかないことになった。
翌朝にはベッドから起き上がることができた。まだ多少の痛みは残っていたけど、動けないほどじゃないと言える痛み方だったから、筋肉の衰えを防ぐためにも起き上がってみた。部屋の中には誰もいない。歴史を感じさせる柱時計は6時半を指している。ベッドの横のナイトテーブルに小さなベルが置いてあって、これを鳴らせば誰かが来るのだろうと分かった。
ベルを鳴らす前に、自分でベッドを降りられるか試してみる。痛いことは痛いけど、ゆっくり動けば無理というほどでもない。部屋の中を歩いても同じ様子で、これなら回復まで日数がかからないと思えた。
それでも長く立っているのはまだ辛くて、部屋の中央にあるソファに──映画に出て来るような重厚な、でも日常生活を邪魔しないようなカジュアルさのデザインだった──腰掛ける。びっくりするほどクッションが柔らかくて、思い切り腰が沈んでしまった。立ち上がろうとしたけど身体の痛みが邪魔をして、溜息をついてしばらく時間を過ごす。
ドアがゆっくりと開いたのはその時だった。クリードがわたしを見て驚いた顔をする。
「失礼、眠っているかと思って──動けたのかい? 痛みは?」
「痛いけど、動けないほどじゃないわ」
「痛み止めは? 7時になったら医者が来るから、それまで我慢してくれるかい?」
「気にしないで。必要な時くらいなら分かるから」
言外に、まだ自分が何者かを思い出せないと教えておいた。クリードは頷き、わたしに着席の許可を求める。わたしがどうぞと答えると、向かいのソファに腰を下ろした。
「じゃあ、先に私からきみに伝えられることを伝えておこうと思うんだが、どうだろう」
「理解できる範囲でしか理解できないと思うけど、それで良ければ」
「いい返事だ。──ここは私の家だ」
クリードはフルネームを名乗った。わたしは「ふうん」と流しかけたが、すぐにそのファミリーネームがオールドマネー──つまりこのアメリカ合衆国では最上流の大富豪一家のひとつだと思い出す。同姓の可能性はあるけど、それでも部屋の調度品や、そしてこの男の立ち居振る舞いの上品さが真実だと教えてくれた。
「場所はケンウッド。治安がいいから運転手が油断したのかもしれない」
ワシントンの高級住宅街だということは分かった。ここはアメリカ合衆国ってことか。わたしはアメリカ人なのだろうか。
「きみは昨日の夜、21時過ぎ、私の母が乗る車に接触した」
「わたしが? あなたのお母様の車に?」
「母のボディーガードの話だと、過失は運転手にあった。ただ、母が動転してしまってね。きみを車に乗せて、この家まで運んで来てしまったんだ。本来なら救急車を呼ぶべきだった」
「その代わり、医者を呼んでくれたってわけ?」
「そういうことになる。言い訳じゃないが、救急車に乗せるまでの時間や改めて動かすことの身体へのダメージを考えたら、我が家で横になってもらっていた方が安全だと思ったんだ」
「そう」
わたしはそれだけを答えておいた。どう考えたって救護義務を半分ばかり怠ってる。どうせ警察には連絡してないと思う。救護義務は助けたり保護するだけじゃなくて、警察への連絡も義務の範疇にされてるんだから。
金持ちの事故隠しでしょ。そう言いたかったけど、今この状況で言ったって、わたしに何かメリットがあるとは思えない。クリードが話すままにさせておいた。
「きみの状態なんだけど、頭を打ってはいない。骨も無事だ。この二点は昨日のうちに、私の家のMRIやレントゲンで確認しているから信じて欲しい」
「家にMRIやレントゲン?」
いくら大富豪でもそんな話を聞いたことがない。流石に驚いた私に、クリードは少し悲しそうに眉をひそめて笑ってみせた。
「末の妹が病気でね。中々良くならないもので、検査のたびに病院に行かせるのが可哀想だったから買ってしまったんだ」
「──あなたができる最高の愛情表現のひとつだと思うわ。悪くないわよ」
最後の一言は適当に付け加えたものだったけど、クリードは今度はほっとしたように笑った。
「ただ、身体を強く打っているだろうから、しばらく痛みが続くかもしれないって。──でも私は昨日、きみが一人でベッドから降りられるようになるまでは数日かかるって医者から聞いてたんだ。驚いたよ」
それからクリードはわたしに質問を始めた。わたしはわたしのことが何ひとつ分からないことを知った。クリードの質問に何ひとつ答えられなかった。それでも一般的な知識はあるようだし、何て言えばいいのか、設定が甘い大衆映画を観ているような気分になりそうだった。
「名前も、年齢も、国籍も分からないってことだね。でも医者が言うには、こういう事故ではたまにある症状なんだそうだ。あまり心配しなくても大丈夫だって」
「ふうん」
今のわたしと同じ状態で、その言葉で、ああよかった、心配しなくてもいいのね、なんて明るく言える人がいたら観察してみたい。
でも、クリードが何度も「心配ないよ」と言う声は明らかにわたしを気遣うもので、わたしから気分任せの皮肉を言う必要はないと思った。
「きみの身分を証明できるものが何もなくてね。あの辺りを捜索させている」
「そうなの、それは──……っ」
少し身体に痛みが戻って来た。医者が来たらやっぱり鎮痛剤をもらった方がいいのかもしれない。クリードは目敏い男なのか、どうした、と声をかけてくれた。
「痛いのかい」
「少し痛みが戻って来たの。ベッドに戻るわ」
立ち上がろうとしたけど、さっきと同様に痛みで失敗した。思わず漏れる呻きを我慢できなかった。もっとゆっくり、丁寧に立ち上がらないといけないみたい。
「やましい気持ちはないよ、誤解しないで」
言うなりクリードがわたしを抱き上げた。クリードは決して筋肉隆々といった身体つきではなく、膂力に恵まれているようにも見えなかったのに、わたしを軽々と扱った。そのまま柔らかいベッドの上に連れて行ってくれて、横たわったわたしににこりと微笑む。わたしは少なからず驚いてしまっていたから笑い返せなかった。
「もうすぐ医者が来る。少し多めに錠剤の鎮痛剤をもらっておいた方がいいかもしれないね。そろそろ到着しているだろうから、早めに来てくれるように呼んでくるよ」
クリードは紳士と言う言葉が相応しい声と態度で部屋から出て行く。わたしは溜息をつき、目が覚めた時と同様、ベッドの天蓋を見上げるばかりだった。
あんな男、この世に存在するんだ。映画みたい。
まだ少し痛みを感じたけど、目を閉じた。それから自分について改めて考えてみる。
考えるだけ無駄なのかも、と思ってしまうくらい、何も思い出せることがなかった。
昨夜の医者と看護師がクリードに連れられてやって来た。この時点でわたしはまた眠くなっていて、意識をクリアに戻すのに一苦労だった。身体が回復したくてわたしを眠らせようとしているんだろう。クリードが「診察の間だけ、頑張って起きてくれるかな」とわたしに優しく声をかけた。そこまで優しく言われて無視できるほど、わたしは図々しくなかったようで、何とか目を開けることができた。
医者がクリードから聞いた内容と同じことをわたしに説明し、わたしは適当に返事をする。鎮痛剤が欲しいと言ったら、まずは点滴で薬を打たれた。それから錠剤を鞄から取り出し、飲み方を詳しく説明して、ナイトテーブルに置いてくれた。
「元気になるまで我が家で過ごして。何も不自由させないよ」
クリードはわたしに優しく笑い、わたしは息を吐いてその申し出を受け入れることを伝え、それから眠った。
次に目が覚めた時は柱時計が15時を指していた。随分長く眠ったものだ。ゆっくりと起き上がってみると痛みはそれほど感じず、点滴の鎮痛剤がまだ効いているのだと分かる。点滴の効果時間を逆算して──なぜかわたしは簡単にそれができた──あと半時間もすれば切れると分かり、説明された飲み方と用量を無視して、わたしが必要だと思った数だけ錠剤の鎮痛剤を飲んだ。
部屋の中を少し歩く。骨に異常がないのなら、とにかく少しでも動いていたい。部屋続きになっているドアを見付けたので入ってみた。レストルームだった。こんな場所にもクリードの家の財力と上品さが余すところなく示されていた。まるで観光気分になったから、わたしは庶民の階級なんだろう。
「……苦労したのかしら、あなた」
レストルームの鏡を見て、最初に出た言葉がこれだ。映ってのたのは20代前半のアジアン女性だった。アジアンは若く見えるからたぶんもうちょっと上で、20代後半か、30歳ぎりぎりってところ。きっとクリードより少し若い。鏡とわたしの位置関係からすれば、これがわたし。国はちょっと分からない。チャイニーズ、コリアン、ジャパニーズ、この辺りなのは間違いないかな。
客観的に見て目が大きくて、睫毛がやたら長くて多い。やっぱり客観的に言うと、アジアン嗜好の白人男性にモテそうな顔の造りをしてる。──ううん、この傷さえなければモテそう、に訂正。
ひどく驚くということはなかったから、前からあった傷なんだろう。それから皮膚の色、髪の色。着せられていたナイティから覗く首の傷に気付いて、予想してから脱いでみた。
予想通り、身体中に古い縫い痕が走っている。パッチワークみたい、それともツギハギかな、と思って、自虐めいた笑いが漏れてしまった。慣れている笑い方だったから、昨日までのわたしは傷を見るたびにこんな笑い方をしていたのかもしれない。
レストルームの鏡では全身が見えなくて、たぶん隣にあるバスルームに行くことにした。ナイティを着直すのが面倒で、裸で──なぜか下着を付けていなかったけど、着替えさせられた時に取られてきっとそのままだったんだろう──レストルームを出る。
ドアを開けて一歩出て、そして溜息をついてドアを閉めた。そこにクリードがいて目を丸くされればそうせざるを得ない。ナイティをきちんと着て、改めてドアを開けた。クリードはもういなかった。見られたのはほんの一瞬の時間だったはずだけど、醜い傷跡で驚かせたかもしれない。目に毒じゃなくて目に気の毒、ごめんあそばせって気分。
それにしてもクリードは、わたしの顔を見ても何も表情を変えずに話をしていた。今思えば不思議だ。大抵の人は──具体的な人や顔は思い出せないけど、確かに体験した感覚があった──わたしの顔の傷をあまり見てはいけないと思うらしく、目を逸らしながら話すか、人によっては嫌悪感を滲ませるものなのに。クリードの場合は不幸な下々への憐憫からの心掛けでしかないのかもしれないけど。
クリードのことは放っておくことにした。用事があるならまた来るだろうし、わたしから彼に機嫌伺いをするのもおかしいような気がしたから。病院に運ばなかった時点で、どんなに優しくてもまともな家の人間じゃないと思う。こちらから何かのアクションを起こす必要性を感じない。
バスルームで改めてナイティを脱ぎ、予想以上にツギハギの身体だと知って感心した。これでも生きてるものなんだな、って。その後、少しだけ哀しくなったような気がしたけど、わたし結構おっぱい大きいな、って馬鹿なことを考えて、哀しいと思った数秒を忘れることにした。きっと以前からこうやって自分をコントロール、あるいは誤魔化していたんだと思う。
「……爆傷かな」
呟いたのは無意識だったけど、ばくしょう、という、おそらく一般人の日常生活の中ではあまり使わない言葉が自分の口から出たことをしっかり覚えておこうと思った。わたしがわたしを知る手掛かりになるかもしれない。さっきの鎮痛剤の飲み方も、きっとそうなんだろう。
脱いだついでにシャワーを浴びた。医者の許可は出ていないけど、わたしは大丈夫だと判断したから構わない。一応ぬるめのお湯にした。
一部屋の中にレストルームとバスルームが完備されてるなんて、度を越した金持ちの家は理解できない。ホテルみたいだったし、そう言えばバルコニーも広かったような気がする。後で出てみようかな。外の空気を吸いたい。
濡れ髪のままバスルームを出ると、映画や物語でしか見たことのないようなメイドが二人いた。それぞれミアとケイラだと名乗ってくれた。わたしは名乗る名前が思い付かなくて少し困ったけど、彼女たちは事情をある程度知っているみたいで、特に気にしないようだった。
本当にフリフリのエプロンとヘッドドレスをつけるんだ、ってちょっと感動した。彼女たちはわたしの顔の傷を見ないようにして、使用人のお辞儀をしてくれる。気遣った上での視線逸らしだって分かるから、わたしも特に気にしない。わたし、こういうことにやっぱり慣れてるみたい。
彼女たちが新しい服を用意してくれていた。自分で着替えると言ったけど、そこは押し切られてしまった。フレアタイプのスカートで、ナイティとは違う脚の空気感に違和感があったから、普段わたしはあまりスカートを履かないんじゃないかと思う。ブラウスは違和感がなかった。
彼女たちがわたしを着替えさせ、髪も乾かしてくれた。しかも綺麗に整えてくれた。何だかよく分からないけど、横になっても寝乱れが気にならないまとめ方らしい。自分じゃ絶対できない、あなたたちって美容師さんみたい。そう言ったら彼女たちは初めて少し笑った。
それから数分後、ドアがノックされた。わたしが何も答えなかったらまたノックの音。メイドさん二人を見たらにっこり微笑まれたので、わたしが返事しなきゃいけないのか、って理解した。
「どうぞ」
すぐにドアが開いて、クリードかと思ったら、入って来たのはクリードより少し年上の女性だった。クリードと同じ金髪と白い肌、青い瞳で、お姉さんか親戚なんだろうなって一目で分かる。
「まあ、綺麗になったわね。気分はどう?」
「どなた?」
質問に答えないで言った言葉は妙に高飛車で、わたしは自分で驚いた。これも昨夜までのわたしなんだろうか。それにしても本当に高飛車で、よくこんな上流階級にこんな言葉を吐けるものだと思う。メイドさんたちも驚いたようで、顔を見合わせていた。
でもその女性は気分を害した様子もなくて、「そうね」と言ってくれた。
「先に名乗るのが礼儀よね。ごめんなさい。アビゲイルよ。クリードの姉なの。少しあなたとおしゃべりしたいんだけど、いいかしら」
「駄目って言ったら帰るの?」
わたしが言った途端、アビゲイルは本当に楽しそうに笑った。
「あなた、素敵ね。わたしにそんなこと言う人、誰もいなかったわ。初めてよ。驚いちゃった」
「わたしも驚いてる」
「どうして?」
「こんなこと、あなたみたいな雲の上の人に言うなんて。もっとご機嫌取りをするべきだと思うんだけど、できないみたいなの」
アビゲイルは目を丸くしてから、何てこと、と言った。
「嫌いじゃないわ、何だか素敵。記憶が戻ったあなたともおしゃべりしてみたら楽しそうね。でも今は、今のあなたとおしゃべりしたいわ。改めて訊くけど、いいかしら?」
「構わないわ」
この女性の受け答えが嫌いになれなくて、わたしは許可を出した。メイドさんたちが静かに、でも急いで動いて、二人分の紅茶と焼き菓子を用意する。わたしとアビゲイルはなぜか一緒にティータイムを過ごすことになった。
「母が動転して、適切な行動ができていなかったと思う。本当にごめんなさい」
まさかそんなにストレートに謝られるとは思わなかった。クリードも謝罪の言葉を口にしていなかったし、母は母、自分は自分というスタンスの家かと思っていたから。でもクリードが謝らなかったのは、後々の訴訟の可能性なんかを考えていたからかもしれない。この国の上流階級はそう言ったことにも用心が必要だろうから。アビゲイルはちょっと用心が足りないのかも。
「もういいわ、と言うのは難しいけど、今は適切なお世話をしてもらってるって分かってる。わたしに害がなければ、あなたたちのお家で最も相応しいと思う行動をして頂いて構わないわ」
「ありがとう、助かるわ。母もやっと落ち着いて来て、あなたに謝りたいって言ってるの。いつ頃なら大丈夫かしら」
「まだ完全に落ち着いていらっしゃらないなら、お母様のお具合次第で。わたしは痛み止めさえあれば問題ないみたいだし、本当にいつでもいいの」
「あなた、優しいわね」
「それもまだ分からないわ」
アビゲイルはわたしが記憶障害だと思い出したのか、「早く思い出せるといいわね」と言った。それから不意にくすりと笑い、わたしに向かって少し身を乗り出した。
「クリードが先に謝りたいみたいなの。さっき、とんでもない失礼をしてしまったって、落ち込んでわたしに言いに来たのよ。ここに呼んでもいいかしら?」
わたしはすぐに思い出して苦笑した。金持ちってやっぱり、どこか無礼だ。
「謝罪なら必要ないわ」
「そう言わないで。弟の気を楽にするか、とっちめてあの高慢な鼻っ柱を折ってやるか、どっちかをお願いしたいのよ」
「どちらもできないし、したくないわ。彼は車で跳ね飛ばしたのに病院への連絡を怠った家の人間で、しかもわたしが許可した覚えもないのに部屋に入り込んで裸を見た人間よ。どうしてわたしが彼のためにそんなことしなくちゃいけないの」
アビゲイルはおそらく、人生において自分の頼みを他人に断られた経験がほとんどなかったんだろう。しかもわたしみたいな庶民に。動きを止め、ぽかんとした顔でわたしを見詰める。
怒るかな、と思ったけど、アビゲイルはわたしの想像以上に善良な性質だったのか、「そうね」と呟いて姿勢を正した。
「あなたの言う通りよ。──ごめんなさい、わたし、恥ずかしいわ。わたしもクリードも、何て恥ずかしい真似をしてしまったのかしら」
「彼に悪意を持つつもりはないわ。でも好意を持つにも至らない。アビゲイルの言いたいことも分かるけど、わたしにその要求をすることはおかしいって理解して下さるかしら」
はっきり言って強気な言い分、強気すぎる言い分だと思う。でも昨夜までのわたしがこんな人間だってことが分かってきた。わたしはきっと──相手の発言の落ち度を見付けて、そこを責めて、自分のペースに持ち込み、利益を上げる手段をよく使っていたんだ。だって当たり前のように言葉が出るし、たぶんまだまだいくらでも喋ることができる。
「あなたにお見せするのは嫌だからそれはできないけど、わたし、身体中に縫い傷があるの。こんな醜い身体を何の前触れもなく見られるなんて、耐えられないわ」
そう言ってはみたけど、そこまでじゃないな、って改めて考えてみてそう思った。そこまでじゃないな。必要なら見せちゃう、ってくらい。うん、昨夜までのわたしはたぶんそんな女。
でも分かる。だからって、誰にでも見せるような機会を待ち焦がれる淫乱な女でもなかったって。
アビゲイルが「神様」と呟いて感情を揺り動かした様子を見た途端、よし今だ、泣けわたし、ってわたしがわたしに言った。そんなに簡単に泣けるもんかって思ったけど、簡単に泣けた。これも昨夜までのわたしが、もう面倒だから以下略。
号泣じゃなくって、あくまで感情を抑えようとして失敗したアジアン女性の泣き方。アジアンって言うより、これは日本人の泣き方だろう。わたしは日本人なのか、日本で生活していたのか。
それはともかく、唇を噛んで下を向き、いかにも泣くのを我慢したけど零れちゃった風情の涙を指で軽く拭う。
「ごめんなさい、泣くなんていけないわよね。わたしみたいに醜い女、気にするのもおかしいもの」
「いいえ、──いいえ、駄目よ、そんなこと言わないで、何てこと」
善良なアビゲイルがソファを蹴るように立ち上がり、驚くべきことにわたしの前に膝まづいて手を取った。メイドさんたちの驚き具合が目の端に見えて、わたしも驚いた。
「クリードがあなたにしてしまったことは過ちだし、わたしのお願いだって過ちだったわ。謝らせて頂戴」
少しやり過ぎたかも。でも、まだきっと上流階級の開き直った怒り──逆切れって言うんだったかな──を呼ぶほどじゃない。これ以上はまずいから、わたしは泣くのをやめて頷いた。
「あなたを信じるわ、アビゲイル。わたしのような人間にそこまでして下さるなんて、あなた、何て素敵な人なの」
アビゲイルはようやく立ち上がり、中腰で一度わたしを抱き締めてからソファに戻った。それからまた話を始めようとしたけど、わたしはふとドアの方を見る。人の気配を感じたからだ。控えめなノックが響いて、わたしは仕方なく「どうぞ」と答えた。どうせ筋書き通りなんだろうって思いながら。わたしの反応が予想外だったろうけどね。
「あら、待ち切れなかった情けない男が来たわ」
アビゲイルが笑う。美しい富豪の男は社会的な地位に見合わないほど情けない顔で、裁きを待つ罪人のようだった。許す気にはなれないけど、それでも何だか面白くって、わたしは少し笑った。クリードはなぜか安心したように笑った。
ほだされたわけじゃないし、許したわけでもない。でも冷たくする理由はないし、何よりここの生活は案外快適だった。金に物を言わせるって言えばそうなんだけど、金の使い方を知っている人々の生活は贅沢ではなく、必要に応じて最高級で上質のものを選ぶのだと知る。
とはいえ、わたしはこういった生活を全く知らないわけでもないみたい。クリードたちには言ってないけど、そんな気がする。上流階級のマナーを知っていて、それに従ったり、心の中では少し馬鹿にしてみたり、そんなことを自然にやってる。どんな仕事をしていたんだろう。こんな傷だらけの身体とこの顔で。
「きみを家に運んだ時、煙草のにおいがしたんだ。もしかしたら嗜む人なのかも」
クリードは暇でもないだろうに、わたしが記憶を取り戻せるようにと様々なことをしてくれる。今日は日本の紙煙草を持って来てくれた。見た途端に、ああ、わたし、喫煙者だったな、って思った。煙草の味が思い出せたし、率直に言えば吸いたい。
「吸ってみる?」
「クリードが嫌じゃなければ」
「私は喫煙者だ。嫌なもんか。きみはどうだろうね」
「喫煙者だと思うわ。見ただけで吸いたくってたまらないもの」
クリードは笑い、煙草を用意してくれる。わたしは我ながら慣れた手つきで咥えて、メイドのミアが火を点けようとしてくれたのを遮って、自分で重厚な卓上シガーライターで火を点けた。深く吸ったら目眩がしたけど、これこれ、って気分。
「慣れてるね。間違いない。──意外だな、清楚な日本人女性が煙草を吸うなんて」
「清楚じゃないし、日本人女性かどうかも分からないわね。でもわたしが喫煙者なのは間違いないし、持って来た煙草をここに置いて行ってくれないと暴れちゃうのも間違いないわ」
「やあ、それは恐ろしい。女神の怒りを買わないように貢いで行くとも」
この数日で、クリードとは簡単な軽口程度なら許し合う仲になっていた。はじめはクリードがあまりにもわたしに纏わりつく──要は何かと気に掛ける──ことを妙に思って、もし訴訟なんかを気にしているなら無用な心配よ、オールドマネー相手にそんなことできないわ、なんて言ってみたんだけど、その時のクリードの驚きっぷりったらなかった。
全くそんなつもりがなくて、本当にわたしを気にしていただけなんだって言って、ちょっと傷付いた顔をしていた。
「あら、起きてたの。──なあに、あなた、煙草を吸うの?」
アビゲイルが顔を出し、嬉しそうに笑う。なるほど、彼女も喫煙者ね。この時代、上流階級の人たちは男女問わず当たり前のように煙草を吸う。アジアの方が女性の喫煙者に厳しいわね、って、なくしたはずの記憶の中にある知識を思い出した。
一緒に煙草を吸って雑談をする。自分でも意外だけど、クリードやアビゲイルと話していると楽しいと思う瞬間が増えていた。ずっと部屋の中にいて、外の空気を吸うのは精々バルコニーに出るくらいで、身体が求める時に眠る以外は暇だからかもしれない。まとめ髪も慣れた。自分じゃできないけど。ミアとケイラは少しメイクをしてくれようとしたけど、それは断った。わたしの中で物凄い反発心が生まれたからだ。きっとわたしはあまり化粧が好きじゃなかったんだと思う。
話している間にまた訪問者が増えた。ノックもなく入って来た16歳くらいの少女がわたしをじろりと眺める。初めて見る顔だったけど、彼女がクリードとアビゲイルの親類であることはすぐ分かった。面白いくらいに同じ肌、髪、瞳の色。上流階級は血が濃くなりがちだけど、ここもそうなんだろうか。この家の人間にしては今時の女の子、しかも派手目の格好をしている。
「アメリア、ノックしなさい。失礼よ」
「なーんだ、本当にオリエンタルなんだ?」
「アメリア!」
クリードが彼にしては少し厳しい声を出した。彼女の名前がアメリアということは分かったし、それから、クリードがこの時代の人間にしては差別に厳しいのだと知った。
その途端に不思議な感情が湧く。今のわたしか、この家に運び込まれる前のわたしか、どちらの感情か分からなかったけど、でも、何て言うんだろう。何だろう、──こんな男がわたしへの差別用語で怒るなんて、凄く不思議だった。
「何それ、パッチワーク? 顔にするなんて根性あるのね」
アメリアが何を言っているかはすぐ分かったし、言われて慣れているわたしがいた。アビゲイルがアメリアを強く叱り付け、わたしに謝ってから、アメリアを引きずるようにして部屋から出て行ってしまう。
「すまない。妹なんだ」
「──MRIを家に用意してあげるような病気には見えなかったけど」
「それは下の妹のエミリーだ。彼女はアメリア。17歳で、──すまない、ちょっと私たちも手を焼いている子で」
「そういう年頃よ。大丈夫、気にしないで」
「気にしないなんて無理だ。どうしてそんなことを言うんだ?」
クリードはわたしの隣に座り、手を取った。凄く驚いた。息を呑んでびくりとした自分にも驚いたし、わたしの反応を見て慌てて手を離したクリードにも驚いた。
「重ねてすまない、やましい気持ちじゃない」
「わ──分かってる。大丈夫」
別に嫌だとか、男性に対する恐怖だとかではなかった。どこかで、と思っただけだった。どこかでわたし、手を取られて──でも馬鹿馬鹿しい考えかもしれない。単に驚いたってだけの話でいい。
「アメリアを叱らないで。素性も分からないアジア人の女が家に入り込んで、きっと怖いのよ」
「きみは優しいね。でも、あの言葉は許すべきじゃない」
「わたしの代わりにアビゲイルが叱ってくれてるだろうし、あなたがこうやって家族の言葉を悔やんでいるなら、それ以上わたしに何ができるの」
クリードが真面目な顔で──元々いつも真面目な顔だけど、今はいつもよりも真面目で──わたしを見詰める。ふたつの青い瞳の中にパッチワークと言われたわたしの顔が映っていて、何だか不思議。
「はっきり言いたい」
「怖い話は嫌よ」
「怖かったらすぐに黙るよ。──私はきみに惹かれていると思う」
わたしがもうちょっと純粋だったら驚天動地、美しい女だったら計算高く算盤を弾き始めるような言葉だった。ああ、算盤ってことは、わたしやっぱり日本人なのかも。
でも今のわたしの感想は、ふーん、ってところだった。別にクリードを馬鹿にしているとか否定しているとかではなくって。本当に、ふーん、しか出て来ない。
だってそうじゃない? 冗談もほどほどに、って気分。オールドマネーのどうやら当主らしい男が、身元も分からない記憶喪失のオリエンタル、しかもパッチワークみたいな爆傷だらけ、こんな女に何を言うの。馬鹿にしないでよ。金持ちのお情けなんていらないわ。もういい、出て行く。わたしはきっと日本人だから、日本大使館に駆け込んで保護を求めるわよ。
それをそのまま言った。クリードの顔が青ざめ、それから白くなり、最後に大きくうなだれて息を吐く。
「そんなことを言わないでくれ。冗談なんて言っていないよ」
「じゃあ熱でもあるんじゃないかしら。とにかく、あなたみたいなお家の人が軽率に言うものじゃないわ」
「軽率だって?」
「あなたの妹──アメリアの反応を見た? あれが普通よ」
クリードは妹の反応を思い出し、でも、と呟く。
「きみは知的で美しいよ」
「前半は喜ぶわ。後半は聞かなかったことにしてあげる」
「本当だ。美しいんだ。確かに傷はある。でも──」
「あなたの感情を押し付けたいからって、わたしの心を踏み躙らないで」
わたしは醜いし、自分でもそう思ってる。わたしははっきりそう言った。言ってから、本気でわたしはそう思ってる、って納得した。そう思いながら生きてきたことも。
「わたしだって、他にこんな女がいたら、美しいなんて思わない」
クリードがぶるりと震えた。わたしの言葉とわたしの態度、そしておそらく自分の言い分が正面から否定された初めての経験からの衝撃で震えたんだろう。信じられないといった目でわたしを見て、でも、そうじゃない、って何度も言っていた。わたしはもう聞く気になれなかった。
「クリーチャーをコレクションしたいならよそを当たってよ。わたしは御免よ。──もうこの家は出て行く。日本大使館まで送る手配をすぐにして頂戴」
「待ってくれ。誤解されている。きみの心を踏み躙ろうとしたことは心から謝るよ。すまなかった。──でもクリーチャーだなんてとんでもない、そんなことを言うのはやめるんだ」
「わたしがわたしをどう言おうがあなたに関係ある?」
苛立って、口調がかなりきつくなった。ここで反論する必要もなかったのに、今の立場でわたしの発言を咎めるクリードに苛立って仕方なくて、つい言ってしまった。
「アメリアの反応の方がましよ。わたしだって納得できるもの。それが何よ、そんなことを言うのはやめろ? ふざけないで。わたしの心をわたしが口にして何が悪いの? パッチワークの女は黙って心を踏み躙られていればいいってこと?」
「そうじゃない、──そうじゃないんだ。すまない、私が無神経なことを言ったよ。認めるし、反省する。謝らせてくれ」
「そう、それは素晴らしい心掛けね。理解したわ」
「頼むよ、話を──」
「大使館に送る準備が出来たら使用人にでも連絡させて頂戴。あなたと話すことはもう何もないわ」
さすがに出て行けとまでは言わなかった。彼は充分ショックを受けていたし、わたしだって感情の乱れにうんざりしている。記憶がないと分かった時よりもずっと混乱していた。分かってる、これは、この感情は──惨めだ。すごく惨めな気持ち。
わたしよりずっと恵まれていて、恵まれない相手に投げられた差別用語にも素早く反応して、かばってくれる正義を絵に描いたような美しい人。そんな人に美しいなんて言われて、自虐的な言葉をやめるんだなんて言われて、惨めったらしいったらありゃしない。
「疲れたわ。少し眠りたい。大使館に行けるようになったら起こして」
「分かった。今はもう何も言わない。きみが落ち着くまで待つよ」
「話すことはもう何もないの。あなたの都合を押し付けないで!」
遂に怒鳴ったわたしに、クリードは「すまなかった」と言った。それから自分を恥じた表情になって、わたしに挨拶をしてから出て行った。
「お休み前に、何かご入り用はございますか?」
主人と客人の口論を見続けていたメイド二人が、まるで今の騒ぎを何も見ていないかのような穏やかな声でわたしに話しかけた。彼女たちも白人だ。今気が付いた。急にまた惨めな気持ちになって、いらないわ、と辛うじて返事をして、彼女たちが整えてくれたベッドに潜り込み、柔らかい羽根布団を頭まで引き上げた。
凄く寂しくなった。寂しくて少し泣いた。誰かに抱き締めて欲しかったし、キスして欲しかった。わたしはきっとそんな腕を知っているし、唇に愛された。忘れてしまった記憶の中にいる誰かに、今すぐここに来て欲しかった。
「へえ、すごい、本当にメイクじゃないんだ?」
「──!?」
「え!? ──痛い、やだ、痛い!」
きっとアメリアは何が起きたか分かっていなかった。わたしも実際は分かっていない。
いつの間にか部屋に入り込んでいたアメリアに羽根布団を剥ぎ取られ、その瞬間にわたしの身体が勝手に動いて、ベッドから一緒に転がり落ちながら、アメリアをうつ伏せに組み敷いて、腕を捻り上げていたなんて。
「痛い! やめてよ! 悪かったわ! 殺さないで!」
「──どいつもこいつも自分の言い分ばっかり」
我ながら憎悪を込めた声で呟いた。どうやらアメリアをぞっとさせたらしい。本気で怯えた顔になる。可哀想だとは思わなかった。
「ちょっとからかいたかっただけなのよ。もうしない、やめてよ、離して」
「この期に及んで謝りもしないのね。──離す前に教えてあげるわ」
うつ伏せのアメリアの腕を押し潰すように身体を重ね、耳元で囁いてやる。
「わたしには記憶がない。でも分かっていることがある。──ちょっとからかいたいだけなら自分より権威のある人間にやってごらんなさい。哀れんで相手をしてくれるわ。自分より格下と思い込んでいる相手はやめた方がいい。こうやって牙を剥くわよ。首元に喰らい付かないなんて誰が言える?」
「──分かったわ」
「人様をからかうもんじゃないって話よ」
「分かったわよ!」
アメリアの声は震えていた。わたしはそれで満足して身体を離す。うつ伏せのアメリアを蹴り飛ばしてやりたい衝動にかられたけど、それはやり過ぎだ。我慢しておいた。自分の身のこなしや体術について深く考えることはやめた。アメリアに言ったことで理解した。きっとそういう生き方をして来たんだ。それだけの話。
「にいさんに言い付けてやる。やっぱりオリエンタルのジャップなんて家に入れるべきじゃなかったって」
アメリアは起き上がり、口汚くわたしを罵る言葉を吐いた。わたしは何も思わない。たぶん凄く涼しい顔だったと思う。間違いない、わたしは差別されることに慣れている。
「クリードに言い付けるの? どうぞ。わたしはクリードに嫌われてここから速やかに出て行ける。あなたはわたしが消えて嬉しい。お互いに良いこと尽くめだわ。早く言って来てよ。何なら分かりやすく、顔に痣でも作ってみる? それともパッチワークなんてどう? いくらでも手伝ってあげるわよ」
もちろん脅しだ。でもアメリアはこれだけで震え上がり、涙目になって後ずさった。これでも謝らないんだから強情な娘としか言えない。まあ、これだけの家でこれだけの美少女なら、誰かに謝らなくても生きて行けるに決まってる。
「二人とも、どうしたんだ!」
クリードがノックなしで駆け込んで来た。本当に失礼な男。メイド二人が急いで連絡したんだろう。正しい選択だったと思う。
「寝ていたんじゃなかったのか。どうしたんだ」
「どうもこうも──」
「何でもない!」
アメリアが叫んだ。
「何でもないわよ! 誰よ、告げ口したの!」
メイド二人が揃って右手を挙げた。タイミングといい角度といい、あまりにも揃ったその動きに、状況も忘れて感動してしまう。手を挙げる練習もしているんだろうか。
「アメリア、何があったのかきちんと言いなさい」
「何もないったら!」
「アメリア!」
「ここでやらないで」
わたしはうんざりして言った。
「寝かせてくれないならさっさと大使館に送ってよ。寝かせてくれるなら出て行って。どうしてみんな、自分の都合ばっかりなのかしら。誰もわたしのことなんて考えてくれない」
「オリエンタルのジャップのことなんて考える必要がないからよ、図々しい当たり屋の猿ね」
「失礼した。どうか休んで。──アメリア、来るんだ」
アメリアの言葉を聞いた途端に凍ったクリードの声は感情を敢えて抑えているもので、アメリアは明らかに怯んだ。だからってわたしの知ったことじゃなかった。二人がまた部屋にいるのも構わずにベッドに上がり、早々に羽根布団を頭まで被って、今度こそ寝ようと思った。疲れた。少し眠りたい。
ぼんやりとした景色の中で銀色が見える。背が高い男の髪が銀色なんだって気付くまでにそう時間はかからなかった。
「ねえ」
わたしが呼ぶと、彼は振り返った。左目にはアイパッチが着いていた。
「その目はどうしたの」
わたしは訊いた。でも、彼が答える前に本当は知っていた。
「さあね」
彼は答えてくれなかった。わたしは知っていたからそれでも良かった。彼の声が甘やかで優しく聞こえるものなのだということは分かった。
「戦傷ね」
彼は微笑んだ。少し悲しそうな、でも優しい、色んな感情が混ざり合った笑い方だった。
ああ、わたし、この笑い方を──最後まで思う前に、目を開けてしまった。もう銀髪の彼はいなくて、見慣れたと言えば見慣れた天蓋が見えただけだった。
少し頭が痛かった。身体の痛みはほとんど引いていたけど、頭痛はまだ出る。嫌だな、長引く症状じゃなければいいんだけど。
鎮痛剤を飲んでもう一度横になる。大使館に送ってと言ったけど、クリードのあの様子じゃすぐには無理だろう。アメリアを連れて出て行く時、彼はひどく怒っていたはずだ。わたしに怒ってくれていれば出て行くのも楽だけど、あれはアメリアに怒っていた。面倒くさい。こっちにとばっちりが来る前に、自分で出て行けるように手配した方がいいかもしれない。
ミアとケイラに「日本大使館に電話をかけたいの」と言ったら、声を揃えて「出来かねます」と返された。
「わたしが電話をかけちゃいけないの?」
「クリード様からそう仰せ付かっております」
「理由は?」
「今、とても混乱していらっしゃることは間違いないからと。落ち着かれた後にお電話なさるのはお止めにならないそうです」
「混乱してるから大使館に助けを求めるんでしょうに。馬鹿みたい」
鎮痛剤が早く効くことを期待して目を閉じる。また眠ったらあの銀髪の彼に会えるだろうか。素敵だったから会いたいってわけじゃなくて、あの彼がわたしの記憶の中にいる人としか思えなかったから。──嘘。認める。素敵だったからもう一回くらい会いたい。
次に目覚めた時にわたしは失望した。会えなかった。きっと混乱したわたしの脳が、不思議な男を作り出しただけだったんだ。だったらあんな夢、見なければ良かった。
どうせお別れするんなら、最初から知らなくたっていい。
次にクリードが現れたのは夕食の後だった。わたしはバルコニーで風に当たり、ライトアップされた広い庭を見ながら食事を終えたばかりで、今度は何の言い訳に来たのかしらと思う。
「アメリアには言い聞かせておいた。──甘やかされて育ったし、偏った環境で生きているから、間違った考えを持ってしまっている。だからって、きみに嫌な思いをさせて良いはずがなかった。申し訳なかった」
クリードはバルコニーのテーブルの席に着くこともなく、わたしの横に立ってそう話した。背の高い彼が立って話すと声が空から降ってくるみたい。
「もう大使館に連絡してくれた?」
「そのことなんだが」
クリードが不意にわたしの足元にかがみ、わたしを見上げた。青い瞳に見上げられて、わたしは首を傾げる。
「やっぱり、きちんと元気になるまで、ここにいてくれないか。私たちならきみの記憶が戻る手伝いができると思うんだ」
「充分してもらってるわ。とりあえずわたしが差別に慣れてるってことはよく分かる」
クリードは苦笑し、確かにね、と呟いた。
「医者に聞いたんだが、きみの記憶障害は突然治ることもあるし、ずっと治らないこともあるそうだ」
「ふうん」
その症状を知っているような気がする。わたしは健康関連の仕事でもしてたんだろうか。医者──ないな。そんな頭はなさそう。じゃあ看護師? ──もっとないな。こんなツギハギを見たら患者が怖がっちゃう。結局考えたって答えは出ない。
「私たちなら、そのどちらのフォローもできる。突然思い出せたらそれは最高の結果だ。もし思い出せなくても、そうだな──仕事を斡旋してあげたり、それこそ金銭的な援助だってできる」
「そこまでしてもらう謂れはないわね」
「そうかもしれないね。世間の人はそう言うかもしれないけど、でも私はそう思わないんだ」
「座れば?」
「ありがとう」
突然投げつけたわたしの言葉に少し嬉しそうに笑い、クリードは椅子に座る。ミアとケイラが素早くテーブルの上を綺麗にし、いつの間にか用意していたコーヒーと煙草、灰皿を置いた。
「責任は私たちにある。きみの記憶を奪ってしまうなんて、きみの人生に大きな影響を与えていることは間違いない。責任を取らせてくれないか」
「そんな心配しなくても、後から訴訟を起こすような真似はしないし、たかるような真似もしないわ」
「──それは心配していないよ。きみはそんなことしない」
それは買いかぶりね、とわたしは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。買いかぶりだ。だってたった今、わたしの中のわたしが「オールドマネーほどの金持ちに訴訟をしたって無駄だ、下手すりゃ消される、他の方法で搾り取れ」って言ったもの。でもクリードがわたしを何となく「きれいな存在」と思いたい気配を感じ始めている。だったらそうさせておいても構わない。
「そうだといいわね」
「そうさ。金銭的なことは、少なくとも何も心配しないで欲しい。もし記憶が戻らなくても、必ず一生困らないようにさせてもらうから」
「ふうん」
「だから、もうしばらくこの家で過ごしてみないか」
わたしは少し沈黙して、煙草に火を点けた。メイドさんたちはわたしが自分で煙草に火を点ける方が気楽だと学んでいて、放っておいてくれた。クリードも同じことをする。そういえばクリードの煙草にも彼女たちは火を点けない。アビゲイルには点けていたけど。
「蒸し返したくないけど」
「うん」
「アメリア。いくら広い家でも、わざわざ会いに来られたら顔を合わせるわ。わたしはどうってことないけど、かと言って言われるままにはならないわよ」
言外に、アメリアが攻撃してくれば反撃することを伝える。オールドマネーのお嬢さん相手でも、わたしはわたしの権利を主張してもいいって別のわたしが言っていた。何かがふと浮かびかけた。誰か──誰だろう。女性。銀髪の。でもその女性はすぐに消えて、目の前にはクリードと飲みかけのコーヒー、くすぶる煙草しか存在しなかった。
「それはもちろん、きみの権利だ。アメリアにも言い聞かせたから、もうきみにひどいことをするとは思えないけど」
「もちろんって言っても、実際にことが起これば人間なんて簡単に忘れた振りをするわ。ここで言うなら、わたしがアメリアに反撃して怪我でもさせようものなら、ね」
「それは」
クリードは眉をひそめ、それから煙草を一吸いして煙を短く吐き出した。
「私はそんなことをしない自信がある」
「ふうん」
「──きみはそんな経験をしたのかもしれないね」
わたしは肩を竦めた。そうなんだろうな、って思いながら。約束を反故にされることなんて、きっと慣れっこだったんだろう。
「契約書を作ったっていい。アメリアの攻撃に反撃して、アメリアを怪我させたって、正当な理由があれば責めないって」
冗談かと思ったらクリードは至極真面目な顔で、わたしは笑い出してしまった。何を言ってるものやら。こんなことで契約書? 契約書の重要性をよく知り抜いているだろうオールドマネーの男が何を言っているの。おかしくてたまらなくて、しばらく笑い続けてしまった。やがてクリードも笑い出して、しばらく二人で笑い続けてしまった。
「初めて、きみが大笑いするのを見たよ」
「そうだったかしら」
「そうだよ。笑った方がいい」
「決まり文句ね」
「私はあまり個性がなくてね。──どうだい。やっぱりしばらく、大使館に行くのは待ってくれないか」
具体的に、わたしからアメリアを離しておく方法を説明し始めた。分かりやすくて明瞭で、人に聞かせることに慣れた話し方だった。かなり仕事ができるのかもしれない。
「勘違いしないで欲しいんだけど、わたしはアメリアに会いたくないってわけじゃないわ。攻撃するなら反撃する、それだけよ」
「理解した。じゃあそうしよう。他に懸念はある? 必要だと思うことは?」
勝手に話しを進めるクリードにわたしは半ば呆れ、ライトアップされた夜の庭園を見る。大理石と芝生で出来た美しい庭はいかにもアメリカの大金持ちの家で、どうしてわたしがここにいるのか不思議になった。
「まだOKなんて言ってない」
「分かってる。でも先に条件を聞くことはお互いにとって有益だと──エミリー? どうしたんだ、部屋に戻りなさい」
10歳にならないくらいの女の子が庭先から現れて、わたしはひどくびっくりした。エミリー、ああそうか、クリードの一番下の、病気の妹だ。
「すまない、エミリーの部屋の庭がここと繋がっているから」
「構わないけど、出歩いていいの?」
「本当は医者に止められてる」
クリードは急いでエミリーの元へ行き、抱き上げて何かを言っている。エミリーは抱かれた肩越しにわたしを見ていた。目を丸くしている。まあ、こんな顔を見れば当たり前だし、わたしは子供にこんな目を向けられることに慣れていると何となく思い出した。
「だあれ」
「にいさんのお客さんだよ」
「お顔が痛そうよ」
「──早く戻りなさい」
「御挨拶だけしたら戻るわ」
「ああ、もう──」
クリードの困り声が明らかに妹を可愛がる兄の声で、わたしは何となく懐かしくなりながら──どうして懐かしいのかは分からないけど──立ち上がって、少し離れた場所に立った。間近だと流石に傷や肌に驚くかもしれないから。
「こんばんは、エミリー」
「こんばんは。だあれ?」
「お兄様に面倒を見て頂いてるの」
「そうなの? わたし、エミリーよ。病気でお外に出られないから、おねえさんに会えて嬉しい。お外の話をしてくれる?」
「エミリー、それはまた今度。もう部屋に戻ろう」
わたしはふと気付く。違和感──いや、そうじゃない。自分の中で何かが変化した。目覚めた、と言ってもいいかもしれない。わたしの中のわたしが声を挙げた。わたしじゃないような、鋭い声だった。
「中に、早く。主治医がいればすぐに呼んで」
「え?」
「チアノーゼが出てる」
エミリーの病気を理解しているのか、クリードははっとしてエミリーを見、それからわたしを見た。
「急いで。時間がない」
クリードはわたしを疑うこともなく、急いでわたしの部屋に入った。ミアとケイラたちが素早く、本当に素早く動き、ベッドではなくソファを整えたことに感心する。こんな小さな身体では、部屋の大きなベッドよりもソファに寝かせた方が診やすい。──診やすい? 診る? わたしが?
「わたしに診せて」
でも、わたしは自然にそう言っていた。そうか、わたしが診るんだ。わたしが──診られる。
「きみは医者か?」
「知るもんですか。主治医が来るまででいいから、早く」
エミリーは診察慣れしている子だった。わたしたちの態度で、自分にあまり良くないことが起きていると分かったらしい。素直におとなしくしてくれていた。
「エミリー、お話ができる? 今、何だか変なところはない? 痛いところや、苦しいところ」
「あのね」
「うん」
「苦しいの。ぜんぶ」
言うなりエミリーは泣き出した。やっぱり。これで苦しくないはずなんてない。
「そう。苦しくて誰かに言いたいからお部屋を出たのね」
「うん」
「よくできたわ、最高の選択よ」
診察しようにも、わたしの中のわたしが欲しがる道具が何もない。それでも次にやることは分かっていて、彼女の脈を見たり、多少の質問をした。それからクリードにエミリーの病名を問う。
「……本当に?」
違和感。──違和感が凄まじい。聞いた病名に違和感を得て、どうしようと考え始めようとしたら、わたしの中のわたしが絶叫した。
──誤診だ、どんなヤブ医者だ!
「……誤診よ」
「何だって?」
「違う。これは──」
わたしの中のわたしが怒って言った。エミリーの病名だ。全く違うものだった。誤診なら当然だ。でも、誤診なら──急げ。また絶叫した。
「手術が必要よ。どうして」
どうして。絶叫が聞こえる。わたしもクリードに言ってしまっていた。
「どうして、今まで気が付いてあげられなかったの? 何も治療していなかったのと変わらないわ」
クリードの顔が絶望に覆われ、神よ、と呟いてわたしに後悔を教えた。
「とにかく救急車を。懇意の病院があるんでしょう? そっちに移して。ここじゃ処置できない」
流石と言えば流石はオールドマネー。命は金で買えると証明してくれた。立ち直ったクリードが即座に手配をし、一時間も経たないうちに、エミリーは金持ち御用達の名門病院に移送されていた。わたしは救急車に乗ることを救急隊員に一度断られたものの、クリードの一喝で乗ることができた。
「あなたが気付いて下さったと──」
エミリーの主治医ではなく、小児科部長がわたしに質問した。エミリーは既に、わたしから情報伝達されたスタッフたちから適切な応急処置を受けている。当面は乗り越えらえるだろう。
「あれは誤診よ」
「とは言いましても、主治医だけではなく、私どもも確認した病状です」
「カルテを見せて」
「それはできません」
「──じゃあ言っておくわ、ご参考までにどうぞ」
わたしは予想をしたエミリーの病名を告げた。小児科部長は眉をひそめ、それから手元のエミリーのカルテ──ご丁寧にわたしに見えない位置で──を見る。わたしを馬鹿にしたい、でもできない、そんな顔だ。クリードは小児科部長とわたしを見比べた後、静かに言った。
「もう一度調べて欲しい。今の主治医には少し休んでもらうといいかもしれないね」
それは今の主治医をエミリーから外すようにという通告なんだろう。さすがオールドマネー、要求に容赦がない。でもこれくらい言ったっていいと思う。命を預けているのだし、医者は命を預かるんだから。
エミリーの状態を見に行こうと席を立ったわたしに、小児科部長が不意に言った。
「珍しい服を着ているんだね、ブラック・ジャック」
「え?」
カードゲームのこと? 急に何を言っているんだろう、この部長。
「では、後でまた連絡を。私も失礼するよ」
わたしが部長に問い返す前に、クリードも立ち上がった。それきり部長は何も話さなかった。