「きみを監禁するわけじゃないけど」
クリードはわたしの手を握ったまま言った。わたしの隣に座り、わたしの手を取ることが当たり前のような顔をしていた。振り払わないわたしは愚かだ。
「まだ、外に出るのは早かったんじゃないか。頭痛も、嫌な夢を見たのも、外で受けた刺激が強すぎたような気がするんだ」
「それは間違いないと思う」
まだ体力が回復しきってないんだろう。自分で思ったよりも弱っていた。ベネット軍曹には軍に連絡すればきっと会えるだろうから、今は回復に専念するべきかもしれない。それに──外は疲れた。ワンピースの違和感はまだ拭えないし、顔が全て見えてしまう髪型も落ち着かない。人前に出たくなかったんだ、と強く思った。そう、記憶をなくす前のわたしは、きっと人前に出ることがあまり好きじゃなかった。
「ねえさんが私に黙って連れ出すなんて思っていなかったんだ。配慮しきれなくてすまなかった」
「あなたはミスター・パーフェクトなの? 気にすることじゃないわ」
「きみのミスター・パーフェクトになりたいとは思っているよ」
「え?」
わたしは首を傾げる。わたしのミスター・パーフェクト? 何だっけ──それからしばらくして思い出した。なるほど、わたしが誤用していたみたい。うっかりもいいところだ。ミスター・パーフェクト、恋人に呼びかける時のペットネームだった。
「誤用したわ」
「本来の意味でも嬉しいよ」
「それは無理ね」
「隣にいて、手を握っているのに?」
「離して、遠くへ行って」
面倒なミスをした。疲れている時にあまり続けたい会話じゃない。クリードも分かってくれたのか──素晴らしく気の利く男だと思う──それ以上は続けなかった。でも手を離しはしなかったし、隣からいなくなるわけでもなかった。そしてわたしは振り払えなかった。
「きみがもう少し元気になったらまた言うよ。それまでは良い友人でいて欲しい」
「元気になっても友人がいいと思うわ」
「ねえさんから聞いた。でも今はやめよう。元気になったら改めて話をしよう」
「お願いよ」
「どうしたんだい」
「手を離して、隣に座るのはやめて」
「それはできない。今のきみにとって最適の手段だ」
嫌になる。これだけノーと示しているのに、この男は聞き入れやしない。酷い男だ。でも突き飛ばせばいいのに、それができないわたしも酷い、ひどく愚かな女だ。
「明日、エミリーが退院する。きみの具合のいい時でいい、気にかけてやってくれ」
「そのつもりよ」
「新しい主治医にはきみの話をしてあるし、小児科部長も認めていたよ。カルテの写しをくれると言っていた。きみなら分かるだろうって」
「そうね、分かると思う。でも最終判断は主治医がするべきよ」
クリードはまだ何か言いたい顔をしていた。でもわたしは話を打ち切りたかった。
「休みたいわ。疲れてることは確かだから」
「分かった。少し眠るといい。無理に起こしはしないけど、嫌な夢を見たらすぐに呼んで」
言うなり、クリードはわたしを抱き上げた。慌てて暴れそうになったけど、落ちるよ、と優しく言われて動きを止めざるを得ない。どこまで伊達男を貫くんだろう。これが無理をした演技じゃないって分かるから嫌になる。
ミアとケイラがすっと動いてベッドルームへのドアを開ける。
ベッドが見えた。
その瞬間、背筋が凍った。男の腕とにおいと、抵抗できない状況が、唐突にわたしを恐怖の中へ叩き込んだ。理由なんか分からなかった。でもとにかく怖い。
怖い。
「やめて」
「ルル?」
「やめて!」
「危ない!」
自分で自分を制御できなかった。クリードの腕の中で暴れ、流石のクリードもわたしを取り落としそうになる。それでも何とかわたしを床に激突させることなく、自分自身と共に床に転がる程度に留められたのは、おそらく彼の身体能力が優れていたからだ。でも今のわたしにはそんなことが理解できなかった。男から逃げないと──それしか考えられなくて、浅い呼吸で、喘ぐように立ち上がろうとする。男の腕がわたしの腕を掴んだ。わたしは悲鳴を上げて尻餅をついた。落ち着いて、と男が言ったような気がした。分からなかった。
怖い。怖い。──怖い!
「離して! やめて!」
「ルル、大丈夫だ、何もしない。すまなかった」
「いや、やめて、お願い、酷いことしないで!」
「──っ!」
男が息を呑み、わたしから手を引いた。わたしは泣いていた。泣きながら男から逃げようとして、ふらつきながら立ち上がる時にワンピースの裾を踏んで転び、ひどい醜態を晒す。それでも何とか立ち上がって、泣いたままベッドルームに逃げ込み、ミアとケイラが動く前にドアを閉め、鍵をかけた。
ドアの前に座り込んで、また怯えて泣いた。
あの男がクリードだったと、決してわたしに酷いことをしないだろう男だってことを思い出したのは数分後で、謝らなくちゃと思っても、どうしてもベッドルームから出ることができなかった。初めて抱き上げられてベッドに運ばれた時には何も恐ろしくなかったのに、どうしてこんなことをしてしまったんだろう。
そりゃあ、と違うわたしが不意に言った。そりゃあ決まってる。あいつが性的な目で見るようになったからだ。ベッドの上で酷いことをする性を持つ奴なんだって思ったからだ。
違うわたしは話し続ける。もしかするとわたしが話しているのかもしれない。どちらでもよかった。どちらもわたしだった。わたしはわたしに話し続けた。
ベッドの上で私に酷いことをしない男なんて、ひとりしかいない。あいつが初めてひどいことをしない男だったから、他の男がどうかなんて知らないけど。
あいつって誰なの。教えてよ。どうして教えてくれないの。思い出せばいいの? どうして思い出せないの?
違うわたしは答えなかった。わたしが黙ってしまっただけのことなのに、凄く腹が立った。
その時、乱暴にドアが叩かれ、ドアノブが激しく音を立てて動いた。わたしは悲鳴を上げた。自分で自分を制御できない。開けろ、開けろって、男が怒鳴る声まで聞こえるような気がする。幻聴だ。でも怖くて怖くて、泣きながら耳を塞いで蹲るしかできない。
「開けなさいよ、猿!」
身体に電気が走ったように、わたしは不意に恐怖を忘れた。差別用語で我に帰るなんて皮肉だけど、今は助かった。でも、まだ恐怖を拭い切れなくて声が出ない。
返事をしないわたしに業を煮やしたのか、今度はドアを蹴りつける音まで聞こえる。オールドマネーの家の娘とは思えない不作法振りに、わたしはますます冷静になれた。でもドアを開ける勇気はまだなかった。
「にいさんが庭で自殺しそうな顔してるのよ! 出て来て説明しなさいよ!」
「何でも──何でもないわよ」
「それで通じると思ってんの? 馬鹿にするんじゃないわよ、猿のくせに! 開けろって言ってるの!」
「──そこにあなた以外の誰もいないって、誰が証明できるのよ!」
アメリアの怒鳴り声に釣られて、わたしも我ながらヒステリックな酷い声で筋の通らない返事をしてしまった。その途端にドアを蹴る音がやみ、向こうで「そうかも」と言う声が聞こえた。
「証明できないわ。猿にしちゃ頭が回るのね。でも、わたしとミアとケイラしかいないわよ。あ、じゃあ、ねえさんも呼んで来てあげようか? それなら安心できるんじゃない?」
わたしは本当は知っていた。アメリアなら大丈夫だ。──大丈夫であって欲しい。
震える指で鍵を回す。その途端、ドアの向こうが静かになった。わたしは息を呑んだ。アメリアが息を殺しているのが分かった。だからドアノブを回して、押せた。
ドアを開いた途端、アメリアが両腕を開いてわたしに抱き付いて来た。とても驚いた。彼女は一瞬で離れて眉をひそめ、その口から毒を吐く。
「心配させんじゃないわよ、猿のくせに。にいさんが自殺したらあんたのせいよ」
「そうね。謝っても許されないことをしたわ」
「あの、──その、にいさんがしたの?」
「違うわ、そうじゃない」
意味を取り違えられてしまった言葉を慌てて否定する。アメリアはあからさまにほっとして息を吐き、それからわたしを睨み付けた。
「猿のくせに飼い主に迷惑をかけないでよ。ったく、にいさんがレイプでもしたのかと思ったじゃない」
「クリードはそんなこと、絶対にしないわ」
「するはずないでしょ! あんたが落ち着いたって教えておいてやるわ、うろつかれたら迷惑だから」
わたしがありがとうと言う前に、アメリアは精油をくれた少し前の時と同じようにさっさと部屋を出て行ってしまった。
「ルル!」
入れ替わりのようにやって来たのはアビゲイルだ。この家でわたしは一人になったことがない、と急に気が付いた。ミアやケイラがいつもいてくれるということもあるけれど、この家の家族たちはわたしを一度も一人にしたことがない。
「ごめんなさい、電話を待っていたものだから気が付かなかったの。クリードから聞いたわ、大丈夫?」
アビゲイルはわたしを抱き締める。アメリアに一瞬だけ抱き締められたことを思い出した。姉妹は同じ香りがした。
「大丈夫よ。今日はもう、男の人を誰も近付けないから。──可哀想に。きっと怖い思いをしたことがあるのね」
本当にわたしを哀れんで──見下す哀れみではなくて、女性として感じる純粋な哀れみなんだと思う──アビゲイルは涙ぐみながらわたしをバルコニーに連れて行こうとしてくれた。でも目の前に広がる手入れされた空間を見て、足が竦んだ。部屋から出たくない。強く思った。ここにいれば安全だ、って、追い詰められた人間がしてしまいがちな逃避だ。自分でも分かったけど、恐怖を拭うことができなかった。
立ち竦んだわたしに気付いたアビゲイルはまたわたしを抱き締め、やっぱり部屋の中にいましょう、と言ってくれた。
「クリードが何かしたわけじゃないの」
甘くて温かい紅茶を前に、わたしは言い訳を試みた。アビゲイルではなくてクリードに言うべきだと分かっていても、クリードに合わせる顔がなかった。
「本当よ。わたしが勝手にパニックになって、クリードは落ち着かせてくれようとしたの」
「そう。信じるわ。クリードが言ってたことを少しだけ教えてもいい?」
わたしは頷く。いっそわたしを罵ってくれていれば気が楽になるのに、彼も彼女も決してそんなことをしないだろう。
「あなたを抱き上げたのは、調子に乗ってしまっていたからだって言っていたわ。初めて話した日のような時ならともかく、少なくとも元気になっていて、お互いが男女だと分かる距離感でして良いことじゃなかったって」
少し迷ってから、わたしはゆっくり頷けた。そうだ、あれが怖かったんだ。
身体的な差で抵抗できない状態のまま、男にベッドに連れて行かれる。あれが凄く怖かった。だからわたしはアビゲイルにそれを言った。言いながらまた涙が出て、自分で自分に呆れた。アビゲイルは何度も何度も頷いて、神様、とやっぱり何度も呟いて、泣いて話すわたしの背中を撫で続けてくれていた。
「クリードは悪くない。わたしが──」
「クリードは間違いを犯したわ。それは確かなの」
「わたしじゃなければこんなことにならなかった。だから」
「ルル、認めましょう。あなたはクリードに怖い思いをさせられたの。きっと過去に辛い思いをして、それを思い出したんでしょう。でもクリードがきっかけなの。それは確かなのよ」
「でも」
「認めてくれないなら、クリードはあなたに謝れない。自分で自分を許すこともできないわ」
何も言えなくなる。泣くのをやめようと必死になった。泣いていてもいいから、とアビゲイルは優しく言ってくれる。でも今、確かにクリードは酷い気持ちの中にいるのだと思うと、いつまでもわたしが泣いていていいとはとても思えなかった。
「クリードはどうしてるの?」
「あなたは何も心配しなくていいの。落ち着いたら思い出してあげて。今日はいいの。──テレビでも見ましょうよ。あなた、ここに来てから一度も見てないんじゃない?」
だってテレビなんてないじゃない──そう言おうとしたけど、ミアとケイラがさっと、わたしがずっとサイドボードだと思っていた棚の扉を開けた。アメリカ人って合理的だ。そこにテレビが鎮座していればそう思うしかない。
「気分じゃないわ」
「そう? わたしが見たいのよ」
アビゲイルはミアとケイラに指示を出しながら、色んなチャンネルを回して行く。やがて映画をやっているチャンネルを見付けて、あら、と言った。
「これ、最近の映画よね。知ってる?」
映画なんて気分じゃなかったけど、わたしの気持ちを引き立てようとしてくれるアビゲイルを少しでも喜ばせたくて画面を見る。知らない映画だった。でも、わたしは画面から目を離せなくなった。
ストーリーはよく分からなかった。見目の良い男女の役者が様々な困難を乗り越えて愛を育んで──そんな系統の映画だってことしか分からない。でも本当に目が離せなかった。銀に見える金髪の俳優が動く、喋る姿から目を離せない。
「この俳優、好きなの? 素敵よね」
わたしの反応に気付いたアビゲイルが楽しそうな声音で言った。彼女はどんな反応も見逃さない鋭い人なのだと改めて思いながら、わたしは首を傾げた。
「知らない」
「──そうなの?」
アビゲイルの声が少し注意深いものになる。わたしの記憶に関係するのだと察してくれたのかもしれない。本当に鋭い人だ。
わたし自身も注意深く、わたしの記憶を探る。何も思い出せない。でも違うわたしが言った。──ちょっと似てるよ。
「……素敵な映画ね」
そう言って笑いかけると、アビゲイルも笑ってくれた。どこかほっとしたような笑い方だったのはどうしてなんだろう。
それからのアビゲイルの行動は早かった。彼女は物凄く行動力があるし、頭の回転も速いんだ。わたしは彼女がとても好きだと気が付いた。もしかして、彼女のような女性が好きなのかもしれなかった。
アビゲイルはあっという間にその俳優の記事が載っている雑誌を手配して、一時間後にはわたしの部屋に置いてくれた。ブロマイドまで持って来てくれて少し困る。たぶんわたしは格好いい男性の写真を手元に置くということに慣れていない。
「外に出られるようになったら、映画を観に行くのもいいかもしれないわね。彼の映画、今ちょうど公開中みたい」
それは別に実現しなくてもいいかな、って思った。でもアビゲイルを喜ばせたくて、楽しみだわ、とわたしは言った。アビゲイルは笑ってくれた。
夕食はアビゲイルと二人で食べた。わたしは一人でもいい、家族で食べてと言ったけど、アビゲイルが聞き入れなかった。申し訳ないけど嬉しかった。
寝室で一人になってから──メインルームには必ずミアとケイラがいたから──用意してもらった雑誌をめくる。その男性は最近とても人気のある俳優だってことが分かった。でも彼が出演する作品の数々は、わたしの興味を特段に引くものではなかった。
それなのに、何度も雑誌の中の写真を見た。銀に見えるほど色素の薄い金色の髪が、とにかく好きだと思った。
もう認めるしかなかった。夢の中の銀髪の彼は、きっと、間違いなく、わたしの感情を大きく揺り動かす存在だったってこと。
恋人だったのかもしれない、ってこと。
彼の妹とも面識があったんだろう。あの美しい女性は彼の妹だ。
夢の中ではスペインのガリシアにいた。どうしてあんな田舎にいたんだろう。
あの子は誰だったんだろう。あの、とても可愛い子。あの子を抱き締めたらきっと凄く幸せになれるって、なぜか分かる。
考えれば考えるほど幸せになれて、それからとても寂しくなった。また涙が出そうになったから、雑誌を閉じて眠ってしまうことにした。
少し考えて、どうせ誰も見ていなんだから構わないって気が付いて、雑誌をぎゅっと抱き込んで、身体を丸めてもっと深く毛布に潜った。
どうかもう、寂しい夢を見ませんように。
寂しくて泣いて起きる、ってことはなかったけど、起きなきゃよかったと思う程度には楽しい夢だった。今度はフランスにいた。また4人だった。海が近い場所で、アンティーヴだなって分かった。
もう少し夢の中にいたかったけど、ミアとケイラが丁寧に起こしに来てくれて、諦めるしかなかった。それに今日はエミリーが退院して帰って来る。わたしも正式に依頼を請けた以上、自分のことばかりを考えていてはいけない気がした。
朝食の席にはアビゲイルしかいなかった。
「クリードは仕事が詰まっているから先に食べたわ。エミリーが午後に退院するから、それまでに今日の分を片付けたいんですって」
やっぱり鋭いアビゲイルは、わたしが気にする前に言ってくれた。わたしは曖昧に返事をして朝食に手をつける。今までで一番食べたかもしれない。食べておかなきゃ、って思ったからだ。どうしてかは分からないけど、違うわたしが言っていたから分かった。患者が帰って来るんだ、自分のことより優先するのは当たり前だろう、って。
「ルル、エミリーのカルテが午前中に届くんですって。見てもらえる?」
「分かったわ。それと、エミリーの部屋の状態も見せて欲しいの。すぐに主治医と連絡が取れる状態になっているかどうかを知りたい」
「他には?」
「エミリーの服薬状況と──」
アビゲイルは驚いた顔をしながらも、すぐに真剣にわたしの要求の数々を聞いてくれる。もうわたしは驚かなかった。あれもこれも、わたしの口から出ているとは思えないほど、流れるように言葉が出て来る。医療を知らない人に説明することにも慣れている。
わたしは医療関係者だ。間違いなかった。
エミリーの部屋を確認している間にカルテが届いた。部屋にはほぼ問題がなく、先に運び込まれている医療機器も最新式──これも過去のわたしが知っていた──で、常駐する看護師は扱い方を熟知していると言う話だった。それからカルテを見る。意見書はなかった。意見書についてアビゲイルに訊くと、病院との連絡を担当する執事を紹介してくれた。そう言えば初めてこの家の執事を見た。執事を見てなぜか特殊部隊と言う単語が脳裏をよぎったけど、理由は分かるようで分からなかった。
「意見書と治療計画書を確認して。退院の時に一緒に持って来るならその時に見せて欲しいの」
「かしこまりました」
「それから──」
「あら、猿が頑張ってる! お医者さんごっこ?」
「アメリア、今は相手ができない。また後で」
自分でも驚くくらい──本当に驚いた──きつい声でアメリアに言った。わたしをからかいに来たアメリアは言葉に詰まり、同じく驚いていたアビゲイルに小声で何かを囁かれて部屋を出て行った。執事の表情は変わらなかったが、それからわたしに対して今まで以上に丁寧になったことは間違いなかった。強い態度に出ることも必要な立場なんだって、急に理解した。
昼食は自室で一人で取った。これはいつも通り。相変わらずミアとケイラがいるけど、やっと彼女たちを意識しないで過ごすことができるようになりつつあった。食べながらエミリーの病気について考える。驚くのも飽きたけど、わたしはその病気についての知識が相当あった。ああするべき、こうするべきとすぐに分かる。
食後の煙草に火を点けて、バルコニーに目をやる。暖かい陽光がよく手入れされた芝生に落ちて、その先の花々を照らしている。小さな女の子が退院するにはちょうどいい日だ。
でもわたしはバルコニーに出る気になれなかった。外に出たくない。ここにいることが良いのかは分からないけど、陽光が降り注ぐ美しい世界は、きっとわたしに似合わないと思った。
外の世界から目を背けて、エミリーが帰って来るまであの雑誌をめくり、銀髪に見える金髪の俳優を眺めて過ごした。
わたしを現実世界に引き戻したのはクリードの来訪だった。ある意味では覚悟してなきゃいけないことだったから、溜息を押し殺して話を聞くことにする。
「ここでいい」
クリードはドアを開けたまま、部屋に一歩入っただけで立ち止まった。広い部屋だから声が少し遠い。今度こそわたしは溜息をついて、素晴らしい紳士から少し離れた、でも話がしやすい場所に立った。
「昨日は本当に失礼した。きみを怖がらせるつもりはなかったけど、私の軽率な行動が引き起こしてしまったのは事実だ。謝らせて欲しい。本当にすまなかったと思ってるんだ」
わたしは頷いた。彼の言葉に嘘がないってことくらい、すぐに分かる。
「自分も悪かった、なんて言わないでくれ」
先手を打たれて苦笑する。やっぱりアビゲイルの弟だと思った。クリードもアビゲイルも、どうしてこんな人が存在するんだろうって思えるくらい、善の全てを備えた人たちだった。
「言わないし、分かったわ。ひとつだけお願いしたいけど、聞いてくれるかしら」
「何でも」
「もうこの話はしないで」
クリードは深く息を吐いた。呆れた溜息ではなくて、安堵の溜息だったことにわたしも安堵する。
「しないよ。私だってそうしてもらえるとどんなに──いや、言い訳だな。とにかく分かった、これからは楽しい話をしよう。エミリーももうすぐ帰って来る。楽しい方がいい。本当にありがとう」
わたしはまた頷いて、それからしばらく考えた後、どうにか言葉を見付けて言うことができた。
「一服して行かない?」
「──いいのかい?」
「もちろん。少し楽しい話をしたいわ」
クリードは嬉しそうに微笑んだ。わたしも微笑み返すことができた。それからほんの少しだけ迷って、明るいバルコニーを見る。やっぱりまた少しだけ迷って、でも言えた。
「天気がいいからバルコニーでいいかしら」
「最高に気持ちがいいだろうね」
何も指示を出さないうちに、ミアとケイラがあっという間にバルコニーに煙草とお茶の準備をしてくれた。
「小児科部長も今日だけ付き添いで一緒に来てくれるそうだ。薬と治療計画について詳しく説明するって言ってたな。薬剤師も来るらしい」
「ちょうど知りたいことだったの。助かるわ」
エミリーが帰って来るまでの少しの間、わたしたちは適度な距離を取って、思った以上に穏やかな時間を過ごすことができた。
「ねえさんに聞いたんだけど」
「何でも筒抜けね」
「きみのことは何でも教えてくれって言ってある。──失礼、怖がらせるために言ってるわけじゃない」
「大丈夫よ」
慌てて付け加えたクリードに、わたしは笑ってみせた。何ていい人なんだろう、って、心の中の少し深い場所で思った。
「好きな映画俳優を思い出したんだって? 確か──」
俳優の名前を言われ、わたしは頷いた。
「思い出したかどうかは分からないけど、そうね、気になる俳優だったわ」
「良かったじゃないか。彼に会ってみる?」
「え?」
「うちが経営している会社のひとつが、彼の所属する映画会社に出資してるんだ。頼めばすぐに会えるよ。彼だってきっと喜んでくれる」
流石オールドマネー。わたしは驚き半分、信じられない気持ち半分だった。こういう世界があることは知識として知っていたけど、まさか目の前の男がこんなにもあっさり口にするようなことだったなんて。俳優が喜んでくれるのも納得だった。オールドマネーの一家の当主が直々に声をかけるのだから、彼は最高の営業機会を得ることになる。
素敵ね、と言いかけて、それからすぐに言葉を変えた。
「映画や雑誌で見られればいいわ。アビゲイルが手配してくれて、ブロマイドもあるの。それで充分よ」
「遠慮しないで。素敵な思い出になるじゃないか」
「ごめんね、楽しい話をしたかったんだけど、これだけは」
「ルル」
「人前に出たくないの」
ベネット軍曹は元々わたしを知っていたみたいだから、きっと驚かなかっただけだ。でも孤児院の院長がわたしを見た時の顔と態度を思い出す。アビゲイルが一緒だったから、きっとあれでもましな態度だったんだろう。
「必要以上に見られたくないのよ」
クリードは言葉を探すように唇を噛んだ後、分かったよ、と言ってくれた。
「分かった。──ねえ、ルル」
クリードがわたしを見る。わたしもクリードを見た。
「ここは安全だ。二度と誰もきみを傷付けない。それだけは信じて」
綺麗な庭はこの美しくて誠実な男にとても似合っていて、唇から紡がれる言葉は真摯だった。
だからわたしは彼に笑いかけて、ありがとう、と言うことができた。
エミリーの到着は時間通りだった。上流階級だけが所有できるような高級車で、病院から安全に帰って来られた。付き添いの母親とアビゲイルが先に降り、待機していた使用人たちが看護師の指示で車椅子を用意し、滞りなくエミリーを乗せ換える。
「お帰り、エミリー。待っていたよ」
「新しい部屋になったのよ、見て驚いてね」
エミリーの目線まで屈んだクリードとアメリアが末の妹を抱き締めて、術後間もないのに元気な様子のエミリーが笑う。こう見ているとアメリアは妹にかなり甘いらしい。もしかして、と急に思った。もしかしてさっき、わたしをからかいに来たのではなくて、部屋の様子を見たかっただけだったとしたら。──それなら悪いことをしたかもしれない。結果は変わらなかっただろうけど、もう少し別の言い方をすればよかった。まあ、想像に過ぎないから何とも言えないんだけど。
「おねえさん!」
わたしを見付けたエミリーが嬉しそうな声を挙げた。わたしは微笑む。
「退院おめでとう。後は元気になるだけよ」
「本当に? 元気になれる?」
「大丈夫。そのうち外に遊びに行けるし、何だってできるようになるわ」
見る間にエミリーの顔は輝き、歓喜に満ちる。わたしまで嬉しくなる。そうだ、わたしはきっと以前から、こんな瞬間がとても好きなんだ。患者が希望を持って笑う顔が、とても。
「先生たちももう到着する。エミリー、部屋で待っていよう」
クリードが言えば決定だ。あまり外に長くいてはまだ身体に触るし、誰も反対する人はいなかった。
新しい部屋に通されたエミリーはまた喜び、車椅子から降りて歩きたがった。大人たちの目が一斉にわたしに許可を求めるように集中して、ノーとしか言えないわたしは少し居心地が悪くなる。
「まだ傷が引き攣れるはずよ。痛みが出たら可哀想だから、あと数日は我慢ね」
「でも、おねえさん、ちょっとだけ」
「主治医の先生がOKなら。もうすぐいらっしゃるんだから待って。それまではクリードが抱いて歩いてくれるわ」
突然わたしに言われたクリードは驚き顔になったが、わたしが少し揶揄を含めた笑い方をしてみせると、苦笑して「そうだな」と言った。
「よし、少しだけだよ」
歳の離れた妹を車椅子から抱き上げると、エミリーだけではなく家族たちも喜んだ。アメリアが先に立って部屋のあちこちを案内し、エミリーは兄の腕の中できゃあきゃあと喜ぶ。光が差し込むバルコニーへの窓が特に気に入ったのか、お外に出たいと早速ねだり、大人たちを困らせた。
「クリード様、先生方がご到着です」
執事が穏やかに告げに来た。
「小児科部長の先生、主治医の先生、それとお薬についてご説明なさる先生と、その先生のSPと言う方が」
「SP? 薬剤師に? 凄いな、どんな薬剤師なんだ」
エミリーを車椅子に戻し、クリードが主治医たちを迎えるために服装の乱れを直す。最初は応接室で会うと言って部屋を出ようとしたクリードとアビゲイル、それから母親が、アメリアと一緒にエミリーの部屋に残ろうとしたわたしを振り返った。
「ルル、きみも。一緒に話を聞いてもらわないと」
「後でここに診察に来るでしょう、その時でいいわ」
クリードたちだって医者に詳しい話を聞きたいはずだし、医者はそのために専門用語を避けて、噛み砕いて説明をしたいはずだ。その時に知識がある専門家が同席していると、家族たちが専門家に頼り、内容をよく理解できないことがある。今後のためにもそれは避けたかった。
クリードたちを送り出してから少し窓を開け、空気を入れ替える。大人たちが出入りした部屋の空気は案外すぐに濁るからだ。アメリアはエミリーに新しいぬいぐるみを見せて喜ばせてやっていた。白人社会から出なければ、アメリアは素晴らしく優しい女の子だった。彼女からすればわたしが異物で、自分の世界に図々しく入り込んだ存在なのだ。あの態度は仕方ないと分かっていた。
「ルル」
一瞬誰に呼ばれたのか分からなかったけど、アメリアだった。猿じゃないのね、と言い返してやろうとしたけど、エミリーの手前呼べなかっただけだと気が付いたので「何」と答えるにとどめておいた。
「エミリーはいつになったら外に出られるのよ」
「わたしが決めることじゃないわ。主治医に訊いた方がいいわね」
「ルルはどう思うって訊いてるの! ば──」
馬鹿じゃないの、って続けたかったのかもしれない。よく我慢したわね、妹への愛って凄い。
「あのね、そういうのは主治医以外が簡単に言っちゃいけないの」
「ふうん、責任問題になるから? 大人ってそういう──」
「命を預かるからよ」
わたしは言った。言ってから、そうだ、って思った。命を預かる。その言葉の重みを思い出した。アメリアがわたしをからかう顔をやめて、真面目な──初めて見たかもしれない、真面目な顔になった。
「患者ひとりの命を預かるの。誰かが言った迂闊で無責任な一言で、その命のバランスが崩れないなんて誰に言える? 主治医はそのバランスを取り続ける人なの。バランスを取る立場じゃない者が勝手なことを言うのは御法度よ」
アメリアが急に不安そうな顔になった。エミリーは話が分からないのか、わたしとアメリアを交互に見ている。アメリアのためじゃなくて、エミリーが混乱しないように、わたしは少し付け加えてやることにした。
「エミリーはもう重大な心配をする必要はないって、主治医の先生が確信したから退院になったのよ。そこまで心配しなくていいわよ、おねえちゃん」
「──何よ、ビッチ」
猿にからかわれたと思った少女は、妹の前でも遂に抑え切れなかった一言を口にしてわたしを笑わせた。
しばらくするとクリードたちが戻って来た。今度は医者たちも一緒だと言う。主治医が診察をする間、わたしはクリードとアビゲイルと一緒に小児科部長と薬剤師の話を聞くことになった。兄妹には同じ話になってしまうけど、部長と薬剤師が男性だから気を使ってくれたんだろう。
「その薬の先生──薬剤師じゃなくて、薬学に詳しい医者だった。彼が凄い人らしくてね。フォート・デトリックの、あるプロジェクトの主力メンバーなんだそうだ。それじゃSPも納得だ」
「──フォート・デトリック?」
「ああ、日本人は知らないよね。軍の研究施設で──」
クリードが説明してくれるけど、過去のわたしは知っていた。フォート・デトリック。わたしは知ってる、って、強く思った。でもそれをクリードに言う前に応接室に着いてしまった。
応接室の前にはスーツ姿の男性が立っていた。赤毛が目を引いた。薬の先生のSPだよ、とクリードが教えてくれた。
「先ほど話した彼女だ」
クリードの説明に、赤毛の彼はわたしを一瞥すると、応接室のドアを開き、通してくれた。
そしてわたしは息を呑んだ。小児科部長は以前にも会っている。でも、その薬剤担当の医者は初めて会うはずだった。
そう、初めてだ。
夢の中以外では。
銀髪の彼はアイパッチをつけていた。その下の引き攣った痕をわたしは知っている。仕立ての良いスーツとアスコットタイがとても似合っていて、映画俳優みたいに素敵だった。夢の中ではカジュアルな格好をしていたから、余計に素敵に思えた。
赤毛のSPがすっと音もなくソファに座る彼の後ろに近寄り、腰を折って耳元に何かを囁く。彼は頷いてわたしを見た。SPがわたしのことを説明したのかもしれなかった。
「私とは以前お会いしていますね。あの時のあなたがいなければ、エミリーは大変なことになっていた。我々の過ちを正す機会を与えて下さってありがとう」
あの日よりかなり丁寧な態度で、小児科部長はわたしに言った。普通なら握手を求められるところだけど、まあ、部外者で、しかもわたしみたいな奴とは──と思ったら、アビゲイルが耳打ちしてくれた。
「身体に触るようなことは絶対にしないで、って言ってあるから大丈夫よ」
そういうことか。アビゲイルの気回しには感心するしかない。そしてありがたかった。握手くらいは平気だと思うけど、一体何が引き金になって、昨日のようなことになってしまうか分からない以上、用心に越したことはなかった。用心される彼らには失礼だけど、どうか許して欲しい。
「それから、彼が」
部長が銀髪の彼を示す。彼がわたしを見て、目が合った。
その途端、わたしの心臓が跳ね上がった。驚いたんじゃない。これは──嬉しいんだ。喜んでる。わたしはこの人に会えて、とても嬉しい。
「ドクター・キリー。薬学のプロフェッショナルで──」
ああ、とわたしは呻きそうになった。でも今この場に相応しくないことは分かっていたから、何とか我慢した。
キリー? 名前が違う。キリコじゃなかったの? じゃあベネット軍曹は違う人の名前を言ったの?
「今はフォート・デトリックの研究員契約をしている医師です。エミリーの薬について──」
部長の言葉を聞き取るのが大変だと思うくらいに、心臓の音がうるさい。何とか冷静な顔を保って部長の話を聞いている振りをする。たまにドクター・キリーの視線を感じた。
彼はわたしを知っているの? ベネット軍曹が言ったことを考えれば知らないはずがない。でも全然そんなことを言わないし、態度もあくまで初対面の紳士だ。
握手もできないんだ。急にそんなことを思った。アビゲイルがわたしを守ってくれようとした好意に、不満を持ってしまう自分が恩知らずに思えて仕方ない。でも本音だった。握手をしたかった。
ううん、握手じゃない。
触れたいんだ。
「では説明を。資料がこちらで──」
コーヒーテーブルを挟んで向かい合わせに座り、ドクターがわたしに説明を始めた。かなり専門用語を使っていたけど、わたしにとっては全く問題なかった。ドクターに気を取られて話の理解が疎かになることもなかった。これは自分でも驚いた。そのうち自己分析もできないくらいに話に集中する。
「この薬は決まったこと? 完全に?」
「変更はいつでも」
「これは子供には強すぎる。変えるべきよ。他はこれでいいわ」
「──If you say so」
あなたがそう言うなら。言われたわたしはなぜか集中を途切れさせてしまった。その言葉には何も特別な意味なんかないはずなのに、急にわたしの意識の奥底にある何かを叩いたようだった。
資料から顔を上げ、ドクターを見る。ひとつだけの青い瞳がそこにあった。目が合った。ドクターが唇を僅かに綻ばせた。わたしは笑い返すことができず、また資料に目を落とした。
心臓が痛いくらいに速く、大きな鼓動を響かせている。隣に座るアビゲイルに聞こえたらどうしようって心配になるくらいに。
「ではその薬を──に変更しましょう。他に変更がなければ私の説明はこれで」
「ルル、いいかい?」
「ええ、これでいいわ」
クリードの確認にわたしは頷く。それからどうしても我慢できなくて、両手で顔を覆って俯いてしまった。アビゲイルが慌ててわたしの肩を抱き、どうしたの、と物凄く心配してくれる。きっとわたしが昨日のような状態になったんじゃないかって思ったんだろう。でもわたしは何も言えない。何て言えばいいのか分からない。
「彼女が疲れたようなので、これで失礼を」
クリードが部長とドクター、それからSPに要請した。わたしは顔を上げることもできなくて、心配しきって抱き締めてくれるアビゲイルに申し訳なくて仕方なかった。
絶対に言えない。こんな日に、こんな席で。
言えるもんですか。
ドクター・キリーが素敵すぎて、見詰められていることに照れて、顔が熱くなったから、恥ずかしくて隠しちゃったなんて。