「……ドクター、顔が怖い」
「生まれつきだ」
「嘘おっしゃい。まあ、気持ちは分かるけど」
盗聴器から聞こえる音声に、俺の顔はポーカーフェイスを貫き切れなかったらしい。そりゃあそうだろう。泣きじゃくっている俺の女が、下心を隠さない男に至近距離で愛を囁かれているのだから。
ただ、我ながらどん底まで不機嫌の理由はそれだけってわけじゃない。思い出したからだ。俺はロンドンでBJに愛していると言いながら、俺を愛するなと突き放した。今思えば一方的な思い込みと勝手な理由で突き放した。それがこんな形であいつに影響しているなんて想像もしていなかった。
「流石に寝室は無理だった」
飄々と言ったのは玲太だ。日本が誇る天才が、小遣い稼ぎに闇と繋がっているなんてことを日本政府は知ってるんだろうか。堂々と国費で留学している以上、知らないと考えた方が良さそうだった。
「コーヒーテーブルの裏側に着けといた。模様替えでもしない限り見付からない。見付かっても俺に責任はない、ってのは約款にあるよな」
「理解している」
「正面玄関からBJ先生の部屋までの道筋は俺が通ったままの記載。最短距離かどうかは不明」
「充分だよ。金はマネージメントの方に振り込んである。ご苦労さん」
「あっちを通すと6割引かれるんだよな。しかも俺が日本人だからって円建てだし。今回じゃ20万円に程度にしかなりゃしねえ」
「留学中の小遣いだったら充分すぎるんじゃない?」
グラディスが冷たく言った。
「レートを考えろよ、外部業者に依頼するしかなかった公務員の白人様」
玲太は鼻で笑った。観察するまでもない。初対面のこいつらは絶対に友好的にはならない。片やアウトロー嫌いの軍人、片や小遣いのために闇の仕事を受ける学生。ここでグラディスが玲太を通報、あるいは民間逮捕しないことの方がおかしいほどだった。
「仲良くしろとは言わないが、俺の前では丁々発止をするな。我ながら機嫌が悪い」
「そりゃごめんね、おっさん」
「おっさんはやめろ」
「キリコさん」
「及第点」
「この赤毛の白人様ってどういう奴? あのクソ娘はフォート・デトリック警備の少尉って言ってたけど、絶対違うだろ」
「グラディス、自分で取り繕え」
違うと認めたも同然の俺の返答に玲太は笑い、グラディスは憮然とした。だが先に玲太について説明しておいたことを重々理解しているのか、グラディスが溜息をついてから話し出した。
「デルタフォース隊長、少佐。フォート・デトリック警備は嘘じゃないけど、アメリアに言った経歴はほとんど嘘」
「デルタ? すげえ。チャック・ノリスの映画観たよ。超面白かった!」
「映画の好みは人それぞれだね」
「士官学校を出てそのまま少尉に、ここ一年くらいはフォート・デトリックの警備をやってる、だっけ」
「そこまで聞いてんの? アメリアと仲いいんじゃない?」
「教室で取り巻きにぎゃあぎゃあ喚いてんだ、嫌でも聞こえる。ルルのことも話してた」
玲太は俺を見てにっこり笑う。俺は数秒考えてから、「後払いだ」と言った。交渉成立だ。グラディスが「経費にできないからね」と憎々し気に呟いた。
「顔の傷さえなければまあまあ見れる猿って言ってたな」
「また聞きじゃなければおまえさんを殴ってたよ」
「俺も経歴目的の留学じゃなきゃ聞きたくもねえよ。──後は頭がいいとか、運動神経もいいとか。何でもあいつがふざけて飛びかかったら、あっという間に組み敷かれたんだってさ。『驚く暇もなかったわ!』」
最後はアメリアの声真似でもしたつもりだろう。全く面白くなかったが、俺は金を払うに値する情報を得たと感じた。視線をグラディスに向けると、グラディスが俺を見て頷いた。
「咄嗟の動作ができる程度には体力がある、ってことだね」
「そうだな」
国籍関連の問題を乗り越えればデルタが救出作戦を実行できる。その時にあいつがどの程度の動きができるかどうかで作戦の難易度が変わることになる。俺は実行に関しては部外者だったが、その程度の知識はあった。俺自身、ベトナムでデルタに迎えに来てもらったこともある。その時に確認されたのは、やはり身体能力のことだった。
「あと、今日言ってたのが。『記憶が戻らなかったらにいさんの愛人にしようって、ねえさんがかあさんと話してるのを聞いちゃったの。それっていくら猿でも酷過ぎる話じゃない?』」
俺とグラディスは同時に溜息をついた。この話はアメリアからも聞いている。しかし母親まで絡んでいるとは初耳だった。
「あの超金持ちの白人様が好きになる女かって言うと、俺はそう思わなかったけどな。あれ絶対、先生の正体と利用価値を知ってるだろ」
「おまえが気にすることじゃない。他には?」
「はい」
玲太がスクールバッグから取り出したノートを俺に突き出した。受け取ってペンが挟まれていたページを開く。そこに書かれていた短い日本語を見て、俺は死ぬ気で感情を抑えた。そうでもしなければ今すぐにでもあの家に向かってしまいそうだったからだ。
会いに来て。
記憶がないはずの女が、こんな言葉を書いた。
「……ドクター・キリコって書いたんだね、きみ」
横から覗き込んだグラディスが確認のように言う。俺は恥ずかしながら初めてその事実に気付いた。俺はあの家で、ドクター・キリーと名乗っている。
「日本語読めんの?」
「これくらいなら。とにかくドクター・キリコだね? 会話でドクターの話は出た?」
「何であんたにタダで話さなきゃいけねえんだよ」
「いい気になるなよ、テロリストのクソガキ。一生出られない更生施設にぶち込むぞ」
グラディスの声が低くなる。3年前、わずか14歳の時、家族旅行中のロサンゼルスで数十人を殺した史上最年少の爆破テロリストは唇を尖らせ、ソファに深く腰掛け直した。
「やめてくれよ、将来的にはあんたの国で兵器開発をしてやろうって言う天才様なのに」
「うちの国と司法取引しただけだろう。僕は許してないし、態度によっちゃ一般メディアにぶちまけてやる」
「グラディス、今はやめろ。俺が払う」
「いいよ、経費で落とす。申請書にこいつの本名書いてやるけどね」
「ふざけんな、俺が金で情報売ってるってバレたらまじで更生施設にブチ込まれるじゃねえか。信号無視もしないいい子で更生した振りしてんのに冗談じゃねえ」
「だったらいい子にして喋りな、そうしたら書かないでやるよ」
俺が止める間もなく、この中では間違いなく最も銃器の扱いに長けたグラディスが流れるように銃を抜いて玲太に向けた。ご丁寧に安全装置まで瞬時に外している。俺は溜息をつき、玲太は眉を顰めて話し出した。グラディスの態度が本気だと嫌でも分かったのだろう。
「ドクター・キリコの名前は口にしてない。家の人間に聞かれたくないって、キリコさんが依頼の時に言ってたからな。でもこれなら聞かれないだろ」
「俺の名前を敢えてここに書いて伝えた理由は?」
「アメリアが教室で言ってたことが引っかかった」
「何に引っかかった?」
「『俳優の──が大好きなんだって。ねえさんが集めてあげた雑誌やブロマイドを何回も見返してるの。猿でもいい男は分かるのね』 だとさ」
俺も名前程度は聞いたことがある俳優だった。だが、玲太がわざわざ情報として売る意味が分からない。するとグラディスが「ああ」と得心した声を挙げた。
「あの俳優、銀髪に近い」
「──神よ」
それしか言えなかった。他に何を言えって? 記憶を失くしても俺の姿を追い求めようとする健気な女への愛情が、とても人前では口にできないほどに膨れ上がった。
「で、キリコさんに売れるんじゃないかなって思って確認した。ここまでで俺が売れる全部。3000ドルでいいよ」
俺は頷き、グラディスは銃を降ろして言った。
「もう帰りな。迎えを呼んでやる」
「歩いて帰れる。ここから近いし」
「黙れ。『課外学習』終了、迎えを。オーバー」
ポケットから取り出した小型無線に話しかけ、グラディスは留学生テロリストの監視と警備を行う部隊──俺は詳しく知らなったが、デルタとは別の特殊部隊らしい──を呼んだ。ものの数分でアジア系の男が現れ、玲太を連れて出て行った。
「おまえさんのアウトロー嫌いは知ってるが、多少は手加減してやってくれ。今はあいつが情報源なんだから」
「アウトローじゃないだろ、あんなの」
「うん?」
「テロリストさ」
吐き捨てるように言い、グラディスは勝手にキッチンへ向かった。奴なりに、奴の事情で感情が乱れたことは見て取れる。カウンセリングしてやる義理もないので声はかけなかったが、冷静になるためにコーヒーの力を借りに行くことを邪魔しようとは思わなかった。
やがて自分の分だけコーヒーを淹れたグラディスが戻る。落ち着いた顔になっていた。
「明後日、どうする。先生に会えるとは思うけど、まだ救出任務が確定できない。やっぱり国籍のことで揉めてる」
「これだからお役所仕事は」
「救出要請を出さない日本政府に言って。確認しますって言ってそれっきりだって、事務方がキレてた」
「まあ、面倒だろうからな。清廉潔白な医者ならまだしも、政財界のお歴々も法律無視で世話になってる闇医者だ。外務省の役人としちゃ関わりたくないだろうよ」
「ロンからもせっつかれてんだよね。先生が心配で仕方ないみたい。だったら大統領命令出してくれって感じ」
「出せるもんかよ、こんな件で」
「言ってみただけ」
で、どうする、とグラディスはまた言った。俺は俺なりに立てていた予定を説明する。
「アビゲイルが俺にアプローチしてくるだろうから、多少二人で話す時間が欲しい」
「確定?」
「電話で念押ししておく」
「セックスするの?」
「しない。手を握るまで」
「ジュニア・ハイのガキの方が進んでるね」
「BJを取り戻したら切るんだ。既成事実なんざ作れるか」
想いをこじらせた女の執念深さたるや、想像するだけで怖気立つ。毎晩電話を重ねるうち、アビゲイルは確実に俺に惚れた。だがここで肉体関係なぞ持ってしまうのは悪手中の悪手だ。確かに俺の言うことは何でも聞くようになるだろうが、後始末が厄介になる。
「そういや報告が上がってた。アビゲイル、新しい服を買いに行ったんだって。普段は出入りの外商から買い付けるのに。あのブランドの本店が貸し切りのファッションショー状態だったらしいよ」
世界に名だたるブランドの名称とその流れを聞き、俺はやや背筋が寒くなった。他の手を考えれば良かったかな、と後悔しかけた程度には、アビゲイルの心が重かった。
ルルと言う女の部屋に取り付けた盗聴器は静かだ。盗聴器に近いソファで眠っているのか、女の寝息が微かに聞こえる程度だった。眠れているなら大丈夫か、と安心しかけて、それから俺は溜息をついた。滅多にないことだがグラディスが俺の肩を叩いた。
女がうなされて泣き出してしまっても、起こしてやれない、大丈夫だよと言ってやれない今が、今に甘んじる自分が、この状況を作り出したオールドマネーの人間たちが、憎いと思った。
その夜、いつもの時間にアビゲイルに電話をする。ここのところは世間話ばかりで、明け方まで話し込むことはない。だが午前0時を回る時は多く、流石に俺はフォート・デトリックでの仕事中に口にするコーヒーが増えた。体力がある男の俺でさえそうなのだから、アビゲイルは朝寝坊をしているかもしれない。
アビゲイルは世間話の一環として、ルルの話を振って来る。俺から振ることはない。彼女の人生では大きな刺激になっているのだろう。誰かに話したくてたまらないのだ。
『アメリアが日本から留学に来ているお友達を連れて来て──男の子だったのが悪かったのかしら。また調子を悪くしてしまったの』
それは本当に心配している声で、この女の性質は元々善に近いのだと思えるものだった。たとえルルと言う女を弟の愛人の座に収めようとしていても。階級に歓迎されない素性と見た目の女と結婚されるよりは、愛人として囲い込んでしまった方がましという考えなのだろう。アメリアもそれを感じ、だからこそルルを気にしていた。
『アメリアは何度言っても分からない子なのよ。どうしてルルにそんな嫌がらせばっかり』
「嫌がらせではなかったかもしれませんよ」
『え?』
「その留学生の男の子、日本人でしょう。お互いに日本人だから、会わせたら喜ぶと思ったのかもしれませんね。話が弾んだかもしれない」
『ああ、──ああ、そうね。そうかもしれないわ。数学の世界大会だったかしら? そんなことを話していたって、ミアとケイラが言っていたし。やっぱりお医者さんなのね、数学が得意なんて』
使用人がルルの部屋での出来事を全て報告しているという予想はあったが、これで確定だ。次にあの家に行った時、もしBJが自室に籠っていたら、俺からの接触はかなり難しいことが予想できた。できればエミリーの主治医と一緒に薬効確認の席に顔を出してくれるといいんだが。
『でも本当に心配なのよ。ああいうのは──その、ルルが男の人を怖がるのは、一生治らないのかしら』
「それは何とも言えません。心の問題はまだ難しい領域ですから。ただ、研究が進められているのも確かです。私も今、一番力を入れている分野ですよ」
『ドクターが?』
アビゲイルの声が弾んだ。よし、引っかかった。他人に命令することに慣れた女は当然のように言うだろう。ドクター、ルルを診てあげて頂戴。
『ドクター、ルルを診てあげて頂戴。もちろんドクターの御都合次第で結構なの。お願い、彼女をあのままにしておくなんてできないわ』
ベネットに小切手の振りをしてメモを渡したり、銀髪の俳優がルルへの刺激なると見抜いてすぐに雑誌やブロマイドを手配したり、そして何より、今はあの家の中を母に代わって取り仕切っていたりと、それなりに頭のいい女であることは確かだった。だが男に耐性がなさすぎる。
「彼女が望むのなら喜んで」
クリードが同席したがるなんて目に見えている。あまり欲張るのはやめるべきだ。男性恐怖症に関するカウンセリングなのだから、男性である俺と二人切りにされるとは思えない。取り敢えずは精神状態と健康状態を確実に把握することを目的にしよう。
この電話は俺が許可した上で盗聴されている。ここ数日でアビゲイルからそれなりにまずいことも聞いた。オールドマネーの中でも現政権に批判的なこの家に横槍に辟易しているFBIは、これで交渉が有利になると大喜びらしい。そのFBIも次の俺たちの訪問後に、クリードとようやく交渉を始める予定だった。
交渉が始まることは歓迎だが、オールドマネーに対するFBIの含みなど俺には関係ない。その点は勝手にすればいい。ただ、クリードを悪感情の方向へ刺激するのはやめて欲しかった。意地を張ってBJを返さないなどと言い出したら、今度こそデルタが突入するしか道がなくなる。
その時、キャッチホンが入った。時計を見る。午前1時に近い。こんな時間に電話を掛けて来る人間にろくな奴はいない。つまり俺の世界の人間だろう。
「アビゲイル、失礼。キャッチが入りました」
『こんな時間に?』
「フォート・デトリックで何かあったのかもしれません。今日はこれで。──明日は電話ができないかもしれませんが、明後日には必ず伺いますよ」
『──待っているわ』
嬉しそうに熱っぽい返事をする女に就寝を勧める挨拶をしてから、電話を切り替えた。
「Hello?」
『Hello、夜中に失礼』
わざとらしく米語で挨拶して来た男は間久部だった。
「何の用だ。こっちはもう1時なんだが」
『寝てるとは思わなかったからね。急ぎなんだ、いいだろう?』
「どうぞ」
『クロちゃんが最後に診た患者が分かったんだ。知りたい?』
「知りたいね。きみが言うなら間違いがない」
『高い評価をありがとう』
「先に言っておくが、この電話はFBIとCIA、デルタフォースに盗聴されている。それでもいいならぜひ話してくれ」
『すごいね。ドクター・キリコはどれだけ重要人物なんだか』
「俺じゃない。きみの幼馴染が重要人物なんだよ」
『なるほどね、分かるよ。──住所は今いる家から遠くない。同じ地域でね。要はオールドマネーの一人だ。名前は──』
盗聴されているのは分かっている。それでも話すと言うことは、聞かれても構わないと判断しているというわけだ。俺はありがたく話を聞くことにした。盗聴器の向こうで公務員たちも固唾を呑んでいるだろう。何しろ普段は余りにも探りにくい特権階級の、他のオールドマネーの家のことまで分かるわけだから。
『そこの12歳のお嬢さんがガスオーブンを爆発させてね。バラバラってほどじゃあなかったし、一命は取り止めたけど、爆傷って言うに相応しい傷を負った。クロちゃんはその整形を依頼されたんだよ』
俺は暫し黙った。数秒ほど考えを巡らせる。ひとつの仮定を導いてから、それで、と間久部を促した。
『ところがクロちゃんの姿を見たそこの家の奥様がね。こんな顔になるくらいなら殺してあげた方がましだ、って錯乱しちゃってね。失礼だよな、あんな美人に』
「見る目のない奴ってのはどこにでもいる。それで?」
『命の危険はもう乗り越えてたらしい。でも母親がその状態じゃ話にならないってんで、クロちゃんは後日、改めて依頼をするように言ってその家を出たんだそうだ。どうだい、ドクター。ある程度、話が繋がったんじゃないかな?』
「あいつがクリードの家の車に跳ね飛ばされたのはその直後、ってところか」
『時間的にもその可能性が高いね』
間久部はBJがその依頼の話を持ちかけられたと考えられる日にちを逆算し、俺に教えた。俺は納得した。この家のからの帰り、BJはクリードの母が乗る車に轢かれ、病院に運ばれることなく、クリードの家に連れ込まれたと考えることが一番妥当だ。
そして間久部には言わなかったが、小児科部長が俺たちに語ったことは真実だったのだと裏が取れた。小児科部長はこの家にBJを紹介したのだ。彼の話はそこまでで終わりだったが、これでBJの失踪までの全てが繋がった。
『で、普通なら情報料を請求するところなんだけど』
「欲しいものを言え。どうせ交換条件だろう」
『話が早いな。頭が良い人は助かるよ。──いや、真面目な話なんだけど、クリードの家。あそこ、今かなりやばくって』
「何がどうやばいんだ」
『赤毛のデルタくんから聞いてない? 正義の味方のクリードくんが、闇と手を切ろうとして随分性急なことをしちゃっててね。ここまでいいかな』
「理解した。赤毛に聞いた通りだ」
『情報料として求めるものを説明する。よく聞いてくれ』
「どうぞ」
『確実にデルタを突入させて救出して欲しいんだ。近いうち、あの家が襲撃される』
「──10秒待ってやってくれ。今、盗聴してる連中が慌ててメモしてるだろうから」
受話器の向こうで間久部が大笑いをした。かと言って品がないわけではなく、欧州有数の勢力を誇るマフィアのボスとして求められるものを持っていると知らしめる笑い方だった。
きっかり10秒後、間久部が話を再会する。
『日程は分からない。でも近いうち、だ。襲撃に相応しい時期はデルタなりFBIなりが早急に割り出すんだね。できれば襲撃前に救出して欲しいんだけど、何か難しいって言うじゃない、国籍だか何だか』
「……よくそこまで知ってるな。説明の手間が省けてありがたいよ」
FBIなりに部下が潜り込んでいるのだろう。それは政府側が考えるべきことであり、俺が憂慮してやることじゃない。
『だからさ、思ったんだけど。これ、苦肉の策って言うか、言うのがすっごい嫌なんだけど』
「早く言え」
『ドクター、結婚しよ?』
一瞬で全身に鳥肌が立ち、目眩までした。何を言っている。いきなり何を言っているんだ。結婚? 俺と? 間久部が? いや、確かにフランスは同性婚を認めている。だが何だってこの流れで──しかし受話器の向こうで間久部が唐突に慌てふためいた声を出した。
『違う! ぼくじゃない! ぼくじゃない! ぼくとドクターじゃない!』
「落ち着け、一人称が可愛くなってるぞ」
こっちが間久部の素か、と現実逃避のために考えながらも、辛うじて残った冷静な部分が間久部の言いたかったことを的確に理解した。だがそのこととて、はいそうですかと受け入れられるものでもなかった。
『失礼。いや、俺とドクターが結婚するなんてとんでもなくってね』
「分かった。言いたいことは分かった。きみが果てしなく嫌がる理由も分からないことはない。でも無理だ」
『何が無理なんだい』
「彼女がここにいない。結婚宣誓書にサインができない。国際結婚には半端ない数の書類と手間と時間が必要になる。とてもじゃないが間に合わない。それ以前に彼女と俺に結婚の予定はない」
『偽造すりゃあいいじゃないか』
「俺は積極的に犯罪を犯して生活してるんじゃないんでな」
『名案だろ?』
「赤毛と相談する。情報をありがとう。また何かあったら知らせてくれるとありがたい、もちろん払うものは払う」
お互いにすっきりしない挨拶をして電話を切る。余りに驚き過ぎて本気で貧血が起きるかと思った。煙草に火を点けてソファに沈み込む。暗黒街の皇太子の慌て振りが盗聴していた連中にも知られたかと思うと少々気の毒になった。
しばらくして電話が鳴る。もう誰だと訝しむ気にもなれない。寝る前に聞きたい声じゃなかったが、電話に出なければ家まで来る。そういう奴だ。
「……Hello」
『Hello。現実問題としてそれはそれでいいんじゃないかって、FBIから連絡が来たんだけど』
「BJがいないんだ。できるはずがない」
『抜け道はいくらでもあるわけなんだけど』
「グラディス」
『何』
「棒読みだ。おまえさんも採用したくないんだろう?」
淡々と話すのではなく、いわゆる棒読みで話し続けていた男は相変わらず棒読みで「うん」と答えた。
『偽装結婚したアウトローを税金使って助けるなんて嫌だ。上の命令が出るってんならロンから出るレベルじゃないと嫌だ』
「おまえさんの言いたいことは理解できる。他の手段を考えてくれ。俺は頭痛がしそうだ、今日はもう寝るよ」
『お休み、悪夢見ろよ』
「そっくり返す。お休み」
何でこんな男とお休みの挨拶をしなければならないのか。本気でうんざりした。早く恋人に戻って来て欲しくてたまらなくなった。
当たり前のように同じベッドに入って、当たり前のようにお休みと言えた日々がどれほど幸せで愛しいことか。そんなに昔のことでもないのに、なぜかとても懐かしかった。
翌朝、寝不足と戦いながら家を出る。今日は新しい防護服のチェック作業をする予定だ。寝不足を理由にミスをするわけにはいかなかった。いつもの店でコーヒーを前に一服する。施設内全禁煙の一日がまた始まる。何度もここで仕事をするうちにもう慣れたが、俺もそろそろ禁煙するべきか。
今日の予定を頭の中で反芻していると、隣の席の二人組の女たちが節度を持った声で噂話をしていた。朝から好奇心旺盛で結構なことだ。
そして俺は深く煙草を吸い、長く煙を吐く。考える時の癖だと言う自覚はある。
女たちの話はそれなりに興味深かった。あの病院の小児科で誤診が。よりによってオールドマネーの家で。でも誤診を見抜いたのが日本人の医者で。女性で。全身傷だらけで。顔にも傷が。今は家に入り込んで。あの家の当主がかなり執着してるって。
噂話の内容としては何ら目新しいものがない。だが、「外部で噂になっている」ことそのものが問題だと言えば問題だ。普通、オールドマネーの家の中の話は外部に漏れない。
考えられることは二つだ。ルルの存在を良く思わない者が、ゴシップとして騒がせて追い出そうとしている可能性。
もう一つは、クリード、あるいは家族の誰かが敢えて噂として流した可能性。
なぜ敢えて家の中の噂を流すのか? 簡単な話だ。既成事実にしようとしている。やり方が上手いとはとても言えないが、逆に考えてみれば分かる。『既成事実にしてルルを外に逃がさないようにする』。特徴のある外見と記憶障害で、あの家を出たとしても、ルルは生きにくいはずだ。まともな仕事に就けるかも分からない。もちろん記憶があろうがなかろうが俺が即座に日本に連れて帰るが、問題はそこじゃない。
オールドマネーの男に目を掛けられた、そして既成事実があると誤解された女を雇いたがるワシントンの人間などいない。もっと簡単に言えばワシントンのまともな社会で生きて行けない。
クリードがルルを外に出さないよう、出ても生きて行けないよう、結局はクリードの元に帰るよう、先に手を回し始めている可能性がある。正義感が強いと有名なクリードがそんな真似をするか?──ああ、するだろう。
それがルルのためになると考えているのであれば。
それが正しいと思うのであれば。
と言うことは──俺は考える。そしてひとつの結論に達した。
ルルはあの家を出ると言う意思表示をした可能性がある。