色んな人が歌ってきたように 04

「まざー、ふぁっかー……」
 報告を受けたグラディスが放送禁止に指定されている罵り言葉を弱々しく吐いてソファに沈んだ。俺も似たような気分だった。報告したベネット軍曹が決まり悪そうに俺たちを見ている。俺からデルタの隊員に何かを言う筋合いもないので黙っていたが、正直、それはないだろう、と思う。
「え、それ、何で連れて帰って来てくれなかったの……」
 グラディスの声が本気で弱々しい。ベネットは鼻の頭をかき、説明を始めた。
「あの状態で連れて帰るのは無理だったんだよ。隊長から正式な命令が出てるわけでもなかったし、人目があったし、連れて帰る手段を考える前にオールドマネーの女が出てきちまったし。大体、俺は懲罰のボラで行ってただけなんだ。無線も持ってなかったから隊長に連絡もできなかったしさ。騒ぎになって俺がデルタってのがバレるのもまずいし」
「これからは酒に酔ってバーの備品を壊したクソ野郎は無線を持ってボランティアに行くように命令しよう、そうしよう。デルタの新しい規則だ」
 特殊部隊員の懲罰理由としてそれもどうなんだろう。俺はしみじみ思ってしまった。デルタフォースってやつは軍でも生え抜きのエリート揃いのはずなんだが。映画なんかじゃ荒くれ者が集まってる描写が多いが、実際は素行も成績も良い奴じゃなきゃ入隊試験すら受けられないはずなのに。
「あいつが記憶喪失か。演技かもしれんが」
「演技じゃないでしょ。ドクターの名前に反応しないなんて、いくら演技派でもあの恋の盲目クソビッチには無理」
 物凄い言いようだ。とはいえ、それもそうだなと納得する俺は自惚れが強いのかもしれない。それからちょっと辛い。好きな女に忘れられているという事実が余りにも切ない。
「やっぱりオールドマネーか。しかもアビゲイルってあいつだ、前の当主の長女でクリードの姉貴だ。あの界隈のボランティアの女王様だよ」
「ボランティアにBJを引っ張り出したってことか。想像が難しい」
 あの金の亡者がボランティア。有り得ない。うん、記憶喪失──俺たちの界隈じゃ記憶障害って言うんだが、それだってのは本当に本当なんだろう。少々下世話な理由だが、俺は完全に納得した。たまに治療費をタダ、あるいはタダ同然にすることもある女だが、それはあいつなりに納得できる事情がある時のみだ。大金持ちの慈善事業に笑顔で同行するようなことは絶対にない。
「まあいいや、録音で記録してるからとりあえず続ける。彼女の服装や髪形、外見に彼女っぽくないとこは? ホワイトハウスの撤収の時に見てるだろ、いっつもあの格好なんだ。あれを参考に思い出して」
 ベネットは考える様子も見せず、あっさり答えた。
「そういや名前、ルルって呼ばれてたな」
 俺は眉をひそめてしまった。BJは自分の名前すら思い出せていない可能性があると思い至ったからだ。
「服はワンピースで、髪はアップヘア。傷があってもめっちゃ可愛かった。メイクすりゃもっと可愛かったはず」
「ベネット、僕の目の前でドクターに喧嘩売るのやめて!」
 グラディスが本気で悲鳴を上げた。よく俺の殺意が分かったな。流石優秀なデルタ隊長だ。そうとも、俺はベネットに殺意を抱いた。お門違いと分かっていても。
 ワンピースとアップヘア。俺だってあいつがそんな格好をしているところを見たことがない。それをこのベネットが。通算2回しかBJに会ったことがない、しかも話したこともないはずの赤の他人が。これが殺意を抱かずにいられるか? いや、無理だ。
「あ、あと、これもらった。オールドマネーの女に」
「何で先に出さないんだよ、馬鹿。死ね」
 ベネットが差し出した小切手を受け取り、煙草に火を点けようとしながらそれを見たグラディスは、煙草を置いて俺にその小切手を渡した。
「──誰のだ、アビゲイルか?」
 書かれていたのは魅惑的な金額ではなかった。だが今の俺たちにとってはかなり魅惑的な数字だった。
 電話番号、そして時間だ。時間はアビゲイルが受話器を取れる時間帯だと考えらる。
「アビゲイルだろうね。オールドマネーの個人的な連絡先なんて、普通じゃ手に入らないよ。ベネット、うまく誑かしたじゃないか」
「まあ、俺はいい男だからな。──ってのはともかくさ、アビゲイルは何て言うか──BJ先生に思い出させたくないみたいだった。先生が俺に質問するのを異常に遮ろうとしたり、俺を早く遠ざけたがったり」
 沈黙が降りる。俺はベネットが言ったことについて考え、グラディスもおそらくそうだ。
「忘れてた」
 不意にグラディスが言った。
「生きてた。良かったじゃない、ドクター」
 確かにそうだ。俺は苦笑する。この男が実は細かい気遣いをする人間だということに、実は以前から気付いていたなどと認めたくなかった。
「少し正攻法で行ってもらうか」
 グラディスが俺に言う。こいつの口から正攻法と言う言葉が出ると妙にいかがわしいが、今はそんなことを言う気にもなれない。
「正攻法?」
「FBIにクリードと交渉してもらう。先生を返すようにって」
「返すも何も、あいつの意思でいる可能性は?」
「記憶喪失になる前か、なった後かで話が変わるね。もし先生の意思であの家にいるとしても、僕は記憶喪失になった後だと思うよ」
「理由は?」
「先生がピノコちゃんにここまで長期間何も連絡しないのはおかしい」
「──正攻法で」
「お任せあれ」
 俺と同じ理由を考えていた赤毛と握手を交わし、今後の方針は決定した。ああそうだ、闇に探してもらう必要はもうない。後で電話で連絡をしよう。今日の分までの報酬はいくらになることやら。
「これはどうする」
 グラディスにベネットから渡された連絡先の小切手を見せる。グラディスは少し考えた後、「あげる」と言った。
「僕がもう覚えたからFBIにそのまま伝えられる。後は自由に使って」
「──俺にも動けと?」
「動くなって言ったら?」
「従う義理はないな」
「でしょ。動くなら見える範囲で動いてくれた方がましってこと」
 勝手にしていい、だが勝手にしすぎるなという要請だ。聞いてやる義理はないが、その方がBJの安全に繋がる可能性が高い。クリードたちの目的が分からない以上、あまり派手なことをするつもりはなかった。
 だがこの電話番号の価値は計り知れない。アビゲイルがベネットに渡したのは、ベネットに連絡をさせるためじゃない。BJを知る誰かがいると察して、その人物に渡るようにとベネットに託したのだ。
 クリードとアビゲイルの間で、BJの扱いについて意見が分かれているのかもしれない。当主のクリードと同じ考えなら、まるで他人から隠すように連絡を取ろうとはしないはずだ。
 俺は過去の仕事でオールドマネーと繋がったことはないかを思い出そうとした。答えはすぐに出た。あるにはある。だがいずれも、二度と連絡をしないという条件で破格の報酬を受け取っていた。個人的な搦め手は使えないようだ。
 手元の小切手を見る。手帳ではなくこんなものを持ち歩いているのかと思ったが、そうではない、ともすぐに思った。BJに──ルルに連絡先を渡したことを知られたくなかった可能性がある。
「赤毛」
「赤毛って言うな」
「分かった。で、赤毛」
「死ね。何」
「この家に異性を性愛対象とする男か、外見にこだわらない、あるいは──言いたくない言葉なんだが、酷形愛好者はいるか?」
 グラディスは暫し考える顔をしたが、静かに言った。
「異性を性愛対象とする、まあまあ見る目のある男がいるよ」
 俺が言いたくないと言った最後のセンテンスを上手いこと消してくれたものだ。
「誰だ」
「当主のクリード。あいつは筋金入りのミスター・ライト(正しき男)だね。あらゆる差別を嫌ってる。代替わりの時、差別意識がある旧い使用人を何人も辞めさせた程度にはね。代々仕えてる執事まで辞めさせた。オールドマネーの中じゃ結構な噂になったらしいよ」
「情報の出所は?」
「FBI。これは今回の件と関係なしに定期的に上がる報告に入ってた情報」
 俺は頷いた。俺の質問でグラディスとベネットも同じ可能性に気付いたのか、異口同音に「めんどくせえなあ」と呟き、俺は少し笑った。
 だが俺は少しばかり、この二人と違う見方をしているかもしれない。もしもクリードが性愛、いわば恋愛対象としてBJを見ているのなら、そしてBJが──ルルと言う女がそれを受け入れるのであれば、記憶が戻らない方がおそらく幸せになれるだろう、と思うのだ。
 今はそれをグラディスには言わないでおくことにした。まずは手の中にある小切手の数字をどう使うかだ。FBIに先んじるか、それともしばらく傍観するか。
 FBIの動きの速さには期待できなかった。何しろオールドマネーの一家だ。この国では一般人の想像以上にオールドマネーという特別階級の存在、権力は大きい。彼らの家族の一人を助けるためなら、きっと数百人が殺されてもおかしくないほどに。そんな相手に早急な働きかけができるはずもない。
 現状で本当に記憶喪失なのか、もしそうであれば原因は。記憶が戻る可能性があるのかどうか。いずれも俺にとっては重要な問題だ。日本で待つお嬢ちゃんにはどう知らせるか。それも考えなければならない。お嬢ちゃんの件はあまり日にちを置くのは残酷だ。
 だが、考える。考えたくないが無意識に考えざるを得なかった。
 もしも、──あいつの記憶が戻らなかったら。俺を思い出さなかったら。俺ではなくクリードを選ぶと言ったら。クリードを選ばないとしても、俺と共に生きる気はないと言ったら。
 その時、俺がするべきことは何だろうか。
「ドクター」
「何だ」
「顔が怖い。変なこと考えるならフォート・デトリックの契約を切ってからにしてくれ」
「気を付けるよ」
 軽口を叩く気にもなれず、俺は短く答えるに留めた。グラディスのようなタイプが最も嫌う答え方だと思い出したのは、随分時間が経ってからのことだった。


 アパートメントに戻り、取り急ぎ明日の仕事のスケジュールを確認する。BJに知られれば軽蔑されるだろうが、流石にこんな時は仕事をセーブしたい。俺は俺なりに動く算段も付いている。おとなしく待つ性質に産まれればまた別だったろう。もしそうだったのなら人生そのものが変わっていたかもしれない。
 そうだ、闇の連中への依頼を取り消さなければ。電話に手を延ばした時、待ってましたと言わんばかりにコール音が鳴り響いた。誰かなど分かるはずがない。でも俺の中の闇を生きる感覚が告げた。すぐに出るな。もったいつけろ。求める気配なんぞ絶対に表に出すんじゃあないぞ。
「──Hello?」
 ゆうに1分はコールされ続けた電話をようやく黙らせてやる。受話器を取って応答すると、受話器の向こうで含み笑う声がした。誰だと問う気にもなれなかった。
『Bonjour──英語? 日本語? どっちでも構わないよ』
 フランス語で挨拶をしながらその言い草だ。流石はあいつの幼馴染だと実感する。駆け引きのつもりもないはずなのに、無意識に駆け引きの準備をしている奴だった。
「米語で。英語は好きじゃないね」
『こだわるね、さすがヤンキー。米語はあまり自信がないんだ。英語で失礼するよ』
「そういう部分、きみは似ている」
『誰に?』
「俺の女に」
『ふうん』
 間久部は呟いてしばらく黙り、それからビジネスライクと言える声になった。歓迎だ。こいつの上っ面の友好的態度は御免被る。
『こっちから仕掛けて何だけど、そういう駆け引きはやめておこう。用件の予想は?』
「BJのこと以外に何かあるのか」
『ないね。こちらとしてはまだ行方が掴めてない。でもFBIの動きが急に変わったし、こりゃあ何かあるなって思ってね』
「なるほど」
『はっきり言う。情けない話だが、焦ってる』
 俺は答えなかった。だが、そうだろうな、と思っていた。FBIの動きが変わったことを既に掴んでいるのは流石の一言だが、本来ならこの男がそれだけで俺にコンタクトを取るはずがない。詳細が分かるまでは本来動かないだろう。しかし今、少ない情報だけで電話を掛けて来た。焦っているという告白は間久部を恐れる者にとっては驚天動地かもしれないが、今の間久部なら俺を納得させる発言だった。
『情報料は払う。売ってくれ』
「数分後には分かるかもしれない情報に?」
『俺が金を出すのは今だ。数分後なんて関係ないね』
「その言い方は嫌いじゃない。──俺の女の幼馴染だ、金なんか取らないさ」
『いいや、買う。絶対に』
「遠慮をするなよ」
『恩を売られちゃかなわない。これでも義理堅い方でね』
 俺の見え透いた恩の押し売りはあっさり蹴り飛ばされたわけだ。暗黒街の皇太子に借りを作っておけば、いずれ利子がついて返って来ると思っただけだった。元々成功しないと分かっていたので、俺もそれ以上は食い下がらないでおく。
「1万米ドル」
『良心的だね』
「あまり吹っ掛けると俺の命が安くなりそうでね」
 いくら間久部が現状で俺に手を出すつもりがないとしても、足元を見る──特にBJが絡んだ時のこいつの足元──のはいつか身の危険に繋がる。暗黒街の皇太子は伊達じゃない。
『即金で振り込む。信用してくれていい。クロオの名に賭けて誓うよ』
「悪くない。──居場所が分かった。記憶障害が出ている可能性が高い。呼び名はルル」
『……どこから突っ込めばいいか分からないから疑問点だけ訊くけど、どこにいる?』
「オールドマネーの──」
 俺がクリードの家の名を告げると、受話器の向こうで「1万じゃ安いな、これ10万だろ、得した」と呟く日本語が聞こえた。間久部もアメリカのオールドマネーというものがどんな存在かはよく知っていたようだ。
『追加で1万払うよ』
「それでも安いだろう。お買い得情報さ」
『……ああ、日本語上手かったね、忘れてた』
 本気で忘れていたようだ。奴にしてはきっと珍しい、ばつの悪そうな声になった。
『記憶障害? 確定?』
「確定していることは何もない。他に教えられることも特に──ああ、一応、CIAも動いてる。気を付けるんだな」
『そりゃあ素敵なお気遣いをありがとう』
「お買い上げをありがとう、ご機嫌よう」
 返事を待たずに電話を切る。金は明日口座を確認するとして、間久部がどう動くのかを考えようとしたが、すぐにやめた。どうせろくな動き方をしない。
 それから闇に依頼した件を取り消すために電話をする。いつも俺の依頼を担当する男は今日もすぐに電話に出て、俺の依頼の取り消しを聞いて、理由も問わずに受け入れてくれた。無論キャンセル料は請求されるが、それはどんな商売でもあることだ。
『ところでドクター、別件でセールスなんですが、いかがですかね』
「聞こうか」
『オールドマネーの連中がよく使う病院であった出来事についての情報、5000米ドル』
「──明日振り込むよ」
 なぜか俺は、経済活動にひどく貢献しているのではないかと言う錯覚に陥った。無論錯覚に過ぎないのだが。
『顔に傷のあるツートンカラーの肌と髪の日本人女性が、長くその病院にかかっているオールドマネーのお嬢ちゃんの病気が誤診だって、一発で見抜いたそうですよ』
 思わず笑った。担当は驚いたようだが、これが笑わずにいられるだろうか。
 医者だった。あいつはどんな時でも医者なんだ。
「その情報の出所は?」
『誤診した医者の上司です。小児科部長ですね。うちとも長くギブアンドテイクのいいお付き合いをさせてもらってます』
「楽しい話をありがとう。5000米ドル、すぐに」
『毎度。何かあったらまた連絡下さい』
 電話を切って、ソファに勢いよく沈んだ。認める。俺はようやく安堵した。あいつは医者だ。それだけでこんなにも安堵できるなんて思いもしなかった。
 オールドマネーが使う病院なら超がつく有名どころだろう。闇と関わる小児科部長と聞くと不思議な気もするが、病院の実権を握るためなら何でもする奴らは確かにいる。医は算術。決してBJを批判できないような奴らが。
 今日は電話が大活躍だ。もう一度だけ活躍してもらうことにし、俺は再び電話に向かった。どうせFBIなりCIAなりに盗聴されているだろうが、構わなかった。家の電話は追跡しないと言った赤毛を信じることにしたからだ。万一FBIやCIAが俺の電話を元に闇を割り出し、俺が闇に恨まれることになれば、赤毛がプライドにかけて収拾を付けるだろう。情報部員が何人死ぬかは知らないが。


 電話を終えて銀行に行き、スイスの指定口座に5000米ドルを振り込む手続きを終える。反社会的行為だろうが、清く正しく生きていれば俺の女が戻って来るのか? 答えはノーだ。
 銀行を出たところで、私服姿のベネットともう一人、名前は知らない、知る気もないが、俺の護衛を見付けた。特に近付いて来るでもない。いつものことだ。やや離れた場所から見るだけで、何かあれば即応する。フォート・デトリックでの仕事中は毎回こうだった。まだ即応する事態になったことはない。
 電話で指定されたカフェに入り、通されたテラス席で相手を待つ。約束の時間まであと10分だ。場所代としてやたらと高いコーヒーと煙草を味わっておくことにした。
「ドクター・キリコ、お待ち合わせのお客様がいらっしゃいました」
「ありがとう」
 店員に案内されて現れたのは、いかにも清潔で見栄えのいい、初老に差し掛かる男だった。小児科部長だ。俺が着席を勧める前に部長は黙って腰を掛けた。別に腹は立たない。互いに礼儀不要のビジネスの話をするだけだ。
「物乞いのようで失礼だが、一本頂けるか。禁煙を貫いている振りをしているのでね」
「随分と品のある物乞いだ」
 煙草の箱とライターを前に置いてやる。一服し、部長が注文したコーヒーが運ばれて来てから話を始める。周囲に人はいるが、この地域では他人の話を盗み聞きして喜ぶような下世話な人間はいない。通りを行く洒落た人々や観光客を眺めながら、俺はシンプルな話を始めた。そう、この男を呼び出したのは簡単な理由だ。闇があなたを売ろうとしましたよ、コーヒーでもいかが。そう言っただけで部長は俺の誘いを承諾してここまでやって来た。
「5000ドルで買ったんですよ。その中に入っていたんです」
 あなたの名前がね。それは言わなくても理解したようで、部長は頷いた。
 闇が売ろうとした──これは事実だ。本来なら情報の出所が個人であった場合、名前を明かすことは絶対にない。それがあっさり明かされた。闇がこの男に何かを含み、俺にあわよくば何かをさせようとしていることは簡単に想像できる。
「まずは誤診の件かな。ドクター・キリコとブラック・ジャックが懇意と言う噂は聞いているよ」
「彼女が名乗った?」
「いいや。だがあの見た目だ、分からないはずがない。──あの誤診を見抜けるのは彼女しか有り得なかった、ということも加味してね。患者は幸運だった」
 思った以上にこの部長は正面からBJを評価している。俺は顔に出さないものの、やや驚いた。こういう手合いは大抵、BJを激しく嫌うからだ。
「なるほど、名乗らなかった。話を変えますが、あなたのことを私に教える理由に心当たりは?」
 闇が俺にこの男の存在を教えた理由。心当たりがなければ気の毒だ。だがあるのなら知っておきたかった。俺にとってもあまり気分の良い流れではなかったからだ。
「恩を売りたいんだろう」
「誰に」
「ドクター・キリコに。私は少しばかり、今のあなたに有益な情報を提供できる」
「……ふむ」
「あなたは恋人の捜索を彼らに頼んでいたのではないかな」
「ノーコメント」
「ところが彼らは見付けられなかった、だから私を生贄にしたんだろう。私は別件で彼らへの支払いが遅れていてね。私からすれば今の状況は延滞利息を払っているようなものだ」
「ご無事で何より」
「ありがとう。心底ありがたいよ」
 奇妙なやり取りのように思われるかもしれないが、お互いに本音だった。闇への支払いが滞るなんぞ、考えるだけでぞっとする。よく生きているものだ。一括で支払えるような金がないのに仕事を頼んでいい奴らじゃない。
「確かに、彼らにもプライドがあるでしょうからね。私の依頼取り下げはかなり面子を傷付ける結果になったはずだ」
「電話で聞いたが、あなたが5000ドルで買った彼女の情報も、確たるブラック・ジャックという保証はない。私が彼女をBJだと言っても、私以外は確認できない状況になっているからな。見付けたという名目であなたに伝えるわけにはいかなかったんだろう」
「その辺りのプロ意識は大したものです。金を払う価値がある」
 すっかり冷えたコーヒーを口に運び、俺は新しい煙草を咥える。箱を部長との間に置き、勝手にどうぞと示した。部長は遠慮なく手に取った。
「彼女はおそらく、記憶障害を起こしている」
「知っています」
「ふうん? 私は闇にこの情報を言っていないのだが」
「蛇の道は蛇ですよ」
「追及しないでおくよ。知りたくない。──私がブラック・ジャックと呼んでも自分のことだと分かっていなかった」
「なるほど」
「更に言うと」
「ええ」
「私はその少し前、彼女と会っている。記憶障害ではない、ブラック・ジャックと名乗る、黒いコートを羽織った、随分と蓮っ葉な口を利く彼女にね」
 誰も俺に教えてくれなかった情報を、この男は口にした。
「他には?」
「なぜ会ったか、という話でいいのかな」
「そうですね、それは重要かもしれない」
「私を通して彼女に依頼した患者がいたからさ」
 俺はコーヒーを飲み干し、出来る限り静かに言った。
「私と彼女の共通の知り合いも、あなたの話を聞きたがるでしょう。ご一緒にお食事でも。今、車を手配させますよ」
「手配させる?」
 部長は眉を顰めた。俺は目立たない席にいたデルタ隊員二人に目配せし、部長を促す。
「彼らがすぐに。あなたは私と楽しくお喋りしてくれるだけでいい。──大丈夫、あなたに危害を加えることはないし、もし私たちに満足できる時間を与えてくれるのなら、遅れている返済について便宜を図るよう、彼らに私が交渉します。今のあなたにはその価値がある」
 俺の言ったことを暫く考えていた様子の部長は、ほどなくして溜息をついた。
「煙草を買いたい。店に寄ってくれ。禁煙なんかもうやめるよ」
「身体には悪いが、心には良いでしょうね」
 部長は律儀に笑った。同時にベネットが俺の横に来て、「移動か?」と小声で確認した。