色んな人が歌ってきたように 07

 エミリーの様子だけを気にかけていればいい日々は案外過ごしやすかった。薬の時間さえ守れば病状に大きな変化が出ることもない。誤診のせいで長く奪われた子供の日々を早く取り戻してあげたくて、わたしはエミリーの健康管理に熱中した。エミリーのことを考えている間だけは、記憶障害を忘れられた。
 ただ、薬の時間のたびにドクター・キリーを思い出してしまうことにはほとほと参った。
 あの人が恋人だったんじゃないか、って思ってた時もあったけど、あの反応じゃ違うんだろう。わたしは何て自惚れた妄想をしていたんだろう。あんなに素敵な男性がわたしみたいな醜い女の恋人になるはずなんかないんだ。
 でも、それなら夢の説明がつかなかった。ガリシア、アンティーヴ。どう考えたってプライベートの空間を、わたしたちは共有していた。それともあれすら全てがわたしの妄想だったんだろうか。
 でも、それじゃあ彼の妹は? あの可愛い女の子は?
「先生、ねえったら」 
 昼寝から起きたエミリーに何度も呼ばれていたらしい。慌てて「なあに」と返事をした。
「先生は、いつまでうちにいてくれるの?」
「いつまで──」
 そうだ。いつまでもここにいられるはずがない。クリードの心を受け入れれば、きっと彼がわたしに飽きるまではいられるだろうけど、生憎わたしにはそのつもりがなかった。
「エミリーが元気になるまで、いる予定よ」
 曖昧な答え方だ。何を以て元気とするかなんて、そんなの、人によって違う。
 でもいつまでもここにいるべきじゃない。クリードがわたしを見る時の目に熱が籠る瞬間を、多く感じるようになって来た。この間のように取り乱すことはないし、怖いと思うわけでもないけど、でも、違う、と思った。よく分からないけど、違う。あなたじゃない。そんな違和感が、クリードの視線を感じるたびにわたしの中を駆け巡る。
「にいさんは、先生がずっとこの家にいてくれたらいいって言ってたわ。ねえさんもよ」
「──そんなこと言ってくれてるのね。光栄よ」
 ここ三日、アビゲイルはなぜか朝寝坊をするようになった。朝食はクリードと二人の時が多くなって、更にあの視線を感じることが増えた。あなたじゃない。でもそれをクリードに言うのは間違ってるような気がする。どうしてドクター・キリーが夢の中に出て来たのか、それさえ分かればもう少し違う感情を持てるかもしれないのに。
 ドクター・キリーと言えば、明後日にはこの家にもう一度来るかもしれない。病院側がエミリーの服薬状況をチェックしにする約束だから。でもドクター・キリーは病院の人じゃなくて、フォート・デトリックの契約研究員だって言うし、来ないのかもしれない。
「エミリー、おやつだよ。もうヨーグルトを食べていいんだって?」
 仕事の合間にわざわざクリードがやって来る。彼は家族思いだ。どんなに忙しくても家族への愛情を示し忘れない。エミリーの世話をするメイドたちがわたしの分まで用意しようとしていたので、わたしはいらないわ、と言い置いて部屋を出た。
「ルル」
「エミリーを放っておくなんて、あなたらしくないわ」
 すぐに追って来たクリードを振り返ることなく廊下を進む。クリードは軽く息を吐いた後、わたしの数歩後ろを歩きながら言った。これ以上の距離を詰めない紳士。わたし以外のどんな女でも虜にするでしょうに。
「一緒に食べよう。エミリーが喜ぶ」
「家族で過ごすべきよ。特に普段は食事も別なんだもの」
「きみのことだって家族だと思ってる」
 わたしは足を止め、我ながらうんざりした顔で振り返った。釣られて立ち止まったクリードの顔が真摯で嫌になる。
「エミリーが元気になったら──そうね、歩けるくらいになったら出て行くわ。それまではよろしくね」
「どうしていきなりそんな話をするんだ」
「いつかしなきゃいけない話よ。今だっただけ」
 わたしはまた歩き出した。
「せめて記憶が戻るまではいるべきだ。ルル、よく考えて──」
 クリードが後ろから色んな言葉を投げかけて来る。記憶障害を起こしているわたしの今後を心配してくれていた。優しい男だった。
 自室の扉を開けて一歩入り、クリードを振り返る。
「エミリーのところへ行って。少し休みたいの」
 クリードの返事を待たず、わたしは扉を素早く締めた。締めようと待機してくれていたミアとケイラが肩透かしを食らったのか、珍しく困ったような顔をした。彼女たちの仕事を奪ってしまったことを心の中で詫びながら、わたしは寝室へ籠った。
 どんなに乱雑に置いても、部屋に戻れば必ずベッドサイドにきちんと置かれている雑誌を手に取って、靴を脱ぎ棄ててベッドに身体を投げ出す。またあの俳優のページをめくった。ドクター・キリーを見てから急にこの俳優への興味がなくなったけど、でも、彼の銀髪を思い出すたびに、雑誌を手に取りたくなっていた。
 あの人と二人になれる瞬間なんてないだろうけど、もし明後日にこの家に来たら、もし二人きりになれる瞬間があったら訊いてみたい。あなた、わたしを知っているの?
 もしかしたらドクター・キリーはとても有名な医者で、わたしは一方的に憧れていたのかもしれない。ああ、何だかそれが一番しっくり来る妄想だ。
 こんなことをドクター・キリーに知られたら、きっと恥ずかしくて死んでしまう。
 恋人かもしれないと思っていたなんて。考えてみればおかしいじゃない? 考えてみなくたっておかしい。わたしみたいな醜い女が、あんな素敵な人の恋人だなんてあるはずがない。
 何だか急に虚しくなって、心がからっぽになってしまった気がする。
 落ち込みそうになったから、慌ててエミリーのことを思い出した。あの子が歩けるようになるまでは、責任を持って診なくちゃいけない。今はそれが最優先であるべきで、そして、最もわたしの心を上向きにさせてくれることだと知った。
 しばらくするとアビゲイルが部屋に来た。綺麗な外出着を着ている。彼女は美しく、どんな服でも着こなせて、わたしは毎日感心していた。
「ルル、もし外出する気分になれそうなら買い物に付き合ってくれない?」
「買い物?」
「明後日、またドクター・キリー──その、病院の皆さんが来るでしょう? 新しい服が欲しいのよ。あなたの服も良かったら買わせて頂戴。外商を待つ気になれなくって」
 ああ、そうか。そうか、しか思えなかった。わざわざ病院の皆さんなんて言い直す必要、ないのに。最初に言った人の名前が全てでしょう、って言いそうになった。
 同時に、少しだけ指先が冷たくなった気がする。綺麗で洗練されたオールドマネーの女性の隣にあのひとが立ったら、ほら、想像するだけでとっても素敵。
 わたしなんかが隣に立つなんて、考える意味すらない。
「エミリーがまだ心配だから、わたしはいいわ。楽しんで来て」
 楽しそうに出て行くアビゲイルを笑顔で見送れたのは、ちょっとばっかり誰かに褒めてもらえてもいいくらいの努力だったと思う。
 目に見えない傷から空気が抜けて行っちゃったみたい。こんなに傷があるのに、肝心な傷が見えないなんて笑い話だ。
 もう一度ベッドに沈み込んで、少し眠ることにした。わたしだってまだ全快したわけじゃないんだから、って自分を誤魔化した。嫌な夢を見ませんように。しばらく、そう願って目を閉じる日が増えそうだと思った。
 うとうとし始めて、ああ、眠れそう、と思った時、やかましい声がメインルームに響き渡った。誰かなんて考える気にもなれない。学校から帰って来たアメリアの来襲だ。このまま寝た振りをしてやろうかと思ったけど、どうせぎゃあぎゃあと大騒ぎをするだろうから、数分だけ相手をして追い返しておこう。
「アメリア──……どなた」
 なぜか得意げな顔をしたアメリアと、顔中に「迷惑です」と書いている少年がいた。少年は日系人だった。黄色い猿が嫌いなアメリアと並んでいることそのものが不思議だ。
「前に話したでしょ。留学生よ。レイタ、あいつがルル。うちのホームドクターよ」
「どうでもいいし、帰りたいんだけど」
 アクセントが日本のものだ。本気でうんざりしているのが見て取れて、アメリアが無理矢理連れて来たんだってことが分かった。
「何よ、いつも一人だから日本人に会わせてあげてるのよ。感謝しなさいよ」
「先生に言われたから来てやってんだ、そっちこそ感謝しろ」
「何それ」
「オールドマネーに逆らうなって言われてんだよ。おまえの機嫌を損ねたら、俺の留学も潰されるかもしれないんだってさ。経歴作りに来てんだから勘弁して欲しいよ」
「……何それ」
「何それって、それこそ何それだろ」
「あなた──レイタ? あまり強いことを言わないであげて」
 愕然としたアメリアに、わたしの方が驚いたくらいだった。オールドマネーの中で当たり前のように生きてきた少女は、きっとこんなことも知らなかったんだ。レイタと言う少年の方がよほど社会を知っていた。
「玲太」
 ああ、漢字だ──そう思った。レイタの発音と名乗りは完全に日本語だった。わたしも返そうとした。でもその瞬間、玲太が日本語で言った。
「理解はできるのか。──日本語を話すな。まだ話せない振りをしていろってお達しだ」
 わたしは表情を消した。意味が分からない。でも──玲太の目は少年のものじゃなかった。見た目はごく普通の日本人なのに、目だけが違った。
「レイタ、先生が言ってたのって、本当?」
「──嘘だよ。課題をやりたかったのに引っ張って来られたから、ムカついて嫌がらせしただけ」
「何よ! そんなんだから友達もできないで独りぼっちなんじゃない!」
「友達作りに来てんじゃねえから」
 傍から見れば世間知らずのお嬢ちゃんに優しい嘘をついてあげた少年だ。でもわたしはもう、この彼を少年とは思えなくなっていた。
「このお姉ちゃん、日本語は分かんないんだな。まじで日本人?」
「そうなの? でも日本人っぽくない? 中国人とかと違うと思うんだけど」
「お姉ちゃん、煙草もらうよ」
 どうぞとも駄目とも言っていないのに、玲太は勝手にソファに座ってテーブルのシガーケースから一本取り出し、ミアとケイラが動く前に、慣れた手つきで火を点けた。
「あんた、見た目より悪い奴ね。バレたらそれこそ留学取消になるんじゃない?」
 玲太が煙草を吸うことを知らなかったのか、アメリアは驚きながらも向かいのソファに座った。わたしは用心しながらドアに一番近いソファに座る。なぜ用心したのかなんて、答えはひとつだ。何も分からないけど、この少年はただの留学生じゃないってことだけは分かる。気を許しちゃいけない。
「おまえが黙ってりゃバレないだろ」
「みんな吸ってるからどうでもいいけど。そうだ、ルル、玲太って数学が得意なんだって。ルルも医者なんだから得意でしょ? 宿題見てあげてよ」
 その途端、玲太が笑い出した。なぜ笑われたか分からないアメリアは「何がおかしいのよ!」と怒ってみせる。
「だっておまえ、俺、これでも数学五輪で満点取ってんだけど。いくらお姉さんが医者だからって見てもらえって、ごめん、それまじで面白い」
「何それ、しょぼい大会自慢されてもつまんないんだけど?」
「ま、待って、それ、数学の世界大会……!」
 わたしは思わず会話に割って入ってしまった。しょぼい大会なんてとんでもない! 世界から選ばれた高校生だけが参加できる、歴史ある世界大会だ。出場するだけでも凄いのに、満点だなんて明らかに普通の知能指数じゃない。簡単に言えば目の前にいる日本人留学生は天才だ。
「何なの、それまじで!? そんな大会あるわけないし!」
「お姉ちゃんは知ってんだよ。おまえが馬鹿なだけ」
「馬鹿とか言うのやめてくれない!? 猿のくせに!」
「そこまで堂々と言うの、逆にすげえよ」
 玲太は笑いを何とか収めてスクールバッグからノートを取り出し、わたしに寄越す。いくら天才だからってどうしてわたしが高校生の数学なんか見なきゃいけないんだろう。取り敢えずノートをめくった。適当に褒めておけばいいだろう。
 その考えはすぐに打ち消した。でも表情を変えないように努力した。

【ドクター・キリコに伝えたいことは?】

 日本語で書かれたその文は、わたしの目と脳裏に焼き付いた。
 他のページには何も書かれていなかった。玲太はこの一文を見せるためだけに、わたしにノートを寄越したのか。いつ書いた? 少なくともこの家に来る前に? ──どういうこと? ドクター・キリコ? 存在するの? ドクター・キリーではないの?
「必要なら使って」
 玲太がわたしにペンを渡す。手が震えないように気を付けながら受け取り、アメリアからは見えないようにノートを持ち、必死で考えた。アメリアやミア、ケイラに怪しまれないようにすることが難しいほど、わたしの心臓は激しく鼓動を打っていた。
 あまり長い時間、この状態ではいられない。怪しまれてしまう。
 とにかく伝えたいこと、ひとつだけ、これだけでも。そんなことを思って、指先に全てを込めた。当たり前のように、日本語を書いた。

【会いに来て】

 ペンを挟んでノートを閉じ、玲太に返す。受け取った玲太はぱらりとページをめくり、わたしを見て少し笑った。愚かな女だと思われたのかもしれない。それでも良かった。玲太は必ず伝えてくれるって、なぜか、本当になぜか、わたしは確信していた。
「じゃあ俺、帰るわ。付き合ってくれてありがとうって言えよ」
「もう帰るの? ってか、わたしに感謝しないさいよ。日本人に会わせてやったのに」
「会わせてくれなんて言ってねえし。じゃあな」
「待ってよ、送るから。フォート・デトリックの近くのアパートメントでしょ?」
 頭痛を感じた。ずきん、ずきんと疼くほどの頭痛。フォート・デトリック。日本人はあまり知らないはずの、でもわたしは知っている軍事研究施設。
「おまえは俺を送りたいんじゃなくて、男に会いたいんだろ? フォート・デトリックの警備兵だっけ?」
「何で知ってんの!?」
「教室ででかい声で言い触らしてたじゃねえか。自分で」
「言い触らしてないわよ! 喋ってただけじゃない!」
 頭痛の中、一瞬で頬を赤くしたアメリアを見た。恋でもしたらしい。それにしてもフォート・デトリックの警備兵なんて、どうやって知り合ったんだろう。あの施設は軍事施設で──警備兵も普通じゃなくて──普通じゃない? どう普通じゃない? わたし、何を知っている?
「ってか、俺、本当に帰るわ。お姉ちゃん、平気? 具合悪くさせたんならごめん」
「え、──ルル、やだ、ルルってば。具合が悪いなら何で言わないのよ」
 頭痛に耐えかねてソファの腕置きに完全に顔を伏せてしまったわたしを見て、アメリアは慌て切った声を出した。ミアとケイラが動こうとした気配を感じて、「薬を頂戴、それだけでいいわ」と言う。クリードを呼ばれたくない。
「お大事に」
 玲太が言ったそれは日本語だった。まさかわたしが言われるなんて──そう思った。そして、わたしはその日本語を言い慣れていたってことが分かった。


 クリードに知られない、ということは基本的に有り得ないようだった。アメリアが玲太を送るために──正確にはお抱えの運転手に送らせるために──部屋を出てからしばらくして、ミアとケイラに知らされたに違いないクリードがやって来た。ソファに横になっていたわたしの前に膝をつき、顔を覗き込む。青い瞳が綺麗だった。
「ルル」
「たかが頭痛よ。いちいち来なくていいから、仕事をして」
「アメリアが男友達を連れて来たって、聞くのが遅くなって悪かった。それが原因なんじゃないか?」
「……違うと思うわ」
 原因と言えば原因かもしれないけど、きっとクリードが心配しているような原因じゃないことは確かだ。むしろ玲太とはもう少し話してみたいほどだった。でも、アメリアや他の誰かがいるところでは決してわたしが望むような話ができないことは分かった。彼は何者なんだろう。分からないことばかりが増えて行って、わたしの脳はもうパンクしそうだった。
「ルル、頼む。頼むから、せめてそんな頭痛が消えるまで、この家にいて欲しい。私の気持ちを押し付けていると言われてもいいよ。──心配なんだ」
 クリードが少し迷った後、わたしの手を取った。頭痛が酷くて振り払えなかった。そういうことにした。混乱して寂しくて、またあの夢を見た時のように泣きそうになったから振り払えなかったなんて事実は無視した。事実を正面から見据えたって、わたしの頭痛は治らない。寂しい夢に怯えなくて済むようになるわけじゃない。
「クリード」
「うん」
「優しくしないで」
「ルル──それは違う。優しくなんてしていない。普通のことだ」
「わたしにはそう思えるの。あなたに頼りたくなってしまうから、やめて」
「頼って欲しいと言ったら?」
「アビゲイルに聞いたでしょう」
 クリードを拒否する理由を思い出して欲しかった。一時期の熱に浮かされて、家のことを忘れるような当主であっていいはずがない。ここはそんな家だ。わたしのせいで混乱に陥るのは御免だった。
「わたしを」
 急に、違うわたしが振り返った気がする。何かを考える前に、わたしはクリードに言った。
「わたしを愛さないで」
 その途端、またひどい頭痛に襲われる。そして違うわたしが泣き出した。わたしは泣かなかった。でも、信じられないくらいに胸が締め付けられる。わたしを愛さないで。これだけで、わたしは今、死んでしまいたいほど胸が痛い。違うわたしが泣いている。違う──違う。
 わたしも泣いていた。聞こえたような気がした。

 俺を愛さないで。

 いつか、誰かにそう言われた。突き放された。覚えているんだ。違うわたしが泣きながら、どうして、どうして、って、声に出せないまま泣いている。
「ルル、──ルル、泣かないでくれ」
 クリードの声はまるで悲劇の主人公だ。わたしが泣いた理由をきっと勘違いしている。でもわたしは馬鹿だ。握られた手を振り払えないし、あなたなんて愛してないって言えない。卑怯者のわたしに吐き気がしそう。寂しいからって、愛してもいない男を振り払えない。わたしを愛さないでと言いながら、なんてみっともない、卑怯な真似をしてるんだろう。

 俺を愛さないで。
 愛してるよ。
 でも、俺たちは愛し合っちゃいけないんだよ。

 何て残酷な記憶。誰がそんなことを言ったの。何て酷いことを言うの。愛してるって言いながら、愛さないでと突き放すなんて。こんな酷い話がどこにあるの。
「時間をかけるよ。すぐに愛してくれなんて言わないし、言えない。──私と一緒にいてくれるって、きみが言ってくれるまで待つよ」
「待っても無駄よ。やめて」
「そんなこと分からない。きみがもし私を愛するなら、私だってきみを愛していいはずだ。待つ価値はあるよ。充分にね」
 そんなの無駄だから、やめて。言いたかったのに、涙に暮れて言えなかった。やめてもらわなきゃいけないのに、やめてって言えない。涙のせいだ。そういうことにしなければいけなかった。
 キスして欲しかった。抱き締めて欲しかった。でもクリードじゃない。この人じゃない。せめて思い出したい。でも思い出せない。
 ここにいて欲しいのはクリードじゃないと分かっているのに、握られた手を離すことができず、いつの間にか髪を撫でてくれている手を振り払えなかった。
 寂しくて寂しくて死んでしまいそうで、今ひとりになったら本当に死んでしまうんじゃないかと思った。
 わたしは卑怯だ。どんな差別の言葉を投げ付けられるより、自分が卑怯だって、自分で認める方が辛かった。
 ドクター・キリーはドクター・キリコじゃないの? きっとクリードに言えば調べてくれるだろうし、もしかしたら直接訊いてくれるかもしれない。でも言えなかった。
 違うわたしが信用していなかった。こんなにも誠実で優しい人を、違うわたしはこれっぽっちも信用していない。違うわたしなのか、わたしなのか。本当は同じ人間なんだって、これも認めるのは辛いけど、認めなきゃいけないような気がしていた。
 でも、こんなに素敵で優しい人を信用しないなんてどういうこと? わたしは過去にどんな人間を知って、どんなことを経験してきたの?
 考えれば考えるほど分からなくて、頭が痛くなって、もうどうしたらいいのか分からなくて、ひたすら泣き続けるしかできなかった。