色んな人が歌ってきたように 09

 朝食前にエミリーの具合を見に行った。エミリーはもう起きていて、退屈そうにベッドの中でぬいぐるみを弄り回している。わたしを見つけて笑顔になった。
「先生、おはよう!」
「おはよう」
 顔色がいい。もうベッドから降りたくて仕方がないと言う風情だ。歩けるようになるまであと半月もかからないかもしれない。
「お腹すいちゃった」
「主治医の先生の回診が終わってからね」
 わたしはあくまでサポートの立場に過ぎない。ただ、主治医がとてもわたしに気を遣っていることは知っていた。エミリーの誤診から主治医の交代までの騒ぎを考えれば当然かもしれなかった。わたしとしては主治医の邪魔をする気はないけれど、主治医にとっては嫌な存在だと言うことも分かっていた。
 やがて主治医と看護師、それからクリードと母親が来る。愛されている末の子はたっぷりの愛情を受けて嬉しそうだった。主治医は念入りに診察をした後、わたしに「問題ありません」と告げた。わたしに報告するなんておかしなことだけど、クリードが同席している時の主治医の気持ちを考えれば当然だと思う。わたしは少し大げさに主治医に敬意を表して、クリードの中で主治医の評価を上げておいた。
 それから朝食だ。アビゲイルが寝坊をしないで一緒に朝食の席についたのは久し振りだった。
「ルル、今日も家の中にいるの? 外出はしない?」
「しないわ。部屋にいる」
「そう。わたしは美容院に行くし、午後はボランティアがあるから夕食まで出ているけど、新しい雑誌を部屋に届けさせておいたから読んでね」
「あの俳優の?」
 わたしがアビゲイルに礼を言う前にクリードが口を出す。
「そうよ。いやね、あなた、妬いてるの?」
「少しね。いい俳優らしいけど」
 わたしは聞こえない振りをした。こういう会話で駆け引きをにおわされるのは嫌いだ。昨日のことをまた思い出しそうになって、冷たいオレンジジュースを口に運んで誤魔化した。
「私は今日、休みなんだ。毎日資産管理のための仕事もうんざりでね。たまに休みを取る」
「いいことだと思うわ。ゆっくり休んで」
「近場でいいから出てみないか? 私が一緒にいる、何も起きない」
「必要ないと思う」
「──いつかこの家を出るんだろう?」
 わたしは顔を上げてクリードを見た。アビゲイルが注意深くクリードとわたしを見比べているのが分かる。
「私はやっぱり、きみにここにいて欲しいと思う。でもきみの意思も尊重したい。少しずつ、外に慣れて行っても悪くないんじゃないか」
「出る時は一人で出るわ。お気遣いはありがとう」
「ルル、聞くんだ。正直に言ってしまう。傷付かないで欲しい」
 何を言われるかなんてすぐに予想がついた。違うわたしが少しだけ嘲笑った。こいつはこう言うよ。きみの顔の傷、肌の色、身体中の傷。
「きみの顔や身体の傷と、それから肌の色──この国で生きて行くのはまだ難しい時代だ」
 違うわたし、正解。わたしもそんなこと予想できてる。きっと今まで、たくさんの嫌な思いをして来た。それでも生きているんだから、何がそんなに重大なことなんだろう。
「メイクをして外に出る練習をしよう。きみは美しい女性だ。この国ではそれも武器になる。きみがこの家を出たとしても、それはきみを助けるよ。──あまり人に見られたくないって言ったね? 一人で生きて行く時に、そんな言い草が通じると思うかい?」
 余計なお世話よ。喉まで出掛けた言葉を飲み込む。頭のどこかで、クリードの言うことは正しいと分かっていた。正義と言う意味で正しいってわけじゃない。生きて行く術として正しいということだ。今の時代のこの国は、見た目も生き方に大きな影響を与える国だった。
 黙り込んでしまったわたしと、わたしの反応で言い過ぎてしまったのではないかと焦りかけているクリードを救ったのはアビゲイルだった。やっぱりこの人はとても素敵だった。
「あまり無理を言うものじゃないわ、クリード。ルルにはルルのペースがあるのよ。無理に引っ張り出したら嫌われるんじゃない?」
「無理にって──」
「でも、ルル、わたしもクリードの言うことには一理あると思うわ。出掛ける出掛けないはともかく、一度メイクをしてみたらどう? いつか必要になるかもしれないんだから」
 それから、とアビゲイルは付け加えた。
「クリードはあなたがメイクした姿を見てみたいだけなんでしょうけどね。でもこの子のことなんて気にしないで、とにかく練習をしてみるといいわ。どうしても嫌ならしなければいいんだもの。一度くらいやってごらんなさいよ」
「ねえさん、私は──」
 クリードが反論しようと口を開いた。でもアビゲイルがあっさり、じゃあわたしは美容院に行くから、と言って席を立ってしまった。
「ルル、私のことはいいんだ。その──」
「あなたには見せないわ」
「え?」
「練習はしてみる。もうすぐこの家を出るんだから、あなたの言うことにも一理あるらしいしね」
「そうか。それは──いいと思う。素晴らしいよ」
 クリードは微笑んだ。わたしは少し彼に譲歩し、微笑み返しておいた。
 メイクをしてみると言ったものの、一体何をすればいいのか分からない。一応必要なものは思い浮かぶけど、肌につける順番すらろくに知らなかった。失くした記憶の中にあるとは到底思えなかった。だって、他の日常生活のことは何でも覚えてるんだから。やっぱりわたしは化粧なんて縁がなかった人間なんだろう。
「あの、相談したいんだけど」
 部屋に戻ってミアとケイラに話をする。二人は今までの生活で頼みごとをした時よりも、何となく、ううん、かなり熱心に頷いた。
「ご用意、できております」
「え」
「お世話を始める日に、アビゲイル様が全てご用意なさっておられましたので」
 ここにアビゲイルがいたら、わたしはすっかりひれ伏していただろう。どこまで気の付く人なんだろう。わたしが今その気になっていなければ全て無駄になっていたかもしれないのに。
 わたしには分からないけど、見るからに高級化粧品が目の前に現れた。はっきり言って怯んだ。何だろう、眩しい。わたしにはとても、って思っちゃうくらいに眩しい。どこまで女性的なことに縁がなかったのか。
 練習を始めようとしてすぐに、わたしは大問題に行き当たった。しばらく必死で考える。でもやがて無駄な努力だと知って、速やかに白旗を挙げた。
「やり方──順番も、何がどんな名前かも分からないの。教えてもらえる?」
 待ってました。間髪入れず大きく頷いたミアとケイラは、きっと心の中でそう言っていた。練習と言ったのに、わたしはあっという間に彼女たちの手に囚われた。
 二人は今までになく興奮しているようで、珍しく私語を交わし合いながらわたしの顔を作って行く。──そう、作って行く、としか言いようがなかった。これは整形だ、絶対にそうだ。世の女性は毎日整形している。間違いない。医者なんていらないかもしれない。
「どうぞ」
 メイク用のケープを取って、目の前に鏡が現れる。映画や漫画なら、きっとヒロインが呟くはずだ。『これがわたし?』。わたしはそこまでじゃなかった、と言うより、全く違うことを思っていた。
 これなら、外で奇異なものを見るような目を向けられないって。
 近くで見れば分かるだろうけど、でも、肌の濃淡と傷がすっかり隠れていた。これだけでも今までのわたしとは全く違う人間に見える。自分で言うのも何だけど、それなりに整った顔立ちだったことが分かった。これは両親に感謝すればいいんだろう。覚えてないけど。
 ミアとケイラに礼を言うと、二人はびっくりするほど明るい笑顔で「いいえ」と声を揃えて言ってくれた。彼女たちはいつもあまり表情を変えず、物静かに何でもこなしてくれるから、わたしは少し驚いた。
 それから初めて、彼女たちと世間話をした。二人は幼馴染、田舎の出身で、ミアはデザイナーを、ケイラはメイクアップアーティストを目指してニューヨークに出て来たのだと言う。
「でも、騙されてしまったんです」
 夢を見て田舎から都会に出て来た若い女性を喰い物にしようとする奴は、腹の立つことにいくらでもいる。ミアとケイラも引っかかって、有名な業界関係者に紹介すると嘯かれ、有り金を失くしたそうだ。
「食べる物にも困って、身体を売る前にNPOに頼ったら、たまたまアビゲイル様が関係なさっている団体だったんです。それでわたしたち、お金が貯まるまでここで働かせて頂けることになりました」
「でも社会勉強ができるまでニューヨークに出るのは禁止って言われちゃいました」
 二人は顔を見合わせて笑った。
 アビゲイルはどこまで優しい女性なんだろう。ミアとケイラには女神に見えたと言う。今だってきっとそうなんだろう。
 それからわたしは、ずっと気になっていたことを彼女たちに訊いた。もし気を悪くしたら申し訳ないのだけれど、と最初に言い置いて。
「ずっとわたしの世話をしてもらってるけど、嫌じゃない?」
 ミアとケイラは顔を見合わせた。わたしの質問の意図が分からないという顔だ。わたしは言葉を探したが、うまい具合に見付けられなくて、結局はそのまま言うしかなかった。
「こんなパッチワークみたいな見た目の黄色人種の女を世話するのは嫌じゃない?」
 二人はまた顔を見合わせ、同時に、「ああ!」と手を叩いた。それからメイドらしからぬ態度だと思ったようで、まずはわたしに「失礼しました」と謝る。
「わたしたち、オノ・ヨーコの大ファンなんです」
「え? ──ああ、あの、ジョン・レノンの奥さん」
「そうです。前衛芸術も素敵だし、音楽も素敵。レコードも全部持ってました。騙された時に困って全部売ってしまったけど、ジョン・レノンよりずっと好き。だからあの人のルーツの日本も好きです」
 それからしばらく、熱を持ってオノ・ヨーコの素晴らしさをわたしにレクチャーしてくれた。そういえばメイクのやり方はレクチャーされてないな、って思いながら聞いた。
「だから、日本人のお世話が嫌なんて思いません。何より、ルル様って芸術みたいなんですもの。そんな大きな傷があるのにお綺麗なお顔立ちでプロポーションがいいなんて、最高にロックですわ!」
「ちょっと!」
 ミアの最後の言葉に、流石にケイラが焦って声をかけた。ミアもはっとして口をつぐみ、今度は二人揃って、それこそ同じタイミングでわたしの顔色を窺ったものだから、わたしは悪いと思いながらも流石デザイナー志望ねと大笑いしてしまったのだった。二人も安心したのか、一緒に笑った。
 それから二人は興が乗ったのか、笑って機嫌が良くなったわたしの意思を上手くコントロールして、髪や服まで換えてくれた。
 部屋から出るつもりはないと言ったら物凄く残念そうな顔をされたけど、二人は急に思い出したのか、声を揃えて言った。
「明日、病院の皆様がいらっしゃますね!」
 要は明日、彼らの前にこの格好で出ろと言うことなんだろう。流石にそれは、と言いかけたけど、すぐにドクター・キリーが思い浮かんだ。我ながらそれだけで赤くなるなんて、どれだけ恋愛に耐性がないんだろう。しかも失恋は確定しているのに。
 明日のアビゲイルはとても美しいはずだ。新しい服を買いに行ったのも、美容院へ行ったのも、きっと恋をしたドクター・キリーに会うからだ。
 それならいいかな、と思った。
 とても美しいアビゲイルしか、男性は見ないだろう。ドクター・キリーだってそうだろう。でもちょっとだけ、少しだけ、って思った浅ましいわたしのことなんて、アビゲイルの美しさが簡単に隠してくれる。
 ちょっとだけ、少しだけ、好きな男性の前に、普通の人間らしい見た目で出てみたっていいじゃない。


 学校から帰ったアメリアがまた部屋へやって来た。もう習慣になっているんだろう。メイクを落としておいて良かった。どんな嫌味を言われるか分かったもんじゃない。
 わたしは彼女のお陰で時間を知ることができる。毎日、ほぼ同じ時間にやって来るからだ。今日はどんな馬鹿な口を利いてくれることやらと思っていたら、意外にもそうじゃなかった。
「レイタを連れて来て、悪かった?」
「え?」
「だから。察しの悪い猿ね。昨日、レイタを連れて来たでしょ? 具合が悪くなったのってあいつのせい?」
「──違うわよ」
 関係がないと言えば嘘になる。あの少年は普通じゃない。でも、体調を崩した直接の原因とは言えなかった。するとアメリアはほっとしたように「じゃあいいや」と言ってソファに座る。仕方がないのでわたしも座ってやった。
 ここのところ、本当は分かり始めていた。この子は寂しいんだ。17歳になったって、寂しいものは寂しい。わたしだってたぶん彼女よりずっと年上だけど、寂しい気持ちは味わってる。
 食事の席にアメリアがいないのは、わたしと同席したくないからだと思っていた。きっと母親とエミリーと食べているのだろうと思っていたら、そうではない、あの子は一人で食べている、とクリードがから聞いて物凄く驚いた。家族は一緒に食事をするものだと思っていたから。──記憶を失う前のわたしはきっとそうだったから。
 ハイスクールに進む前は家族揃って食べていたらしい。でも進学してからアメリアの素行は悪くなり、家に帰っては来るものの、オールドマネーでなければ学校から追放されてもおかしくないような真似をしてばかりいる、とても困った子なのだとアビゲイルから苦笑混じりに聞いたこともあった。
 と言っても、悪い素行とやらは授業のエスケープや煙草だそうだ。そんなので素行が悪いなんて言われちゃうの、って思ったけど、いや、17歳で煙草はまずいか。
 それはともかく、そんなので言われちゃうんだ。生きている世界が違い過ぎるんだから仕方ない。でもわたしからすれば大したことのない若気の至りでも、この家の人たちにとっては重大なことで、いつの間にか小言ばかりを言う機会しかなくなって、いつしか彼女が気ままに過ごしたがる生活を認めてしまって、食事の時間が合わなくなったと教えられた。
「違うんならいいけどさ。レイタも一応、気にしてたし」
「玲太も?」
「そう。信じられる? あいつ、今までほとんど誰とも口を利かなかったくせに、今日いきなり話しかけて来たの。あんたのことでね。『必要なら呼べよ』だって! もう、みんなもびっくりよ!」
 玲太が教室で話しかけて来たことは、彼女や彼女の取り巻きたちにとって驚天動地だったようだ。教室内の大騒ぎが何となく想像できる。
 必要なら──こっちの言葉の方が気になった。単なる社交辞令だと考えるべきなのに、なぜかとても気になった。あの少年が普通ではないと直感しているから? ドクター・キリコと言う名前を書いてみせたから?
 きっと後者だ。彼のお陰で知ったのだから。ドクター・キリコは実在するということを。
 でも、だからこそ混乱する。ドクター・キリーは誰なんだろう。ドクター・キリコとは別人なんだろうか。じゃあ、ドクター・キリコはどこにいるの。わたしとどんな関係なの。ベネット軍曹はわたしがドクター・キリコに行先を教えていないことを不思議がっていた。じゃあ、最低限の知り合いだと考えるのが妥当だ。
 会いに来て。わたしはそう書いたけど、彼に届くのだろうか。もし届いても、彼は会いになんて来てくれるんだろうか。
「あ、そうだ、明日さあ。エミリーの先生たちが来るじゃない? わたしも学校に行かないで一緒にいていいよね?」
「それはわたしに言われても決められないわよ。クリードがアビゲイルか、お母様に言えば?」
「……言ったら学校に行けって怒られるからルルに訊いてるんじゃない」
「わたしに回答権なんかないわ、自分で交渉するのね。エミリーが心配なのは分かるけど、明日は学校を休むほどのことじゃないわよ。薬が適切に効果を発揮しているかを確認するだけなんだから」
「だからさあ──薬の先生の。ドクター・キリーが来るでしょ?」
「──そうね」
 わたしの回答に苛立ったアメリアが不意に出した名前に、わたしの心臓が跳ね上がる。でも自分の想いに囚われる前に気が付いた。アメリアの頬が赤い。
「……そしたら、SPも来るでしょ?」
「……そうね」
 ああ、そうか。わたしは思わずまじまじとアメリアを見た。わたしの視線が恥ずかしかったんだろう、アメリアは「もう!」と怒ってみせる。あんな短時間で恋をするなんて、とわたしは思ったけど、そういえばアメリアはSPと会っていなかったはず。どういうことなんだろう。知らないうちに会ったんだろうか。
「だから! そういうことなの! ──フォート・デトリックの近くで一緒に、ドクター・キリーもいたんだけど、三人でご飯食べてさ、って言うか、最初は助けてくれてさ!」
 冷静になれ、とわたしは表情を変えずに自分に言い聞かせた。わたしを動揺させる単語がふたつも入っている。思い出そうとしても思い出せない何かを含んだ単語を無視するか否か考えている間に、アメリアは勝手に喋った。
 フォート・デトリック近くのダイナーでの出来事を聞き、わたしは驚くしかなかった。
「わたしのために行ってくれたの?」
「あんたのためって言うか、……記憶が戻れば、あんたなんか追い出せるじゃない。いつまでも猿がうちにいたら、そのうちお茶菓子がバナナになりそうで嫌なんだもん」
「エミリーが歩けるようになるまでは、三食バナナでも居座るわよ」
 わたしはそう答えるのが精一杯だった。それからアメリアが今までわたしにしてくれたことを思い出していた。
 頭痛に効く精油を持って来てくれた。パニックになって寝室に閉じこもったわたしを何とか出そうとしてくれた。ようやく寝室から出たわたしを一瞬でも抱き締めてくれた。日本人同士だからと玲太を連れて来てくれた。
「そういう薬はないってドクターは言ってたから、無駄足踏まされたわ。行かなきゃ良かった」
 退院したエミリーに一日中付き添っていた。大人たちが席を外しても、エミリーが寂しがらないようにずっと一緒にいた。
 初めて、アビゲイルに「違う」と言いたくなった。
 違うわ、アビゲイル。
 この子、わたしの記憶を取り戻そうとして、普段は行かないフォート・デトリックに行ったのよ。会えるかも分からない、ドクター・キリーを探すためだけに。
 あなたたちの階級の中では素行が悪いかもしれないけど、でも、困った子なんかじゃない。
「アメリア」
「何よ」
 わたしはにやりと笑った。こんな笑い方はこの家に来て初めてかもしれない。でも違うわたしはきっとこんな笑い方をして、こんなふうに、今のわたしが今言いたいことと同じ言葉を言うだろう。
「ミスター・レディシュのことが話したいなら、聞いてやらなくもないわよ」
 差別的ではない赤毛の呼び方であのSPのことを言うと、アメリアはまた顔を赤くした。
「──何よ!?」
「バルコニーに出ましょう。3時のお茶は済んだ? まだなら付き合いなさいよ」
「話なんかないんだけど! 勝手なこと言ってんじゃないわよ、猿のくせに! ちょっと!」
「ケーキ? クッキー? それともバナナにする? わたしは甘くないクッキーがいいな」
「あんたはバナナよ! わたし、チョコレートケーキ!」
 喚きながらもわたしと一緒にバルコニーに出る。ミアとケイラがお茶とクッキー、チョコレートケーキを用意してくれる前に、話なんかないはずの17歳の少女は、好きになったレディシュのSPについて勝手に話し始めたのだった。
「王子様みたいね」
「そんなんじゃないわよ。でも素敵かも」
「ふうん。夕食の時にアビゲイルに聞いてみようかな。わたしは王子様だと思うんだけど、アビゲイルはどうかしら」
「やめてよ、言わないで!」
「さあ?」
「やめてったら!」
「だってあなたがいない席だもの、わたしが何を言ったって仕方ないんじゃない?」
 にやにや笑ってみせたら、アメリアは顔を真っ赤にして怒った。
 可愛いな、って思った。


 夕食の席にいた上の妹を見て、クリードとアビゲイルは明らかに驚いていた。でもわたしが「普通にして」と目で伝えたことを理解してくれて、当たり前のように食事を始める。少し緊張していたアメリアはそれで安心したのか、こちらも普通の顔で食事を始めた。
 わたしが王子様の話をしないように監視をすると言う名目で、彼女は久し振りに姉兄と食卓を囲んでいた。
 アビゲイルは流石で、いつもこうしているわよねと言わんばかりに話題を振り、アメリアが学校でしたことや最近流行していることを聞きたがった。アメリアは嬉しそうに答えて、クリードは微笑んでいた。
 クリードがわたしを見たけど、気付かない振りをした。きみのお陰だなんて言い出しそうで、今から反論を考えておかなきゃいけないと思った。
 そしてアメリアは、明日は学校を休んで家にいてもいいとクリードに許可をもらい、顔を赤くして「ありがとう」と言った。兄と姉は顔を見合わせてからわたしを見たけど、わたしは素知らぬ顔を貫いておいた。
 夕食の後にエミリーの様子を見に行く。母親と食事を終えていたエミリーはもう眠そうだった。看護師が記入していた状況表を確認し、エミリーを診察した。何も問題ない。むしろかなり健康に近付きつつある。もうすぐ歩けるようになるだろう。主治医でもないわたしがそれを口にするわけにはいかなかったけど、明日の診察できっと同じことを言うと思う。
 エミリーが歩けるようになったら。きっとあと半月もしないで歩くけるようになる。そうしたらわたしはこの家を出て行く。
 どこへ行けばいいのか分からなかったけど、行ってみたい場所があった。
 フォート・デトリック。あの場所へ。