背中で聞こえるユーモレスク 10

 非常扉を開け、6階へ入る。階下からの激しい喧騒はまだ聞こえていたが、6階そのものは静かだった。客もスタッフも無事に逃げられたのだろう。先に安全を確認したグラディスの合図でBJも中に入り、静けさに緊張する。足音が響くヒールの靴を履かなければよかったと今だけは思った。
「グラディス」
 小声で呼ぶ。振り返ったグラディスは「何」とやはり小声で答えた。
「起爆装置の持ち主の心当たりは?」
「僕に訊かないでよ」
「大体分かったって言ってただろう」
「記憶力のいいクソビッチだ」
 BJは思わず反論しそうになったが、押し殺された呼び声に一時中断した。
「ジュード、お客様!」
 6階のシューフィッター、感激屋のエリーが角から顔を出し、周囲を窺いながらも二人を手招きする。
「エリー、どうしてこんなところに──」
 逃げられなかったのかとBJが焦ったその時、信じられないことが起きた。
 グラディスがエリーに向かって発砲すると同時にBJの腰を強く抱き、手前の角に転がり込んだ。途端に短機関銃の音が至近距離で響き、今入って来たばかりの非常扉を弾丸が抉る。
「あの女、よくやってくれるよ。僕らをまとめて殺そうとした」
「エリーが?」
 信じられない。BJは呆然として角から顔を出そうとし、馬鹿、とグラディスに罵られて再び奥に押し込まれた。その間も断続的に短機関銃が発砲され、非常扉は抉れて行く。一定の発砲時間の後、一定の時間を置いて再びの発砲音。BJはようやく思い至った。これは訓練された兵士の撃ち方だ。
「──エリーがIRA?」
「うちの国でのテロ容疑で国際指名手配されてる。──発信、グラディス。6階。指名手配中の容疑者と交戦、非常扉入ってすぐの右の角で待機中」
『受信、ベネット。了解です。報告、アンノウンとレイチェル、ドクター・キリコが乗ったエレベーターが5階を通過しました』
「SASが4階まで通過させたってこと?」
『不明です』
「分かった。コンディション2、全員入れろ。あとはミーティング通りに。SASとは絶対に交戦するな。撃たれても撃つな、撃たれたら死んでおけ。無線はもう使わないこと、SASが最大電波を飛ばす時間だ。耳がやられるぞ。無効化の確認のために僕のメイン無線は壊す」
 無線を終了し、グラディスは再び銃を構える。短機関銃の銃撃が終わった瞬間に角から半身を出して2発撃ち、また角へ身を隠した。ほぼ同時に短機関銃の音が響く。
「映画でよく観るやつだ」
「先生ってろくな映画観てないね。まあいいや、しばらく待ってよう」
「映画ならここでヒーローが突撃するんじゃないか? 私みたいなヒロインを置いて」
「生憎と僕は脇役タイプだし、誰がヒロインだ、図々しい。──こいつら、レイチェルと誰だったかと合流する。ドクターもだけど」
「キリコはすぐ助けろよ!」
「今回はレイチェルとエリーの身柄確保が最優先になるからドクターはついで」
「このクソ赤毛、役立たず、童貞!」
「役立たずでもないし童貞でもないし!」
 言い合っているうちに銃撃は止まり、エリーが駆け去る気配がした。角から顔を出して確認したグラディスは「童貞じゃねえっての」と呟き、しつこい奴だな、とBJに思わせた。成人男性への侮辱の言葉としてはかなり効果的なものなのだとBJは理解していなかった。
「応援が来ない、エリーが逃げた、ってことは他のIRAはSASと交戦しに5階に降りてる可能性が高いんだけど」
「ふうん」
「先生がすごい邪魔で、僕は今困ってる」
「だろうね」
「はっきり言って欲しいんだけど、何したいの?」
 本気で迷惑そうな顔をして自分を見たグラディスに、BJは唇をひん曲げて回答を拒否したが、赤毛の男の目に浮かんだ苛立ちを見て取り、観念することにした。
「悪かったよ。おまえさんが部下の生命を預かる立場なのを忘れてた」
 任務の遂行のため、自分が邪魔になることは明らかだ。それは取りも直さず部隊員たちの安全度を下げることに繋がる。グラディスは頷き、苛立ちを消した。
「話をしたいんだ」
「誰と?」
「IRAと。──起爆装置を持っているIRA」
「話? どんな?」
「おまえさんに理解してもらえるとは思えない」
 グラディスは暫く考えた顔をし、「分かった」と言った。
「じゃあ今は聞かない。話をさせてあげる余裕があるかどうかは確約できない。IRAが起爆装置を自爆覚悟で起動させるなら殺害するから」
「SASが無力化するはずなのに?」
「あと数分でね。でも間に合わないかもしれないし、自棄にならないとも限らない。──ドクターを人質にしてるってことは自爆する可能性は低いとは思うんだけど、楽観できないんだ」
「キリコは助けて欲しい。絶対に」
「確約はできない。でも努力はする。その代わり、先生とドクターが同時に危険な状況になったらドクターを優先する」
 ドクターはアメリカ人だから。アメリカの軍人であるグラディスははっきりとそう言い切った。理解したBJは頷く。──満足そうな顔で頷いた女に、馬鹿夫婦、とグラディスは口の中で呟いた。
「迷惑ばかりですまないな」
「先生に言われると嘘くさくて──時間かな。先生、耳塞いで離れて、あと丸まって」
 不意に階下の銃声がやんだ。それを確認したグラディスが徐に取り外した無線を床に起き、受信感度を最大に調整する。
 言われた通りに離れたBJが耳を塞ぎ、何が起こるかを察知して床の上で身体を丸める。グラディスが同じ動作をした次の瞬間、無線機から凄まじいとしか言いようのない爆音のジャミングが響いた。耳を塞いでいても聴こえる大音響にBJは背筋が寒くなった。無線を受信可能なままで装着していた者がいればほぼ確実に鼓膜が破れている音だ。
「先生、大丈夫?」
「平気」
「もう来る」
「え?」
 数秒後、非常扉が静かに開く音が僅かに響き、同時に二人が隠れる角の壁に懐中電灯のような光が当てられた。確認したグラディスが口笛を吹くと、ベネットを始めとした3人の男たちが現れる。ベネット以外にもデルタの隊員がいたことにBJはやや驚いた。
「先生は僕が見る。きみたちは予定通りに」
「イエス、サー」
「先生、行くよ」
 BJは頷き、もうハロッズに来る時にはヒールなんて履くもんか、と思いながら立ち上がった。


 エレベーターホールに現れたIRAのメンバー4人の中に感激屋のシューフィッターを見付け、キリコは苦笑しそうになった。エリーがにこりと笑う。
「いらっしゃいませ、お客様」
「また世話になるとは思わなかったよ」
「レイチェルもお世話になったようですわね」
「俺と妻が世話になってると言えばいいのかな」
 妻と聞いた背後のレイチェルが、背中に強く銃口を押し当てて来た。鬼の形相なんだろうなとキリコは予想した。付き合っていた頃にたまに見た顔だろう。
「きみがハリスか。噂は聞いている。駆け付けてくれてありがとう」
 メンバーの一人がキリコの横にいた男に問う。ハリスと呼ばれた彼は頷いた。
「間に合ったようで良かった。レイチェルを連れ去られるところだったよ」
「失礼だが、仲間の証明を」
 少し離れた場所に移動した二人は何事かを囁き合う。合言葉でも交わしているんだろう、とキリコは看破する。突然現れ、決して能力が低いわけではない、むしろそれぞれの隊では精鋭と言われるはずのベネットとギルヴィットを後退させるほどの技量を持った男はいとも簡単にレイチェルを救い出し、キリコに同行を求めた。要は人質にされたことになる。
「キリー、お願いよ。わたしたちと一緒に来て。殺したくない」
 背後からレイチェルが言う。目の前のエリーと他のメンバーたちも事情を知っているのか、どこか小馬鹿にしたような目つきでレイチェルを見た。
「あそこまで言われてよく俺に執着できるな」
「あんなの嘘よ」
「これ以上話しても平行線だ。俺の処遇でも相談してろ」
 言いながらキリコはメンバーたちを観察する。誰も無線をつけていない。取り外したのか、それとも最初から装備していなかったかは分からないが、SASによる無効化の被害を受けていないことは分かった。
「奥へ行くわよ。靴売り場の奥に立て籠もれる。本部がもう政府と交渉を始めているし、時間は充分稼げるわ」
 エリーの宣言でメンバーたちは動き始めた。戻って来たハリスがレイチェルに「俺が代わる」と言い、キリコに銃口を向ける役目を担った。キリコは抵抗する気も起きない。
「女と待ち合わせをしていただけなんだがな」
「昔の女がよく来る場所で待ち合わせをする方がおかしいのさ」
 キリコの溜息混じりの呟きにハリスはシンプルに答え、おっしゃる通り、とキリコは苦笑せざるを得なかった。
 エリーたちは既にシューズフロアにバリケードを作り上げていた。高級ブランドの靴が並んでいたはずの洒落たフロアには無残に靴が散らばり、無粋なバリケードに潰されている。
「もう、いい靴ばっかりだったのに。レイチェルが捕まるからこんなことになっちゃって」
 靴が好きであることは真実なのか、エリーが忌々しげに言って転がった靴を一足拾い上げた。
「見て、これ。エルメスの限定なのよ。奥様に似合うと思うわ。奥様が履くにはヒールが高すぎるからお勧めできないのが残念ね」
「なるほど、確かに似合いそうだ。素敵だね」
「あの女の話をしないでよ。妻なんて嘘よ」
 レイチェルがエリーに食ってかかり、エリーは鼻で笑う。男に執着しすぎて今の窮地を作り出した女のことを軽蔑しきった目をしていた。他のメンバーたちは女同士の諍いを横目で眺め、我関せずの顔を作る。
「他のメンバーは? SASにやられたか?」
 ハリスが問うとメンバーたちは息を吐き、肯定の返事をした。
「デルタフォースが入り込んでるって、あの女が言ってた。わたしがここにいるから。それからきっとエリーも」
 メンバーたちは視線を交わし合い、状況が更に複雑になっているのだと判断した。本来ならここまでの窮地に追い込まれるはずではなかったのだ。各フロアの爆発物を確認した後、全員が退避し、外部から起爆装置を起動させる予定だった。レイチェルが一度捕らえられ、全ての計画が狂った。
「ジュードのことでしょうね。さっき撃ち殺そうとしたけど失敗したし、しかも撃ち返して来たわ」
 エリーが眉を跳ね上げて言った。
「もっと早く気付けば良かった。入店して1ヶ月もしないのにいきなりエントランスフロアの担当だなんて、いくら何でも大抜擢すぎたもの。なまじ仕事ができるから分からなかった」
 なるほど、1ヶ月も任務のためにあの仕事をしていたのか──キリコはいっそ感心した。いかにも軍人といった風情の他の隊員たちにやらせるわけにはいかなかったのだろう。国際間の問題でCIAを配置することもできない。全くの畑違いの仕事をよくここまでやり抜いたものだ。
「毎日会ってたのに気付かなかったの? シューフィッターってどれだけお忙しいのかしら」
「あんたと気が合わないってことならとっくに気付いてたわよ」
 明らかに犬猿の仲になりかけている女二人にメンバーたちは溜息を付き、ハリスだけが低く笑った。肝の据わり方が違うのだろうとキリコは思った。
「あいつ、非常階段からもう6階に入り込んでる。武器はハンドガンだけだと思うわ。ここの制服だったから大型の武器は隠し持てない。──よく見えなかったけど、多分あなたの奥様も一緒よ。何しに来たのかしらないけど」
「あいつが? 赤──ジュードと上がって来たってことか?」
「多分ね。あの靴だったし、アジア人だったし」
 シューフィッターらしい判定にキリコはつい感心したが、あの馬鹿、とつい頭痛を覚えたのも確かだった。ミカエルに知らせた後にSASが保護してくれると思っていたのに。
「俺はそのジュードと言う男を知らないんだが、デルタの人間なのか?」
 ハリスの問いにエリーが知る限りのことを説明する。聞き終えたハリスは頷き、静かに言った。
「もしここに来たら俺がやるよ。デルタはSASより面倒だ」
「そういうものなの?」
「SASはまず交渉をするだろう。いきなり俺たちを殺しはしない。だがデルタがSASとIRAの武力衝突に配慮すると思うか? レイチェルとエリーの身柄拘束のために俺たちを皆殺しにしたっておかしくない。さっさと殺した方がいい」
「この人、アメリカ人でしょう。この人がいても無駄ってこと?」
「俺たちが殺したことにもできるだろう。死人に口なしだ」
「あいつならやるだろうな」
 思わずキリコは口にしてしまった。自分の警備が最優先ではない任務であることは自明の理だ。ハリスの予想に異を唱える余地がなかった。ハリスはちらりとキリコを見る。キリコもハリスを見た。
「知り合いか?」
「多少ね。ここにいたのを知った時には驚いた」
「演技派だな」
「俺が? ジュードが?」
「あなたが」
「それはどうも」
 二人の会話が分からないメンバーたちが不信感を抱いたその時、ハリスは鋭い声を飛ばした。
「来るぞ。バリケードの中へ入れ」
 瞬時に緊張した空気に包まれ、エリーとレイチェル、メンバーたちはバリケードへ姿を潜める。レイチェルがキリコに手を伸ばしたがハリスに阻まれ、エリーに突き飛ばされるように奥へ行かされた。女同士の罵り合いが聞こえたが、無視したハリスはキリコに言った
「あなたは正面にいるといい。人質の無事を知って喜んでもらえるからな」
「仰せのままに」
「さっき調子に乗って6発も撃ってしまってね。残弾が心もとない。貸してくれ」
 コートの下の銃を知っていたハリスに肩を竦め、キリコは言われた通りに銃を取り出す。受け取ったハリスは眉を顰め、不機嫌そうに呟いた。
「アメリカ軍の正規銃──の、次世代モデルか。無粋だな」
「礼を忘れちゃいないか」
「ありがとう」
 流れるようにキリコの銃を腰のベルトに挟み、ハリスはバリケードの中へ入る。そして自分の前に立つようキリコに言った。キリコは反論せず、言われた通りにしてやった。背後から感じる視線はレイチェルのものだろう。馬鹿馬鹿しくて振り返る気にもなれなかった。
 照明が落とされ、非常灯だけが輝く薄暗いフロアの中、周囲が完全に包囲された感覚を肌で覚える。ベトコンの方が気配の消し方が上手い、とキリコは思ったが、SASたちが敢えて完全に気配を消していないということもよく分かっていた。IRAに逃げ場がないことを教えるためだ。
 それから他の気配──デルタか、とキリコは断定した。SASとは違う場所だが、確実に近くにいる。どちらがこの場の主導権を握るのか、いっそ楽しみにもなった。もしくは完全に協力体制にあるのかもしれない。
 ──それはそれで歴史的な観物だな。世界に名だたる二国の対テロ部隊が都市部で同時作戦行動だだなんて。
 思わず楽しみになりかけた自分に呆れつつ、誰かが口火を切る時を待つ。ミカエルか、それともグラディスか。それとも問答無用の武力展開が行われるのか。
「話をしたいんだけど」
 嘘だろう。キリコは思わず天を仰いだ。そうでもしなければ笑い出してしまいそうだった。
 軍事作戦において歴史的な瞬間を迎えるはずだったこの時、それをあっさりとぶち壊した女がいる。
「IRAの偉い人はどこのどちらさん?」
 このクソビッチ、と誰かが呻いた。グラディスだった。それもキリコを笑わせようとするには充分で、キリコはやや本気で真剣な顔を保たなければならなかった。
 IRA側は動かない。だが背後の彼らは明らかに不審がり、誰だ、と言うメンバーの問いに、レイチェルが「クソビッチよ」と言い、エリーが「あの人の奥さんよ」と言い、レイチェルが怒りのボルテージを上げた気配が生まれる。背中が痒い、とキリコは溜息をつきたくなる。
「もう一回訊くけど、リーダーとかその辺りは? いない? じゃあ起爆装置を持ってる人は?」
 あっさりと口にした起爆装置と言う単語に緊張が走る。キリコは溜息をつき、おそらくBJの近くにいるグラディスの心を想像して思わず同情しそうになった。今頃撃ち殺したいほどに腹を立てているだろう。ミカエルも似たような気持ちかもしれない。
 BJが前へ出ようとし、強く止められた気配を感じた。キリコから見て右側だ。そこにデルタフォースもいるのだろう。SASは中央から左側に展開している。バリケードは完璧に包囲されていた。
「私ですわ、お客様」
 エリーが半ば笑いながら言った。肝が据わっていると言うより、今の状況に緊張しきった精神が妙な刺激を受けてしまったのだろう。戦場ではままあることだとキリコは思い出す。
「エリー?」
「そう。今は閉店中だから靴を見てあげられないわ、ごめんなさいね」
「靴より起爆装置が気になるんだけど。それ、まだ使うつもり?」
 ミカエルとグラディスが同時に胸を撫で降ろしたことを知る者はなかった。BJがかろうじて「もう無効化されている」と口にしなかったことに対する安堵だ。もし無効化されていると気付けば自暴自棄になり、キリコを殺して自爆覚悟で武器を乱射して来かねない。
「今は使いたくないけど、流れ次第ってところかしら。あなた、早く逃げた方がいいわよ」
「どうしてこんなことするの?」
「どうしてって──IRAの理念はいつでも公開してるから、新聞でも読んで頂戴」
「イギリスの政権が欲しいの?」
「将来的にはそうね。今はわたしたちの理念を理解してもらう方が先」
「そんなの分からない」
「新聞は読まない? たまに広告を出してるのよ」
「観光客だから全然。ちょっとテロのニュースを読んだくらい」
「観光だったのね。巻き込んで悪かったわ。嫌な女にも会ってお気の毒に」
 背後のレイチェルが舌打ちをし、ビッチ、と呟いた。キリコは聞こえない振りをした。
「──簡単に言っちゃえば、アイルランド人への差別を無くして欲しいって話よ。あなたには分からないでしょうけどね」
「私がアジア人だから、ここのドアマンに舐めた真似をされたってことは差別かもしれない」
「ああ、あれは酷い話だったわ。もちろん同じことよ」
「それから、アイルランド人への差別はひとつ知ってる。アメリカでもあった。──『チフスのメアリー』」
 エリーは息を吐き、そうね、と言った。レイチェルは何も言わないが、小さく溜息をつく。メンバーたちは僅かに身動きし、話の流れを見守る姿勢になった。ハリスは手元の銃を撫でた。キリコはBJがそれを知っていたことを不思議だとは思わなかった。
「よく知ってるわね」
「医者だから。アメリカでも仕事をするしね」
 1900年初頭、アイルランドからアメリカに移住したメアリーと言う女性がいた。メアリーはチフスの保菌者だったが発病せず、健康体として家事手伝いの仕事に就き、自覚なくチフス菌をニューヨークに流行させる原因となった。
 ──あれも差別だ。確かにな。白人の中にも差別がある。
 キリコもその話を思い出していた。アメリカで学んだ医者であれば誰もが知っていて当然の話だった。
 保菌者だと断定されたメアリーは職を追われたが、生活のため飲食の仕事に就いた。それ以外、アイルランド系の移民が高給を得る職がなかったからだ。彼女の手からチフス菌は再びニューヨークの人々の間へ忍び込んだ。メアリーは身柄を拘束され、病院へ収容された。
「昔の話だけど、わたしたちみたいなアイルランド人にとっては嫌な話の代表格よ。メアリーは死ぬまで23年間、病院に隔離され続けた」
 もしメアリーが他の仕事に就けていたら? もしアイルランド系の移民でも多種多様な仕事があれば? そんな議論が未だに行われている。
「イギリスじゃもっと酷いのかもしれない。不勉強だけど、知らないからそれはごめんなさい」
「別にいいわよ。外国人なのにそこまで知ってるだけで充分だわ。──少しは分かってくれるでしょ? そんな理不尽、いつまで受けなきゃいけないのよ」
「理不尽──確かにね」
「わたしもレイチェルもアメリカじゃ随分嫌な目に遭ったし、他のメンバーだってイギリス国内で相当な思いをしてる。わたしたちの祖先もね」
 それは理解しよう。事実として受け止めよう。キリコは思う。そんな事実が確かにあり、今も根絶されていない。おそらく世紀が代わっても続くだろうと考えられるほど、そこには根深い対立があった。
 だが思う。それが何の理由になるのかと。
 多くの人々の生命を奪うことの理由に、生命の危機に直面させることの理由になるのかと。
「エリー」
「何? 結局何が言いたいのよ?」
「保育園を焼いたらアイルランド人への差別がなくなるの?」
 緊張していた空気がこの上なく張り詰め、ことにSAS側は殺気立ったと言っても良かった。先日のテロの件だと分からない者などいない。休暇中の同僚が大火傷をし、入院している。小隊全員が怒りを思い出していた。デルタ側でさえ怒気が走った。隊長の姪が焼死する一歩手前だったと部下たちは知っていた。
「それは──逃げのようで悪いんだけど、場所を決めたのも実行したのもわたしたちじゃないのよ。答えられなくて申し訳ないわね」
「死者はいなかった」
「そうね」
「でも大怪我をした人はたくさんいた。長いリハビリが必要になってしまった患者も。──私の患者が増えた。おまえたちが生命を弄んだせいで、彼らは、彼女らは長い苦しみを余儀なくされた」
 急激に怒気が溢れたその声にキリコでさえ息を呑む。
 医者としての怒りを押し殺し続けていた女が、今ここで許されざるべきと判断した相手に正面から感情を剥き出しにした。
 ミカエルとグラディスは知らず同時に息を吐き、感情のコントロールに努め、部下たちの状態を背中越しに把握した。ミカエルはハンドサインで背後の狙撃手に構えの合図を出す。BJの背後にいるグラディスはIRAが僅かでも動きを見せた瞬間にBJを引き倒すため、音を立てずに態勢を変えた。ベネットと二人の部下はやはり音無く発砲の準備をする。
「答えろ。──数十人もの人間の生命を危機に晒し、取り返しのつかない怪我を負わせてでも、おまえたちの理念は実現するべきだと言い切れるのか」
「理解できないならいつまででも付き合ってあげる。それともレイチェルに代わってあげましょうか?」
「起爆装置を持っているのがおまえなら、おまえが話せ」
「あら、怖いわ。この靴は膝丈のスカートに似合うかしら、なんて訊いて来た奥様じゃないみたい」
「罪を償ったらまた靴を見立ててくれればいい。今は必要ない」
「降伏しろってこと?」
「そろそろ理解するべきだ」
「何を?」
 キリコの背後で動く気配がした。ハリスだ。キリコは動じなかった。勝手にしろと思いながらBJの言葉を聞き続けた。きっと、と思った。
 きっと俺の女は──目の前の医者は。
 ──俺が言いたいことを、言ってくれるだろう。
 BJは言った。それは宣言だった。
「全ての医療従事者は、おまえたちを決して許さない」
 厳然と言い放たれた言葉は自らの理念に生きるアイルランド人に届いたのか否か、それは誰にも分からない。だが確かにここにいる医者は断罪した。罪人である。おまえたちは罪人であるのだと。
「反吐が出るわね」
 レイチェルが憎悪を込めた声を発した聞いたキリコは鼻で笑いたくなる感情を堪えた。抉られやがった、と思ったのだ。そして思い出した。彼女が看護師であり、かつては確かに優秀な医療従事者であったことを。
「だから何よ。それでわたしたちを説得してるつもり? だったら最初から英会話を習い直して来るのね。煽るような真似をして馬鹿じゃないの?」
「レイチェル、おまえさんとの話はもう終わっている。黙っていてくれ」
「──わたしが銃を持っていて、キリーを背中から撃てるのを分かってないみたいね」
「撃ってみろ」
「何ですって?」
「撃った瞬間、SASとデルタフォースはIRAを殲滅する理由を得る。キリコが死のうが私が死のうが、任務の遂行のためには仕方がないことだ」
 She's the greatest──彼女は最高だ。キリコの背後でハリスが呟いた。キリコにしか聞こえない声ではあったが、肩を竦めたくなった。背後のIRA戦士は随分といい加減だと思った。
「差別がどうした、なんて流石に言わない」
 BJは続けた。
「私だってそれなりに嫌な経験はしてる。人種も肌の色も、この傷も。──でも」
 でも、それでも。BJは言った。
「わたしを愛してくれている人はいる。わたしの話を聞いてくれる人も。わたしへの差別をわたしの代わりに怒ってくれる人も」
 薄闇の中、BJはキリコを見た。視線を感じたキリコもBJを見た。互いの顔までは見えなかったが、キリコはBJに微笑んだ。
「この国でだって、差別で嫌な思いをしたわたしのために、靴を直して走って届けてくれた人がいる。任務のために不自由な制約の中でも、わたしに礼を尽くそうとしてくれた人もいて──彼はちょっと失敗したけど、でもそうしようとしてくれた」
 グラディスは過去の自分に対して肩を竦め、ミカエルは過去の自分に対して赤くなる。
「他にもたくさん。ずっと昔から、わたしを拒否する人より、わたしを受け入れてくれる人がたくさんいる。──どんな相手でも、どんな差別でも、こんな見た目になるくらいなら死んだ方がましだって言われても、法の番人であるはずの警察官に集団レイプされても、わたしはテロで人を殺そうなんて一度も思ったことはない」
 彼女の勇気に神の加護を。図らずもキリコと、そしてここにいる軍人たち全てが思った。思わずにいられるはずがなかった。
「母とわたしの人生を踏み躙った連中を憎んで、殺そうとした。結果的には殺したこともある。後悔はしていない。──でも、わたしの娘に、わたしはその話をすることなんてできない」
 今すぐだ。キリコは思う。俺は今すぐおまえに跪いて、持ち得る全ての敬意を捧げたい。
 ──今ここでおまえはどれほどの苦しみを曝け出しているのか。自分には無関係であるはずのこの状況に。
「保育園を焼いたことを、多くの人たちを苦しめたことを、過去に殺したことを、おまえたちは自分の子供に、家族に話せるのか? 正当な理由があったから殺したと言えるのか? 誇れるのか? いつか誰もが理解してくれるはずだと言えるのか?」
 この女は──そうだ。キリコは改めて思うのだ。
 ──全ての人間を愛している。この女は愛そのものだ。
「まだ間に合う。今ならきっと、彼らはおまえたちを殺さない」
 だから。BJは言った。だから──だから。
「だから、やり直して欲しい。わたしに、──医療従事者に、おまえたちを許す機会を、どうか」
 ほら。俺の女はこうなんだ。自分の今の感情を誰が理解してくれるのか、キリコには分からない。理解してもらえなくても良かった。只々、愛した女がまたぞろ愛しくてたまらない。
 ──俺の女はこうなんだ。全ての人間を愛そうとする。どれほど裏切られても、どれほど辛い思いをしても、こうやって愛し続けている。
 沈黙が場を支配した。誰も何も言葉を発することができず、IRAはバリケードの中で縮こまり、特殊部隊員たちは感情の揺れを訓練の成果で必死に制御する。
 やがて静かな声がフロアに響いた。
「銃を置いてドクター・キリコを解放すれば、SASはここにいるIRAの生命を保証する」
 SAS隊長の宣言の後、新たな声が響いた。
「デルタフォースだ。エリー、レイチェル、今の段階なら仮釈放つきの20年で済む。賢明な判断を」
 歴史的な状況であることを知らないのはBJと、そしてIRAだった。今この時、まず有り得ないことになっていると自覚し、驚愕しているのはこの場にいる軍人全て、そして元軍人だった。国は違えど対テロ部隊の隊長二人が、それぞれの上層部に指示を仰がず、独断でIRAに投降を勧告した。上層部の命令のみで動くはずの彼らに許されることではない。だが今、確かに彼らはその選択をした。
 ハリスが立ち上がり、バリケードから姿を現す。途端に軍人たちは訓練された素早さでハリスに銃を向けたが、ミカエルが鋭く「撃つな」と命じた。グラディスは無言でサインを出し、部下たちにミカエルと同様の命令を出した。
「ドクター」
「ああ」
「立たせ続けてすまなかった。疲れたんじゃないか」
「そこまで鈍っちゃいない」
「それは良かった。──俺はあなたがここから立ち去っても、後ろから撃つ気はないよ」
「他の連中は?」
「そこまでは保証できないね」
「幸運を」
「どうも」
 刺さるような──否、縋るようなレイチェルの視線を背中に感じながら、キリコはゆっくりと歩き出した。自国の軍人たちと、愛する女がいる方向へ。顔が見えるほどに近付くと同時に、どちらからともなく腕を伸ばして抱き合った。
「クロオ」
 よく頑張った。男がそう言うと女はしがみつく力を強くする。本来なら人質となっていたキリコが慰撫されるべきだろうに、それでも何ひとつ、この光景はおかしいものだと誰も思わなかった。この医者が、女が、死にもの狂いで話をしたことなど、ここにいる誰もが分かっていた。
「もう大丈夫だ。よく頑張った」
「うん」
「後はグラディスとミカエルに任せよう。彼らならパーフェクトに片付けてくれる」
 うん、うん、とBJは何度も頷き、キリコの腕の中から離れようとしなかった。胸元があたたかく濡れて行く感触を得ても、キリコはBJを抱く腕の力を緩めようとは思えなかった。
 ハリスが両手を挙げてからゆっくりと銃を床に置き、再び両手を挙げる。SASの隊員が照光機を向け、ハリスの姿が薄暗いフロアに浮かび上がった。それを見たBJがキリコに何かを言おうとして見上げたが、キリコは目で制した。ここから先は軍人に任せるべきだ。
「俺は行くぞ。おまえたちはどうする」
 背後の仲間たちに声をかけたハリーに、女の鋭い罵声が飛んだ。
「この腰抜けの××野郎、行っちまえばいい。起爆装置はまだわたしが持ってる。ぶち込まれたって死ぬ前に起動させてやるわ!」
 バリケードの中からのエリーの宣言に、IRAの男たちが身動く気配がした。起爆装置を手にしたのだろう。だが軍人たちも、そして二人の医者も動揺することはなかった。むしろ哀れむかのようにバリケードに視線をやるだけだった。
「レイチェル」
 グラディスが口を開いた。
「言ってあげるか、そこから黙って出て来るか、あなたが選ぶといい」
「──わたしにそこまでさせる意味って何?」
 諦め、拗ね切ったレイチェルの声が響く。グラディスは答えた。
「仲間を説得しようとした上での投降扱いになる。罪が軽くなる」
「20年が19年かしら。たったの1年?」
「ラデュレの新商品が出るには充分だね」
「悪くないかもね」
「無粋で申し訳ないけれど」
 ミカエルが言った。
「レイチェルの生命は確実に保証する。ブラック・ジャック先生と約束した。投降すれば他のメンバーも同様だ」
 馬鹿、とキリコとグラディスはほぼ同時に口の中で呟いた。憎い女に情けをかけられたと思ったレイチェルが激高する可能性があると危惧したのだ。ミカエルはあまりにも女性の心の機微に疎い──だが二人の男が危惧する結果にはならなかった。
「何よ」
 レイチェルが笑った。泣きながら笑っていた。ああそうか、とキリコとグラディスは思った。
 ミカエルは確かに女性の心の機微に疎い。だが、誰よりもテロリストの心の動きを知る者だったのだ。
「わたし、お金ないわよ」
 BJはゆっくりとキリコの腕の中から抜け出す。そして歩き出す。引き留めようとしたキリコを一度振り返って目で制する。キリコは溜息をついて頷いた。
 振り返った顔が医者のものであったのなら、止めてはならなかった。
 バリケードの前に立ったままのハリスが驚き顔をすることに構わず、BJはその近くに立つ。エリーやメンバーが殺気立つ中、バリケードの中のレイチェルに言った。
「キリコの昔の女特典で割引してあげる」
「むかつく女ね」
「自己紹介なら結構よ。あなたがむかつく女だなんてよく知ってるから」
 怖い、とグラディスが言葉とは裏腹に笑った。キリコはノーコメントを貫いた。
「私なら間に合う。どうってことないわよ」
「何よ」
 レイチェルが深く、深く息を吐いた。
「いつ分かったのよ。わたしが肺がんのステージ3だって」
 軍人たちの表情が凍り付き、キリコは眉ひとつ動かさず、BJと自分の診立てが一致したことに満足した。だがバトラーには嘘をつくことになると思った。レイチェルはもう死ぬ。バトラーにはそう言った。それは高確率で嘘になってしまうだろう。
「あ、肺だったんだ。それは知らなかったけど、まあ、がんだろうなって思ったのは──あなたがキリコにフェラチオするだの何だの、タクシーで言ってた時よ」
 今度は別の意味の視線がキリコに集中し、キリコは本気でこの場から逃げ出したくなった。女の子にさせるのって僕はあんまり好きじゃないなあと隣でグラディスに呟かれ、逃げるついでに殺そうかと思った。もはや口を縫うだけでは気が済まない。
「進行したがん患者って、独特のにおいがするのよ。それから目や肌にも出るしね」
「ああ、確かにあの距離なら──でも凄いわね。噂以上だわ」
「噂なんてあてにならないわ。テロリストを皆殺しにするって噂のSASみたいにね」
「デルタフォースは?」
「何回か任務を見たことがあるけど、皆殺しにしたことなんて一度もない」
 知らないところでやってるだけだろう、とキリコはちらりとグラディスを見、グラディスは素知らぬ顔をする。ミカエルはやっていないはずがない、まあお互い様だ、と心の中で呟く。
「一千万でいいわ。無理だと思ったら寛解して、釈放されてから生命保険に入りなさいよ。受取人はわたしね。ある程度は待っててあげる」
「医者の言い草とは思えないわ!」
「看護師のテロリストの言い草でもないわね。──言うことは言ったから考えておいて」
 話を切り上げ、BJはまたキリコの元へ戻ろうとする。だが気になってつい、ちらりとハリスを見てしまった。見なければ良かったと後悔した。レイチェルを救う手段を示した医者に、ハリスは明らかに憎悪した表情を浮かべていた。BJはハリスに小さく問うた。
「誰の命令で?」
 ハリスは更に小さく、小さく答えた。
「女王陛下」
 BJは溜息を押し殺した。それならば憎悪されても仕方がないと理解した。
「私には何も言えない」
「戻るといい」
「そうする」
「──この××!」
 瞬間、BJを侮辱する言葉を叫んで立ち上がったエリーがバリケードから飛び出し、BJに短機関銃を向けた。ハリーが満面の笑顔を浮かべた。BJを突き飛ばし、腰のベルトから抜き出したキリコの銃を構えるのは同時だった。エリーは確実に優れたIRAの戦士だった。銃器の扱いにも長けていた。だが目の前の男は軽々とその技量を上回った。
 駆け寄ったグラディスが渾身の力で倒れたBJを引き戻し、コンディション3(各自判断)と叫ぶ。ベネットたちは一斉に前に飛び出し、キリコとBJ、そしてグラディスを背中にかばうように銃を構え、エリーの額を撃ち抜いたハリスを狙った。ハリスは笑って言った。女王陛下のご命令だ。その次の瞬間、グラディスが再び叫んだ。手を出すな、特務機関員だ。
 ミカエルが発砲許可を叫んだ。SAS隊員が一斉に構えた。キリコに抱いて床に引き倒され、その上からグラディスに抑え付けられながらBJは叫んだ。撃つな、やめろ、撃つな。ミカエルが厳然と命令した。撃て。BJは絶叫した。──撃たないで、お願い、撃たないで。その声は無数の短機関銃がバリケードを撃ち抜く発砲音にかき消された。わたしの患者がいるの、撃たないで、やめて。泣いて叫んでも誰にも届きはしなかった。誰もが聞こえない振りをしたのだから、届くはずがなかった。
 やがて全ての銃撃が止む。SAS隊員たちが素早く状況検分を行い、IRAの死体を確認して行く。キリコに抱き起こされたBJはグラディスに泣きながら殴りかかろうとし、キリコに止められた。グラディスは何も言わず、銃を手にしたまま状況検分中のミカエルの方へ歩いて行った。
 涙が止まらずにキリコに抱き締められるBJの元へハリスがやって来る。キリコに銃を返し、それから静かに言った。
「お怪我はございませんか、ハザマ様」
 心から心配したバトラーは丁寧に伺いを立て、BJはまた泣き、頷くこともできなかった。
 その時、隊員が叫んだ。ギルヴィットだった。
「呼吸確認! レイチェル!」
 誰よりも速くBJが叫んだ。今度は誰もが聞こえない振りをしないはずだと思いながら。
「私が診る!」
「ドクター・キリコとブラック・ジャック先生が診る!」
 一瞬で判断したグラディスが叫んだ。アメリカ人であるキリコが治療に関わる以上、レイチェルの身柄をアメリカ側が確保しやすい条件が瞬時に整ってしまったと悟り、ミカエルがほんの僅かに悔しそうな顔をし、バトラーは眉をひそめ、キリコはバトラーに「嘘をつくことになりそうだ、すまないな」と言い、既に走り出していたBJを追った。


 レイチェルの手術は6時間に及んだが、負傷の具合と進行したがんを持つ状態としては恐るべき速さだと言っても良かった。陸軍病院で立ち合った医療スタッフはBJの神の指に畏怖し、完全な補助と薬物管理をしたキリコに敬意を抱く。手術の後、普段なら倒れることも少なくないBJは極限の精神状態で立ち続け、病院に現れた軍と警察関係者に強く退去を求めた。ミカエルがすぐに手を回し、彼らはレイチェルの容態が安定するまで陸軍病院への訪問を禁じられることになった。それを知ったBJはようやく腰を下ろし、息を吐いた後、気絶するように眠った。
 しばらく空いている病室でBJを眠らせることにし、キリコもようやく息を吐く。複雑と言えば複雑な心境だが、医者としてやるべきことはやったと言う自尊心を感じていることも確かだった。眠るBJを見て思う。この女がいなければ──
 ──この女がいなければ、俺はレイチェルを、がん患者を見捨てていた。
 自分で始末をつけろ。キリコはレイチェルにそう言った。あれは医者として、目の前の病人を見捨てると言う宣言だった。医者としてそれは失格だと誰かが言うだろう。自分もそう思う。だが同時に思うのだ。
 ──俺の女のためなら、死んでもよかった。
 全ての生命を愛している。そう自負していた。だが本当はそうではないのだと、心の奥底にあった真実を目の当たりにした。レイチェルの死を願ったし、殺してもいいとまで思った事実は真実だ。
 もしも目の前で眠るこの女に出会わなければ──不意に考えた。もしも出会わなかったのなら、こんな真実を見詰めることにはならなかったかもしれない。全ての生命を愛する死神として人生を送り続けられたのかもしれない。
 だがその仮定は無意味だ。それもすぐに理解した。蒸し暑いあの密林の中で出会い、別れ、密林の中の青い光の秘密を知っても、挫折と絶望の中でのたうち回ったその後も、背中合わせのように感じ続けた存在は一体誰だったのか。
 考えるまでもなかった。
 背中合わせではなく隣に立つ今、これからも考え続けるのだろうと思った。
 眠り続ける女の顔を眺めながら、一生考え続けていたいとも思った。
「──起こすのはNGだ」
 控えめなノックの後に入って来たグラディスに振り返らないまま言う。黒い髪のグラディスは「分かってる」と小さな声で言った。
「悪いんだけど、先生が寝てるうちにハリスの話を聞かせて欲しいんだ。廊下でいい」
「5分だ」
「ほんと早漏」
「口を縫うぞ」
 ハリスと言う名が本名かどうかは知らない、ホテルのバトラーだと言う話をした。彼はIRA戦士の振りをしてラデュレのサロンに現れ、ベネットとギルヴィットを遠ざけ、レイチェルを救うていで6階──SASが戦闘を展開しやすいフロアに連れて行った。デルタフォースが既に作戦行動を展開していたことは知らなかった。
 知る限りの彼の経歴も話した。首相が認識している存在であること、SASの元隊長であること、最後に撃った銃はキリコが貸したものであること。グラディスは頷いた。
「ありがとう。後でミカエルから事情聴取の要請が来ると思うけど、必要なら大使館から弁護士を派遣してもらう。女王陛下が関わったから、多分なかったことになるけどね」
「弁護士の手続きをしておいてくれ。──女王陛下が何だって?」
「今の話を聞く限り、ハリスは首相経由で本物の女王様の命令書でも手に入れたんだと思う。──SASがIRAを殲滅する理由を作りたかったか、面倒を知るあなたと先生ごと殺したかったかは僕にも分かんない」
 キリコは笑った。あの首相なら後者だろうと思った。怒りの感情はわかず、むしろあれだけ可愛がっているBJのことも、国民のためであれば殺す決断ができる女を尊敬した。
「あと10万ポンド追加だ」
「何それ」
「首相から小遣いをもらおうかと思ってな」
「聴こえなかったけど聴き返さない」
「それがいい」
「とりあえずありがとう。お陰様でレイチェルだけは本国に連れて帰れる。任務完了だ」
「同じ病院だ、帰る前にアンディを見舞ってやれ。今度は手が届く場所に煙草を置いてやるんだぞ」
「おしゃべりアンディめ」
 歩き出したグラディスの背中に、キリコは最後の言葉を投げた。
「あいつは出世しない奴だ」
 グラディスは無言で足を止める。キリコは続けた。
「1%の意味を理解できないまま終わる。いつか普通の暮らしに戻れる奴だよ」
 おまえさんが分かっていればいいだろう。キリコはそう言った。グラディスが背中越しに息を吐いた。
「結婚式の日にロンドンでテロが起これば面白いな」
「聞かなかったことにする」
 こいつが言うと冗談に聞こえないな、と呆れながら、また歩き出した背中を見送ることなく、女が眠る病室へ戻った。


 ホテルに戻ると洒落たバトラーが笑顔で出迎えてくれた。BJとキリコは顔を見合わせ、それから同時に苦笑した。バトラーは涼しい顔で、とうに用意していたテラスの席を勧めてくれる。BJはしばらく彼に対して構えてしまいそうな気がしていたが、彼がくれた数々のサービスは本物だと分かっていたし、彼の事情、国の事情を理解してもいた。だから正直にそれを彼に伝えた。バトラーは微笑み、恐れ入ります、と答えただけだった。
「あと3日しかないのに、もう観光どころじゃないな。明日は起きられる自信がないし」
「寝てろ。レイチェルの様子は俺が見に行ってやる」
「浮気しないでよ」
「誰がするかよ」
 軽口で返されて安堵し、抱き寄せてキスをする。ブランケットと小型のストーブは相変わらずあたたかく、つい数時間前までの喧騒が嘘だったのではないかと思うほど、平和な空間を作り出してくれていた。
「マフィン」
「ん?」
「帰国後の仕事の予定は?」
「来月まで入れてない」
「じゃあいいだろう」
「何?」
 俺も仕事がないから、と前置きしてからキリコは言った。
「流石にお嬢ちゃんをこれ以上放っておくわけにもいかないから、お嬢ちゃんとユリを呼んでもうしばらくこっちにいよう。貸し切りのクルーズはそれに合わせるようにミカエルに言って」
「──最高!」
 飛び上がるように喜び、BJはキリコに抱き付いて自分からキスをする。笑って応え、延泊ができるかどうかをバトラーに確認しないとね、と言った。
 喜んだBJを抱き締めながら、早く二人が来てくれればいいと思った。数時間前の光景を忘れたかのように振る舞っているが、まさかそんなはずがない。必死で理解しようと、納得しようとしていることは分かっている。だがそれには時間がかかるだろう。せめてそれまで、少しでも日常の中で安堵の呼吸ができるようにしてやりたかった。
 でも、とBJが甘えた声で言った。二人が来るまでは、キリコとわたしだけね。余りにも可愛くて愛しくて、キリコは笑って、そしてきつく抱き締めた。
「クルーズの護衛がSAS。それだけは嫌だな」
「仕方ないだろう、ミカエルの裁量なんだから」
「そこだけデルタにできない?」
「──無理だろ」
 思わず笑い、吸っていた煙草に噎せる。今回の件でSASとデルタフォースの間、特に隊長同士の間に大きすぎる、深すぎる溝ができたことは確かだ。それを言うとBJは首を傾げ、気付いていなかったのか、とキリコはいっそ感心した。
「でも、デルタが協力したからSASも助かったんじゃないの?」
「いや、あれは協力じゃないから」
 どちらかと言えばデルタがSASの裏をかき、それを知ったSASがデルタを利用したようなものだ。ある意味で協力態勢であったことは間違いないが、二人の隊長は認めはしないだろう。
「ピノコ、喜ぶだろうな。クルーズなんて初めてだから。ユリさんもこういうの好きそうだし」
「あいつはクルーズのために服を買いに行きそうだ。──おまえも買わないと」
「買ってよ」
「買ってやるって。今度こそ」
 二人で笑いながらまたキスをする。今度こそ、と言う言葉が実現するように強く祈ってから寝た方がいいかもしれない。キリコがそう言うとBJは笑い転げた。
 それからキリコは少し真面目な顔になる。
「タクシーの中でレイチェルに何を言われた?」
 当初は訊くつもりがなかったが、今なら話せるだろうと踏み、額を寄せて問う。BJは少し身じろぎし、それから僅かに顔を赤くした。察したキリコは、ああ、ええと、と呟く。あの緊迫した空気の中でBJがとんでもない発言をしたこと思い出した。
「ベッドの話はともかく、他に。何かあれば」
「……配属地が離れても手紙をよくくれたとか」
「……うん」
 うう、とキリコは呻きたくなる。心が痛い。密林の中で別れる時、手紙を書くよと言って書かなかったのは? ──俺だ。
 自己嫌悪に陥るキリコを慮ったわけでもないのだろうが、BJが今度は顔を真っ赤にして話を続けた。
「思い出してみると」
「うん」
「ベッドのことばっかり話してたような気がする」
「……いや、待って、そろそろ心が持ちそうもない」
 変態的な趣味はない。だが誰とて、昔の恋人との情事について今のパートナーと語り合いたいものではない。どうやって話を切り上げようかと考えていると、不意にBJが唇を尖らせた。
「だってわたし、知らないし」
「何を」
「口で、その、あの、──やり方。知らないし」
 何を言うべきか。キリコは絶句し、その様子にBJはますます真っ赤になってしまう。だから、となぜか怒ったような口調で言った。
「だから、キリコが教えてくれないと、分かんない!」
「──神よ、感謝します」
 テロリストどもから救出されても零れなかった感謝の言葉が口から流れ出す。だがBJがデリカシーがないと怒り出し、慌ててキリコは機嫌を取るはめになる。羞恥心で中々怒った顔をやめられないBJを宥め賺し、謝ってキスをして、数時間前の騒動などすっかり忘れてしまった。忘れる振りができた。
 やがてバトラーが夜の御用聞きに現れる。とにかく朝まで二人にしてくれとキリコが言い、そんな言い方しないで、恥ずかしい、とBJが怒る。バトラーはかしこまりましたと承諾し、彼にとっては最高の宿泊客二人に笑顔を向けてから、明日の朝食は寝室へお持ち致しましょうと言い置いて、ロンドンの夜空に鳴り響くビッグ・ベンの音と共に静かに退室したのだった。