背中で聞こえるユーモレスク 03

 菓子にまみれたランチの後、また降り始めた小雨にテラスから追い出され、怠惰な気分を呼び起こされた。無理に観光に出ることもないと二人で結論付け、ミニバーでキリコが作るカクテルをお供に思い思いに過ごす。
「日本から履いて来た靴は部屋の中で履くようにしようかな」
「それもいいんじゃないか。ヒールのままじゃ疲れるだろう」
「まあね。買ってもらっておいて何だけどさ、こういう高級ブランドの靴って歩かない人向けなんじゃないかと思うよ」
「ハイブランドのパンプスやサンダルなら大抵そうだろうな。ブーツはまだ歩ける」
「うん、これはしっくりくる。サイズがあってよかった」
 午後の時間がゆっくりと流れて行く。靴を履き替え、ドーハ行きの機内で読んだ本の感想を言い合い、読む本がもうないから雨が上がったら本屋へ行くかと話す。ロンドンには本屋が多く、観光スポットを離れればいくらでも本を探すことができる。
 まだ抜け切らない旅疲れと、予想外の経験に疲れたBJは軽くあくびをする。頭痛の前兆もあった。独特の雨で気圧が下がっていることも影響しているな、と自己分析した。
「ちょっと寝る」
「具合でも?」
「ううん、まだ眠いだけ。頭痛が来そうだから先に寝ておく。寝過ぎちゃいそうだったら起こして」
「お大事に」
「おまえさんに言われると違和感」
 BJの自己分析とほぼ同じ内容を察したキリコはそのまま見送る。キリコ自身も疲労感があった。眠りたいほどではないが、雨が厄介だと思う程度には万全の体調とは言い難かった。
 しばらく考え、寝室へ行く。眠る寸前だったBJが起きかけたが、俺も寝るよと言ってベッドに入り、身体を寄せて来たBJが眠るまで待った。
 BJが完全に眠ったことを確認してから起き上がり、静かにスーツケースを開ける。薬剤を詰めたケースから麻酔薬を取り出した。以前、この部屋で自分がBJに投与された麻酔薬だと思い出して苦笑したくなる。少し長く、深く眠る薬だ。的確な量であれば目覚めた時の朦朧を防げる。扱いは難しいが、キリコにとっては楽な部類に入るものだった。
 眠るBJに「ごめん」と一言詫びてから注射をし、キスをしてから寝室を出た。
「彼女は寝ている。俺は少し出かける」
 14時の御用聞きに来たバトラーに告げる。
「では、ドクターかハザマ様のお呼びを頂戴するまで私は失礼致します」
 ホテルスタッフの立場とはいえ、異性が一人きりで眠っている部屋にならば、呼ばれない限り入室を避けることがマナーだ。旧い時代はそうでもなかったが今はそうするべきだと考えられているし、万一何かのトラブルがあった時、バトラーの立場を守ることにも繋がっていた。
 キリコは無論、このバトラーがトラブルを起こすような真似をするとは考えてもいない。だが彼がそう言うのであればそうするべきだと思った。
「お気遣いをありがとう。17時には戻る。彼女が起きるのもそれくらいだ」
「かしこまりました。お留守の間、レイチェル様の他にお客様がいらしたらいかがなさいますか」
「全員追い返してくれ。たとえ女王陛下でもね」
「勇気のいるご指示ですが、承りました」
 イギリス人として最大の試練を与えられたバトラーは、丁寧に宿泊客を見送った。
 ロビーに降りたキリコは特に驚かなかった。予想していたことだ。
「待っていたのか」
「まあね。来なけりゃ来ないで帰ろうと思ってたし、先生に言っていいか分からなくてさ。先生が一緒に降りて来たらお茶に誘いに来た振りをするつもりだった」
「いい判断だ。言わなくていい」
「それなら良かった」
 待っていたアンディは肩を竦めた。
「グレイスは?」
「クロエのナースリー(保育園)の迎え。その後、習い事の体験入学をするから、俺はしばらくフリー」
「移住する気満々だな」
「クロエ次第だろうなあ。あと、俺の次の仕事が決まれば」
「無職の男に嫁がせる親はいない。しっかり探せよ」
「耳が痛いや。──で、俺の用件って、多分予想できてると思うんだけど」
「連れて行け。他にも用事があるから手短に。おまえのお喋りに長々と付き合う暇がない」
「話が早くて助かるよ。車を回す、待っててくれ」
 ほどなくして正面玄関前に停められた車に乗り込み、キリコは早速話を始める。どこかの店や場所に落ち着くつもりはなかった。アンディも特に異論を唱えることはなく、軍人独特の丁寧な運転で市街を走らせる。
「用件は?」
「ハロッズのジュードの件。あの後、すぐ隊長が会いに行った。それで──その、この国でドクターとどういう関係かって。前もって何かを──」
「関係と言われてもな。俺は観光客でジュードはフロアアテンダントだ」
「他には? 以前からあそこにいるのを知ってたとか」
「いいや、全く。俺も驚いたくらいだ」
「情報をくれたことには感謝してる。隊長も物凄く驚いたみたいだけど」
「まあそうだろうな」
 俺が隊長の立場でもそうだろうよ、と呟いた。
「イギリスで最も有名な老舗百貨店のフロアアテンダントに他国の武装勢力のリーダーがいたら、SASの隊長としては驚くしかないだろう。当然の反応だ」
「そうだよな。俺も驚いた」
 キリコは煙草に火を点け、窓を僅かに開ける。
「今のところ、他に出せる情報はない。訊かれたことには答えてやるが、連絡は俺の女に気取らせないでくれ」
「可能な限りね。先生が必要になったら分からない」
「そう言えば、グレイスはおまえの仕事をまだ知らないのか?」
「──そういう駆け引きは苦手なんだ。俺は分かったって言うよ。隊長がどう言うかなんて知らないぜ」
「最初からそう言っておけばいいんだ。ひとつ賢くなれたな、お喋りアンディ」
「ご教授をありがとう」
「どういたしまして」
 低く笑い、キリコは煙を吐き出した。アンディは溜息をこらえ、後部座席の男が闇に生きる人間なのだと改めて思った。グレイスやクロエの安全を脅かすようなことを言われなかっただけましなのかもしれない。
「どこへ送ればいい?」
「いや、歩くよ。停めてくれ」
「ご協力ありがとう。謝礼は後で」
「口座振込はやめてくれ。アメリカに監視されている。他の方法で」
「了解」
 停められた車を挨拶もせずに降りる。後はSASが考えるべきことだった。別段親切心からジュードのことを教えたわけではない。むしろ何かあるのなら、自分とBJがロンドンにいる間はうまくやってくれとしか思っていなかった。
 電話ボックスに入り、コインを入れて暗記しているナンバーをコールする。前回も世話になった。普段使っているマネージメント事務所よりは規模が小さいが、ロンドン市内では最も仕事が早い事務所だった。
「人探しと伝言を。可能な限り速く、リミットは1時間」
 探す対象と伝言内容、そしてキリコ自身が待つ場所を伝えて電話を切った。それからつい溜息をつく。ああ、本当に、と思った。
 ──本当に、旅行くらい穏やかにやらせてくれよ。俺はあいつと二人でのんびりしたいだけなのに。


 その事務所の能力は流石としか言いようがなかった。電話を切った50分後、キリコが指定したカフェにレイチェルが現れた。店内の視線を集める美女振りを見せつけ、キリコのテーブルにもったいぶった様子で腰を落ち着ける。
「連絡先を教えておくべきだったわね」
「必要ないさ。金を払えばおまえの居場所なんか30分で分かるってことだ」
「随分な言い方ね」
「どうでもいい。話がある」
「テラスの席がいいわ。移動しましょうよ」
「ここでいい」
 キリコのにべもない返事に、レイチェルは眉を跳ね上げて不快感を示した。安く扱われたような気がした。そしてそれは正解だということも理解していた。目の前の男は明らかに不機嫌で、昔の女への親しみは欠片も持っていないのだとよく分かる。
「あんな連中が買い物途中のわたしを捕まえて、すぐにここに行くようにって。どれだけ怖かったか分かる?」
 恐怖を訴える姿はあざとい女そのものだ。多くの男なら心から反省するだろう。だがキリコは少数派だった。恋人以外の女が恐怖を訴えたところで何も思わない。
「MI6にもSASにもおまえの正体は言っていない」
 レイチェルは一瞬表情を強張らせた後、やって来たウェイターに紅茶を頼んだ。
「昔の話よ」
「言う義理がないから言っていないだけで、必要があれば言う」
「何をしたいの。あまりわたしを困らせないで、キリー」
「パスポートとビザの偽造をMI6にバラされたくなければ、俺たちが出国する8日後まで家と職場だけを往復して生きろ。それ以外の場所に行くなら覚悟をしろ。以上だ」
「ねえ、キリー。わたしたち、話し合うべきだと思う。あなたに何かしようなんて思ってない。でも少しくらい昔の話をしたいって思うのは確かよ」
 レイチェルの手が動き、すぐに止まった。キリコが腕を組んでいたことに気付いたからだ。予想通りだったな、俺もよく覚えていたものだとキリコは内心で自分を褒める。自分に不利な話になった時、手を重ねようとする女であったことを店に入る前に思い出していたからこその予防措置だった。
「あなたとは確かに残念な結果になったわ。でも──はっきり言うわね。わたし、あなたを忘れたことなんてなかった。ずっとあなたに会いたかったし、ロンドンで再会できたのは神様のお導きだと思ったわ」
「勘違いだな。とにかく俺たちの邪魔をするな。そうすればおまえは当面安泰だ。そこから先は知ったことじゃない、うまく立ち回れ」
「──あの日本人、ブラック・ジャックでしょ? あの顔だもの、すぐ分かったわ」
 ちょうどレイチェルの紅茶を運んで来たウェイターがびくりと身体を震わせた。レイチェルの言葉に反応したのではない。たまたま見てしまった、片目の男が瞬時浮かべた表情に怯えたのだ。その表情はすぐに無表情の中に隠される。ウェイターは手の震えを隠しそこねたまま黙って注文の品を置き、ごゆっくり、と定型文を口にしてその場を去った。
 だがレイチェルは動じなかった。そうだ、とキリコは思い出した。──こいつだってまともな女じゃない。俺の殺意を見たところで動じるような女じゃない。
「それがどうした」
 BJの容姿は知れ渡っている。キリコとの関係も別段隠しているわけではない。むしろ闇の連中の間では有名と言えば有名だ。そしてレイチェルも闇を知らないわけではない。知っていて当然と言えば当然かもしれなかった。
「趣味が変わったのね。意外だったわ。あなた、ああいうタイプは絶対に手を出さなかったのに」
「そうか」
「それともあれかしら。日本の女性って尽くすって言うし、ブラック・ジャックも噂で聞くより従順ってことかしらね? ベッドはどうなの? わたしよりよかった?」
「レイチェル」
「ええ、なあに?」
「俺がMI6に電話をするコインを寄越すか、俺の言う通りにするかを選べ」
 レイチェルは唇を引き結び、昔の男が本当に怒ったこと、そして今の女を心底愛していることを確認した。
「8日後まで家と職場だけを往復しろってことでしょ。分かったわよ。買い物くらいはさせてもらうわよ。日用品もなしでどう生きろって?」
「二度と連絡しない」
「わたしからはするかもね。お金を遣えばあなたがいる場所なんてすぐ分かる」
 キリコは暫しレイチェルを見る。昔の女は相変わらず気が強く、そして昔よりも狡猾な目をしていた。だから静かに言ってやった。
「あいつの昔の男は死んだ」
「興味ないわ」
「俺が殺したかもしれないな」
 最後のそれは囁きだった。カフェの喧騒に紛れ、ともすれば誰にも聞こえない。だがレイチェルにははっきりと聞こえ、そして彼女から顔色を奪った。
「あなたが? 仕事でもないのに?」
 キリコは続けた。
「冗談だよ」
 表情ひとつ変えず、眉ひとつ動かさず、レイチェルの目を見たままそう言った。作り笑いすらしなかった。レイチェルの返事を待たず、伝票が挟まれた革のバインダーを持って立ち上がった。そのまま昔の女を二度と振り返らなかった。
 思ったよりも早く用事が終わった。BJが起きるまであと一時間ほどある。ホテルに戻って素知らぬ顔をするには充分だ。バトラーは男が出かけたことなど黙っていてくれるだろう。
 タクシーを拾うために歩き始めたキリコの前方で、アイルランド系の男が職務質問を受けていた。おそらく99%に入る善良な彼は抵抗することなく身分証を出そうとしていた。
 何事もなければいい、俺たちがロンドンを出るまでは。キリコはそう思った。
「キリー」
 間が悪い、とキリコは舌打ちしたくなった。警察官が近くにいる時に女と言い争いをしたくない。追って来たレイチェルはそれを見越したに違いないと断定した。そういう女だ。頭が良く、計算高い。昔はそんなところを好んでいた。思い出したくなかった。
「待って。わたしたち、もう少し話すべきだと思う。あなたはわたしを誤解してる」
「終わった話だ。誤解を解く必要はない」
「あなたに誤解されたままなんて耐えられない。──お願いよ!」
 やりやがった。キリコは舌打ちを無表情の中に隠した。レイチェルはわざと、縋るような大声を出してみせた。周囲の視線が一斉に集まり、その中には警察官のものもある。
「大きな声を出すな。俺はもう帰る」
「そんなこと言わないで、話をしてよ! わたしたち、うまくやれるわよ!」
「俺が警察官に職務質問されないうちに黙ってくれ」
 ちょうど停められたタクシーのドアを開け、警察官にこれ以上注目されないよう素早く乗り込む。レイチェルが縋ったが無視してドアを閉めた。察したドライバーが行き先を問う前に発進させてくれた。レイチェルが悲劇的に罵る声と野次馬のブーイングが窓越しに聞こえたが、知ったことではなかった。
「さて、どちらまで?」
「フォーシーズンズ。急いでくれ」
「色男は大変だね」
 ドライバーの冗談に苦笑し、シートに深くもたれた。
 幸いにもロンドン名物の渋滞は軽微で済み、すぐにホテルへ戻れた。正面玄関をくぐり、やや急ぎ足でエレベーターへ向かう。薬のコントロールには自信があるが、万一を考えると余裕を持って部屋に戻りたかった。
 部屋の中は静かだった。コートを脱いで寝室を覗くと、まだ眠り込んでいるBJがいた。ほっとしてベッドに乗り、BJの注射跡に貼っておいた止血テープを剥がす。縫合痕の際から血管を拾って注射をしたため、痕に隠れてほとんど見えない。上々だ、と今日の結果に満足した。
 しばらく顔を見て過ごした。早く起きればいいのにと思った。あと30分もすれば起きるはずなのに、待ち切れない子供のような自分がいた。
 ビッグ・ベンの毎正時が夕刻の空に響く。やがて予定時間通りにBJが目を覚ました。何時、と訊かれたので17時と答えた。そんなに寝たの、と驚いて飛び起きかけるBJをベッドに縫い込めるように押し倒し、覆い被さってキスをする。寝起きのキスにしては深いそれにBJは息を上げた。
「マフィン」
「ん?」
「したいな。いい?」
 直截的に言うキリコは珍しい。BJは思ったが、既にキリコの指がブラウスのボタンを外し始めていることを知り、つい笑ってしまう。
「夜にどこかに連れてってくれるなら」
「仰せのままに。今日こそタワーブリッジを見よう」
 言い終えた時にはすっかりブラウスの前ははだけられていて、BJは機嫌よく甘えてキリコの首にしがみついた。キリコも笑って抱き締める。
 可愛い、俺の。いつもの言葉を囁くと、BJは嬉しそうに自分からキスをしてくれた。


 キリコはそのままベッドの中で眠りそうになったが、先にシャワーを浴びたBJが「起きろ馬鹿、最低男!」と臍を曲げかけたのでどうにか起きた。昼に食べた菓子はとうの昔に消化され、容赦ない空腹に襲われた二人は、まずは夕飯だと外に繰り出す。見かけたブラッスリーが当たりの店で、曲がりかかったBJの臍が戻った。
 タワーブリッジはロンドンブリッジから見た方が綺麗だと言う観光客の有り難い教えを思い出し、地下鉄に乗る。今日は靴が冷たくないと言ってBJが笑った。機嫌のいい恋人を見てキリコは微笑んだ。
 テムズ川沿いの石畳をそぞろ歩く。観光名所だけあって確かに眺めが良かった。タワーブリッジはライトアップをされても軽薄さはなく、品良く夜のテムズ川に佇んでいる。近くでは分からないタワーブリッジの全貌がよく見えた。100年以上の歴史を持つ橋は今日も粛々と役目を果たしているようだった。大型の船が通る時には通行が止められ、跳ね橋が上がるのだが、その光景を見物するタイミングには恵まれなかった。
「お、ベルファスト」
「何それ?」
「旧い巡洋艦。退役してからここに展示されてるんだ。中も見られる」
「出た、男の子のロマン」
 観光名所のひとつとしてテムズ川に浮かぶ退役した軍艦に、珍しくはっきりした興味を示すキリコを見てBJは内心で肩を竦めたが、キリコが見たいのならゆっくり見ればいいと思う。石造りの欄干に腕を預け、巡洋艦を見るキリコを眺めた。たまにはキリコが自分の好きなものを優先すればいい。いつも恋人の好みばかりを優先してくれることをよく知っていた。
 だがキリコはすぐに切り上げようとし、今度こそBJは肩を竦めてみせた。
「見たいならゆっくり見ればいいのに」
「おまえが好きならもう少し見るよ」
「船は嫌いじゃないな」
「初耳だ」
「よく考えればまた会ったのは船だったし」
 含みのある答えに、キリコは巡洋艦ではなくBJを見る。BJは巡洋艦を見ている。
 僅かな時間、BJは言葉を探す素振りを見せた。キリコは待った。やがてBJはふっと口元を綻ばせ、言った。
「だから、船は嫌いじゃないよ」
 何を言われているのか分からないほど愚かではなかった。ロンドンに来てから二人で思い出をなぞってばかりだと思いながら、だがそれは必要なことだったのかもしれないと今、認めた。
 再び会ったあの船で、当時のBJがどれほど衝撃を受けたかをよく知っている。知らない振りをした自分が愚かだったと言うことも分かっている。互いに良い記憶であったはずがないのだ。
 それでも今、BJが言った言葉が、その記憶をもはや傷とはするまいと、二人の中で共有する思い出にしようという意味であることが分かった。
 俺だけではないのだ。不意に思った。この愛を手に入れてから、過去の記憶をひとつずつ、悪夢ばかりではないとなぞり直して行っているのは、おそらくこの女も同じなのだ。そう思った。
 左目の奥の記憶の中は悪夢ばかりではなかった、誇りも愛も存在した、それに気付かせてくれたのはこの女の愛だった。そしてBJ自身、愛した男と共に過ごすうち、自分を傷つけて来た記憶の中から確かに愛を拾い上げている。
「ねえ」
 BJが言った。自分の前でしか出さない女の声だとキリコはよく知っていた。
「眠らせなくても、言えば送り出したのに」
 女の指がキリコの腕の一点を押した。キリコは即座に降参した。気付かれないよう最大限に気を使ったはずだったのに、BJは注射痕に気付き、あっさりその理由を予想してしまっていた。
「分かった?」
「シャワーの時にね」
 そうか、とキリコは言った。うん、とBJは言った。
「何を話したの」
「俺とおまえがロンドンにいるあと8日間、顔を見せるなって話」
「顔を見せそうな人なの」
「そうだな。はっきり言うけど」
「うん」
「俺に未練があるんだよ」
 BJが落ち込むかと思ったし、その覚悟をして言った。落ち込んだら全力でケアするつもりで言ったのだ。だが予想外だった。
「分かる」
 そう言って、BJは笑った。自嘲混じりではあったが、BJにとって確かにそれは笑うべきことだったのだ。
「分かる? 何が?」
「わたしもそうだから。ベトナムで別れた時からずっと、そりゃあ、他の人と何もなかったわけじゃないけれど」
 綺麗な身体じゃないけれど。それは心の中で呟いた。キリコが知っている話もあったし、知らない話もある。全てを言う必要はないと分かっている。言いたいとも思わない。キリコが話を求めるとも思わない。
「愛するなって言われても諦められないくらい、いい男なんだから。そんな男をずっと愛してるひとがいたって、全然おかしくないし、気持ちも分かる」
 BJはまた笑った。わたしだって、と言って。
「わたしだってこうなる前は、キリコが他の女性と一緒にいた頃はそういう立場だったってわけなんだから。それでいいんじゃない?」
「おまえはそれでいいのか?」
 自分を無理に納得させようとしているのではないか。キリコはそれを危惧した。BJの悪い癖のひとつとも言えるし、おそらく長い間の辛酸で培った自己防衛の方法とも言える。目にするたびに痛々しくて哀れでならない。今、その原因が自分であることが情けなくてならない。
「言ってもいいなら」
「言ってくれよ」
 BJはまた黙り込んだ。キリコはただ待った。目の前でゆっくりとタワーブリッジの跳ね橋が上がっていく。少し先から大型の遊覧船が優雅に跳ね橋をくぐるために波を切って近付いてくる。
 周囲の観光客たちが歓声を上げる中、BJはようやく言った。
「もう、あのひとと会わないで」
 ようやく絞り出した声は震えていた。キリコ以外の誰にも聞かせたことがない、弱い、嫉妬を認めた女の声だった。言ってはいけない、言えば醜い、情けない、疎まれる──そんなことを恐れ、口にするまでにどれほど逡巡したのか、キリコには想像もつかなかった。だがBJにとっては恐ろしく勇気が必要な言葉だったことは分かりすぎるほどに分かった。
「会わないよ」
「信じる」
「ありがとう。嘘をつくような真似をして悪かった。言い訳はしない」
「これから」
「うん」
「嘘は、みんなが幸せになれる嘘だけがいい」
 跳ね橋を豪奢な遊覧船がくぐり抜ける。喜ぶ観光客たちのざわめきを聞き、遊覧船でディナークルーズを楽しむ客たちを遠目に眺め、キリコは不意に酷い罪悪感に襲われた。この女は、と気付いた。
 ──この女はどれほど、嘘で欺かれて来たのだろうか。
 そんな人間たちに囲まれる生き方を選んだのは彼女自身だ。そう言えば話は終わる。だが少なからず、おそらく彼女を知る多くの人間の中でも彼女をよく知っているはずの自分はそれを言ってはならないと分かっていた。
 嘘をつかないで欲しいと言えない。恋人にすら言えない。
 そして思い出す。自分は何度、この女に嘘をついたことだろう。
 ベトナムで別れる時に言った手紙を書かなかった。船で再会した時に知らない顔をした。愛し合っていたのに愛し合わない振りをした。
 信用されるはずがないのだ。愚かにも今、そんなことに気付いた。
 ようやく返事をした。
「もう二度と、おまえに嘘をつかない」
「そうじゃなくて──そんなの、難しいんだから」
「つかない」
 苦笑して譲歩を示そうとする言葉を封じ、繰り返した。欄干に置いたBJの手に、自分の手を重ねる。冷たい石に触れっていた手は冷え切っていた。冷たさが嫌で握り締めた。
「つかないよ。二度と」
 BJは答えなかった。僅かに笑い、息を吐いただけだった。これは仕方ない──キリコは焦燥感を持ってはならないと自分に言い聞かせながら思った。当然だ。俺はそれだけのことをこの女にして来たんだから。
「これだけは言っておきたいんだ」
「うん」
「愛してるよ。信じて」
 BJがキリコを見上げる。キリコもBJを見た。やがてBJは眉をひそめて笑い、小さく頷いて、言った。
「──If you say so」
 あなたがそう言うなら。他人が聞けばただの会話でも、二人にとっては何よりも大切な言葉が零れた唇に、キリコは静かに自分の唇を重ねていた。


 仕事を終え、ジュードは帰路についた。ハロッズで働き始めてまだ日が浅いが、同僚とはうまくやっている。仕事も順調だ。もうしばらくは働いていてもよさそうだった。
 デッカーと呼ばれる2階建てのバスに乗る。それほど長い時間乗る必要はないが、百貨店のスタッフが住むに相応しい家賃のエリアまでは徒歩よりも公共交通機関を使った方が楽だった。ロンドンは家賃が高い。
 いつもの停留所でバスを降り、フラットまで歩く。途中で道を変えた。ふらりと路地裏に入った。そこで足を止め、数秒ほど待つ。特に慌てた様子もなく、ゆっくりとした足取りで背の高い男が現れた。
「こんばんは」
 SASの隊長だ。親しいわけではないがよく知っている。ジュードは「こんばんは」と返した。
「お久し振りと言えばいいのでしょうか、ミカエル」
「私の名前を知っているのか。名乗った覚えは一度もないのだけれど」
「蛇の道は何とやら。──家ではくつろぎたいので、こちらでお願いできればありがたいですね」
「迷惑をすまない。一度話をしておくべきかと思ったものだから」
「私からは何も。今日はご挨拶もできず、失礼を」
 ハロッズでのことを言っている。隊長──ミカエルは表情を変えないように努めながら、ジュードは周囲への警戒を怠っていないのだと知った。
「流石だな。前を通りもしなかったのに」
「入店なさったお客様がご不自由なさらないよう、ご案内するのが仕事ですので」
「──何が目的だ」
 ミカエルは静かに、だが返答の拒否を許さない強さで問う。大抵の人間なら観念して口を開く口調だ。それでもジュードは笑っただけだった。
「ジュード、答えるんだ。何が目的でこんな真似をしている?」
「答えることは何も。私とあなたが話すことなんて何もないですよ」
 薄く笑うジュードに、ミカエルは再び問うことをやめた。この男がノーと言えば決して覆らないことを知っている。だが最後に、SAS隊長として──テロ対策のための小隊の隊長として、言うべきことは言わなければならなかった。
「私にきみの存在を教えたのはドクター・キリコだ。共謀関係があれば彼も巻き込まれることになる。必要があれば忠告して差し上げるべきだ」
 ジュードは笑顔になった。薄いレンズの眼鏡の下にある瞳が笑っていないことを隠す素振りも見せない作り笑いだった。
「またのご来店をお待ちしております。あなたも、よろしければ部下の方も」
 黒髪の男はそのままミカエルに背を向け、路地を抜けて歩いて行く。今抜けば、とミカエルは思った。銃を抜けば仕留める自信がある。だが今、銃を取ろうとした瞬間に彼は振り向き、同じように自分を撃つだろう。あの男の技量は嫌と言うほど分かっている。
 ──ここで抜くのは愚策だ。
 歩き去る男を見送ることが嫌になり、ミカエルは身を翻した。あの男が撃たないことなど分かっていた。まだその時ではない。彼の目的は分からなくても、なぜかそれが分かった。


 帰り道でも帰ってからのテラスでの時間も、あまり話さなかった。だが険悪な空気はなかった。テラスで黙って身体を預けてくるBJの腰を抱き、キリコも黙って冷たい夜風と小さなストーブの熱を感じるだけだった。
「船」
 どれほど時間が経ったか分からない頃、BJがぽつりと言った。
「乗らない? 明日」
「どの船?」
「さっき、タワーブリッジで見たような船」
「ああ、ディナークルーズか。空いてたら予約しようか」
 BJが自分から二人の時間の希望を言うことは珍しかった。特にクルーズのように人目が多い場所は嫌がる女だ。どんな心境の変化かと思ったが、口にするのはやめておいた。行きたいのなら連れて行ってやる。キリコのような男はそれが楽しみに繋がる。
「色んなコースがあるだろうな。後でバトラーに訊いてみよう」
「ランチはないかな。テムズ川沿いの観光地がよく見えそう。男の子のロマンもね」
「──悪くないね」
 キリコが興味を示した巡航艦をよく見るために言い出したらしい。あの巡航艦は内部にも入れるが、興味のない人間にはつまらない空間だ。BJを連れて行く気はなかった。BJもそれを分かって言ってくれたのだろう。キリコは嬉しくなってキスをした。
 就寝前の最後の御用聞きに来たバトラーに話をすると、どこから出したものか、最新のクルーズリストを見せてくれた。宿泊客に訊かれることが多いことが窺える。
「ランチクルーズでございますとドレスコードがややシンプルになりますし、ハザマ様のショートブーツでも問題ございません。ディナークルーズですとお履き替えになられた方がようございますが」
「やった、ランチで正解」
「靴くらいまた買ってやるのに。夜に行きたければ──」
「夜のドレスコードに必要な靴ってパンプスとかだし、それは苦手」
 結局テムズ川を静かに一周する、老舗のツアー会社が提供するコースにした。バトラーがやんわりと、この会社のこのコースならまず人種差別がないと教えてくれたからだ。快適にクルーズを楽しみたいのであれば重要な項目だった。バトラーは当然のように予約の電話をしに席を外した。これも彼の仕事だった。
「うーん」
 そろそろ夜の眠気を感じ始めたBJが伸びをする。ふう、と大きく息を吐いた。
「やっと観光って感じになって来た」
「そうだな」
「嬉しいな」
 ふふ、と本当に嬉しそうに笑う。キリコはそれを見て微笑む。明日は何事もなければいい。懸念はほぼ手を打った。あとは明日、午前中に一件片付けるだけだ。
鬱陶しいSASのことも、ハロッズの店員のことも、昔の女のことも。これ以上何かあるのなら、それはもう神の試練としか言いようがなかった。


翌朝、BJは寝起きから機嫌が良かった。キリコに何くれとなく話しかけては甘え、日本のピノコとユリに電話をし、近況報告をし合って笑っている。やっと何の憂いもなく観光ができるのだから当然だとキリコは思い、早く午前中の用事を片付けようと決めた。
「香水が切れそうでね。クルーズに行く前にジェームズ・ストリートで買いたいんだ。いつもそこで買ってるから」
 テラスのカウチで相変わらずだらしなく朝食を取りながら言うと、うん、とBJが頷いた。
「いいけど、あんな紳士のストリートで買ってたのか」
「紳士だからね」
「よく言うよ」
 BJは笑い、膝にかけたブランケットと小さなストーブをお供に温かい紅茶で身体を温める。寒い中、暖を楽しむのは万国共通なのかもしれない。そう言うとキリコは得心した顔になった。
「炬燵でアイスを食べるのと似たようなものか」
「全く反対だけど基本は共通かな。炬燵なんて入ったことあるのか」
「一度だけ。ユリが日本に来た時に欲しがったからな。あれはまずいな、魔性の家具だ。すぐしまったよ」
「うちにもあるよ。出してないだけで」
「俺を帰したくない時に出すといい」
「仕事の直前に出してやる。ゆっくりして行ってね」
 半ば本気のそれにキリコは苦笑し、薄いトーストを齧った。
「──あ、先に用事があるなら」
「うん?」
「あの」
 BJは視線を宙に泳がせ、それから手元に落とす。言い淀む姿に何かあったのかとやや不安を感じながら、キリコは「どうした」と肩を引き寄せて額を付けた。こんな時、バトラーは速やかに風景になってくれる。流石は元特殊部隊員、気配の消し方が完璧だとキリコは絶賛したくなった。
「嫌ならいいんだけど」
「うん?」
 ああ、これは大丈夫だ。キリコは安心した。何か言いにくい、だがその理由は『恥ずかしい』、そんな言い淀み方だった。途端に目の前の女が可愛くなる。
「あのね」
「うん」
「……待ち合わせ、とか。してみたい」
 何だ、そんなこと。だがそれだけは言ってはならない。普通の恋人同士なら、たまにはそれもいいね、と笑い合うところだ。だがBJにとっては決死にも等しい勇気で口にしたものであることなどよく分かっている。
「いいね。素敵だよ」
「そういうの、したことないし」
「確かにね。俺も楽しみだ。じゃあどうしよう、クルーズは13時だから、12時半くらいに──」
 キリコが提案する待ち合わせ時間と場所にうんうんと頷くBJは真っ赤だ。今時ジュニアスクールの子供だってこんな顔はしないよと思いながらも、とにかく可愛くて仕方なく、キリコは上機嫌にキスをした。
 香水の他にもスーツのオーダーや小物を見るから、と言ってキリコは早めにホテルを出た。ジェームズ・ストリートは紳士の通りとも呼ばれ、数十年、100年以上にもわたってハイクラスの紳士物を扱う店が多い。洒落た死神なら懇意の店もあるだろうとBJは納得して送り出した。
 見送ったBJは自分の用意のために一度寝室へこもる。スーツケースを前に、ううん、と唸った。
 ──どうしよう。ユリさんに電話しようかな。でも笑い飛ばされ……それはないけど、答えなんて分かってるし。間久部に電話は……やめよう、死ぬほど笑った後に「いいんじゃなーい?」って言うに決まってる。考えるだけでむかつく。でもシューフィッターにも言われたし、平気、たぶん。
 意を決してスーツケースを開ける。そして目的のものを引っ張り出し、ああ、と絶望の呻きを上げてから、ベッドの横の電話でバトラーに泣きついた。
 呼ばれたバトラーはすぐに現れて事情を聞き、大丈夫でございますとも、といとも簡単に請け負ってくれた。絶望の顔のままのBJに何度も同じことを言って慰める。
「大丈夫でございますとも。どうぞ私どもの仕事振りを楽しみにお待ち下さい。すぐにお手配致しますから、それまで紅茶でもお飲みになられてはいかがですか。そう、昨日お買いになられたお菓子もお出ししましょうか」
 まるで失敗を慰められる子供のようだと思いながらも、BJはバトラーの親切に甘えることにした。ああ、と思う。ああ、どうしてわたしはキリコのようにスマートにこなせないんだろう。
 宣言通り、バトラーはすぐに仕事を済ませてくれた。完璧な仕事振りに感動し、BJは心から礼を言う。
 バトラーからすれば大したことではなかったのだが、この宿泊客にとって相当大切なことだったのだろうと最初から見抜いている。誰かにとっては小さなこと、だが誰かにとっては重大なこと。それを知ってこそ最高のサービスができる。お役に立てて嬉しゅうございます、と彼も心から言った。この宿泊客の正体などとうに知っているが、礼儀正しく、そしてマナーよく部屋を使ってくれる上客だ。二人の世話は楽しく、やり甲斐があった。
 普段より少しばかり丁寧に身支度をしたBJは、これだけは普段通りに医療鞄を持って部屋を出る。待ち合わせの時間にはかなり早いが、キリコと同様、先に済ませておきたい用事があった。
 チェックアウトの客で混雑し始めたフロントを横目にロビーを抜ける。だが正面玄関から出る前に、ねえ、と声をかけられた。
 聞こえない振りをすればよかった。そう思ったのは振り返った後だった。
「待ってたの。お茶でもどう?」
「飲みたい気分じゃないから。さよなら」
 足早にレイチェルを振り切り、正面玄関を出る。顔を強張らせた宿泊客を見たドアマンが訝しんだが、後から現れた美女に目を奪われ、先に出た客のことをすぐに忘れた。
「タクシーを。私一人で乗る」
「かしこまりました」
 車寄せ担当のドアマンが素早くサインを送ると、待機していたタクシーが音もなく横付けされる。ドアマンに開けられた扉をくぐって車内に乗り込むと、レイチェルが無理やり、しかし笑顔でBJの膝の上に乗るように身体を捩じ込ませて来た。流石にBJは「ちょっと!」と声を荒げた。
「失礼でしょう。降りなさい」
「詰めてよ。いくらあなたが小柄だからって、これじゃ狭いわ」
「降りなさい!」
「こんなところで騒いだらキリーが出入り禁止になるんじゃない? イギリスは階級とマナーに厳しいわよ」
 BJは思い切りレイチェルを睨み付け、ふざけやがって、と日本語で呟いてスペースを開けてやった。ドアマンが丁寧にドアを閉める。明らかにトラブルが起きているのに素知らぬ振りをしたドアマンに、おまえは絶対出世できない、あのバトラーなら必ず綺麗に収めてくれたのにと心の中で罵っておいた。
「ハロッズへ」
「ハロッズ? いいわね。買い物?」
「あなたはどこで降りるんです?」
「意地悪言わないでよ」
「私が意地悪を言っているなんて、世間の誰も思いませんよ」
「世間って厳しいわよね」
 レイチェルは悪びれず、BJに笑いかけた。美しく手入れされた髪をかき上げ、いかにも大人の女の余裕をBJに見せつける。年齢はBJよりも上、キリコに近いのだろうが、念入りな手入れが実際よりも若く、そして美しく見せていた。
「どうして私たちのホテルが分かったんです?」
「昨日、キリーが別れる時に乗ったタクシーの会社に訊いちゃった。彼の忘れ物を届けたいって言ったらすぐ教えてくれたわ」
「後でクレームを入れなきゃ。客の情報をそんなに簡単にバラすなんて」
「そうよねえ」
 レイチェルはけらけらと笑い飛ばす。BJは彼女の神経を疑わざるを得なかった。
「わたしたち、ゆっくり話してもいいと思わない?」
「いいえ、思わない。キリコに言われたことは?」
「キリコ? ああ、キリーね。職場と家だけを往復してろって言われたわ。でも買い物に出るなとは言われなかったから、あなたと待ち合わせてハロッズにでも行こうかと思って。ついでにお茶しましょうよ、地下にラデュレが入ってるわ、あそこのマカロンって美味しいわよね」
 BJは溜息を堪え、窓の外を見た。洒落た街並みを見て買い物を楽しみたかったのに、急に景色が色褪せたような気分になった。事も無げにキリーと口にした女が鬱陶しかった。
「いつから付き合ってるの? あなた、凄いお医者さんなんでしょう。わたしも去年までニューヨークで看護師をやってたから、噂くらい聞いてるわ」
 BJは答えない。彼女の質問に何ひとつ答えないことにした。タクシーを停めることも考えたが、どうせこの女は追いかけてくる。
「キリーの仕事とは正反対よね。それでもいいの? 彼のどこに参っちゃったの?」
 レイチェルの声音はいかにも恋の話を楽しむ女のものだ。だがこれほどまでに底意地の悪い声を聞いたことがない。だから女は面倒くさいんだ、とBJは思った。
「わたしね、彼がベトナムから帰って来た時に一緒に暮らしてたの。2年くらいよ。ユリともよく話したわ」
 こんな話で男の家族の名を持ち出すのは卑怯だ。家族にも認められていたことを主張するためだけの行為なのだから。それでもBJは答えない。窓越しに映るレイチェルが否が応でも視界に入り、またうんざりした。
「彼の仕事のやり方に納得がいかなくて、喧嘩になってそれっきり」
 キリコは嘘をついていなかった。それだけは分かった。だがレイチェルの次の質問は底意地の悪さを突き抜けていた。
「あなた、お医者さんなのに、あのやり方をする彼と一緒にいるのね。天才外科医も彼の魅力には勝てなかったってことかしら」
 我慢できなかった。レイチェルを振り返り、睨み付けた。レイチェルは意地の悪い笑い方で話し続けた。明らかに目の前の女を傷つけるための笑い方に、BJは背筋が寒くなった。人の悪意には慣れている。こんな生き方をしていれば当たり前のように目にしてばかりだ。だがこの悪意は──女の悪意は質が違う。相手を叩きのめし、泣いて逃げ出すまで決して止まることがない。
「ベトナムに行く前にも付き合ってたのよ」
 それも聞いた。BJは無論応えなかった。レイチェルは勝手に続けた。
「配属地が離れてもよく手紙をくれたわ。いつも書いてあることはおんなじ。可愛いよ、会いたいよって。あなたも知ってるでしょ?」
 聞いているだけなら追憶に浸る女の話だ。だがこれは違う。気に入らない敵を潰すための攻撃でしかなかった。そしてまんまと攻撃を正面から受けてしまったことをBJは悔やむ。手紙なんて。そう思ったのだ。──手紙なんて、一度だってもらったことがない。
「キリーはセックスが上手いのよ。知ってるでしょ。あなたとはどんなふうにするの?」
 女の細くて美しい指が動き、BJの唇をなぞる。気持ちが悪い。それなのにBJは動けなかった。薄い色で塗られた爪が唇に当たり、痛い、と思った。
「口でしてあげると喜ぶでしょ。彼、口でされるのが大好きだもの。最高だ、たまらないよって、凄く褒めてくれるわよね。可愛い、俺の、って言われるのが一番嬉しかったわ」
 きゅ、と、唇に爪が立てられた。意地の悪い笑い方はそのままで、それでも目は笑っていなかった。
「日本人の女は具合がいいって言うし、こんな見てくれでも彼が気に入るくらいのことをしてあげたのかしら。天才外科医が死神にフェラチオしてあげるなんて、想像するだけで笑っちゃうわね」
「着きましたよ」
 女同士の諍いに一切口を出さなかったドライバーが車を止め、うんざりした声で言った。
「ありがと、お釣りはチップよ」
「ちょっと!」
「早く行きましょう、ラデュレってすぐ満席になっちゃうんだもの」
 高額紙幣をドライバーに投げ、レイチェルはBJの腕を掴み、ハロッズのドアマンが開けた扉からBJを引きずるように車を降りる。バランスを崩したBJは車から落下するように転んだ。流石にレイチェルが「しまった」と言う顔になる。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの!」
「いいから触らないで」
 ドアマンは何事もなかったかのように扉を閉め、ちらりとBJに目をやると、明らかに厄介なものを見たと言わんばかりに目を逸らす。衆目が集まる中、BJは医療鞄を持って立ち上がった。転んだ自分のミスだ。踵の高い靴に慣れないとはいえ、今の失態は避けようと思えば避けられた。そして溜息をついた。
「お客様、恐れ入りますがそのお靴では──」
 冷たいドアマンにドレスコードをチェックされるまでもない。これで私が白人ならお靴の修理をどうぞ中でと案内しただろうよと心の中で毒づき、BJは「そうだね」と答えた。ブーツの右のヒールが今の衝撃で折れてしまっていた。
「ねえ、そんなこと言わないで。わたしのせいなのよ」
 たちまちレイチェルが哀願する女の声でドアマンに言い縋る。ああいやだ、とBJは思った。
 ──ああいやだ。わたしが男を利用したい時に出す声とそっくり。こんな声に聞こえるんだ。
「靴の修理くらいしてもいいでしょう? 彼女、日本人だけどマナーは守れるはずよ」
「それでは──」
「いいえ、結構。二度と来ない」
 あからさまに態度を変えたドアマンに吐き気さえ覚えながら、BJはその場でショートブーツを脱ぎ捨てた。レイチェルとドアマンがぽかんと口を開ける顔が痛快だった。
「マナーが悪い日本人で恐縮だけど、捨てておいてもらえるかな。二度とこの店なんて来ないし、この店で買った靴もいらないよ。ご面倒を失礼」
 集まる衆目の中、毅然と、そして挑発的に言い捨てる。レイチェルが明らかに慌てて何かを言おうとしたが、聞く価値もなかった。どこかでタクシーを拾い直すことにして歩き出した。
 前回のロンドンでキリコが買ってくれたスカートと厚手のカラーストッキングが汚れてしまっていることに気付いた。カラーストッキングは膝が破れていた。怪我をしなかったのは厚手のお陰だろう。一度ホテルに戻って着替えるしかなさそうだ。スーツケースの中で皺だらけになっていたスカートのために、すぐにアイロンを手配してくれたバトラーに申し訳なかった。
 靴もなく歩き出した日本人女性と立ち尽くす美しい白人の女性、そしてどうやら冷たい対応をしたらしいドアマンに興味の視線が集まる中、落ち着いた声が響いた。
「お客様、お靴がなくてはお風邪を召しますよ」
 その声が誰のものか分かり、安心するほどではないが、今は落ち着く程度には助かる声だった。後ろから声をかけたのはジュードだった。その後ろには明らかに「まずいことをした」といった顔の先程のドアマンがいた。手にBJが捨てたブーツを持っている。レイチェルはタクシーを降りた場所でこちらを凝視していた。
「騒がせてごめん。悪いけど、それは捨てておいて。ホテルに戻れば別の靴があるから」
「それまで裸足で?」
 ジュードが眉を顰めた。制服を着た彼がこんな顔をするのはきっと珍しいことなのだろう、とBJは思った。
「私個人として、それはとても受け入れられないご提案です」
「ハロッズではなく?」
「ハロッズでは『あってはならない出来事』でございます。お靴の修理を致しましょう。彼にはお話を」
「彼のことはいいよ。慣れてるから」
「慣れてる?」
「差別なんて慣れてる。転んだのが私じゃなくてもう一人の彼女だったら、ジュードみたいに『お靴の修理を致しましょう』って言っていただろうね」
「──この愚か者は然るべき罰を受けます」
 高級百貨店の店員にしては物騒な物言いに、BJはついくすりと笑った。ジュードも僅かに口元を綻ばせた。だが聞こえていた当のドアマンは青ざめ、そんなつもりでは、と口の中で小さく呟くだけだった。
「中でお靴の修理を。すぐにお手配致します」
「間に合わないからいいよ」
「お時間が?」
「12時半に彼と待ち合わせだから、今から修理してもね」
「それは──」
「ジュード」
「はい」
「気持ちはありがとう。でもこれ以上、私を惨めにさせない親切を恵んでくれないか」
「──失礼致しました。お詫びは改めて」
「いらないよ。じゃあね」
 その瞬間だった。ジュードが動き、BJに抱きつこうとしたレイチェルを阻んだ。BJとドアマンが呆然とする中、厳しい声で「ご注意下さい」とジュードが言う。レイチェルは親愛のハグを妨害された女の顔で「驚かせちゃった?」と言った。
「ごめんなさいね、わたし、本当にびっくりしちゃって! どうしたらいいか分からなかったの。靴を捨てるなんて言わないで、修理に出しましょうよ。代わりの靴も借りられるわ。待っている間に──」
 どの顔で、とBJは思った。いっそ恐怖した。こんな女に会ったことがない。なぜここまでされるかも理解できない。ジュードが明らかに警戒し、自分とレイチェルの間に立ってくれたことに感謝した。
「そちらのお客様をご案内するように。お靴は私に」
 ジュードはドアマンにきつく言う。ドアマンは返事をし、言われた通りに靴をジュードに渡し、レイチェルを促した。レイチェルは嫌がったが、流石にかなりまずい事態になっていると理解したドアマンの必死の案内でようやくその場から立ち去った。
「せめてタクシーのお手配だけはさせて下さい。どちらまで行かれますか」
 落ち着き払ったジュードの声に息を吐き、フォーシーズンズへ、とBJは言った。
 ──キリコのスカーフを買いたかったのに。
 好きな男にクルーズ中にプレゼントをしたかった。よくある恋愛話のようなことをしてみたかった。それだけだったのに、なぜこんな思いをしなければならなかったのだろうか。そう思うと急に悲しくなった。何かを言えば泣きそうで、唇を噛んで堪える。それが精一杯で、タクシーに乗せてくれたジュードに礼を言えなかった。


 ロビーの客たちの視線が集まる。露骨に眉を顰める者もいた。それはそうだろうさ、と納得しながら歩く。
 ──この外見で靴もなく、汚れたスカートと破れたストッキングでロビーを突っ切る女がいれば誰だって見るだろうさ。
 上級の部屋に泊まっている客だと思い出したホテルマンが心配して声をかけてくれたが、転んでしまって、と言ってエレベーターに乗り込んだ。どこかで乱暴されたかと勘違いさせたかもしれないが、それならそれで構わないと思った。
 待ち合わせまで時間がなかった。汚れた服からいつもの服に着替え、それから電話でバトラーを呼び、スカートのクリーニングを頼んだ。破れたカラーストッキングは捨てようと思ったが、何となくやめた。
 やってきたバトラーはBJの様子に──彼の仕事から言えば──出過ぎた真似をした。何かございましたか、と訊いたのだ。何もないよ、転んじゃって、と答えたBJは、次の瞬間に信じられない経験をした。前触れもなく涙が溢れたのだ。
「あ、ごめん、ちょっと──何でもなくて」
「さようでございますか。少し甘いお紅茶を淹れましょう」
 そしてバトラーは気付く。数瞬の思考の後、静かに言った。
「ハザマ様」
「うん」
「お靴はいかがなさいましたか」
「ハロッズで転んで」
「はい」
「ヒールが折れちゃって」
 ああ、と不意にBJは気付いた。どうしよう、と思った。
「どうしよう」
「ハザマ様?」
「他に靴がなくて」
 大したことではない。買いに行けばいいだけだ。まだ時間はある上に、この周辺で靴を買える店など何軒もある。それなのに悲しくてたまらなくて、そして自分でも異常だと分かるほどの焦燥感に襲われて、遂にBJは本格的に泣き出してしまった。
「どうしよう。靴がないの。これじゃ船に乗れない」
「さようでございますか。大丈夫でございますとも」
「どうしよう──どうしよう」
「大丈夫でございますよ。お店はたくさんございます。まだ間に合いますとも」
「キリコに買ってもらった靴で行きたかったの!」
 自分でも制御しきれないヒステリックな声を出してしまった。慌ててバトラーに謝る。彼の仕事に客のヒステリーに甘んじる業務などないのだから。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかった。ごめんなさい」
「いいえ、ハザマ様、お気持ちは分かります。ハザマ様が私を怒鳴り付けたわけではないことも、よく分かっておりますよ。──ドクター・キリコがプレゼントなさったお靴をお履きになられたいのですね」
「そう、それだけ。ごめんなさい」
「私が無神経なことを申し上げたのです。申し訳ございません。お靴はどうなさいましたか?」
「──捨てて来ちゃった。どうしよう。キリコが怒る」
 そうだ、きっと怒る。せっかく買ってやったのにと怒る。キリコがそんなことで怒らないと知っているのに、歪んだ記憶が混乱を引き起こしていた。そんな男もいた、それだけのはずなのに、ひどい混乱を起こしている。自分でも分かっているのに思考が止まらない。まずい、これは本当にまずいと冷静な医者の自分が困っていた。
「ドクターは怒りません。もし怒るようでしたら、僭越ながら私がお話を致しますよ。女王と騎士の国で、紳士が愛する女性を怒るなど許されませんからね」
「ありがとう、ごめんなさい、でも怒る」
「怒りませんよ」
「怒られる」
 このままではまずい。冷静な医者の自分が最後の判断をした。寝室へ駆け込み、キリコのスーツケースを開ける。ロックがかかっていたが番号は知っていた。ジュラルミンケースを見て皮肉にも少し冷静になった。これじゃない、と自分に言い聞かせて薬のケースを見つける。ケースの中に使用済みの麻酔薬のアンプルを見つけた。昨日自分が寝ている間に射たれたものだとすぐに分かった。
 キリコはこれを射ってから彼女に、レイチェルに会いに行った。急に思い出した。急に情けなくなった。急にタクシーの中の聞くに堪えない話を思い出した。
「──わたしが何をしたって言うの!?」
 ヒステリックな声を抑えられなかった。何度も叫んだ。ひどい、ひどい、あんまりじゃない、わたしが何をしたって言うの!
 叫びながらも目当ての薬を出し、乱暴に薬のケースをしまう。尋常ではない声に無礼を承知で寝室を覗いたバトラーが声をかける前にスーツケースを閉じた。ジュラルミンケースを見られるわけにいはいかなかった。
「違法な薬じゃないから。ただの麻酔」
「何をなさるのですか」
「15分だけ眠る薬。手術でも使うし、本当に問題ないから。お願い、見ないで、恥ずかしいの」
「──かしこまりました。では、お目覚めの時には必ずお呼び下さい。すぐに参ります」
 素早く理解してくれたバトラーに感謝しながら、BJは震える手で量を調節し、消毒もせずに注射器を血管に突き刺した。効き目が出る前に注射器をどうにか自分の医療鞄に片付け、ベッドに転がり、迫り来る闇の速さに感激しながら目を閉じた。