BJはテラスで一人、煙草を吸っていた。バトラーが来ていないことは明白だった。テーブルにはミニバーから持って来た炭酸水が置いてあるだけだったからだ。もしバトラーが来ていれば、こんなことを許すはずがなかった。
「ただいま」
「お帰り」
「おいで」
言いながら隣に座り、抱き寄せる。BJは深く息を吐き、キリコの胸に顔を埋めるようにしてもたれかかった。
「電話で話した通りだけど」
「うん」
「全部終わった。嫌な思いをさせて悪かったよ」
「全部?」
「そうだよ」
髪に唇を落としてから深く座り直し、空を見上げる。灰色の雲が見えて、少し降りそうだ、と思った。
「埋め合わせはちゃんとするよ。何でも言っていい」
「別に何も」
「そうか。思い付いたら言ってくれ」
「うん」
そのまま無言で過ごした。気まずいと言う時間ではなく、話す必要がないから話さなかった。腕の中の身体は温かい。抱いてくれる腕は温かい。BJは目を閉じ、キリコの鼓動を聞いた。
「ストーブがもう消える。中に入ろう」
抱き込むようにキスをされてから言われ、BJは頷いた。バトラーを呼んでペレットを足してもらおうよ。そう言おうとした時、キリコに抱き上げられた。そうしたいのならそうすればいい、と思った。自分も本当はそうしたかった。即物的だと言われれば、そうだとしか答えようがない。だが言葉よりも何よりも、生まれかけた溝を早急に埋めるには最も効果的で、そしてふたりが安心できる方法であることは間違いなかった。
それでもほんの数分後、二人揃って絶望に叩き込まれる。わたしが悪い、ごめんなさい、怒らないで、ごめんなさい、と喚きながらBJはベッドの上で泣きじゃくったし、そんなはずがない、俺が悪い、怒るわけがないよ、ごめん、とキリコはただ謝り続けた。
「もう嫌だ」
毛布を頭まで被ってBJは泣いた。喚いたと言っても良かった。キリコはBJを毛布の上から撫でながら聞き続けるしかなかった。
「もう嫌。──どうして。酷い」
可愛い。俺の。
キリコがそう言った瞬間、もう我慢ができなかった。BJは泣き喚きながら言った。どうしてこんな安っぽい女みたいなことをわたしに言わせるの。言いたくない。こんなこと。酷い。
彼女にも同じことを言っていたんでしょう、なんて、どうして言わなきゃいけないの。わたしが安っぽい、普通よりも救いがないくらい醜い女だって思い出させないでよ。
違う、そんなことはない、俺が悪かったんだ。キリコはそれしか言えなかった。今のBJの言い分が男にとっていかに理不尽であるか分かってはいても、BJの心情を考えれば開き直れるはずもなかった。
酷い。BJは泣き喚いていた。どうして。酷い。
手紙なんかくれなかった、こんなふうに嫉妬をする自分が嫌だ、終わったことなのに、終わらせて来てくれたのに、勝手に思い出して嫉妬をする自分が嫌だ、顔も身体も見られたくない、わたしは醜い、可愛くない、彼女みたいに綺麗じゃない。
泣いて泣いて自らを罵り、毛布の中から顔を見せようともしなかった。
BJが泣き疲れて眠るまで、キリコは毛布の上から身体を撫でていた。鎮静剤を打つ気にはなれなかった。思い切り喚かせるべき時はあるものだ。特にBJのように、仕事以外では自分の要求を押し殺すことが多い女には必要な時間だった。
毛布を静かにめくり、泣き腫らした顔で眠るBJにキスをする。起きたら腫れているだろう。可哀想なことをした。そう思った。
雨の音が聞こえた。ロンドンの名物だ。すぐにやむだろう。だがしばらくは雨音を聞いていたかった。好きな女の泣き声よりよほどましだった。
収穫がなかったわけではない。BJには口が裂けても言えないし、そんなことを思う自分を最低という言葉では済まないほどに醜悪な男だと分かってはいても、収穫があったと言わざるを得なかった。
──もう終わりだ。本当に。二度とレイチェルに会うことはないだろう。
バトラーが静かに部屋を訪れ、封筒を置いて行った。帽子屋の定時報告だった。ろくなことが書いてあるまいと思いながらキリコは封を開き、なるほど、風向きが変わってきたと呟いた。バトラーは何も言わず、テラスのストーブに静かにペレットを足し、キリコに紅茶を用意して部屋を出ようとした。キリコは静かに彼を呼び止めた。
「あなたの望み通りになりそうだよ」
「──ハザマ様には心よりお仕えすることで、お詫びになれば」
あっさりと認めたバトラーに苦笑する気にもなれなかった。職務に忠実なホテルマンは、今でも特殊部隊員として祖国を愛する心を捨ててはいなかったのだと知ったのはほんの少し前だった。
「俺たちを利用するなら最初から言ってくれればよかったのに。あなたの話ならきっと断らなかった」
バトラーは薄く微笑んだ。答えを拒否する笑い方だった。だからキリコは言った。
「5分ほど休憩してくれ」
途端にバトラーの顔から微笑が消える。代わりに浮かんだのはキリコがよく見慣れた顔だった。全く同じものだ。そう思った。
強いアメリカを取り戻すためにどんな手でも使う、赤毛の陸軍少佐と同じ顔だった。
「昔の女と話はついたのか、色男」
「ついちゃいない。だがもう接触する気もないし、何ならロンドンを出る。その前にあなたの目的を聞きたくてね」
「アメリカ人に協力を要請するなどSASの名折れ。ミカエルの情けなさは言語道断だ」
「だからあなたが乗り出したのか? 古巣のために?」
「この国のためだ。そのためならアメリカ人の一人や二人、犠牲になっても構わない。でも日本人は駄目だ、イギリスのためになる国の国民だからな。──それから、彼女はいい女だ。頭がいいしマナーもいい。最高の客だよ。あんなに我儘を言わない客なんて彼女以外に見たことがない。どんな国の客でもな」
キリコは苦笑し、バトラーもやや笑う。
「恐れ入るよ。今の今まで気付かなかった。俺とレイチェルを会わせたかったんだな?」
キリコは帽子屋の報告書を示した。元特殊部隊員は鼻で笑い、それが真実だと知らしめた。報告書にはレイチェルが9時、つまりキリコとBJがホテルを出、かつバトラーがミカエルたちと話を終えた時刻に、誰かから電話を受けたこと、その電話番号はこのホテル、目の前のバトラーが寝泊まりする部屋からの発信であったことが記載されていた。
「あなたの昔の女はIRAと懇意だ。数日中にMI6が逮捕する。今は最終の証拠固めをしているはずだ。でもその数日を待てない。今日明日にもまたテロが起きる。今度はもっと大掛かりだろう」
「根拠は?」
「IRAの今までのパターンと俺の勘だ」
なるほど、とキリコは呟いた。疑う余地はなかった。特殊部隊員として多くの戦場とテロを見、ホテルスタッフとして数え切れない人間を見た男の言には余りある信憑性が滲み出ていた。
「今度は数十人、下手をすれば100人以上が犠牲になる規模だろう。あなたたちがその場にいても手が追いつかないことになる」
「そこまで分かっているなら他にするべきことがあるだろう。MI6なり軍なり、それこそSASに通報するべきじゃないのか」
「それを俺に言うのか?」
「意味は?」
「アメリカ人のあなたが、アメリカ人のあの女を殺してくれるんじゃないかって期待しているんだ。それなら俺の、無能な部下たちが慌てふためかなくて済むからな」
キリコは僅かに黙り、それから時計を示して言った。
「5分」
「ハザマ様がお目覚めになられた時のために、少し甘いものをご用意致しましょう。ドクターの御用はございませんか?」
瞬時にして洒落たバトラーの顔に戻り──どちらも彼の真実の顔なのだとキリコは思った──、元特殊部隊員は再び日常世界の中へ埋没した。
「紅茶を淹れて、彼女に甘いものを用意して欲しい」
「ええ、ドクター。かしこまりました」
バトラーは笑顔で宿泊客の要求を満たしてくれた。キリコはそれ以上、何も言わなかった。言うべきかもしれないことも言わなかった。
なあ、ジュードを知っているか。
それだけ、言うことを忘れた。わざとじゃないさ、と自分に言った。俺たちをいいように使いたければ最初から言えば良かったんだ。そう思いながら。
午後はそれなりに忙しかった。唐突に首相が訪れたのだ。連絡を受けた時、キリコは無礼承知でBJを寝かせたままにしておこうかと考えたが、ちょうど目を覚ましたBJがそれを拒んだ。
「まあ、抱っこちゃん、どうしたの。ひどい顔をしているわ」
「いつもひどい顔よ、おばさま」
「馬鹿なことを言うんじゃないの。どうしたの、どんな酷い目に遭ったの」
BJは泣き腫らした目を誤魔化し切ることができず、心配する首相に「ちょっと嫌なことがあっただけ」と言ってどうにかはぐらかした。首相は溜息をつき、うちの国であなたに何かあったらロンに文句を言われるんだから、と言ってBJを抱き締めて慰めた。横目でしっかりキリコを睨み、睨まれたキリコは「鉄の女は伊達じゃないな」と思わざるを得なかった。
「おばさま、お仕事は? 議会は忙しいんじゃないの?」
「はっきり言ってしまうと、一昨日、テロ現場で尽力してくれたあなたとドクターを表敬訪問した事実が必要なの。夕方のニュースで流れると思うけど、それは許して頂戴ね」
「はっきり言って下さるなら、わたしたちが何を言うこともないかな。写真や映像はやめてね」
「当たり前よ。それくらい分かってますとも」
首相はテラスでBJの隣に座り、手を握って話し込んでいた。BJも嫌がらず、むしろ嬉しそうだった。久し振りとは言え、二人の結びつきは強い。互いに利用できる立場だと理解し、いざとなれば最大限に利用する心積もりであり、それを隠さない間柄でありながら、人生の先達としての女と、それに甘える小娘の関係は男には分からないほど強いものだ。
「そんなことよりあなた、まあ、座りなさい。どんなに酷い顔をしているか分かってる? 何があったの?」
「もう終わったから、いいの。思い出させないで」
「──そう。あなたがそう言うならそうしておきましょうね。ロンには言わない方がいいかしら」
「そんな必要ないわ。心配させる振りをさせる時間がもったいないもの」
「抱っこちゃん、あなた、少し自分を卑下しすぎよ」
言いながら鉄の女はBJをまた抱き締める。ロン、つまり米国大統領に話を通して置かなければと決めた。それがアメリカ人の男のせいなら余計にそう思わざるを得ない。
「本当は昨日のうちに来たかったんだけど、どうしても時間が取れなくて」
「あんな大きなテロの後じゃ当たり前よ。気にしないで。手厳しいメディアが気にするくらいじゃない?」
「あなたたちに取材は来てないの?」
「それはミカエルが止めてくれているようです」
そういえば、と首を傾げたBJの代わりにキリコが答えた。ちらりとバトラーを見たが、彼はいつもの洒落たバトラーの顔で臆することなく首相に紅茶を注いでいた。すると視線に気付いた首相が不意に笑った。
「ミカエルったら、その彼に随分絞られたみたいでね。久し振りに狂犬に殴られましたって落ち込んでいたわ」
「狂犬?」
BJはついバトラーを見る。バトラーはにこりと微笑み、「昔の話でございますよ」と柔らかく言った。どの口が言うかとキリコは思ったが、BJに対して含みのある言動をするわけではないのであれば構わなかった。自分に対してもあれきり礼儀正しい最高のバトラーとして接してくれている。
「彼には軍に残って、もっと上に行って欲しかったんだけど──ここでの仕事も気に入ってるみたいだし、何とも言えないわ」
「もったいないお言葉でございますが、安全なロンドンで、安全に観光をお楽しみ下さるお客様のお世話をするのが楽しゅうございますので」
「ここにミカエルがいたら震え上がっただろうね。彼女を連れて観光に出る勇気が持てない」
キリコがやや意地の悪い感情を込めて言うと、バトラーは微笑みの中に部下の失態に対する怒りを隠した。ロンドンは安全ではない。外国人観光客にそう言われたも同然で、彼にとっては屈辱だった。
「そうよね、観光で来てくれているんですってね。それなのにあんなに大変な現場で協力してくれるなんて」
「気にしないで。後で政府に請求書を送る予定だったんだから。1億ポンドほどね?」
BJの言を冗談だと思ったのか、鉄の女はいかにも楽しいという風情で笑ってみせた。そして秘書を呼び、彼女から受け取った小切手を二人に見せる。
「1億にはだいぶ足りないけど10万ポンドよ、二人で仲良く分けて頂戴。あなたたち相手だと国家予算から計上できないから私のポケットマネーなんだけど、そこは譲って頂戴ね」
「最高よ、おばさま。手渡しなら税金も誤魔化せるし!」
「聞かなかったことにするわ。日本の税務調査は相当厳しいらしいわね」
狸と狐が手を組んだようなものだな、と思いながら、キリコはバトラーが注いでくれた紅茶のカップを口に運びつつ、抱き合って笑う闇医者と鉄の女を眺めていた。取り分に関しては考えないことにした。本業でもなければ依頼されたわけでもない。10万丸々をBJが懐に入れたとしても何も思わなかった。
現金なものだが、金と、そして自分たちが評価されたと言う事実でBJは少し浮上した顔を見せた。首相へ向ける笑顔からぎこちなさが消えている。キリコは少なからず安堵した。後でまた話をする必要はあるが、先程よりはずっと前向きなことを言い合えるはずだ。
「でも、観光ができないんじゃ残念よね。どこにも行ってないの?」
「ロンドン塔とタワーブリッジは行ったし、ハロッズも毎日行ってる。あとはテロ現場」
「テロ現場はともかく、あなたたち、そんな有名な場所にも今まで行ったことがなかったの!?」
「だっていつも仕事ばっかりで。前回だってあの始末だもの」
「それは駄目よ。──いやだ、何てこと。抱っこちゃん、あなた、もっと観光しなきゃいけないわ。バトラーに安全なルートを組んでもらいなさい。SPくらいすぐ手配してあげるわよ!」
「SPなんていらない!」
冗談だと思ったBJは笑い転げ、本気の首相は冗談じゃないのよと目を丸くする。バトラーは古巣の元部下たちへの怒りを微笑の下に見事に隠し、キリコは「目立ちたくないから勘弁して欲しい」と思う。
「あら! ごめんなさい!」
「あ、平気」
不意に首相が手元を滑らせ、冷めた紅茶がBJのボトムを濡らした。バトラーが拭くものを渡し、それからいつも通りの声で言った。
「お召し替えになられた方がよろしいかと存じます。お風邪を召しては大変でございますからね」
「そうね、風邪なんてひいたら観光どころじゃないわ。抱っこちゃん、着替えてらっしゃいな」
「そうする。ちょっとごめんなさい」
BJは寝室へ消える。バトラーは濡れた場所を素早く拭い、リビングのソファからクッションを持って来て取り替えた。
「さて、ドクター」
「はい」
「分かってるんでしょう。この私に紅茶を引っ掛けるような真似までさせたんだから、先に言っておしまいなさい。抱っこちゃんにあんな酷い顔をさせている理由は予想しているわよ」
「──大英帝国の首相閣下にお気掛かり頂くほど、私の過去の女は問題になっているわけですね」
「数日中に逮捕になるはずよ。ミカエルなりそちらの彼なりに聞いていない?」
「確かSASの隊長から。現役の隊長か、元隊長かは忘れましたが。──どうぞ休憩を。彼女が戻って来るまで」
最後はバトラーに向かって言った。彼は微笑を消し、今までとは異なる、明らかに軍人だと分かる姿勢で立ち直した。やっぱりあなたはその姿の方が似合うと思うけど、と首相が言い、恐れ入ります、と彼は答えた。リビングから遠目に見ていた首相のSPたちが何とは無しに姿勢を正した気配を感じ、キリコは苦笑した。彼らも軍人上がりが多い。バトラーに釣られたのだろう。
「抱っこちゃんに聞かせたくないの?」
「聞かせる必要性を感じません。彼女はアメリカ人でもないし、私の昔の女と関わるべき立場でもない」
「さっき随分泣いた目をしていたけど」
「言い訳はできませんね。お察しの通りです」
「ペナルティの覚悟は?」
「あの10万ポンドは全て彼女のものになるでしょうね」
首相はにやりと笑い、別の小切手を秘書から受け取った。10万ポンドの額面を眺め、キリコは「恐れ入ります」と言って胸ポケットにしまう。最初から予想していた鉄の女への敬意が上がった。
「ペナルティは関係ないでしょ。あの子が独り占めするなんてお見通しよ」
「ご慧眼に感服です」
「お金はともかく、彼女への埋め合わせはきっとしてくれると信じてるわ」
「ご信頼に足る男でありたいと思っております。──実際のところ、バトラーから聞いています。ただ、私がするべきことはあまりない気がしているのが事実です」
バトラーの視線を感じたが、今は取り合わないことにした。狂犬は闘犬であり、番犬だ。ここに主人たる首相がいるのであればおとなしくしているだろう。
「あまり、と言うことは、多少はあるってことかしら」
「敢えて言うなら、しても構わないことはある、ただしそれは──言ってしまえばイギリス国内でデルタフォース小隊の作戦行動を許すことになりかねない可能性が発生しますね」
瞬時にしてバトラーの表情が凍った。他国の特殊部隊が自国内で作戦行動をするなど屈辱の一言に尽きる。ちらりと彼の方を見た首相は、「よく我慢したわね」と呟いた。だがキリコはやや腹が立ち──どうやら俺にも納税者として愛国心の欠片程度はあったようだと思った──眉を跳ね上げて言った。
「ホワイトハウスの件でSASはアメリカ国内で無断行動している。俺が知る限りこれでイーブンだ」
「あれは護衛対象である首相閣下がいらした場での活動だったはずだ。SASとして当然だろう」
「デルタフォースは俺の身の安全の確保が正式な任務のひとつだ。フランスでも行動している。イギリス国内での行動も当然だ」
SASがホワイトハウスで活動したと無線で聞いた瞬間、グラディスは心から罵り、他の隊員たちも同様だった姿を覚えている。おそらくあの時の彼らと同じ憤りをバトラーは感じているのだろう。
退役した彼でさえこの様子なのだから、現役のミカエルたちの反応は考えるまでもなかった。彼らのプライドは外部の人間には計り知れないほど高く、そのプライドを裏付ける高度な訓練とストイックな生き方をしている。キリコもそれは理解していた。穏やかな物腰のミカエルでさえ、おそらく怒りに駆られるだろう。
「まだ活動はしていないはずだ。俺には何の連絡もない」
「入国していると言うことか」
「小隊が?」
「そうだ」
「いや、それも俺は知らない。何かあればグラディス──隊長の少佐だな。彼から連絡が来るシステムでね。俺と彼女が入国してからまだ一度も連絡はないよ」
「これだけテロが起きているのに?」
「まだ俺に危険が及んでいないと判断したんだろうな」
「わたしが話してもいいかしら?」
元軍人同士の鍔迫り合いに鉄の女が割って入った。二人は揃って「失礼を」と詫び、互いに嫌な顔をして首相を笑わせた。
「ドクター、あなたがしても構わないことって、何なの」
「レイチェルを殺すこと」
世間話の延長のような口調でキリコは言う。首相の目が瞬時にして鋭い政治家のものに成り代わり、バトラーは表情を消した。キリコは続けた。
「ただし私に対してIRAの報復がないとは考えられない。だからデルタフォースが必要になる。ご理解頂けますか」
その時、電話が鳴った。バトラーが動こうとしたが、すぐにコール音が止まる。寝室でBJが取ったのだろう。キリコが一度席を立ち、寝室を覗きに行く。まだ着替えの途中だったBJが下着姿で怒って枕を投げ付け、「ピノコとユリさん!」と叫んだ。長話を片付ける絶好の機会だと思い、海の向こうの二人に感謝しながら枕を投げ返してテラスへ戻る。
「家族からです。おそらく長話になりますから、この間に」
「いいタイミングね。神様のご加護だわ。──理解はできるけど、デルタフォースじゃなければいけないの?」
「彼らの任務として妥当ですね。まあ、おそらく隊長の少佐に旅行を切り上げてすぐに出国するように強制され──失礼、強く勧められるかとは思いますが」
「噂は聞いてるけど、かなり──言葉を選ぶなら、強気なんですってね、あそこの隊長は。ミカエルでさえ嫌っているって言うじゃない。彼が誰かを嫌いって公言するなんて驚天動地だったわ」
任務や部下への責任感を強く持ちながら、礼儀正しく穏やかな顔を見せるミカエルの性質を思い出し、キリコは頷く。
「まあ、ミカエルのようなタイプとは合わないでしょうね。ただあの二人、ホワイトハウスの件では素晴らしい連携をしていたはずですよ」
「あなた、あちらの隊長は知ってる?」
話を振られたバトラーは「いいえ」と言った。
「存在は知っております。デルタフォースの隊長が存在する、と言う意味では。ただ、こういった分野で顔や名前が知れ渡るようなことはございません。特殊部隊の意義がなくなりますから」
「じゃあ、ドクターに旅行者の振りでもして接触しても分からないってことよね」
「左様でございますね。ただ、ミカエルが知っているのならその分を埋められます」
「そう。──そうねえ。大佐、意見を聞かせて。どう思う?」
大佐と言う呼称に反応が遅れたが、キリコはバトラーの最終階級が大佐だったのだと思い至った。一兵卒がとんでもない出世をしたんだなと内心で感心しつつ──大企業で言えば専務クラスだ──首相と同様にバトラーを見る。
「昔の階級でございますが、閣下がお呼びになられやすいのであれば。──本音を申し上げますがお許し下さい」
「どうぞ」
「標的を殺害することに意義はございませんが、ドクターがこの場で閣下と私の前で口になさった以上、ドクターにお願いすることは危険でしょう」
キリコは思わず拍手をしたくなった。バトラーは見事にキリコの目的を見抜いたのだ。
一国の首相の前で殺害予告をする。首相は確実に聞いた。仮に実行したとして、後日発覚すれば世間を揺るがす大事件になることは明白だ。
「ドクター、あなたのことは嫌いじゃないが、忌々しい闇医者だってことはよく分かったよ」
「首相の前で口が悪いな、バトラー」
「休憩中さ。今のあなたは客じゃない」
首相が知らぬ存ぜぬを通したところで意味はない。対立政党に肩入れするメディアは派手に取り上げ、連日報道することになるだろう。選挙が近い政権にとって嬉しいはずがない。キリコは別段、積極的に殺人を犯したいわけではなかった。その必要はないと思っていた。だからこそ口にした。──俺を巻き込むな、と言う意味を。
「なるほどね。流石抱っこちゃんの旦那さんだわ」
「結婚しておりませんが」
「事実婚でしょ、うちの国じゃ珍しくないわ。──そうねえ、それじゃドクターはするべきことがないと思うわ。敢えて言うなら楽しい旅行を続けるために、抱っこちゃんのご機嫌を回復させることね」
「困難すぎて目眩がしそうですね」
溜息交じりの返事に首相は笑った。キリコとしては本気で目眩がしそうだ。ピノコとユリとの電話で少し機嫌を直してくれればいいが──そう思っているとバトラーが口を開いた。
「あとは無能極まりないミカエルに任せるのも良いでしょう。そろそろ次の爆破場所を特定できるはずです」
「そうなの?」
「失礼致しました、言い直します。爆破場所の特定はMI6の仕事です。ミカエルは一昨日のような陽動テロが万一あったとしても、即座に小隊を対応させる対策を取っているはず。彼は無能ですが、彼の部下たちは有能です」
頷く首相を見てから、キリコは疑問だったことを口にした。
「ミカエルが無能だと言う理由は? 一昨日の彼の動きは充分素晴らしかった」
「SAS隊長に充分と言う言葉は必要ない」
「と言うと?」
「パーフェクトしか必要ない。充分ごときでは市民が死ぬ。国民が死ぬ。部下を殺す。事実、アンディは死にかけた。彼の資質が優れていたから死ななかっただけの話だ。それが全てだ」
キリコは元SAS隊長を見る。バトラーは元軍医を見る。
そしてキリコは言った。
「あなたはパーフェクトだったのか」
バトラーは答えた。
「違うから辞めたのさ。俺は負け犬だ」
寝室から着替えたBJが出て来た。首相はBJを迎えるために立ち上がって両手を広げ、キリコは冷え切った紅茶を口に運んだ。休憩を終えたバトラーはそのカップに新しい紅茶を注いだ。
首相とハグをしてカウチに座りながらBJは言った。
「わたしに聞かせたくない話は終わった? 長電話のお陰でピノコとユリさんからお土産のリクエストが増えちゃった」
分かっていて付き合ってくれた女にキリコと首相は苦笑し、バトラーは笑顔を浮かべ、最高の客のために丁寧に紅茶を淹れ、茶菓子を用意した。
「分かっているならどうして言わなかったの、抱っこちゃん」
バトラーが用意してくれたクッキーをつまみ、口元でひらひらと動かしながらBJは答えた。
「うちじゃトラブルは男が片付けるのよ。そういうルールなの」
「確かにそうだね」
キリコは肩を竦めてみせる。そのルールが自分たち、そして日本にいるピノコとユリに適用されたフランスの休暇を思い出した。BJはキリコからぷいと顔を背けて首相を笑わせながら、クッキーを口に放り込んだ。
ドアマンがアジア人女性への無礼を理由に勤務から外された、しばらく休暇を取るらしい──出勤するなりそんな話を耳にし、ジュードは驚く振りをしておいた。キリコが良い仕事をしてくれたことに多少感謝した。
エントランスから入ってすぐの勤務場所はジュードの目的にうってつけだ。地元の上流階級や観光客の目的を聞いて案内し、何かトラブルが目に入れば駆け付けて収める。稀に暴力に訴える愚かな客もいるが、今のところ目立つトラブルに発展する前に片付けることができていた。
「こんにちは、ジュード。買い忘れがあるのよ。また来ちゃった」
「いらっしゃいませ」
この二週間、ほとんど毎日のようにやって来る女にフロアスタッフとして笑顔を向ける。美しい女の名前がレイチェルだと言うことは知っていた。毎日何かしら小さな買い物をしては店内の装飾や雰囲気を楽しみ、マナー良く時間を過ごして帰って行く。行っていないフロアはないであろうことも知っていた。
レイチェルが地下のフロアへ消えてから、間を置かず二人の男が入店する。中肉中背で目立たない二人組は店内を知っている様子で迷わず地下へ降りようとした。
「お客様」
目の前を通り過ぎようとした二人にジュードは静かに言った。
「店内で銃の携帯はご遠慮下さいませ」
二人は足を止め、だが顔色ひとつ変えず、一人はそのまま再び歩き出してエスカレーターを降りて行った。もう一人は周囲を視線だけで窺った後、小さな声で言った。
「きみのことは隊長に聞いている」
「左様でございますか」
「俺はギルヴィット。今のはジョシュアだ」
「左様でございますか」
「迷惑はかけない。彼女の行動を監視しているだけだ」
「左様でございますか」
「きみの目的は?」
ジュードは笑みを深くした。
「職務の完遂でございます。パーフェクトに」
ギルヴィットはしばらく黙り、ジュードを見詰める。やがてジュードの唇が動いた。
「隊長はパーフェクトしか必要ない」
「──ありがとう、行ってみるよ」
「お気をつけて」
傍から見ればフロアの案内を終えたジュードは客を送り出す微笑を浮かべ、案内されたように見えるギルヴィットも愛想よく軽く手を上げて下りのエスカレーターへ向かった。
「馬鹿だね」
ジュードは呟いた。
「あんな女、さっさと殺せばいいのに」
そしてもう一人、行き交う客たちの中に紛れ、鼻で笑ってやりたくなる男を見つけた。彼は迷うことなく、演技をする振りすらせず、真っ直ぐにジュードに向かって歩いて来た。
「失礼──」
「何名様をお入れになられましたか? 私の知る限り、あのお二人だけのようですが」
ミカエルの言葉を遮り、ジュードは言った。SAS隊員を何人店内に潜入させているか、という確認だ。ミカエルはしばらくギルヴィットのようにジュードを見詰めていたが、数瞬の後、覚悟を決めた顔で言った。部外者に任務内容を話す、その覚悟だった。
「きみの休憩時間に2人。捜索させている」
「そうですか。では精々お励みのほどを」
「協力するつもりは?」
「私に?」
途端に嘲笑の色が眼鏡の奥の瞳に浮かぶ。ミカエルは甘んじて嘲りを受けた。
「他国の武装勢力のリーダーである私に、SASの隊長が? 協力を要請するということでいらっしゃいますか?」
「そうだ」
バトラーとして生きる先の隊長が聞けば苦虫を噛み潰した顔になるだろう。容易に想像できたミカエルは、だが知っていた。
そんな顔をした後、彼は言うだろう。
おまえは正しいよ。
プライドを捨てて市民を、国民を守れるならいくらでも捨ててしまえ。
ただし隊長だけが。部下にはそんなことをさせない。
プライドを捨てるのも、誹りを受けるのも、隊長だけだ。
それがパーフェクトに近付く方法だ。
「正式に要請する。我々には時間がない。頼む。きみに──あなたに助けて欲しい。このままでは数十人単位で死傷者が出る」
今度はジュードがミカエルを見詰めた。嘲りの色は消えた。そして眼鏡を外し、制服の胸ポケットに弦を引っ掛けてから静かに言った。
「手続きは後で、そちらが」
面倒な書類の手続きを予想し、ミカエルは思わずげんなりする。ジュードはにやりと笑った。穏やかで優しいフロアの人気者であるはずの彼が浮かべるとは、きっと誰も想像ができない、意地の悪い笑い方だった。
「起爆役のドアマンは休暇を取らされております。あなたもご存知のドクター・キリコとブラック・ジャック先生のお陰でね」
首相が帰ってからBJは「さて」と言い、キリコをじろりと睨んだ。裁きを待つ罪人の気分を味わうキリコだが、予想外にヒステリーは起きなかった。
「また服を汚された」
「そうだな」
「買って」
「──もちろん」
これで手打ちだ、と言う意思表示であることは分かった。ごめんね、ともう一度だけ謝って抱き寄せる。自分の醜態を思い出したBJは恥ずかしがり、でもキリコも悪いと呟いて、自分からキスをねだった。無論断る理由はなく、キリコは優しいキスを与える。
少しばかり深いキスをし、このまま抱いてしまおうかとキリコが考え始めた頃、BJがどんと男の胸を叩いて甘い時間の終わりを通告した。
「本当に買ってよ。このまんまじゃ口ばっかりで終わりそう」
「そんなはずあるか。昨日だって──」
「もう、昨日は私が悪かったよ! だから今日は早く買って!」
「今から?」
「今から!」
「構わないけど、どこか希望の店は?」
「店なんか分からない。──じゃあ最初はハロッズ。色んな店があるから」
ハロッズで一着、明日からは別の店でまた買って。BJはそう言った。
「随分買わせる気だな、クソビッチ」
「好きな服を買わせてやろうって言ってるのに察しが悪いね、早漏」
「早漏じゃねえって知ってるだろうが」
減らず口を返しつつ、BJの言った意味が分からない程鈍感ではない。ロンドンにいる間はキリコが好きな服を着ると言う宣言だ。悪い気分になるはずがなかった。普段の服装が一番美しいと思う心に嘘はないが、今しか着られない服を楽しませたいのも確かだった。
「先に行く。キリコは1時間したら出る」
「何だって?」
「待ち合わせ。1時間したらラデュレにいるから、そこでランチ」
「──ったく」
思わず笑い、凝りもせずに抱き締めてキスをした。
「おまえは可愛いね」
「馬鹿じゃないの」
「馬鹿で結構」
お決まりのやり取りをしてもう一度キスをし、BJを送り出す。一昨日実現できなかった小さな約束を、また口にした女が可愛くて仕方なかった。