背中で聞こえるユーモレスク 05

 翌朝、遠くに聞こえるビッグ・ベンの鐘で目が覚めた。疲労が残る身体を無理矢理動かして起き上がる。体力には自信がある二人だが、昨日一日は流石に身体も脳も動きすぎた。キリコの火傷はほぼ治まっていたが、今日一杯は保護パッチを外すなと天才外科医が言ったのでおとなしく従っておく。
「シャワーが不便だ」
「洗ってやる」
「朝から大胆な」
「その指じゃエロいこともできないだろ」
 言い捨ててさっさとバスルームへ姿を消したBJに、ごもっとも、と少し残念に思いながらもキリコはシャワールームへ向かった。
 二人でバスルームに入る時にしては珍しく穏やかにシャワーを済ませた後、身支度を整えてテラスでくつろぐ。早朝にバトラーが小型のストーブに火を入れてくれていた。彼はいつ眠っているんだろうねと二人で疑問を持った。
 やがてバトラーが現れ、朝食の支度をしてくれる。英国名物の豪勢な朝食ではなく、温かいポリッジだった。疲れた身体には有り難かった。
「今日こそは穏やかに過ごしたい」
「俺もおまえも、もうホテルから出ない方がいい気がして来たよ」
「そうしようか。──あ、そうもいかない」
「うん?」
「ジュードにお礼を言いに行かないと。靴の修理代金も」
「それがあったか。ハロッズも本屋が入ってるな。ついでに買うか」
 本気で引きこもりたい様子を見せるキリコにBJもほぼ同意見だった。二人で休暇を楽しむはずがやはりトラブル続きだ。どうしてこんなことに、と声に出さず、しかし二人は意志を疎通させていた。
 朝食の後片付けをしてくれるバトラーに、キリコはふと思い出してバトラーに言った。
「昨日のドアマンの件でクレームを入れないといけないんだ。かなり強めに言う予定だし、あなたにも手間を掛けてしまうかと思うんだが、許して欲しい」
 BJとしては「入れなくてもいいのに」と思ったが、キリコが無駄なクレームを入れるような人間ではないと知っている。理由があってのことなのだろうし、その理由も漠然と想像し、納得できた。本来なら自分がやるべきであろうということも。
「とんでもございません。お許し願うのは私どもでございます」
「既にあなたから詫びをもらっているのに心苦しいよ。形式だと思ってもらえると助かる」
「お気遣い、恐れ入ります。必要なことでございます。むしろ、ドクターがおっしゃらなければ私からお勧めする予定でございました」
 これは本物のホテルマンだ、とキリコとBJは改めて感服した。自分の不利益よりも客へのサービスの質を気にしている。それだけに、彼がこのホテルを愛していることが窺い知れた。
 紅茶と小さな菓子を置いてバトラーが退出した後、そのままテラスでだらしなく過ごした。冬の日差しが心地よい。午後には雨が降るかもしれないとバトラーが言っていたが、それまでは楽しめそうだった。
「あ、凄く大事なことを忘れてた。医者としてまずい」
「何だ」
「昨日の患者の様子、見に行かないと。オペした人だけでも」
「疲労が極まったな。おまえにしては珍しすぎる」
「だって、家にいるような気分になっちゃって。仕事終わったーって感じで」
「なるほどね」
 もちろん比喩にすぎない。最も落ち着ける場所はあの小さな娘が待つ崖の上の家だ。その程度にはこの部屋でくつろげていると言うことだった。
 ビッグ・ベンの毎正時の鐘に釣られるようにキリコは時計を見る。9時ちょうどだ。そこから今日するべきことを考え、時間を逆算し、「よし」と言った。
「マフィン」
「ん?」
「これからクレームの電話をするから聞かない方がいい」
「聞かない方がいいんだ?」
「がっつり入れるから。本気で。ちょっとお仕事モードで」
「聞きたいけど聞いたら止めたくなるレベル?」
「おまえが相手に謝りたくなるレベル」
「聞かないでおく」
 死神のクレームを想像し、つい身を震わせてしまった。仕事で何度も対峙しているからこそ分かる。キリコが本気で抗議の言葉を口にする時、大抵の人間ならぐうの音の代わりに涙が出る領域だ。
「それがいい。10時には支配人がすっ飛んでくるだろうから──」
「どれだけ長くクレーム入れる気!?」
「10分程度だよ。そこからドアマンに聞き取りだし、バトラーと一緒に内容を確認するだろ。で、この部屋に来るのが10時くらいじゃないかな」
「なるほど」
「その時はおまえも顔を出してやれ。それまでは好きにしてろ」
「リビングと寝室の電話、どっちを使う?」
「寝室にするかな」
 自分の煙草の箱を持ってBJにキスをし、キリコは寝室に引き上げる。電話を取るホテルマンの不運にやや同情しつつ、でも実際これは宿泊客の権利だもんな、と呟いて、BJは煙草に火を点けた。本来なら自分が言うべきだとも分かっていたが、仕事以外であまり強く出ることは苦手だった。
 ──レイチェルならきっと──
 そこまで考え、すぐに忘れようと努めた。彼女のことはもう二度と気にしてはいけないと思った。それが自分のためだ。自分の性格からして恋人の昔のパートナーに偶然会ったと言うだけでも相当なストレスなのに、彼女はあまりにも強烈過ぎた。
 ドアを閉めた寝室は静かなものだ。キリコは相手にクレームを入れる時、滅多に声を荒らげない。今もそうなのだろう。その分怒りがよく伝わる。電話の向こうの相手に同情しつつ、それでも自分のために怒ってくれるキリコに感謝した。
 事前の宣言通り10分程度で寝室から出て来たキリコは、テラスで煙草を吸っていたBJにキスをして「終わったよ」と言った。
「後ほどお伺いします、だとさ。バトラーも災難だ」
「ドアマンが悪い」
「お、そう言えるのはいい傾向だ」
 心底思ったキリコはもう一度キスをする。不当な扱いに引きすぎるBJの態度を心配していたのだ。傲慢になれとは言わないが、権利を主張するべき時には勇気を出せるようになって欲しかった。
 10時ちょうど、件のドアマンを伴った支配人とバトラーがやって来た。支配人は平身低頭だ。バトラーも改めて頭を下げる。ドアマンの反省振りは凄まじく、決して怠慢や差別のつもりはなかった、しかしそう取られても仕方のないことをした、お詫びの言葉ではとても足りない、と謝罪することしきりだった。
 BJは会話のほとんどをキリコに任せた。ドアマンの態度を見ていれば本気で反省していることは見て取れ、気が済んだと言えば気が済んだ。後はドアマンのミスで乗り込んだレイチェルとのことだが、これは自分の中で片を付けるべきことだと思っていた。
 それよりも淡々と、紳士的な態度で三人に対応するキリコを見ていると気分が良かった。彼らを責めるわけではなく、正当な権利を穏やかに主張し、相手のことも慮る言葉を淀みなく話す姿は堂々たるものだ。格好いい、と惚気けたことを思うと同時に、自分もこんな話し方ができるようになればいいのにと思った。
「出過ぎた真似ではございますが、あの女性を二度とハザマ様に近付けないよう、ドアマンを始め、エントランススタッフに通達致しました」
 バトラーが言った。キリコは彼に目をやり、続きを、と促す。
「彼女は──の店員です。当ホテルへの出入りがない店ではございますが、場所が近い上、彼女は当ホテルの施設を幾度か利用しております」
 キリコとBJは思わず視線を交わした。レイチェルのことを調べ上げていたバトラーの能力への畏怖と、このホテルがレイチェルの行動範囲だったことへの驚愕を共有した。
「ハザマ様への取次があっても決して応じないよう、フロントにも言い含めてございます。万一彼女がハザマ様へ接触を図った場合、私が対応してよろしゅうございますか」
「──是非。あなたにお願いするのが一番安心だ。ありがとう」
「恐れ入ります」
 それで話は終わり、支配人とドアマンは退室した。残ったバトラーが二人に紅茶と茶菓子を用意してくれる。
「二度もごめんなさい。それから、──色々して下さってありがとう。安心できた」
 BJの礼にバトラーは微笑む。仕事を楽しむ男の顔だった。彼に何かを報いたくて、BJは昨日のアンディの話をした。
「アンディ、昨日は凄かったんだ。大火傷をしてしまったんだけど──」
「──彼がニュースで言われていた休暇中の軍人だったのですか!」
 話を聞いたバトラーは後輩の活躍を非常に喜び、そして怪我を心配した。それは私が綺麗にしてやるよとBJが言うと、彼は安心し、どうぞよろしくお願い致しますと心からの礼をした。
 だがキリコが水を向けた話で、一瞬だけ元特殊部隊員の顔になった。
「あなたが予想する範囲で、昨日のSASの動きをどう評価する?」
「陽動にやられるとは、全くの役立たずでございましたね」
 容赦呵責のない評価にBJは唖然とし、キリコは苦笑した。


 いつもの服にいつもの靴、病院へ行くのだから当然だ。だがショートブーツを丁寧に部屋のシューズボックスにしまうBJを見て、本当に可愛いな、とキリコはしみじみした。
「病院が終わったら、ジュードに会いに行く前に一度戻りたい。靴を換えるから」
 息を切らせてまで届けてくれた靴をジュードに見せたい、と言外に言うBJに微笑んで頷いてやる。分かってもらえたと知ったBJも嬉しそうに笑った。
 陸軍病院は二人の医者を大歓迎で迎えた。患者の様子を見たいと告げると少し待たされ、責任者の大佐が現れて手厚い感謝を述べられる。こういう部分はアメリカの方が楽だ、とBJは思った。状況に左右される向きもあると分かっていはいるが、良くも悪くも先に仕事をさせてくれるのはアメリカで、礼儀を尽くそうとするのはイギリスだという印象があった。ただ、挨拶の時間を取れるのであれば、患者たちに差し迫った危機がないと予想することにも繋がった。
 昨日手掛けた患者たちの様子を見に回る。患者自身やその家族が感謝の言葉を口にし、それに応えてから診察をする。全員経過観察の必要はあり、集中治療室に入っている患者もいるが、誰ひとりとして生命に別条はなかった。
 最後にアンディの病室に入る。アンディは眠っていたが、グレイスとクロエがいた。グレイスは二人を見るなり立ち上がり、感極まった顔になる。クロエは以前アンティーヴで会ったことのある医者二人に、はにかみながらも笑ってみせた。
「ドクター、先生──ありがとうございます。昨日はお礼を言うこともできなくて」
「仕事をしただけですよ。クロエ、元気? 昨日はよく頑張ったね」
「元気よ。アンディのお陰で怖くなかったの。でもアンディが怪我をしちゃったの」
「そうだね。でも大丈夫、私がちゃんと手術したから元気になるよ」
「よかった!」
 幼いながらもアンディの怪我が重傷だと分かっているクロエは、ほっとしたように息を吐いた。グレイスは娘を抱き締める。
「あなたもお見事でした」
 キリコがグレイスに言った。BJはキリコを見る。何を言うんだろう、と思った。
「あなたはアンディを見て、泣くことを堪えました。お見事でした。──彼はあの時、怪我と戦うための勇気を持てたはずです」
 言われたことをしばらく考えたグレイスは、やがて唇を震わせた。何度も頷き、ええ、ええ、と呻くように言う。
「わたし、あの時まで覚悟がなかったんです」
 眠るアンディを見る。保護された両足が痛々しかった。
「本当に外国で、外国の人と結婚して、彼とは血が繋がらない子供と新しい家庭を作っていけるのか、暮らして行けるのか、とても不安でした。でも、覚悟しなくちゃいけなかったんです」
 大人の話が分からないクロエが、母の恋人のベッドに近付く。早く起きて遊んで欲しいと思っているのは明白だが、起こしてはならないと我慢している姿は健気なものだ。二人を眺めながらグレイスは続けた。
「彼はきっと軍を辞められない。あの方──上司の方に、あんな怪我をしているのに、何よりも一番に報告している姿を見て分かったんです」
 何も言わないキリコの横で、BJは静かに頷いた。キリコはそれに驚き、グレイスは理解してくれた医者に微笑んだ。
「彼から」
 BJは言った。
「人を守る仕事を奪うことは、難しいでしょうね」
 敬意が込められたその声に、グレイスは誇らしげな顔になった。
「ええ。──だったら、わたしは軍人の妻になるのなら、覚悟を持って彼を支えなきゃいけない。任務で怪我をしたって、わたしが泣いている暇なんてないわ」
 頷いたBJはグレイスを抱き締める。グレイスも抱き締め返した。キリコは何も言えなかった。多くの軍人を見て来た。だがその家族を見たことはなかったのだと知った。知る必要があるかどうかは分からない。それでも、知っておいて悪いことではないと思えた。
「ママ、トイレ行きたい」
「あら、──すみません、ちょっと失礼します」
「ごゆっくり」
 母子が病室を出る。BJとキリコは顔を見合わせて、それから同時に笑った。そしてBJは言った。
「辞められないな、お喋りアンディ」
「……参りました」
 完全に降伏したと認める声で呻き、アンディは目を開けた。途中から起きていたことなど二人の医者には分かっていた。
「家族にもSASってのは言えないんだよなあ」
「そんなもんだろ。赤毛だってグレイスやお母様にデルタって言ってないらしいじゃないか」
「そうなんだよね。うまく隠し続けられるかどうか」
「まあ、そこは極めるんだな。赤毛が結婚する時に、奥さんに隠す方法を先輩ぶって教えてやれる」
「考えるだけで胃が軋む。あの人、まじで頭おかしいし怖い」
 アンディは深く息を吐いた。BJは診察を始める。キリコは枕元の申し送り表を見て、投与されている薬、頓服薬の種類と容量をチェックした。
「後は日にち薬だ。V度に進行する可能性がないとは言えないから、あと4日くらいは重点的に様子を見るように主治医に言っておくよ」
「退院は?」
「進行したら2ヶ月、このまま回復できれば2週間。でもその後はリハビリ必須だ。SASの訓練よりは楽だろう、たぶんね」
「ありがとう」
「主治医に話してくる」
 言い置き、BJが病室を出て行った。しばらく戻って来ないだろう。
「そういえばさ、ドクター」
 まだグレイスとクロエが戻ってこないことを確認し、アンディはやや声を潜めて言った。
「夜中にハロッズマンが来た」
「ジュードか」
「そう」
「夜中に? 面会なんかできない時間帯だろうに」
「いや、彼にかかればこんな病院のセキュリティ、何もないのと同然だよ。すげえガバガバなんだ」
「陸軍の軍人が言っていい台詞なのか」
「退院したら報告してみる。──もしまた彼に会ったら訊いておいてくれないか」
「何を?」
「手が届かないところに置いたのはわざとなのかって」
 しかめ面でアンディが指差した先には、サイドボードに置かれた煙草がある。ベッドから動けないアンディにはどう頑張っても手が届かない位置だ。
 訊くまでもない、とキリコは思った。
「わざとだ」
 その宣言にアンディは「クソッタレ」と呻き、キリコは笑って煙草を渡してやった。しかしちょうど戻って来たグレイスとクロエに「禁煙よ」と叱られ、咥えた煙草に火を点ける前に箱に戻すはめになったアンディは、早く喫煙所まで歩けるようになりたいよ、と泣き言を吐いたのだった。


 一度ホテルに戻り、靴を履き替えてすぐにハロッズに行くはずだった。だがロビーの一番端の席、周囲に人がいない場所で待っていたミカエルを見た瞬間、これは少しばかり話をせざるを得ないだろう、と二人で腹を括った。テロ翌日、テロ対策のための小隊の隊長が現場を離れてこの場にいる。つまり火急だと考えられる。
 別にSASに義理立てしたいわけではなかったが、前回のロンドンで文字通り生命を守ってもらっている身としては、一度くらいは要請に応じるべきだと思った。逆に言えば、一度応じれば関係を切ることもできる。闇に生きる者として、あまり付き合いたい相手ではない。
「手短に」
 挨拶のためにミカエルが立ち上がる前に向かいのソファに座り、キリコが口火を切った。BJはその隣で、この場はキリコに任せることに決める。こういう時は交渉慣れしたキリコに任せることが一番だ。ミカエルは二人の意志を汲み取り、頷いて話を始めた。
「突然失礼した。呼び出しをお願いしたら外出中だと伺ったものだから」
「おまえさんの部下の様子を見て来た。彼女が言うには良好だ。俺の見立ても同様だよ」
 ミカエルの視線を受けたBJは頷いておいた。ミカエルは部下の容態にほっとしたように「ありがとう」と言う。詳細を訊く様子はない。取りも直さずそれが二人への信頼を示した。
「単刀直入に申し上げたい。何かご存知のことがあれば聞かせて欲しい。何もかもタイミングが良すぎるんだ」
「正直、見当もつかない。俺たちは単なる旅行でロンドンに来ている。現場に居合わせたのは偶然だ。ナーサリーの方は証明しようがないが、クルーズ船の発着所の方はバトラーに訊いてもらえれば証明できる。あの時間のクルーズを予約したのは彼だ」
「クルーズ船に関しては先にバトラーに確認させてもらった。彼が証明してくれるのなら疑う余地はない。私の昔の上司で、誰よりもテロを嫌っている人だった」
 キリコはしばらくミカエルを見詰めた後、「分かった」と頷いた。ミカエルは続けた。
「ナーサリーに関しても、私はあなたたちを疑ってはいない。あれだけのご助力を頂いたことで充分すぎる証明だし、失礼ながら途中のシューズショップで先生がわざわざ動きやすい靴を買って履き替えたことも調べさせてもらった。疑えと言う方が無理だ」
 金を払ったのは俺だがね、とキリコは心の中で呟く。BJは素知らぬ顔だった。
「タイミングが良すぎると言ったな。どういう意味だ?」
 キリコが問うと、ミカエルは暫し沈黙した。それから息を吐き、「失礼なのだけれど」と呟くように言う。
「先生にはあまりお話しするべきではないかもしれなくて」
 嫌な予感がしたBJは眉を顰めて首を傾げ、言った。
「触りをどうぞ。嫌なら聞かない」
「ドクターが以前、お付き合いしていた女性の素性について」
「ごゆっくり」
 ミカエルが全てを話す前にBJは席を立った。そのままエレベーターへ向かう女の後ろ姿を見送ってからキリコは天を仰ぎ、ミカエルは溜息をつく。
「どうにも、私はこういう機微が得意ではなくて。任務のためとは言え失礼した」
「いや、仕方ない。IRA関連ならSASの最重要任務のはずだ。──ただ、あれの機嫌を取らないとまずいんでね。手短に頼む」
  BJが完全に機嫌を悪くするまでに部屋でバトラーが時間稼ぎをしてくれると信じ、キリコはミカエルを促した。男女の機微に疎いとはいえ人の心を無視したいわけでもないミカエルは、できるだけ質問を絞ることにする。
「情けない話だが、バトラー──元隊長だ。私の前のね」
「なるほど」
 元SASだとしても只者ではないと思ってはいたが、かなり能力がある男だったのだとキリコは納得した。
「彼に情報提供を正式に要請して話してもらった。あなたたちのプライベートに関わる部分の情報だが、国家の正式な令状による要請だ。彼にプライバシー侵害の意図はないと理解して欲しい」
「理解した。彼が意図的に宿泊客の情報を漏らすはずがない」
「ご理解をありがとう。──あなたが昔お付き合いしていた女性、レイチェルはカリフォルニアで逮捕され、殺人未遂罪で2年服役している。通常のパスポートでは我が国に入国できない。ビザも降りない」
「だろうね。どっちも偽造しているんだろう。本名の苗字と違うはずだ」
「ご存知だったのか」
「どうしてバトラーがそんなことを知っているか、ということ以外はね。ただ、俺には彼女の身分詐称を通報する義務はない。旅行者にすぎないからな」
 答えながら、キリコはバトラーの能力と行動力に舌を巻いた。蛇の道は蛇とはよく言ったものだが、彼にも彼なりの情報網があるのだろう。あるいは彼自身、闇に繋がりがあるのかもしれない。そして今回レイチェルの素性を調べたのは確実に──もはやキリコは彼のことを理解していた──宿泊客、つまり自分とBJのためだ。快適な宿泊のために。ただそれだけが理由のはずだ。ある意味、彼は狂っているのではないかと思った。
「その彼女が、今更あなたに接触した理由は?」
「焼けぼっくい狙い、と言いたいんだが──わざわざ訊くってことは違うんだろうな。さっきも言ったが手短に頼むよ、ミカエル。俺は昔の女の目的を知ることなんかより、人生最後の女の機嫌を取る方が重要なんだ」
 ミカエルはしばらくキリコを見詰めていた。キリコもミカエルを見た。やがてSAS隊長は目を逸らさないまま、静かに言った。
「彼女が入国し、今の職場で働き始めてから、IRAのメンバーと見られるアイルランド系の人間があの店に出入りすることが多くなっている」
「──そこまで分かっているなら俺に何を訊こうって? 後は店を監視すればいいだろう。MI6とはまだ仲が悪いのか」
 揶揄する口調で言葉を投げ付けながら、キリコは考える。レイチェルとIRAが繋がっている可能性をダイレクトに示されたわけだが、心当たりは一切なかった。
「ありがたいことに関係は良好だ。その説はご迷惑をおかけした。──昨日は先生との接触も見られた」
「それもバトラーの情報か?」
「そうだ。それから」
 ミカエルは僅かに言葉を切り、忌々しい、と言った感情を隠し切れず、キリコに僅かに見せてしまいながらも静かに言った。
「ハロッズでジュードにも接触している」
 キリコは頷いた。もしかするとブーツを届けにここまで来た一件も知っているかもしれないが、こちらから言う必要はなかった。
「ご存知の通り、ジュードも外国人だ。ところが入国記録がない」
「──まさか」
 流石にそれは驚いた。パスポートやビザを偽造したとしても、必ず入国記録は残るはずだ。それすら残っていないということはかなり特殊なケースにあたる。
「そしてハロッズで働いている。──IRAと関係を疑われる店で働いている逮捕歴を持つ女性と、我が国が誇る名門百貨店で働く武装勢力のリーダー。あまりにもタイミングが重なりすぎているんだ」
「イギリスにとって厄介な経歴を持つ二人が、厄介な真似を同じタイミングでしている。そういうことか」
「イエス。おまけにあなたたちが入国している。何も思うなと言う方が無理だ」
「繰り返すが、俺たちはテロと無関係だ」
「分かっている。ただ、私たちの懸念を向けるには材料が揃いすぎていた。その点はご理解頂きたい」
「構わないよ。理解はできる」
「彼女が、あるいは彼が、この国にいる目的に心当たりがないだろうか。どんな小さなことでもいい」
「協力したいのはやまやまだ。おまえさんたちには前回、生命を救ってもらっているからな。だが本当に心当たりがないんだよ。俺はレイチェルと別れて以来、一度も会っていない。連絡先も知らなかった。風の噂で逮捕と服役を知ったくらいだ」
「なるほど」
「ジュードのことだって、ハロッズで買い物をしなければ──もっと言ってしまえば、フロアアテンダントに質問をする必要がなければ、いることすら知らないままだった」
「個人的な連絡は?」
「知らないね。彼が入国する以前から、全く」
 何ひとつ嘘ではなかった。レイチェルの、そしてジュードの目的も知りはしない。むしろ今、ミカエルに聞いたことに少なからず驚いているほどだった。レイチェルがIRAと繋がっている可能性、そしてジュードの入国記録がないという異常性。
 だが、ふと思い出した。どこかで繋がるのではないか、と思った。それをミカエルに言う義理はないとすぐに考えたが、かと言って言わない理由もなかった。しかしすぐに、いや、と心の中で呟いた。──いや、俺は彼に言うべきだ。これ以上引っ掻き回されるのはたまったもんじゃない。
「ミカエル」
「何だ」
「どういう解釈をするかはおまえさんに任せる。ひとつ思い出したことを言うよ」
「ありがとう」
「ただし情報料が必要だ」
 ミカエルは暫く考える素振りを見せたが、それほど長い時間を要さずに頷いた。
「おいくらで?」
「金じゃない」
「では何を」
 簡単な話だ。キリコは言った。
「俺と俺の女がロンドン滞在中、何ひとつ、一切巻き込まないでくれればいい。健全な旅行をさせてくれよ」
 心からの要求だった。どんな大金を積まれようと、この願いに比べれば塵に等しい。二人で健全な、穏やかな旅行をしたい。ただそれだけだった。
 不意にミカエルが苦笑した。そして言った。
「あなたも大変だな。分かった。尽力させてもらう」
「分かってもらえて助かるよ」
 キリコは肩を竦め、本題に入った。
「レイチェルが逮捕された時の罪状だ」
「殺人未遂では?」
「証拠不十分で不起訴になった罪状がある。単純な国家間照会じゃ出ないはずだ。あれは判決分しか反映されないからな」
 ミカエルの目が鋭くなった。ああ、とキリコは心底思った。──ああ、これでトラブルとはおさらばだ。俺たちは楽しいロンドン旅行ができるんだ。ああ、ああ、──何だってそんなことを信じられないんだろう。信じたいのに。楽しいロンドン旅行を穏やかにできるって信じたいのに。
「凶器準備集合罪。今でもその伝手がないとは言い切れない」
 ──信じたいのに。ああ、どうして俺は──無理だろうなあ、って思っちまったんだろう。
「それは──先生?」
 詳しく聞こうとしたミカエルは、エレベーターから姿を現したBJを見た。釣られたキリコも視線をやる。BJはちらりとキリコを見ると、そのまま正面玄関へ向かった。失礼、と言い置いてキリコは席を立ち、BJを追う。
「どこに行くんだ」
「買い物。1本向こうの通りだし、彼女の店の反対方向だから会わないよ。すぐ戻るから隊長と話してれば?」
「何を買うんだ?」
「肌着」
「──お気をつけて、クイーン」
 流石に出る幕がない。素早くキスをして見送り、再びミカエルが待つ席へ戻った。あのブーツを履いていたことに気付いたのは、ソファに腰を下ろしてからだった。可愛いな、と思った。


 話を終え、ミカエルがホテルを出るのと入れ違いにBJが戻って来た。手にしたショップバッグは女性用衣料品店のものだったが、彼女が持つのは珍しい。
「何を買ったんだ」
「肌着だってば」
「ふうん。──靴を履き替えたら行くぞ。ついでに昼を食べて本を買おう」
「着替えるから待って」
「着替える? どうした?」
 キリコの疑問に答えず、BJはさっさと寝室にこもってしまった。何なんだと思いながらも煙草に火を点け、リビングのソファで女王様のお召し替えを待つ。
 ほどなくして現れたBJを見て、思わず煙草を取り落しそうになった。慌てて灰皿に押し付けて消火する。
「本だけじゃなくて服も買ってよ。これしか持ってないから」
 コートを片手に言いながら速足でキリコの前を通り過ぎようとしたBJの顔が僅かに赤い。返事よりも早くキリコは動いていた。簡単に言えば抱き締めた。
「まだ持ってたんだ?」
「たまたま。家で荷造りしてる時に見つけたから」
 抱き締めた身体を一度離し、しげしげと眺められたBJはまた顔を赤くして減らず口を叩く。最後の最後までスーツケースにいれるかどうか迷っていたが、訳知り顔のピノコが鼻歌を歌いながら入れたのだ。
「嬉しいよ。全部見たのは初めてだ。前はコートの前が閉まってたから」
 前回のロンドンでキリコが買ってやった服の一式だった。嫌がらせだと自分に言い訳をしながら膝下丈のスカートを買ったのだ。それに似合うブラウスと厚手のカラーストッキングも。まさかまだ持っているとは思わなかったし、この旅行に持って来ているとは予想外すぎた。それでも純粋に嬉しかった。
「いくらでも買うよ。上から下まで全部揃えよう」
 今は嫌がらせなどと言い訳をしなくてもいい。いくらでも買ってやれる。それも嬉しかった。服を買ってやれると言うだけでこんなにも嬉しいと思ったことがなかった。
「カラーストッキングだけは今、新しいのを買って来たんだ。昨日、転んだ時に破れちゃったから」
「──え?」
「スカートが破れなかっただけ良かったと思ってよ、不可抗力なんだから」
 キリコの驚いた顔に責められたと勘違いしたBJは焦って説明をしたが、キリコは無論そんなつもりではなかった。驚いた。そして昨日、別行動をした自分を改めて呪った。
「昨日も着たのか?」
「言ってなかったっけ」
「聞いてないよ!」
「あれ、そうだっけ。転んだ時にスカートが汚れちゃったからクリーニングに出して、それがさっき戻って来てたから──」
「何だよ、もう」
 BJをまた抱き締め、どさりとソファに腰掛ける。態勢を崩したBJは慌ててキリコに掴まった。改めて恋人を抱き締め直し、ああ、とキリコは大きく息を吐いた。
「おまえは可愛いね」
「馬鹿じゃないの」
「馬鹿で結構。──参ったよ、もう」
 昨日は待ち合わせをする予定だった。もしも何のトラブルもなく待ち合わせの場で会ってこの姿を見ていたら、その場で唖然としたかもしれない。そして嬉しくてたまらなかっただろう。今のように。
「本当に」
 多くの恋人同士なら当たり前のことかもしれないし、そんなに大袈裟なことじゃないだろうと笑われるかもしれない。だがふたりにとっては人生の一大イベントだ。
「おまえにはかなわないよ。愛してる」
 BJはしばらくキリコを見上げていたが、やがてにやりと笑った。
「知ってる」
「──この性悪」
「その性悪が好きな馬鹿は誰だっけ」
「俺ですとも」
「キスしてくれてもいいんだけどな」
「仰せのままに、クイーン」
 二人で笑い合いながらキスをする。闇の二人しか知らない誰かが見れば、驚きを通り越して呆然とするかもしれない甘い時間を楽しんだ。出かける前じゃなきゃ抱きたいよ、とキリコが言うと、せめて夜までは駄目、指の火傷が治まってから、と名医はすげなく断った。じゃあ夜にと約束して、再び、そして今度は少し深めのキスをした。


 ジュードは礼を言いに来た二人にいらっしゃいませと微笑んでみせた。BJがブーツの礼を言うと、いかにも大したことではないと言いたげに「仕事でございますので」と返した。
「綺麗に直っているようで安心致しました。また拝見できて嬉しく思います。本当にお似合いです」
 無礼にならない程度にBJの足元を見、ジュードはリップサービスをそうとは感じさせない声音で提供した。
「直しに出した時、担当したシューフィッターが非常に気にしておりまして。もし具合が悪い部分があれば、何度でもお声掛けを頂きたいと申しておりましたよ」
「あの人──ああ、そうなんだ。ありがたいな」
 感激屋のシューフィッターを思い出し、BJは嬉しくなった。彼女にも礼を言っておきたい。キリコにそう言うと頷いてくれた。
「いいんじゃないか。何ならもう一足、彼女から買うといい」
「じゃあ何か見繕ってよ。──修理料金を払いたいんだ。どこに行けばいい?」
「あの料金はドアマンが是非お支払いしたいと言って聞きません。どうぞ彼に払わせてやって下さい」
「ああ、彼か。そういうことなら──」
「ドアマン?」
 キリコが眉を顰めた。しまった、とBJは己のミスを自覚した。知ればキリコは怒る、ホテルと同様にハロッズにも強く抗議してくれるだろう。気持ちは嬉しいが心配をかけたくなかった。ただでさえ、ロンドンに到着した時から2度もそんなことをさせている。だから言わなかったのだ。ジュードは二人を交互に見、それから「おや」と言った。
「お話しなさらなかったのでしょうか。それは失礼致しました」
「いや、これから話を聞くよ。ありがとう、ジュード。仕事中に失礼」
「ちょっと、キリコ」
「いいから」
「行ってらっしゃませ」
 なぜか笑みを深くしたジュードに見送られながら、BJはキリコに強く腰を抱かれて半ば引きずられるようにその場を離れるはめになった。
「ちょっと、何」
「どうして言わなかった」
「何でも言わなきゃいけないわけ?」
「そうじゃない。俺を恋人の権利が侵害されても黙ってる間抜けな男にしたいのか」
「そんなこと言ってない。わたしを責めるようなことを言うのはお門違いだと思うけど?」
 名物のエスカレーターに乗り、上がりながら小声で話をする。それでも剣呑な声音は隠し切れず、先に乗っていた客がちらりと振り返った。その視線でキリコはやや冷静になった。
「悪かった。──でも言えよ。正当な権利なんだ。おまえは何でも我慢し過ぎる」
「ロンドンに来てたったの3日なのに3回もこんなことがあったら、うんざりして言うのも嫌になる。そういう国なんだし、謝ってもらったってどうせ上辺だけだ。だったら分かってくれる人と楽しい時間を過ごした方がいい」
 キリコは溜息を堪え、そうか、とだけ言った。欧米や普段の生活圏内では人種的に優遇されることが多い自分には、今のBJの心情を心底理解することは難しいのだろうと実感した。
「悪かった。おまえを責めるつもりなんかないよ」
「ありがとう。怒ってくれることは嬉しいから、それは誤解しないで。──言わなかったのは、キリコがまた嫌な思いをするかもしれないと思ったから」
「俺が? おまえじゃなくて?」
「わたしが侮辱されたら怒ってくれる。でも抗議したりするのって、疲れる感情だから。わたしのことで疲れる必要なんかないんだ」
 キリコは再び溜息を隠した。そこに気を使うのか、と思ったのだ。BJとふたりになってから、キリコにとって理解が困難なことのひとつだった。
「確かにおまえはそうだな。でも俺はそうでもないんだ。俺とおまえの性格の違いなのか、民族的な違いなのか」
「民族性かも。日本人はあまり抗議しない」
「アメリカ人は主張してこそだ。──そりゃ国際結婚が困難なわけだよ」
「え?」
「そんな話が多いんだ。知らない?」
「あ、──うん、そうかも、聞いたかも」
 どこか慌てたように小さく頷くBJに疑問を持ったが、どうしたんだ、と問う前に目的のフロアに到着した。なぜか少し速足でエレベーターを降り、BJはさっさとシューフィッターを探しに靴のエリアへ歩いて行ってしまった。
 何なんだ、と今度こそ溜息をついた後、キリコはBJをゆっくりと追う。あのシューフィッターがBJを見つけ、声をかける姿が見えた。まあ、まあ、とまた何かに感激する声が聞こえる。BJはまだ挨拶程度だろうに一体何に──キリコがそう思った時、彼女の声がまた聞こえた。
「ご相談頂いたスカートですわね? ご主人に買って頂いたっておっしゃってた──想像通りにお似合いですわ! そのお靴とぴったりで!」
 慌てたようにBJが振り向き、ぽかんとしているキリコを見て顔を真っ赤にする。すぐにシューフィッターに彼には内緒だった、恥ずかしくて言えなかったと白状してシューフィッターをも慌てさせた。その二人を見てキリコは堪え切れずに笑い──ああ、靴を買った時に彼女に相談していたのはこのことだったのか、可愛いな、と思って──、聞こえていた他の店員たちも高級百貨店のスタッフにあるまじきにやつきを見せたのだった。
「失礼致しました、本当に──申し訳ございません」
 シューフィッターは恐縮することしきりだったが、BJは無論怒ってなどいない。キリコに聞かれて恥ずかしかっただけだ。聞いたキリコと言えば上機嫌で、シューフィッターの名前を聞き、あなたにもう一足選んで欲しいと言った。エリーと名乗った彼女は大喜びだった。
「先に言いたかったんだけど、靴の修理を急いでくれたんじゃないかと思って。ありがとう、とても嬉しかった」
「まあ、とんでもない。綺麗に直って安心致しましたわ。事情は存じませんけど、ジュードがとても怖い顔で『最優先だ!』って職人に言っていたんですよ。彼があんなに怖い顔をするなんて初めてで」
「彼が?」
「ええ、いつも穏やかで優しくて、フロアの人気者なのに。驚きましたわ。でも、彼がそう言うくらいなんですもの。そりゃあ最優先に決まっておりますとも」
「穏やかで優しくて人気者なんだ」
「とても。まだ働き始めて一ヶ月も経ちませんのに、どんなに難しい要求をなさるお客様でも、それは見事にご案内するんですよ」
「そうなんだ」
 BJはついキリコを見る。キリコはしばらく考え、うん、まあ彼はそうかもしれないね、とあまり感情がこもらない声で言っておいた。
「あ、でも、直した靴をホテルまで走って届けてくれたんだ。12時半に待ち合わせがあるって言ったから、間に合わせようとしてくれたみたいで。驚いた」
「まああ!」
 感激屋のエリーはまた大感激だ。後でスタッフのみんなに教えなくっちゃと興奮している。だがキリコとBJは顔を見合わせ、うまくやってるんだな、と無言で通じ合った。二人が知る彼、武装勢力のリーダーとはとても思えなかった。
 気分が高揚したエリーは、新しい靴を何足も持って来た。新しいスカートを買う予定だから、とキリコが言うと更に熱を入れ、あれもこれもと引っ張り出して来る。BJは彼女の勢いに圧されつつ、高すぎる踵は苦手、脱げてしまいやすいからストラップが欲しいと最低限の注文を言うことで精一杯だった。
「華やかでいらっしゃいますね」
 途中で休憩に入ったジュードが顔を出し、どれもお似合いでしょうね、と相変わらずの微笑みで言う。BJは肩を竦めた。
「選ぶならどれ?」
「私がですか?」
「そう」
「そうですね」
 ジュードはやや真剣な顔で考えた後、一足のパンプスを示した。
「こちらはいかがでしょう。お似合いだと思いますよ」
「そう。じゃあそれはやめておこうかな」
 キリコは心底の苦笑を漏らし、エリーは楽しい冗談だと思って笑った。ジュードは気分を害した様子もなく、笑顔で「ではごゆっくり」と言ってその場を去った。去り際、キリコのコートの袖に小さなメモを押し込んだことは当のキリコとBJにしか分からなかった。
 やりやがったな、とBJは暗鬱とした気分になり、キリコは「ちょっと失礼」とレストルームへ行く振りをして席を外した。
 キリコが戻ったのは数分後だ。多くの靴の中からようやく最終候補として二足を前に悩むエリーに「両方もらうよ」と言って喜ばせ、彼女が会計のために立ち去ってから静かに言った。
「知ったからには言わないわけにはいかなくてな」
 BJは深く溜息をついた。ジュードを心底恨んだ瞬間だった。彼は昨日のドアマンの不手際をキリコに知らせたのだろう。
「もういいってば。ジュードのメモ?」
「親切な店員だ。修理代金がここのドアマン持ちって意味がとてもよく分かったよ」
「よくあることだから、いちいち構ってられない。また来るかもしれないんだし、店員に変な恨みを買いたくないし、それは忘れてよ」
「言わないわけにもいかないんだよ」
「いい加減にわたしの気持ちも分かってくれない?」
「理解はする。ただ、今回は俺の自己満足のためと──ジュードに靴を届けてもらった件の借りをさっさと返すためにも分かってくれないか。長く借りたら利子が膨らむ」
 エリーがまだ戻って来ないことを確認してから、キリコはBJの髪に唇を落として靴を楽しみに待つ男女を演じ、察したBJも男にもたれかかる振りをして、キリコのてのひらにあるジュードに渡されたメモを見た。
 簡単な詳細とドアマンの名前、クレームを入れるべき連絡先が丁寧な筆記体で書かれている。そして最後の一行に記された「odd man out」というセンテンスを見たBJはキリコの言いたいことを理解し、次の溜息は押し殺して「分かった」と頷いた。
「旧い映画だな。私たちが知らなかったらどうするつもりだったんだろう」
「それでも意味は通じる。取り敢えず俺に抗議をさせて、そのドアマンを勤務から外したいんだろう。勤務から外すくらいなら相当強いクレームにしないとまずいな」
「何で私たちが。ジュードがやればいいのに」
「靴の借りだ。これでチャラになるなら構わないだろう」
 俺の気も晴れるしね、と涼しい顔で言うキリコに呆れ半分、だが自分のために怒ってくれる男の気持ちが嬉しいことは確かで、少し背伸びをしてキスをした。いつもより低い背伸びで済み、踵が高い靴は背が高い男にキスをする時に楽なんだな、と気付いた。
「クレームを入れるならホテルで電話にして。本も服も買ってから」
「大荷物になるな。配送してもらうか」
 エリーが笑顔で包装した二足分の靴を運んで来る姿を見ながらキリコは言った。
 結局、服は買わなかった。買い物の順番を間違えた、とキリコは後悔した。先に本のフロアへ足を向けてしまったことが敗因だ。本以外に意識を向けられなくなったBJがあれもこれもと買い込み、挙げ句に「これはすぐ読みたい」と言って一冊を示し、ホテルへ帰りたがった。キリコはそれを受け入れる以外に選択肢がなく──拒めばどれほど機嫌を損ねるか容易に想像がつくからだ──配送手続きをしてホテルに戻ることに同意した。
 部屋に戻るなりBJは寝室にこもって本を読み出してしまう。昼食を取っていないと気付いたキリコはルームサービスで簡単な食事を頼み、自分もテラスで買った本を読むことにした。
「ドクター、ジェームズ・ストリートのお店からでございます」
 サンドイッチのプレートを運んで来たバトラーが、一通の封書を差し出した。請求書在中と書いてあるが、無論それは嘘だ。レイチェルの監視に関する報告だった。
 ざっと目を通して一時間前までのレイチェルがおとなしく職場で働いていることを確認し、夢中で本を読んでいるBJを呼んで昼食を取らせた。ハロッズから靴と本が届いたらジュードのメモ通りに電話をしようと決め、今はサンドイッチに齧り付きながら早速本の内容について話すBJに相槌を打つことに専念した。
 odd man out──除け者、仲間外れ。元来の意味はそんなものだ。
 だが二人は、それがIRAの男を主人公にした映画だと知っていた。


 クレームの報告を受けた老舗百貨店の対応は早かった。すぐさま支配人から電話が入り、エントランスの責任者と共にホテルを訪ねて詫びたいと申し出たが、キリコはそれを断った。朝もホテル側の謝罪の訪問を受けたばかりだ。BJが本気で嫌がりそうだと考え、電話口で済ませることにした。
「随分と早い対応だが、事実確認は?」
『実は──』
 ジュードが先に報告し、件のドアマンから聞き取り中だったと言う。相変わらずどこまでも手回しのいい奴だ、とキリコは思った。昔からジュードは有能だ。
 それからしばらくキリコは電話を続け、支配人から遠回しに該当のドアマンをしばらく勤務から外す、彼に休暇を与えるという言質を得た。これでジュードへの借りを返したと確信し、これからも良い店であって欲しい、私たちも良い客であるように努力するよと言って電話を切った。後はジュードが勝手にするだろうし、自分たちにこれ以上手間を掛けさせないだろうと予想した。
「キリコ」
「うん?」
 BJが本を手に寝室から出て来る。
「この症例、4年前の──の学会で臨床例が出てたはずなんだけど、誰の論文だっけ」
「4年前?」
「うん」
「おまえの記憶にもう少ししつこく訊いてみた方が建設的な結果が得られると思うよ」
 こういうところで天才振りが見えるんだよな、と思いながら心から言い、キリコはBJをテラスに連れて行った。天気予報は外れて午後も良い天気だ。ブランケットとストーブ、15分に一度鳴るビッグ・ベンの鐘をお供に日光浴をしながら一緒に本を読みたかった。
 本を開く前、医者としての感覚でもう大丈夫だろうと判断した指の火傷の保護テープを外そうとしたら、夜まで駄目、と何を勘違いしたのか顔を赤くして禁じられた。可愛かったのでキスをしておいた。
 可愛い恋人と二人きりで穏やかに健全な旅行を。キリコの心底の願いはそれだけだった。