背中で聞こえるユーモレスク 09

サロンのエントランスを通り、レセプションに並ぶ色とりどりの菓子──マカロンだったな、とキリコは思い出す──を眺めながら煙草に火を点け、ゆっくりと歩く。店内に人の気配はない。既に逃げ出したのだろう。普段は優雅なはずのサロン内はテーブルや椅子が引っ繰り返り、落ちたカトラリーやプレートが洒落た菓子の残骸と共に床に散らばっていた。
「誰? 入っていいなんて言ってないわ!」
「俺だっておまえに俺の女を人質にしていいなんて言った覚えはない」
「キリー!」
 壁際の一番隅にいたレイチェルが場にそぐわないほど嬉しそうな声を出した。床にうつ伏せにされ、頭に銃を押し付けられたBJの姿を見てキリコは眉を顰め、瞬時に爆発しかけた怒りを隠した。
「来てくれたの?」
「そりゃあ来るさ」
「嬉しい。今度こそ話を聞いてくれるんでしょう」
「レイチェル」
「なあに」
「俺の女を解放しろ」
 途端にレイチェルの顔が強張った。キリコは背後、遠くにベネットの気配を感じ取りながらゆっくりと言った。BJが身動きひとつしないことが心配だった。
「おまえが何を考えているかなんて、俺たちの知ったことじゃない。俺たちはただの旅行者で、おまえの身勝手に巻き込まれただけの気の毒な外国人だ」
 怒りの形相のレイチェルがBJに強く銃口を押し付けた。キリコはそれがブラフだと見抜いていた。それでもベネットに分かるはずもなかったし、分かる義理もなかった。銃声が響いた次の瞬間、レイチェルが悲鳴を上げ、その手から銃が弾け飛ぶ。
 特殊部隊員は速かった。見惚れるほど正確な射撃姿勢で撃ったベネットの背後からギルヴィットが飛び出し、いともあっさりと暴れる女を抑え付ける。ベネットが部隊間の垣根を無視し、拘束に協力した。もはやレイチェルに見向きもせず、キリコはBJに駆け寄った。
「マフィン、──クロオ、聞こえるか」
 膝を着いて呼びかける。本当は抱き起こしたかったが、それは救急的に忌避するべきことだった。レイチェルが脳に衝撃を与えていなかった保証がない。キリコの不安を払拭するかのように、すぐに返事があった。
「うん」
「怪我は?」
「ない」
「良かった」
 起き上がったBJを抱き締め、本気で安堵の息を吐く。BJも同様に息を吐き、キリコにもたれかかって胸元に強くしがみついた。その髪に唇を落とすキリコの背後でギルヴィットが無線に報告する声が聞こえた。
「起爆装置を確保、繰り返します、起爆装置を確保!」
 BJがはっとして顔を上げる。どうした、とキリコが問う前に、いつの間にかサロンの中に入って煙草に火を点けていたジュードが冷たく言った。
「お客様、お連れ様とご一緒に、お早めに当店からご避難下さい」
「理由は」
 低く問うキリコに、ジュードはフロアスタッフとしての微笑みを消し去った顔で告げた。
「彼女は陽動に過ぎません。SASも分かっている。だからさっき、一人──ジョシュアだったかな。彼を本体に合流させたのでしょう。もうウェールズからSAS小隊全員が到着しているでしょうし、お連れ様が救出されたと知った以上、間もなく戦闘に入るでしょうね」
 途中で一人いなくなった隊員を思い出し、キリコは口の中で罵りの言葉を呟いた。BJがジュードとベネット、ギルヴィットを交互に見る。直感でキリコは「知らない奴に」と言った。BJは何かを知っている。確信だった。そしてその確信は正しかった。BJは知らない隊員──ギルヴィットに向かって告げた。
「2階から上、IRAが入り込んでる。各フロアに3人ずつ。──誰かがひとつだけ起爆装置を持ってる」
「根拠は?」
 緊張し、かつ落ち着いた声でギルヴィットが問い返す。優秀な軍人の声だ。BJはレイチェルを見た。
「彼女が教えてくれた」
 BJを押さえ付けながら、なぜかレイチェルは話し続けたのだ。なぜ自分がこんなことをしているのか、IRAと関わった理由、いかに自分が崇高な目的を持ち、キリコが必要であるかを。
「──発信、ギルヴィット、緊急」
 無線のスイッチを入れたギルヴィットとベネットの下で拘束されていたレイチェルが叫んだ。
「キリー!」
 キリコは返事をしなかった。レイチェルはまた叫んだ。
「逃げて!」
 血を吐くようなその叫びに、BJは心底の寒気を覚えた。鳥肌が立った。本当に、と思った。本当に──まだ愛してるんだ。このひとは、まだ──
「レイチェル」
 BJの物思いなど気付かない、否、気付かない振りをしてキリコは言った。それは宣言だった。
「俺はキリコだ。間違えるな」
 咄嗟に返事ができないレイチェルを一瞥した後、BJを促して立ち上がる。そのままサロンを出ようとBJの腰を抱いた時、レイチェルは絶叫した。
「許さない。──許さない! そんなの! あなたがあの時、わたしの話を聞いてくれていれば良かったのに!」
 お客様、とジュードが二人を促した。有能なフロアアテンダントはレイチェルの存在などもはや目に入らないように静かに言った。
「SASの隊長が間もなく特定周波数を割り出し、無線を最大にして飛ばします。起爆装置の無線を無効化するためです。失敗すれば爆発物が起爆するでしょう。どうぞご避難を。──ドクター・キリコ、特にあなたは」
「根拠は?」
 BJは馬鹿馬鹿しいと思いながらも問うた。そうだ、全てが馬鹿馬鹿しい。恋人の昔の女のためにこんな目に遭っている自分も、ここにいるジュードも、ジュードを睨み付けるギルヴィットも、キリコに手を伸ばそうともがくレイチェルも。
 馬鹿馬鹿しい。そう思った
 ジュードは言った。
「私ならそう致しますから」
 同時に遠くで銃声が響いた。ほどなくして短機関銃の音も怒号も追い掛けてきた。
 映画やドラマのような派手な音ではないと、BJもキリコも知っている。まるで子供が遊びで使う豆鉄砲のような音が遠くで響いた。実際の銃撃戦などこんなものだ。だがこの音こそがいとも簡単に生命を奪うものだと、二人は嫌と言うほど知っていた。
「ジュード──爆弾のことで交渉するなら違うかな。SASの人」
「俺だよ」
 ギルヴィットがBJの呼びかけに返事をする。BJは頷き、前置きを省いて要求した。この男なら、この男たちなら、前置きなどなくても重要事項だけを聞くと分かっていた。
「ギルヴィットだ。よろしく」
「ブラック・ジャック。──私なら起爆係がいる場所を教えられる。報酬はテムズ川のランチクルーズ、私とキリコの貸し切りで。もちろん何のトラブルもなしでね」
「起爆装置を止めたって誰かが死ぬわよ」
 レイチェルが呻いた。呪詛さながらのその声は恨みに満ちていたが、その恨みが誰に向けられたものか分からず、キリコは不審を抱いた。BJへ向けたものでも、そして自分へ向けたものでもないと感じる。レイチェルは続けた。
「IRAに見えない誰かが死ぬわ。起爆装置を取り上げられたら自殺する予定になってるの。アイルランド系の苦しみを知らない連中に見える誰かが、他の白人どもにアイルランド系の人間を軽んじられた理由で死ぬのよ。──殺すのはIRAじゃない。アイルランド系を差別した連中よ」
 沈黙が降りる。どういう意味であるかを理解できない者はこの場にいなかった。イギリス人であるギルヴィットは息を呑み、被差別経験がないとは言えないヒスパニック系アメリカ人のベネットも同様だ。ジュードは眉ひとつ動かさなかった。だがキリコは静かに言った。
「そんな話は法廷なりあの世でしろ。おまえたちの組織の誰かがイギリス人の振りをして死んだところで、99%のアイルランド人は意に介さないし、1%のアイルランド人は手応えのなさに歯軋りをするだけだ」
 なあ、アンディ。キリコは陸軍病院で休養している特殊部隊員に心の中で呼び掛けていた。99%は善人だ、1%のせいで迷惑を被る──おまえはそんなことを言ったな。
 だからだよ。
 だからおまえはグレイスとの結婚をグラディスに認めさせられないし、あいつはおまえを遠ざけるんだ。
 おまえがあまりにも綺麗事を信じるから。
 特殊部隊員として、あまりにも優しいから。
「99%が興味を持っていないか、精々迷惑に思っているだけなんだよ。──1%のおまえらのことなんて」
 遠くで銃声が聞こえる。断続的に響くそれは徐々に上階を目指している。SASがIRAを制圧し始めている証拠だ。
 レイチェルが叫んだ。今度こそあらん限りの憎悪を全て込め、愛した男に叩き付けた。
「あなたがわたしを受け入れていれば! ──安楽死をもっと世間の人に知ってもらうためにわたしと活動してくれれば! こんなことにならなかった!」
 ああ、とキリコは思った。まさにそれが過去、二人の間に溝を作った原因だった。BJに聞かせたくなかった。詳細を求められてもどう話せばいいのか分からないほど、あの日々の諍いは酷いものだった。話すべきかどうか──
「そんなの」
 思わず迷った──動揺したと言ってもいい──キリコが反応する前にBJが言った。それはいつも通り真摯な口調で、そして正しかった。だがレイチェルを刺激し、怒りを増幅させるには充分すぎる効果があった。
「キリコに求めていいことじゃなかった」
「──知った口を──この──XXXXX!」
 途端にレイチェルが法で禁じられた下卑た単語での罵声を喚き散らして暴れ狂い、ギルヴィットとベネットが渾身の力で抑え付ける中、あまりの暴れように思わずキリコはBJをレイチェルから遠ざける。それが増々レイチェルの怒りを煽った。
「重要な会談中に悪いんだがいいかい、女王様」
 無線連絡を終えたギルヴィットが割って入る。女同士の戦いが恐ろしくてたまらないというようにわざとらしく身を震わせてからBJに言った。
「貸し切りクルーズOK、トラブルがないようSASが護衛するって隊長が確約した」
「え、そんな護衛いらない、もっとましな小隊ないの?」
 本気で嫌な顔をしたBJにベネットが思わず噴き出し、キリコも苦笑せざるを得なかった。苦い顔になりつつも民間人を巻き込んでいる立場のギルヴィットとしては何も言い返せず、代わりにジュードが笑顔で言った。
「では今度こそ参りましょうか。ミカエルと直接お話しなさる方が良いでしょう。もう無線を一度止めるはずですし、工作隊にその時間を取らせないといけません」
「何よ!」
 レイチェルが叫んだ。ジュードへの叫びだった。
「あんた、何なのよ!」
「エントランスフロアのアテンダントでございます」
 ジュードはキリコとBJを目で促し、今度こそサロンを出て行く。キリコはBJの背に手を添えて、やはり促そうとした。レイチェルが叫んだ。哀れな声だった。
「行かないでよ!」
 愛した男の今の女に向かって叫んでいた声とは全く違った。余りにも哀れで縋る女の声は、きっとこんな場でなければ誰をもの心を抉っただろう。
「キリー、お願い、行かないで!」
 だがその身を拘束している特殊部隊員の男たちは感情を殺す術を知っているし、キリコはもはや彼女に一片の情も抱くことができない。
 BJだけが違った。BJは静かにキリコに言った。
「爆発物の件は私がいれば足りる。彼女と話を」
「──マフィン、もうそういう段階じゃないんだ」
 レイチェルは逮捕され、裁判にかけられる。昔の女だの男だの、そして別れた理由だの、今更振り返る理由はない。裁判ではキリコの存在に触れられる可能性があるが、確実にグラディスが大統領を通じて手を回し、アメリカ側から強い圧力をかけるはずだ。つまり二度とレイチェルと関わることがないと言える。
「ハン」
 きつい口調でペットネームを呼ばれ、キリコは思わず黙る。BJは厳しい顔で通告した。
「家のトラブルは男が片付けるんでしょう。二度と彼女を傷付けないで」
 それだけを言い、BJは先を歩くジュードを追い、「マカロン食べたい」と声をかけていた。ジュードの承諾の返事が聞こえた。
 キリコは半ば唖然としてBJの言葉を反芻し、やがて凄まじい自己嫌悪に襲われた。
 二度と彼女を傷付けないで。
 どうしてそんなことを──どうしておまえはそんなことを言えるんだろう。そう思った。そんなことを口にできる恋人が愛しいと思った。同時に、過去の女を傷付けてでもBJを守ろうとしていた自分を振り返った。
 BJがそこまでの行為を望むはずがなかったと、別のやり方もあったはずだと初めて気付いた。
 俺は駄目な男だ、と思った。
 意地を張らずにさっさとロンドンを出ていれば良かった。いくらでも行き先はあった。BJが嫌がったから? ──違う。それは言い訳だと本当は分かっていた。自分自身、キリコ自身の意志だった。本当はどうしてもロンドンに留まりたかった。あの店でレイチェルを見た瞬間に決めていたのかもしれない。
 ──過去から逃げたくなかった。ロンドンから出たら、この女を理由に出たら、過去に負けるのかと思って。
 レイチェルを見る。
「キリー」
 屈強な男二人に拘束され、昔の男に縋る目を向ける姿は信じられないほどに、あの日々、恋をした彼女とは思えないほどに弱く見える。
「アイルランド系だからって、どこでも差別されてたわ。白人なのに、白人に差別されるのよ。軍にいた時も。守ってくれたのはあなただけだったのよ」
「そうか」
 ああ、そうか。思い出した。話をするべきだった。要求を伝え合うだけではなく、少しばかり昔の話をするべきだった。今の話を聞いていればきっと思い出せただろうに。
 二度と彼女を傷付けないで。BJの声を思い出す。
 レイチェルは言った。泣き声だった。
「あなたがベトナムに行っている間にIRAと関わって、爆発物を調達する立場になった。ベトナムの時なんて混乱しっぱなしで、いくらでもアメリカで調達できたもの」
「そうだろうな」
「でもあなたが帰ってきて、一緒に暮らしていた間は何もしなかった。本当よ」
「そうか」
「あなたの安楽死の仕事にだって、反対したことなんてなかったじゃない」
「そうだったな」
 反対はしなかった。そうだ。この女はそうだった。
 だが許せないことを考え、提案した。
「おまえは」
 俺の神聖な仕事を──そうだ。あの時、俺はこの女を憎んだ。
「俺の神聖な仕事をビジネスにしようとした。大金を稼ぐために組織化しようと持ち掛けた。許せることじゃなかった」
「あなたの仕事でしょう。ビジネスと何が違うのよ。苦しんでる患者を救うことには変わらないじゃない!」
「──稼いだ金をIRAに流そうとしていたのは誰だ」
 レイチェルは目を見開き、絶句した。ギルヴィットが瞬時、憎悪の目を拘束する女に向けた。イギリスを脅かすテロ組織と戦う小隊の者として当然の反応だった。だがすぐにその感情を殺し、再び優秀な軍人の顔になる。横目で見たベネットは、他国の小隊ながらギルヴィットを高く評価した。
「そんなこと──」
「おまえと別れた後、おまえが逮捕された話を聞いたよ。闇の連中が気を利かせて俺の耳に入れたからな」
 二度と彼女を傷付けないで。
 BJの声が脳裏をよぎる。
「勤めていた病院での殺人未遂罪──安楽死ビジネスに失敗したってことも。証拠不十分か捜査がいい加減だったのか、俺の知ったことじゃないが。患者も死ななかったし、殺人未遂で済まされた」
 ごめんね。心の中で謝った。ごめんね、俺のおまえ。
「凶器準備集合罪はIRAに渡すための爆薬所持の容疑だった。これは証拠不十分で不起訴になった」
 俺の優しいおまえ。
 こればっかりはおまえの頼みでも聞けないよ。
「まさか俺と別れた直後に逮捕されるなんて思ってもみなかっただろう」
「そうね。驚いたわ。捕まるような証拠を残してたなんて思わなかったもの」
 キリコは笑った。あの時言えなかったことを今、レイチェルに言うべきだと思った。
 笑って言った。
「おまえが消した証拠を作り直して、俺が通報したからさ」
 おまえは俺の仕事を穢した。俺の神聖な仕事を。罰をくれてやらなきゃいけなかった。
 証拠が足りなかったなんて。あの時、もっと憎んでいればよかった。
 どこかで憎み切れなかった。
 BJにこれだけは言えない。言ってはならない。
 ──俺はこの女を愛していたわけじゃなかった。言い訳じゃない。今なら分かる。
「嘘よ。──嘘よ、キリー、嘘よ!」
 全てを理解して絶望した女が断末魔の如き悲鳴を上げる。ひとかけらも心が傷まない自分を不思議だとも思わず、キリコは言った。
「おまえとまた会って、やっと分かったよ。俺は馬鹿だった」
 そう、今なら分かる。
 今だから分かった。
 ベトナムから戻ったあの時、密林の中で出会った医学生も、生涯決して忘れ得ぬ美しい女もいなかった。
 傍に誰もいなかった。必要とも思わなかった。するべきことは。神聖なる仕事は。するべきこと、考えることが多すぎた。左目の奥に抱える生命と記憶が泥濘のように纏わり付く日々、あれは孤独の日々だったのだと今なら思う。
 また、BJの声が脳裏をよぎった。
 二度と彼女を傷付けないで。
 ああ、と思う。ああ、──ああ。可愛い。俺の。優しいおまえはきっとあの密林の中でも同じことを言っただろうね。
 ごめんね。
「馬鹿だったし、今の今まで勘違いしてた。俺はおまえを愛していたって思い込んでたんだ。とんだ勘違いだ。仕事に集中するべきだったのに、どうしても人間の生活をしなきゃいけない時間があったものだから」
 こればっかりは、聞いてやれないよ。
 憎み切れなかった理由なんて簡単だ。
「セックス付きの飯炊き女なら誰でも良かったんだ」
 憎むほど、愛してもいなかった。
 最初に言わなくて済まなかったな、とキリコは笑い、煙草に火を点けた。
 それがこんな面倒を起こす女だったなんてな。俺は馬鹿だった、本当に。おまえと恋愛したなんて勘違いで、とんだトラブルだ。
 レイチェルは絶叫した。嘘よ。そして泣き喚いた。嘘よ。嘘よ。身も世もない泣き方だった。キリコは煙草を深く吸い、細く、長く吐き出した後、あいつもそんな泣き方をするよ、あいつが泣くと本当に可愛いんだ、と言って笑った。
 その笑みを見たベネットとギルヴィットが思わず目を逸らせたことには気付かなかった。
 ビッグ・ベンの毎正時が聞こえた。
「ああ」
 また細くて長い煙を吐き出し、優雅な床に煙草を落として踏み消す。誰も聞いていないと分かっていながらも言った。
「ジュードの休憩時間だ」


「ところでお客様」
「ん?」
 歩きながらマカロンを口に運び、BJは医療鞄を持って先を歩くジュードの呼び掛けに答える。ジュードは振り返らず歩き続けていた。
「本物の起爆装置はどちらに?」
「ミカエルに言うのにおまえさんにも?」
「彼だけでも構いませんが、私も存じておきたいものですから」
 BJはやや考える。ジュードのことは嫌と言うほど知っている。不本意だが彼の性格も大体は分かっている。この状況で知りたいと言うのなら──結論はすぐに出た。答えるべきだ。彼は何かを知っている。
「報酬は?」
「ラデュレのマカロンを全種類、もちろんシーズナルも」
「──レイチェルは6階、でも誰が持っているかは知らないって言ってた」
「恐れ入ります。大体分かりました。少々失礼」
 ジュードはぴたりと足を止めた。やや遅れてBJも止まる。明らかに耳を澄ませている気配を感じ、口に挟んだマカロンを噛まず、じっとしておいた。唇で徐々に溶けてじんわりと広がる甘みに陶然としそうだが、今はそれどころではないと理解し、味覚を無視する努力に励む。
 銃撃の音が聞こえた。短機関銃だ。複数の連続音の位置をジュードは聴覚で計測している。それから「遅いな」と独りごち、BJを振り返り、マカロンを咥えた姿を見て一瞬呆れた目になった。まあそうだろうよ、とBJは納得し、今度は遠慮なくマカロンを噛んだ。
「遅いって何が?」
「あの音だとまだ5階手前の階段ですね。上階の制圧に時間がかかりすぎです。──起爆装置の無線の無効化作業はおそらく5階、最も無線の操作がしやすく、電波が途切れない広いフロアです。子供服のフロアですから高いオブジェや鋼鉄製の置物がないため、店内で無線操作を行うには理想的なのです」」
「よく知ってるな。流石は人気者のフロアスタッフ」
「ありがとうございます」
「よく言うよ。そろそろ鬱陶しいよ、おまえさん」
 最後のマカロンを齧り、BJは眉を顰める。ジュードは涼しい顔だ。
「申し訳ございませんが、ご案内はここまでご寛恕下さいませ」
「何で。ミカエルがいる場所まで連れて行ってくれるんじゃなかったのか」
「事情が変わりました。私は6階へ行く仕事を優先しなければ。──ここから4階までは既にSASが制圧しています。危険はありません。どうぞご安全に」
 BJに医療鞄を返し、ジュードは走り出した。BJはしばらく考えた後、マカロンを口に押し込み、ジュードの後を追った。ヒールじゃなければもっと速く走れるのにともどかしく思うBJの視線の先で、電源を落としてあったエレベーターの非常用電源スイッチのカバーをジュードが蹴り割った。
 ジュードがエレベーターに乗り込み、扉が閉まる直前にBJは滑り込む。ジュードが驚いた顔で何かを言いかけたが、扉が完全に閉じる前、ビッグ・ベンの毎正時が鳴った。
その瞬間ジュードは深く溜息をつき、呆れ果てた声で言った。
「何してんのさ、先生。ミカエルのとこ行きなよ。ったく、ベネットが逃げろってメモ渡したでしょ」
「お、休憩か。やっと鬱陶しい接客が終わってくれた」
 BJは笑い、既知の男に本音を言う。正体を知っているからこそ、あの完璧な接客が鬱陶しくて仕方なかった。
「1時間すれば休憩終わりだから、またやってあげるよ」
「もういいよ、あれ鬱陶しい」
「ヒール折って泣きべそだった女性の言うこっちゃないね」
「泣いてない!」
「ええ、ほとんど泣いてたよ、あれ」
「泣いてないってば!」
 通常の電源よりもゆっくりと動くエレベーターの中、髪を黒く染めた赤毛の少佐はどこからか取り出した煙草を咥えて火を点けた。BJも同じことをする。
「黒いけど赤毛」
「赤毛って言うなって言ってもどうせ言うんだろうね。何」
「どうせ秘密なんだろうけど、こんなことして何の任務だ。アメリカのデルタ隊長がイギリスのハロッズの店員なんて。しかも結構真面目に仕事して」
「言うわけないでしょ。ったく、ドーハの面倒の時はここから急いで指示しなきゃいけなかったし、ほんっとめんどくさかった」
「それは私たちのせいじゃないし。──6階に一人で乗り込もうって? おまえさん、馬鹿じゃないか」
「馬鹿に馬鹿って言われたくない。4階で止めるから降りてSASと合流して、ミカエルに話をするといいよ」
「無理だね」
「ああそう、じゃあ死んでも知らないよ」
「起爆装置の持ち主の目星は?」
「ついてる。違っても全員殺せばいい。1フロアに3人だし、しかも大体SASの方に集まってるだろうし、何とかなるよ」
 殺すと聞き、BJは返事を控えた。今言えば綺麗事にしかならないと分かっていたし、言ったところでこの男は鼻で笑うだけだということも分かっていた。
「もう着くよ」
 グラディスが階層表示パネルを見上げる。BJも釣られて見上げた。
「一人見上げると絶対全員見るのって面白いよな」
「僕と先生しかいないから分母がおかしい」
「例え話だ、馬鹿か」
「馬鹿に馬鹿って言われたくない」
 同時にエレベーターが止まる。4階だ。ゆっくりと扉が開き、顔を目抜き帽で隠した男2人がそれぞれ斜め横から短機関銃を正確な姿勢で構えていた。予想していた二人は動じることもなく、BJに至っては自主的に両手を挙げた。肘にかけた医療鞄が重い。この持ち方は嫌いだったが今は仕方なかった。
 隊員二人が口を開く前にグラディスが言った。
「外交特権で入国している。この女性をミカエル隊長のところまで連れて行ってくれ」
「え、何それ。外交特権って、おまえさんが?」
「先生に説明する義務ないし。──意味が分かるか。きみたちはそのスターリングを今すぐ降ろさなきゃいけない。3秒待つ」
「何で3秒」
「ドアが閉まるから」
「あ、ほんとだ」
 早速扉が閉じ始める。スターリングと言う名称の短機関銃を降ろした隊員たちが冷静に足を挟み、扉を再び開かせた。
「じゃあ先生、行って。またね」
「いや、私も行くって」
「何で。邪魔なんだけど。まじで」
「──お取り込み中悪いんだが、話していいか」
「所属と階級」
 それなりに礼儀正しく声をかけた隊員に、グラディスは素っ気なく返した。もう少し友好的にできないのかよと思うBJの前で、隊員は頷いてやや背筋を伸ばした。
「第22SAS連隊A中隊、伍長。名乗りはご勘弁願う」
「第22SAS連隊A中隊、上等兵。同じく」
「ありがとう。アメリカ合衆国第1特殊部隊デルタ作戦分遣隊隊長、少佐。必要ならミカエル隊長に面会を。不要なら彼女の保護を依頼し、私はこのまま失礼する」
「失礼致しました!」
 途端に隊員二人は直立不動の姿勢を取った。再び扉が閉まりかけたが、抑えていた隊員の足がなくなっていたものだから、やや慌てたBJが内部の「Open」のボタンを押したのだった。
「偉そう、赤毛のくせに」
「佐官ってどこの国でも偉いんだよ。いい加減覚えてよ」
「いや、私の人生に全然関係ないし。ところでおまえさん、デルタフォースじゃなかったのか?」
「それ通称。ってか、今この雰囲気で訊ける先生ってやっぱり頭おかしいと思う」
「キリコの前で言えるのかよ」
「余裕。一回降りて。そのままオープンボタン押し続けられてるのもしのびない」
「おまえさんが押してればいいんじゃないか?」
「この状況で? 僕が? 今すっごい国際的な問題になりかけてる状況なのが分かんない?」
「知るか、そんなもん」
「ほんと医療以外はからっきしのクソビッチだな!」
「口を縫うぞ、アホ赤毛! ハゲを助けてやったのに!」
「誤解されそうなこと言うのやめてくれない!?」
 言い合いながら結局二人でエレベーターを降りる。隊員たちは道案内のために先を歩き出しながら、この二人は緊迫した状況を意に介していないのだろうかと思った。
 吹き抜けを見下ろせる通路を歩きながら、グラディスは唐突に日本語を話した。SAS隊員たちに知られないためだ。
「どうして付いて来たの」
「え、日本語上手くなってる、気持ち悪い」
「はぐらかさないで。あまり時間がない」
 BJは観念して息を吐き、近くなる銃声を聞きながら答えた。
「おまえさんと話したかった。キリコの前では言いたくなくて」
「どんな理由で?」
「レイチェルを殺さないで欲しい」
 僅かに沈黙した後、グラディスは答えた。
「デルタの任務は彼女の身柄拘束と本国への連行だから、殺す予定はないよ」
「SASが殺すかもしれない。隊長とどうにか話をつけてくれないか」
「SASが殺す可能性がないとは言えなかった。でも既に身柄を拘束した以上、殺す理由がない」
「グラディス」
「何」
 隊員たちに日本語が分かるはずがないと理解しながらも、BJは声を潜めた。その程度には口にすることに勇気が必要な話だった。察したグラディスが歩調を緩め、僅かに身体をBJに傾けてみせる。BJは言った。
「SAS隊員は対テロ部隊だ。テロリストに対して有効だと判断すればどうなるか分からない。──変な理由じゃないけど、確約が欲しい。レイチェルを殺させたくない」
 グラディスは何も言わず、姿勢と歩調を戻して歩く。BJは尚も言い募ろうとしたが、目抜き帽を外しながら歩いてくるミカエルを見、口を閉じるしかなかった。
 二国の特殊部隊隊長は挨拶も交わさず、実務的な話を始める。二人で吹き抜けのフロアを見下ろせる位置に立ち、BJには何かを話し合っているように見えた。そしてグラディスがBJのことを示し、ミカエルに視線を寄越されたことに気付く。何だよ、と声をかける前に、二人はまた話し込み始めてしまった。暇だったので案内させた隊員たちに「怪我は?」と訊いた。彼らは律儀に「ありません」と答えた。優秀で結構、面白みがないと思った。やがてグラディスが戻って来た。
「話はついたよ。レイチェルは殺さない」
「──ありがとう」
 心からの安堵の息を吐くBJに、グラディスは溜息をつく。
「彼氏の昔の女にお優しいね」
「それでも生命だ」
 その言葉にグラディスは何も言わなかった。言ったのは別のことだ。
「ミカエルに、起爆装置のこととは別にお礼を言うべきだと思うよ。こんな決断、彼の立場でするのは結構勇気がいるからね」
「そういうものなのか?」
「殺さないってことは、殺しちゃいけないって意味になるんだ。もしもレイチェルが酷く抵抗したり、例えば自爆テロをして彼の部下ごと死んだとしても、責められるのは彼、無能なのは彼ってことになる。隊長ってそういうもん」
 僕ならこんな話は絶対御免だね、と付け加え、グラディスは煙草に火を点けて、慌ててミカエルの元へ駆けて行くBJを見送った。それから隊員二人に「お手洗い」と言ってから姿を消した。
 この状況でかよと隊員二人は呆れたが、ハロッズの制服姿のデルタフォース隊長が本当にレストルームへ入り、やがて出て来たことを確認し、図太いんだろうな、と視線を交わして頷き合ったのだった。
 BJから礼を言われたミカエルは「まあ、うん」と何とも居心地悪そうな返事をした後、それよりも爆発物の話を、と促した。
 BJはレイチェルから聞かされた起爆装置の話をし、ミカエルは厳しい顔になる。失礼だが、と言い置いた後、2回ほど同じ話を繰り返させた。
「ありがとう、先生。何回も同じ話をさせて申し訳ない」
「警察の取り調べで慣れてるから平気。気にしないで」
「警察」
「日本で何回か逮捕されてて、アメリカでも1回。平気平気」
「……なるほど」
「あ、逮捕されたけど証拠不十分で前科はついてないから、入国には問題ないよ」
「……そう」
 何をどう言えばいいか分からないといった顔をしたミカエルを救うつもりもなかったのだろうが、部下の一人が「5階の制圧が可能です」と報告に来た。途端にミカエルは再び隊長の顔になり、BJに「ありがとう」と言う。
「私たちは作戦行動に戻る。ご主人と早急に建物を出て避難して欲しい。外で警察と軍が周辺の立ち入りを禁止しているはずだ。必ずそのエリアの外へ」
「結婚してないけど」
「事実婚と言う認識をしている」
「そんなもんかね」
「護衛に一人つける。優秀な隊員だ、心配は──」
「あ、グラディスに送ってもらうから。平気」
 吹き抜けの手すりに寄り掛かり、二人の話が終わる時を手持ち無沙汰で待っていた赤毛の男を示す。ミカエルは一瞬表情を消した。面白くないんだろうな、とBJは思ったが、ミカエルの申し出を受ける気になれなかった。
「こういう作戦なら一人でも多い方がいいかと思って。グラディスには慣れてるし──わたしはちょっと、知らない男性が苦手だから」
「──それは失礼した。本当に先生には失礼ばかりで」
 思い至らなかった事情にミカエルは自分を恥じる。女性の機微に疎く、短い間に何度もBJに無礼を働く自分に嫌気が差した。反省振りを見たBJはやや彼が気の毒になったが、作戦に集中して欲しいことも確かだ。
「少佐、失礼。我々は作戦行動を継続する。先程の話通り、貴官と貴官の部下はご退場願いたい」
「レイチェルの身柄は政府高官同士で話をつけてもらう。間違いないね?」
「二言はない」
「結構」
「それから先生の安全を。先生の希望だ」
 グラディスは一瞬鼻白んだが、涼しい顔でミカエルの隣に立つBJを見て、口の中で「クソビッチが」と呟いた後、「承った」と理想的な軍人の返事をしたのだった。
「無線が使えなくなる時間は?」
「5階制圧後、即座に。15分後の予定だ。部下に連絡をするなら今のうちに」
「ありがとう。ご武運を」
「ありがとう」
「先生、行くよ」
 言うなりさっさと身を翻し、エレベーターへ向かうグラディスをBJは半ば走って追った。ヒールだと走りにくい。エレベーター付近には誰もいなかった。全隊員が作戦行動に出るのだから当然だ。
 エレベーターに乗り込み、グラディスがボタンを押す。扉が閉まり始めたその時、今までで最も大規模な銃撃音がフロアに響いた。
「先生」
 グラディスが溜息混じりに言った。
「どうして来るのかなんてもう訊かないよ」
「そうしてくれると助かる」
「生命の保証はできないからね」
「分かってるよ」
「降りたら必ず僕の後ろに。非常階段から6階に駆け上がる」
 背後のベルトに隠してあった銃を取り出す。BJは別に驚きもしなかった。どうせフロアのどこかに隠していたのだろうし、正解だった。
「どこに隠してたんだ?」
「4階のレストルーム。一応各階にあるよ。後で回収しないとな」
「ミカエルの立場は?」
「どうせミカエルも僕の背中の銃には気付いてた。放っておいたってことは好きにしろってことさ。彼、間抜けに見えて策士だからね。僕と先生を駒にするつもりだ。──いいとこ手駒、死んだって捨て駒さ」
 BJは答えなかった。礼儀正しい真面目な男への評価として正しいとは思えなかったが、確かにそうかもしれないと思えたことは事実だった。ミカエルは自分を部下に送らせると言い、BJはそれを拒んでグラディスがいいと言った。その瞬間にミカエルは考えを切り替えたのだろう。
 ──私がグラディスと死んでも構わないって、あの男は決めたんだ。
 恨もうとは思わないし、むしろ自分の我儘でミカエルに負担をかけたことを申し訳なく思う。だがどうしても、SASが起爆装置を無効化する前に6階へ行かなければならなかった。
 エレベーターが到着のチャイムを鳴らす。5階──SASが制圧作戦を行う真っ只中へ到着した。
「5階。非常階段から行く。女医も一緒」
 これも隠していた無線を装着して発信し、グラディスがBJを振り返りもせずに走り出した。一言くらい言って行けよと毒づきながらBJは後を追った。
 短機関銃の音がフロアに響き渡る。怒号はIRAのメンバーだ。SASは冷静に、訓練された通りの動きでテロリストを制圧にかかる。
 各フロアに3人いるはずのIRAはSASと交戦し、追い詰められている。もしかすると下の階から、あるいは上の階から合流した者たちもいるだろう。場合によっては10名以上に及びかねない。数で上回るとは言え階下からの制圧は難易度が高い。SASが慎重になり、時間がかかるのは当然だったが、確実にIRAを後退させていた。
 グラディスが選ぶ道は的確で、交戦中の内部の階段からは遠ざかる一方だ。たまにBJを振り返り、無事を確認してからまた進んだ。銃を使うことは一度もなかった。
「上へ。もう一回言う。必ず僕の後ろにいること」
 非常階段への防火扉を開き、それからグラディスは笑った。
「下を見ない方がいいよ」
「遅いよ、馬鹿」
 安全のための柵はあるが剥き出しの、しかも5階の階段の踊り場となれば、うっかりでも下を見ない方が良かった。吹き上げる風に顔をしかめ、眩みそうになった視覚を誤魔化す。
 ハロッズの周囲にぐるりと警戒線が張られ、警察車両や軍事車両が周辺を囲んでいる。野次馬の数も相当だった。壮観と言えば壮観だ。非常階段に出た二人を見つけた野次馬たちが何事かを叫んでいるようにも見えたが、構っている暇はなかったし、グラディスの立場からすればさっさと移動してしまいたかった。
「歩ける?」
「馬鹿にしなさんな、驚いただけだ」
「僕に掴まらないでね」
「手すりの方が信用できる」
 非常階段を上がりながら、BJは先を行くグラディスの背中に声をかけた。
「納得してるのか」
「何が?」
 グラディスは振り返らない。
「ミカエルが私たち──おまえさんを捨て駒にする話」
「納得する、しない以前に、僕は仕事をしないといけないからね。それが彼にとって良い方向に作用するなら恩を売れる。失敗したら僕と先生は死ぬけど、死んだら悪口なんか聞こえないからどうでもいい」
「ふうん」
 言われてみればそうだ、と思った。グラディスの言うことは乱暴だが正しい。
「仕事って、レイチェルの確保だけじゃなかったのか?」
「SASに恩を売る」
 BJは眉をひそめたが、グラディスはそれ以上説明しなかった。BJは知りたいとも思えなくなった。武力を積極的に受け入れたいとは到底考えられないBJにとって、軍人同士の鞘当などくだらないことにしか感じられない。
 グラディスが6階の非常扉に手をかけ、一度動きを止めて無線を受けた。
「受信──は? もういっぺん言ってみろ、冗談でも本当でも殺すぞ」
 この口の悪さだけはジュードの時の方がましだったな、とBJは思いつつ、下を見ないようにしながら通信の完了を待つ。やがて低い声で無線の向こうに「6階で合流、会ったら殺す」と言って通信を完了させたグラディスが、深く溜息をついてBJを振り返った。
「残念なお知らせです」
「言ってみろ」
「ラデュレに武装した男が現れて、ベネットとあのSAS──何だっけ、ギルヴィット。彼らを制圧した」
「……それで?」
「今度はドクターを人質にしてレイチェルがその男と逃げた」
 ビッグ・ベンが鳴った。その音がBJの呟きを隠した。
 “SASもデルタも役に立ちゃしない”。