午前中の用事は済んだ。ジェームズ・ストリートにいる信用のおける人間にレイチェルの監視を頼んだのだ。表向きはオーダーメイドの帽子屋だが、客は自分と同じような用事の人間ばかりだとキリコは知っていた。もう一つの目的である香水を購入し、小洒落た紳士の通りを楽しんで時計を見る。11時半だ。待ち合わせの時間まであと1時間、まだ部屋にいるだろうか。一度電話を入れて機嫌を取れば喜ぶかもしれない。
そして数分後、タクシードライバーはこんな客を拾うんじゃなかったと後悔する。不機嫌と殺気を隠そうともしない銀髪隻眼の男が、低い声で「フォーシーズンズ」とだけ告げれば当然だった。
キリコは湧き上がる殺意をどうにか堪える。ドライバーが既に縮こまっている姿を見て、感情制御に失敗したと気付いた。
電話に出たのはバトラーだった。たった今、ほんの数十秒前にお休みになられまして、と言われ、何があったのかを聞いた。詳しい事情はバトラーも知らなかったが、ハロッズで何かがあった、おそらくそれが原因で──そう説明された。15分ほど眠る薬を自分で射っていたと聞き、あの薬か、と思い出した。前回のロンドンで取り乱したBJに射ってやった薬だ。15分ほどで目が覚める。鎮静剤代わりに使うことも少なくない。
靴のことを聞いた。怒るはずがないと言うと、それはもちろん存じております、と静かに言われた。ただ、とてもお気になされていたものですからと付け加えられた。
「着きましたよ」
「ああ、すまない、ありがとう」
怯えさせた詫びを含めて多めの料金を払い、ドアマンに扉を開けられてタクシーを降りる。ビッグ・ベンが鳴った。うるさい、と感じたのは初めてだった。
正面玄関へ入ろうとした時、声をかけられた。ジュードだ。老舗の百貨店の制服姿のまま、彼は息を切らせ、汗をかいていた。それが珍しいと知っているキリコは眉を顰める。
「どうした」
「これを」
深緑に金色のロゴマークが入った袋が突き出される。ハロッズの袋だ。
「何だ?」
「靴を」
「──ありがとう」
一瞬で全てを理解したキリコの礼を最後まで聞かず、ジュードは身を翻してまた走り出した。勤務中の僅かな休憩時間に抜け出して来たことは見て取れて、タクシー代くらい渡してやればよかったかもしれないとキリコは思った。だが制服姿で乗るわけにもいかないのだろう。何より彼は受け取らないはずだ。
フロントでバトラーが待っていた。キリコの姿を見て礼をし、お帰りなさいませ、と挨拶をする。
「もうお目覚めになられているかとは思いますが、お呼びがございません」
「迷惑をかけた。また後でお願いすることがあるかもしれない。その時はよろしく」
「お待ちしております」
ハロッズに出かけてブーツのヒールを折った。それを気にしてひどく取り乱した。自分で麻酔薬を射って眠った。バトラーが語った事実はこれだけだ。だがバトラーは遠回しに、外出した時に何かがあったのかもしれないとキリコににおわせた。キリコも同意だった。ヒールを折ったくらいでそこまで取り乱す必要はないし、自分の性質を知っているBJが、靴を置いて来たことを怒られると気にするはずがない。
「マフィン?」
部屋に入るなり声をかけた。返事はなかった。リビングにもテラスにも姿がない。まだ寝室だろうと予想し、先にジュードが届けた靴を見た。
ヒールを直されたあのショートブーツが入っていた。時間から考えると、かなり急ぎで直させたはずだ。誰が指示したかは確信を持って言うことはできないが、息を切らせてまで走って届けたのであれば、ジュードである可能性が高い。
寝室へ入ると同時にBJが起き上がった。ぼんやりとしてはいるが落ち着いていることは見て取れる。あの薬はよく効く。ベッドに上がってキスをすると、どうしたの、と驚かれた。キリコは微笑んでもう一度キスをしてやった。
「おまえに電話をかけたらバトラーが出てね。話を聞いて心配になったから」
「──電話?」
「おまえが寝て数十秒後だったらしい。どの薬にした? 俺の?」
「あ、うん、勝手にごめん」
「構わないよ」
使った薬の名前はやはりキリコが予想した通りのものだった。
「靴が」
「うん」
「転んで、ヒールが折れちゃって」
「そうか。怪我は?」
「してない」
「それならよかった」
「靴を捨てて来ちゃって」
「仕方ないよ」
「ごめん」
「何を謝るんだ。分からないよ」
「怒らない?」
「怒るもんか。どうして怒るんだ」
途端に安心したように抱き着いて来る女を抱き返す。昔の男と何かあったのかもしれないが、追及する必要はなかった。自分は怒らない、それだけの話だ。
「それにね」
「え?」
「靴はあるんだ。ジュードが届けてくれた」
「──え?」
「おいで」
リビングに連れて行き、靴を見せる。歓喜の悲鳴を上げるBJなど滅多にお目にかかれない。どうして、すごい、どうしてと何度も繰り返し、涙ぐみさえした。落ち着かせるようにテラスに行き、カウチに座らせる。靴を胸に抱いたまま、嘘みたいと繰り返すBJに「嘘じゃないさ」と言ってバトラーを呼ぶために電話をかけた。バトラーはすぐに行くと言ってくれた。
テラスに戻り、BJの隣に座る。まだ靴を手に持っている姿を見て愛しくなった。同時になぜこんなことになったのか、いつ聞き出すべきかと考える。今はその時ではない。完全に落ち着かせる方が先だ。
「間に合うなんて信じられない。12時半に待ち合わせって言ったから、それで急いでくれたのかな」
ああ、そうか、とキリコは思った。ならば彼は最優先で修理をするよう、店内の職人に申し入れてくれたのだろう。そういう男だと知っていた。好きな男ではないが、彼の人となりはよく知っている。きっとSASは知らない一面だ。
「帰って来た時、ちょうど正面玄関前でジュードに会ったんだ。ハロッズから走って来たのかもしれない。制服で公共の交通機関は使いにくいからな。随分息を切らせていたよ」
「──かなりの距離があると思うけど」
「それでも彼は走って来てくれたのかもしれない」
「仕事中だったのに」
「後でお礼を言いに行こう。修理代金も払わないとな。仕事が終わったら食事に誘ってみるのもいい」
「うん。──うん。信じられない」
「信じていいよ」
バトラーが入室し、落ち着いたBJを見て微笑む。自分の取り乱しようを思い出したBJは恥ずかしさのあまり赤くなったが、それでも適切なケアをしてくれようとしたバトラーに礼を言った。バトラーは何事もなかったかのように紅茶を入れ、靴が直っていることを知って喜び、ハロッズの店員が走って届けてくれたのだと聞いて心底驚いていた。
ビッグ・ベンが鳴った。時計を見れば12時半だ。流石にクルーズにはもう間に合わないと思ったが、バトラーが涼しい顔で言った。
「勝手ながら、アフタヌーンティーのクルーズに振替依頼をしておきました。15時に出発でございますので、ごゆっくりで充分間に合いますよ。ホテルを14時にお出になられれば充分でございましょう」
「──何てお礼を言えばいいか」
感激しきったBJの声に微笑み、職務でございます、とバトラーは誇り高く言ったのだった。
だがその笑顔はBJがぽつりぽつりと話し出した言葉に強張っていく。キリコも同様だった。
「お話の最中、失礼ではございますが──ドアマンは何も致しませんでしたか」
「まあ、うん──彼も驚いたんだと思う」
明らかに顔を強張らせるバトラーを見たのは初めてだ。BJは驚き、キリコはまずここでクレームを入れないといけないな、と思った。高位のホテルマンであるバトラーがドアマンをきつく叱責するはずだが、それとは別に正式にキリコから抗議し、ホテルの記録に残す必要がある。
「まことに申し訳ございません。私どもの指導不足に他なりません」
「あなたは悪くないから謝らないで」
「いえ、下の者の粗相はホテルの恥、私どもの恥でございます」
「そんな」
キリコはバトラーの謝罪に困り果てるBJの腰を抱き、軽く叩くことによって彼の気持ちを受け入れるべきだと教えた。BJは黙って頷く。
「それで、──結局ハロッズまで行って。降りる時に転んでヒールが折れた」
転んだ原因と、タクシーの中でのレイチェルの言葉は言わなかった。正確には言えなかった。闇の連中と話す時ならどうということはない品のない話でも、普段から喜んで口にする性質ではなかった。それに、キリコの前ではとても言えなかった。レイチェルの声が蘇る。セックスが上手いのよ。彼、口でされるのが大好きだもの。
──わたし、そんなのしたことない。
言えるはずがなかった。
可愛い、俺の、って言われるのが一番嬉しかったわ。
──キリコはベッドの中で彼女にわたしと同じ言葉を言っていたんだ。
口にすれば情けないだけだ。きっとどんな恋人同士にもあることなのだから。キリコは笑いはしないだろうし、ともすれば謝ると分かっている。謝らせたいわけではなかった。
「そこでちょっとパニックになりそうで、ジュードにタクシーを回してもらって帰って来た。靴は意地を張って置いて来ちゃった」
「意地を張った?」
「もうこの店で買った靴なんて履きたくないって、そこで脱いじゃって」
思わずキリコは笑った。BJらしいと言えばBJらしかった。啖呵を切る姿も弱い姿も、どちらもBJだ。よく知っていたし、どちらも愛しかった。
「笑わないでよ」
「いや、悪いね。おまえらしくて、つい」
「腹立つ」
拗ね切った声で叩く振りをして甘える姿を見て、とりあえず落ち着いたようだとキリコは判断した。詳しい話を端折った可能性が高いが、今は詳しく言わせるべきではない。
「でもキリコが買ってくれた靴なのに、それにクルーズに行くのにって思い出したらあのざまで」
「嫌なことが立て続けにありすぎたんだ。誰だってショックだよ。──少し何か食べよう。クルーズまで時間がある」
ルームサービスのメニューをめくり、二人で軽めのランチを決める。外に食べに行こうとはどちらも言わなかった。バトラーは丁寧に給仕をしてくれた。
軽い昼食を終えた後、紅茶を入れてバトラーが退室する。キリコはBJがタクシーの中での出来事を話すのではないかと思ったが、BJは話さなかった。やがて冬の日差しと膝のブランケット、小型のストーブの熱に精神的な疲労を慰撫されたBJがキリコに自然ともたれかかってくる。軽い寝息が聞こえ、キリコはしばらくそのままにしておくことにした。
それから考える。まずはホテルへのクレームを入れるべきだ。好んでクレームを入れるたちではないが、言うべき時にはしっかりと伝えなくてはならない。金を持っているだけの容易い客だと思われてはかなわない。あのバトラーならそんなことはないだろうが、他のスタッフに思われては面倒だった。
次にレイチェルだ。タクシーの中で何を言ったのか。あの女のことだ、ろくでもないことを言わないはずがない。そしてあれだけ自分に執着しているのだから──そこまで考えて溜息が出た。BJが嫌がることを言わないはずがない、と思った。
気の強い女でそこが気に入っていたが、時としてやり過ぎるきらいがあった。特にキリコに言い寄る女には容赦をしなかった。今ではBJと立場が逆転しているが、やることは想像がつく。仕事の顔にならない限り、気の強い女性に押されることが苦手な上に人見知りのBJに、うまくあしらえるはずがなかったと予想できた。
どうにかしてBJから話を聞きたかったが、口にするのも嫌であるほどの話であれば難しい。話すことによって嫌な記憶を払拭できるケースもあれば、できないケースももちろんある。どちらになるかは個人によるものだ。
本気でMI6に連絡をするべきかと考える。レイチェルはアメリカでキリコと別れた後、逮捕され、3年以上の懲役判決を受けた。模範囚で1年で出て来たと風の噂で聞いたが、本来の身分でイギリスに入国できるはずがなく、パスポートとビザを偽造していることは明白だった。
本来の通報先としては入国管理局でいい。だがあまり公的機関に関わりたくない立場である事実を考えると、非合法行為に目を瞑ることも多い情報部にコンタクトを取った方が良さそうだった。
見逃すつもりはない。約束を破る女は嫌いだ。そしてBJを傷付けた。制裁を下すには充分な理由だ。
──その前にあいつの話を聞いた方がいいかもしれない。
またハロッズへ行く必要がある。個人的な連絡先を交換するつもりはないが、何かと連絡を取りやすい場所にいるのであれば問題なかった。
「そろそろ起きようか」
BJの髪に唇を落として言うと、それほど深く眠っていなかったBJはううんと呻いてすぐに目を開けた。まだ眠そうな顔が可愛くて、笑ってキスをした。
結果として時間をずらしたクルーズにも行けなかった。こればかりはBJも気落ちせず、むしろ強張った顔で「犠牲者がいないのなら良かった」と言ったほどだった。
「私たちは医者だ、通して。怪我人は?」
「警察はもう来てるのか?」
二人が乗る予定のひとつ前に接岸した他社のクルーズ船が、乗船前に爆発事故を起こしたのだ。接岸してはいたが幸いにもまだ客の乗船が始まっておらず、客船スタッフたちも爆発場所から離れた場所でミーティングを行っていたため、すぐに避難を完了し、犠牲者はなかった。
キリコとBJは取り急ぎ医者だと名乗り、爆発の衝撃で身体を打った者、避難時に転んで怪我をした者を診察したが、いずれも大事に至る傷を負ってはいなかった。
爆発規模は小さかった。沈むほどではなく、動力部から出た火は駆けつけた消防隊に無事に消された。事故の重大性の割には被害が少なかったと言える。
しかしこれで船着き場が閉鎖され、結局クルーズは中止になった。数日はクルーズが再開できないだろう。残念だけど、とBJは言った。
「残念だけど、遊覧中に爆発しなくてよかった。もっと酷いことになったはず」
「そうだな。──動力部の爆発か。たちが悪い」
河を遊覧中に爆発が起きればどうなっていたか。海難事故に比べれば救助までの時間は早いだろうが、パニックになった乗客たちがどんな行動をするか予想はできない。結果として大惨事に繋がる恐れもあった。
事故現場になった発着場を封鎖する警察たちに加え、明らかに軍人だと分かる複数名が現れた。爆発事故にはテロの可能性もあり、軍人が動員されることも少なくない。テロ組織に認定されているIRA(アイルランド共和軍)であることも考えられた。
救護活動の事情聴取を求められては面倒だと考え、二人はその場を立ち去ろうとする。だがすぐに諦めた。軍人の中にSASの隊長がいて、二人に気付いたからだった。彼はすぐに他の軍人や警察官に何かを言い置き、二人の方へやって来た。
「ドクター、先生、ご機嫌よう。──ミカエル。どうしてここに?」
隊長と呼ばないように、という意味だ。ここでは単なる陸軍の軍人であり、特殊部隊の人間だと知られるわけにはいかないのだろう。そう察したBJは頷き、彼と握手をした。
「こんにちは、ミカエル。この船の後のクルーズに出る予定だったんだ」
「この船の後」
「うん。まさかこんなことになるなんてね」
「なるほど。難を逃れて良かった。──救護活動にご助力頂いたそうで、ありがとう」
「どういたしまして。調書は勘弁してくれる? 旅行なのにトラブル続きでうんざりなんだ、早く彼と二人になりたい」
「旅行だったのか。申し訳ない、できれば協力して頂けないだろうか。状況からしてIRAの可能性が高い。何か知っていることがあれば──」
後半は小声だった。ずっと無言だったキリコはちらりと船の残骸に目をやり、それもそうだろうな、と思った。船の動力部の爆発、これは狙わなければ中々できないことだ。自然に爆発するような場所ではない。誰かが意図的に行った可能性、そしてイギリスがテロ組織と認定しているIRAという存在を考えれば、ミカエルの言うことは最もかもしれない。
「お断りだね」
キリコは言った。BJが驚き、思わずキリコを見上げるほどにきつい声だった。
「IRAだろうが何だろうが、それはそちらのお国事情だ。俺はアメリカ人で彼女は日本人、ただの医者で観光客だ。関わる謂れはない。どうしてもと言うならそれぞれの国の大使館を通して正式に要請してくれ」
「──おっしゃる通り。失礼した。ただ、救護活動に関しては名前を書かせてもらう。私たちが存じている本名でいいだろうか」
「ご自由に。ついでに、俺たちは何も知らないんでね。要請があっても役に立てるような話はできない」
「理解した。お時間をありがとう、お気をつけて」
「どうも」
別れの挨拶もそこそこに、キリコはBJの腰を強く抱いて歩き出した。ミカエルの視線を感じはしたが、応える気にはなれなかった。
「どうしたの」
BJが非難する女の声を出した。
「断るにしたってあんなに突っ慳貪に。前に世話になってるのに失礼じゃない?」
「それは悪かったよ。これ以上トラブルは御免ってだけさ。──気分直しに付き合ってくれよ。ピカデリーサーカスにでも行かないか」
「あんな繁華街に?」
「気が晴れるんじゃないか?」
「職務質問覚悟ならね。こんな事故の後じゃ絶対やってる」
「やめておくか」
「随分あっさり引くね」
「これがね」
左脇の辺りを叩いてみせる。銃だと看破したBJは毎度のことながら嫌な顔をし、キリコを苦笑させた。イギリスで銃の携帯は禁じられている。警察官すら持っていない。旅行者であるキリコが持っていると知られれば、拘禁されることは間違いなかった。
「本を探すか。フォイルズは? 地下鉄なら近い」
「タクシー拾ってよ。歩きたくない」
「贅沢な」
「靴を酷使したくないだけ。さっきしゃがんだり走ったりしたから靴が可哀想で」
「──お待ち下さい、クイーン」
靴への愛着を見せた女にひとつキスをして、爆発事故の騒ぎからようやく静かになりかけた道路をゆっくりと走るタクシーを停めた。
二人が向かった本屋は創業して約100年の老舗の店だ。大型の店舗を構え、図書館もかくやと言うほどの品揃えを誇る。地元客はもちろん、観光客も多かった。
専門書のフロアには人が少なく、足を踏み入れた途端、さて俺たちはしばらく他人だな、とキリコは覚悟した。案の定、目を輝かせたBJはあっという間に本の海へ泳ぎ出してしまった。一時間ほど放っておいて声をかけようと決め、自分も気になった本を手に取り、休憩用のソファに腰掛けてしばらくページをめくることにした。
読みながらたまに目を向けると、真剣な、だがどこかしら学生のような顔で本を探すBJが目に入る。その横顔があの密林の中で出会った医学生のままで、キリコは何とは無しに微笑んだ。
もしもあの時、と不意に思った。もしもあの時、医学生だった彼女に手紙を書いていたらどうなっただろう。宛先を知らなかった、だから書けなかった。言い訳だ。調べようと思えばすぐに分かったことだった。それをしなかったのはあの日々が余りにも目まぐるしかったからだ。言い訳にすぎなかった。
手紙をもらえなかったことをひどく悲しんでいた、だから死んだと思おうとしていたと聞いた時、あの頃の、医療と患者のことにしか興味を持てなかった自分の首根っこを掴み、今すぐ彼女に手紙を書くんだと命じてやりたくなった。
その時だった。近くはない、だが遠くもない場所で地響きが聞こえた。キリコははっとして顔を上げる。嫌と言うほど聞いた音だった。同時に本をソファに置き、速足でBJの元へ歩く。気付いたBJも手にしていた本を戻し、やはり速足で窓へ向かった。
「爆発? また?」
「同じ日にか。やる気が有り余ってるんだろうな」
窓から通りを眺めると、窓越しにも慌ただしい空気が伝わって来た。通りにいた人々は興奮し、爆発があった方向を指差したり眺めたりしている。怯えて場を離れる者もいた。彼らの視線の高さを見ると、現場はやや遠いことが窺える。
「靴には悪いけど」
BJは医者の顔で言った。
「行かないと」
キリコに異論はなかった。到着する頃には既に救護が始まっているかもしれないが、行けば行ったで役に立つことはある。不思議だと思う。死神の化身と呼ばれる自分が、この女といるとただの医者になる。救える生命は救う、それは命題だ。だがここまで当然のように救おうとする自分がまだいたことが不思議で、そして嬉しかった。
「キリコ」
出口に向かって歩きながら、BJが不意に一度足を止めた。
「無理そうなら離れて」
左目の中にある傷を案じる名医は静かに告げる。爆発の規模によっては凄惨を極める状況──戦地を思い起こす光景になっていることは間違いない。だがいわゆるPTSDと一生付き合うであろう男はあっさり言った。
「無理になったら診てくれよ、ブラック・ジャック先生?」
「──私は高いよ?」
「どれだけ投資してると思ってるんだ、クソビッチ。前払いはとっくに終わってる」
「早漏は治してやれないな」
思わず二人で笑い、顔を見合わせて手を打ち合わせる。そして現場に向かって走り出した。
途中でBJは通りのカジュアルシューズの店へ駆け込んだ。驚く店員を尻目に動きやすいシューズを数秒で見つけ出し、キリコに「払って!」と命じる。キリコは苦笑して店員に金を渡し、その間にBJは値札をつけたまま履き換えて再び駆け出した。目を白黒させる店員に袋だけをもらったキリコは、思った以上に身体能力の高い女にやや本気で走って追い付き、手にしていたブーツを奪って袋に入れた。そのまま二人でひたすら走る。
現場に近付くにつれ、二人は覚悟を決めた。爆発はかなり大きかった。被害は飲食店、そしてその上階にある部屋に及んでいる。既に火が出ていた。
「医者だ!」
「医者だ、通してくれ!」
二人で叫んで野次馬を掻き分ける。途端に彼らは歓声を上げて二人のために道を開けた。警察と消防は既に到着し、消火作業に入っている。近くに居合わせた軍人らしき男たちも統制された動きで救助活動に当たっていた。運び出された、あるいは自力で逃げ出した被害者たちが火の及ばない場所に集められ、応急手当を受けている。だが明らかに重傷者への手当が足りていない。救急車での搬送が遅れている。そちらに駆け出そうとした時、近くにいた野次馬が叫んだ。
「2階はナーサリーなんだ、頼むよ、早く!」
保育園だと聞いた二人は思わず2階を見上げた。嘘、とBJは唇を戦慄かせ、キリコは感情を殺してBJの肩を叩いた。
「行くぞ」
2階は業火に包まれていた。
通りがかった私服の軍人の中に衛生兵がいた。キリコが元軍医と知り、瞬時に意思を疎通させる。彼はキリコが行うトリアージの通りにタグをつけ、可能な限りの応急処置をした。
キリコが最優先とした重傷者を、コートを脱ぎ捨てたBJが片端から処置して行く。到着した近辺の病院の医者たちはその速さと正確性に感嘆しつつ、彼らの使命を果たすために感情を殺しながらあらゆる処置を講じた。
「爆傷、意識レベル低下──赤。内臓損傷の可能性。現状処置──」
キリコの診断と指示が速い。病院の医者たちでは勇気が必要な判断をすぐさま口にするのは野戦医療の現場を知る者だからこそだ。勤務先では相当の地位にあると分かる見た目の医者もプライドを捨ててキリコに従い、自分では無理な処置だと判断すれば躊躇いなくBJを呼んだ。BJは神の指を一瞬たりとも止めない。キリコが全体への指示を出しているお陰で外科的治療に専念できた。
1階にはもう生存者がいないだろうと話している警察官と消防士の声が聞こえた。気にしないようマインドコントロールを強くした。2階は──ナーサリーは──考えたくもなかった。どれほどの子供がいたのか。きっとそこにいた大人は保育士が数人だけのはず。何人もの子供を連れて無事に逃げられるはずが──考えたくない。目の前の患者をひたすらに優先する。
やがて陸軍が到着した。野次馬が一斉にブーイングを上げた。遅い、と怒鳴っている者もいた。確かに遅いとキリコは断じたが、クルーズ船の事故に人手を割かれていたことを考えれば──そこで思い至った。
──クルーズ船は陽動か。こっちの被害を大きくするためにクルーズ船に陸軍を集めやがった。
酷いことを。怒りが湧き上がった。どんな大義があるかなど知る由もない。知ろうとも思わない。だからこそ純粋に怒りを抱く。食事を楽しんでいただけの人々、店員、年端もいかない子供たちを吹き飛ばす行為に大義などあろうがずがない。
陸軍のトラックから降りた兵士の中にミカエルがいた。彼に従う男たちはSASだ。すぐさま消火活動に加わり、障害物を叩き壊し、2階への道を作り始める。救助突入のための道だ。悲鳴と怒号、炎の熱の中、彼らは訓練された動きで冷静に仕事をこなして行った。
近辺は建物が密集している。正面からの消火活動しかできず、鎮火にはまだ至らない。2階の窓ガラスは既に割れ、炎を吐き出し、襲い来る放水に抵抗しているようにも見えた。
「最優先処置完了、搬送を」
「赤、気道熱傷。ここでの処置は無理だ、搬送を。最優先」
重傷者が次々と搬送される。SASではなく一般陸軍兵士も救護に加わり、現場は一気に回り始めた。キリコの指示とBJの処置、そしてミカエルの指示は的確だった。
ミカエルは瞬時にして警察官と消防隊をも掌握し、彼らには不可能な手を次々と実現させて行く。1階は既に遮蔽物となる瓦礫が取り除かれ、塞いでいた階段を顕にした。だがすぐに報告が入り、ミカエルは考える。
──階段上部にナーサリーへの扉、だが開けばバックドラフトの可能性。階段は狭い。大の男がすれ違うのがやっと。
「ナーサリーには何人いる?」
「確認できる限りで保育士が2名、子供が1名。小規模ナーサリーなのと、ちょうど親の引取時間のピークが終わった後で少ないんです」
「図面は?」
「まだです」
警察官からの答えを聞き、ふむ、とまた考えた。認めたくはないが、保育士と子供が生きているとは考えにくかった。火ではなく煙による窒息が考えられる。かと言って見捨てることはできない。
生きていると信じるべきだ。
救護活動をしているエリアを見た。相当数の医療者が救護にあたっている中、あの二人は本当に目立つな、と思った。非合法医師二人の周囲が別次元のようにも見えた。あの二人がいなければ、確実に犠牲者がこの場で出ていたはずだ。運び出された、あるいは逃げ出せた人々の中に、奇跡的に犠牲者がまだ出ていなかった。
もはやBJは血まみれだった。感染症の危険など考えてもいない。ただただ目の前の負傷者に神の指を惜しげもなく与え続けている。その指先は確実に負傷者たちに未来をもたらす。
矢継ぎ早に指示を出し続けるキリコは的確な言葉を使っていた。患者だけではなく医者の治療の進度をも見極め、負傷者を割り振り、陸軍兵士と救急隊員に自信を持った強い口調で伝達する。彼がいなければあらゆる負傷者の深刻度が加速していたことは間違いなかった。
美しいふたりだ、とミカエルは思った。
ミカエルの視線に気付いたキリコが顔を上げ、そして片手で小さくハンドサインを出した。軍隊独特のものだ。ミカエルは思わず眉を顰めた。国は違えどそのハンドサインの意味はよく分かっていた。──『役立たず』。
「ギルヴィット、来い」
「イエス、サー」
小隊の中では古参の部下を呼ぶ。ギルヴィットは返事をし、駆け足で隊長の前にやって来た。
「お呼びですか」
「うん。全権をよろしく」
「あー、質問をよろしいですか」
「どうぞ」
「何をするんです?」
「中へ入って来る」
「……あそこの医者二人に血液型とアレルギーでも伝えておきゃいいんですかね?」
「適当に。ではよろしく」
「止めたいんですけど?」
「命令違反は重罪だ」
「──お気をつけて」
役立たずとまで言われては立つ瀬がない。だが陽動作戦にやられたことは確かであり、到着が遅れたことも言い訳のできない失態だ。アメリカ人は本当に遠慮がないんだなと溜息をつきそうになった。それから消防士に声をかけ、不燃性の大判の布を貸してくれるように要請した。
鎮火には程遠い。だが確実に炎は小さくなっている。ミカエルは部下に叩き込んでいる、かつ昔叩き込まれた火災現場への対処法を反芻し、息を吐いて歩き出した。
だがその時だった。2階へ続く階段付近で作業を続けていたSAS隊員、そして他の陸軍兵士たちが歓声を上げた。その理由を知った瞬間、ミカエルは呟いた。
「──神よ」
子供を抱えて駆け下りて来た男はアンディだった。休暇中で今回の任務の招集がかからなかった男だ。
驚愕したミカエルが声をかける前にキリコが既に駆け付けていた。子供を陸軍兵士に投げ渡すように任せたアンディに「脚を伸ばして座れ!」と強く命じ、駆け付ける前に掴んでいたで搬送用の毛布でアンディのボトムを抑え付ける。靴は燃え、ズボンの膝下にも燃え広がっていたのだ。キリコの手も明らかに火傷をしたが、その表情はひとかけらの苦痛も見せはしない。遅れたが全力で走って来た医者たちがアンディの足を、そしてキリコの手を奪うようにして処置を始めた。
「どいて、通して、お願い!」
野次馬を掻き分けて泣き叫びながら飛び出した女性がいた。グレイスだ。警察官が止めようとしたが、キリコが「母親だ、通せ!」と怒鳴る。ほぼ同時にアンディが叫んだ。
「報告します!」
「クロエ! アンディ!」
グレイスは助け出された娘を抱き締めて泣き、医者たちに治療を受けている恋人を見てまた泣きかけたが、必死で唇を噛んで堪え、泣いている娘に頬ずりをした。
「鎮火傾向です、防火靴で行けます!」
アンディはグレイスを見もしなかった。何よりも先にミカエルに向かって叫んだ。SAS隊員全てが聞いた。
「成人女性2人、現状負傷なし、入って左25フィート、最奥の部屋、防火扉、扉は閉じさせました!」
「──救助突入! ギルヴィット、ジョシュア、ナシル、来い!」
アンディの報告に返事もせずミカエルは走り出した。訓練された男たちがすぐに3人続く。連れ出された子供に怪我がないことを走りながら見て取り、勲章物だ、と休暇中の部下を心の中で絶賛し、誇りに思った。その横を入れ違うように血まみれの医者が駆け抜けた。
「今度は足かよ! どれだけ私をタダ働きさせる気だ!」
「これで3回目かな? ブラック・ジャックにタダでこんなに治療してもらえるなんて俺以外にいる?」
「減らず口を叩くな、キリコに口を縫われるぞ」
「ええー、口は前に先生に縫ってもらったからもういいよ」
そこで娘を抱き締めて、涙を必死で堪えている恋人にようやく笑いかけた。グレイスは泣くものかとばかりにまた唇を噛み、それからやはり必死で笑い返した。
「広範囲熱傷、深達性U度、感染症の危険あり、赤。最優先。家族2人と陸軍病院へ」
内容の割には穏やかな微笑で死神が告げ、天才外科医も肩を竦めて同意を示した。その数秒後、野次馬たちから大歓声が上がった。2階に残されていた2人の保育士が救助されたのだった。
多くの負傷者が搬送された陸軍病院へ移動し、BJとキリコは処置の続きと引き継ぎに追われた。二人の身元はSAS隊長が保証し、以前、他のテロ現場でも献身的な働きをしたということも知られ、二人の闇の顔を知る者がいても何も言わなかった。
「引っ越しのフラットを探しに行ってる間にクロエを預けてたんだ。あ、痛い、先生、それ痛い」
「黙ってろ、口を縫うぞ。痛いなら良かったじゃないか。これ以上酷いと痛覚も死ぬから痛みも感じない」
「痛くてよかった。でも痛い」
アンディの両足は大火傷だ。キリコが靴とボトムを消火するタイミングがあと僅かでも遅ければ、更に深い火傷になっていたはずだった。ギリギリだったな、と処置をしながらBJは思う。
「で、グレイスがクロエのおやつを買って行くって言うから、俺が迎えにね。そしたらドカン──痛いってば」
「おまえさんといい赤毛といい、隊の人間がいないところだと痛い痛いってうるさくって。仲良しめ」
「仲良しになれればいいんだけどさ。あの人も痛いなんて言うのかよ」
「あいつはうるさい。本当にうるさい。ガラスでやった時、鎮痛剤が効くまで痛い痛いって騒いでた」
「ガラス? 何かの任務かな」
「私が言えるもんかよ」
「ですよねー」
「で、ドカンでどうしたって?」
「これ絶対死ぬって思った」
「諦めが早いな」
「いや、死ぬって思ったから、絶対うちの小隊が出るだろうなって。だからあんまり心配しなかった」
所属の小隊への信頼と自信を覗かせて笑い、そしてまた痛いと呻く。BJは一度手を止め、鎮痛剤の点滴と局所麻酔を追加するよう助手に言った。
「でも出口はもう火が回ってたし。そしたら奥に防火扉の部屋があってさ。それが笑えないんだけど、保育士の先生が防火扉って知らなかったんだ。避難訓練ってもっとやるべきだね。日本じゃ結構やるんでしょ?」
「義務教育中なら月に一度はやってるね」
「そりゃすごい。で、まあ、そこにクロエと保育士の先生2人で入ったんだ。しばらく待ってたけど部屋が熱持っちゃって限界だと思ったのと、火がかなり消えててさ。突っ切れば行けるかなって。保育士さんたちも逃げてくれって言ってくれてね。あの人たち、子供への責任感が本当に凄いよ」
「そうだな」
「そしたら最後のドアの前の足元だけ燃えててあの火傷。ドクターがすぐ消してくれて助かった。あの靴、結構高かったのに」
「馬鹿、そんなもの生きてればいくらでも買える」
「先生らしいなあ」
「術式完了」
「え、早い、すげえ」
素早く、だが丁寧に処置を終えられたアンディは感動の声を上げた。特殊部隊員として様々な怪我や治療を見て来たが、この処置の速さはBJ以外に見たことがない。
「それにしても除隊前にこの怪我か。早くても3ヶ月はかかるぞ」
「綺麗になるまでってことだろ? 動けるようになれば復帰できる」
復帰できる──その言葉は忘れよう、とBJは思った。来年には軍を辞めると言っている男が、復帰したからと言ってどれだけ仕事に関われるのか。
だがアンディもそれを分かっているはずだ。あるいは忘れているのかもしれない。近いうちに軍を辞めると言ったことを。
「リハビリをしっかりするんだな。腱や筋肉に損傷がなくて良かった。皮膚移植の必要もない。無理はしないように。まず2週間は入院だ」
「イエス、ドクター」
後の処置はオペ看たちに任せ、BJは手術室を出る。途端に他の手術室からヘルプを求められ、術衣を取り替えて次の手術へ向かった。運び込まれた負傷者の中では最後の外科手術だと言う。
「アンディは終わったのか」
次の手術室にはキリコがいた。アンディを救助した際に負った手指の火傷は軽く、一日程度保護していれば痛みもなくなる見立てだ。それでも今の状態では手術ができないため、患者の全身状態と麻酔の管理をしていた。
「終わった。相変わらずお喋りで、間違えて口を縫うところだった」
「縫うのも面倒だ、ホチキスで止めておけ」
全身麻酔の患者を見下ろす。内臓に損傷があるが早い処置が功を奏し、生命に別条はない。執刀していた医師から口頭で説明を受け、場所を換わる。メスを奪われても医師は不満の色を全く見せなかった。
「アンディは勲章物だ。しかも休暇中だから余計に評価が上がる」
「勲章が食えるかよ」
「国内の再就職に役に立つ」
「キリコのはアメリカで役に立った?」
「個人事業主だからあまり関係ないな」
「いつ廃業するか楽しみにしてるのにな」
「女に食わせてもらう趣味がなくてね」
「ふうん」
それきりBJは黙った。開いた患部をじっと見ている。身動きひとつ、瞬きひとつしないその姿に手術室内の空気が急激に緊張した。始まるぞ、とキリコは思った。室内のスタッフたちの驚愕が目に見えるようで今から面白かった。
そして神の指が動く。踊るようにも見えるそれに、スタッフたちは息も忘れて目を奪われた。
何度見たか知れないキリコもまた目を奪われる。その指とその横顔に本当に神が宿っているのではないかと錯覚する。半日にも満たない少し前、靴を捨てて怒られると怯えていた女と同一人物とは到底思えなかった。
「術式完了」
スタッフたちがどよめき、時計を見る者もいる。予想を大幅に下回る短時間で全てを完了させた技量はまさに神技だ。BJは息を吐き、あとはよろしく、と言って手術室を出た。キリコもそれに続いた。そして手術室を出た途端に倒れかけた女を支えた。
「お疲れ」
「うん。ここにソファがないのが納得いかない」
「ご家族は別の場所でお待ち下さいって病院が増えてるのさ。──寝るな、せめて術衣を脱げ」
寝るなと言いながらもう諦めていた。テロ現場での立て続けの救命にこの病院で数件の手術をこなせば体力も気力も限界のはずだ。術衣のまま半分眠るBJを抱き上げ、借りられるベッドを探す旅に出ることにした。
ホテルに戻ったのは深夜だった。もう休んでいるだろうと思っていたバトラーが起きていたことに驚き、連絡をするべきだった、申し訳ない、とキリコは謝罪する。バトラーは謝罪の必要はないと言い、それよりも二人が無事であったことを喜んだ。
「ニュースで拝見して心配しておりました。ご無事で何よりでございます。現場に居合わせた民間人のお医者様たちのお陰で、と言う報道もございましたが、まさか」
「かもしれないね」
「──お疲れ様でございました。何かご入用はございますか」
「寝室のドアを開けてもらえるかな」
「ええ、喜んで」
バトラーは本当に嬉しそうに寝室へ向かう。後輩たちの活躍を予想して嬉しいのかもしれない。あるいは心配しているのかもしれない。明日、アンディの英雄的行為を少し話せば喜ぶだろうか。そんなことを考えながら、腕の中で眠る女をベッドへ運んだ。
BJをベッドに横たえ、バトラーが退室してからテレビをつける。どのチャンネルも2件のテロ事件で持ち切りだった。ざっと見た限り、自分たちの素性は報道されていない。居合わせた医師、駆け付けた外国人医師程度のものだった。ミカエルが手を回してくれたのだろう。
それから息を吐き、ソファに沈み、少し笑った。よかった、と思った自分に笑った。まだそんなことを思える自分が滑稽で、だが、確実に左目の奥に眠っていた愛をまた思い出した。
──よかった。本当に。よかった。
ニュースは繰り返し伝えられる。本日2件のテロが。IRAが声明を。許されることではありません。現場では必死の救助を。負傷者38名。死者なし。
死者なし。
今日の英雄は眠っていた。無論SAS隊員などとは報道されず、恋人の子供とナーサリーの保育士たちを守った休暇中の陸軍青年として、名前も映像もないまま美談にされただけだった。
ジュードは穏やかに眠るアンディを見下ろす。この病院のセキュリティはどうなっているんだと他国事ながら心配になった。これで陸軍病院だとは。侵入しながら呆れるほどに甘いセキュリティだった。
アンディに繋がれた機械の光と月明かりで勝手に枕元の申し送り表を読む。伊達眼鏡を外して淡々と字を追った。
何だ、死なないのか。そう思った時、不意に声が低く響いた。
「死なねえよ。残念でした」
流石と言うべきか、単に目が覚めただけなのか。ジュードに判断はつかなかったが、どうでもいいと思った。
アンディはジュードににやりと笑う。ジュードも同じように笑い返してやった。
「お大事に」
申し送り表を元の位置に戻し、見舞いの煙草を1ケース、わざとアンディの手が届かないサイドボードに置いて病室を出た。くそ、と煙草までの距離を罵る声が背後で聞こえ、ざまあみろと胸がすいた。
夢を見た。密林での苦しみから解放された彼らが家を訪ねて来た。ああ、これは夢だとすぐに分かった。彼らと昔のように馬鹿な話をして笑い合った。
これは夢だ。分かっていても楽しかった。苦しみのない彼らを見て嬉しかった。
俺は間違っていなかった。彼らを救ったのだ。彼らの生命を尊重し、復活の日に再び会うために行くべき道を案内したのだ。
夢は続いた。いつまでも続けばいいと思った。彼らと笑い合い、彼らの故郷の話を聞き、彼らの家族のこと、それから──ああ、起きよう、と思った。
起きたかった。もうこの夢はいい。
俺は間違っていなかった。これからも苦しみからの解放を望む生命を導くだろう。
でもこれもひとつの真実なんだ。
笑う彼らの誰ひとり、未来の話をしなかった。
目を開けた。眼尻に華奢な指が触れていた。誰の指かなど考えるまでもなかった。誰かに未来を与える慈悲深い神の指だった。苦しみを伴った未来さえをも与える、稀に慈悲を忘れる、だが確かにひとを救う指だった。
涙を拭われたことなど気付かない振りをした。
そこにはないはずの左目の眼尻も拭われたような気もしたが、それも気付かない振りをした。
神ではなくひとりの女が覆い被さるように抱いてくれた。あたたかかった。そのまま眠れそうだった。
今度は彼らの夢ではなく、違う夢を見るかもしれない。
この女の夢を見たかった。