背中で聞こえるユーモレスク 02

 翌朝、相変わらず雨が降っていた。テラスで朝食を食べたかったのに、とBJはぼやく。前回は奇跡的に雨が降らない日ばかりで、随分長い時間をテラスで過ごしたものだ。
 ベッドで朝食を食べようかとキリコは誘ったが、あれは恥ずかしいからいい、と却下になった。寝起きの姿のまま、バトラーにベッドでサーブされることはどうしても慣れない。
「金持ちなら気にしないんだろうけどさ。使用人感覚なんだろうし。でも私はどうしても慣れないよ」
「特にイギリスはそういう階級的な感覚が根強いしな。俺だって慣れてるわけじゃない。出かけるついでに食べるか?」
「いいかも」
 雨のロンドンで朝食と言うのも悪くない気がして、BJは頷いた。キリコはバトラーに朝食はいらないと連絡をし、テラス越しに雨を眺める。生粋の英国人や海兵隊員なら傘をささないだろうなと思った。要は小雨だ。この土地の小雨は短時間でやむことがほとんどだと知っているキリコは、やんだ隙に出かければいいだろうと決めた。
 気が付くとBJがリビングにいなかった。どこへ行ったのかと思えば寝室のドアが僅かに開いている。
「マフィン?」
「──ちょ、っと、勝手に開けるな、馬鹿キリコ!」
「開いてたんだよ。文句があるならきちんと閉めろ。荷物? まだ出してないのがあるのか?」
 恋人が寝室に入ると同時にスーツケースを勢いよく閉じたBJに、キリコは首を傾げる。昨夜のうちに荷解きをしておいたのに何をしているのだろうかと思った。
「ドーハで買ったお土産とか、そういう。整理してただけ」
「ふうん」
「キリコこそ」
「うん?」
「銃なんて持ち歩くなよ。見つかったら国外退去になるんだから」
「生憎見つかったことがなくてね」
「馬鹿みたい」
「馬鹿で結構」
 ロンドンにいる間はいつも持ち歩くよ、とは言わないでおいた。BJはキリコが人を傷つける物を持つことを極端に嫌う。敢えて教える必要はなかった。
 99%は善人、1%はそうではないかもしれない。濁した言葉の中でSASの隊長が伝えてくれたことは、旅行者として重く受け止めるべきだと分かっていた。あの言葉だけでも隊長にとっては勇気が必要な発言だったはずだと予想できる。軍の中でも特殊な地位、最高機密に近い場所にいる男が、明らかに何かあると告げているも同然であり、情報漏洩と言われても反論ができない。
 ──それほどまでに俺たちに自衛させたい、いざと言う時に外国人にSASの手を回す余裕がない、そういうことなのかもしれない。
 取り越し苦労であればいい。むしろそうあるべきだ。自分たちはロンドン滞在中、一般の観光客と同様の生活をする。隊長の親切は無駄にべきなのだ。
「ああ、やっぱり靴が駄目だな。大雨になったら滲みそう」
「ブーツにしたらどうだ。いつものストラップシューズじゃどっちにしろ雨で足が濡れるだろう」
「そうしようかな。選んでよ」
「うん?」
「私はセンスがないから、キリコが選ばなかったジェイムズ・ボンドに買ってもらったようなのしか分からない」
「あんなセンスの悪いブーツはそうそうないと思ったね。俺が選ぶしかないだろうさ」
「ふうん?」
 前回のロンドンの話を引き合いに出す女の頬に派手にキスをして、二人で笑った。現役スパイに買わせたダークベージュのショートブーツを見てとてもセンスが良いと思った記憶を、キリコは速やかに遠い棚に放り投げた。
 雨が止む時間を見計らい、ホテルを出る。まずは朝食だ。雨の匂いが残る中、ビッグ・ベンが8時半を知らせた。
「あのカフェにするか。せっかくだし、再建したところを見たい」
「──あそこに?」
 BJはやや躊躇った。あのカフェが爆破テロに巻き込まれ、居合わせたBJが救急活動をしている時、訪れたキリコはあの惨状に過去の景色を思い出したのだ。BJの心情を察したキリコは微笑んでみせた。
「平気だよ」
「そう」
「おまえがいるしね」
 キリコの言葉が妙に嬉しくて、BJは照れ隠しのようににやりと笑ってみせた。
「守ってやるよ、任せな」
「おお、頼もしい」
 二人で笑いながら道を歩く。同じように朝食を求めて歩く観光客や通勤途中の人々に混ざり、今日は楽しい一日になりそうだ、と同時に思っていた。
 カフェは買い物予定のハロッズからそう遠くない。宿泊ホテル周辺の立地は観光客である二人には都合が良く、その気になれば精力的な観光を、またはホテルでだらけた時間を過ごすには最適だった。
「別のカフェでさ」
「うん?」
 小さなストーブと膝掛けが用意されているオープンエアの席でメニューをめくりながら、BJは前回のことをふと思い出す。
「ほら、マタ・ハリが」
「──待てよ」
 その言葉だけで思い出してしまったキリコは笑いを堪え、火を点けかけた煙草を指でぐっと握って1本台無しにしてしまった。盗聴器を仕掛けて退場したはずの女スパイが、悪役の女医にあっさり見抜かれて悔しがっていた姿は忘れられない。そう言えばあの時も靴が絡んでいたな、とキリコは思ったが、口には出さないことにした。これから新しい靴を買うのだからそれでいい。
「魚が食べたいな。でも卵も食べたいし、どうしよう」
「エッグロイヤルにすればいい」
「何それ」
「エッグベネディクトの親戚。ベーコンがサーモンになってる」
「いいな、それにする。あとオレンジジュースと──キリコは?」
「エッグロイヤルの親戚にでもするか」
 絶妙のタイミングで席に来た店員にオーダーを伝える役目はキリコに任せ、BJは道行く人々を眺める。誰も自分を見ない、と思った。都会の無関心がこの上なく心地よかった。
 通勤途中の人々の中に黒髪の男を見つける。これだけの人がいるのによく見つけたものだと自分でも不思議に思えた。
「出勤時間か」
 オーダーを終えたキリコも彼を見つけたのだろう。やっと煙草に火を点けながら言う。二人の視線の先には昨日世話になったハロッズの店員がいた。交差点の信号待ちで止まっていた彼は、手にしていたテイクアウトカップのドリンクを一口飲んだ後、眼鏡越しに軽く視線を巡らせ、あっさり二人と目を合わせた。流石に驚いた二人に挨拶するように微笑み、ジュードは信号を渡る人々の中に埋もれて行った。
「……流石って言えばいい?」
「老舗百貨店の店員なら、あれくらいやらないといけないのかもな」
「わあ、私、絶対接客無理」
「医者だって接客部分はある──いや、おまえはないか」
「ないけど、言われるとムカつくんだけど」
「──ああ、ありがとう、それは彼女に」
 運ばれて来たオレンジジュースをBJの前に置くよう指定することで、キリコは軽い口論に発展する前に話を終わりにした。
「そう言えばアングロサクソンだな」
「誰?」
「黒髪の彼」
「それがどうしたの」
「アイルランド系じゃなさそうだ」
「気になるわけ?」
 キリコは恋人が差別される姿を目にしない限り、滅多に人種の話をしない。珍しく出た話題にBJは首を傾げる。
「ハロッズに就職するならアイルランド系はまだ難しいかもしれないな、って思っただけだよ。歴史的にね」
「私からすりゃ見た目の判断がつかないけどね。欧米人にアジア人の区別ができないのと一緒」
「確かにな。慣れれば分かるんだが」
「知らない白人男性なんてみんな一緒に見えるよ」
「この国なら四系統か。イングランド系、ウェールズ系、スコットランド系、アイルランド系。お好みは?」
「キリコ系」
「趣味がいいね」
 恋人同士のふざけた会話を楽しみながら、揃えられた朝食に手を付けた。キリコは卵料理に添えてあるソースが少し重すぎると感じる。やっぱり和食より濃いよね、でも美味しい、とBJが呟いたので、いつの間にか味覚が日本人の恋人に侵食されていることに気付いた。悪い気分ではなかった。
 食後の紅茶を運んで来たのは店長だった。救護に尽力した二人を覚えていた。あの時はありがとうございます、と丁寧すぎるほどに礼を言う。再建を心から祝う言葉を伝え、二人は店を後にした。
 開店時間を少し過ぎた頃、ハロッズに入る。フロアには制服姿のジュードがいて、二人を見てまた微笑んだ。
「先程はご挨拶もせず失礼致しました」
「とんでもない。職場でもない場所だったのに」
 キリコの応えにジュードは微笑みを絶やさず、改めて言った。
「では改めまして、いらっしゃいませ。またお越し頂けて嬉しく存じます。お具合はいかがでいらっしゃいますか」
 丁寧なジュードの接客に、BJは「うん」と答えた。
「大丈夫。ありがとう」
「それはようございました。本日のご用命は?」
「彼が靴を買ってくれるって言うから」
「ご婦人のお靴なら6階にご用意してございます。どうぞごゆっくり」
 ジュードに丁寧に見送られてエスカレーターに乗り、目的のフロアに向かいながら、キリコがしみじみと「常連相手でもないのに随分手厚い接客だな」と言った。
「案内人を置いている店はそうそうないよ」
「そう言えばそうかも。日本じゃいいとこ総合案内だし」
「まあ、彼は見た目もいいし、何かあった時にすぐ対応しやすい男性スタッフだからな。観光客が多い百貨店が雇う価値はある」
 上がっていくエレベーターから、BJは階下を見る。吹き抜けになっている空間は上から見ても圧巻だった。ジュードに話しかけている美しい女性がいたが、すぐに忘れたくてキリコの肘に指を添えた。今日はあの店が休みなのだろうかと考えてしまったことも忘れたかった。珍しい、とキリコが言ったので、たまにはね、と答えておいた。キリコが下を見ていなかったことに安堵し、安堵した自分が醜いと思った。


 6階に到着するなり、BJは「わあ」と観光客に相応しい声を漏らしてしまった。エスカレーターのそばにいた店員はしてやったりと言わんばかりに微笑み、ごゆっくり御覧下さい、と声をかける。広いフロアは大理石で埋め尽くされ、芸術としか思えないデザインの空間がきらびやかに、だが上品に客を迎えた。その空間に配置される靴はいずれも有名な高級ブランド品ばかりで、最も美しく見えるように並べられていた。
 わたしに無縁なブランドの靴ばっかり、何あれ知らない、流石にこれは知ってる、とBJは心の中で呟いていた。自分に必要な靴が見つけられる自信がない。レイチェルのことなどすっかり忘れ、視覚からの情報量に半ばパニックになっていた。
 二人に気付いた女性シューフィッターが微笑みかけてくる。このフロアは1組の客に1人のシューフィッターがつくシステムだ。
「いらっしゃいませ。奥様──奥様とお呼びしてよろしゅうございますか」
「そうだね」
 訂正するのも面倒で、そしてこのシューフィッターが国籍や人種で面倒を起こさない主義だと分かり、キリコは頷いておいた。BJはまだ情報量に脳が追いつかず、聞こえていなかった。
「奥様のお靴をお探しでいらっしゃいますか?」
 シューフィッターにキリコが二言三言答えると、彼女は得心したように頷いて、「それでしたら」といかにも名案を思いついた口調で言ってみせた。
「ショートブーツなどいかがでしょう。ちょうど新しいデザインが入ったばかりでございまして、まだどなたにもお出ししていないんです。一点物でございますから、ご覧になるだけでも」
「彼女に似合いそうならぜひ」
「きっとお似合いでいらっしゃいますとも。奥様のおみ足のサイズをお聞きしてよろしゅうございますか?」
 理解できないわけではないが、丁寧すぎる英語にBJは反応が遅れた。するとキリコがあっさり「4ハーフ」とイギリスの単位で言い、どうしてこの男はそんなことまで知ってるんだ、とBJは驚かざるを得ない。前回のロンドンで、ピノコが教えていたなどと想像もつかなかった。
「4ハーフ。まあ、シンデレラのようなサイズですこと。──お勧めしたい靴に欧州基準の36、そう、4ハーフがございますから、すぐにご用意できます。お待ち下さいませね」
 シューフィッターは意気揚々と靴を探しに行く。新しい靴を開店一番に来た客に勧められることが嬉しいのだろうとキリコは思った。それならばBJも快適な靴探しができそうだ。このフロアは高級ホテル並の接客も売りなのだが、だからこそこの国独特の差別を心配せざるを得ない一面もある。
 明らかにWASPの俺が一緒なら平気だろう、と思っていたのも事実だったが、掛け値なしの笑顔で靴を携えて戻って来たシューフィッターを見て、俺こそがいやらしい心配をしていたようだと反省した。
「こちらのブランドはフランスの──靴裏が紅なことで有名で──お客様はおみ足が華奢でいらっしゃって──アジアの女性ではお珍しく甲高でいらっしゃいますから──」
 シューフィッターの熱心な説明に任せるがまま、BJは試着用のソファに半ば強制的に座らされ、そうなの、そうなんだ、そうなんですか、と頷くだけで精一杯だ。慣れないその態度を見て、もう少しこういった場所に連れて来てやった方がいいかもしれないな、とキリコは思った。政治家や闇の大物相手にはふてぶてしい態度を取るくせに、こんな場所では人見知りを発揮して押し切られる女が可愛い。
 シューフィッターによって丁寧に履かされた靴と足元を見て、ああ、似合うな、とキリコは思った。パンツの裾で隠れてしまうだろうが、ヒールのお陰で綺麗なシルエットがよく分かる。靴裏全体を彩る紅色が歩くたびに見え隠れし、黒い服を着るBJのスタイルにアクセントを与える。
 このブランドでは珍しい低さだが、自分の日常生活にはないヒールの高さと普段とは違う筋肉を使った歩き方をしなければならない事実にBJはやや戸惑った。記憶障害を起こした時に履いた覚えはあるが、その時も上手く歩けるまで時間がかかったはずだ。
「とても素敵な靴だし、痛いところもなくて、でも」
 実は、とシューフィッターに正直に言った。
「普段、ヒールを履かないものだから。みっともない歩き方になってしまったら、靴に申し訳ない気がして」
「──神様」
 このシューフィッターは感激屋だ。キリコとBJは同時に断定した。見栄を張りたい女性も多かろう事柄をあっさり告白したBJにシューフィッターとして感動し、頬を紅潮させている。
「いいえ、お客様なら何も問題ございませんとも」
「でも」
「失礼ですけれど、お履きでいらしたお靴の底を拝見致しましたの」
 そう言えばそんなことをしていたな、とキリコは思い出す。だがそれほど長い時間でもなかったはずだ。するとシューフィッターは自信を持った顔で宣言した。
「とても姿勢が良くて、美しい歩き方をなさる方の底の減り方でいらっしゃいました。良いお靴ですし、実はフロアにいらした時から気になっていたんです。──お客様なら10歩もお歩きになられれば、間違いなくこのブーツをご自分のものになさいますとも!」
「──いいと思うよ」
 BJが返事をするより先にキリコは言った。このシューフィッターが担当してくれてよかった、と思った。BJがキリコを見た。
「よろけるなら俺に掴まっていればいいんだし」
「え」
「あら、まあ、それも素敵ですわね」
 うふふ、と笑うシューフィッターの言葉にBJは少しばかり赤くなる。
「とても似合ってる。──それをもらうよ。すまないが、少し歩かせてやってもらえるかな。本当に踵の高い靴を履かないものだから」
「ええ、もちろんですとも!」
 シューフィッターが我がことのように嬉しそうな笑顔でBJを促し、高い踵に慣れない女に丁寧に歩き方を教える。彼女が言った通り、BJはわずか数秒で歩き方を思い出した。ああ、とキリコは思った。──ああ、可愛いな。
 こんなにすぐに綺麗に歩ける人はいない、と興奮した口調で絶賛するシューフィッターに、BJが何かを小声で問う。少し離れていたキリコには聞こえなかったが、シューフィッターがちらりとキリコを見た後、悪戯気にBJに笑って、「ええ、間違いございません」と言っている声は聞こえた。BJは唇をひん曲げて頷いている。その唇の形が照れ隠しであることを知っているキリコは、ヒールの靴に慣れなくて恥ずかしいのかな、と思った。
「視線の高さが違う」
 新しいショートブーツを履いてフロアを出たBJはキリコを見上げる。普段のおよそ20cm差が7cmほど縮まっただけで、随分違うものだと思った。
「俺はこれくらいが楽だな」
「楽?」
「キスがしやすい」
「──それならもう、する時に背伸びしない」
「それじゃ変わらないだろうに」
 この程度で顔を赤くする女が可愛くて、エスカレーターに乗るなり髪に唇を落とした。普段の靴よりも身体を傾ける必要がなく、何て実用性のある靴なのだろうかと密かに感動した。
「問題なく歩けるならバッキンガムを見に行くか? ベタな観光地だが」
「ベタな観光したことないから、私にとってはベタじゃないな」
「OK、じゃあ行こう。参考までに今までロンドンでどんな体験を?」
「特殊部隊とスパイ組織の対立に巻き込まれたのが一番の思い出かな」
「奇遇だな、俺もだよ」
「後は仕事だから、観光なんて全然。だから今日は楽しい」
「いい話だね」
 1階でエスカレーターを降りる。ジュードはいなかったが、代わりにフロアのコスメカウンターに美しい女性がいた。ビューティアドバイザーと呼ばれる店員と話す彼女を見て、やっぱり綺麗だな、とBJは思った。キリコも気付いたが、BJの腰を抱き、何も知らない振りでいつもの通りに歩いた。
 正面玄関を出る直前、急にBJは足を止める。キリコが他の客の邪魔にならないよう横に移動させながら「どうした」と問うと、BJはふん、と肩を怒らせてから息を吐き、明らかに少しばかり作った怒り声で言った。
「わたしが遠慮しなきゃいけない理由なんて、ないんだけど」
「そうだな。間違いないよ」
「あの店の苺のショートブレッドとレモンクッキーが食べたかったの。ハン、分かってくれる?」
 ハン、と演技をするべき時でもないのにペットネームを呼ぶBJは珍しい。文化の違いからの感性か、滅多に口にしないものだ。相当追い詰められた精神状態にあるのだと分かり、キリコは頷いた。
「もちろん。素晴らしく美味しいってことも分かるよ」
「でもあの店に行きたくないの。彼女が今、あの店にいないって分かってても」
「分かるよ」
「だからって、誰かに買って来てって言うのも嫌で」
「そうか」
「一番悔しいのは」
「うん?」
「何でこんなことで嫌な気分にならなきゃいけないのか、さっぱり分からないってこと。たかがショートブレッド、たかがクッキー、たかが昔の女。どうして?」
 キリコの前でしか遣わない自然な女の言葉で訴える姿は、本来なら嫉妬した女の可哀想な姿なのかもしれない。言っていることも無茶苦茶だ。だがキリコは哀れとも、無茶苦茶だとも思えなかった。恋人としてあるまじき、しかし医師としては正しい感想を抱いた。ああ、と思った。──ああ、こいつは今、自分の心を整理しようと頑張ってるんだ。
「本当に、どうしてなんだろう」
「そうだね」
 相槌を打ちながらようやく正面玄関を出る。あまり長く立ち止まっていては店員や警備員に必要以上に注目されることになりかねない。
 小雨がまた降り出していたがタクシーには乗らなかった。慌てる観光客は傘を求めるために店内に戻り、地元の人々は傘もささず、フードを引き上げたり、鞄を上げて傾けたりと慣れたものだった。キリコは首のスカーフを外してBJの髪にかけてやる。
「キリコが濡れる」
「この程度なら」
「……ヒジャブみたい」
「女は宝石だ。いいことを教えてもらえたよ」
 ハロッズ最寄りのナイツブリッジ駅に向かうか、それとも向かいのティールームに入ろうかとも思ったが、少し歩かせてやった方がいいかもしれない。だから、それで、とBJは何度も話にならない言葉ばかりを繰り返し、うん、うん、とキリコは相槌を打ち続けた。
「分かってきた。ありがと」
「うん」
 相当の距離を歩き、小雨もやんだ頃、キリコの相槌が自分の思考整理を助けてくれるものだと知っていたBJは、ようやく感情と思考を整理してキリコに礼を言う。キリコはまた曖昧に相槌を打っただけだった。
「わたし、凄く楽しみにしてたから」
「うん」
「楽しみだったから。このロンドン」
「俺もだよ」
「それなら嬉しい。で、あの店のお菓子はずっと食べたかったから。ピノコとユリさんにもお土産に買ってあげたくって」
「そうだな」
「あれがなくっちゃ駄目だって思ってた、きっと。あれを買ってテラスで食べたかった。キリコにカクテルを作ってもらって、バトラーの彼の紅茶も素敵だし、それと一緒に」
「うん」
「なのにできなくって、まずそれが残念だったんだと思う」
「なるほどね。理解できるし、言われてみれば俺もそうだと思うよ」
 他人からすれば大した話ではないのかもしれないし、人によっては今のBJを愚痴を零すヒステリー女にすぎないよと言うかもしれない。だがキリコはそうではないと思っていた。恋人の立場としても医学的な見地からしても、今のBJの行為は心理的なセルフメディケーションとして非常に有効であるはずだ。
「それだけでも残念なのに、その理由がキリコの昔の恋人なんて、単なるお菓子の問題だったはずなのに、こんがらがって面倒くさくなっちゃったんだ」
「なるほどね」
「彼女は美人だし、キリコの趣味が変わったなんて言うし」
「惚れた女が趣味だからね、それは間違いだな」
「美人は否定しないんだ」
「興味がないから忘れてた」
 途端に拗ねた口調になったBJの言葉をあしらう振りをして、BJが落ち着いたことを確認した。まだ落ち着いていなければとてもこんなことを言えないはずだ。どうせわたしなんか、と自虐的なことを心の中で呟き始めてしまう時が多い女だった。その状態を考えれば今の様子など可愛いものとしか思えない。
「あの店の苺のショートブレッドとレモンクッキーを食べたかった。それが第一」
「なるほど」
「キリコの昔の恋人が美人で馴れ馴れしかった。それが第二」
 確かに馴れ馴れしいと言えば馴れ馴れしかった。キリコはようやく思い至った。別れた昔の男に声をかけるにしても、自分とレイチェルの別れ方で──BJに言いたくない程度には拗れに拗れた別れだった──ああまで気さくに声をかけて良いものではなかったはずだ。女の切り替えというものだろうか、と思った。
 ただどのような事情であろうと、今の恋人が気分を害するには充分すぎる態度だったことを速やかに認めた。認めたからには解決手段を講じなければならない。
「マフィン」
「何」
「俺に提案がある。聞いてくれる?」
「面白い話なら」
「他に好きな菓子を見つけるっていうのはどうだ? スーパーマーケットですぐ買えるようなやつをね。食べたくなったらすぐに買いに行けるのは素敵だと思わないか」
「──ちょっと面白いかも」
「日本のマーケットじゃ中々見ない、気に入ったものを好きなだけ買って、テラスでだらしなく食べるのはきっと楽しい」
「そんな安物、テラスに出したらバトラーががっかりするかもよ」
「彼に限ってそれはないね」
「そう?」
「彼なら蛇の丸焼きを買って行ったって、ハザマ様、すぐにお皿をご用意致しましょう、って言うさ」
「何で蛇!」
 思わず笑い出したBJを見てキリコは安心する。そりゃあ元SASだ、蛇くらい捕まえて、調理して食べたことがあるかもしれない、きっと彼は料理も得意だろうね、と言って、ますます恋人を笑わせてやった。
「ホテルの近くにスーパーマーケットなんてあった?」
「近くは流石にないな。ホテルの最寄り駅から地下鉄で2駅のところにウェイトローズが。──安物が買えるような店じゃないぞ、ドアマンがいる」
「スーパーにドアマン?」
「王室御用達だしね」
「蛇の丸焼きなんて見つける方が大変そう」
 でもそれも楽しそう、とBJが笑った。キリコは微笑み、なるほど、と不意に思った。──なるほど、俺はこの女が笑うと嬉しいのだ。
「靴が痛くないなら行ってみるか。気が向いたらそのまま観光に行けばいいし、向かなければホテルに戻ればいい」
「靴は平気。でも明日、きっと筋肉痛になるかな。いつもと違う筋肉が動いてるのが分かる」
「──失礼、身分証を拝見」
 友好的だが厳しさを湛えた声が聞こえた。二人への声ではなく、近くを歩いていた男性二人を呼び止めたのだ。彼らは肩を竦め、身分証を探す様子を見せた。
「行こう」
 彼らがアイルランド系だと知ったキリコはBJを促し、腰を抱いて歩き出した。BJが変なの、と呟いた。変なの、私にするなら分かるのに、白人にするなんてね。キリコは返事をしなかった。夜中の電話を改めて思い出していた。


 地下鉄に乗り、BJは少し酔った。時間が経てばすぐに治ると分かる程度の軽い酔いだったが、ちょっと酔った、と心配して欲しくて言った。案の定心配してもらえて満足した。キリコは甘えたかっただけだろうと分かっていて、それでも、否、だからこそ可愛いと思えた。
 ドアマンが待つ高級スーパーマーケットは観光スポットでもある。観光客たちが楽しそうに店内を散策し、土産としてプライベートブランドを吟味していた。高級住宅街に済む地元の住民たちは慣れていて、うまく棲み分けが出来ている。
「あのグレープフルーツ、美味しそう」
「生鮮食品はホテルでいいんじゃないか」
「あ、そうか」
 オーガニック食品が並ぶ中、観光客に混ざって菓子のエリアへ入る。いかにも英国といった菓子がずらりと並び、キリコはBJの見えない尻尾がぶんぶんと振られたように見えた。
「これ美味しそう」
「何でも試してみろよ。気に入ったものだけまた買いに来ればいいんだから」
「うん。──ピノコには言えないなあ。いつもひとつだけって言ってるから」
 思い出したキリコは堪え切れず噴き出した。全くの幼女ではないはずのあの小さな女の子が、それこそ家庭を取り仕切るほどのいい女が、BJに日本のスーパーマーケットで「お菓子はひとつだけ!」と叱られている姿を見たことがあったのだ。
「俺はひとつだけなんて言わないよ。好きなだけどうぞ。もちろんお嬢ちゃんには内緒だ」
「ユリさんにもね? ピノコにお菓子買いすぎないでってお願いしてあるから」
「もちろん」
 また笑いそうになりながらキリコは答えた。BJ自身があの少女の正しい姿を誰よりも知っているのに、必死で普通の少女として育てようとしていることをよく知っている。手術のアシスタントをさせるという部分には疑問を呈したい時もあったが、今ではBJなりの混乱の時期があったのだろうと理解し、口を出す気はなくなっていた。ならば自分も付き合うまでだ。
「キリコ、これ。レモンのショートブレッドだって」
「こっちに苺のクッキー」
「あれと逆だね」
「きっと美味いよ。他には?」
 キリコが持つバスケットに次々と菓子を入れて行く。BJは楽しそうだ。教育の行き届いた店員がカートを持って来てくれるほどにバスケットは重くなっていた。
「まあ、たくさん買ってるのね!」
 不意にかけられた声に驚いて振り向き、同時に心の中で苦笑した。グレイスの後ろにいたアンディは二人に向かって「ごめん」とジェスチャーし、それが本当に申し訳なさそうだったので、二人は顔を見合わせて「許してやるか」と意思を疎通させる。
「先生、あれは買った? バニラとチョコレートのグラノーラバーがあるの」
「え、美味しそう。どこにあるんです?」
「こっちよ。わたし、ロンドンに来たら必ず買うの。お土産にもいいと思うわ」
 人に嫌われることなど考えたこともないような笑顔で、グレイスはBJを連れて歩いて行ってしまう。キリコはアンディに目をやり、アンディはばつの悪い顔で再び「ごめん」とやってみせた。
「何て言うかこう、怖いものとか知らない女性なんで……育ちが良すぎて」
「よく知ってるよ。あれで赤毛の姉なんて信じられないね」
「俺だってそうだよ。でも姉弟仲はいいから不思議だよね」
「で、おまえはその姉弟仲のよさに翻弄されているわけだな」
「昨日言った通りで……」
 アンディは深く溜息をつく。キリコは周囲を見回し、近くに客がいないこと、店員が注目していないことを確認してから言った。
「英語以外」
「──ドイツ、フランス」
「フランス。──俺は銃を持っている」
 即座に優秀な軍人の目になった男に、キリコはフランス語で宣言した。アンディは頷く。知っているよ、と言わんばかりだ。おそらく予想されていたであろうことはキリコも理解しており、頷き返すにとどめた。
「言ってくれてありがとう。ただ、俺はドクターの銃所持に関してどうこう言う立場じゃない。警察に見つからないようにしてくれ、ってくらい」
「一応言っておいた方がいいかと思ってな」
「確かにね」
「おまえさんの隊長と話をしたか?」
「ドクターが電話をくれた話?」
「休暇の割にいい報告体制だな」
「休暇なのは本当だよ。でもロンドンにいる以上、意識はする」
「軍人の鑑だな。──アイルランド系について言われた。99%は善人だそうだ」
「間違いないよ。ほとんどの人は善人で、毎日を誠実に生きている。1%のせいで偏見を持たれるんだ」
 キリコは暫く黙る。悪くない答えだと思った。だからこそグラディスが、この男を義兄として受け入れる勇気をまだ持てないのだろうと言うことも。
 ──それは理想なんだ、アンディ。おまえの隊長が俺に言ったことは部外者向けの理想に過ぎない。グラディスはそれを知っている。だからおまえを──
「アンディ」
「何」
「監視するべき人間がいる」
 それを言った自分が人でなしと思われるのではないか、と思った。だが同時に、人でなしと言われたところで心が痛むことはない、否、痛んではならないとも分かっていた。
「一度しか言わない。覚えて、後はどうとでもしてくれ」
「──分かった。でもゆっくり頼むよ」
 素直な要請にキリコは僅かに唇の端を持ち上げた。この男は退役しても、人々の中でうまく生きて行けるだろうと思えた。左目の中にいるあの彼らの何人もが選べなかった道を。
「ハロッズのアテンダントのジュード。黒髪のアングロサクソンで、眼鏡をかけている。行けば分かる。どうするかはおまえたちの自由だが、もし接触するなら下っ端には行かせるな。おまえたちの隊長を行かせるべきだ」
「隊長を?」
「厄介な奴だと俺は思う」
「分かった、隊長に言ってみる。ハロッズのジュード。俺も行かない方がいい?」
「行くなら勝手にしろ」
「ありがとう」
「以上」
 話が終わるとほぼ同時に、BJとグレイスが戻って来た。BJは人見知りなりに努力したのか、グレイスとそこそこ親密な様子を見せている。
「キリコ、見て。これ、すっごい美味しそう」
「きっとね。──アンディ、グレイス、良い一日を。いいものを教えてくれてありがとう」
 グレイスはやや残念そうな顔をした。せっかく会ったのだからお茶でも、と思ったのだろう。だがアンディが素早く「こちらこそありがとう、良い一日を」と言って場をクローズし、完全に男たちがコントロールした空間から、それぞれは退場したのだった。


 買い込んだ菓子があまりに多く、観光と言う気分にはとてもなれなかった。何よりBJがすぐに食べたいと言って、この後の方針は決定される。ランチ代わりに菓子などと、ピノコにはとても言えないことが増えた。
 出迎えたバトラーは「素晴らしゅうございますね」と心からの感嘆を見せた。
「おや、ハザマ様、お背が」
「ちょっと、靴をね」
「これはよくお似合いで!」
 宿泊客へのリップサービスだと分かっていても、つい嬉しくなるのが女心というものだ。
「ありがとう、よかった。こういうの普段は履かないから、人に褒めてもらえると嬉しいな」
「左様でございましたか。普段お履きにならないのに、左右のバランスよくとてもお綺麗に歩かれていらっしゃいますね」
 聞いていたキリコは、ああ、やっぱり元SAS、特殊部隊員だな、と思った。「左右のバランスよく」と言う言葉を歩き方の褒め言葉に使うのは歩兵かつ特殊な訓練を持つ者独特の見方だ。
 豪奢に、だが品よく整えられたテラスのテーブルに安い菓子を並べてもバトラーは嫌がらなかった。それどころか嬉しそうだ。
「外国のお客様が私の国の菓子をお召し上がり下さいますと、名誉心が刺激されます」
「そうなんだ? あ、でも、私も外国の人がボンカレー好きって言ってくれると嬉しい」
 そこは和菓子や和食では、とキリコは思ったが、何も言わずにBJの試食のための準備を整えて行った。バトラーが用意してくれた大皿に少しずつ菓子を並べていく。BJは見えない尻尾をまた振りながらおとなしく待っていた。
 グレイスに勧められたバニラとチョコレートのグラノーラバーは、BJの味覚を鷲掴みしたようだ。美味しい、と感激の声を上げ、やはり見えない尻尾をぶんぶんと振りながら袋を手に取って成分表を見る。女って美味い菓子を食ったらみんなこれをやるんだよな、遺伝子に組み込まれてるのかな、とキリコは思った。無論口に出すような愚行は避けた。
 結局グラノーラバーと苺のクッキー、キリコが選んだジャファケーキがBJのお気に入りになった。オレンジ風味のゼリーを上にのせ、チョコレートでコーティングしてあるビスケットだ。歴史のある菓子だと知ったBJがバトラーに「食べたことある?」と訊くと、当然のように頷かれた。
「特にジャファケーキは以前、仕事の時に支給されておりましたものでございますし。まさにその商品がベルトキットに入っていたものでございますよ」
「へえ。じゃあアンディも食べてるのかな」
「任務中には貴重な甘味でございましょうね」
 二人の前であればSAS時代の話も少しだけしてくれるバトラーは、今日も最高の接客で新しい紅茶を淹れてくれた。
「マフィン、日本に電話を入れてくれないか。そろそろお嬢ちゃんとユリが怒る」
「あ、そうだ。ちょっとしてくる」
「行っておいで」
「うん」
 キリコにキスをしてからBJがリビングに消える。電話の方へ行ったことを確認してから、キリコはバトラーに「情けない話で恐縮だが」と言った。無論バトラーは情けないなどという単語を無視し、はい、と返事をしてくれた。
「可能性にすぎない話なんだ」
「どのような可能性でも、それがお気掛かりでしたらお手伝い申し上げます」
「ありがとう。──その予定はないんだが、もしも。俺が留守で、彼女が一人でこの部屋にいる時、レイチェルという女性の訪問は絶対に断って欲しい。それと、彼女にレイチェルが来たことは知らせない方向で」
「レイチェル様、でいらっしゃいますね」
「そう。来る可能性はまずないんだが、万一もある」
「かしこまりました。ハザマ様にはお知らせしないよう、それが最重要でございましょうね」
 有能なバトラーは事情を問うような真似はせず、それでも最重要点を確認し、そうだ、それが重要なのだ、とキリコに改めて気付かせた。
「ありがとう。くれぐれもよろしく」
「かしこまりました」
「キリコ」
 話が終わったその時、BJが決まりの悪い顔でテラスに戻って来る。
「どうした」
「ユリさんが」
「うん?」
「ユリさんが、キリコを電話に出してって……」
「何の話だ」
「あの、──出れば分かると思う」
「ふうん」
 これは何かまずい話だな、とキリコは予想した。しかし心当たりがない。首を傾げならリビングに入り、受話器を取った。
「どうした?」
『あの女がロンドンにいるんですって!?』
 鼓膜を突き破るかの如き海越しの大音声に遠い目をし、ああ、あいつ、話したのか、とキリコは思った。
 ──ああそうだ、ユリも何度か会ってたな……別れた時の拗れっぷりも知ってるもんな……
「いるよ。いいか、俺は知らなかった、他に言うことはない」
『冗談じゃないわよ。ホテルに来たらどうするのよ!』
「来るわけないだろう。教えてもいない。万一を考えて、ホテル側に対応を頼んだばかりだ。絶対通さないように言ってある」
『何言ってるのよ。あの女、絶対にいさんたちのホテルに入り込むわ。ちょっと調べれば銀髪の隻眼と身体的特徴のある日本人女性が泊まってる場所なんてすぐ分かるし、宿泊客の振りをすればいくらでも入れるじゃない。ロビーでにいさんたちが出てくるのを待っていればいいだけよ』
「まさか。おまえ、いくら何でも──」
『別れる時にどれだけ揉めたと思ってるの?』
「……oops」
『ほら、そうでしょ。揉めた原因を先生に言ってないでしょうね?』
「言えるかよ」
『これからもそうするべきよ。もし先生が知ったら大変なことになるわよ』
「俺から言うつもりはないね。──おまえが心配してくれているのは分かってる。でも現実として、ホテルに彼女を通さないことと、それか俺たちがロンドンを出るくらいしか道がない」
『どうしてにいさんたちがロンドンを出るのよ。そんなのあの女の勝利じゃないの!』
「勝ち負けの問題じゃない。──ユリ、心配はありがとう。できるだけロンドンを出ない方向で何とかする。ただ──」
 キリコは息を吐き、どうして俺たちは穏やかな旅行ができないんだろう、としみじみ思った。
「あいつだけ先に日本に帰すことになったら、その時は成田まで迎えに行ってやってくれ。メンタル面が心配になる状況のはずだから」
『──どういうことよ』
「あまり言えない。とにかく今日を入れてあと9日、あいつに不自由はさせないようにする。無理なら先に日本に帰す。その時は手間をかけるが頼む。お嬢ちゃんにも伝えておいてくれ。言える範囲でいい」
『先生は納得してるの?』
「先に帰す可能性の話はしていない」
 言えば激怒し、そして泣いて嫌がるに決まっている。考えるだけで気が重くなるが、最悪の場合、それも選択肢として考えなければならないと、ユリとの会話の間で決めた。絶対にホテルに来る──そうか、と思ったのだ。そうか、もしかすると──もしあの女が、まだ諦めていないのなら。
『やめてよ』
 ユリがトーンダウンした。深く息を吐き、感情を落ち着かせている。
『やめてよね。最後まで二人で楽しんでよ。誰にとってもいい旅行にして』
「努力する。──ありがとう。愛してるよ。お嬢ちゃんにもよろしく」
『今すぐ先生に同じことを言ってきて。愛してるわ』
 電話を切り、キリコ自身も深く息を吐いた。ユリとの電話でようやく、今の状況はとても安心できたものではないと理解した。してしまった、と言うべきかもしれない。
 俺たちは何かとトラブルに見舞われる。そう思った。だが今回のトラブルは明らかに自分に起因するものだ。俺たち、ではなく、俺、と限定するべきだとすぐに考え直した。
 テラスからBJの笑い声が聞こえた。バトラーが恋人を待つ女を退屈させないよう、あるいは電話を聞きに行かないよう、何か楽しい話をしてくれたようだ。このバトラーといい、不自由な立場で忠告してくれた隊長といい、俺たちは周囲に恵まれている、と不意に気付いた。それだけは忘れるべきではないと思いながら、何を笑ってるんだと言ってテラスへ戻った。ビッグ・ベンの鐘が響いた。