無理に出かける必要はなかった。何しろ用事がない。むしろ買った本を読むことが午後の用事になっていた。夢中と言うよりは取り憑かれたように読み続けるBJと、たまに席を立ってはミニバーで酒を作り、知識のインプットを怠惰に楽しむキリコは対照的だった。
一時間ごとに御用聞きに来るバトラーに返事をするのはキリコの役目だ。甘いものを彼女に、と言うと、手でつまんで食べられるファッジとトフィーを用意してくれた。どちらもイギリスの伝統菓子だ。一口サイズで本を読みながらでも食べられる。
午後から雨模様と言われていた天気予報は外れ、二人は延々とテラスで過ごした。気が付けば日が傾き、バトラーが小型のストーブに燃料のペレットを足しに来てくれた。
「お夕飯はいかがなさいますか」
「ルームサービスにするよ。──読み終わるまで梃子でも動かないだろうしね」
二人の会話も耳に入らない様子で本を読み続けるBJを指すと、バトラーは微笑んで「はい」と言った。彼としてはそこまでこの部屋で熱中してくれることが嬉しかった。それを察したキリコは、色んな人間がいるものだと言う思いを新たにする。
BJが本を読み終えるのと、夕食のハイティーが届くのはほぼ同時だった。もうそんな時間、とBJは本気で驚き、キリコは苦笑する。
「新しい本を買うたびに、お嬢ちゃんを放っておいちゃいないだろうな。子供にはちょっと辛いぞ」
「それはないな。一時間ごとに喚かれるから、そのたんびに現実に戻ってる。こんなに続けて読んだのは久し振り」
「なるほど、俺も喚けばいいか」
「成人男性としての尊厳を捨てるつもりならどうぞ」
イギリス名物のアフタヌーンティーをよりディナーに近付けたハイティーをワインと共に楽しみつつ、BJは本の感想をキリコに話す。それはキリコにとっても面白いもので、思ったよりも充実したディナータイムを過ごすことができた。
ターキーとクランベリーのタルトをつつきながらワインを飲み、キリコが読んでいた本についても話をする。互いの専門が違うがゆえの新しい発見もあり、二人は随分と話し込んだ。途中でバトラーが燃料のペレットをまた足してくれたことにも気付かなかった。
こんな時間でいいんだ、と二人は図らずも同時に思っていた。旅行先で好きなように好きな時間を過ごすだけでいい。日本を出てからやっと、静かに旅行を楽しめているような気がする。観光地を巡りたいと思えば明日以降に行けばいい。少し足を伸ばしてスコットランドまで行くのも悪くない。普段は仕事でしか来ない国でも、たまには観光を楽しんでいいはずだ。
クルーズは残念でしたが、と言いながらバトラーが用意してくれた観光地のオプショナルツアーのパンフレットを見るのも楽しい。ロンドンに来てからろくに観光していないとBJが言うと、バトラーは驚いて、それはもったいない、いくらでもご覧頂きたい場所はございますと目を丸くし、二人に熱心に人気のツアーを教えてくれた。
バトラーが就寝の挨拶をして退室すれば、キリコは悪戯げに笑って指の火傷の保護テープを外してもいいかとBJに問う。意味を悟ったBJは顔を赤くし、唇を尖らせて、好きにすれば、と言った。もちろんキリコに異論はない。テープを外すなりBJをベッドに連れ込もうとしたら、先に風呂だと言い渡される。
「一緒に入る?」
「エロいことするから入らない」
「これからエロいことするのに」
「馬鹿キリコ!」
真っ赤になってクッションを投げ付けてくるBJに笑い、先に入りなよ、と勧めてやる。逃げるようにバスルームに消えたBJを見送って改めて火傷を検分したが、問題なく治っていた。アンディの火傷が酷くならなければいいが、とふと思った。
入れ替わりで風呂に入り、どう可愛がるかを考えてから上がると、BJはベッドに転がって眠ってしまっていた。本に集中しすぎて疲れていたのだろう。そりゃないよと思いつつ、無理に起こして抱く趣味はない。羽根布団の中に入れ、自分も隣で眠ってしまうことにした。眠ったままのBJがもぞもぞと身体を寄せてくる姿が可愛かった。
こういう旅行でいいんだよ。むしろこういう旅行がいいんだよ。キリコはしみじみ思う。穏やかな寝息をたてるBJが果てしなく可愛い。これは幸せと言うべきだ。
流石にIRAも立て続けにテロはするまい。ロンドン中で警備が厳しくなっている。観光をするなら今だ。一般の旅行者には分からない感覚かもしれないが、多くの危機を経験しているキリコにはよく分かる。
そう、分かるのだ。分かっているはずだった。俺は分かっていたはずだったんだ。深夜、ふと目が覚めて妙に眠れなくなり、ベッドにBJを残してリビングのテレビをつけたキリコはソファに沈み込む。
──俺の危機経験なんぞ本物のテロリストの前には無意味だった。
立て続けのテロだった。幸いにも未然に爆発物が発見され、被害は出ておらず、容疑者も身柄を拘束されている。だが暗鬱たる気分にならずにはいられなかった。家から出るな、おとなしく暮らせ。そう言った赤毛の陸軍少佐の嫌味な声を思い出し、それもまた不快でならなかった。
「出過ぎた言をお許し下さい」
翌朝、朝食のサーブをしながらバトラーが言った。彼が言うなら出過ぎたものであるはずがなく、有益なアドバイスだと肌で感じる二人は視線を向ける。
「お出掛けになられるのでしたら、お早めがよろしいかと存じます。無用の来客があるかもしれません」
「無用の?」
「無能の、と申してもよろしいかもしれませんね」
「無能の来客」
「はい」
バトラーはにこりと笑い、新しい紅茶を注いでくれる。BJとキリコは顔を見合わせ、そしてキリコが話を勧めることにした。
「あなたからすれば大方の人は無能だと思うが」
「そんなこと、お二人の前ではとても頷けません」
「どうもありがとう。──どんな無能が?」
「同時多発テロを未然に防げなかった小隊の隊長、あれは無能でございますね」
穏やかに話す口調はいつも通り上品で優しく、理想のバトラーだ。だが言葉の内容は酷いものだった。このバトラーからすればミカエルは無能なのか、とキリコは内心で感心する。キリコの感覚ではあの時のSASは最高の働きをしていたのだから。
「また来るの?」
BJが心底嫌そうな声を出した。世話になったことがあるとはいえ、もう充分に借りは返している。旅行を楽しみたい身としてこれ以上関わりたくなかった。キリコは軽く息を吐き、深夜のテロのニュースを思い出した。
「テロ未遂の件かな」
「左様でございます。ご存知でいらっしゃいましたか」
「何それ」
ニュースを知らないBJが首を傾げる。キリコは説明し、バトラーは新聞を見せた。眉を顰めたBJは「いい加減にして欲しい」と言って唇を尖らせた。可愛い顔するんじゃありません、とキリコは思った。
「差し出がましくて重ねて恐縮ではございますが──あの小隊の方針として、おそらくドクターとハザマ様に改めて事情聴取を要請するはずです」
「やだ、絶対観光行きたい」
「もちろんでございます。──8時半、つまり一般的な滞在のお客様の朝食が終わり、一息つかれる時間帯に連絡なく3名で参ることでしょう。内訳は隊長、内閣の情報分析官、陸軍の対テロリズム部署の佐官でございます」
キリコは頷き、形式として問うた。もはや彼の言葉を疑うつもりなど微塵もなかった。
「根拠は?」
「僭越ながら、私の時代に私が定めたマニュアルでございます」
「信じる以外にできることがないね」
時計は8時少し前を指している。朝食はあらかた終えた。BJが溜息をついてありったけのマーマレードをスコーンの最後の一口に塗り、言った。
「もし来ても、大使館を通さないなら話さないって言っておいて」
「かしこまりました」
たっぷりのマーマレードとスコーンを口に放り込むと、不作法にも口を動かしながら席を立ち、BJは出かける準備をしに寝室に向かった。
「ドクター、大変恐れ入りますが」
「ん?」
「お出掛けの際には正面玄関ではなく、裏口をご利用頂かれた方がよろしいかと存じます。ご案内致します」
「──根拠は?」
「既に監視されていると予測できます。訪問は3名でも、動員は6名の規定ございます。事情聴取の場合の裏口の配備は1名ですが、僭越ながら私が隊員を締め上げ──失礼致しました、話をしている間にお出掛け頂けます」
「締め上げ……話をする以外はあなたが定めたマニュアル?」
「私の前の隊長が定めたマニュアルでございました」
「ありがとう。──あなたは回顧録を書くべきだよ。間違いなく飛ぶように売れる」
俺も読みたいね、と言ってキリコも身支度を整えるために立ち上がった。バトラーは相変わらず微笑み、恐れ入ります、と返事をした。
「差し出がましいのですが、まずはハロッズへ向かわれるとよろしいかと。人が多いですし、地下鉄も乗り入れています。彼らの追跡があっても充分に楽しめますよ」
「そうするよ。ありがとう」
そして15分後、犯罪者気分、とBJが呟き、そりゃまあ俺たちはね、とキリコが言葉を濁す前で、現役のSAS隊員が笑顔のバトラーを見て驚愕の顔をしたまま地にねじ伏せられる。まだ現役でいけるんじゃないかと二人して思いながら、バトラーに礼を言って裏口を駆け抜けたのだった。俺のお客様を煩わせるんじゃねえ、1分以内にミカエルを呼んで来い、と聞いたこともない言葉を低い声でバトラーが隊員に言っているような気がしたが、聞こえない振りをし、早足で通りに出てタクシーを拾った。
「取り敢えず出してくれ。そうだな、──ハロッズの方面へ」
「まだ開店前ですよ」
「近くを歩いてみたいんだ」
「そりゃいい、散歩に疲れたらカフェもありますしね。ハロッズ前のカフェは人気がありますよ」
タクシーが走り出し、シートに深く座った二人は同時に息を吐いた。それからBJは言った。
「何でハロッズ? 毎日行ってる」
「ジュードに会う。いればいいんだが」
「あいつに? どうして? もう借りはないのに」
「日本語」
「──いいよ」
ドライバーに分からないであろう言葉に切り替え、キリコは話を続けた。
「いい加減、あいつの目的を知っておいた方がいいと思うんだ。こうなると流石にテロと無関係だとは考えられないし、必要ならロンドンを出る」
「出る? 冗談だろ、何で私たちが逃げなきゃいけないんだ」
「逃げるんじゃない。他国の武装勢力のリーダーが老舗百貨店の店員をしている、これだけで本来はもう異常だ。俺たちに関係ないから放っておいたが、一昨日のテロで俺たちは現場に関わった。ジュードは確実にそのことも、それにアンディが入院したことも知っている」
「アンディのことまで? アンディの個人情報なんて報道されてないのに?」
「蛇の道は蛇だ。夜中に病院の警備をくぐり抜けてアンディの見舞いに来ている。嫌がらせだと思うがね」
「そんなこと初めて聞いた」
「アンディから聞かなかったか?」
「聞いてない」
「そうか、言わなくて悪かったよ」
聞いていないことは知っていた。アンディが気を使って──二人の旅行をこれ以上邪魔したくなかったのだろう──自分だけに言ったからだ。だがそれを言えばBJの機嫌が悪くなることが容易に予想できたため、キリコは敢えてとぼけておいた。
「でも、それと私たちがロンドンを出るのに何の関係があるんだ。私たちはただの観光客なのに」
「ごめん、俺の問題かもしれない」
「ちゃんと話して。訳が分からない」
「IRAなり、他の武装勢力が俺たちに接触する可能性が出来た、ってことだ。俺たちの──救護活動で目立った外国人医師二人を人質なりにして政府に脅しをかけないとは言い切れない」
即座に理解したBJは「ああもう!」とやや大きな声を出してドライバーを驚かせ、キリコが彼に謝るはめになった。
外国人が人質になれば、該当する国を巻き込むことになりかねない。特にこの時代、アメリカ人と日本人が海外で人質事件に巻き込まれれば想像を絶する騒動になることまで予想できた。更にキリコはフォート・デトリックの件がある。政権を揺るがしかねない秘密を知るキリコが万一人質になろうものなら、アメリカ側が全力で救助をイギリス側に要請するはずだ。
「そっか、分かった。私はともかくキリコはまずいってことか。それならあいつに話を通した方がいいんだろうけど──フォート・デトリックにはどうする?」
「そっちもまずいな。軍に直接連絡した方が早いかもしれない」
「アメリカ大使館でも行く? どうせCIAの誰かが潜り込んでるんだろうし、最速じゃない?」
投げやりな口調になったBJから「もううんざり」と言う感情が溢れていて、キリコは苦笑せざるを得なかった。
「ハロッズ前の電話ボックスで足りる」
「終わったら服を買って。昨日買ってくれなかったんだから」
「俺は買ってやりたかった。先に本を買ってすぐ読みたいって言ったのは誰だ」
「先に服を買おうって言ってくれればよかっただけなのに!」
「そうだな、俺が悪かったよ」
女の無茶苦茶な我儘を慣れた口調で受け流し、ハロッズ前でタクシーを降りる。BJはキリコに目の前のカフェに行っているように言われた。少し長話になることは予想できたため、BJも文句を言わずにカフェへ向かう。
まだ早い時間だと言うのに店内はそれなりに賑わっていた。肌の色と見た目で奥の席に行けと言われるだろうと予想していたBJは、店員に大袈裟なほどの笑顔を向けられてやや驚く。
「一昨日、テロの救護をなさったお医者様ではありませんか? 私はあの現場にいたんですよ!」
「それはどうも。あなたは被害に遭わなかった?」
「恥ずかしいけど、仕事帰りで通っただけで。ただの野次馬だったんです」
「応援してくれたのね、ありがとう。ああいう時は励ましてもらえるととても力が出るの」
店内の視線が集中したことが分かり、営業スキルのひとつとしての言葉をかけると店員は破顔し、店内で一番良いテラス席に案内してくれた。ホテルのテラスと同様にブランケットと小型のストーブがある。席に落ち着いて紅茶を頼み、視線を巡らせると、通りを一本隔ててキリコが話している電話ボックスが見えた。キリコも気付いて僅かに笑い、軽く手を振って来る。何となく恥ずかしくなって小さく振り返しておいた。
目の前の道を歩いて行く人々を眺め、キリコの電話が終わるまでのんびりと待つ。今頃ホテルではどうなっているだろう、と気になった。バトラーが勧めるままに出てきてしまったが、当のバトラーに迷惑がかかっていたら申し訳ない。
「おはようございます。お一人でいらっしゃるんですか?」
不意に声をかけてきた人物が誰かに気付き、一瞬緊張した自分が馬鹿みたいだと息を吐いた。出勤途中のジュードだ。薄い眼鏡の下で微笑み、手にはデリのコーヒーを持っている。白い頬が寒気で僅かに赤みを帯びていた。典型的な白人だ、とBJは思った。
「おはよう。いや、あそこに」
「ああ、お電話中ですか」
BJが目で示した先にいるキリコを見てジュードは頷く。電話をしながらBJを見ていたキリコは先に驚いていたが、ジュード相手なら特に問題はないと分かっているからか、そのまま電話を続けていた。
「後でおまえさんに会いに行こうと思ってたんだ」
「御用でも?」
「主にキリコがね。私たちがロンドンを出るべきかどうかの判断材料が欲しいんだと思うよ」
「別に、私がどうこう申し上げることでもございませんね」
「へえ?」
「ロンドンにはいつまで?」
「あと4日。……あと4日か……」
「どうなさいました」
「8日間旅行を楽しむつもりだったのに、もう4日過ぎて、それが全部トラブルで潰れてるから。あと4日しかないと思うと気分が悪い。最終日は移動で潰れるんだし、実質3日」
「それはお気の毒としか申し上げようがございませんね」
流石に同情した声になったジュードに肩を竦める。
「では私はこれで。御用があれば1階でお待ちしております」
「ありがとう」
「あと4日、ごゆっくりお楽しみ下さい」
ジュードが職場へ歩き去る姿を見送り、ふうん、とBJは思った。あと4日、ごゆっくり──つまりロンドンを出る必要はない、とジュードは言っていたわけだ。ジュードが所属する武装勢力が動きを起こすつもりがないという宣言でもある。
キリコが電話を終えてここに来たら話してやろうと思いつつ、冷めかけた紅茶を口に運ぶ。そして心底うんざりした。ロンドンを出てもいいような気がした。
「偶然ね。今日こそ一緒にお茶をしましょうよ」
美しくて魅力的な女が笑い、勝手に同じ席に座る。BJは返事をせず、その顔をじっと見た。レイチェルは見返し、うふふ、と笑ってみせた。
「本当に偶然よ。わたし、遅番だから出勤前に買い物をしたかったの。冬のコフレが今日発売で──」
勝手に話し出す女に恐怖さえ覚えながら、BJは彼女の美しい顔から目を離さなかった。彼女の話には興味が持てなかったが、聴覚が自動的に脳に届け、キリコの話をしているのだとやがて理解した。
「やましいことはしないから、キリーと二人で話をさせて欲しいの。どう? 電話が終わればここに来るんでしょう?」
「レイチェル」
「なあに?」
「あなたは──」
その瞬間、BJは腕を強く掴まれ、通り側に引きずり出されるかのように立たされた。嗅ぎ慣れた香水の香りで驚くことも怯えることもなく、抱き寄せてくれる腕に隠れて大きく息を吐く。周囲の客がたちまちゴシップを楽しむ目を向けて来たが、レイチェルから離れられるのであればどうということはなかった。
「俺の話を忘れたか」
キリコの声は鋭く、そして厳しいものだった。レイチェルは不満げに眉を顰める。
「忘れてないし、約束を破ってもいないわ。仕事前に買い物をしに来ただけよ」
「おまえの職場から随分遠いな」
「日用品はいいって言ったでしょ? ハロッズで化粧品を買うのよ。メイクもしないで接客しろって言うの? わたしの仕事を馬鹿にしてる?」
「二度と近付くな。次はない。最終通告だ」
「じゃあ、二人だけで話をしてよ。もう、彼女がいたけりゃいてもいいわよ」
BJはレイチェルを再び見詰めた。別れた男に縋る彼女の姿は決して滑稽ではなく、ああ、本当に好きなんだ、と思った。そして美しい女だと改めて知った。
「キリコ」
「ごめん、行こう」
「これ以上繰り返すのも御免だから、しっかり話をして。私はホテルに戻ってるから」
途端にレイチェルは勝ち誇った顔になり、キリコは絶句する。だがすぐに「分かったよ」と溜息をついた後、ごめんね、ともう一度言ってBJにキスをした。
そのままBJはタクシーを拾うために通りへ出る。ビッグ・ベンが穏やかに鳴った。穏やかな旅行なんて無理だ、と思い、鐘の音が鬱陶しくなった。
ロビーにはスーツ姿のミカエルと、いかにも役人然とした男、それから軍服を来た品のある男がいた。ミカエルに声をかけられたが「大使館を通しな」とだけ言ってエレベーターへ向かった。他の二人を制し、ミカエルだけが着いて来る。
「ドクターは?」
「昔の女と話し合い」
「彼女と? 何のために?」
「私に訊く? 頭おかしいんじゃない?」
「──失礼した」
必要以上に言葉に棘が出たことは反省するべきだが、ミカエルの不躾な質問も大いに反省されるべきだとBJは思った。彼の立場からすればどんな情報でも今は知りたいはずだと分かってはいる。それでも巻き込まれた身としては気分が悪い。
「バトラーに何を言われた?」
「ぐうの音も出ないほど説教をされたよ。昔を思い出して背筋が伸びた」
「おまえさんを無能って言ってたよ。ざまあないな」
「言い訳出来ない。有能なら先生を煩わせるようなこともないし、今頃ドクターと良い旅行を楽しんでもらっていたはずだ。申し訳なくて立つ瀬がない」
本気の反省振りが分かり、BJは自分の悪い口を後悔した。ミカエルは今、ロンドン市民のために奔走しているはずだ。自分たちが迷惑をかけられていることは確かだが、貶めた言葉を投げかける資格があるわけでもなかった。
「私も言い過ぎた。おまえさんが今、物凄く厳しい時だってことも分かってる。──でもちょっと今は無理なんだ。私の気分が良くないし、こうなると少し一人の時間が必要なたちでね。改めてくれ。今度はこんな朝駆けじゃなくて、先に連絡を」
「分かった、そうさせてもらう。本当に失礼した」
「最低でもあと5日」
「え?」
「ジュードは自分からは何もしない。あと5日、私たちがロンドンにいても問題ないようだから」
「──ありがとう」
悪い口への詫びとして情報を落とし、BJはエレベーターに乗った。
既にルームキーピングが終わっていた部屋に戻り、バトラーに電話をかけ、しばらく部屋に来ないで欲しいと伝える。それから外線で電話をかけた。もしかすると既に事情を知られ、笑われるかもしれないがそれでも良かった。間久部に話をしたかった。
『もちろん知ってるよ。どうなるのかなーって思ってたんだよね』
間久部は笑った声を作りながら、それでも気遣っていると分からせてくれるように言葉を選んでいた。手厳しいことを何ひとつ言わない幼馴染に感謝しながらBJは話をする。間久部はうん、うんと聞き、それにしてもよくあんな男と付き合ってられるよね、とおどけ半分、本気半分で言った。本気の部分には気付かない振りをした。
『あんまり辛いならロンドンを出れば? 二人でさ。うちの連中まで心配してる』
「よく見張ってくれてるもんだよ、本当に」
指の一件以来、間久部が自分への執着を強く──病的に強くしていることをよく知っている。だが好きにさせておいた。それで間久部の気が済むのなら良いと思っていた。二人だけの世界で行きていた時間を思い出せば、そして自分が裏切ったことを考えれば、何も言えることなどあろうがずがない。
『その女のこともそうだけど、近いうち、IRAはまた何かやるよ。今調べてるけど──多分、MI6やSASも掴んでる情報だと思うんだ。巻き込まれないうちに出るのも賢いと思う』
「こんなに短期間に?」
『だからこそさ。もうすぐイギリスは選挙だ。テロが続けば今の内閣の支持率は落ちる。アイルランド系の議員の席が増える可能性が高くなる』
「アイルランド系、ね。みんな白人にしか見えないのに」
『白人の中でも差別があるからね。アイルランド系は白人の中じゃヒエラルキーの最下層扱いだ。──人間ってのはどんなカテゴリーでも差別をしたがるもんさ。クロちゃんだって日本人の中でさえ、散々な思いをしたじゃないか』
幼い頃からのことを知っている男の言に苦笑する。まったくだよ、と急におかしくなった。日本人同士の中でさえ、白人同士の中でさえ差別があるのに──そうか、そんなもんさ。急にそう思った。
「間久部」
『うん』
「今度フランスに行ったら食事くらい奢らせてやってもいいよ」
『そりゃあ嬉しい。でもドクターがいない時に頼むよ、彼になんて会いたくないからね』
「気持ちが分かるような、分からないような」
そんなもんさ。そう思えた。差別的な目を向けないバトラーやミカエル、アンディやグレイス、そしてジュード。彼らの方が珍しいのだと気付いた。『こんな見てくれでも』──タクシーの中でレイチェルにぶつけられた侮辱的な言葉を思い出しても、大丈夫、と思えた。
『前から聞きたかったんだけどさ、クロちゃんってドクターのどこがいいのさ。昔はあんなに嫌ってたのに』
「え、何、いきなり」
『たまには聞いてみたいなーって。ドクターのどこが好き?』
「ええ……」
BJは思わず真剣に考える。考えに考え、ようやく言った。
「……ぜ、全部……」
『……ひとつでいいから』
「え、じゃあ──怒っても殴らないとこ」
『……他には……?』
「……服を破らないとか……」
『……えっちする時?』
「……うん……」
『普通はどんな男でも殴らないしえっちする時に服破かないってば……!』
「え、そうなの!?」
『そんなの合意の上でのプレイ限定だよ! 店で大枚はたいてやっと実現できる男の方が多いんだからね!?』
「え、何、確かに一般的じゃないだろうけど、え、そこまで珍しいことだったの!?」
『何なの、どういう男知ってんの、って言うかどんな男しか知らないのクロちゃん……!』
電話の向こうで嘆く間久部の反応に驚き、だって昔の男が、と思わず説明し、知らなかった時代の話を聞いた間久部は、ドクター以外にまともな男と付き合ったことねえのかよ、そりゃドクターがまともに思えるはずだよ、と深く溜息をつく。とどめのようにBJが「じゃあユリさんや将来のピノコのことも心配しなくていいんだ」と心底安堵した声で言ったものだから、もしもクロオがドクターと別れることがあったら次の男はぼくが見繕う、と強く心の中で誓ったのだった。
話し合いにもならなかった。互いに要求しかしないのだから当然だ。普段のキリコならスムーズに話を進めるため、言葉だけでも柔らかくしたかもしれない。だが今は一歩も引いてはならないと分かっていた。
アウトローの連中の方が話が早いとまで思ってしまうほど、レイチェルは頑固で、そして偏執的に関係の復活を求めた。キリコはひたすらノーを貫き、今後一切自分とBJに近付かないことを要求する。無論レイチェルは受け入れない。
カフェで長時間、こんな話を続けることは恥も恥だ。レイチェルは嫌がり、移動を提案した。だがキリコは拒否した。人目がある場所で話し合いをするべきだったし、レイチェルの要求を何ひとつ、どんな小さなことでも受け入れまいと決めていた。
「そんなにわたしを拒否する理由って何なの? 彼女と別れろなんて言ってない、考え直してって言ってるだけじゃない」
「要は二股かけろって? それがもう俺には理解できないし、する気もない。そんな不誠実な真似を勧めるおまえがどうかしているとしか思えないね」
「だから──」
レイチェルは食い下がる。また同じ話だ。何度も聞かされてうんざりしながらも、それでもキリコは辛抱強くノーを言い続けた。
おまえの店にIRAの人間が通うことは偶然なのか? ──これを言えば話が終わるかもしれない。だが口にしたくなかった。もしも真実であれば、キリコはレイチェルを通報する義務を負うことになる。MI6やSASへの通報ではない。アメリカ大使館、あるいはCIAへ。レイチェルがアメリカ国籍を有しているからだ。今の段階ではあまり手を出したいとは思えない方法だった。
──俺が通報すればグラディスに連絡が行く。デルタフォースは本来、対テロ部隊だ。レイチェルに対してどんな行動に出るか──
はっきりした証拠を得たとなれば、グラディスは容赦なくレイチェルを逮捕するように主張するだろう。状況によっては殺害命令を要請する可能性もあった。
「俺はどうあってもおまえとはやり直せない。おまえがロンドンで生きていくのは勝手にすればいい。だが俺に近付くな。俺の女にも二度と近付くな」
「随分惚れ込んでるのね。気分が悪いわ」
「だったら俺たちのことなんか忘れるといい。おまえならもっとましな男が見つかるよ」
「ねえ、キリー。理解してよ」
また堂々巡りだ。何という不毛な話し合いなのかとキリコはうんざりする。いっそグラディスに通報してやりたかった。やろうと思えばいくらでもできる。だがそれは今ではない、と自分に必死で言い聞かせた。
「おまえがその調子なら、俺はロンドンを出る。もちろん俺の女を連れて行く。その程度にはおまえを見たくないし関わりたくもない。これが俺の最終結論だ」
「そんなことしてもらう必要はないわよ。あなたがわたしとの時間を取ってくれればいいだけよ」
「お断りだ。そんな時間があるなら俺の女を可愛がった方がいい」
「──彼女がわたしより劣っているとは思わないわよ。彼女は有名だし、色んな話も聞いたわ。わたしの友達も彼女に会いたがってるくらいにね」
遂に、とキリコは思った。遂ににおわせた。レイチェルは今、IRAとの関わりをキリコに示してみせた。キリコは分からない振りをするしかなかった。
「おまえの友達に興味はないし、あいつを会わせるつもりもない。駆け引きにもならない」
「そう思う?」
「そう思うようにする。おまえができることは限られている。──ここで二度と俺たちに関わらないことを誓うか、ロンドンを出るか、それとも──」
キリコは極限まで声を低くし、最終通告を言い渡した。
「自分で始末をつけるか、だ」
「キリー」
レイチェルは息を吐いた。
「全部知ってたってこと?」
「さあな。だが俺はおまえに優しくしようとはもう思えない。違った形なら話くらいは聞いてやれたと思うが、あいつを傷付けた時点でもう無理だ」
「闇じゃ蓮っ葉で男勝りだって聞いてたのに、随分純情だし気弱でびっくりしたわ。ああいうの、流行遅れの言葉で言うならネンネちゃんってやつね。あなた、ああいうタイプには興味なかったくせに」
「どれを選ぶか以外は話をするな」
「──自分で始末をつけるわよ。これでいいんでしょう?」
キリコは数秒間レイチェルを見詰めた後、テーブルに金を置いて立ち上がった。二度と会わない、と呟いたが、レイチェルは返事をしなかった。言ったのは違う言葉だった。
「もう少し優しくしてくれたっていいじゃない。患者にはあんなに優しいのに」
聞こえない振りをしてキリコは店を出た。ホテルに電話をして、今度こそ終わったよ、と早く言ってやりたかった。