背中で聞こえるユーモレスク 01


・名前と性格を持ったオリジナルキャラクターが多数登場します。
・キリコの過去の恋人(女性)が全編を通して登場します。
・過去作品の設定やエピソードが絡んでいます。
・以上、ご理解の上でお読み頂ければ幸いです。


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 ロンドンの始まりは決して良いものではなかった。BJは予想していたことだったし、はっきり言えば慣れている。空港内のショップでちょっとした買い物をしようとしたところ、人種の問題で不平等な扱いを受けただけだ。だけだ、と言えば、目の前の男性スタッフに紳士的に、だが強く抗議しているキリコは更に怒るだろう。分かっているのでそれは言わないでおく。
 キリコの抗議内容はもっともで、足を止めて聞いている周囲の人々も賛同して頷いたり、賛意を声に出す者もいる。だが店員は強情なのか、それとも引っ込みがつかないのか、キリコにいちいち反論し、ポーズだけでも改める気配を見せなかった。
 BJは自分のために怒ってくれている恋人や周囲の人々に感謝しながらも、キリコにそっと声をかける。何らかの演技をする必要はなかった。キリコは本気で怒り、公衆の面前では滅多に見せない負の感情を発露させ、周囲の人々も本気で見守ってくれている。それで充分だった。
「もういいよ。ロンドンの名物だ。言っておくけど、英国じゃまだましな土地なんだから。田舎はもっと酷い」
「だからって、おまえ。何をされたと思っている」
「気分がいいわけじゃないけど、怒ってるキリコは怖いよ」
「──悪かったよ」
 潜在的な男性恐怖症を患うBJの「怖い」と言う言葉には敏感に反応してしまう。溜息をつき、感情を収める努力をした。周囲の人々はまだ不満そうな様子を見せたが、当事者がそう言うのならこの場は終わりにするべきだ。
 キリコに強い抗議を受けていたスタッフも息を吐き、いかにも「仕方ない」と言った顔で口を開く。
「お客様がお買い上げになられれば問題ございませんよ。これは在庫が少ないので、売る相手を選んでいるんです。優先度がございまして──それならお客様がお買い上げになって、彼女にプレゼントなさればいいと言う、これはもう簡単な話で」
「簡単な話が原因で私がきみに抗議をすることになった、というのも簡単な話だ。また最初からやり直そうか?」
「──いいえ」
「行こう」
 キリコはBJを促し、ショップを出た。BJは溜息を押し殺す。到着早々に嫌な気分にさせられたものだ。だが、慣れているという言葉で諦めてしまう自分よりも、恋人のために正当な権利を主張するキリコや、それを応援する周囲の人々の姿勢こそが正しいと知っている。そして今、彼らの多くがやはりショップを後にしていた。わたしはそれだけでいい、それだけで救われる、とBJは思う。
「他で買えばいい。市内に本店があるし、面倒なら俺が買ってくるよ。急がないなら帰りの免税エリアでも」
 歩きながら言うキリコの言葉に微笑む。優しい男だ。あの店にしか売ってない限定品なんだ、ユリさんが欲しがっていたから買いたかっただけ、とは言わないでおいた。
「それより、早くホテルに行かない? チェックインの時間は?」
「まだ少しかかる。荷物はもう送ってあるから、別の場所で時間を潰そう。ホテルのラウンジでもいいし」
「あれ買いに行きたい。苺のショートブレッドとレモンクッキー」
「まだ食うのかよ」
 以前、ピノコと三人でロンドンに滞在した時にBJとピノコがひどく気に入った菓子だ。思い出したキリコは笑い、揶揄されたBJは怒った振りをして笑った。一日中、あの店での嫌な気分を引きずらなくて済みそうだと思った。
 空港から市内に出るタクシーの中で、BJが行きたい場所を羅列した。頷いて聞きつつ、そのうちキリコは苦笑する。
「ユリに頼まれたのか?」
「──分かる?」
「あいつが好きそうな店ばっかりだ。おまえが行きたい場所にしろよ」
「そう言えば観光で来たことないし──あ、でも、あの靴屋だけは行かないよ」
「oops」
 前回の失態を思い出したキリコは呻き、シートに深く沈む。BJがしてやったりと笑った。ずっと根に持っていたことをやっと叩き付けてやれた気分だ。あの時は恋人同士ではなかったから怒り切れなかったが、不愉快だったのだから構うものか。男性が苦手とする女性の面倒な一面だろう。
「──あ」
 市街中心に入ってしばらくした頃、窓の外を見たBJが声を上げた。つられて見たキリコも「ああ」と言う。
「再建できたんだな」
「よかった。ほとんど吹っ飛んでたのに」
 爆破テロに遭い、甚大な被害を受けたはずのカフェがそこにあった。傷跡を感じさせないほど小洒落た作りに、やはり小洒落た客たちが見える。あの場での凄惨な記憶を忘れることはできないが、再建できたことを喜ぶ気持ちに嘘はなかった。
「後で寄るか」
「大丈夫?」
 救出作業中、過去の戦場を思い出し、一時的に心のバランスを崩した男を心配する。キリコは穏やかに微笑み、頷いて、もう大丈夫だよ、と口には出さずに手を握って伝えた。BJは安心したように頷き、握られた手の指を絡めて握り直した。
「お客さんたち、あの店が吹っ飛んだのを知ってるのかい」
 不意にドライバーが言った。キリコが「多少ね」と答えると、ドライバーはルームミラーを僅かに傾け、ミラー越しに二人を観察する。
「乗った時にそうじゃないかと思ったんだが、救出作業に協力した女医さんと旦那さんじゃないか?」
「──よく知ってるな」
「たまたま俺も現場の近くを走っててね。軍が来るまで救出作業を手伝ったんだ。来てからは野次馬さ。──奥さんはそりゃあすごかった。神様だって後でみんなで言ってたよ。旦那さんがいなくちゃもっと犠牲者が出てたって話も聞いたし、あの時はありがとう」
 全員を救うことはできなかった。BJはそれを思い出した。彼は今、礼を言ってくれた。だが救えなかった人の家族は決してそんなことを言えないだろう。それでもこの彼の言葉に嘘はない。
 命って何だろう。たまに思うことをまた思う。
「役に立ったと認めてもらえることは心の糧になる」
 ドライバーに言っているのだろうに、BJはキリコがまるで自分に言っているのではないかと感じた。
 キリコはドライバーとBJ、そして自分に言っていた。
「心の糧があれば医者は前に進める。──覚えていてくれてありがとう」
 逆に礼を言われたドライバーは面食らい、照れ隠しのように「そうかい」と言って肩を竦める。BJは絡めた指に力を入れてキリコの肩にもたれかかった。入れ返してくれた力が嬉しかった。
 タクシーを降り、二人で同時に何となく顔を見合わせて笑った。
「奥さんじゃないけど」
「旦那さんじゃないけどな」
 ビッグ・ベンの鐘が鳴った。ロンドンの名物だ。日本の学校のチャイムと同じメロディなんだよ、とBJが言うと、キリコは苦笑した。日本がイギリスから多くの文化を取り入れていることは知っているが、まさかビッグ・ベン独特のメロディを学校で採用するとは。
 キリコがBJの医療鞄を持ち、手を繋いで歩き出す。ロンドンの中心地まで来れば観光客も多い上に、独自のファッションで歩く人々も少なくない。良くも悪くも二人は目立たなかった。たまにBJの傷と皮膚に気付いて振り返る誰かがいる程度だ。大都市はこれがいいんだよね、とBJが呟いた。キリコは何も言わなかった。
 目当ての店は観光客向けではなく、地元の住民向けだ。それでも裕福な地域に相応しく、小洒落て品質の高い菓子が並んでいる。キリコが目当てのものを頼むと、店員の女性が「あら」と言った。
「キリー?」
 キリコは思わず言葉を失い、BJは表情を消す。白い肌の店員は背が高く、モデルのように美しい女で、キリコに向かって華やかに笑ってみせた。
「キリーでしょう。久し振りね。懐かしいわ、何年振りかしら」
「レイチェル?」
「覚えてたみたいね。先月からここで働いてるの。あなたは仕事? 妹さんは元気? お父様は?」
「──苺のショートブレッドとレモンクッキーを。すぐ食べるから簡易包装で」
 旧知の男の素っ気なさに鼻白んだレイチェルは明らかに不愉快そうな顔をしたが、やがてBJの存在に気付き、その顔を引っ込め、BJに微笑んだ。
「日本人なの? 趣味が変わったのね」
「キャンセルする。失礼」
「ちょっと」
 引き止める素振りを見せたレイチェルを無視し、キリコはBJの腰を強く抱いて店を出ようとする。その背にレイチェルが声を張り上げた。
「今、どこに住んでるの? まだあの仕事をしてるんでしょ?」
 BJが振り返った時、目に入ったのはキリコによって閉じられた店のドアだった。こんなこと、慣れてない──BJは思った。こんなことには慣れていない。突然現れた美しい女の馴れ馴れしい態度、無視しようとするキリコの態度、腰を強く抱かれて速足で店から遠ざけられることに慣れていない。
「誤魔化しても仕方ないからはっきり言うよ」
 キリコがようやく速度を落とし、溜息混じりに言ったのは、ゆうに1ブロックは歩いてからだった。あの店は当然もう見えない。観光客に埋没できるロンドンにキリコは感謝した。
「昔の女だ」
「──ああ、そう」
 あの靴屋に連れて行ったんだろう、とふざけて言えれば二人して笑い飛ばして終わりにできたかもしれない。だができなかった。女への嫉妬が沸き起こるほど冷静ではなかった。はっきり言えば、何が起きたのかすらよく分からなかったところへ、滅多にないキリコの様子に動揺してしまっていた。
「あそこにいたのは知らなかったんだ」
「ああ、そう、うん」
 どうしよう、どうしよう──いい歳なのに自分でも呆れるほどに動揺している。心臓が嫌な速さで動いて、それなのに手指が冷たくなっていた。キリコだって困ってる、困って──
「──だから──」
「──ハロッズ行かない!?」
 キリコが言葉を選んでいたその時、BJは我ながらわざとらしいと思うほどに不自然に、だが精一杯に言っていた。
「あそこにも苺のショートブレッドとレモンクッキーがあるし、それから──ハロッズ・ベアの缶入紅茶とトートバッグがあったらユリさんとピノコに買ってあげたいし、あと何階だっけ、子供服も──」
 地元の住民のみならず、観光客が一度は訪れる高級百貨店の名前を出し、それからあれもこれも買いたい、見たいと立て続けに言う。キリコは軽く息を吐き、それから微笑んでBJにキスをした。
「ごめんね」
「歩きたくない、タクシー拾ってよ、早く」
 謝られても困るだけだ。我儘を演じて男を急かし、男の中にきっと蘇りつつある過去の女の記憶を追い払いたかった。冷静になりたくなかった。
 よりによってキリーだなんて。そう思った。
 ──よりによってキリーなんて。あの名前で呼ぶなんて。仕事のことも知ってるなんて。
 冷静になれば考えてしまう。必要のないことまで勝手に考えて、勝手に想像して、勝手にネガティブになってしまう。自己嫌悪すら馬鹿馬鹿しくなるほどに、BJは自分の性格を把握していた。だから今は冷静になりたくなかった。
 ドレスコードのある高級百貨店だけあって、BJは自分の外見で入店を断られるのではないかと危惧したが、前を閉めたコートの仕立ての良さがその危惧を追い払った。いかにも欧米の紳士然としたキリコが一緒だったことも大きい。15分ごとに違う鐘の音を聞かせるビッグ・ベンが、毎正時と呼ばれる一時間ごとの音を響かせ、14時になったことを告げた。
「先にお茶なりランチでもしようか。フライトで疲れただろう」
「ううん、いい。キリコが行きたければ一人で行って」
 普段なら「行きたければ行こう」と言うだろうに、とキリコは一瞬訝しむが、すぐに理由が分かり、謂れのない自己嫌悪に陥る。落ち着いた時間を持ちたくない、つまりまだ冷静になりたくないのだと見抜いた。原因は簡単だ。美しい女、キリーと言う名前。医療以外のこと、特に恋愛ごとに関しては信じられないほど動揺しやすいBJにはかなりきつい材料になっているだろう。
「俺はいいよ。ホテルでアフタヌーンティーがいい」
「あ、それいいな」
「前の部屋だし、バトラーも前の彼なんだ。挨拶代わりに土産も見ようか」
「──うん」
 BJの顔が輝く。前回世話になったバトラーの有能さ、親切さを思い出して嬉しくなった。きっと今回も不自由なく、そして少し上等な人間になったような錯覚を与えて過ごさせてくれるはずだ。元特殊部隊員という経歴が意外すぎるが、ホテルスタッフとしての能力を知るBJからすれば些細なことだった。
「何にしよう。カタールで買ってくれば良かった!」
「確かにな。まあ、気持ちだ。消え物にするか。──失礼」
 客の質問にも応えるアテンダントの若い男性に声をかける。黒髪の彼は薄いフレームの眼鏡の奥からにこりと微笑み、御用を承ります、と言った。BJは彼と話をせず、キリコに任せることにする。キリコはアテンダントにいくつか説明をし、相応しい売り場はないかと問うた。
「そういったご用命でございましたら、そうですね、地下がよろしいかと。ワインや葉巻が揃っておりますし、ホテルスタッフが頂戴しても恐縮しすぎないお品も揃えております」
「行ってみるよ。名前は?」
「ジュードと申します」
「ありがとう、ジュード。また来ることがあればよろしく」
「お待ちしております」
 アテンダントに恭しく見送られ、二人はエスカレーターへ向かう。イギリスの百貨店で初めて設置されたエスカレーターは、エジプシャン・エスカレーターと呼ばれ、存在そのものが観光名所だ。スフィンクスのオブジェを眺めながらBJに説明してやると、知らなかったBJは喜んだ。キリコとしてはまだ冷静にならなくても良い時間を提供するしかなかった。
 子供服は後日に買いに来ることにした。地下のフロアが思った以上に圧巻で、バトラーへの手土産の他にもつい買い込んでしまったのだ。
「10日もいるんだ。ゆっくりでいいさ」
「日本人だからかな、何だかあれもこれもって焦っちゃって」
 BJの言葉にキリコは少し笑った。そしてBJは、ああ、わたしの馬鹿、と自分を心の中で罵る。──『日本人なの? 趣味が変わったのね』。思い出しても仕方ないし、彼女はきっと事実を言っただけだ。気にしない。まだ冷静にならなくていい。
「マフィン」
 恋人を呼ぶペットネームで声をかけられ、はっとして顔を上げた。無意識のうちに黙り込んでしまっていたようだ。キリコが困ったような顔で、それでも明らかに謝意を示す顔で見ていた。
「嫌ならロンドンを出るよ。どこにでも」
「──違うから。ねえ」
 愚かなまでに優しいことを言う男に焦った。キリコには何ひとつ責がない。BJにもない。あのレイチェルにもないはずだ。
「そんなこと言わないで」
「でも」
「楽しくしたい。それでいいんだから」
「──大丈夫?」
「楽しみにしてたんだから。お願いだから」
「マフィン、──失礼、何でもない」
 大声を出したわけではなかったが、まるで言い争いのような風情になったことは確かだ。近くにいた客や店員たちが注目し、キリコは誰にともなく謝ってからBJの肩を抱いて歩き出す。
「ごめんね」
 エスカレーターに乗り、地上階へ向かいながら、抱いた肩を引き寄せ、髪に唇を落とした。
「わたしがごめん。取り乱しちゃって」
「楽しくしよう。余計なことを言った。ごめん」
「もう言わないで」
「分かった。ごめんね」
「あの部屋に泊まって、どこにも行かなくたっていいから。二人でいたい」
「俺もだよ。泣かないで」
 潤んだ目元に唇を寄せてから、普段はあまり甘い希望を言わないBJがこんなことを言うとは、とキリコは驚いていた。涙ぐんででも言わなければならないほど感情が乱れてしまったのだろう。誰が悪いわけでもないが、自分はもう少し違うやり方を選択するべきだったのではないかと思った。
「お客様」
 エスカレーターを上がったところでジュードに声をかけられた。ハロッズの制服を着た彼は先程の笑顔を消し、伝統ある百貨店のスタッフとして誠実で丁寧な声音で言った。
「お連れ様のご気分が優れないご様子ですが、よろしければタクシーをお手配致します。いかがなさいますか」
「──助かるよ。フォーシーズンズまで頼みたい」
「かしこまりました。お荷物をお持ち致します」
 ジュードの手配ですぐにタクシーが手配され、少し落ち着いたBJは恥ずかしさを覚えながらジュードに礼を言う。ジュードは眼鏡の奥でにこりと笑った。
「お役に立てれば光栄でございます、いつでも」
 それはどうも、とキリコは言い、BJを促してタクシーに乗った。


 久し振りに顔を合わせたバトラーは、明らかに普通の宿泊客よりも二人を歓迎する顔で待ち受けていた。チェックインの前から正面玄関に立ち、BJがタクシーから降りた姿を見た途端に破顔する。
「ハザマ様、お待ちしておりました。お二方様に再びお会いできることを、神に感謝していたところでございます」
「嬉しい。私もあなたにまた会えると思ったら、とっても嬉しかったんだ」
「光栄でございます。──ドクター・キリコ、またお会いできて嬉しく存じます」
 タクシードライバーに料金を払って降りたキリコにも早速挨拶をする。キリコも掛け値なしの笑顔で「私もですよ」と敬意を込めて言い、握手をする。このバトラーがいれば、少なくともホテル内でBJが嫌な思いをすることはない。それがよく分かっていた。バトラーは優秀すぎるほど優秀で、予約の電話の時点で彼を指名した時、いかに彼が素晴らしいバトラーで指名が多いかを、予約担当のスタッフに誇らしげに語られたほどだった。
「お荷物はもう運び終えてございます。前回と同じお部屋でございますよ」
「ありがとう。嬉しいな、あの部屋にもう一度泊まってみたかったんだ。前は忙しなかったから、今度はゆっくりしたくって」
「私もあのお部屋で、お二方様のお世話ができると思うと嬉しゅうございます。──僭越でございますが、テラスにアフタヌーンティーのご用意が済んでおります。ハザマ様がお好きなケーキもございますよ」
「ケーキ?」
「私の昔の部下がお邪魔した時、お手でお召し上がりに──」
「……忘れて……!」
 当時を思い出したBJは恥ずかしがり、キリコは改めてこのバトラーの有能さに気付いた。バトラーはBJの気分が沈んでいることを一瞬で見抜き、BJが喜びそうなこと、感情をプラス方面に動かす話題を畳み掛けるように提示している。
 ──元SASってのは伊達じゃないな。特殊部隊員は人心コントロールも教育されたはずだ。
「アンディはその点、上手くなかったな」
「え?」
「いや、アンディは元気かと思ってね」
「どうかな、結婚するとかしないとか?」
「義弟が赤毛か。祝いの言葉が白々しいほど悪夢だな」
「結婚式、見てみたい。参列したいんじゃなくて遠くから」
「下世話だが同意だね」
 バトラーの案内で部屋へ向かう。エレベーターを待っている間、明らかにアジア系を見下す客に遭遇したが、キリコが睨むまでもなく、バトラーが見事に遠ざけてくれた。
 不思議だ、とBJは思う。肌の色で差別をする人間は決して悪意によってのものではない。そう教えられ、それが真実だと思っているからこその行動で、彼らには誤ちだということも分からないのだ。一方でキリコやバトラーのように、アジア系が相手でも愛をくれたり礼を尽くしてくれる人間も確実に多い。彼らは皆同じ肌の色をしている。それなのにこんなにも違う。不思議でならなかった。
 通された部屋は記憶のままだった。広いリビングに繋がるテラスが一番の思い出だ。テーブルには既にアフタヌーンティーが用意されていた。そのテーブルの前にはあの日と同じカウチがある。二人で過ごした時間の多くは、このカウチに座っていた。
「僭越ではございますが、先に調査を済ませてございます」
「調査?」
「本日はどこにも盗聴器がございません」
 思わずBJとキリコは笑い、バトラーはどこか得意げな笑みを零す。元SAS隊員として、そして誇りあるホテルマンとして、これだけは譲れないのだとバトラーは言った。
 ホテルの滞在の良し悪しは、ほとんどホテルスタッフの手腕で決まる。その点、このバトラーに任せれば間違いがない。彼の前で初めてアイパッチを外したキリコを見ても何も言わないどころか、汚れないようにとすぐさま品のいいケースを用意してくれる。日本を経てカタールから到着したばかりの宿泊客の環境をあっという間に整え、何も言われないのにテラスへ案内し、何も言われないのに当然のように二人をカウチに並んで座らせた。
「美味い」
 バトラーが丁寧に淹れた紅茶を飲んでしみじみ言ったキリコに、BJはつい笑ってしまった。カタールの甘い紅茶に心底辟易していたキリコは、ロンドンに着いたらとにかく最高に美味い、バトラーに淹れてもらった甘くない紅茶を飲むんだと言って、フライト中の機内サービスですら紅茶を飲まなかった。BJがその話をするとバトラーは喜んだ。彼は土産のワインにも心から感動し、こんな喜びは滅多に味わえませんと言って二人をいい気分にさせてくれた。
 きめ細かすぎるサーブを望まない二人だと知っているバトラーは、キリコに二杯目の紅茶を淹れた後、何かあればお呼び下さいと言い置いて部屋を出る。
「寒くないか?」
「平気。あったかいし」
 用意されていたブランケットを膝にかけている。カウチの周囲には小さなストーブが置かれていて、寒さは感じなかった。晩秋のロンドンは日中でも10℃を超える程度だ。ほんの半日前まで暑い国にいたことがもう夢のようだった。
 鐘の音が聞こえた。15分ごとの音とは異なり、4回の鐘を打つ音が響く。毎正時、16時だ。
「こんなに食べたら夕飯が入らないかも」
「夜は軽くすればいいさ」
 おまえは夕飯もしっかり食べるだろうよ、とは言わず、キリコはそう言っておく。アフタヌーンティーは軽食とはいえ結構な量があるが、BJの胃の中に面白いほどにひょいひょいと収まって行った。欧米人女性に比べれば華奢に見える彼女のどこにこれだけの量が入るのか、キリコはいつも不思議だった。
 BJは軽食を平らげ、煙草に火を点ける。キリコがミニバーへ酒を作りに行ってから、ああ、まずいな、と分かって溜息をついた。流石に冷静になってしまった。美しい女が驚くほど鮮明に思い出せて、キリコと、──キリーと並んで立てばとても素敵な二人に見えるだろうと思った。
 ──モデルみたいだった。今のキリコと並んだって、きっとすごく素敵だろうな。
 それから、あの店の菓子が買いたかったな、と思った自分に気付いて驚いた。あの店にはもう行かないと決めている自分に驚いたのかもしれない。
 ──何それ。あの女性が働いているから行かないなんて、わたし、いつ決めた?
「危ない」
 いつの間にか戻っていたキリコが横から灰皿を出してくれた。吸わないまま燃やされていた煙草の灰が情けなく落ちて崩れる。
「はい」
「何これ」
「ホットカンパリ」
 ホットグラスに深い橙色のカクテルが注がれていた。両手で持つと温かく、BJは息を吐いてグラスに口をつける。カンパリの苦味に蜂蜜の柔らかい甘さとレモンの清涼感がバランス良く隠されていて、こんな時期には嬉しいものだった。このひとはどうしてこんなに洒落たものを簡単に作れるんだろう、と思った。
 キリコ自身は温めたドライジンに角砂糖を放り込んだだけの素っ気ないカクテルだ。一口飲んでテーブルに置き、それからBJの肩を抱き寄せた。
「今のうちに、きちんと話しておこう。その方がこれから楽しくできる」
 しばらく考えた後、BJは両手でグラスを抱え、キリコにもたれかかって頷いた。ストーブの小窓から見える炎が揺れ、他に誰もいないよ、とまるで見張りをしてくれているようだった。
「最初に言っておきたいのは、別れたのはもう何年も前だし、別れてからは一度も連絡をしていないし、会ったこともない。これは信じて」
「──うん」
 暫く言葉を噛み締めた後、BJは頷いた。恋人がどうにか理解しようとしていることを感じながらキリコは続けた。
「彼女はアイルランド系の移民で、市民権獲得のために入軍した。看護部隊だ。俺と知り合ったのはその関係だよ」
 言いつつ、今思えば酷いものだったとキリコは思い出していた。看護部隊の女性は同じ働きをする男性の看護兵よりも待遇が悪く、性的な被害も少なくなかった。看護兵とは一線を画した地位の軍医や衛生兵に手を出される女性も後を絶たなかったものだ。BJに言うつもりはないが、特に美しく、そして仕事ができる上に気の強いレイチェルは逆恨みも含んで狙われやすかった。
「俺がベトナムに行く少し前、自然消滅した。お互いに忙しかったからね」
「……ふうん」
 手の中で冷えていくグラスを温めたくて、BJはぎゅっと手に力を入れる。男の身体は暖かいのに、酒を温め続けてくれはしないのだと思った。
「復員して、今の仕事を始めた頃にまた会った。彼女も退役して、市民権を獲得していてね。しばらく俺と何となく暮らしたんだ」
 BJは答えない。返事もしない。その心情はよく分かって、キリコは肩を抱いた手に力を入れないように気をつけた。他の女の話をしながら強く抱くことはマナー違反だとしか思えなかった。
「二年くらい、一緒に暮らした。でもどうしても俺の仕事を理解できなくてね。俺も彼女が理解できなかった。それで別れた。──それっきりだ。ロンドンに来て働いてるなんて知らなかったし、本当に一度も連絡をしていないよ。連絡先も知らなかったんだから」
 しばらく無言でグラスを見つめていたBJは、やがて、うん、と小さく頷いた。キリコはようやく肩を抱く手の力を強くした。
「何か質問は?」
「……看護師ってこと?」
「そうだな。今は違うようだが」
「ふうん」
 それきりBJは黙った。何を言えばいいのか分からなかったし、考えることが嫌になった。嫌になるようなことを思ってしまったからだ。
 仕事を理解できなかった。だから別れた。そんなの、と思った。そんなの、そんなの──
 ──……嫌い合って別れたんじゃないなら、そんなの、……二度と会って欲しくない。
「もう」
 やっとBJは口を開き、キリコをほっとさせた。黙り込んだ自分がどれほどキリコを焦燥させるか、BJは理解していなかった。
「もう、あの店は行かない」
「そのつもりだったよ。先に言わなくてごめん」
 ──二度と会って欲しくない。嫌い合ってなかったんなら、愛し合っていた気持ちを思い出してしまったら、わたしは──
「冷えたな。新しいのを作ろうか」
「もういらない」
「そうか」
 ──わたしは、わたしじゃ、あんな綺麗な人に、勝てない。
勝ち負けなんかじゃないだろう。いい歳をした女の自分が呆れて言う。だが別の自分が、だって、と怖気付く。だって。だって──こんな傷で、こんな顔で、あんなに綺麗じゃない、あんなに──今は私の男じゃないか、自信を持たなきゃ駄目だ。また違う自分が言う。そうだ、そう。それはそうなんだから。必死で自分に言い聞かせた。
 グラスをテーブルに置き、息を吐いてからキリコの首に腕を回して甘える。ごめんね、とキリコが小さな声で言って抱き締めてくれた。なぜキリコが謝らなきゃいけないんだろう、そんなこと言わなくていいのに、と言えない自分が嫌になった
「ごめん」
「何が。おまえが何を謝るって?」
「こんなこと、別に──詮索することじゃないって分かってる。でも私はどうしても、こういうことの経験がなさすぎて、どう反応すればいいのか分からなくて」
 キリコの前に付き合った男など学生時代に一人だけだ。その男にはろくな思い出がない。その後に愛した人は確かにいたが、今は船医として生きる彼女との愛を、今の状況の引き合いに出したいと思えなかった。
「正解なんかないし、おまえの今日の態度は当たり前だよ。分かった顔で我慢されるよりよっぽどいいさ」
「わたし」
 抱き着いた腕に力を込める。キリコが苦しいのではないかと思ったが、緩めることができなかった。
「わたし、キリコ以外に、きちんと──きちんとって言うか」
「うん?」
「好きとか、愛してるって思い続けた男の人が、いなくて。好きなまま、思い出にできた男の人もいないから」
「うん」
「キリコは優しくしてくれるし、怒っても殴らないでいてくれるし、旅行に連れて行ってくれたり、それから他のことも、こんなふうにしてくれる男の人って、キリコしか知らなくて」
「……うん」
どんな男も普通は殴らないんだよ、とキリコは言いたくなったが、今はBJに喋らせるべき時間だ。
「だから、本当に、どうすればいいのか分からなくて──こんなの、ぜんぶ、キリコが初めてで。だから、気を使わせちゃってごめん」
 キリコは何も言わなかった。だが、呆れられちゃったかな、とBJが悲しくなりかけた瞬間、驚くほど強く抱き締められる。息が止まるかと思うほどの力だった。
「──Epic」
 最高、と最大の感情を砕けた言葉で呟き、キリコは大きく息を吐いた。BJは訳が分からない。だが呆れられたわけではないということだけは分かり、よかった、と思ってキリコに身体を預けた。
「何が最高なのか分からないけど、呆れられたわけじゃないならいい」
「呆れるもんか。──おまえ、今、凄いことを言ったんだぞ」
「何が」
「好きな女に『あなたが初めて』って言われて、舞い上がらない男なんかいるもんか」
 言われた途端、急に恥ずかしくなった。キリコがこんなに喜ぶなどと思ってもみなかった。むしろ経験の少なさを内心で──あからさまにすることは絶対にないと知っている──呆れられるか、笑われるかと思っていたのに。
「……だって、それは本当だから」
「うん。──ああもう、もう。最高だ。この部屋で、ここで言われるのが最高すぎるんだって分かってくれる?」
 キリコの心からの声に、BJは泣きそうになった。この部屋で、ここで──思い出が多すぎる。愛していると初めて言われたのはこの場所で、このカウチの上でだった。俺を愛するなと言われたほんの数秒後、本当に酷い話だった。
 男が額を合わせて来る。BJは目を閉じ、触れる肌と男の香水の香りを感じた。
「あの時のことはもう謝らない。忘れることもないけど」
「うん」
 それが男の開き直りではないと知っている。あれは正しかった。今はお互いにそう思える。
「だからおまえも謝るな。この部屋で、俺たちは謝らなきゃいけないことなんか一度だってしていないんだから」
 うん、とBJは答えた。ああそうだ、と思い出した。この部屋で──そうだ。わたしたちは一度だって、謝らなきゃいけないようなことは何もしていないんだから。それよりももっと、嬉しいことが多かったはずなんだから。
「それから、俺はおまえに優しくしてあげてるんじゃないよ。その他もね。俺がしたいからしてる。そこは分かって」
「何か違うの?」
「そうだなあ」
 キリコは言葉を探した。人を救う名医は自分の心の傷だけを理解できず、治せない。
「おまえが喜ぶと嬉しい」
 ふうん、と言ってはにかんだ笑いを零す恋人に微笑む。
「俺が嬉しいと、おまえは嬉しい?」
「少しはね」
「少しかよ」
「料理に使う塩くらい」
「おお、コーディリア」
「追放しないで」
「してやるもんか」
 英国の名文学になぞらえて二人は笑う。軽口を叩けるようになったBJに安心し、ひとつキスをしてからキリコは言った。
「そういうことだ。お互いに嬉しい。俺たちはそれでいいと思わないか?」
 また額を合わせて覗き込まれ、昔なら想像もできなかったほど近くに好きな男の顔がある。嬉しくて、それでも何を言えばいいのか分からなくて、何度も頷いた。
 ──この人はどうしてわたしの話を何でも聞いてくれるんだろう。そのたびにわたしは幸せになってばっかり。
 それが嬉しくて、愛しい。
 だから気付かない振りをした。この部屋ではもう二度と思い出したくないし、思い出して欲しくなかった。
 もう、あのひとと会わないで。


 たまには観光客らしく、と陽が落ちたロンドンの街へ出た。明日は雨が降るとバトラーに聞き、それなら今夜がいいだろうと思ったのだ。元々世界を飛び回る二人は旅慣れたもので、時差と長時間の移動で疲労がないと言えば嘘になるが、体力が尽きるほどではないと分かっていた。
 バトラーは「タワーブリッジとロンドン塔ならお疲れでもきっとお楽しみになれますよ」と教えてくれた。ホテルからも近い上、地下鉄の最寄り駅も同じだ。夕飯はどこかのパブで取ればいいし、地下鉄に飽きたらタクシーに乗ればいい。
 ビッグ・ベンの音を聞きながらホテルを出て、観光客と地元の人々に混ざって通りを歩き、最寄りのヴィクトリア駅から地下鉄に乗る。仕事で使ったことは何度もあったが、こんなふうに二人で乗る日が来るとは思ってもみなかった。すごいぞ、俺たち観光客だ、とキリコが呟き、BJはつい笑った。
 夜でも混雑する観光客向けの道を歩くと、テムズ川からの風が少し強く吹き抜けた。寒くないか、と訊かれることが嬉しい。まるでキリコに大切にされているような気分になれる。──正確には、大切にされていることを実感できる。地下鉄に乗る前からずっと手を繋いでくれていることも嬉しい。二人ともいい歳なのにと思わなくもないが、きっとキリコは何が悪いんだって言うんだろうな、と正解を知っていた。そして欧米では何も珍しい光景ではないのだと知った。
 足裏が拾う石畳の感触が冷たいと、不意に感じた。悪い靴ではないが、それなりに長い間履いていることを思い出す。そろそろ靴底の補修に出した方が良さそうだ。
「キリコ」
「うん?」
「ホテルのコンシェルに頼めば靴の補修を手配してくれると思う?」
「そりゃあすぐにね。プライドにかけて手配してくれるさ。どうした、靴ずれ?」
「ううん、ちょっと足の裏が冷たくて。靴底が減ってる」
「明日、買いに出るか? 雨でもタクシーなら問題ないだろう」
「あの店は嫌だな」
「分かってるよ」
 キリコは苦笑し、きっとこれは一生言われ続けるのだろうと予想した。だがBJが笑って言ってくれるのならそれで良かった。
「大丈夫か? 今日は帰ろうか」
 そんなことを言ってくれる男が愛しくて、BJは微笑んで首を横に振る。辛くなったら言えよ、とキリコは言った。少しくらい足が痛くなっても、きっとわたしは言わない、とBJは思った。
 多くの観光客と同じようにテムズ川のほとりに立ち、ライトアップされた要塞を見る。1000年もの歴史を抱いてロンドンを睥睨するかのように見えるロンドン塔は、既に公開時間を終えていながらも夜の遠目の訪問客たちに厳かな姿を知らしめていた。
「流石にワタリガラスもおとなしい時間か」
「何それ?」
「『ロンドン塔に居着く6羽のワタリガラスが飛び立てば、王家は終わりを告げるだろう』って言い伝えがあってね。処刑した王族の呪いを警戒したんじゃないかな」
 今でこそ世界遺産となった要塞は、様々な悲劇を刻んでいる。権力闘争、あるいは爛れた性愛の事情、そしておそらく歴史の中に埋もれたであろう何か、連綿と続く時間の中で数多の王族が処刑された場所だった。
「だから今もワタリガラスを飼っているんだそうだ」
「へえ、カラスなんて嫌われそうなのに、珍しい。逃げられなきゃいいね」
「念のために7羽目も飼ってるって話だよ」
「そんなに用心するんなら処刑なんてしなければよかったのに!」
 BJがくすくすと笑い、キリコも笑う。近くにいた観光客たちもこっそりキリコの話を聞き、同じように笑っていた。
「中に入るなら開館時間じゃないとな。建築も観物だけど、展示物の中でも王族の宝冠は見ておいて損がない」
「入ったことあるの?」
「昔ね」
「どの女と?」
「さあね」
 悪戯気に笑ってみせた女に笑い返し、少し深いキスをしてから二人で笑う。こんな軽口が言えるのならレイチェルの件ももう大丈夫だろう、とキリコは安心した。
 タワーブリッジには改めて行くことにした。BJの靴底が思ったより減っていて、かなり足が冷えたからだ。するとキリコの先程の解説を聞いて楽しんだ観光客の一人が、タワーブリッジならロンドンブリッジから見た方が綺麗だよと教えてくれた。純粋な親切に感謝して礼を言い、明日改めてロンドンブリッジから眺めてみようと結論を出し、タクシーを拾うために歩き出す。地下鉄の駅まで戻るには足が冷えすぎていた。
 ふとBJが足を止めた。どうした、とキリコは問いながらBJの視線を追い、しばらく考えてから言った。
「あいつなら挨拶くらいしてもいいんじゃないか」
「まあ、目が合っちゃったし、お連れ様にも気付かれちゃったし?」
 雑踏の中、視線の先にいた旧知の男はBJからキリコに視線を移し、それから隣にいた女に何事かを言ってこちらに歩いて来た。BJとキリコは顔を見合わせて、あの赤毛に会うよりましだよね、と無言で通じ合ったのだった。
「ドクター、先生、久し振り。アンティーヴ以来だね」
 声をかけて来たアンディの声音は友好的だった。元より気のいい男だ。隣にいたグレイスも二人に微笑みかけ、お久し振りね、と穏やかに言った。育ちの良さを思わせる品に自然と笑顔になり、BJはグレイスと握手をする。
「アンティーヴではお世話になったわね。本当にありがとう」
「部屋を貸しただけ。もらうものはもらってるから気にしないで下さい」
 英国特殊部隊隊員と、米国陸軍将官の娘、そして米国最高峰の機密である特殊部隊隊長の佐官の姉が恋愛関係にあると判明した時、双方の話し合いの場に泊まっていたホテルの部屋を貸したのだ。部屋の利用代はしっかり徴収してあり、BJとしてはこれ以上礼を言われる筋合いがないと思っていた。
「ドクターも先生も、何でロンドンにいるんだ。仕事?」
「休暇だ」
「ユリさんとピノコちゃんも?」
「さあね」
 キリコは言葉を濁し、言う必要はないと言外に告げる。情報の引き出しに失敗した特殊部隊員は肩を竦め、それから言った。
「俺はリフレッシュ休暇中。リッツに泊まってる。──そんなつもりじゃないんだ。気を悪くしないでくれよ」
「そこまでじゃない。知りたければいくらでも分かるだろう」
 普段はウェールズの基地に配備されているSAS隊員だが、休暇でもその気になればしかるべき手段で情報を手に入れられることなど想像に難くない。その点は勝手にすればいいとキリコもBJも思っていた。やめろと言ったところで無意味だ。二人の心情を察したアンディは小声で「悪かったよ」と言った。
「わたしと娘が来年くらいから、本当にこっちで暮らせるかどうか、一ヶ月くらい試してみようってことになって。半月前からロンドンに来たの」
 恋人とその知り合いの水面下のやり取りも知らず、グレイスが幸せを隠し切れずに笑顔で言った。思わずBJはキリコを見る。キリコもBJを見て、次にアンディを見た。アンディは苦笑していた。それでもやはり、幸せを隠し切れる苦笑ではなかった。
「あと1年で退役することにしたんだ。ロンドンにクロエと三人で住む予定だよ」
「──おめでとう、でいいのか」
「……まだ早いかな」
 アンディは複雑な感情を目に浮かべて笑ってみせた。これはあれだ、とBJとキリコはすぐに理解する。これはあれだ。──グレイスの弟、グレイスの娘クロエの叔父、つまりあの赤毛のデルタフォース隊長が納得していないに違いない。
「アンディ」
 キリコはアンディの肩を叩き、心から言った。
「同情するよ。とてもね」
「……連絡しても出てくれねえし……」
「相当だな」
「相当さ。反対するなら反対するって言ってくれればいいのに、それすら言ってくれない」
「そう言わないで、アンディ」
 グレイスが困り切った顔で口を挟む。
「あの子、今ポーランドにいるんですもの。中々連絡できなくて当然よ」
 大嘘だ。闇医者二人は瞬時に看破する。あの男は絶対にポーランドなどにいない。アンディも分かっているのか──父親以外には特殊部隊員だと家族にも教えていない男が、実際に行く場所を姉に告げるはずがない──そうだね、と言って頷いた。
「そろそろ帰らないと。クロエのベビーシッターの時間が終わっちゃうわ」
「あ、そうか。──じゃあドクター、先生、また機会があったら」
「どうも」
「気をつけて」
 地下鉄の駅に向かって歩いて行く二人を見送り、BJとキリコは同じタイミングで顔を見合わせた。
「上手く行くと思う?」
「何をもって上手くと定義するかによるんじゃないか。俺ならどこかで赤毛が死ねば万事解決だと思うがね」
「ああ、それいいな。どこかの任務で?」
「それなら二階級特進で大佐だな。名誉なことだ」
 医者としてあるまじき会話を交わしながらタクシーを拾い、二人はホテルに戻ることにした。
「じゃあ、明日は靴を買って──雨が小降りならバッキンガム宮殿でも見に行くか?」
「あ、行ったことない。行きたい。靴はどこ?」
「ハロッズでいいだろ。靴売り場は名物だ」
「お任せします」
「ったく」
 様々な感情が含まれたその言葉に、キリコは心底あの日の自分を後悔する。後悔を吹き飛ばすため、愛しい女に思い切りキスをした。女は笑って喜んだ。
 ホテルに戻ると同時に小雨が降り始めた。ロンドンでは珍しくない天候だ。てるてる坊主を置いて来ちゃったんだよな、とBJは呟き、キリコを笑わせ、その代わり日本は快晴だろうよと言われて嬉しくなった。
 流石に疲れを感じ、早々にベッドに入る。上等の寝具は以前と何も変わっていない感触で、あっという間に二人は眠り込んだ。
 夜半、キリコはふと目を覚ました。腕時計の針は午前2時過ぎを指している。明日にするつもりだったんだがな、と溜息をつき、BJが深く眠っていることを確認してからベッドを出て、煙草を咥えながらリビングの電話に向かった。先に連絡してしまった方が無難だ。時間が時間だが、相手の都合など考えるつもりはなかった。どうせ24時間対応だ。
 案の定、数コールで電話が繋がった。名乗って用件を伝えると、取次のためにしばらく待つように言われる。
『How are you?』
 しばらくして取り次がれた相手の挨拶に、そう言えばここはイギリスだったなと思い出す。
「How are you? ──用件だけを言いたい」
『どうぞ』
「俺たちの邪魔をするな。ただの旅行だ。10日で出国するし、何かあればその前でも出る」
『何の話かと質問するのも無粋かな。──部下が失礼した。直後に電話連絡を受けたよ』
「彼はいつも無礼だ、今更気にしない。とにかくそういうことだ。俺たちに接触しないように言っておいてくれ。快適な旅行がしたいだけなんだよ」
『部下は休暇中だ。私から命令をすることはできないよ』
「では非常時の協力を断ることになる。双方納得の上で構わないな」
 電話の向こうの男──SAS隊長は暫く黙り、やがて「失礼だが」と言った。
『何かあるという予想が?』
「俺たちはトラブルに巻き込まれることが多いんだ。いつかの爆破テロやホワイトハウスみたいにね。どこで何があるかなんて分からない」
『なるほど。──理解した。そこはあなたたちの判断に任せるべき部分だ。ただ、これは私の立場を離れた話になって恐縮なのだけれど』
「手短に」
『ロンドンにはアイルランド系が多い。99%の人は善良でも、1%はそうでもないかもしれない』
 通話は記録されている。隊長としてはこれが最大の説明なのだろう。
『明日、電話をするつもりだったんだ。先に連絡を頂くことになって失礼した』
「こちらこそ夜分に失礼。ありがとう。良い一日を」
彼の親切心に感謝し、キリコは別れの挨拶をして電話を切った。明日を楽しく過ごすためにもしっかり眠り直すべきだと思った。