エントランスフロアにジュードがいなかった。休憩中かと考え、BJは溜息をつく。フロアの案内をして欲しかったのだ。何かを探していると察したスタッフが静かに近付いて声をかけてくれた。男声のスカーフが欲しいと告げると地下にあると教えられ、礼を言ってエスカレーターに向かった。ブーツのヒールの音がいやに響いた気がして、何となく丁寧に歩くことにした。
ハロッズ名物のエスカレーターはゆっくりとBJを地下に運ぶ。見上げれば吹き抜けのフロアが壮観だ。こんな建物をデザインする人間の頭の中はどうなっているんだろうと思った。
キリコがホテルを出るまであと20分程度だ。約束を守ってくれることはよく知っている。一昨日、できなかったことを少しでもしたい。我ながら女々しいな、と思いながらもエスカレーターを降り、広いフロアを歩き出した。
地下とはいえ吹き抜けが見上げられる開放的なフロアは、どちらかと言えば観光客の方が多い。土産にちょうどいい商品も多く取り揃えられており、眺めるだけでも楽しかった。
「失礼、お嬢さん」
お嬢さんと呼ばれる歳じゃないんだが、まあ日本人は若く見られるし──妙な気分になりつつBJは足を止めた。見知った顔だったからだ。驚きそうになったが、そう驚くことでもない、と言う自分もいた。気のいい人間だと分からせてくれるヒスパニック系の男が一枚の名刺を差し出した。
「こういう者です。今、観光客へのアンケートを取っていて。時間があったら考えてもらえるかな」
「時間はあまり。彼と待ち合わせをしているから」
「ここで?」
「そう。あと1時間もしないうちに来ると思う。簡単なら書くよ」
「簡単だ。悪いね、助かるよ」
渡されたアンケートの紙に素早く書き付けて、BJは彼に返す。ありがとう、と彼は頷いた。
「名刺はもらってくれ。何か面白いことがあったら教えて欲しいから、ぜひ連絡を。──気を付けて」
名刺を押し付け、男はフロアへ姿を消した。BJは息を吐き、名刺を眺める。小道具にしてはしっかり作られた名刺の裏に明らかに急いだと分かる乱れた字で書かれていたのは「Escape」。
逃げろ。
「相変わらず親切な男だな」
名刺をしまい、目的の売り場へ歩き出す。それから約束のラデュレへ向かおう。
まだ逃げるわけにはいかなかった。キリコが来るまでにどうしても済ませておかなければならないことがあった。
そう言えばキリコに言い忘れた、とBJは思い出した。ピノコとユリとの電話の途中、間久部からキャッチホンで連絡が来た。でもきっと、と開き直る。
──でもきっと、キリコがおばさまたちと話してたことだろうから、別に言わなくても良かっただろうし。わたしに聞かれたくなかったみたいだし。
たまには知らない振りを貫くのもいい。望まれるままの可愛い女を演じてやるのも悪くない相手がいて、首相は間違いなくその相手の一人だった。キリコに関しては考えるまでもなかった。
仕事中のバトラーは完璧なサーブを見せてくれる。あんな話の後では機嫌が良いわけでもないだろうに、これから出かけると言うキリコにあれこれと世話を焼いてくれた。彼に土産を買って来るのもいいかもしれない、とキリコは思った。
──俺からじゃ露骨だな。あいつに選ばせるか。
事情を知らない、知ろうともしなかったBJは無邪気に選ぶだろう。彼女の土産のセンスは酷いものだが、先にある程度の候補を自分が提案しておけばいい。
彼のプライドを傷付けたことへの詫びになるかはわからないが、この男は拒否しないと分かっていた。特に気に入っている客からのプレゼントなら尚更だろう。
この国でデルタフォースが。SASだってアメリカで。だからイーブンだ。
バトラーを不快にさせるために言ったわけではなかった。あの時は自分が制御できなかった。思った以上に俺は生まれ育った国に執着しているらしいと気付き、驚いた。
そして、それが忌々しい、まずい、とも思った。
全ての生命は平等であり、生命の前に国など存在するべきではない。しないと思っていた。だからこそ神聖な仕事を選び、あらゆる生命を愛している。そう思っていた。
だが今日、気付いてしまった。俺の中には国があった。もしも──もしも、万一、いつか、生命に優先順位をつけるようなことがあれば、その理由が国だったら、国境だったとしたら。
──その時俺は、この仕事を続ける資格を失うだろう。
「ドクター、お時間です」
バトラーが笑顔で呼んだ。そして洒落たバトラーの顔のまま、丁寧に続けた。
「コートのガンベルトの部分に、少々皺が寄ってございます。お直ししてよろしゅうございますか」
「──頼むよ」
「失礼致します。以前お越しになられた時からいつもお綺麗にお召しですのに、お珍しゅうございますね」
法律で禁じられている銃を以前から携帯していることなど知っていた、ということだ。彼の別の顔を知った今、驚く気にはなれない。着たままのキリコに不快感を与えずにシルエットを整えてくれるバトラーに言った。
「先程は失礼した」
「何のお話でございましょう」
「さあね」
それならそれでいい、とキリコは思う。だがひとつ、誰にも言っていないことを口にした。
「レイチェルはもう死ぬ」
「──ようございます」
コートの皺が綺麗に直ったことに言ったのか、それとも別のことか。はっきりさせる必要もないと思いながら、洒落たバトラーの微笑に見送られ、キリコは部屋を後にした。
何の断りもなく、すっと姿勢良く目の前に座った女を見てレイチェルは目を疑った。
嘘みたい、と可愛らしい女の演技をするべきタイミングを逃したが、相手がBJならまだ挽回できそうだ。笑顔を作り、女としては同情されそうな傷を隠しもしないで生きる相手に向ける。
「どうしたの、嬉しいけど。何にする? あのね、ローズのミルクシェイクがとっても美味しいの。銀のフルートに入っていて素敵よ。それからラデュレのマカロンはお約束よね。シーズナルのこれなんて──」
「紅茶を」
ウェイターに合図をし、さっさとオーダー済ませる。話を遮られたレイチェルは鼻白んだ。そしてBJは初めて、彼女の前で笑った。ただし、レイチェルが腹の底からの怒りを覚える言葉と共に。
「ここにあなたがよく来るのは知ってる。もうすぐ彼が来るから、その前にさっさと話を終わらせたいの。彼の顔くらい見せてあげてもいいわよ」
「そう」
怒りを顔に出してはならない。自分を制する。レイチェルは自分に言い聞かせた。自分とてここに長居する予定はない。この生意気な日本人の女の戯言くらい聞いてやってもよかった。
「今日は随分強気ね。別人みたい。でもその喋り方、可愛いわ。そっちの方がいいんじゃない?」
「そう? ありがとう」
「何かいいことあった?」
「なんにもないわ。彼とはベッドで大喧嘩になるし、散々よ」
「キリーと? やだ、悪いことしちゃったわね。わたしとあなたじゃメイクラブが違うのは当たり前よ、気にすることないわ」
「その埋め合わせで彼はわたしに服を買わなきゃいけなくなっちゃって、彼も散々でしょうね」
「分かる。キリー、そういうことは絶対に断れないもの。わたしも随分買ってもらったわ。欲しいものがあったらわざと喧嘩してたくらい」
「それいいわね。彼の妹と、わたしの娘の分もついで買わせようかしら」
決して大きな声でないが、ラデュレは静かなサロンだ。近くのテーブルの客たちが興味の視線を向ける程度には、一人の男を挟んだ女二人は不穏な空気を作り上げていた。
「レイチェル」
「何かしら」
「わたしの幼馴染が色んなことを知っているの」
「あら、素敵な幼馴染ね」
「彼から聞いたことで、あなたに言っておかなくちゃいけないことがある」
レイチェルはマカロンを指でつまみ、可愛らしく、だが見た目の美貌に相応しくセクシーに齧る。大抵の男なら喜ぶ仕草だが、目の前の人間は女だ。そしてふと気付いた。女の目ではなかった。
一昨日、数多の生命を救った医者の目だった。
「行くべき場所は分かっているでしょう。もう、あなたをその場所へ案内するための人たちがここに来ている。あなたはずっと前から監視されていた」
「監視? わたしのお店に変な人が増えてるから、それかしら」
「違う」
「何の話?」
「言ってもいいの?」
「いいわよ」
BJはレイチェルを見た。レイチェルは眉を顰めて見返す。BJの表情に腹が立ったのだ。
真摯な医者の顔など、この女から、愛した男の今の女から向けられたくなかった。
そしてBJの唇が声無く動いた。アメリカ人の重犯罪者なら、おそらく誰もが息を呑む動きだった。
──Delta Force。
レイチェルはしばらく黙り、BJを見詰める。睨んでいると言ってもいい。BJは目を逸らさず、姿勢良く座ったまま、レイチェルの反応を待った。レイチェルは壁の時計をちらりと見た後、笑った。
「映画の見過ぎじゃない? チャック・ノリスのファンなの? キリーはああいう映画、嫌いよ」
「知ってる。わたしが楽しんで観てた時に馬鹿にして、大喧嘩になったから」
「よく喧嘩するの?」
「それなりにね」
運ばれて来た紅茶で唇を湿らせ、BJは続けた。あまり時間がなかった。サロンの入り口の影に、先程のアンケートの男の姿が見えた。こちらを窺っていることはよく分かる。放っておいた。その少し奥にも二人の男がいた。三人ともカジュアル、かつ見るからにサロンよりもパブを好む風体で、こんな店は入りにくいだろうね、とBJは思った。
「映画の話じゃないのよ、レイチェル。分かってるでしょう。今なら助けてあげられる」
「何を言っているか分からないわ。そろそろキリーが来るんじゃない? わたしたちがお茶してる姿を見たらびっくりするでしょうね」
「わたしの話を受け入れるつもりはないのね?」
「話が分からないもの。どうしようもないわ」
「そう。それなら好きにするといい。わたしはあなたに忠告をし、助力を申し出た。でもあなたは聞きもしなかった。これが事実ね」
「全くその通りよ」」
BJはウェイターにチェックの合図をした。さり気なく女二人の静かな戦いを眺めていたウェイターがほっとしたように近付いて来る。ウェイターが差し出すシルバートレイにクレジットカードを置き、彼が遠ざかってから静かに言った。
「レイチェル、最後に言うわね」
「何かしら?」
「彼はキリーじゃない。キリコよ」
その瞬間、レイチェルの顔が歪んだ。店内中の客が悲鳴を上げた。BJは身動きひとつしなかった。ハンドバッグから掴み出した銃を向けられ、レイチェルに飛びかかられるようにソファから立たされても、頭に銃を突きつけられても、顔色を変えることはなかった。
「伏せろ! 降ろせ!」
店内に飛び込んで来たアンケートの男と、その奥にいた二人の男たちがレイチェルに銃を向ける。BJはアンケートの男がデルタフォースのベネットだと言うことは知っているが、あとの二人は知らない男たちだった。だがおそらくミカエルの部下だろうということは分かった。
「ベネット」
「先生、動かないでくれ。大丈夫だ、すぐに助けるよ、怖くない」
「私がこの程度でびびるか。ルルちゃんと勘違いしてんじゃねえよ、馬鹿。──グラディスに連絡を。もうすぐキリコが来る。それからさっきのウェイター」
床に伏せていたあのウェイターを探す。彼は怯えながらも顔を上げ、あの客が銃を頭に突き付けられながらも自分を見ていることを知った。
「早くカード返して。あれ、彼氏のファミリーカードだから無くすとまずいんだ」
背後から盾にするように抑え付けるレイチェルの顔は見えなかったが、歯軋りの音の後、更に強く銃を押し付けられたため、まあファミリーカードまで渡されてるなんて知ったらムカつくよね、とBJはやや溜飲を下げたのだった。
支配人室で事情説明と緊急対応について話を進めていたミカエルは、部下の報告を聞き、BJに怪我がないようだと知って取り敢えずは頷いておく。ジュードは支配人に許可も求めずに煙草に火を点け、支配人は咎めもしなかった。非喫煙者のミカエルはジュードから発生する有害物質が不愉快だったものの、支配人に淡々と要求した。
「客とスタッフの避難を。いつ爆発するか分かりません。お聞きの通り、IRAと繋がりがあると断定された女性が人質を取り、地下に立てこもった状況です。それを理由として速やかな避難指示を要請します」
支配人は深く溜息をつく。
「爆発物が仕掛けられている場所も分からないのに? 真実かどうかも怪しいじゃないですか」
「人質になっている女性に危機が及ぶことも考えられます。我々、緊急対応のための部隊が万全を期して救出するためにも、野次馬になりかねない人々にはご退店願いたい」
「人質──日本人女性でしょう。後で純人種主義者からどんなクレームが──」
支配人が言い終える前に、彼が長年切望してようやく着席することを許された専用デスクに渾身の蹴りが入った。デスクの上の書類や道具が派手な音を立てて転がり落ち、デスクチェアの支配人は慣れない暴力に呆然とする。
「失礼致しました。少々ストレスが溜まっておりまして、つい」
白々しい詫びの言葉を口にしたのは煙草片手のジュードだった。ミカエルは咎める気になれなかった。好きではない男だが、こういう部分は理解できると思った。自分も同じ衝動を抑え込んだばかりだったからだ。ジュードは続けた。
「ドアマンを長期休暇にしただけではご理解が及ばなかった? わざわざドクター・キリコからお電話頂戴してお話をお伺いしたでしょうに、ハロッズの支配人たるあなたが理解に困難だと? そうおっしゃる?」
「ジュード、いや──何と言えばいいのか。私が間違っていたかもしれない」
「この軍人さんのご提案にご不満ならさっさと対応策をお示しになられたらいかが? お示しになられないなら黙ってらっしゃい。あなたなんて必要な書類にサインする指さえあれば結構な存在だって、どうしてご理解なさらないんでしょうね」
穏やかで優しいフロアの人気者は、舞台役者もかくやと言わんばかりの滑舌で毒を吐き続ける。支配人は硬直し、ミカエルは「底意地の悪い男だ」と思いながら次の宣言をせざるを得なかった。
「支配人。──もはやあなたの許可を必要とはしない。SASが全てを取り仕切る。これは提案ではない。決定だ。店内の安全管理に関する権限を、対応部隊隊長であるイギリス陸軍少佐、つまり私に全移譲する旨、こちらの書類にサインを。拒否の場合は反逆罪の構成要件容疑で身柄を拘束する」
「本当にサインできる指さえあれば良かったなんて」
ジュードが笑い、支配人は引きつりながらも示された書類に手を伸ばし、ミカエルはジュードがデスクを蹴った時に落下したペンを拾って支配人に渡してやった。
「ところでミカエル」
「何だ。──すまないけれど、私は吸わないんだ」
話しかけながらも新しい煙草を出したジュードに言うと、他国の武装勢力のリーダーは「なるほど」と言ってから煙草を咥え、火を点けてまた有害物質を発生させた。ミカエルは眉を顰めて不快感を正式に表明しつつ、だがおそらくこの男は他の非喫煙者の前では吸わないのだろう、と思った。要はジュードに嫌われているというだけだ。ミカエルもこの男が嫌いだと自覚しているため、有害物質を強制的に摂取させられる以外は問題なかった。
「私は休憩時間まで仕事をさせてもらいます。あと1時間くらいかな。ビッグ・ベンが毎正時を鳴らすまでですね。ハロッズとはそういう契約です」
「今は?」
「エントランスフロアのアテンダントとしての業務ですとも。あなたが支配人室にご案内するべき御用をお持ちだっただけです」
「休憩時間には協力してくれると言うことか?」
「難しいですね。休憩時間は本業に充てているんです」
その瞬間、聞いていた支配人は背筋を震わせた。ミカエルが殺気とも言えるほどの怒気を見せたからだ。だがすぐにその怒気は隠され、元通り、品のある軍人に立ち戻った。その様子にジュードは鼻で笑った。ミカエルは感情を殺した声で言った。
「許し難いな」
「どうしてあなたの許可がいるなんて思ってるんです? 協力すると言ったのは嘘ではありませんし、それで満足なさって下さい」
「努力する。言ってみてくれ」
「爆発物はおそらく複数。しかも全フロアに。確認できるだけで──そう、一度しか言いませんよ。無線のご用意は?」
ミカエルは黙ってコートの下にあったインカムを出した。耳と口元に装備し、スイッチを入れ、「傾注せよ」と二度囁く。これで店内にいる部下たちに無線が繋がった。
「地下、まさに今、レイチェルと言う女性が人質を取って立てこもるサロンに1つ。観光客で一杯のハロッズハウスに1つ。僭越ながら私が既に無力化しています」
「無力化の証明は?」
「あなたのお気持ちを私がコントロールできると思いますか?」
「できない。──料理の塩程度には信頼できる情報をありがとう」
「コーディリアを気取るには物騒なお立場で。──では次。エントランスフロアに3つ。当然無力化しています。私の担当フロアですからね、これも仕事ですよ」
3つ。その数でミカエルはIRAが本気だろうと確信した。エントランスフロアを確実に破壊するつもりだったのだ。
中央に吹き抜けがある建物の構造上、エントランスフロアが大規模な爆発を起こせば爆風が上階へ上がる。エントランスフロアにいる客や従業員をはじめ、上階を含めた被害は計り知れない。MI6が掴んだ大規模爆破テロの情報は本当だった。外国の武装勢力のリーダーに言われて納得すると言うのも妙な話だが、目の前のジュードは、対テロ部隊であるSASを除けば誰よりもテロリズムを知る男だった。
それからもジュードは情報を提供した。無力化した爆発物は地下とエントランスフロアのみ、後は専門家でなければ無理である上、現状で起爆係がいない、と言った。
「起爆係──手動か?」
「完全には未確認ですので、何とも」
「言って欲しい」
「集中型の起爆装置があるタイプだと視認しました。無線で飛ばす起爆スイッチです。そのスイッチを持っていた人物は今、自宅にいるはずです。それ以上は私の知ったことじゃないので確認してませんけど。とにかく起爆させなければ良かっただけですし」
「誰だ」
「ここの車寄せのドアマン。あなたもご存知のドクター・キリコに、配偶者への無礼について抗議を受け、謹慎処分になっています」
サインをする指にしか価値を見出してもらえない支配人は小さく頷き、ミカエルは数秒考え、個人的に理解できなかった質問を口にした。
「配偶者、とは」
「今、地下で人質になってもあっけらかんとした顔で何かを企んでいるであろう女性ですね」
「先生」
「そう」
「……配偶者……?」
「そこ、そんなに気になります?」
本気で難しい顔になったミカエルに半ば呆れ、事実婚、と付け加えてやった。ああそうか、我が国では珍しくないな、とミカエルはようやく納得した。
「で、続けてよろしい?」
「失礼、どうぞ」
「レイチェルがその起爆装置を持っているとしたら?」
「──根拠は?」
ジュードは僅かに笑った。この男が何ひとつ疑わないことへの敬意を込めた笑い方だった。外国人、しかも武装勢力のリーダーに助力を乞うことも何もかも、プライドがこの上なく傷付くはずなのに。ジュードはよく知っていた。目の前の男、SASの隊長と言う男が、真に対テロリズムのために生きていることを認めた。パーフェクトだ、と思った。
──こいつはパーフェクトだ。ムカつくから絶対言わないけど。
「ドクター・キリコの配偶者からの情報。彼女は知っていて、ラデュレに向かったということになります」
ジュードは胸ポケットから、小さく折り畳んだ紙を出してミカエルに渡す。中を見たミカエルは「神よ」と呟いた。観光客向けのつまらない質問が適当に書かれたアンケート用紙には、2つの単語が書かれていた。
『Rachel/etonator』──レイチェル。起爆装置。
「失礼だけれど、あまり美しいとは言えない字だな」
「悪筆ですね。まあ、異様に頭の回転が速い方にはままある特徴です。思考速度に筆記が追い付かないんでしょうね」
「なるほど、先生は確かにそんな人だ。先生はどこからこんな情報を?」
「さあ、そこまでは。ただ、彼女に頼りになる幼馴染がいることは確かですね」
ほぼ確実だと言える情報源を予想したミカエルは息を吐き、分かった、と言った。SASとして、首相に関わる無免許医の情報は収集している。フランスのあの男だと理解した。
そして全てを決定し、支配人へ要請──その声音は確実に命令だった──した。
「全フロアの封鎖と客、スタッフ全員の避難を。陸軍の爆発物処理班を呼ぶ」
「こちらが2階から上のフロアで確認した、残りの爆発物の位置。私が確認した物だけですので、他にあっても知ったことではございません。──仕事に戻ります。失礼」
ジュードはいつの間にか用意していたメモを渡し、ミカエルだけに微笑みかけ、もはや彼の人生では用済みになりつつある支配人には目もくれず、人気者のフロアアテンダントの顔で支配人室を出た。
エントランスに入るなり館内放送が響いた。館内から至急の退避を求める強い要請だった。老舗百貨店らしからぬ切迫したアナウンスにキリコは眉を顰める。
すぐに理解したのは地元客、そして紛争に慣れた地域からの旅行者だ。即座にエントランスフロアを駆け出した。
呆然としているアジア人たちは日本人か、とキリコは彼らを眺め、一番近くにいた日本人観光客の一人に「テロだ。逃げた方がいい」と日本語で言ってやった。前日までのテロを知っていたのか、その日本人は周囲の同行者たちに「間違っていたら悪いんだけど」と前置きをして説明を始めた。
「日本人ってのはああいう前置きがないと話せないのか」
「私が知る日本人の方々はそうでもございませんが、さて」
いつの間にか隣にいたジュードが笑顔で言い、キリコは肩を竦めた。この状況なら館内禁煙など守らなくても文句は言われまいと思い、煙草に火を点ける。
「何があった」
「あなたの内縁の奥様が、あなたと過去にお付き合いしていた女性に銃を向けられ、今、人質になっていらっしゃると言うことが、あなたにとって最も重要な項目でしょうね」
「どこで」
「地下フロアのラデュレのサロンでございます」
「あまり重要じゃない項目は何だ?」
「2階から6階全てに爆発物が複数仕掛けられていて、その起爆装置をあなたと過去にお付き合いしていた女性がお持ちだと言うことでしょうね」
キリコは深く煙を吸い、そして長く吐き出す。どうして、と思った。
──どうして俺たちは、穏やかでまともな旅行が──いや、待ち合わせすらできないんだろう。
「ジュード」
「はい、お客様」
「休憩は何時だ?」
「あと40分ほどでございます」
「今すぐは無理か」
「契約上、難しいとしか申し上げられません」
「残念だよ。そろそろ鬱陶しい。──地下へ行く」
「ご一緒致します」
ジュードはキリコの前を歩き、人々が逃げ惑う混乱が目に入らないかのように堂々と案内をした。その背中を見ながらキリコは言った。
「止めないんだな」
「お止めしても行かれますでしょうに」
振り向けばきっと、ジュードは笑っていただろう。キリコは思った。
笑っていただろう。──気狂いの目で。
「ところでお客様」
「何だ」
「当店はサロンと喫煙所以外、禁煙でございます」
「それは失礼」
前方に煙草を投げ捨て、歩きながら踏み消す。ここでの仕事も結構似合ってるよな、転職しちまえばいいのに、と思った。
安全のために停められたエジプシャン・エスカレーターを歩いて降りる。地下フロアの照明は落とされ、非常灯だけが点灯している状態だった。普段はハロッズの中で最も賑わうフロアだと言うのに今は誰もいない。
避難する客がぶつかって落とされた商品が大理石の床に無残に散らばっている。ハロッズ・ベアと呼ばれる名物のぬいぐるみも落ちていた。キリコはそれを拾い上げ、歩きながら元の棚に戻してやった。
ラデュレのサロンに近付いた途端、入り口近くにいた三人のうち一人の男がキリコとジュードに向かって「来るな」と手で示した。キリコが知っている顔だった。デルタフォースのベネットだ。バトラーが知ったら怒るだろうな、と思った。既に他国の特殊部隊が入国している証明なのだから。
あとの二人のうち、一人はギルヴィットだと分かった。以前SASの詰め所で顔を合わせている。もう一人は知らなかった。彼らは一瞬キリコたちを振り返り、また店内を注視した。キリコは三人全員が銃を持っていること、そして無線のインカムを装備していることに気付いた。
ベネットの制止に従わず、ジュードが静かに言った。
「お客様がお連れ様をお迎えに上がりました」
「失礼するよ」
「待ってくれ、確認する」
歩き出そうとしたキリコを制したのはギルヴィットだった。キリコに近付き、小声で「先日はどうも」と言う。
「隊長に確認していいか」
「するなって言えばしないのか」
「するよ。──発信、ギルヴィット」
だったら最初から俺に尋ねるなよと思いながら、キリコはギルヴィットが無線で上司に連絡する姿を眺める。理想的な軍人の会話を切り上げ、ギルヴィットはキリコを見て肩を竦めた。
「俺たちの任務はレイチェルの身柄拘束と起爆装置の没収だ。あんたと、あんたの嫁さんの身の安全は任務外になる」
「どうしてどいつもこいつも俺たちを既婚者にしたがるんだ?」
「違う方がおかしいくらいに仲良しだからだろ。──テロを止めるのが俺たちの仕事だ。あんたが入ることによってレイチェルが興奮して、嫁さんが撃たれても責任が取れない」
「そうだな」
キリコは頷く。そんなことは分かっている。だが結論が欲しかった。
「おまえたちの隊長は何を言ったんだ?」
ギルヴィットは息を吐き、それから言った。
「あんたたちの身の安全はデルタが確保するわけだから、そこのデルタ野郎が何とかするだろうって」
「正確には俺の身の安全確保はデルタの任務で、あいつは対象外だ。まあ、あいつに何かあったら俺の機嫌が悪くなることも確かだね」
「何とかすりゃあいいんだろ」
聞いていたベネットが苦笑しながら言った。SAS二人と名乗り合った訳ではないが、互いに互いの立場を直感で見抜いていた。
もう一人の男──ジュードは彼がジョシュアと言う名前だと知っていた──がインカムに低い声で返事をした。遅れてギルヴィットも返事をする。二人は目で合図をすると頷き合い、ジョシュアはその場を離れ、エスカレーターへ向かって足音も立てずに走って行った。
「さて」
キリコは新しい煙草を咥え、唇で揺らせて遊ばせた。サロンに入ったら火を点ける予定でライターを手に持つ。これならジュードも文句は言えない。
「入るぞ」
「分かったよ」
ベネットは頷き、ジュードは笑顔で「行ってらっしゃいませ」と言った。
つい溜息をつき、キリコは呟いた。
「たまには待ち合わせをしたいだけだったってのに、まったく」