背後に迫ると言うほどではないが、確実に距離は詰められていた。カミラだったものに操られた『彼ら』が階段を上がり、近付いている気配が分かる。キリコがディアナと交代しなければ追い付かれていた速度だった。
「フリッツ、あと少しだ。寝るなよ」
それなりの出血と精神的なショックがフリッツの意識を朦朧とさせ始めていた。残った片脚にも力が入っていない。コンラートと共に引きずるように階段を上がり続けた。追い付かれる前に何とか五階へ──そう考えた時、フリッツが不意に呻いた。
「あの女がCIAなら、き、気を、つけろよ」
「どうした?」
「あんたと、奥さんをここに拉致したのは、私たちじゃない、が──カミラは知ってた」
フリッツは喘ぎ、コンラートが「頑張れ」と声をかける。次の踊り場を抜ければ五階だ。
「名前は教えてもらえなかった。でも、CIAが潜り込んでる、ってことは、カミラは知ってたし、たぶん、CIAからも、金をもらっていた。つい最近だったと、思う」
フリッツは語った。懺悔を兼ねた遺言のようだとキリコは思った。そして話を聞くうちに、酷い話だと思った。あまりにも酷い話に心底からの怒りを覚える程度には。
「速度が上がった」
コンラートが呟いた。背後の気配が先程よりも迫っている。フリッツの声を聞きつけたのだろう。キリコは階段を見上げた。五階の踊り場が見えた。フリッツのベルトを強く掴み直し、限界まで速く階段を上がろうとする。勘のいいコンラートのお陰ですぐに速度を上げることができた。
踊り場にBJとディアナがいた。二人を見付けてすぐに階段を駆け下り、フリッツの移動を手伝う。だが階段下に『彼ら』の気配をはっきりと感じるほどに近付いていた。
そして誰かが呼んだ。
「フリ、──ッッ、ツ!」
カミラの声だと知っているコンラートとディアナは息を呑む。『彼ら』の中にカミラだったものがいる。BJは振り返った。前を向け、とキリコが叱責した。だがBJは見てしまった。階段を上がる『彼ら』は白衣を着たただの人間に見える。そしてその奥にいる、おそらくカミラと呼ばれた身体も──背筋が寒くなるかと覚悟したのに、なぜかそうではなかった。普通の人間に見えた。
「フ──リッツ──!」
カミラの声は歪んでいた。だが確かに人間の声だった。何かに支配された不自然な声ではなく、まるで赤ん坊が声帯の使い方を知ったばかりのような慣れない不安定さ、そして──ひどく可愛らしい声だった。
「クロオ、来い! 止まるな!」
なぜキリコが小声で、しかし焦った声で自分を呼ぶのかが分からなかった。ただカミラを見ていた。カミラを──カミラだったものを──産み出された生物を──
確かな生命を。
「ドクター、失礼!」
小声ではっきりと謝る声の後、荷物のように肩に担ぎ上げられていた。そのまま踊り場と『彼ら』、カミラだったものが視界から遠ざかり、しまった、とBJは自分の行為に背筋を寒くした。足を止めていたのだ。安全確認から戻り、様子を見に来たグラディスが担ぎ上げてくれなければ『彼ら』の群れの中に飲み込まれていただろう。それは即ち死を意味する。
「ごめん、──ごめん、グラディス」
「僕よりドクターに謝って。生きた心地がしなかったはずだ」
階段を上がり切った所でBJを降ろし、グラディスは銃を抜いて弾倉を取り換えた。
「フロアを突っ切って正面、ドクターと行って。フリッツはディアナとコンラートに運ばせる。すぐにレストルームの排水口を塞いで。それから電話、外線が繋がるかどうか。アメリカ大使館、分からなければどこでもいい」
「分かった。──キリコ!」
遅れて現れたキリコたちを見てBJは駆け寄る。グラディスがディアナに指示を出し、ディアナももう減らず口を叩かずに従った。
「フリッツ──!」
カミラの声が響く。フリッツが呻いた。カミラ、と。カミラ、もうやめよう、やめよう、と。
行って、とグラディスがキリコとBJに言った。フリッツ、とまたカミラが呼んだ。BJまたその声に囚われそうになったが、察したキリコが腕を掴み、行くんだ、と強く言った。はっとしてBJは頷き、フリッツ、とまた呼んだ声が聞こえない振りをして走り出した。
「コンラート、少佐。すまない。もういい」
コンラートとディアナに支えられたフリッツは言った。首を振ってスカーフを外し、笑ってみせる。
「この脚だ。──少佐、決めていたんだろう?」
「何を?」
「ここで私を囮にするつもりだったんだろう? 放り出して『彼ら』に襲わせるつもりだった?」
「当たり」
グラディスは躊躇いなく肯定した。全てを説明する必要はなかった。フリッツは元々高度な知能を持つ階級の人間だ。予想し、理解して受け入れた。その覚悟を称賛した。
「ドクターと先生がいたらうるさいからね。先に行ってもらった」
「分かったよ。もう行ってくれ。コンラート、ありがとう」
「待って、そんな──駄目よ、何言ってるの。少佐、嘘でしょう!?」
「おまえは黙れ、売国奴! 私の同類め!」
フリッツが叫んだ。死を覚悟した男の咆哮はディアナに衝撃を与えた。フリッツは狂気を湛えた目で笑った。
「銃をくれ。近付いたらカミラを撃つ。ブレインを失えば行動種は統率された動きを失うはずだ。少しの間はパニックになるだろうが、目に付いた私に襲い掛かるだろう。──きみたちが屋上へ出る時間くらいは稼げるさ」
フリッツ。その声が近付いていた。次の階段を上がればここへ辿り着く。
グラディスは腰のベルトに挟んであったディアナの銃をフリッツに渡した。フリッツは満足げに笑い、階段に座らせてくれ、と言った。立ち竦むディアナに構わず、コンラートとグラディスは望み通りにしてやった。『彼ら』が最後の踊り場を上がり切った気配が近付く。フリッツ、とまた呼んだ。フリッツは笑った。グラディスはフリッツの口元をスカーフで覆った。ありがとう、とフリッツは言った。
三人が立ち去る気配を背中に感じながら、階段を上がり始めた『彼ら』と、その中にいるカミラを眺める。フリッツを見付けたカミラが嬉しそうに笑った。フリッツも笑い返した。
フリッツ。カミラが呼んだ。カミラ。フリッツも呼んだ。
そして銃を構え、息を詰め、撃った。
カミラの頭部が弾け飛んだ。行動種に支配された『彼ら』が支配を失い、一斉に動きを止めた。だがすぐにまた動き始め、今度は今までのような統率の取れた行動ではなく、それぞれがまるで獲物を探すように首を巡らせる。『彼ら』の目がフリッツを捉えた。フリッツは笑った。
カミラの頭部から飛び出した白黒の物体を眺めながら、フリッツは銃をこめかみに向ける。グラディスがスカーフを引き上げてくれたのはこのためだったのだ。あの生物に支配されるより、人としての尊厳を保ったままの死を選べるように。脚を吹き飛ばされたというのに恨む気になれず、むしろ感謝した。
「──!?」
凄まじい力で引きずり上げられ、目が回る。銃声が響いた。目の端でカミラから飛び出したブレイン種が撃ち抜かれる光景が見えた。そのまま複数の銃声が続く中、宙を飛んでフロアを移動する自分の視界にパニックになりかける。キリコとコンラートの肩に担がれていると分かったのは所長室に放り込まれてからだった。息を切らせたディアナがBJに「待たせたわね」と言った。
階段の方から爆発音が上がった。地下二階でプラスチック爆弾を爆発させた時と同じ音だった。
「グラディス、電話は駄目だ、無線を!」
キリコが叫ぶ。数体の『彼ら』をプラスチック爆弾で吹き飛ばしたグラディスが走る。犠牲になった仲間を踏みつけて乗り越えようとする『彼ら』は、数時間前の階下の惨劇を引き起こした存在と全く同じだった。
「先生がいいこと言った!」
「はぁ?」
所長室に入る直前、グラディスが笑いながら言う。私、何か言ったっけ──BJが首を傾げる間もなく、グラディスはドアの横の壁にあった同色の隠し扉の鍵を撃って開き、中にあったボタンを躊躇うことなく押した。
天井のスプリンクラーが勢いよく水をまき散らす。ああ、とBJは思わず目を丸くした。水だ。『彼らは水がある場所に──』。
グラディスが所長室に飛び込み、キリコがドアを閉めた。そのままグラディスは無線を引っ張り出しながら屋上へのドアを開き、そこにある非常階段を駆け上がっていく。キリコがフリッツを寝かせてバイタルチェックを始め、BJが脚の傷を改めて確認する。コンラートが所長の机をドアの前へ引きずって心もとないバリケードを造った。
ディアナは立ち竦んでいたが、フリッツがまだ銃を握りしめていることに気付く。わたしの銃、と思い出し、飛びかかるように奪い取った。BJが驚いてフリッツから一瞬身を引いたが、キリコが明らかに何かの感情──BJには分からなかったがそれは怒りと憎悪だった──を押し殺した声で言った。
「全てを聞いた」
「フリッツの妄言よ。医学であったじゃない、何だったかしら、譫妄? 怪我が酷い時にうわごとを言うって──」
「そうか」
「そうよ。──勘違いしないで。わたしだって身を守るものが欲しいの」
「そうか」
「──そうよ」
男の様子に息を呑むディアナをちらりと見てから、コンラートがドアの向こうへ耳を澄ませる。そしてやや安堵した息を吐いた。
「よく分からないが、スプリンクラーの水で足止めできているらしい。呻き声が聞こえる」
「微電流が走っているはずだ。動けない程度に感電した状態だよ。そういうシステムなんだ」
ああそうか、とBJは思い出した。フーゴとそんな話をしていたはずだ。だがキリコがあまり芳しくない事実を伝えた。
「5分程度しかもたない。浸水防止のためにあまり長時間使えないんだ」
「フリッツ、よく頑張った。ヘリで移動したらすぐ処置してやる」
BJに声を掛けられたフリッツは目を細め、ありがとう、と小さな声で言った。それから、先生と呼ぶ。掠れた声に聴覚が追い付かず、BJはスカーフ越しの唇に耳を寄せた。フリッツは掠れ声が演技だったと知らしめるほどはっきりとした、だが小さな声で告げた。
「ありがとう、先生。──気を付けて。ディアナは売国奴だ」
「──売国奴?」
「先生、どいて!」
ディアナに蹴り飛ばされたと知る前に銃声が響いた。何、どういうこと──中央を撃ち抜かれ、どろりと溢れ出した血液に肌とスカーフが濡れて行くフリッツの顔を見てもすぐに理解できない。視界が遮られた。キリコの背中だ。どうしてディアナに銃を向けているの、と思った。分からなかった。どうして。──どうしてフリッツは死んでしまったんだろう?
「彼は先生に危害を加えようとしたわ! 緊急避難よ!」
「おまえはフリッツが譫妄にあると言った」
「それが何よ」
「俺は『フリッツから聞いた』とは言っていない」
「──!」
「キリコ」
BJは呆然とした時間から戻れず、キリコの背中に話しかけた。いつもならきっと振り返って、優しく「どうしたの」と訊いてくれるはずの男は振り返らなかった。振り返らず、膝を付き、両手で構えた銃をCIA局員──同じ国の国民へ向けている。
「何してんの。やめてよ、もう」
屋上から戻って来たグラディスが心底疲れ果てた声で呻いた後、無造作に発砲した。ディアナが悲鳴を、コンラートが思わず感嘆の声を上げる。グラディスはディアナの銃だけを弾き飛ばしたのだった。キチガイじみた腕だな、とキリコは思った。
「無線が通じた。五分でヘリが来る。ドクター、先生、先に。僕は起爆装置を作動させてから行く。もうスプリンクラーも切れるはずだ」
「爆破命令が?」
「僕の独断。──『彼ら』を外に出すわけにはいかないし、うちの隊員と鉢合わせさせたくない。それに研究内容のことならコンラートを連れて行けば大体足りる。ディアナが先に持ち出した情報は既にステイツにあるしね」
「おまえさんの脱出優先のはずが、随分大きな土産を拾ったな」
キリコは苦笑した。どう転ぶか分からないものだ、と。
「起爆までにヘリが間に合わなければ?」
「みんなで仲良く死ぬ。ヘリが来る前にドアを破られたらどっちにしろ死ぬ。あの人数じゃ到底勝てない。──先生、大丈夫?」
「……あ、うん」
どうして、とBJは思った。どうしてこんなに簡単に命が奪われていくんだろう。奪っても平気な顔をしている奴らばっかり。
ここの命は何て安いんだろう。
「フリッツが先生に危害を加えようとしたのよ、だから──」
「後だ。スプリンクラーが止まる」
グラディスの宣言通り、ドアの向こうでスプリンクラーの停止する音が聞こえた。同時に水音も聞こえなくなる。やがて『彼ら』がまた動き出した気配があった。そして数秒もしないうちに激しくドアが叩かれ始めた。バリケードなどいつまでもつか分かったものではない。
「コンラート、ディアナ、起爆装置を探してくれ。パスワードは僕が知ってる。ドクター、先生と上へ」
「行くんだ」
キリコが強くいい、まだ現実に立ち戻れないBJを抱えるように立たせた。
「チャンネルは合わせてある、オンにすればベネットと繋がる」
グラディスが無線を投げる。受け取ったキリコはBJの手を引き、室内から通じる非常階段へ向かった。BJを先に上がらせながら後ろを振り返る。グラディスと目が合った。グラディスが簡単なハンドサインを示した。溜息を押し殺して頷き、途中で足を止めて不安げに振り返ったBJに「ごめんね」と言ってすぐに階段を上がり始めた。
グラディスのハンドサインはシンプルだった。──「敵を殺す」。
屋上に出た途端、冷えた夜の空気に思わず大きく息を吐く。研究所の中の惨劇など知らないとばかりに、月と星が美しく地上に光を与えていた。その光を頼りにBJは周囲を見回す。確認できるような場所に建造物がない。この研究所は完全に隔離されているのだ。
「──こんな場所にいたなんて」
「深呼吸して。もうすぐだ」
キリコはBJのスカーフを降ろし、深呼吸させてからまたスカーフを戻した。それからグラディスから預かった無線をオンにする。BJにも聞かせるためにオープンにした。
「発信、少佐の代理だ。無線を預かった」
『ドクターだろ、分かってるよ。奥さんは元気?』
すぐに陽気な声が応答した。何度か顔を合わせ、世話になったこともあるベネット軍曹だ。
「精神的に参っている。急いでくれ」
『あと4分だ。爆発よりは速い、信用してくれ。うちのリトルバードちゃんは足が速くて頼りになる女の子だからな』
「リトルバード? ブラックホークじゃなかったのか?」
グラディスに聞いていたヘリの名称ではない。リトルバードのこともキリコは知っているが、それなら──そう思った時、BJがしがみついて来たので考えるのをやめた。正確には、考えても無駄だと思った。
──俺もさっきディアナに使ったトリックじゃないか。グラディスは確かにブラックホークと言ったが、「ブラックホークが来る」と言ったわけじゃない。
『隊長が、先生にペンライトを振ってもらうように言ったんだが──あるかい?』
「マフィン」
「ある。──こんなに小さい光で見えるのか?」
『赤外線カメラで見える。あと二分したら振ってくれるかい』
「分かった。──グラディスが怪我をしていることは?」
無線の向こうでベネットが息を呑む気配を知った。ああ、とBJは思う。──ああ、失われることを願われない命の持ち主がいる。
『……聞いてねえや。何だよ、あの人、また傷病休暇かよ』
「右の脇腹に弾が入ったままだ。麻酔と止血だけで動いてる。でももうすぐ麻酔が切れると思う」
『処置は先生が?』
「私とキリコ」
『──我々の隊長の命を救って頂き、ありがとうございます。感謝致します』
途端に陽気な声ではなく真摯な軍人の声で礼を言うベネットが嫌になり、キリコに抱き着いた。後はキリコに任せることにした。ここでの命は安いと思ったばかりなのに、やはり安いものなのではないのだと思い出してしまった。価値ある命をどれだけこの短時間で失ってしまっただろう。優しいウルスラは本当に死ななければいけなかったのだろうか。
「ベネット」
『何だい』
陽気な声に戻った男が返事をする。
「しつこくて悪いが確認したい。本当にリトルバードなんだな?」
『そうだよ。ちょっと狭いんだが、俺とタイニー──おい、パイロット、挨拶しろよ』
『ハロー、ドクター、先生! もうすぐ会えますね!』
「タイニーか。久し振りだ。安全運転で頼む」
『お任せ下さい!』
『俺とタイニーを含めて6人、規約違反なんだが、まあ、詰めれば7人は乗れるよ。安心しろって。隊長以外に一人怪我人がいるんだろ? 西ドイツ人の脚を吹っ飛ばしたんだって?』
「なるほど、ありがとう」
キリコは笑いを堪え、空を見上げた。まだヘリの機影は見えない。静穏性の高いモーターを持つ黒い小型ヘリは静かに忍び寄るだろう。
あいつ、本当に──そう思った。
本当に最初から、ディアナを殺すつもりだったのか。
気付かれないようにわざとブラックホークの話をしたんだ。──いかにも『きみも含めた人数が必ず乗れるよ』と言わんばかりのミスリードのために。
『先生、ペンライトを振ってくれ! もう真上にいるぜ!』
起爆装置はすぐに見つかった。起爆用の12桁のパスワードを順に、それから逆に入力し、起動ランプの点滅を確認したグラディスはコンラートに「屋上へ」と命じる。
「余裕がない。五分で爆発する」
コンラートはディアナを見る。わたしもすぐに──ディアナが愛する男にそう言おうとした瞬間、コンラートは静かに告げた。
「きみが好きだった。最後に言えてよかった」
「最後?」
「私は行かなければならない。──さようなら」
ドアが『彼ら』の体当たりを喰らって軋む。『彼ら』はここにいると分かっている生命を狩ろうと躍起になっている。あれはブレイン種じゃない──コンラートは思う。本能だけで動く行動種だ。目の前の生命を喰うだけの存在だ。
ではブレイン種は? 感情を持っていた可能性が高い、会話をしたがっていた可能性すらあったあのブレイン種は?
もしかすると。コンラートは思う。
もしかすると──ブレイン種が感情を持っていたのであれば、話したがっていたのであれば、それに応えていれば、こんな結果にならなかったのかもしれない。
「コンラート、何を言っているの?」
「きみを好きだったことは間違いない。だが、私にも保身の欲求があるということなんだ」
「コンラート?」
「すまない。──少佐、お先に」
「うん」
待って、と言いかけたディアナは息を呑み、凍り付く。グラディスに銃を向けられていた。脅しではなく、明らかに外す意思のない、理想的な射撃姿勢だった。コンラートは「流石だな」と言い置いて非常階段へ消えた。愛したはずの女を一度も振り返ろうとはしなかった。
「よくもやってくれたよ。このクソCIA。あなたなんかよりフリッツの方が英雄的行動をした。だから助けてやろうと思ったのに、台無しにしてくれやがって」
「彼は──譫妄が出ていた。それに、先生に危害を加えようとしたのよ」
「ぜーったい嘘でーす」
グラディスはおどけて笑う。ディアナは言葉を失い、絶望が足元に忍び寄る感触をじわりと感じ取り始めざるを得なかった。
「まあいいや。最後の最後に彼はいい仕事をしてくれた。デルタがCIAとバートに強く出られる材料をもらえたよ」
「何ですって?」
自分の所属と次期大統領と目される政治家の名を聞き、ディアナは眉をひそめる。同時に脂汗が噴き出した。それこそが、その名前こそが、フリッツを殺した理由だったのだから。
「さっき無線で聞いたんだけどね。うちの連中がもう同じ情報を掴んでた。フリッツが言わなくてもいずれはバレてたってことだよ。──CIAの一部とバートがカミラたちを買収して、今日の実験に合わせてドクター・キリコとブラック・ジャックをここに放り込んで消そうとしてた、って。ついでに僕のこともね」
「誤解よ、──待って、少佐、──待って!」
「待ったって仕方ないよ。リトルバードは6人乗りだ」
満席になっちゃった、とグラディスは笑った。唐突に恐怖に襲われたディアナは身を翻す。銃声が聞こえた。そして転んだ。BJに手当してもらったはずの傷が熱い。その傷があるはずの場所を見て悲鳴を上げた。脚が弾き飛ばされ、潰れていた。フリッツのように。
「随分回りくどいやり方だったみたいだけど、これくらい複雑にしないとロンにバレちゃうもんね。先生はロンのお気に入りだし、ドクターは別の意味でロンの特別枠だし、知ったら関わった人間がどうなるかなんて想像したくないや。ロン、怒ると怖いんだもん」
床に広がる自分の血を眺めながらディアナは喘ぎ、ロンという愛称の現大統領へ敵対心を持つ上司に唆された過去を恨んだ。
「バートも大人気ないよなあ。いくらドクターが嫌いだからって。ただの逆恨みのくせに」
「そんなの──お願い、少佐、何でも話すから! 司法取引がなくたっていい、お願いよ!」
連れて帰って。ディアナは泣いて懇願した。
駄目。グラディスは笑顔で拒否した。
そして、さよなら、と笑顔のままディアナに手を振り、非常階段へ駆け出して行った。途中で最後のプラスチック爆弾を置き、階段を上がり切ってから狙撃する。階段が崩れ落ちるのとほぼ同時に所長室のドアが破られ、『彼ら』に雪崩れ込まれたディアナの絶望の絶叫は爆発音にかき消された。
「先生、怖かったら助手席に乗ってくれ! 俺が代わるから!」
「キリコの隣がいい!」
「お熱いねえ!」
爆破まであと四分、ベネットは笑う。リトルバードは確かに六人乗りだが、運転席と助手席以外は外装式ベンチと呼ばれる座席に座ることになる。ドアのないヘリコプターの乗降口に横座りになり、両脚を空にぶらつかせた状態になる乗り方だ。
地に足がつかない感覚は想像以上に恐怖心を煽る。訓練を受けた人間ならまだしも、アウトローとはいえ軍の武力に無縁なBJに耐えられるとは思えず、キリコは「代わるんだ!」と言った。だがBJはキリコにしがみついて動こうとしない。時間がない。諦めたキリコはベネットに承諾の合図を送った。ベネットは笑いながらも真剣にBJをベンチに横座りにさせ、きつくシートベルトを締めた。その隣にキリコが座り、やはり同じようにシートベルトを締める。ベネットがキリコのベルトの最終確認をした時、コンラートが非常階段を駆け上がって現れた。ベネットが叫ぶ。
「名前と所属を!」
「コンラート、シュタージ!」
「確認、コンラート、シュタージ! 乗れ、漏らすんじゃねえぞ!」
事前にグラディスから聞いていたベネットは手際よくコンラートをキリコとBJと反対側のベンチに乗せた。そして自分も機内の助手席に乗り込む。
あとはグラディスとディアナだけ──BJだけがそう思った。男たちは誰もが、あとはグラディスだけだと知っていた。
「あと一分」
運転席のタイニーが呟く。隊長が現れようと現れなかろうと、彼は時間通りにヘリをこの場から離脱させることが任務だった。平静を保ちながら願う。早く──早く。BJも願った。早く。赤毛と──ディアナ、早く来て!
爆発音が聞こえた。はっとして顔を上げたBJの肩を抱き、キリコはスカーフを外して愛する女の髪に唇を落とす。もうスカーフは必要ないと理解した。全ては終わった。それを知った。
ベネットが叫んだ。
「三十秒!」
非常階段を駆け上がって現れたグラディスは叫び返した。
「僕で最後だ!」
「了解!」
「ディアナは!?」
BJが叫ぶ。死んだ、とグラディスは事実を短く叫び返し、コンラートの隣に飛び乗る。同時にタイニーが叫んだ。
「残秒報告! 二十秒! 全速離脱許可を!」
「全速離脱許可、旋回自由!」
「イエス、サー!」
ほぼ同時にリトルバードが急上昇と方向転換を同時に行った。襲い来る重圧に小さな悲鳴を上げたBJの肩を強く抱きながらキリコはカウントを行う。爆発まであと十秒。
タイニーの操縦能力は軍事を知る者であれば瞠目したはずだった。急旋回を行いながら急上昇する荒業は空軍のパイロットでも躊躇うものだ。リトルバードの軌跡はその躊躇いを一切感じさせることなく、荒々しく、だが確実に安全な気流を拾い上げてその機体を夜空へと躍らせた。
「マフィン──クロオ」
キリコが囁いた。
「よく頑張った。もう大丈夫だ」
キリコにスカーフを降ろされ、抱き寄せられて唇を重ねられる。脚が地に着かないまま空中を浮遊する感覚が怖くてしがみついた。だがベネットの助手席と代わらなくてよかったと思った。キリコが肩を抱いてくれているのなら大丈夫だと思えたのだから。
キリコにもたれかかり、眼下を眺める。涙が出た。混乱は何ひとつ解消されなかった。きっとこの後、米軍基地か大使館でその結果の一部だけを知らされるのだろうと思った。
そして時間が過ぎる。
眼下の建物──つい数分前まで混乱の中にあった研究所から、闇を染めるかのような炎が爆音と共に産まれ出でる。やがて炎は業火となった。そして暫しその美しい姿を夜の闇に見せつけた後、全ての生命を巻き込み、最後の爆発を起こした。充分に距離を取っていたはずのリトルバードが大きく揺れるほどの衝撃波が周囲の空間全てに放たれる。業火はまるで計算された花火のように鮮やかな軌跡を振り撒き、抱いた生命全てを轟炎の中へと飲み込んで行った。
ああ、ああ──BJは呻く。どうして。可哀想に。その呻きを聞いたのはキリコだけだった。愛する女の嘆きを医師として、生命を愛する者として耳にし、その肩を強く抱くしかできない自分を呪った。
生命だった。あらゆる生命だった。BJは呻いた。そして泣いた。ウルスラもフーゴも、オイゲンも、フリッツも──カミラも──そしてあの禁忌の生命たちでさえ。
生命だった。確かに生命だった。意思を持ち、感情を持つ生命たちだった。
他の生命を貪るしかない行動種も生命だった。
感情を持ったブレイン種も生命だった。
初めから分かっていれば。BJは泣いた。泣きながら言った。否定なんてしなかった。認めてあげればよかった。おまえは生きている。確かに生命だということを。きっと何かが違ったかもしれない。きっと。分からない。何も変わらないかもしれない。それでも──もしかすると、何かが。
何かが変わったのかもしれない。生命に生命であると告げることができれば、おまえは確かな生命なのだよ告げることができれば、あの惨劇は起こらなかったのかもしれない。
おまえは──ではない──あの否定は産まれたばかりの、そして奪った肉体の記憶を得たばかりの、赤ん坊同様の生命にどれほど衝撃を与えたのだろう?
キリコを否定するわけじゃない。あのブレイン種を否定することに気付いたキリコを否定するわけじゃない。そう言った。ただただ悲しいだけなのだと泣いた。キリコは分かっているよと言って強く肩を抱くしかできなかった。
望まれて生まれたはずの生命が、まるで罪悪のように葬り去られる炎を見て、BJは泣いた。
キリコは静かにBJを抱き寄せ、黙って呻きと泣き声を聞き続けた。俺の、いいや、誰もが、その手に抱えられる生命は、愛は限られている。生命は、愛は選別される瞬間が存在する。──愛する女に言うつもりはなかった。言ったところで理解できない。全ての生命を愛し、貪欲に拾い上げようとする女に何を言ったところで無駄なのだと、そして、だからこそこの女を愛し続けることができるのだと知っていたからこそ、何も言うことができなかった。
リトルバードは順調に飛行を続ける。やがて炎が遠く、現実から切り離しても良いほどに遠く離れて行く。
痛い、とグラディスが不意に呻いた。麻酔が切れたのだ。
もっと痛がれ、馬鹿、もっとだ、とBJは罵った。安全な場所に降りた次の瞬間、銃弾を脇腹に埋めたまま、結果として自分たちを救った男の傷に飛びかかるであろう未来の自分を罵りたかった。
それからは驚く間もないほどに早い措置が行われた。西ドイツ内の米軍基地に到着したことも分からないうちに別の飛行機へと移され、機内でグラディスの傷の後始末をするはめになった。かなりの深手であったことをようやく自覚した──意識的に忘れていた──グラディスはBJに意図的に麻酔を多めに打たれて深く眠り、同乗したベネットとタイニーがその様子を見守った。回復のために眠らせただけ、大丈夫だから、とBJが何度言っても、彼らは隊長のそばを離れようとしなかった。
本当は隊長が行くような任務じゃなかった、とベネットは言った。でもディアナの弟として違和感がない白人が他に隊の中にいなかった、俺の肌が白ければよかったのに、とも言った。彼の肌はグラディスやディアナよりも少しばかり濃い色だった。グラディスじゃなければ乗り切れなかった、自惚れるんじゃない、とキリコに半ば冗談、半ば本気で言われたベネットは笑いながら頷いて、口の中でちくしょうと呟いた。
BJとキリコも眠り込んだ。フルフラットにしたシート越しにBJが手を繋ぎたがった挙句に涙ぐみ、結局キリコが身体の上にBJを子供のように横たわらせて眠ることになる。アメリカに連れて行かれると察していたキリコは、入国次第BJのカウンセリングの手配を政府に要請しようと決めた。移動は政府の決定だと予想がついていた。
入国後は思った以上にスムーズな、そしてストレスのない流れだった。既に手配されていたメンタルケアのチームがBJを囲い、キリコは自らの希望でワシントンで借り上げている普段のアパートメントへ入る。キリコにも丁寧なメンタルケアが行われ、遠回しに、かつ確実に口止めが行われた。口座に一般人の生涯年収程度の入金が数日中に実行されることも示唆された。積極的に受け入れる気にはなれなかったが、強硬に拒否する理由もなかった。
やがて多くの国民がロンと呼ぶ大統領から見舞いの電話を受け、お気遣いをありがとうございますと応えながら、忘れる以外にして良いことはないのだとキリコは知り、BJも無言でそれを悟った。
「わたしたちを拉致した勢力は分からないって、CIAに言われた」
ようやく落ち着き始めた数日後、BJがベッドの中で呟いた。
「ふうん」
キリコは少し考えた後、CIAが、おそらくロンがそうしておきたいのならそれでいいと思った。BJを抱き寄せて腕の中に収めてしまう。甘えて胸に顔を押し付ける女が可愛かったし、この女が真実を知って感情を乱すより、今抱き締めれば良いのであればそれで終わりにして構わなかった。キリコにとってはその程度の結末だった。──政治と兵器研究、遺伝子が絡んだ以上、深追いしたいとも思えなかった。
コンラートの名前はそれきり聞かなかった。聞く立場にないと二人とも分かっていた。それでも彼は殺されないほどの情報を持っていると知っていた。それならそれでいい、と同時に思っていた。
「キリコ」
「うん?」
「少しね」
「うん?」
「どこかに行きたい」
「どこに?」
「誰も死ななくていいところ」
誰も産まれなくていいところ。
BJはそう言った。
そうか、とキリコは答えた。
そうか、じゃあそうしよう、と言った。うん、とBJは呟き、愛する男の腕の中で目を閉じた。
優しいウルスラと頼りになったはずのフーゴ、犠牲になったとされるディアナ、祖国を裏切ったはずのオイゲンとフリッツ。
そして、『彼ら』。
失われた命を思い出さないうちに眠りたかった。