【以下の要素に当てはまる方は閲覧をご遠慮下さい】
00:ホラー要素が苦手
01:キリジャと言うよりストーリーの中にキリジャがいる感じの話はアウト
02:人間の顔サイズのナメクジ(白黒)が文字でも許せない
03:キリジャのいちゃつきシーンが全然ないのはアウト
04:オリキャラが絡むパターンが嫌い
何卒ご理解の程頂ければ幸いです。
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起き上がる前に目を閉じたまま周囲の気配を窺った。どこかの室内だということは直感で分かった。そしていやに静かだ。ゆっくりと目を開けると、薄暗い空間が見えた。周囲には誰もいない。できるだけ音を立てないように身体を起こした。暴力に晒された体感はなかった。
──コートはそのまま、医療鞄が取られたか。……コートも前を閉めてなかったらメスを取られてたかもしれない。
普段ならコートのフロントは滅多に閉めないが、西ドイツの空港へ降りた時、冷えた空気に辟易して珍しく閉じたのだ。今はそれが功を奏したのか、それとも自分を拉致した人間たちは身体には興味がなかったかのどちらかだろう。
空間が薄暗かった理由は簡単だった。停電が起きている。広いフロアの中、非常灯だけが煌々と存在感を示し、避難経路に案内しようとしてくれていた。だがBJは素直にそちらへ向かおうとは思えなかった。何しろ拉致された身だ。
依頼主に会うために西ドイツを訪れ、空港を出た場所で待っていた迎えの車に乗り込んだ。運転手はろくに喋らず、淡々と運転するだけだった。やがて市街を離れた頃、運転席と後部座席を仕切る透明の壁がせり上がった時、くそ、と呟いて息を止めたが焼け石に水だった。あっさりと睡眠ガスで眠らされたというわけだ。
立ち上がってコートのフロントを開け、どうするか、と独りごちる。高い場所にある窓から見える空は夕方だ。このまま停電が続けば身動きが取れなくなる可能性がある。暫し考え、腹を括った。拉致したのであれば用事があるはずだ、と思ったからだ。
「誰かいないか!」
英語で声を張り上げた。静かな空間に自分の声が木霊し、不気味な気分と共にこのフロアの天井が高いことを知った。
「誰かいないか!」
今度はドイツ語で言ってみたが、やはり返事はなく、声が空しく木霊するだけだ。溜息をつき、周囲をぐるりと改めて見回す。特に何もないフロアだった。壁の前にホワイトボードが置かれ、パイプ椅子がいくつも重ねられている。会議室の用途だろうかと思いながらホワイトボードを見ると、薄暗い中でも文字が読めた。
──化学式? リン酸と亜リン酸か。何かの研究所か大学?
万国共通の化学式をしばらく眺めていたが、それで事態が変わるわけではないと思い、再びフロア内部を観察した。特に目ぼしいものはない。だがフロアから通路へ繋がる扉が左右に開閉する透明の自動ドアだと分かった。前に立ったが開かない。停電の影響だ。
手でこじ開けるように左右に押すと、思ったよりも簡単に開いた。通路は更に暗く、窓もない。非常灯の緑色の光だけが薄ぼんやりとあちこちに見えるだけだった。
「誰かいないか!」
試しにまた声を張り上げてみる。英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、そして日本語で繰り返した。やはり返事はなかった。今まですぐに理解できない状況に直面したことは幾度もあるが、慣れるわけではない。今も同様だ。慣れるわけではないし、何よりこの静寂が不気味だった。
非常灯の緑色の光の位置を確認する。この通路の先にまた自動ドアがあり、その上に非常灯、そして非常口のマークが記されていた。他に行ける場所もない。BJは腹を括って歩き出した。自分の足音が甲高く響く空間と静寂が不愉快でならなかった。
自動ドアはやはり停電で動かない。フロアから出る時と同様、手でこじ開けた。途端に息を呑む。嗅覚を襲ったにおいは慣れたものだったが、一般的によく出会うにおいではない。
自動ドアの先はやはり通路だった。十数メートル先にまた自動ドアと非常灯がある。あとは闇だ。嗅ぎ慣れた、だが普通の生活の中でよく出会わないはずのにおいが充満した闇だ。
目を凝らしたくなかった。だがやがて眼が闇に慣れてしまう。
そして口を両手で覆い、恐怖の悲鳴を必死で堪えた。なぜかここで声を出してはいけないような気がした。
折り重なるように通路を埋める物体の数々は明らかに人で、医者であるBJが見た瞬間に絶望するほど、血の海の中で既に生命活動を終えていることが分かった。
彼らのほとんどは血まみれの白衣を着ていた。医者か、研究者か。少なくとも白衣を日常的に着る立場であることが予想できる。
──落ち着け。パニックになるな。私は冷静だ。死因を確認しろ。検死を始めるんだ。
唇を引き結び、最も近くに倒れている死体の検分にかかる。コートの中のペンライトを思い出し、指の震えに気を付けながら取り出した。歩を進めた途端にぴちゃりと鳴った水音が血溜まりだとは敢えて気付かない振りをした。
ペンライトの小さな光で照らしながら死体を探る。首の負傷からの大量出血、失血死──それはすぐに分かった。だが負傷の形を何度も見直した。信じられなかったし、信じたくなかった。
──噛み傷?
信じられない。不意に恐怖を忘れ、片端から死体を検分した。負傷の位置は様々だったが、いずれも噛み傷であることは間違いない。そして気付いた。先に行くための自動ドアの前に死体が集中して折り重なっている。だがBJが入って来た自動ドアの前には誰もいなかった。
──彼らは逃げようとした。私がいたフロアではなく、この先へ。つまり背後から襲われた可能性が高い。
人間を噛み殺す動物はこの世にいくらでも存在する。だが白衣を着たこれだけの人数を、こんな通路で噛み殺す動物をすぐに想像することができなかった。
改めて噛み傷を見る。目を凝らした。嘘、と漏れる呟きを抑えられなかった。
──この噛み傷は──まさか──
「動くな!」
「──きゃああ!」
不意に怒鳴り付けられた声が男であることを瞬時に理解し、咄嗟の判断で金切り声の女の悲鳴を上げる。だがそれ以上繰り返すことはやめ、いつの間にかこじ開けられた自動ドアの向こうから自分に銃を向ける男と、その後ろから懐中電灯で照らして来る小柄な女を確認し、怯える振りをしながら動きを止めた。二人は白衣を着ていた。
「おまえは誰だ! どこから入り込んだ!」
「知らないわ、目が覚めたらここにいたの。──やめて、怖いわ、そんなもの向けないで!」
最後は泣き声を出してみせた。目の前の二人が自分を極限まで疑っているであろうことは容易に想像がつく。冷静な姿よりは混乱した女のさまを見せつけておいた方がいい。案の定と言うべきか、数秒後、男は僅かに穏やかな声で言った。
「銃はまだ降ろせない。──ドイツ人じゃないな? チャイニーズ? コリアン?」
「日本人よ。本当に分からないの。何があったの? こんなことになっていて、恐ろしくて」
「恐ろしくてペンライトを出して、これだけの死体を検分していたのか?」
「わたしは医者よ。ペンライトくらい持ってるし、倒れている人がいれば生死の確認くらいするわ」
「何だって?」
「医者よ。今日、西ドイツに入国したばかりなの」
「そんな話、信じられるか。今日、この研究所に外部の医者が来る予定はなかったはずだ。あれば朝のうちに全職員に通達される」
ということは──BJは考える。私に限らず、外部の人間の出入りを完全に管理するほど重要な施設であるってことか。研究所? あの化学式──リン酸と亜リン酸の──
「本当よ。目が覚めたらこの奥のフロアにいて、人を探して出てみたらこんな──どういうことなの。何があったの? この人たちはどうしたの?」
──あの化学式を使うとしたら、バイオテクノロジーの研究所か? まだ大国でしか手を出していない分野だ。西ドイツにそんな場所があったのか?
「目が覚めたら? 昼寝をしている間に誰かがおまえをここに連れて来たとでも?」
「大体合ってるわ」
BJは空港からの出来事を隠すことなく話した。男女は黙って聞いていたが、BJが話し終えた時、女が男に話しかけた。
「嘘は言っていないと思う。嘘をつくにしても、医者だなんて言わないでしょう」
「奇遇だな。私もそう思っていたところだよ。──その顔の傷と肌の色、聞いたことがある。ブラック・ジャックか」
有名で良かった、とBJは息を吐いた。この男がそれなりに闇の噂を耳にする立場であることも分かった。
「その通りだよ。失礼、か弱い真似はもうやめておく。ブラック・ジャック、ろくなエスコートもできない無粋な野郎にここに連れて来られて捨てられた」
男はBJを見据える。BJもか弱い女の顔を捨て、ふてぶてしい、修羅場を潜り抜けた無免許医の顔で男を見返した。
「──失礼した」
やがて男は銃を降ろし、心のこもらない詫びの言葉を口にした。
「私はコンラート。彼女はウルスラ。この研究所の数少ない生き残りだ」
「生き残り?」
「ご覧の光景はここだけじゃない。全てを見て回ったわけじゃないが、少なくともこのエリア──4階の研究員は全員死んだ」
BJは唇を引き結び、絶望の溜息を堪えた。
「コンラート、彼女は? どういう人なの?」
闇社会を知らないのであろうウルスラが、不審と不安をないまぜにした声でコンラートを呼んだ。コンラートは頷き、簡単な説明をした。
「闇社会の医者だ。日本人。ブラック・ジャック、天才的な外科医だが、高額の報酬を取る女だよ」
「──今日はわたしの知らない世界の出来事ばっかり。どうしたらいいの」
育ちのいいお嬢さんですな、とBJは喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。言ったところでウルスラが不快な思いをするだけで、誰にもいいことがない。
「私の話を丸ごと信じるつもりか。嘘はついちゃいないが、それはそれで不用心じゃないか?」
挑発するわけではなく本音で言った。コンラートがもう自分に銃を向けることがないと分かったからだ。コンラートは心理的な味方、生きている人間を欲している。ウルスラもそうだろう。無闇に攻撃してくるはずはない、とBJは踏んだ。
「確かにね」
だがコンラートは、BJの予想を裏切る言葉を口にした。
「ドクター・キリコを奥の部屋に案内している。会いたいんじゃないか?」
「──どうしてキリコがここに!?」
想像すらしていなかった名前を耳にし、思わず上げた大声が高い天井に木霊する。ウルスラはコンラートを驚いたように見上げ、コンラートはウルスラに頷いてみせた。
「コンラート、あの人とブラック・ジャックと何の関係があるの? 確かに同じ理由でここに連れて来られたみたいだけど──」
同じ理由で、という言葉にBJは背筋が寒くなる。キリコもここに拉致されたということになる。だが誰が、何の目的であるのか見当もつかない。
「ドクター・キリコはブラック・ジャックの夫のはずだ」
そこまで知っているのなら、コンラートもそれなりに闇との関わりが深いのだろう。それにしてもどこに行っても勝手に結婚させられている、とBJは状況も忘れて溜息をつきたくなっていた。
「じゃあ早く会わせてあげなくちゃ! ──あなた、こっちに来て。ドクター・キリコがいる部屋に案内するから。すぐそこよ」
「──彼は無事? 怪我は?」
「してないわ。安心して」
ウルスラが笑顔を向けた。明らかにBJを安心させようとして作った笑顔だった。育ちのいいお嬢さんですな、とBJはまた喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。それよりも、早く会わせて、と自分が切羽詰まった声で言ったことが意外だった。それがコンラートの何かしらの感情を動かしたのか、怖がらせて悪かったよ、とばつが悪そうに言われたことも。
キリコが驚愕の顔をしたかどうかも分からないうちに首にしがみ付き、よかった、と心底安心して呟くと、強く抱き締めてくれた。少し涙が滲んだ。
「どうしてここに?」
「キリコと同じ理由みたい。目が覚めたらここにいた」
「そうか。──泣かないで、大丈夫だから」
「ごめん。でも、いくら何でも酷過ぎて」
女の目元の涙を指で拭い、キリコは眉を顰めて「そうだな」と呟いた。それからBJを落ち着かせるために優しいキスをする。物言いたげなコンラートとウルスラに視線で待つように要請し、しばらくキスと穏やかな言葉を繰り返した。
BJは予想外の場所でキリコに再会したことで感情を乱しはしたものの、状況への理解が混乱しているわけではなく、比較的すぐに落ち着きを取り戻し、この研究所に至るまでの経緯を説明した。
「仕事で西ドイツに着いたら──」
「そうか。俺もだ」
「──殺人の仕事!?」
弱気な女の顔からいきなり医者の顔で激昂したBJに、キリコは半ば必死で「今は保留、状況を考えろ」と言い聞かせた。コンラートとウルスラは顔を見合わせるしかできなかった。BJは唇を噛んでどうにか自分を説得し、不本意を隠そうともせずに取り敢えず頷く。今は愚かな医師よりも賢き女であってくれ、とキリコは祈った。
「彼女は北のミーティングフロアにいたそうだ。ドクター、南にいたあなたと対極ということになるな。一緒に来たわけじゃないのか?」
コンラートの問いにキリコは頷いた。
「お互いが西ドイツに来ていることすら知らなかった。おまえさんが思っている以上に驚いているよ」
「夫婦なのに知らなかった?」
何度間違われたことか。夫婦じゃない、と訂正するのももう面倒だ。キリコはそのまま会話を進めることにした。
「仕事は別だ。商売敵なんでね」
「私には理解できないね。夫婦は何もかもを共有するものだと思っているから」
「人それぞれだ。どうぞ細君と仲良く」
「独身だ。貴重なアドバイスをありがとう」
この状況でも軽口を叩く男二人を見て、BJは何とは無しに安堵し、ウルスラも同様に安堵の笑みをぎこちないながらも浮かべてみせた。
落ち着きを取り戻したBJは、この部屋のドアが透明の自動ドアではなく、内側から厳重な鍵をかけられる厚みのあるものだとようやく気付いた。廊下と同様に薄暗い室内を見回せば、窓がなく、生物研究に使われる密閉式のキャビネットや試験管など、明らかに研究室だと分かる。
「この部屋は?」
「私とウルスラのチームの研究室だ。普段は四人なんだが、後の二人は──おそらく廊下で」
コンラートは最後まで言わずに言葉を切った。神様、とウルスラが呟く。
「ここは内側から鍵をかけて密閉できる。大抵の研究室はそうだ。扱っているものがバイオテクノロジーの繊細な分野だからね。──それが良かったのか、悪かったのか」
「良かったのよ。わたしとあなたは救われたわ」
ウルスラの慰めはコンラートの心を慰撫するまでではなかったが、彼女の育ちの良い声と物言いは、男の表面的な落ち着きを保つ大きな効果を発揮した。
「それからドクターもね。──むしろ、廊下の騒ぎを聞いてこの部屋から出ようとしたわたしたちに、戻れって怒鳴ってくれたのはドクターなのよ」
ウルスラはまるで自分の手柄のような嬉しさを浮かべた顔でBJに言った。BJは思わずキリコを見上げる。キリコは肩を竦めてみせた。
「南のフロアを出たら阿鼻叫喚の真っ最中だった。ヒーローになれない役どころなものでね、逃げて来たんだよ」
「正しいと思う。逃げてくれてありがとう」
心から言って抱き着くBJの髪に唇を落とす。あの状況から離脱を目指した自分の判断は正しいとキリコは分かっていたが、愛する女に肯定され、謂れのないうしろめたさを払拭することができた。
「この部屋の前はまだ誰もいなかった。ちょうど二人が出て来たからお邪魔したんだ」
「お互いに神様のご加護があったのよ。──静かになってから南の方を見に行ったんだけど、誰も生き残っていなかったわ。きっとドクター以外はみんな死んでしまったと思う」
「正直に言うと、何が起きているのか分からない」
コンラートが言い、壁の内線の受話器を取って発信ボタンを押した。かなり長い時間コールをしたが何の反応もない。
「所長室に繋がらない。カミラ所長がいるはずなのに」
「他の研究室も警備室も繋がらないもの。生きているのはわたしたちだけかもしれないわ。停電してるのに内線だけは繋がるなんて皮肉なものよね」
「内線は非常用電源から引いているからな。──誰も応答しないんじゃ意味がないが」
「マフィン、今はいい。電池を消費するな」
非常灯の明かりだけの室内は薄暗い。BJがペンライトを出したがキリコが止めた。電池を温存しておくためだ。何が起こるのか見当もつかない今、いざという時の視力の確保は重要だった。
「私たちは農作物の遺伝子工学研究者でね。死体の傷を検分することにも思い至らなかった。BJ先生は流石だな、医者の習性か」
「たぶん」
「何か分かったことは? どんな奴が襲って来たのか──銃声はしなかった。別の方法かもしれない」
BJはキリコを見る。襲われる中を脱出したキリコなら見ていると思ったのだ。それが自分の検死結果と一致するのなら、コンラートとウルスラに告げるべきかもしれない。キリコはBJの視線の意味を悟り、目で頷いた。おまえの検分通りだよ、と。不意に起きた精神的な小さな眩暈を堪え、BJは二人の科学者に告げざるを得なかった。
「傷は歯形だった。致命傷は全員、噛み傷からの失血死のはず」
「噛み傷? ──猛獣ってこと?」
青ざめたウルスラが悲鳴混じりの声を上げたが、それならどんなにいいだろう、とBJは思いながら首を横に振った。
「キリコも見たと思う」
「見たよ」
「言って欲しい」
信じたくないの。BJの呟きに、キリコは煙草を咥えながら静かに言った。
「白衣を着た人間だった」
ライターの石がかちりと鳴る音が、コンラートとウルスラの息を呑む音をかき消した。
しばしの沈黙の後、コンラートが再び問うた。
「人数は? 一人か?」
「俺も長い時間見たわけじゃないんだ」
「それでもいい。教えてくれ」
「ジョージ・ロメロ監督の『ゾンビ』を観たことがあるか?」
「イタリアの映画の?」
「そう。俺の趣味じゃないが、映画としては傑作だ」
「観たよ。それと何の関係が?」
「参考までに、って話さ」
細く、長く煙草の煙を吐き出し、キリコは第三者が聞けば気が触れたかのようなことを口にした。
「あの映画、ゾンビに噛まれた被害者は同じゾンビになっただろう」
「それはそうだが、──まさか」
その部屋にいるキリコ以外の誰もが、どうかキリコの気が触れていますようにと願った瞬間だった。だが生憎、死神と呼ばれる男は至って正常だった。
「もっとたちが悪い。映画じゃゾンビになるまで時間がかかっただろう? ──俺が見た現実じゃ、噛まれた次の瞬間に、それまで一緒に逃げようとしていた同僚に襲い掛かっていたよ」
「映画の方がましだなんて」
キリコの話を疑う気など毛頭ないBJが真っ先に荒唐無稽な現実を受け入れ、二人の科学者は数秒遅れてBJに同意するしかなかった。キリコは二人の様子に内心で疑問を抱く。そんなはずはない、科学的にあり得ない、考えられない──そう言ってもおかしくない種類の人間のはずだ。
だから言った。これは今言うべきだと断じた。
「何かを知っているはずだ」
「何だって?」
「おまえさんたち、あるいはどちらか。何かを知っている」
コンラートの表情は動かなかったが、心療内科に秀でてもいる死神の目を誤魔化せるものではない。敢えて表情を動かさなかったな、とすぐに断定し、そしてウルスラが素直な女性なのだと知った。彼女は明らかに動揺し、隠すことができなかった。
「ウルスラに訊いた方が良さそうだ」
「何も──分からないわ、分からない。そんなこと言わないで」
動揺に震える声で否定する姿は完全な肯定だ。だが必死で視線をさ迷わせ、やがて同性であるBJに縋るような目を向けた。
「ご主人に言って。わたしは分からないのよ」
BJはキリコを見、キリコはBJを見る。同じことを考えていると互いの瞳の色で知った。それからBJは気の毒な感情を隠さず、ウルスラにできるだけ穏やかに話しかけた。
「ウルスラ、分からない?」
「そう、──分からないの。本当に」
「お育ちが良いのが災いしたかな」
「何ですって?」
「知らない、じゃないんだ?」
「──神様」
嘘をつけなかった女は両手で顔を覆ってしゃがみ込む。BJも膝をつき、震える肩を優しくさすった。
「大丈夫。あなたを責めているわけじゃない。──信じて。状況を把握するために、あなたの知識を共有する必要があるってことを理解して欲しいだけ」
「たくさんのことは分からない。わたし、ここで小麦の遺伝子研究をしているだけだったのよ」
「そう。食糧難の危機に役立つ研究ね。素晴らしいわ」
BJは敢えて優しい女言葉になり、怯える女性の心の垣根を越えにかかった。育ちのいいウルスラの生活環境を予想すれば、蓮っ葉で乱暴な言葉を遣うよりも効果があると見越した上だ。
キリコはその様子をしばらく眺めた後、ウルスラをBJに任せ、コンラートと会話を試みる。ウルスラは男性であるキリコに詰問されれば更に怯えるだろう。要は役割を分担した。
「おまえさんが黙っていても、いずれウルスラが教えてくれる」
「だろうな」
「俺の勝手な所見で失礼だが──おまえさんの方が多くを知っているんじゃないか?」
「小麦の遺伝子研究なら彼女の方が優秀だよ」
「生物兵器に関しては?」
コンラートは答えず、溜息をついてから、キリコに指で煙草を要求した。箱とライターを投げ渡したキリコはコンラートが腹を決めたと見抜き、促すまでもなく待つ。ウルスラの泣き声が聞こえた。
「職員の噂しか聞いたことがないから、どんなものを作っているかまでは分からないの」
「そう。なまじ存在を知っていた分、怖かったでしょうね」
「怖かったし、怖いわ。人間だなんて」
「人間が研究されているということ?」
「分からない。でもここの地下三階の研究室に入れる職員は限られていて、階段もない。エレベーターでしか行けない。それくらい閉ざされた場所なの」
「エレベーターも通常の職員は地下二階までしか行けない。そこからはエレベーターの鍵を持っている職員と、カミラ所長だけが行ける」
煙草の箱とライターをキリコに投げ返し、コンラートがウルスラの話を引き取った。
「私自身、詳しい内容は知らない。だが生物兵器であることは確かだ。この研究所のことを知っているか?」
「意識のない時に連れて来られて分かるはずがない。──と言いたいが、大方、郊外にあるバイオテクノロジー研究所」
「ご名答だ」
「軍が噛んでいる」
「その通り」
「生物兵器と言っても、遺伝子からのアプローチなら立派なバイオテクノロジーだ。小麦と同列だな」
「一緒にしないで!」
泣いていたウルスラが怒りをあらわにして勢いよく立ち上がった。膝をついていたBJがよろけるほどの勢いだ。
「食糧難のための崇高な研究と、戦争のための生物兵器が同列ですって!?」
「失礼、お嬢さん。言葉が過ぎました」
同列だよ、とは言わず、キリコは素直に詫びておく。情報をある程度掴んだ以上、研究所から脱出、あるいは外部に救助を求められる環境に移動する必要があった。今ウルスラと口論し、時間を消費するわけにはいかない。
「わたしこそ、大声を出してしまってごめんなさい。恥ずかしい真似をしたわ」
「自分の研究を侮辱されたと感じれば当然だ、恥じるべきじゃない」
やはり育ちの良さを感じさせる恥じ入り方を見せたウルスラを救う言葉を与えつつ、ふと、コートの下の感触に気付いた。
「マフィン」
「ん?」
「鞄は?」
「なかった。取られたみたい」
「そうか」
「コートはそのまま」
「──俺もだよ」
BJの言の意味を悟り、腕を組む振りをして左の上腕部を軽く叩いてみせる。ガンベルトと銃を奪われていないということだ。理解したBJは頷き、理解したと示した。
「よかった。外は寒いからね」
「外の寒さを心配するより、まずはここから出るにはどうするか、だな」
コンラートとウルスラも同意した。とにかく研究所を出る、あるいは外部に救助を求める必要がある。室内からは内線しか発信できない、とコンラートが説明した。
出口までの道順が分かるとしても、途中にあの生物兵器と化した研究者たちがいないとは限らない。兵器の威力を目の当たりにしたキリコとしては絶対に遭遇してはならないと主張した。誰も異論を唱えなかった。
「外部への電話は三階のリラクゼーションフロアか五階の所長室にしかないの。機密保持の都合上ね」
「なるほど。全職員の電話を盗聴するより効率がいいな。赤毛に教えてやるか」
「え?」
「何でも」
キリコの呟きを聞いていたBJは、フォート・デトリックの電話が全て軍に盗聴されているのだと初めて知った。そしてたまにキリコがフォート・デトリックから電話をかけてくることと、その時の会話を思い出し、あれを──キリコのこれでもかと言わんばかりの甘い言葉を──誰かに聞かれているのかと考えて一気に顔が赤くなる。あ、こいつ知らなかったっけ、ミスった、とキリコは表情を動かさずに己の失敗を悟った。
悟りつつも、まだ自分とBJの精神状態に余裕があることが確認できた。本当に追い詰められればこんなことに思考を割けない。BJは恋人に会えてどうにか落ち着いているし、自分自身としてはあの映画のような殺戮の場面への驚愕を意識的にシャットアウトしている。
今の時点で驚愕を現実のものとして受け入れたくはなかった。受け入れれば恐怖になる。それが予想できる程度には凄惨すぎる殺戮の空間で、脱出できたことは奇跡と言っても良いほどだった。恐怖は足を竦ませる。絶対に今は避けるべき感情だった。
その時、不意に着信音が鳴り響いた。全員の視線が壁の内線に集中する。コンラートが受話器を取り、息を呑んでから応答した。
「コンラートだ。──オイゲン!? 生きているのか!?」
コンラート、そしてウルスラの顔が喜色に輝いた。ウルスラが「二階で研究している人よ」とBJとキリコに教えてくれる。
「私とあと三人だ。──そちらはきみを入れて三人? そうか。──でもそれは──ちょっと待ってくれ」
コンラートが意見を求める目で振り返る。
「オイゲンとフリッツ、それから警備員のフーゴが生きている。ここと同じような研究室にいるらしいんだが、合流したいと言っている」
「合流してどうするんだ? 立て籠もるのか? それとも外へ?」
「外か、外に連絡をできる場所を目指すしかないだろうな」
「警備員は無線を持っていないのか?」
「無線?」
「こういった施設の警備員なら持っていると思っただけだ。ないなら仕方ない」
フォート・デトリックとは警備の方法が違うようだと知り、キリコは落胆に近い感情を覚える。アメリカの研究施設の警備がどれほど厳重、かつ念入りであるかを実感した。
「ないそうだ」
内線で確認したコンラートが伝える。
「余計なことを言った。失礼」
「でも合流した方がいいわ」
ウルスラが口を挟んだ。
「何も分からないんだもの。まとまって行動した方がいいと思う。それに、警備員のフーゴは元軍人よ。不審者を抑えたところを見たことがあるけど、とても強かったわ。安心できる」
元軍人とはいえあの脅威に対抗できるかどうか──キリコは思ったが口にしなかった。いずれにせよ、合流は今の状況の最善に近い。BJと視線を合わせ、同時に頷いた。その方がいい、とBJも思っていた。
それからBJは小声の日本語で言った。
「あのコンラート、結構切れると思わない?」
「おまえもそう思うか」
「理由は?」
「おまえから言えよ」
「あいつ、内線で最初に『私とあと三人』って言った。事情を知らない彼らに私たちの存在を隠してる。あと三人はウルスラと、この部屋で元々研究していた同僚の二人だと思わせてる」
「一言一句違いがない。俺もそう思うよ。合流するまで相手に不信感を持たせないためだろうな。合流したら説明するつもりだろう」
「ってことは、あいつは最初から合流するって決めてたわけか」
「決めていたかどうか分からない。ただ、あのタイミングでこの機転は悪くないな」
コンラートが内線を切った。それから意を決したように三人を見る。
「三階のリラクゼーションフロアで合流する。あそこは外部に電話ができる。所長室の電話を目指すよりは時間が短縮できるだろう」
キリコが黙ってコートの下から銃を取り出し、ウルスラとコンラートの目を奪った。BJは羽織ったコートの位置を直しながら言う。
「念のためだよ。闇雲にぶっ放す男じゃない」
「念のためと言うよりは気休めだな」
「そうなの?」
「あのゾンビもどき、──モンスターでいいか? 生態が分からない。エンカウントしたら逃げる方がベターだ」
「ったく」
BJは息を吐いた。ゾンビだのモンスターだの、と思った。──ゾンビだのモンスターだの、ホラー映画じゃあるまいし。
「宇宙人を治療した時の方が身の危険を感じなかったなんて。信じられない」
「その話、あまり人前でするなよ。色々疑われる」
聞くたびにげんなりした顔をしてしまうキリコは今日も同じ顔をし、病気扱いしやがって、とBJは怒り、そろそろ行きたいんだが、とコンラートに遠慮がちに言われたのだった。