birth 05

 地下三階へ降り、グラディスが一帯の安全確認をするためにその場を離れた。その間にフリッツがプールで何が起きたかを話した。
 グラディスがガラスのドアに隔たれたプールからは見えない角を確保し、絶対にそこから先へは進むなと言われた場所から従姉の姿を探した。確かにそこにカミラがいた。研究所の研究員、その他の従業員もいた。彼らは明らかに何かにとり憑かれた表情だった。
「私はカミラが寄生されたなんて信じたくなくて──少尉から出るなと言われた角から出てしまったんだ」
「よく撃ち殺されなかったな」
 キリコは呟き、過去に「邪魔をするなら殺す」と今日を含めて二度脅されているBJも苦々しく同意した。特にキリコは脱出の可能性を高めるために西ドイツ人を切り離したいグラディスなら、フリッツを殺してもおかしくなかったはずだと思った。何かある、と感じた。
 ──何かある。あいつは何かを考えている。ここでフリッツを殺さなかった理由があるはずだ。
「カミラがプールから私を手招きした。フリッツ、って呼んだんだ」
「所長は寄生されていたんじゃないの?」
 ウルスラの疑問にフリッツは頷く。
「寄生されていた。でもその時は分からなかったんだ。普通だった。いつものカミラに見えたんだ。でもそうじゃなかった」
 フリッツがカミラの手招きに応じそうになったその時、「そいつはカミラじゃない」と叫んだグラディスがフリッツを強い力で引き戻した。瞬間、カミラの表情が消え、おぞましく歪んだ途端、全ての研究員が我先にとガラスのドアへ殺到したのだ。
「何が起きたか分からなかった。でも、走れ、僕より速く走らないと殺すぞと少尉に言われてとにかく走った」
 ガラスのドアはすぐに破られ、『彼ら』は二人の人間に殺到しようとした。そこでグラディスが発砲し、そこからは一同が知る話だった。
「キリコ」
「うん?」
「赤毛が使った爆弾はどれくらいの威力がある?」
 もはや「少尉」という偽装の呼称をやめ、いつも通りの呼び方になった。だがこの状況では誰も疑問に思わなかった。そもそもグラディスは事実として赤い髪だ。蓮っ葉な口を利くBJの姿を見ている研究員たちが、呼称の変化程度で何かに気付くはずがなかった。
「1個だけだったからそれほどじゃない。あの場にいた2、3人の『彼ら』の身体に重傷を負わせたら御の字、でもおそらくかすり傷だ。エレベータが動くまでの時間稼ぎだったんだろう」
「三階で使った手榴弾ならよかったのに」
 オイゲンが溜息をついたが、キリコは「冗談じゃない」と言った。
「あんな至近距離で爆発したらエレベーターにも被害が出た。俺たちもやられる、下手をすれば死ぬ。あれは滅多な状況じゃ使えないんだ」
「では、彼はその滅多な状況を的確に判断できる軍人だということだな」
 コンラートの呟きに一同は沈黙した。キリコとBJは無表情を貫き、研究員たちは顔を見合わせてコンラートを見る。コンラートは続けた。
「彼は腕が立ちすぎるように見える。オイゲン、フリッツ、そう思わないか。徴兵期間中にあんな兵士を見たことがあるか?」
 コンラートから向けられた問いにオイゲンはばつの悪そうな顔になる。
「俺は良心的兵役拒否(徴兵の代わりに医療、福祉施設で同期間労働をする)をしていたから、ちょっと──分からない、ごめん」
「そうか。フリッツ、きみは?」
「ない。──さっき一緒にいて分かった。彼は普通の軍人じゃないと思う。判断力や肝の据わり方があの年齢の普通の軍人だと思えない」
「そうね」
 ウルスラが眉をひそめて頷く。だって普通じゃないし、という言葉を飲み込み、BJはおとなしく会話の成り行きを見守ることにした。キリコは一同を観察した。
「確かにあの彼、随分落ち着いてるわね。悪口を言いたいわけじゃないけど、彼──」
「でもウルスラ、彼は私を助けてくれたんだ。それは事実だ。見捨てて一人で逃げてもよかったのに、私を先に逃がすためにガラスドアの前に数秒留まったんだ」
「──そうなの?」
「そのせいで『彼ら』はガラスドアを破って出ても、私より少尉のことしか見ていなかった。だから私は走れたんだ。もし私を目掛けて『彼ら』が追い掛けてきていると思ったら、きっと恐ろしくて走れなかった。私は臆病だから」
 コンラート、とフリッツは自分よりも強い立場の同僚を呼んだ。
「コンラート、私は彼を疑えない。命の恩人なんだ。彼がどんな人物でも──」
「疑えなんて言った覚えはないよ。ただ、腕が立ち過ぎると思っただけさ。今日、たまたまこの研究所にやって来たアメリカ人が、こんな状況の中で頼りになる軍人だったなんて素晴らしい偶然だ」
「仲良くしろよ。赤毛なんぞのことで喧嘩したって1マルクにもなりゃしないんだから」
 BJが口を挟んだ。コンラートとフリッツの間に溝が出来かけたことを危惧したのだ。生きてこの研究所を出るという目的がある以上、彼らにとって良いことではない。コンラートとオイゲンは異口同音に「すまなかった」と言い、理性で感情を抑え、関係に溝を作らないという意思表示のために握手をした。
 キリコは緩みかけた口元を制しようとしたが、スカーフに覆われていることを思い出し、遠慮なく緩ませた。恋人の素早い気遣いが可愛く、こんな状況でも他人を一丸にさせようとする行為が愛しく思える。
「マフィン?」
 不意にBJの表情が考え込むものになっていることに気付いた。何かについて深く考え始めてしまっている。これが進むと状況を完全に忘れてしまうことがあると知っているキリコは、やや真剣にBJを呼び戻すことにした。今は身の安全を第一に考えさせなければならない。
「クロオ」
「──あ、何?」
 名前を呼ばれ、はっとしてBJは顔を上げる。それから息を吐き、自分が思考の淵へ沈みかけていたことを自覚した。危なかった、と呟き、それでも思考を捨て切れない。ずっと手を繋いでくれている男に助けを求める。日本語でキリコを呼んだ。西ドイツ人に話す勇気がまだ持てない話だった。
「キリコ」
「うん?」
「フリッツの話が本当なら、寄生虫は最低でも二種類いることになる」
「──ああ」
 キリコも考えていたことだった。一種類は口から体内に入り、おそらく脳幹を乗っ取って身体を動かすもの。もう一種類はカミラのように集団に指示を与えるブレイン的な存在だ。
「キリコの見立ては?」
「二種類、あるいはそれ以上。現状で確認できているのは二種類。指示を出す方は高度な知能を持っている可能性が高い。──カミラに寄生した個体はフリッツを呼んだ。カミラの記憶があった上に、人間の言動を擬態できることになる」
「もし、他にもブレイン種がいたら間違いなくウルスラたちは混乱する。ここの研究所で働いていた人たちが寄生されているわけだから」
「そうだな」
「グラディスはそこまで知らなかったような態度だった」
「ディアナからの情報が限られていたのかもしれない。それか嘘をついたか」
「いや、あれはついてなかったと思う」
「根拠は?」
「人間は嘘をつく時ほどよく喋る。あいつにしては要点しか言わなかった」
「俺と同じ見立てだよ。そうだろうな」
 BJの髪に唇を落とす。口を覆うスカーフが邪魔だと思った。
「コンラートたちに言うべき?」
「彼らも気付いているとは思うが」
 キリコは考える振りをしたが、言う必要はあるが義理はない、と思っていた。それを言えばBJは怒るだろう。要はキリコは西ドイツ人を見捨てるという決断をしているという証明になってしまうのだから。
「まずコンラートに話してみるべきだ。彼が西ドイツ人のリーダーだからな」
「うん」
 BJはコンラートを呼ぼうとし、それから眉をひそめた。キリコも同様だ。そしてBJよりも心理的な観察に秀でた目でコンラートを眺めた。結論が出るまで数秒も必要としなかった。この地下三階でヒトゲノムの研究をしていた男は明らかに焦っている。
 それなりに冷静であり続けたコンラートはグラディスが消えた通路の先を見詰めたまま腕を組み、溜息を押し殺すような細い息を吐きながら指で肘を叩いている。焦っている、または苛立っている。なぜか。このフロア、地下三階の情報を切望しているからだ。それはこの状況なら当然の態度のはずだが、キリコの目はその態度の根底にある理由を見抜いた。
 女だ。そう思った。
「コンラート、ここに気になるものがあるようだな」
「当たり前だろう。私はここでメインの研究をしていたんだ。小麦なんて片手間だよ」
「あなたの片手間を真剣に研究していてごめんなさいね」
「すまない、侮辱するつもりはない。きみと一緒にしていた研究が人類にとって重要だということはよく分かっているんだ」
「よく言うわ」
 ウルスラも苛立っている。これはこの環境への恐怖がストレスとなってのしかかっているからだ。BJは意識して女性の顔を作り、無言でウルスラを抱いた。他人との害意のない接触は一時的でもストレスを軽減できる。ごめんなさい、とウルスラは呟き、BJを抱き返した。キリコはウルスラのケアをBJに任せ、コンラートに話しかける。
「ヒトゲノムか。倫理に反しなければ神の領域だな」
「そのうち国際的な倫理指針が制定される。その前にやりたいことをやってしまえというお達しでね」
「どこからのお達しかは聞かないでおくよ」
「フォート・デトリックではどうなんだい?」
「おまえさんほど高度なことをしているわけじゃない」
「──人間を兵器に改造できる遺伝子研究をしているのか、って訊きたいんだろう?」
 キリコは肩を竦め、その通りだと示した。どうせ本当のことを言うはずがないが、何かしら有益な情報を引き出せないとは限らない。
 予感があった。あの生物は明らかに神の手のものではない。ヒトゲノムをはじめ遺伝子工学を扱うこの研究所で開発されたのではないかと。
「疑っているんだろうね。あのナメクジを私たちが開発したのではないかって」
「そこまでは。それならこんな状況になるはずがない」
「その通り。私自身が生命の危機に晒されること自体がおかしい。──それに、あのナメクジについては本当に分からないんだよ。地下三階の研究室を使うチームは、自分たち以外のチームが何を研究しているか詳細が分からないことになっている。扱うものは全てヒトゲノムだが、方向性が違うし、情報の共有もしない」
「なるほど」
 キリコは頷いておいた。コンラートが嘘をついたかどうか、確実な判断が難しい。各自の口元を覆うスカーフが心理学的な観察の邪魔をしていた。
 だがあの生物がこの研究所で開発されたことは事実である可能性が高い。少なくともグラディスはキリコとBJにそう断言した。任務のためなら平気で嘘をつく男だが、施設からの脱出が最優先となった以上、共に脱出させる義務を負った相手とそのパートナーを騙す必要性がない。むしろ積極的に教えるだろう。知識があれば生物の脅威へ対し、二人の心構えが変わるからだ。
「ここは色んな研究をしてるんだな」
 ウルスラを落ち着かせたBJが言った。
「私が目を覚ましたフロアでミーティングか何かをしていたんじゃないか? ホワイトボードに化学式が書いてあった」
「ああ、ちょうど私とディアナがね。消していなかったのか。ディアナに任せて先にフロアを出たから確認していなかったよ」
「まあ、私の専門外だったから何ともね」
「そうか。大した式じゃなかったはずだよ。ディアナの専門について相談を受けていただけだから。彼女は食料の遺伝子組み換えが失敗した時に封じ込めを行うための研究をしていてね」
「ふうん」
 BJはキリコをちらりと見る。キリコは軽く目配せし、それ以上は訊くな、と告げた。だが同時に思っていた。
 人間は嘘をつく時ほどよく喋る。
「遅いな」
 フリッツの呟きの意味は全員に伝わった。グラディスの帰りが遅い。まさか危険に遭遇したのでは、と誰もが口に出さずに思い始める。否、キリコだけはそうではなかった。地下三階にある起爆装置を破壊しに行っているはずだ。もしも生物、もしくは『彼ら』に遭遇し、生命を失ったとしても、意地でも引き金を引いて銃声で異変を知らせるだろう。
「ディアナを見付けたのかもしれないわ。内線がある通路って言えば──他の階と同じなら4ヶ所ね。コンラート、どこにいるって言ってたの?」
「北の通路にいると言っていた。私のチームの研究室の近くで、この階の一番奥になるな。行ってみるか」
「少尉が戻って来ないのに?」
「ディアナが心配じゃないのか?」
「そうじゃないわ。でも──」
「私が一人で行く。きみたちはここで待っていればいい」
 焦っている。キリコは断じた。その理由にも思い至った。口にするべきかどうか悩んだ一瞬、オイゲンが「少尉だ」と言って安堵の溜息をついた。ウルスラとフリッツも同じく溜息をつく。BJですら非常灯だけの薄闇の中から現れたマグライトの光と赤毛の色に安堵した。マグライトを点けているのなら、少なくともあの生物の脅威はないということだ。
 グラディスはキリコに視線を送って僅かに頷き、起爆装置の無力化に成功したことを伝え、遅れてキリコも安堵した。
「北の通路の手前までは安全確認ができた」
「手前?」
「『彼ら』にやられたのか、共食いでもしたのか。この階の研究員っぽい人たちが北の通路の自動ドアの前で7人くらい重なって死んでたのと、手動でもドアが開けられなかったから一度戻って来た。あとついでに、他のエリアに『彼ら』はいなかった」
「ディアナは!?」
 コンラートが焦りを隠さない声で問う。グラディスは弟という設定を思い出し、幸い、と言った。
「死体の中にはいなかった。よかったよ。きっと北の通路にいる」
「言わなくて悪かった。そこにいるんだ。北の通路の入り口は正面玄関と同じ重防弾で、停電時にはロックされる。そうなるとエレベーターと同じ鍵でなければ開かない。ディアナは北の通路には『彼ら』がいないと言っていた」
「なるほど、怪我以外は身の安全がまあまあ確保できてるってことか。よかった」
 弟としての一通りの理想的な感想を口にした後、グラディスはいかにも不思議だとばかりに首を傾げ、コンラートを見た。
「ねえさんは地下二階で研究をしていたんじゃなかった? どうしてそんな場所にいるんだ?」
「私にもよく分からないが、クルトが──この階の研究者だ。鍵を持っている。私とは違うチームのね。そのクルトが、騒ぎが起きた時に連れてここまで逃げてくれたそうだ」
「ああ、クルトか。この階の研究員だなんて、結構エリートだったんだね」
「知っているのか?」
「ねえさんに言い寄ってるって話を電話で聞いたんだ。ねえさんは滅茶苦茶迷惑がってたけど」
「迷惑がって? クルトを? 本当に?」
「そう。しつこすぎて誘いを断るのが難しくなってきたって。それもあって今日、僕が来たんだよ。クルトがどういう奴か見ておこうと思って」
「そうか。──ああ、うん、そうか」
 おそらく事前に決めていたのであろう姉と弟の設定を聞きながら、ううん、とBJは唸りたくなった。唸る代わりにキリコを見上げた。キリコはスカーフ越しでも分かる苦笑を漏らし、無言で頷いてみせた。おそらくそうだろうね、と。やっぱりそうなのかあ、とBJも頷いた。コンラートが焦っていた理由、地下三階へ来ると言った理由をやっと確信できたような気がした。ディアナはコンラートの想い人、あるいは恋人だ。
「じゃあ、クルトも生きているってことよね?」
 ウルスラの声が弾んだ。この状況で新たな生存者が見付かったことに歓喜している。オイゲンとフリッツも同様だった。
「クルトはわたしの指導員だったの。新人の時にお世話になったのよ。とてもいい人。ディアナを好きなのは知らなかったけど、うまくいくといいわね」
 キリコとBJは顔を見合わせ、コンラートの態度で薄々勘付いたオイゲンとフリッツはああ、うん、そうだね、そうかな、とそれぞれ曖昧に頷く。コンラートは咳払いをしてあからさまにしてしまった自分の態度に気付き、恥じてやや赤くなった。
「早く行きましょう。二人を迎えに行かなくちゃ」
「僕とコンラートとそこの夫婦だけでいいんだけど、どうしてあなたも来るの」
「みんなで顔を見せてあげた方が安心するわよ。それに、わたしたちだってあなたといた方が安全だもの」
「空気を読まない上に図々しい女だな。先生よりましだけど」
「日本語は分からないの。何て言ったの?」
「あなたは優しい人だね、って言ったの」
「そんなことないわ。でもありがとう」
「赤毛、私よりましって何だ」
「ドクター、奥さんとちゃんと手を繋いであげて」
 日本語で噛み付こうとしたBJを綺麗に無視し、グラディスはキリコに要請した。キリコは笑い、手を繋ぐ前にグラディスに無事を喜ぶ握手を求める振りで無線機をその手の中に返してからBJの手を取った。
 オイゲンとフリッツが先に四階へ上がることになった。三階のリラクゼーションフロアの中には医務室があり、ディアナを運び込む前に可能な限りの準備をしておいて欲しいとBJが要求したからだ。BJは二人に必要な薬品の名前を教えた。幸い彼らは医師免許を持っており──遺伝子工学を手掛ける研究者では珍しいことではなかった──過去に身に着けた知識ですぐに理解した。
「三階に着いたらエレベーターを必ず地下三階に戻すんだ。コンラート、三階以外に停止しないようにロックしてくれ」
 キリコの指示に三人の男たちは素直に従う。地下二階にはまだ『彼ら』がいる。カミラを支配するブレインが呼び出しボタンを押していないとは限らない。キリコは続けた。
「それからドアの自動開閉機能を切る。三階で降りる前に少しだけ手動で開けてフロアを確認しろ。『彼ら』がいたらすぐにここまで戻るんだ。地下二階から階段で上がる可能性もある。少尉、頼む」
「今切る。待って」
 キリコは自動開閉機能の切り方を正確に実行できるのは、この場ではグラディスだけだと知っていた。フォート・デトリックの全てを知る特殊部隊員だ。同じ造りのこの研究所のエレベーターの操作など造作もなかった。ものの数秒で自動開閉機能を封じた。
「ウルスラ、あなたもオイゲンとフリッツと一緒に──」」
「嫌よ。ディアナとクルトを迎えに行くわ。足手まといになんてならないから!」
 ウルスラにも医務室へ先に行くようBJが言ったが、どうしてもディアナとクルトを迎えに行きたいと言って聞かなかった。キリコが説得しようとした時、グラディスが「いいんじゃないの」と言う。それでキリコは説得を諦めた。否、意識的にやめた。そして、ウルスラに良い未来は訪れないかもしれないな、と思った。
 同行者が一人増えればグラディスの負担も増えることは確かだ。それでもグラディスはノーと言わなかった。それが全ての答えだと漠然と理解した。敢えて漠然のまま、それ以上考えることをやめた。
 両手に抱えられるものは限られている。キリコ自身とグラディスがそれをよく知っているだけの話だった。愛する女がそれを知っていたとしても、おそらく全てを抱えようとする人間であることを今だけは忘れたかった。
「気を付けて」
「すぐにエレベーターを降ろすから」
 オイゲンとフリッツが乗ったエレベーターが上階へ上がる。階数表示パネルで無事に地下二階を通過したことを確認し、行こう、とコンラートが言った。


 途中で数人の遺体を発見した。BJとキリコが検死を行い、ヒトの歯形の噛み傷による失血死だと確認する。同僚の変わり果てた姿と死因に改めてショックを受けたウルスラは呻いたが、もう泣くことはなかった。良くも悪くも慣れたのだ。コンラートは敢えて無言を貫いていた。
「──ん?」
 キリコが眉をひそめ、遺体の口腔を改めて調べる。BJも覗き込み、同じように眉をひそめた。
「たぶん、私と同じことを思っているんだろうけど」
「そうだな。粘液がない」
「寄生されなかった、ってこと?」
「四階の遺体は?」
「そこまでは見なかった。まだ寄生虫のことなんて知らなかったもの」
「寄生される対象、されない対象に分かれる。知識がひとつ増えた。上々だ」
 悔しそうな顔をしたBJの背中を軽く叩き、立ち上がって一同に「行こう」と促す。グラディスが無言で先頭に立って歩き出した。グラディスがこのことについても何かを知っているのではないかとキリコとBJは思ったが、コンラートとウルスラの手前、日本語でも話しかけることを避けた。彼らが知らない言語で頻繁に話す行為はあまり良いことではない。不安と不信感を招きかねない。
「さっきはここで引き返した」
 グラディスが足を止めたのは北の通路の入り口だった。透明の自動ドアが閉ざされている。重防弾、停電時には完全ロックされるこのドアの奥に門外不出の研究内容とディアナ、そしてクルトがいることになる。ドアの向こうはやはり非常灯だけが薄ぼんやりと浮かび上がる暗闇だった。
「開けるよ」
 コンラートが鍵を出し、自動ドアの横にあった操作パネルを開いた。いくつかの操作の後、自動ドアの上部のセンサーライトが点滅する。グラディスが片手でドアを横に滑らせると、思いの外スムーズに開いた。
「中から閉じられる?」
「可能だ。左の壁に同じパネルがある。すぐにやるよ」
「僕がやっておくよ。早くねえさんのところに行ってあげて」
 コンラートは一瞬言葉に詰まり、それから羞恥心を隠すように眉をひそめた後、グラディスに鍵を渡した。
「直進して右が内線のあるフロアになる。先に行くよ」
「すぐ行く。気を付けて。ドクターと奥さんは僕と一緒に」
 コンラートとウルスラが先に行った後、グラディスが鍵をかけたことを確認してからBJは口を開いた。
「赤毛」
「何」
「どこまで知ってる?」
「どこまで知りたい?」
 BJはスカーフの下で息を吐き、こいつのこういうところが本当に嫌いだ、と思った。キリコも同じことを思ったが、BJよりはグラディスを理解できていた。グラディスこそが「どこまで言えばいいのか分からない」状態なのだ。
「たぶん、ここから脱出できる可能性について訊くべきなんだと思う」
「まあ、普通ならそれが知りたいだろうね」
「でも私が今知りたいのはそれじゃない」
「そうだろうね。先生、普通じゃないもん」
「いちいちうるさいんだよ、童貞。──寄生されるヒト、寄生されないヒトの区別は?」
 グラディスはしばらくBJの目を見詰めた後、やがてゆっくりと口を開いた。
「まずひとつ。僕は童貞じゃない。最重要だ」
「俺の気持ちが分かったか」
 男として不名誉とも言える早漏の言いがかりに甘んじているキリコは思わず口にした。事実ではないと知っているBJにすら、未だに機嫌が悪くなると言われるのだから嫌になる。グラディスは「まあね」と眉をひそめた。そういや早漏も童貞もわたしが言い出したんだっけ、とBJはやや反省しそうになったが、グラディスの次の話でどうでもよくなった。
「次。寄生されるヒト、寄生されないヒトの区別についてなんだけど」
「うん」
「そんなの今、初めて聞いた」
 数秒の沈黙が降りる。BJはキリコと顔を見合わせ、それから再度グラディスを見た。グラディスは「嘘じゃないよ」と言う。
「僕は嘘つきだけど、この状況で嘘をつくほど勇気はないよ」
「ふうん?」
「遺伝子工学や人体についてはドクターと先生の方が僕なんかよりよっぽど詳しい。情報を共有しない手はない。その方が脱出の可能性が上がることは確実だ。その可能性を捨てて他の手を取るなんて真似はできないし、他の手そのものが思いつかない」
「なるほど。他にも訊きたいけど、たぶん私たちに言いたいことがあるだろう」
「すっごい初歩的なこと、訊いていい?」
「どうぞ」
「どうして二人ともここにいるの」
 BJとキリコはまた顔を見合わせる。そして意図せず声を揃えて言った。
「こっちが訊きたい」
 再び数秒の沈黙が降りる。やがてグラディスが心底嫌そうに眉をひそめ、この上なく心情をこめて「神様」と呻いたのだった。
 あまり遅れるとコンラートたちの不信を招く。三人は取り敢えずディアナとクルトがいるという方向へ向かうことにした。歩きながらBJとキリコが研究所にいる経緯を話し、グラディスは黙って全てを聞いた後、「意味分かんない」と呟いた。
「意味は分かんないけど」
「うん」
「ドクターと先生をこの状況にぶち込みたい奴がいた、ってのは分かった」
「そういうことだろうな。心当たりはないか?」
「すぐには思いつかない。自分たちの胸に訊いた方が早いんじゃない?」
「心当たりがありすぎて」
「アウトローの生き方を恨むんだね。──先に言っておく。二人がここに拉致された件、僕たちは全く関係していない。任務より僕の脱出が優先になってる今の状況なら信じてもらえる要素が強いと思う」
「別行動になる時は言ってくれ。俺たちも準備が必要だからな」
「僕が死んだら見捨てるタイミングだ」
「──失言だ、すまない」
「気にしないで」
 言外に「見捨てない」と宣言した姿に、少なからぬ無礼を言ってしまったな、とキリコは気まずくなった。人格はどうあれ、目の前の赤毛の男は骨の髄まで軍人だと思い知った。自国民保護義務を当然のように遂行しようとする男に言うべきではなかった。
 BJはキリコほど軍人に対しての理解はなかったが、キリコが無礼を言ったこと、そしてそれをすぐに悔いたことは分かった。繋いでいた手に力を入れることしかできなかった。
 だが不意に気付いた。僕の脱出、とグラディスは言った。任務よりも脱出が優先になったことはこの状況なら理解できる。しかし任務に関わっているのはグラディスだけではないはず。これから救出するディアナも協力者だと明言していたはずだ。
 それとも、とまた別の方面から思考が襲い掛かる。それとも。そう言えば。
 ──フーゴを殺したのはこいつだ。じゃあディアナはどうする?
 分からない。気味が悪い。そう思った。自国民保護を貫く軍人としての顔、何かの事情で協力者を殺した特殊部隊員の顔。理解できなかった。多くの軍人を知るはずのキリコなら理解できるのだろうか、と思ったが、今はそれを問う気になれなかった。