birth 06

 足音が響くほどの静寂の中、唐突に女の叫び声が響いた。ウルスラではない。やや歩調を速めたグラディスが銃の安全装置を外し、キリコも数瞬迷った後、ガンベルトから銃を抜いた。BJは溜息をついてキリコから手を離した。
「どういう状況だよ」
 角を曲がり、薄闇の中でその光景を見た途端、BJはぼやいていた。右のふくらはぎに血の滲んだ布を巻き付けた女性──ディアナだろう──がウルスラに、ウルスラがディアナに銃を突き付けているのだ。コンラートはどうにか二人を落ち着かせようと声をかけていた。廊下の一番奥には透明のドアがあるが、これは研究室の入り口だ。そのドアの向こうにおそらくクルトと思われる男性がドアに縋るように立っていた。左肩から夥しい出血の痕がある。白衣もその下の衣服も真っ赤に染まっていた。
 ドクター、とグラディスが目で依頼した。心療内科に詳しい医者ならではの対応を期待するということだ。心療内科は万能じゃないんだがな、と思いながらキリコは口を開いた。
「事情が分からないのでね。見当外れのことを言ったら謝りますよ。そちらはディアナ? 少尉のお姉さんの?」
 ディアナが興奮していることを見て取り、まずはグラディスとの関係の設定を思い出させることにした。ディアナははっとしたように目を見開き、銃を構えたまま視線をキリコに向け、「そうよ」と答えた。軍人ではない、とキリコは判断した。訓練を受けた軍人が標的から視線を外すことはあり得ない。
「ありがとう。私はドクター・キリコ、こちらはパートナーのクロオ・ハザマ。弟さんにお世話になっている立場です。コンラートとウルスラにもね」
 コンラートはキリコが二人を落ち着かせるために割って入ったのだと理解し、頷いて一歩引くことにする。キリコの柔らかい声と言葉選びが優しい医者のものであり、興奮した女性二人を落ち着かせる効果があると見抜いた。流石はかの有名な死神だ、と思った。
「何があったか教えてくれませんか。弟さんが驚いています。私と妻もウルスラが誰かに銃を向ける状況に驚いているんです。ウルスラは優しい女性だ。そんな彼女があなたに?」
「騙されないで。──いいえ、ウルスラは優しいわ。それは知ってる。でも今はわたしに銃を向けて当たり前なの。ウルスラは悪くないわ」
「ねえさん、取り敢えず銃を降ろしてくれないか。怖くて近寄れないよ」
 弟としての立場から言ったグラディスのそれは「降ろせ」という命令だ。ディアナは荒い息を吐きながら「弟」を睨み付け、その目が厳しい軍人のものであると知り、ゆっくりと銃を降ろした。途端にウルスラも銃を降ろし、床にへたり込む。やがてウルスラの泣き声が響き始めた。
 駆け寄ろうとするBJを押し留めてグラディスが先に近付き、ウルスラの手の中にあった銃の安全装置をロックしてから女医に目で合図する。返事もせず、BJはウルスラの横に膝を付いて慰め始めた。こんなつもりじゃ、とウルスラは泣いていた。BJはウルスラが落ち着くまでただ話を聞くことにした。
「ねえさん、銃を貸して」
「お断りよ」
「じゃあ安全装置を。僕はねえさんから力づくで銃を奪うような真似をしたくない」
 従わなければ力づくで奪う、という宣言だ。ディアナは溜息をつき、言われた通りに安全装置をロックした。力関係はグラディス、つまりデルタフォースが上か、とキリコは理解した。
「出してくれ!」
 ガラスドアの向こうのクルトが激しくドアを叩いた。コンラートが悩み切ったように首を横に振り、「難しい状況だよ」と呟く。
「ドクターならどうする?」
「何を?」
「ディアナはクルトが寄生されていると言い、クルトはディアナが寄生されていると言う」
「俺なら惚れた女を信じるね。女が寄生されていたらおとなしく殺されておくよ」
 軽口とも本気とも取れる答えを返しながら、キリコは思わず溜息をついた。次から次へと面倒ばかり起きるものだ。まだ脱出方法も確保できていないというのに、先が思いやられるどころではなかった。
「その、ドクター」
 コンラートが小声で言った。今までの彼からは想像し難い歯切れの悪さだった。
「その、まだ、何も言ったことがないんだ。そういう例えは、ちょっと」
「恋愛は生ものだ。時間をかけすぎて腐ったら取り返しがつかないぞ」
「ドクターのとこなんて腐るを通り越して液状化してたんじゃないの」
 いつの間にか傍に立って話を聞いていたグラディスが日本語で無慈悲な突っ込みを入れ、はいおっしゃる通り、とキリコは苦々しい気分を味わう。
「とにかく、どちらを信じるかで迷っているということか。あのガラスドアは内側から開けられないはずだな?」
 フォート・デトリックで実際に見たことはないが、知識としては知っている。作動しないで欲しいと思うシステムのひとつだった。
「流石だな。フォート・デトリックと同じだと思うよ。弟くん、あの状況だと開かない。鍵の部分の赤いランプが見えるか?」
「うん」
「あれはバイオハザードに備えたロックシステムが作動している証拠だ。万一の時、室内の研究物が流出しないように外部から完全ロックされる」
「そうなんだ?」
 知ってるけど、と心の中で呟いたに違いないとキリコが思った後、グラディスが怪しまれないための演技の一環として続けた。
「クルトが外に出る方法は?」
「正規の手順で鍵を開けるか、壊すか」
「開けてくれ! ディアナは危険なんだ! 俺の話を聞くんだ!」
 ガラス越しでも声は聞こえる。クルトの形相は必死と言うしかないもので、とてもではないが嘘をついているようには見えなかった。
「駄目よ! クルトは寄生されてる!」
 だがディアナも同様だ。どちらも真実を言っていると信じるに値する表情と危機感は、一同に迷いを抱かせるには充分だった。
「クルトにひどいことをしないで! 出してあげて!」
 ウルスラが泣き声で叫んだ。落ち着いて、とBJはウルスラの背中を撫でる。興奮しきったウルスラは自分でも感情がコントロールできず、だって、だって、と泣き続けた。
「わたしだって最初は気付かなかった。いつも通りのクルトだったもの」
 ディアナも必死だ。今にも再び銃を構えそうなほどに興奮していた。
「でもコンラートと内線が繋がって、迎えに来てくれるって説明した途端に様子が変わったのよ。あの寄生虫が入り込んだ人間独特の動きをしたから部屋の中に突き飛ばしてロックしたの」
「あなたはロック方法を知っているということですね?」
 キリコの問いにディアナは頷く。
「わたしはバイオハザード防止の研究をしているの。施設内の関係システムも業務として知ってる」
「そうですか」
 キリコはもうひとつの質問を飲み込んだ。『寄生虫が入り込んだ人間独特の動きをなぜ知っている?』。だがグラディスによれば、ディアナはその情報を既にアメリカに、そしてグラディスに教えている。知っている可能性があって当然だ。クルトと共に逃げている間に見たことも否定できない。
 それでも拭えない疑問は存在し続ける。この場には関係ないと分かっていても、どうしても考えざるを得なかった。『寄生虫を入り込ませる人体実験を既に行っていたということなのか』。
 もし事実であれば倫理に反するどころではなかった。この研究所はある意味、フォート・デトリックよりも危険な研究をしていたことになる。フォート・デトリックとて生物兵器を取り扱っているが、それは人道にもとる可能性がある研究であり、倫理そのものではなかった。
 人道は政治的な力によってうつろう。だが世界を牛耳る勢力のほとんどが根底に宗教を持つ以上、異なる神を信奉しながらも、なぜか共通する倫理はうつろわない。だからこそ政治家は倫理を道具にする。
 ──とんでもない研究をしていたってことになる。赤毛が気付いているのかいないのかは知ったことじゃないが──これが明るみに出れば西ドイツの関係者は──
 視線に気付いた。BJだ。スカーフで口元を覆っていても、そして薄闇の中でもはっきり分かるほど青ざめている。どうした、と訊く必要もなかった。医者としてウルスラを宥める仕事をしていない状況であれば、おいで、と呼んで抱き締めてやりたかった。BJもこの研究所の倫理の欠如の可能性に気付き、衝撃を受け、ある意味で怯えたのだ。せめて頷いて共感を示してやることしかできなかった。
「クルトは違う。きっとディアナだって違うわ。お互いに勘違いしているだけなのよ」
「わたしに銃を向けた人の言葉とは思えないわ」
「興奮していたの。ごめんなさい。謝ってすむことじゃないけど、でも本当よ」
 ウルスラがまた泣き出す。BJはウルスラを抱き締め、大丈夫だから、と哀れに思いながら声を掛け続けた。育ちがよく、人類に役立つ食糧の研究に日々と情熱を捧げていた女性にとってこの環境は過酷過ぎた。自分とてキリコがいなければ相当厳しい精神状態に追い込まれていたはずだ。トラブルに慣れているはずのないウルスラが限界を迎えても仕方のないことだと思った。
「ウルスラは悪くないんだ!」
 クルトが叫んだ。
「どうしても俺を出してはいけないと主張するディアナと口論になって、ディアナが引かなかったから──ディアナが先に銃を向けたんだ。ウルスラは身を守ろうとしただけだ!」
「それは確かだ」
 コンラートがクルトの説明に頷いた。
「私は眺めているだけの役立たずだった。どうにも女性同士の口論には気圧されてしまって」
「説得してたでしょ。それがなきゃ二人ともぶっ放してた。ありがとう」
 ディアナの弟に淡々と評価されたコンラートは肩を竦める。だが途端にディアナがはっとしてグラディスを見た。グラディスはディアナを見なかったが、キリコはやや注意深く二人の「姉弟」を観察した。そして、なるほど、と思った。──グラディスはディアナがウルスラに銃を向けたことを怒っている。ディアナはグラディスを怒らせたことに気付き、焦った。
「ねえさんがウルスラに銃を向けなきゃ、ウルスラも銃を構えることはなかった。そういうことだと思う。──いくら扱いの訓練を受けていても危険だ。人を脅すために銃を向けるなんて絶対にやっちゃいけない」
 おまえはよくやるよな。キリコは心の中で呟いた。キリコに短機関銃を押し付けたのは誰だよ、とBJも昔のことを思い出して嫌な気分になってしまう。
「少尉、ここでジャッジをしても仕方ない。状況が状況だった。ディアナを責めないでくれ。私もそうなる前に二人を落ち着かせるべきだったんだ」
「責めてないよ。事実の確認だ。現実的な問題としてジャッジが必要な件もある」
 ディアナとクルトのどちらが真実を言っているのか。それとも二人とも間違っているのか。それとも二人とも正しいのか。ウルスラが泣きながら言った。
「二人とも違うわ。きっとそうよ。ねえ、先生、分かってくれる? 寄生されてるならカミラ所長みたいにおかしくなるんじゃないの? 二人ともずっといつも通りよ!」
「ウルスラ、お願いよ。クルトは──」
「お願い、ディアナ、黙って! わたし、もうどうしたらいいのか分からないのよ!」
「少し落ち着こう。奥さん、ねえさんの足の怪我を診てあげてくれる?」
「分かった。──ウルスラ、大丈夫。深呼吸して。みんな興奮してるし、戸惑ってる。あなただけじゃない」
「先生も?」
「当たり前!」
 ずっと冷静に自分を励ましてくれていた女医もそうなのだと認めた声に、ウルスラはやや無理をしたが笑ってみせた。自分だけが怯えているのではないという事実が妙な連帯感を生み、そして励ましをくれた。BJは笑って背中を撫でてやり、患者の方へと歩き出した。
「ディアナ、座って。傷を見せて欲しい」
「ねえさん、その人の言うことをきいて」
 BJではなくグラディスの指示に従い、不本意そうに顔を歪めながらも、ディアナは壁に寄り掛かって床に座り込んだ。ようやく痛みを思い出したかのように不快げな呻きを漏らす。
「あなたは誰?」
「通りすがりの天才外科医」
 膝を付いて傷を検分しながら、BJは小声で続けた。
「少佐の知り合い。彼が説明しないなら知らなくていいんだと思う」
「──そうね。そうする。言っておくけど、わたしの方が正しいわよ」
 それにはすぐに応えず、BJは解いた包帯の下の傷を診る。まずは噛み傷ではないことを確認し、思わず安堵の息を吐いていた。
「どんな状況で怪我を?」
「地下二階で襲われた時、まだ生きていた同僚が発砲したの。わたしを狙ったわけじゃないけど、何かにぶつかって跳ね返ったのが当たったみたい」
「なるほど、これが跳弾傷か。初めて見たよ。銃創は見慣れてるんだけどね」
「可愛い顔して物騒な経験をしてるのね」
「可愛かないよ、この傷を見りゃ分かるだろう。ちゃんと診てやるからおべんちゃらを言いなさんな」
「綺麗な目鼻立ちをしているのは事実よ。あなたこそそんなこと言うもんじゃないわ」
 BJはディアナの顔をちらりと見上げ、彼女が本心で言っていることと、彼女自身が結構な美女であることを知った。友達が多そうだな、とこの場には関係のないことを思った。
 皮膚が深めに抉れていたが、すぐに生命に関わるほどの出血を伴うものではない。だがいまだに出血していることは確かだ。早急に消毒と縫合が必要だった。医療鞄がないことが悔やまれた。
「キリコ」
「うん?」
「ないと思うけど、医療道具は何か?」
「ないね」
「圧迫止血して。その後に固定」
 その処置はキリコの方が技術が高い。キリコは無言で要請を受け入れ、BJの言う通りに処置を始めた。
「また訊くけど、あなたは誰?」
「彼女のパートナーだ」
「少佐の知り合い?」
「そうだな。世話になってるし、世話をしてるよ。──噛み傷じゃないな?」
「違う。ディアナ、口を開けて」
 言われた通りにしたディアナの口腔を調べ、あの粘液がないことを確認する。ディアナは寄生されていない、と言い切れる要素がひとつ増えた。
「出してくれ。彼女は危険なんだ! 封じ込められるのは彼女の方だ!」
 クルトの叫び声が薄闇の廊下に響く。グラディスは無言のままディアナとクルトのちょうど真ん中あたりに立ち、コンラートは状況の打開のためにどうするべきかを考えて眉間に皺を寄せていた。クルトがまた叫んだ。
「ウルスラ!」
 グラディスがふと顔を上げる。キリコもクルトを見た。やり方を変えた、と図らずも同時に思っていた。ウルスラはかつての指導員だったクルトに対して好意的だ。クルトが情に訴える手に出たのか、それとも純粋に話を聞いてくれる相手を探しただけなのか。
「きみなら分かってくれるだろう。あのディアナが銃を向けるなんて有り得ないことだ。寄生されて攻撃性が高まっている。すぐにその二人をディアナから離すんだ、とにかくそれだけでも頼む! これ以上犠牲者を出してはいけないんだ!」
 クルトは叫び続けた。自分がここに閉じ込められていてはディアナを封じ込めることができない、いつ攻撃するか分からない──落ち着きかけていたウルスラは再び混乱しきった泣き顔でクルトとディアナを交互に見る。
「クルト、落ち着いてくれ。大きな声を出すんじゃない。みんな理解が追い付いていないんだ」
 コンラートがクルトを落ち着かせるために会話を試みるが、それでもクルトはやめなかった。とにかくディアナが危険なのだと言い続けた。ディアナはクルトこそが危険なのだと大声で言い返し、もはや収拾がつかない。ウルスラがまた泣き出した。コンラートが苛立ちを隠してクルトに要請する。
「クルト、ウルスラに頼むのをやめてくれ。彼女が困っているのが分からないのか」
「ウルスラ、頼む、とにかくディアナをその二人から離すだけでも──」
「わたしは違う! クルトが寄生されているのよ!」
「もうやめろ! ウルスラに押し付けるな!」
 BJが叫んだ。もううんざりだ。そう思った。──もううんざりだ、最低だ、どいつもこいつも優しいウルスラに押し付けてばかり!
「ディアナは寄生されていない。口の中に痕跡がない!」
「その通りだ。俺も確認した」
 医者二人の証言にディアナがまた主張した。
「だからわたしは違うって最初から言ったでしょう!」
「黙れ」
 静かに命令したのはアメリカ陸軍の少佐だった。もはや姉弟の設定などどうでもいいと言わんばかりの低い声にディアナは息を呑んで口を噤む。そしてキリコは少し前、自分で立てた仮説を思い出した。──グラディスがディアナに死んでいて欲しかったのではないか、という仮説を。
「少尉」
 コンラートがグラディスを呼ぶ。
「考えがある。きみの力が必要だが、西ドイツ人の願いを聞き入れてくれるだろうか」
「話の内容によっては考える」
「ディアナとドクター夫妻に先にこの場を離れてもらう。そうだな、医務室へ。オイゲンとフリッツが戻って来ていないということは三階がセーフティだと考えられる」
「まとめて死んでる可能性もあるけどね」
「否定できない。そこで提案だ。三人にエレベーター前まで行ってもらう。オイゲンたちが死んでいればエレベーターが戻って来ていない確率が高い。戻っていなければその場で待機だ。戻っていれば上へ」
「それで?」
「クルトを出して寄生の真偽を確認する。BJ先生の言う通りなら口の中に粘液が残っているはずだ。私が見る」
 グラディスは暫し考え、それから言った。
「僕の役目は?」
「要はクルトが寄生されていて、確認する私が襲われた時、対処して欲しい」
「具体的には?」
「クルトを殺して欲しい。もし私が寄生されたら私のことも」
「やめて!」
 ウルスラが悲鳴を上げる。BJはディアナをキリコに任せ、再度ウルスラを落ち着かせるために隣へ移動した。酷い話だと分かっている。だが既にこれしか方法が残されていないということも。
「ウルスラ、私たちと一緒に行こう。彼らがきっと上手くやってくれる」
「嫌よ。どうしてよ。クルトが寄生されているなんて誰が信じるの。あんなに話せるのよ! 普通通りじゃない! ディアナ、あなただってクルトと仲が良かったんだから知ってるでしょう!」
「良くないわよ、やめてよ!」
 思わず本気で嫌がったディアナの返答にコンラートが軽く咳払いをする。男の心情の機微になど構わず、ウルスラは続けた。
「あれだけ話せても寄生されているなら、ディアナだって同じことが言えるじゃない!」
「わたしは寄生されてないわ! ドクターたちが証明してくれたもの!」
「──その証明をクルトに対して私がするだけだ。私だって医師免許があるし、やり方は分かっている。それでいいだろう? 頼むよ、ウルスラ。どうか分かって欲しい。このままじゃ誰も幸せな結末が迎えられないんだ」
 コンラートの説得にウルスラは涙を拭き、しばらく押し黙っていたが、やがて諦めたように頷いた。
「わたしもここにいたい」
「ウルスラ、お願いだから──」
「もう勝手にここにいればいいよ。どうなっても知らないけど」
 一緒に行って、と言おうとしたBJをグラディスが遮った。BJはグラディスを睨み付ける。グラディスはBJではなくキリコを見た。察したキリコは溜息を押し殺し、感情を切り離して──ウルスラの未来が見えたのだから──BJに「そうしよう」と言った。
「納得しない人間を無理に動かすことはできない。おまえも分かるだろう」
「でも」
 BJはキリコに縋り、日本語で囁いた。
「赤毛は西ドイツ人を同行者だと思ってない。何をするか分からない」
「マフィン」
 キリコは低く、感情を切り離したまま答えた。
「最悪の予想ばかりをしてはいけない。あいつが西ドイツ人を殺すならとっくに殺している」
「でも!」
「フリッツは無事だった。助けさえした。俺たちはそれを見ている」
「フーゴは?」
「赤毛が殺した証拠がない」
 言いながらキリコは不意に顔を上げた。フリッツ。その言葉で思い出した。フリッツがカミラを操る知的生物と遭遇した時のこと、豹変した時のこと──
 ──まさか。
「少尉」
「何、もう早くしてよ」
「試したいことがある。鍵を開けずにクルトと話をさせてくれ」
「僕が決めることじゃない」
 キリコはコンラートを見た。コンラートは僅かな間の後、「もちろん」と頷いた。拒否する理由がなかった。
 何をするの、と言うBJに説明する暇がない。いつまでも三階が無事だとは限らない。急ぐ必要があった。キリコはBJを置いて前に進み、透明のドア越しにクルトと向かい合って立つ。
「ドクター・キリコだ。お初にお目にかかる」
「初めまして。さっきから見苦しい姿で申し訳ない」
「出血の程度は?」
「見た目より酷い出血じゃないよ。ただ、造血剤が必要だと思う。医務室にあるはずだ」
 クルトは興奮振りをどうにか抑え、冷静に受け答えをした。それからキリコは質問を重ねた。名前、年齢、出身地──ひとつ答えるたびにコンラートが「間違いない」と呟く。そうか、とキリコは言った。
 そうか、と言った後、指を小さく動かした。ハンドサイン──アメリカ陸軍軍人なら必ず分かるはずの。『気を付けろ』。赤毛の軍人の反応は分からなかったが、僅かな金属音が聞こえた。特殊部隊員が密かに安全装置を外した音だと考えるまでもなかった。
「最後に言わせてくれ」
「何だい?」
「おまえはクルトじゃない」
 瞬間と言っても過言ではないほど短い間にクルトの表情が歪んだ。それは人間の不快感を表す歪み方ではなかった。まるでホラー映画のモンスターそのもののように顔中を激しく歪め、そして咆哮しながら猛然と扉を叩き始めた。その目は人の光を有していなかった。
「どういうこと?」
 BJが呟く。キリコは獣の殺意をもって暴れるクルトを見詰めたまま言った。
「否定だ。フリッツの話を思い出したんだ。グラディスがカミラをカミラじゃないと宣言した時、カミラに寄生していたブレインが正体を現した」
「──だからキリコもクルトを否定したってこと? それが正体を現すトリガー?」
「この状況ならそう判断できる材料ができた、ってことだな」
 BJは眉をひそめてクルトを──クルトだったものを見る。猛った獣そのもののように暴れ、ドアを叩き続けるそれは狂暴で邪悪にしか見えなかった。確かに恐ろしいと思った。だが同時に感じた。
 これは哀れな存在だ。そう思った。
 クルトだったものが更に激しく暴れだした。訓練されていない人間の恐怖を呼び起こすには充分すぎる禍々しさと凶暴さはBJすらも怯えさせた。哀れだ、そして恐ろしい──そう思った。
「ドアが破られたら撃ち殺すか、いっそ先に殺すかだなあ」
 グラディスが溜息混じりに言った。
「やめてよ! 嘘よ!」
 嘘よ、とウルスラが絶叫して大声で泣き出す。クルトの変わり様に竦んだBJは慰めることもできない。ディアナは「だから言ったのに」と呻き、コンラートは科学者に不似合いな神への祈りを呟いた。
「嘘よ!」
 ウルスラが叫ぶ。限界を超えた精神力は既に彼女を狂わせていると言っても良かった。目にするだけで痛々しいその姿にBJは泣きたくなった。
「嘘よ、みんなで騙してる! 出してあげればよかったのよ!」
 立ち上がって子供が地団太を踏むように泣き喚く。そしてそれは止められなかった。誰にも止めることはできなかった──その場にいたコンラートとディアナはそう思う。だがBJは思えなかった。止めなかった。あいつは止めなかった──赤毛はわざと止めなかった!
 銃声がふたつ響いた。ウルスラがドアの鍵に向けて撃った音、そのウルスラの頭部を正確に撃ち抜いた音。それから──
「確認!」
 ドアが跳ね返したウルスラの弾が右脇腹にめり込んで身を折るグラディスを見た瞬間、今しがたグラディスに突き飛ばされ、結果として跳弾を避けることになったキリコが叫んだ。キリコの声よりも早くBJは駆け出していた。止めなかった。そう思った。こいつはわざとウルスラに一発撃たせた。ウルスラを殺すために──西ドイツ人を減らすために! それでも手を止めることができなかった。医者なのだ。どうしようもなかった。これだけはコントロールできない心なのだとこんな時に思い知る。
 グラディスがコンラートを呼び、自分の銃を差し出した。奴がドアを破って出たら撃て。そう命じた。
「あなたならできるはずだ」
 コンラートは逆らわなかった。グラディスから銃を受け取り、そしてドアの向こうのクルトへ──クルトだった生物へ狙いを定めた。ディアナも震える手で自分の銃をコンラートと同じ方向へ向けた。
 何もかも分からない。聞いていたBJは混乱する精神を宥めるため、何度も息を吐いた。それを知ったキリコが「落ち着いて」と囁く。
「患者の前だ。できるな?」
「分かってる」
「盲管射創」
 体内に弾が残っている。よかった、とグラディスが息を吐いた。傍で聞けば妙な感想だが、取り敢えずの大出血を防ぐ結果になっている。医者二人の診立ても同様だった。運がいい、と同時に思った。
「うん。──ここじゃ取れない。メスはあるけど止血ができない」
「医務室へ」
「僕のボディバッグに麻酔と止血テープがある。何とかして」
 くそ、とグラディスは呟いた。
「だから9パラじゃ無理だって言ったのに。ヒステリー女って大嫌い」
「それなら私を嫌う理由がよく分かるよ。──頭を吹っ飛ばす前に言ってやればよかったんだ」
「そんな義理ないよ」
「ウルスラが撃つまで待ってたな」
「痛い、奥さん、痛い! 何とかしてよ!」
「わざとらしいんだよ、このクソ赤毛! 壊疽でも起こらなきゃ死にゃしねえよ!」
 ウルスラの無惨な死を頭から追い払いたくて、BJは敢えて口汚くグラディスを罵った。キリコがボディバッグから取り出した麻酔薬と止血テープで応急処置を済ませる。
 BJが最終確認をする前にグラディスは立ち上がり、コンラートから銃を取った。キリコはBJを胸に抱き込み、BJはしがみついて目を閉じた。
 銃声が三度響いた。鍵を破壊した音、咆哮を上げて飛び出して来たクルトだったものの頭部を撃ち抜いた音、そこから飛び出した白黒の生物を撃ち殺した音だった。
 目を開けたBJはウルスラを見た。あれは彼女じゃないよと言われれば信じたくなるほどに、大口径の銃で吹き飛ばされた頭部は原形を留めていなかった。愚かなまでに優しかった彼女の最期だと思いたくもなかった。
 だがこれが現実だった。優しかった女性は恐怖と混乱で取り乱し、発砲し、その跳弾が自国民に危害を加えると判断したアメリカの軍人に頭を無惨に吹き飛ばされて殺された。たとえその軍人が予見していて、彼女が撃つまで待っていたとしても、事実は事実であり、いつか彼女の死が正当なものであるかと問われたとしても、多くの人々が正当であったと言うのだろう。
 そしてその事実は確実に、愛する男を救ったのだとしか言いようがなかった。
 喉の奥で堪え切れない泣き声が漏れた。キリコが強く抱き締めてくれた。この腕から出たくなかった。ここにいれば安心できると知っていた。
「行こう。オイゲンとフリッツが待ってるはずだ」
 現実に引き戻そうとするウルスラを殺した軍人が、今は患者となった男が、憎いと思った。
 コンラートはウルスラに少し長く祈りを捧げる。彼女は確かに誤った行動をした。この状況であれば仕方のない結果になった。国の徴兵制度で軍を経験したコンラートには理解できることだ。だがやはり、同じ部屋で顔を合わせ、同じ研究に一部でも携わった日々を考えれば、彼女の復活の日が穏やかであるよう長い祈りを捧げたかった。
 ディアナは祈りを拒否した。わたしが殺したようなものだから。そう呟いた。
「わたしが銃を向けなければこんなことにならなかった」
「それは違う。ディアナ、自分を責めないで」
 コンラートの慰めの礼としてディアナは頷き、それでも自分を許せないと声無く呟いて、銃を「弟」に渡した。弟は黙って受け取り、腰のベルトに挟んだ。
「コンラート、ねえさんに手を貸してあげて」
「きみは歩けるのか?」
「どうってことない」
 麻酔が効いている間は問題なく歩ける。さっき使った量なら二時間、でも身体を激しく動かすなら一時間がいいところだ、とBJは判断した。
「グラディス」
 怪我を感じさせずに姿勢よく先を歩く軍人の背後にキリコは声をかける。
「クロオに話してもいいか」
「質問じゃなくて決定通知でしょ」
「まあな」
「先に行ってエレベーターの確認をする。ねえさんのペースに合わせて来て」
 グラディスが速足で薄闇の中へ消えてからキリコは息を吐き、日本語かドイツ語か迷った。ウルスラの同僚であるコンラートにも伝えるべきかもしれないと考え、ドイツ語を選択した。
「グラディスはウルスラが撃つまで待っていたわけじゃない」
「そんな話、どうでもよくない?」
 聞きたくないと言いたげな声に、聞けよ、とキリコは静かに言った。BJは黙った。
「グラディスが今持っている銃は破壊力が高い。その分、早撃ちに向いていないんだ。引き金を引いてから弾が出るまで、それから弾が標的に届くまで、俺や彼女が使っていたような小型銃より少しだけ時間がかかる。少しだけと言っても、グラディスほど技術がある人間には体感として危機感を覚える長さのはずだ」
 BJはスカーフの下で唇を噛んだ。混乱の中で乱れた精神のせいで涙腺が緩みそうだった。聞きたくなかった。だが分かっていた。聞かなければいけないことだった、そしてキリコは言わなければいけないことだった。
「彼女がドアを撃つまで待っていたわけじゃないんだ。間に合わないと判断した。だから俺を突き飛ばして跳弾を避けさせてから撃った。──彼は自国民を助けるために精一杯の行動をして、負傷した」
 唇を噛み締めなければ泣いてしまいそうだった。BJは痛みを感じるほど強く噛んだ。それでも涙腺は言うことを聞かなかった。キリコはもうひとつの話を言うか否かを迷った。軍人のプライドを傷つけてしまうかもしれないと危惧して迷ったのだ。だがコンラートが「失礼だが」と前置きをして口を挟んだ。
「ドクターが跳弾に当たらなかったのは、少尉に突き飛ばされて避けられたからではないだろうね。彼は自分が当たるつもりであの位置に出たはずだ。跳弾はどこに飛ぶか予想しにくい。だったらドクターの前に出て受けた方が安全だと──ドクターが安全だと判断したんだろう」
 キリコが迷っていた事柄を口にしたコンラートは、明らかに敬意を込めた声で続けた。
「彼のような性格ならこんな話を暴露されることは嫌がるだろうが、今はいないから構わないだろう。彼は身を呈して自国民を守った。国は違えど敬すべき軍人だと私は思うよ」
「ウルスラを──西ドイツ人を殺しても?」
 BJの声は泣き声だった。コンラート、おまえと同じ国の人間が殺された事実は──そう言いたかった。だが涙が言葉を堰き止める。分かっているよと言うようにコンラートは静かに答えた。
「きみの夫は怪我もなく生きている。──彼を英雄だと言いたいわけじゃない。彼はアメリカ人にとって正しい行動をした。私はリーダーを気取りながら彼女を守れなかった。それだけの話だよ」
 ここを出たら、とコンラートは続けた。
「きっとウルスラのことを思い出すだろう。フーゴのこともね。もしかしたらウルスラを殺した少尉を憎いと思うかもしれない。でも今は思いたくない」
 エレベーターが見えた。グラディスが一同に気付き、呼び出しボタンを押して扉を開いた。その姿を見ながらコンラートは言った。
「危機的状況の中で、生命の選別が行われるのは避けられない事実だ。生き延びる価値がある存在が選ばれる。歴史上も、生物学上もね」
 ただそれだけのことだったんだよ。コンラートの呟きにBJは怒りを覚えた。だが同時に、非日常の中では当然だろうとしたり顔で頷きたがる別の自分もいた。
「ったく」
 キリコは自嘲混じりの声を漏らした。
「俺が生き延びたことを喜びにくい話をしてくれるなよ」
 それは事実だった。コンラートの言うことはよく分かる。そして事実だ。だからと言って自分の命を救うために一人が死んだ、殺された──それも事実だ。いかに闇の世界に生きようと、生命の行方を案内し続ける人生であろうと、否、だからこそ、生命の選別に自分が関わったという事実が重苦しくのしかかりそうだった。今は敢えて忘れるしかなかった。ここを出たらコンラートのように思い出すのだろう。それまでは忘れて、生きて脱出することだけを考えたかった。
「そんなつもりはなかった。でも」
 コンラートはBJに言った。
「きみは夫が生きていることを喜んでいい立場だ。それが彼への最大の敬意だろうね。軍人とはそういうものだ」
 BJは答えなかった。ああ、この男は。そう思った。コンラート、おまえは──そう言おうとした時、エレベーター前の赤毛の男が不機嫌に言った。
「遅い。ダブルデートなら脱出してからにしてよ」
「そういう口を利くから礼を言う気が失せるんだ、馬鹿!」
 BJの精一杯の礼にキリコは笑いを堪え、グラディスは目を丸くする。馬鹿、ともう一度言い、BJは目元を拭ってエレベーターへ乗り込んだ。