birth 03

「アメリカ人はいるか?」
 用心のために研究員が理解できない日本語で話していてよかった。一瞬でキリコとBJは「他の人間に知り合いだと思われてはいけない」と悟る。グラディスの問いはその要請だ。だからキリコも声を張り上げた。
「俺だ。ドクター・キリコ、彼女はクロオ・ハザマ、日本人のパートナーだ」
「アメリカ国内居住地と社会保障番号を」
「ワシントン。社会保障番号──」
「ありがとう。もう一度繰り返して」
 とんだ茶番だと思いながらもキリコはグラディスの演技に合わせ、BJもキリコの後ろに隠れる振りをして戸惑う妻を演出してみせる。だがグラディス以外には見えない位置だと分かり、小さく手を振った。グラディスは無反応を貫いたが、一瞬だけ視線をBJに送り、「おとなしくしてて」と伝えた。BJは取り敢えずそれを受け入れることにした。
「全員が分かる言葉で話して欲しい」
「そうするよ」
 グラディスがドイツ語を話せると知っているキリコの要請はすぐに受け入れられた。言葉の壁が消えれば全員への伝達速度の問題をクリアしやすくなる。
「生き残りはここにいる人たちだけ?」
「そうだ」
「あなたは誰? アメリカ人? どうしてここにいるの?」
 ウルスラが不信感を隠そうともせずに言った。キリコとBJは黙り、グラディスに任せる。グラディスがここにいる理由が分からない以上、あまり邪魔をしない方がいい。二人は瞬間的に意思を疎通させていた。
 ここから安全に出るためには腕の立つ人間が必要だ、と。現状、それが旧知の特殊部隊隊長であることは間違いない。邪魔をして協力を断られる事態は避けたかった。
「アメリカ人。陸軍少尉。一昨年西ドイツに帰化した姉に休暇で会いに来た。姉の名前はディアナ、僕はグラディス。ここで三年前から研究員として働いている」
 あ、こいつ任務中だ──BJとキリコは同時に悟っていた。本来は少佐であるはずの階級を少尉と偽った上、グラディスの姉の名前はグレイス、そして西ドイツに帰化したバイオテクノロジーの研究員などではないことを知っている。グレイスは今、ロンドンで一人娘と婚約者と共に暮らしているはずだ。
「ディアナの弟──そうか、会いに来る話は聞いていたよ。今日だったのか」
 今度はコンラートに視線が集中した。
「あなたがコンラート?」
 グラディスは言った。いかにも姉から事前に聞いていたと言わんばかりの態度だ。BJとキリコはそのディアナという女性が真っ当な研究員ではない、あるいはアメリカ軍に協力する立場であることを予想した。
「そうだ。まさか手榴弾や拳銃を持って来るとは思わなかったがね」
「ここで拾った」
「馬鹿なことを言うな」
「順を追って説明していい?」
 グラディスは滔々と語りだした。聞きながら、ああ、嘘満載だな、とBJは思い、そもそも任務中のこいつが本当のことを言うはずがないとキリコは思った。
「ここに来て、警備員に入館許可証をもらった。フーゴって名前だったかな」
 思わず一同は視線をエレベーターに向け、そして見たことを後悔して目を逸らす。その視線の意味を察したグラディスは「失礼」と呟いた。
「知らないとはいえ気が回らなかった。確認するべきだったかもしれない」
「きみのお陰で彼も救われたはずだ。我々は何もできなかった」
 キリコが口添えをした。第三者には二人の交流の始まりに見える。よくやるよ、とBJは表情を変えずに思った。キリコは「今後二人きりで話をしても他人が怪しむことがない」舞台設定を作ろうとしている。旧知と知られてはならない以上、悪くはない行動だった。
「ありがとう。──ねえさんとこのフロアで待ち合わせをしていたんだ。正面玄関で受付をしてから階段に行こうとして、途中で他の警備員に声をかけられた。その人と話している間にこの騒ぎだよ。それで──」
「一階を通って来たということでいいんだな?」
 キリコが遮り、質問した。グラディスは頷く。
「そう」
 一同の中には一階の様子を知る者がいない。これは貴重な情報だと言うべきだ。
「一階の様子は?」
「映画の『ゾンビ』のスピードバージョンみたいな感じ。全力で逃げた」
「賢明だな」
 一階でも同様の光景が繰り広げられていたと知り、一同はまた絶望に襲われる。
「まだ質問はある? 続けていい?」
「失礼、どうぞ」
「逃げ込んだ警備員の詰め所の中に武器庫に繋がるカモフラージュされたドアがあったんだ。そこで銃と手榴弾と、あとちょっと色々もらって来た」
 なるほど、とキリコは頷き、BJも納得した。キリコがいる時は必ずフォート・デトリックの警備主任としての任務に就く立場だ。この研究所が同じ造りであると知っていれば武器庫への道が分かっても不思議ではないし、何より潜入任務である以上、事前に把握しているはずだった。
「で、静かになるまで待ってた。ねえさんがどこにいるかは知らない。ここに来たらあなたたちがいた。以上」
 グラディスを知るBJとキリコは「おおむね事実だろう」と思った。細部は違うかもしれないが知ったことではないし、知ろうとしても今グラディスが語るとは思えない。
 研究員たちはしばらく無言だったが、やがてウルスラとオイゲン、フリッツがコンラートを見た。コンラートはグラディスを厳しい目で見詰めた後、ゆっくりと宣言した。
「信じたいと思う」
「それはどうも」
「だが質問をしたい」
「どうぞ」
「なぜフーゴ──あのエレベーターの中に群がっていた生物を殺した? 危険だと判断したのか? もしそうならその理由は?」
 グラディスはポケットから煙草を出した咥え、火を点けてから事も無げにいった。
「一階で見たからさ」
「何を?」
「僕を襲って来た奴を一人、頭を吹っ飛ばして殺した。──吹っ飛ばした頭から出て来たのがあの黒白の巨大ナメクジもどきだった。そいつが僕に飛びかかって来たから掴んで放り投げた。そうしたら先に襲われて死にかけてた他の人の口から身体の中に入っていったんだ」
「……まさか」
「まさかも何も、僕の頭がおかしいと思うなら信じなきゃいいんじゃないの。──入り込まれた人は起き上がって、僕に襲い掛かろうとした。取り敢えずこの人も頭を吹っ飛ばして、また出て来たナメクジも殺した」
 どう考えたってやばいやつでしょ、とグラディスは言った。BJとキリコは顔を見合わせてBJの仮説が正しかったことを知り、研究者たちは息を呑んで言葉と顔色を失っていた。
「赤──少尉、質問したい」
「どうぞ、奥さん」
 偽の階級を呼んだことを内心で褒めながら、グラディスはBJに返事をしてみせた。
「ナメクジもどきは頭部から出たのか?」
「頭部を撃ったらその場所から飛び出した、としか言いようがないね」
「飛び出した時には生きていた?」
「生きていた。間違いない」
「おまえさんがナメクジを殺した方法は?」
「撃ち殺した」
「ありがとう」
 BJがエレベーターへ向かって歩き出した。魂を別の次元へ旅立たせたフーゴの遺体と白と黒の生物の残骸に向かう姿に、キリコが「おい」と声を掛けながら追って腕を掴む。BJは嫌がって腕を解こうとしたが、掴んだ手の力の強さに諦めて息を吐き、足を止めた。
「必要だと思うから」
「何を考えている」
「キリコだって今の赤毛の話で同じことを考えたはず。フーゴの──」
「──頭部を開けたいのか」
「必要がある」
「言いたいことは分かる。でも近付くべきじゃない。まだ生きている個体がいるかもしれない」
「少尉」
 キリコには返事をせず、BJはグラディスを呼んだ。
「フーゴの遺体を見たい」
「誰が?」
「私とキリコ」
「攻撃的手榴弾を使った。潰れてるはずだよ」
「見たのか?」
「見ろって?」
「夫がエレベーターまで行かせてくれないのよ、彼ったら心配性なんだから!」
 嫌いな女のわざとらしい女言葉に苛立ち、盛大に眉を跳ね上げてから、グラディスはボディバッグからバンダナを出して鼻から顎までを覆った。思わずBJとキリコは顔を見合わせた。知っている、と思った。
 ──こいつは口から入り込むことを確実に知っているのかもしれない。一階で一度見ているからと言って学者でもない人間がすぐにそこまで理解するものなのか?
「少尉」
「ん?」
「気を付けて」
「白々しい」
 吐き捨てるように言い、グラディスは銃を片手にエレベーターへ向かう。その銃が普段グラディスが持つものではないとキリコは気付いた。
 ──50口径。いつもの銃の威力の比じゃない。警備室の武器庫で見つけたのか? 本当に?
「マフィン」
「何?」
 小声で、だが念には念を入れて日本語で会話をする。コンラートたちがまだグラディスを警戒していることが分かるからだ。
「赤毛は思った以上に事情を知っているかもしれない」
「根拠は?」
「あの銃が警備室にあったとしたら、この施設の警備員は全員優秀な軍人か名うての悪党だよ」
「分かりやすく」
「赤毛が普段の銃より威力がある銃を持ち込んでいる可能性。いつもの任務より脅威を感じる敵に発砲する可能性がある任務、って言えばいいのか」
「──そう」
 白黒の生物の死骸だらけのエレベーターの狭い空間中から、赤毛の男が躊躇うことなくフーゴだった赤い肉塊を引きずり出していた。露わになった遺体はほぼ原形を留めないほどに潰れ、そして喰われていた。研究者たちは引き攣ったように息を呑み、貧血を起こして倒れかけたウルスラをコンラートが支える。キリコはスカーフで口元を覆い、グラディスとフーゴに速足で近付き、コート脱いでをフーゴの上にかけた。頭部は損傷があるものの、解剖対象として絶望的ではなかった。他の部分が酷く喰われていることを考えれば奇跡と言える。
「マフィン」
「ありがとう。──気の毒に」
 遅れて来たBJはやはり口元をスカーフで覆いながら心から言い、フーゴの遺体に合掌する。それが宗教的儀式だと気付いたキリコとグラディスは自らの宗教に則って十字を切った。
「──銃、持ってるんだ? いつもの9パラ(いわゆる小型銃)?」
 グラディスが小声でキリコに問う。コートを脱いだ今、ガンベルトを隠すことはできなかった。既に隠す必要もなかった。
「まあな。いつものだ。おまえさんのは違うな。武器庫の銃じゃなさそうだが」
「持ち込み」
「受付で警備員に手荷物検査をされなかったのか」
「フーゴはBNDだ。前もって彼に検査をさせるように手回ししておいた」
 あっさりと明かされた情報に、キリコは驚く気にもなれなかった。
「この状況じゃどんな嘘も真実に聞こえるよ」
「今回の任務の協力者だよ。一応、うちの国と西ドイツの共同作戦になってる」
 頼りになった元軍人の警備員がドイツ連邦情報局の局員、つまりは事前に潜り込んでいたスパイだったとあっさり知らされ、キリコは「ふうん」と言い、BJは眉を顰めた。ここから出るためにはグラディスの協力が必要不可欠ではあるが、彼が遂行中の任務がかなり複雑なものであることを予想した。
「ねえさんとやらもか」
「ディアナ?」
「ああ」
「言えないけど予想して」
 フーゴと似たようなものだろうと予想し、キリコは頷く。
「なるほど、登場人物が多いな。──俺たちにあっさりバラしたってことは、まずい状況なのか」
「すごくまずい。正直言っていい?」
「聞くだけなら」
「任務は中止。ここからの離脱を最優先目標に切り替えた。──それでも僕の身の安全を確保できるかどうかも分からない。妨害電波が酷くて持って来た無線が通じないんだ。救援が呼べない」
 キリコは一瞬言葉を失い、コートからメスを取り出したBJが動きを止め、グラディスを見る。それほどまでの事態である、と改めて知ったからだ。特殊部隊の隊長が任務を中止し、身の安全と離脱を図る。それがどのようなことであるのか分からないわけではなかった。
「ドクターと先生は一緒に来てもらう。一応、僕の義務なんで」
「義務?」
「自国民保護。ドクターがアメリカ人だから、こういう状況で見付けたら最優先で保護する義務があるんだよ」
 そう言えばそんな理念があったな、とキリコは思い出した。BJは外国人になるが、キリコのパートナーという立場であれば適用される。
「今回ばっかりは僕の言うことを聞いてもらうよ。本当にまずい状況だから」
「いつも聞いてやってるだろうに。分かった。助かるよ」
「流石のデルタもモンスター相手の訓練は積んでないからね。死んだら諦めて」
「生きて帰ったら訓練メニューに追加するんだな。──モンスターは禁句だ。『彼ら』で通せ」
「理由は?」
「生きている間は研究員たちの同僚だった」
「了解。──ところで先生、何をしたいの」
 メスを手にしたBJは、グラディスの問いに短く答える。
「開頭する」
「死んでるのに?」
「検死だ」
「指示を」
 キリコはすぐさまサポート態勢に入った。グラディスは邪魔にならない程度に下がり、二人の作業を見守る。やがて察したコンラートとオイゲンもやって来た。ウルスラとフリッツは見る勇気も気力もないかのように床に座り込んでいた。
 頭部が過度の損傷を免れたことは幸運だった。BJは相変わらずの神の指でメスを操り、血まみれの頭皮を開く。頭蓋骨はどうする、とキリコが問うまでもなかった。原因不明のままエレベーターの急上昇と衝突に巻き込まれた時、それなりの損傷を受けた部分から、やや無理をしたものの開くことができた。
「キリコ」
「ああ」
「脳幹がほとんどない」
「そうだな」
 有り得ない結果だった。脳の、そして身体の働きに不可欠な一部分がそこだけぽかりと空洞になり、わずかな欠片を残してほとんどなくなっている。
「フーゴは『彼ら』になったわけじゃない。でも──あの生物たちが寄生虫だと仮定して、遺体に入り込もうとした可能性は?」
「どうだろうな」
 キリコは手を伸ばし、緩く開かれていたフーゴの唇をぐいと開けた。BJが大きく息を吐き、見ていたコンラートとオイゲンが「神よ」と呟く。
「口に入った状態で攻撃的手榴弾が爆発した場合、そういうケースがある。例えるなら壁越しでも圧死するってこと」
 求められる前に説明したのはグラディスだった。BJはそれに感謝しながらフーゴの崩れかけた口に指を入れ、指先の感触に眉を顰めながらそれを引っ張り出した。
「口に入り込んで──この触手」
 白黒のあの生物だった。攻撃的手榴弾の威力はここにある。爆発時の圧力で敢え無く圧死したのだ。だが今、一同の目を奪ったのは、身体の周囲を巡るように生えていた短い触手の一本が異様に細く、長く伸びていたことだった。
「鼻腔から触手を入り込ませて脳幹を食ったんだろう。お食事中に無粋な手榴弾がドカン」
「たちの悪い客へのテーブルパッシングとしては最適だな。──脳幹との関係はともかく、『口から入って脳幹に達する』という確率が高いことは分かった」
「赤──少尉の話と合わせると、『彼ら』はこいつに脳幹を乗っ取られて身体を動かされていたのかもしれない」
「宝石バチにしちゃ汚い見た目だな」
 キリコは気味の悪い生物を嘲笑し、BJの仮説を受け入れた。荒唐無稽もいいところだが、密林の中に青い光を見せた連中の存在に比べれば、よほど現実味があるような気がすることが不思議だった。
「宝石バチ?」
「コックローチの脳を乗っ取って思い通りに動かす蜂がいる。見た目は相当綺麗なもんだが、やることはえげつないよ。ゾンビ使いさ」
「やだやだ、どっちにしろ無理。あの黒い奴、本当に無理」
 身を震わせるBJと本気で嫌な顔をしたグラディスはそれぞれ黒い虫に嫌悪感を示した後、改めて白黒の生物を見た。それからグラディスはBJとキリコのそばに膝を付き、小声、かつ日本語で言った。
「乗っ取った身体が生きていれば、心臓が動いている限り操られる造りらしい」
 BJとキリコは視線を交わした後に頷き合った。やはりグラディスは知っていた。そしてBJの仮説のひとつが事実であると証明された。
「ただし寄生先、ええと──host?」
「宿主」
 キリコほど日本語を操れないグラディスの言わんとするところが分かり、BJが助け舟を出す。そう、とグラディスが言った。
「それ。宿主の身体が死んだらもう操れない。次の宿主を探して身体から出る。そういう設計だ、ってことまでは確認が取れた。人体実験の有無はまだ分からない」
「どうして知っている?」
「ディアナが掴んだ機密だ」
「──つまり、この巨大ナメクジはこの研究所で産まれたってことか」
「そういうこと。──奥さん、僕の日本語も結構いけてるでしょ? 日本語が話したくなったらいつでも言ってよ」
 理解できない言語での長話にコンラートとオイゲンが疑問を抱かないうちに、グラディスはいかにも異国人の女性を気遣う口調で一度話を切り上げた。
「きみはこれからどうするつもりだ」
 コンラートがグラディスに問う。グラディスはキリコとBJに目をやり、それから言った。
「僕はアメリカの軍人だ。休暇中でも危機的状況にある自国民を見付けたら保護する義務がある。そのパートナーもね」
「つまり?」
「ドクター・キリコと奥さんを連れてこの研究所から出る」
「なるほど。ディアナに関してはどうするつもりだ?」
「できれば一緒に出たい。でも正直言うと、もう死んでる可能性が高いと思う」
「諦めるということか。姉だろう」
「ねえさんの研究室がどこにあるのかも知らない。保護するべき自国民を連れ回して探せって?」
 BJはキリコを見る。視線に気付いたキリコは目でBJに黙っているように伝えた。グラディスの目的が脱出優先になった今、任務の協力者を見捨てるつもりであることが分かった。でも、とBJは思う。──でもそれじゃ、この研究員たちはどうなるんだろう。
「ディアナの研究室は地下二階よ。彼女は封じ込め遺伝子の研究をしているから、バイオハザード対策に研究室も内側から密閉できる。まだ生きているかもしれないわ」
「地下二階?」
 ウルスラの口出しにグラディスの眉が跳ね上がり──明らかに「面倒なことを言いやがって、この女」という感情であることはBJとキリコには分かった──キリコは研究員たちに気付かれないようにグラディスを観察する。地下二階。グラディスがこれから目指そうとしていた場所だと予想していた。
 この研究所がフォート・デトリックと同じ造りであるのなら、そこに貯水を兼ねたリラクゼーションのための温水プールが設置されている。そしてその奥には地上へ続く非常口が隠されているのだ。非常時に最重要人物を優先的に脱出させるため、一般の研究者には知らされていないが、キリコは五階のトラップと同様、グラディスから教えられていた。コンラートたちが知っているかどうか──キリコがそう思った時、コンラートが先手を打った。
「きみの銃があるなら非常口の鍵を破壊できる。地下二階には──」
 コンラートは知っていた。地下二階の非常口について一同に説明する。キリコはグラディスに同情すると同時に、自分とBJの速やかな脱出が妨害されかねない状況であると理解した。コンラート、いや、優しいウルスラは言うはずだ。──『それならディアナも一緒に!』。案の定、ウルスラは目を輝かせて言った。
「ディアナの研究室を確認してから非常口に行けばいいわ!」
「この女、今すぐ殺してやりたい」
 間髪入れずに日本語で呟いたグラディスの心情は理解できる、とキリコは思う。BJは協力者が助かるかもしれないのに何てことを言うんだろう、と内心で憤慨する。
「日本語は分からないわ」
「そういう手もあるね、って言っただけ。──分かった、ありがとう。ドクター、奥さん、階段から行こう。急いで」
「わたしたちは?」
「さっきも言ったけど、僕が保護するのはドクターと奥さんだけだ。あなたたちはご勝手に」
「そんな──」
 明らかにこの場では希望になる武力を持つ男に宣言され、ウルスラは泣き出しそうに声を揺らした。オイゲンとフリッツも絶望の顔をする。だがコンラートだけが表情を変えず、静かに言った。
「きみが非常口を開放することを待っているのは構わないな?」
「ドクターと奥さん、僕が脱出した後なら開放された非常口がどうなろうが知ったことじゃない」
「分かった。──みんな、自分の身は自分で守るんだ。アメリカ人を利用してやれ。彼は私たちのために突破口を開く義務を負ったも同然だ」
「行くよ。念のため口元のスカーフは外さないで」
 西ドイツ人たちにそれ以上目もくれず、グラディスはキリコとBJを促して階段へ向かった。キリコは返事もせずにBJの腕を引いて後を追う。引きずられるように歩き出したBJは辛うじて振り返り、親切なウルスラに声を掛けた。
「また会いましょう!」
 ウルスラは泣きそうな笑みを浮かべ、大きく頷いた。BJもどうにか笑い返した。親切で優しい彼女が怯えていない姿を早く見たいと思った。私たちも口を覆うんだ、とコンラートが指示を出す声が聞こえた。
 その瞬間だった。グラディスが足を止めた。キリコもBJも同様だ。
 フロア中に内線の音が響き渡った。
 誰も動くことができない。内線はいつまでもつんざくようなコール音を喚き散らす。意を決したようにウルスラが動こうとした。BJは叫んだ。耐えられなかった。
「──ウルスラばかりに押し付けるな、玉無しども!」
 自分を見付けた時も、自分を早くキリコに会わせてやらなくてはと言ったのも、オイゲンとフリッツ、フーゴと合流しようと言ったのも、このフロアで外線をかけようとしたのも全てウルスラだった。男たちは彼女の後に続くばかりだった。男女同権、それは構わない。だが彼女だけがなぜ先陣を切らなければならないのか。
 BJの言葉は西ドイツの男たちのフェミニズムを刺激し、恥を与えた。動いたのはコンラートだ。口元を覆ったばかりのスカーフを引き下げ。鳴り響くエレベーター横の内線に走り、受話器に手をかける。大きく息を吐いた後、ゆっくりと受話器を耳に当てた。
「誰だ?」
 それから数秒後、コンラートが叫んだ。
「ディアナ!」
 研究員たちが弾かれたようにコンラートへ、正確にはコンラートが手にする受話器へ駆け寄る。グラディスが「なあんだ」と母国語で呟いた。脱出が阻まれる要素に不機嫌になったのだろう、とBJは思った。キリコもそう思ったが、すぐにそうではないと気付いた。軍人の目に一瞬、怒りの色がよぎったことを見逃さなかった。
「生きているんだな!?」
 キリコはグラディスを見る。スカーフを外し、煙草を咥える姿があった。
「あなた、よかった!」
 ウルスラが振り返り、グラディスに口元を覆ったスカーフ越しでも分かるほどの満面の笑みを浮かべた。
「ディアナが生きていたわ! 迎えに行ってあげなくちゃ!」
 グラディスは答えなかった。その代わり、軽く頷いてみせただけだった。姉の無事を喜ぶ弟の演技をする気配すらなかった。だからキリコは知った。
 こいつは、と思った。
 こいつは──グラディスは。
 ディアナに死んでいて欲しかったんだ。
「先にドクターと奥さんを脱出させてアメリカ大使館に連絡する。ねえさんはその後でいい」
「迎えに行けばすぐよ! プールと同じフロアにあるのよ!?」
「あなたに合衆国軍人の理念を分かってもらおうとは思わない。ただ、僕の邪魔をしないで欲しい」
「そんなの分からない。でも弟でしょう? ディアナだってアメリカ人なんだし──」
「西ドイツに帰化した。僕から見れば他国人だ。この話は終わりだ」
「ねえ、あなた──」
「ウルスラ、やめて」
 BJはキリコの手を離し、ウルスラに駆け寄る。親切で育ちのいいウルスラは「弟が姉を助けに行かない」ことが信じられず、翻意させようとしている。だがグラディスのような男には無駄、あるいは逆効果にしかならなかった。
「彼を怒らせないで。彼だって本当はディアナを助けたいはずなんだから」
「何よ。あなたとご主人が早く脱出したいからって、そんな──」
 言ってからウルスラははっとして口を噤む。それから泣きそうな顔で「ごめんなさい」と呻いた。BJは自分こそが謝るべきだと思った。彼女がそう感じるのは当然のことだ。
「分かってる。私だってあなたの立場なら同じことを思うから。ディアナは地下二階に?」
「そうよ」
「分かった。──少尉、キリコを連れて先に脱出を。私がディアナを迎えに行く」
 フロアの全ての人間の目がBJに集中した。内線でディアナと話していたコンラートが話を聞きつけ、受話器に向かって「待ってくれ」と言う。キリコが息を吐き、マフィン、と呼んだ。
「言いたいことは分かる。それがおまえの性格だってこともね。でも俺がイエスと言うと思うか」
「キリコの許可なんかいらない。少尉の許可ももちろんね」
「マフィン、──クロオ。やめるんだ、こっちにおいで。俺と手を繋いで」
「嫌。これが一番いい方法だと思う。キリコは脱出できる。少尉は義務を果たせる。ウルスラたちはディアナを助けて脱出できる」
「だったらウルスラたちが迎えに行くべきだ。おまえの役目じゃない」
「はっきり言って、キリコと少尉を除けば私が一番腕が立つと思うんだけど?」
 キリコは溜息をつき、クソビッチ、と口の中で呟いた。どうしようもない女だ。だがBJがこう言った以上、言を翻すことはないとも分かっている。
 キリコ自身の結論としては「行くべきではない」、これに尽きる。そこにある生命を見捨てるのかと問われればイエス、家族が待つ自分とBJの生命を賭けるべき状況ではないと断言できた。情は捨てる。そうしなくてはならない時もある。手の大きさは限られている。全てを救おうと欲張れば、必ずいくつかを──大抵はかけがえのないものだ──取りこぼすことを密林の中で嫌と言うほどに学んだのだから。
 その時、コンラートの切迫した声が響いた。
「地下三階? ディアナ、どうしてそんなところにいるんだ?」
 瞬間、キリコとBJはグラディスが視線をコンラートの背中に送ったことに気付いた。それから数秒の沈黙の後、任務を変更したはずの少佐は姉を案じる弟の声になって宣言した。
「分かった。ねえさんを迎えに行く。脱出はその後だ。──失礼、ドクター、銃を見せてくれる?」
 最後のそれは近付いて小声で話すための言い訳に過ぎない。察したキリコは頷き、ガンベルトから出した銃を渡しながら「本気か」と日本語で問うた。
「地下三階だ。行かないと」
「──確信があるのか?」
 言葉にする必要はない。フォート・デトリックと同じ構造であると確信しているのか。その確認だった。グラディスは目で「当たり前だ」と答えた。
「任務開始前にも確認してある。間違いない」
「なるほど。起爆装置の位置も確実に分かっているんだな?」
「もちろん。僕たちが脱出する前に起動したらまずい。起爆装置を無力化する」
「できるのか」
「やるしかない。『彼ら』がいたら厳しいけど、ドクターと先生は地下二階の安全確認ができたらディアナの研究室で待ってて」
「分かった。待機時間は?」
「一時間。それで僕が戻らなかったら五階の所長室から屋上へ。五階に行くまでに生きていられればいいね。──これ持ってって。うちの隊に繋がる」
 他の誰にも見えない角度でグラディスがキリコの手に何かを押し込んだ。小型の無線機だ。てのひらに収まるサイズは最新式だった。
 ──最新式を投入するほど危険度が高い任務だったのか、それとも単なる偶然か。どちらにせよ俺とクロオの役に立つことは間違いない。
「妨害電波で使えないんじゃなかったのか」
「妨害電波が屋内から出てると仮定したら、屋上なら通じるかもしれない。通じなかったら自分たちで何とかして」
「何の話?」
 軍人と元軍人の話に嫌気が差したBJが口を挟む。キリコがBJに手を伸ばし、BJは溜息をついてキリコの元へ戻り、その手を握る妻の振りをした。やはり小声のままキリコが言った。
「最下層に爆薬が埋まっている」
「──何それ」
「起爆装置は地下三階、それから五階──ここならおそらく所長室。どちらかのスイッチで起爆される」
 BJはスカーフ越しにもはっきり分かるほどごくりと音を立てて息を呑んだ。
「俺が聞いた話が正しければ600kgだ」
「嘘!」
 思わず声を上げたBJに、グラディスが目で「うるさい」と非難を向けてから付け加えた。
「『彼ら』が何かの拍子で起爆装置を見付けて作動でもさせたら洒落にならない。5分で爆発する。600kgもあればこの研究所を簡単に吹っ飛ばせるよ。起爆装置を潰しに行く」
「5分? 起爆したら逃げる暇もなく吹っ飛ばされるってわけ?」
「倫理的にまずい研究をしてる施設なんてそれでいいんだよ。──相変わらず手入れがいいね。武器庫にこの口径の弾があったから予備で持って行こう」
 コンラートが受話器の向こうのディアナに呼び掛けている。これから行く。きみの弟が迎えに来ているんだ。必ず行くよ。──キリコは彼の背を眺めた。BJが繋いだ指に力を入れ、キリコに囁いた。
「あいつ」
 BJの目は険しく、明らかにコンラートに疑惑の目を向けていた。その疑惑はキリコが抱いていたものと同様だった。
「プールの奥の非常口のことを知っていたのに言わなかった」