非常灯と懐中電灯の光を頼りに薄暗い通路を歩く。大量の死体と血の海の通路とは別の方向にある階段へ向かった。一階降りれば合流予定の三階だ。幸いにも新たな惨劇に遭遇することなく、驚くほどスムーズに降りることができた。
「すごいな」
三階に降りたBJは思わず感嘆の声を漏らした。リラクゼーションフロアとなっている三階は一面に人工的な水耕栽培の低い水槽が配置され、穏やかな水音と植物がまるで敷き詰められているように見える。水槽の底の人工光がフロア全体をぼんやりと照らし上げ、停電でも視界を確保することができた。合間合間にセッティングされたテーブルやティーセットは、日常であれば職員たちを癒していることだろう。フロアの側方となる壁は一面が窓だったが、既に日が暮れ、周囲は何も見えなかった。
「底の光は非常用電源に繋がっているの。一応これも研究中の作物だから、エネルギーの供給を切りたくないのよ。わたしたちの担当よ」
「ウルスラの? じゃあ、これは小麦?」
「そう。遺伝子組み換えで、肥料がなくても水と人工光で栽培できるかどうか──もし成功すれば食糧難を──」
ウルスラは状況も忘れてBJに研究内容を披露し始めた。育ちの良い女性が優秀な研究者として熱弁をふるい、周囲を警戒しつつもBJが頷く中、キリコはフロアをぐるりと見回した。
──……造りが似ている。
「……いや、ほぼ同じか」
「ドクター・キリコ?」
「俺の仕事先を思い出す造りでね。エレベーターが北の一番奥にあるんじゃないか?」
「二台あるよ。──フォート・デトリック?」
キリコは答えず、ゆっくりとコンラートを見た。コンラートは軽く両手を挙げ、敵意はないと示してみせる。
「ブラック・ジャックとドクター・キリコが夫婦だって知っている辺りで、私がある程度あなたたちについて詳しく知っているのは予想しているだろう?」
「夫婦じゃない。勘違いしてる奴が多い」
「ふむ、私の担当は『あの二人は夫婦ですからね』としか言わないものでね」
「担当の名前は?」
「確か──」
闇仕事のマネージメント担当者の名前を聞き、あいつか、とキリコはうんざりした。だが同時にコンラートがそれなりの回数、それなりの金額で闇仕事を依頼していることが分かった。担当者は上客にリップサービスの一環として有名人のちょっとした話──無論その有名人に害が出ない程度──を提供することが多い。自分やBJもよく材料として使われていることは知っていた。
「俺たちの話をされるなんざ結構な上客だな。小麦の研究に何の関わりがあるんだ? 有名パン職人の秘密のレシピ収集でも頼んでるのか?」
「ウルスラは小麦の専門だが、私はそうでもないんだ。ここでの小麦は表向きさ」
「専門は?」
「ヒトゲノム」
さらりと答えてみせたコンラートを一瞥し、ふうん、と呟いてキリコは話を終わりにし、BJとウルスラに視線を移した。人間のDNAの研究者と闇の関わりが確認できればそれで良かった。
「フォート・デトリックについては担当から聞いたわけじゃない。軍の知り合いに聞いた。ヒトゲノムなんてものを扱っていればそれなりに知り合いはできるさ。そこは勘違いしないでくれ」
「どうでもいい。別に隠しているわけでもないしな」
キリコの視線の先にいたBJが不意に首を巡らせ、「来た」と呟く。階段を慎重に上がる複数の気配を感じたのだ。キリコが銃をコートの下のガンベルトに隠すと同時に、白衣の男性が二人、警備員の制服姿の男性が一人現れた。
彼らはコンラートとウルスラを見て安堵の息を吐いた後、見知らぬ男女二人に警戒の目を向けた。すかさずウルスラが説明した。
「警備員のフーゴよ。フーゴ、こちらはブラック・ジャック先生とドクター・キリコ。お医者様なの」
「今日の外部訪問者は一人だけだったはずだ。俺が入館を確認している」
警備員のフーゴが素早く思い出す。一人いたのか、もう死んだかな、と思いながらキリコは口を開いた。
「イレギュラーだ。証明しにくいが、この状況に困惑している立場だよ」
「アメリカ人だ。彼女はその妻。身元は私が保証する。知り合いの知り合い程度の縁があるのでね」
BJがキリコの袖をぎゅっと掴み、コンラートの機転に感心したことをキリコに伝えた。キリコも同意だった。
研究員のオイゲンとフリッツもそれぞれ名乗り、今の状況に困惑していること、二階でも同様の惨状が繰り広げられたことを改めて語った。全員が凄惨な現場を目撃し、それぞれ精神的なショックから立ち直り切れていないことは明白だった。
「カミラ所長と連絡が取れない。五階の所長室もやられたんだろうか」
「所長室は私たちの研究室と違って密閉できないからな。その可能性は否定できないよ」
「とにかく外に電話を。今分かる限りの生存者の数だけでも知らせておいた方がいいわ」
言い終えるや否やウルスラが小麦の水槽の間の通路を歩き出す。だがすぐに足を止め、一同を振り返った。
「一人で行かせないで、怖いわ」
「もちろんだ、失礼」
ウルスラの素早い行動に出遅れた男たちとBJは慌てて歩き出す。フーゴが自発的に先頭に立った。優秀な警備員は優秀な軍人だったのだと分からせる背中だった。
「電話は? ──ああ、あそこか」
最奥のエレベーターのすぐそばに設置された電話を見て、キリコの袖を掴んで歩いていたBJは無意識に安堵していた。外部と連絡が取れるのであれば脱出の可能性が上がる。あのモンスターがここにいないことも安堵に拍車をかけた。急に小麦と水の香りが心地良く感じられる。水槽の底から零れる光もありがたかった。
「どこにかければいいかしら? 警察?」
「陸軍がいいだろう。ここは軍事研究もしている。すぐに手配してくれるはずだ」
「じゃあ俺が。陸軍出身だから話がしやすい。番号も覚えてるしね」
コンラートの判断にフーゴが言い、エレベーター横にあった壁の電話に手を伸ばした。
オイゲンとフリッツがBJの外見に興味を示した。無礼な性質ではなかったのか、二人は下世話なことは何ひとつ言わず、失礼だが今は痛んだりしない傷なのか、大丈夫か、と声をかけた。BJは控えめに頷き、古傷だから平気、でも心配してくれてありがとう、とそれなりにそつのない返答をして表面上の交流を試みる。これからある程度の時間を共に行動する以上、多少の会話は必要だった。
「駄目だ、繋がらない」
フーゴが苛立ちながらフックを抑え、繋がらないと分かっていながらももう一度陸軍の緊急連絡番号をコールする。結果は同じだった。
「電話は非常用電源に繋いである。通じないはずがないのに。──みんながモンスターになっちまう直前に外部訪問者から来訪連絡があって、その時には繋がった。俺が受けたんだから間違いない」
「小麦の水槽の人工光と非常灯は点いているから非常用電源が死んでいるとは思えないし、どういうことなの」
確かにそうだな、とキリコは手近な水槽を覗いた。膝よりも低い位置にある水槽は柔らかい人工光と水音、小麦の香りで人を癒そうとする。
「──……?」
目を凝らした。何かが小麦の陰で動いたような気がしたのだ。
「どうした?」
キリコの様子に気付いたオイゲンが隣に立つ。
「小麦の陰で何か動いたような気がしたんだ」
「まさか。──ウルスラ、この小麦は虫がつかない改良をしてあるんじゃなかったか?」
「そうよ。どうしたの?」
「ドクター・キリコが何かいるって──本当だ、いるぞ」
「何ですって!?」
研究成果の異常を聞いたウルスラが血相を変えて駆け寄る。オイゲンとキリコの間に身体を捩じ込ませた勢いでキリコは突き飛ばされる形になり、苦笑を隠しながら後ろに引いた。
だがその瞬間、BJがキリコを渾身の力で後ろに引きながら叫んだ。
「下がれ!」
ざばりと水音が響く。癒しの音とはかけ離れた荒々しい水音の直後、ウルスラのくぐもった絶叫とオイゲンの悲鳴、手にしていた懐中電灯が水に落ちる音が響いた。ほぼ同時にキリコが動く。ウルスラの顔に貼り付いた物体を掴んで床へ投げ捨てた。びしゃりと音を立てて仰向けに落ちたてのひらほどの大きさのそれは水と粘液を撒き散らしながら暴れ、うつ伏せにひっくり返ろうと躍起になっているようにも見える。
「何、何なの! 何なのよ、これ!」
水と粘液で顔を汚されたウルスラは泣き声で叫ぶ。
腹は白、背は黒、そして粘液にまみれたそれは決して美しいとは言えなかった。短い触手を身体中に纏い、その全てがばらばらにうねっているさまはグロテスクとしか言いようがない。
咄嗟に動けない一同の前でそれはようやくうつ伏せの姿勢を取り、まるで狙いを定めるように身体をくねらせた後、じりじりと前進を始めた。キリコがコート下の銃を探りながらBJを背後に隠す。これは、とキリコは思った。直感だった。──これは神の祝福を外れた生物だ。
指が銃に触れた瞬間、別の銃声が響いた。同時にそれが弾け飛び、粘ついた欠片となって床を汚した。
「大丈夫か」
正確な射撃姿勢で銃を構え、警備員のフーゴは優秀な元軍人であることを一同に知らしめた。
「小麦に人を襲う害虫がついたってこと?」
「そんなはずないわ。今までついたことなんてなかった。──ありがとう」
BJがコートから出したハンカチを借りて顔を拭いながら、ウルスラは強く否定する。
「ああ、嫌、口に入りそうだったわ」
「口?」
「そうよ。唇の上で脚を動かして気持ち悪かった」
「──そう」
その時、他の水槽を覗き込んだフリッツが呻いた。
「ここにもいる」
その声でコンラートとオイゲンも他の水槽を覗いた。そして同様に呻きを上げた。
「こっちもだ」
「こちらも」
「退避を。水槽から離れてエレベーターの方へ。視力で認識したら襲って来るかもしれない」
そう言ったキリコはBJをエレベーターの方へ押すように歩き出し、フーゴの銃器の扱いを思い出して感心していた。射撃は映画やドラマでは命中率がいやに高いものだが、現実ではそこまで高くない。正確な射撃姿勢と発砲後の反動を抑える手首の強さがなければ命中せず、あの物体は他の誰かに襲い掛かっていた可能性があった。
「あれは何?」
BJが動揺を隠そうとして失敗した声でキリコに問う。キリコとしては「分からない」としか言えなかった。
「彼らの様子からすると、今の今まで彼らも知らなかったんだろう。ただ、この研究所の──さっき聞いた地下三階で研究しているものかもしれない」
「どうして分かる?」
「コンラートの本当の専門はヒトゲノムだ。本人が言っていた」
「小麦じゃなくて? ヒトゲノム? ──まだ実用化なんてされてないはずなのに」
「表向きはな」
キリコは二台のエレベーターの呼び出しボタンを上下に分けて同時に押した。フォート・デトリックと同様の作りであれば停電時は非常電源に切り替わるはずだ。案の定ボタンは点灯し、無機質な箱を動かし始めた機械音が響いた。
「階段じゃなくてエレベーター?」
「水槽で埋まったあのフロアを階段まで歩く勇気があるのか?」
「絶対無理。上と下、どっちに行くの」
「今から決める。──比較的安全だと思える場所は?」
付いて来た研究員たちに問いかけると一同はコンラートを見た。コンラートが彼らの中で信頼されている立場なのだと教える動作だった。コンラートは数秒考えた後、「上だ」と言った。
「五階の所長室へ。どうなっているかは分からないが、ここの電話が通じない限り、外部と連絡が取れる場所がもうそこしかない」
「でも、またあの彼らがいたらどうするの。カミラ所長もどうなっているか──」
「そのことなんだけど」
BJが口を開いた。動揺の中でも考え続けていたことがある。
「キリコの話と合わせると、噛まれた人間がすぐにモンスター化しているってことだった。それが確かならモンスターが死んだ理由は?」
「モンスターなんて言わないで」
ウルスラが遂に泣き声を上げた。BJはすぐにその理由に思い至り、自らの無礼を恥じた。
「ごめん。みんなここの職員だものね」
「そうよ。──ごめんなさい、先生が悪いわけじゃないのは分かってる。わたしの感傷よ」
「それは当然の気持ちだから。気が付かなくてごめんなさい」
もういい、と言うようにウルスラがハグを求め、BJはそれに応じた。『彼ら』と呼ぼう、とキリコが提案し、全員が同意した。同時にエレベーターが到着した。
「私が検死した限り、『彼ら』が死んだ理由は噛み傷による失血死だった。ほぼ全員ね。肉体的に生命維持が不可能になったから死んだと考えられる」
「なるほど」
「つまり、遭遇したとしても肉体能力を封じれば動きを封じられるんじゃないか。シンプルに言えば気絶させたり、致命傷にならない程度の怪我を負わせる。──後で私が責任を持って治療する。これはタダでいい」
こんな時でも金銭を持ち出す名医に「病気だな」と呟きつつ、キリコは考える。動きを封じるとなるとそれなりの準備が必要だ。その前に確認しておきたいことがあった。
「コンラート」
「何だ」
「おまえさんなら知っているかもしれない。──この施設とフォート・デトリックの構造の共通点について」
「隠すことでもないよ。ここはフォート・デトリックの本館を見本に作られた施設だ。アメリカ側から技術提供を受けてね。私が知る限り、全く同じ造りになっている。カミラ所長から聞いたから間違いないだろうね」
他の研究者たちは不安な目をキリコに向ける。気付いたBJが「彼はフォート・デトリックの契約研究員だ」と説明すると、不安は安堵に変わった。
「外部連絡ができる場所はフォート・デトリックよりも相当少ないな」
「外部への漏洩を極力抑えるためだと聞いている」
「そこまでの研究を?」
「我が西ドイツは東ドイツからのスパイだらけだ。ソ連からも入り込んでいるだろうね。研究内容に関わらず、そういうことだと思うよ」
「──なるほど」
「誰が信じるか、馬鹿」
納得した振りをするキリコの横のBJが日本語で毒づき、キリコを苦笑させた。全く同じことを思っていた。だがそれを追及するべきタイミングではない。
「同じ構造なら五階──ここで言うと所長室があるフロアだな。防犯システムとしてスプリンクラーに繋いだ通電装置があるはずだ。作動させると床に微電流が走る。死ぬほどじゃないが動けなくなるんだ」
「そんなものが?」
コンラートは眉を顰め、知らなかった、と呟く。だがフーゴが言った。
「ある。所長室のドアの横に作動スイッチがあって──フォート・デトリックってのは研究員がみんなそんなことを知っているのか? うちは警備員でも知ってる人間が限られてるのに」
「他の研究員は知らないはずだ。警備責任者が自分の仕事を減らしたくて俺に教えたのさ。いざと言う時は自分で何とかしろって言われてな」
「ああ、言いそう、あいつ」
赤毛の少佐を思い出したBJは頷いた。ただ、それが仕事を減らしたいからではなく、部外者であるキリコであれば万一の時に躊躇いなくそのボタンを押せるはずだと思い、彼が率いるデルタフォースの救出が間に合わない時に役立てるように教えたに違いないと予想がついた。
「もし『彼ら』が五階にいたとしても、その通電装置で足止めができる。同じボタンで停止もできるはずだ」
「その通りだ。それなら四階の階段から行った方がいいな。『彼ら』が階段にいたら別の手を考える必要がありそうだが」
「エレベーターで二階なり一階に行って窓から飛び降りるってのはどう?」
BJの提案はもっともだ。だがほぼ一瞬で西ドイツ人たちが全員却下の顔をした。
「ここの窓はどれも開かないし、重防弾なの。玄関も停電で完全ロックされる。出口はないわ。バイオハザードを防ぐために仕方ないシステムなのよ」
「ったく、小麦みたいな平和な研究だけしてればいいのに」
「本当よね!」
ウルスラがこの状況には似合わない笑い声を上げ、一同の混乱を僅かに癒した。
四階へ向かうためにエレベーターへ乗り込む。しかしすぐにフーゴが気付いた。
「停まってる」
「非常用電源に繋がっているはずなのに?」
「そのはずなんだが。天井灯も点いているのに」
仕方なく降り、もう一台のエレベーターも確認した。同様に停まっていた。フロアの水槽内と非常灯は相変わらず点灯している。
「システムエラーだ。天井板を開いて壁を上がるしかないな。──大丈夫、あんたたちに行けなんて言わないよ」
頼りになる元軍人は自分が行くと申し出た。
「取り敢えず、四階の階段に『彼ら』がいるか確認する。いなければ五階まで行って外部に連絡を取ってみるよ」
危険だ、だがそれ以外に方法がない、と数分の押し問答があったが、背後の水槽がぴちゃりと音を立てたことで誰もがあの生物、そして異常な今の状態を思い出し、フーゴに任せることになった。
「壁に点検用の足場があるんだ。そんなに危なくないよ。何度も訓練してる、大丈夫だ」
「フーゴ、気を付けて。危ないと思ったらすぐに戻って来てね」
「分かってるよ。エレベーターには入らないでくれ。中に人が入るとワイヤーロープが揺れて危ないんだ」
言葉通り、フーゴは日頃の訓練の成果を感じさせる手際の良さで天井板を開け、そのまま上部へ上がって行った。
「映画みたい」
「大丈夫か? もう少し頑張って」
キリコは息を吐いてもたれかかって来るBJを抱き締め、その髪を撫でてやる。するとBJがしがみつきながら日本語で言った。
「取り越し苦労だと思いたいんだけど」
「うん?」
「水槽にいたあのナメクジみたいなやつ」
「うん」
「行動が寄生虫に似ていたような気がして」
「──まさか、って言いたいが」
確かにそうかもしれない、とキリコは言った。BJの観察力に舌を巻く一瞬だった。
「ウルスラの口を狙った。入り込もうとしたと仮定したら?」
「宿主を求めている?」
「そう。それがわたしたちの背後の水槽に何匹もいる」
ウルスラから引き剥がされて投げられた床の上で、あの生物は態勢を立て直し、そして前進を試みた。自分よりも大きな身体を持つ人間たちへ向かって──キリコは思い出した。
「攻撃的だったな」
「そう。ウルスラで失敗したから他の誰かに飛びかかろうとしていたんだと思う」
「だが寄生虫にしては大きさが──何だ?」
不意に何かのスイッチが入るような機械音が響き、キリコは顔を上げた。その音がエレベーターの作動音だと気付くまでに数秒もかからなかった。
「エレベーターが!」
ウルスラが悲鳴を上げ、コンラートが呼び出しボタンに飛びかかるようにして何度も押す。だがエレベーターをその場に留めようとしたコンラートの努力も虚しく、無機質な箱は扉を開けたまま大袈裟に身体を震わせ、凄まじい速度で上昇を始めた。キリコは茫然と何もなくなった空間を見詰め、全てを予想したBJは目を閉じて唇を噛む。
エレベーターの狂ったような上昇音の中にフーゴの絶望の悲鳴が混ざった。上へと遠ざかる音の中でも聞こえ続けた。やがて轟音が響く。最上階への激突だと誰もが分かった。それきり、フーゴの声はもう聞こえなかった。
コンラートが手を離せないままだった呼び出しボタンが光った。エレベーターのシステムが回復した。あの轟音が嘘のように、澄ました音でエレベーターが下降して来る。
呼ばれた通りに現れたエレベーターの開いた天井板からは夥しい血が流れ落ち、床を赤く染めていた。
「降ろして手当を」
「待つんだ」
腕からすり抜けようとした愚直な名医を抱き締める。愛する男に抱き締められたBJは身を捩って嫌がった。それでもキリコは腕の力を緩めなかった。
「中に入るな。危険だ」
エレベーターが停止の衝撃で揺れた。開いた天井板からずるりと赤い塊が現れ、血の海の中にべしゃりと音を立てて力なく落ち、二度と動かなかった。BJも動きを止めた。本当は分かっていた。
「彼は旅立った」
死神が誠実な医者の顔で静かに宣言した。誰も何も言わなかった。BJでさえもう何も言おうとはしなかった。やがてすすり泣きが聞こえた。床にへたり込んだウルスラのものだと分かったが、しばらく誰も彼女を慰めることができなかった。
永遠にも感じられる数分の後、BJがキリコの腕から抜け出し、立ち上がれないウルスラの隣にかがみ込んで肩を抱いた。ウルスラはBJにしがみ付き、恐怖に怯えた泣き声を漏らし続けた。
オイゲンが無駄だと分かっている顔でエレベーター横の電話をかけ、絶望の顔で受話器を置く。フリッツも同じことをした。納得してから泣きそうな顔で受話器を置いた。
背後で水音がした。いくつもした。いくつもの何かが跳ねる音だ。何が跳ねたかなど考えるまでもない。全身に鳥肌が立つ感覚を味わいながら振り返り、キリコは叫んだ。コンラートも叫んだ。
「来るぞ!」
「走れ!」
反射的に立ち上がったBJはその光景を見た。フロアを覆ういくつもの水槽から飛び出した粘液まみれの白黒の生物が床へびしゃりと着地し、一斉に走るかのように──まさに走る速度で──床を這い、エレベーターへと直進した。
「口を閉じろ! 奴らは口から入る!」
BJも叫び、ウルスラを引きずり起こすように立ち上がらせ、「進路を避けろ!」と指示するキリコに従ってフロアの側方となる窓際へ全力で走る。ほんの数メートルの移動で群れとなった生物の進行方向を避けることができた。それでもキリコに腕を掴んで引き寄せられ、壁に押し付けるようにして背後に隠される。BJはその背にしがみ付きながらも横から顔を出してその光景を見た。神よ、と研究員たちが口々に呻く光景がそこにあった。あまりに惨い光景にBJは呼吸が浅く、早くなったことを自覚した。
赤い塊となったフーゴの遺体はもう見えなかった。白黒の生物の群れに覆われていた。BJの呼吸に気付いたキリコが「見るな」と言ったが、目を離すこともできなかった。
「見るんじゃない。──見なくていい」
振り返ったキリコに何も見えないようにときつく抱き締められ、ああ、と呻いた。呼吸を戻さなければと思った。キリコが低く優しい声をかけ続けてくれた。その声だけを聴きたかった。それなのにウルスラの泣き声、コンラートたちの呪いの言葉、そして複数の生物が何かを貪る音が聴こえてしまう。気が狂いそうだった。この空間は狂っている。
その時だった。
「誰だ」
コンラートが言った。キリコは振り返る。目を疑った。嘘だろ、と呟くとBJも顔を上げた。そして、嘘だろ、とやはり同じ呟きを漏らした。
階段を上がって現れたTシャツ姿の男はエレベーターの惨状を遠目に眺め、それからフロアを真っ直ぐに、エレベーターへ向かって姿勢良く歩いて行く。そして背中のカジュアルなボディバッグから何かを取り出した。
次の瞬間、男がまるで休日のキャッチボールのように無造作な動きで投げた手榴弾がエレベーターの中で爆発した。爆発の圧力でエレベーターが大きく揺れ、フーゴの遺体に群がっていた忌まわしい生物は粘液ごと潰されて四散する。赤毛の男は間を置かず、やはりボディバッグから取り出した短銃で無造作に、辛うじて爆発から逃れた生物を撃ち抜いて行った。フーゴより腕がいいな、とキリコは素直な感想を抱いた。
「攻撃型手榴弾か」
「何それ」
「破片や爆風が出ないタイプの手榴弾だ。狭い範囲を圧力で制圧する」
「ふうん」
それからBJは日本語に切り替えた。
「あいつも吹っ飛べばいい気味だったのに、ってのは本音だけど──今は助かったのが事実かな」
「そうだな」
未知の恐怖の世界に既知の人間が現れることによってBJが冷静さを取り戻したことを察し、キリコは不本意ながらグラディスに感謝した。この状況でBJの精神面がいつまでもつかどうかは何よりも懸念すべきことだった。BJの精神力は強い。だがひとたび何かの亀裂が入れば普通の女性と何ら変わらない、あるいはそれよりも弱くなることも確かだ。入りかけていた亀裂を辛うじて埋めることができた。
どうしてここにいるんだ、とキリコが問う前に、銃を持ったグラディスが声を張り上げた。米語だった。