birth 06

 オイゲンとフリッツは無事だった。内側から鍵をかけた三階の医務室で治療のための準備を済ませ、落ち着きなく一同を待っていた。ディアナの無事と怪我、そしてグラディスの怪我に驚いた後、ウルスラがいないことに気付いて顔を強張らせる。グラディスが何かを言う前にキリコが「彼女とクルトは旅立った」と短く告げ、彼らはそれで納得する──納得しようとする顔を見せた。
「ディアナ、悪いけど先にグラディスの処置をさせてもらう」
「もちろんよ、先生。わたしの怪我は急を要するほどじゃないわ」
 医務室は簡易な手術であれば問題なく行える設備が整っていた。やはりフォート・デトリックと同様の造りだと察したキリコは、勝手知ったる手順で準備を進めていく。
「座ったままやって欲しい」
 診察台に横になるように言われたグラディスは短く拒否を示した。手元に銃を置いたままだと知ったBJは「我儘な赤毛だ」と減らず口を叩き、膝を付いて右脇腹の止血テープを外す。皮肉にも患部に入り込んだ弾丸が血止めの役目を果たし、出血はほとんどない。
 キリコが渡してくれた簡易マイクロスコープで注意深く周辺を観察し、重要な血管、その他の組織に損傷がないと判断した。ホワイトハウスの件といい今回といい、運の良い奴だ、とBJとキリコは同時に思っていた。
「痛みは?」
「ないよ」
「なら、麻酔をしておけば入れたままでも動ける。ただし後で摘出手術が必要だ」
「じゃあそうして」
「縫合して麻酔を足しておく。動くなら計算より早く切れるはずだから」
「どうも御親切に」
 膝を付いた処置しにくい態勢であるはずなのに、普通の医者の半分以下の時間で完璧な縫合と麻酔を終えたBJにコンラートが「流石だな」と呻く。闇の関係でブラック・ジャックの噂を聞いていたが、実際に目にすれば簡易な処置でも全くレベルが違うのだと知った。ディアナの傷はグラディスよりも短時間で処置を終えた。
「後で整形手術をするといい」
「先生にお願いしたいわ」
「私は高いよ。まあ、ここを出たらご祝儀で割引を考えてもいいけどね」
 ここを出たら、という言葉で一同は現実を思い出した。BJも思い出し、疲労を隠し切れずに溜息をつく。精神的、肉体的疲労はかなりのものだった。黙って抱き寄せてくれるキリコの腕に甘えた。
「状況を整理する前に、私から提案したい。聞いてくれないか」
 コンラートが口火を切った。誰も異論はない。キリコがスカーフを降ろして煙草を咥え、火を点けてからBJに渡し、新しい煙草を出す。BJもスカーフを降ろし、不健康な有害物質を摂取して思考をクリアにしようと努力した。
「少尉の力がなければここから出ることは難しい。私たちを同行させて欲しい」
「自分の身とドクター夫妻で精一杯だ。ねえさんも増えた。これ以上お守りの対象が増えるのは厳しいね」
「確認しないのか」
「何を」
「分かっているんだろう。なぜ私にデザートイーグルを渡した?」
 不意にキリコは思考の断片が繋がったことに気付いた。コンラートを見た。些細な会話だった。だが確かに、と思った。確かにそうだ。──なぜ渡した? あの時グラディスは言った。
『あなたならできるはずだ』。
 訓練された兵士か名うての悪党しか使えないような銃を渡しながら言った。そしてコンラートは迷わず受け取り、構えたのだ。訓練されていない者が発砲すれば骨折や負傷の可能性があるほどの危険な銃を。
 グラディスに視線を送る。気付いたグラディスはやはりスカーフを降ろして煙草を咥え、火を点けながら僅かに頷いてみせた。ああそうか、そうだったのか──キリコは今まで気付かなかった自分がまるで間抜けではないかと思った。
「少尉」
 コンラートは言った。
「命がかかっている状況だ。きみの守るべき対象と、きみの姉の。そしてきみは負傷している。どんな計画かは知らないが、少々変更の余地があると思わないか」
「言いなよ」
「何を?」
「自分の口から。僕はBND経由で知ってる。でも他の人は知らない。僕が言ったところで納得しない」
 もうね、とグラディスはキリコをちらりと見てから付け加えた。
「このドクター、あなたが『そう』だってことに気付いてる」
 コンラートはキリコを見る。BJは話が分からないながらもキリコとグラディス、コンラートを交互に見る。どういうこと──キリコに問おうとした時、キリコが口を開いた。
「軍人か」
「違うよ」
「では何?」
「シュタージ」
 そんな、とオイゲンとフリッツが怯えた声を上げた。シュタージはそれほどまでにドイツ人の恐怖を呼び起こす存在だった。仕方のない反応だ。グラディスはつまらなそうに煙を吐き出し、ディアナは自分を落ち着かせるように呼吸を整える。BJはシュタージという単語が今までの状況に加えられ、落ち着け、考えろ、と必死で自分に言い聞かせるはめになった。
「失礼、妻が混乱している。落ち着かせるために説明したい」
「構わないよ」
 BJの混乱を見抜いたキリコが説明する。できるだけ優しい声で話しかけてくれることが分かり、BJは煙草を消してキリコにしがみついた。キリコも抱き返してくれた。
「東ドイツの諜報機関だ。同じ共産圏のソ連ならKGBのようなものだよ」
「シュタージは知ってる。──でも、──だってコンラートは──西ドイツで研究をしているんじゃなかったの」
「長年潜り込むタイプのスパイもいる。ギヨーム夫妻が有名だな」
 東ドイツからの難民を装って西ドイツへ入り込み、18年もの間スパイ活動を続けた夫婦の名前を出す。有名な事件となったそれを知っていたBJは「そう」と頷いたが、何て話だ、と思わざるを得なかった。そんなスパイがいる研究所であんなものが──倫理に反する恐るべきものが──何が狙いだなんて考えるまでもない──酷い。呟いた。酷い。そんなことで。
「そんなことでフーゴとウルスラが殺されるなんて、あんまりじゃない。ここの人たちも」
 フーゴはBND、西ドイツの情報部員だった。コンラートとは対立する立場のはずだ。ではあのエレベーターの事故もコンラートが、とBJは思う。BJの表情に気付いたコンラートは僅かに眉をひそめた。
「先生が何を考えているか分かるよ。ただ、私はこの状況できみたちを裏切ろうとは考えていない。脱出するために協力したいんだ」
「スパイを信じろって?」
「そうだろうね。言いたいこともよく分かる。でもそれしか言えない」
「そこはディアナに訊けばいいよ。あのナメクジの情報を盗み出すために潜入していたCIAだ」
 何の前触れもなく暴露したグラディスをディアナがぎょっとして見やり、しかしコンラートも同様に弾けるような勢いでディアナを見た。それから深く、深く溜息をつき、諜報部員でありながら、他国の情報部員、つまりは同業者、商売敵に惚れた自分を情けなく思った。
「何てことだ。すっかりやられたよ」
「何よ、勝手にバラしちゃって。わたしが興奮して口を滑らせたらどうするつもり?」
 ディアナの抗議にはどこ吹く風、新しい煙草に火を点けてからグラディスは「勝手にすれば」と言った。許可を得たディアナは鼻をふんと鳴らし、口を滑らせる振りすらせずに言った。
「こいつは少尉なんかじゃないし、弟でもないわ。こんな性格の悪い弟なんて欲しくもない! ──陸軍少佐、デルタフォースの隊長よ」
「もう何に驚けばいいのか分からないよ!」
 コンラートが自棄になって嘆いた振りをし、オイゲンとフリッツは目を白黒させている。
「ああ、なるほどな」
 キリコは思わず呟いていた。グラディスが終始ディアナに冷たかった理由に思い至ったのだ。デルタフォースとCIAは仲が悪い。特にグラディスは過去、CIAに小間使いのような扱いをされたことを恨んでいる。その腹いせに短機関銃を突き付けられたことのあるキリコとしては納得せざるを得なかった。
 ──……だからって、殺したい理由にはならないだろうが。
 グラディスは確かにディアナに殺意を持っている。だがそれを追及しようとは思わなかった。はっきり言えばどうでも良かった。ここから愛する女と生きて脱出すること。今はそれだけでいい。
「まあ、それぞれの自己紹介はこれでいいんじゃないの。東ドイツのスパイなんて僕の任務には関係ないし、ディアナだってコンラートといい関係になりたきゃ勝手にすればいいし」
「──何言ってるのよ!」
 え、あれ、とBJとキリコは顔を見合わせ、オイゲンとフリッツもそれぞれまじまじと二人を見た。コンラートはディアナを見た後に咳払いをし、ディアナは真っ赤になってグラディスを睨み付ける。グラディスはこの上なく面倒そうに言った。
「そんなのフーゴがとっくに調べてBND経由で報告が上がってるから。もうねえ、CIAの長官、気が気じゃなかったみたいだよ。いつコンラートとくっついて東ドイツに懐柔されるか。もしくっついてたら強制的に連れて帰らなきゃいけないとこだった。面倒だから途中で殺そうと思ってたんだよね」
 なるほど、とキリコはやっと納得した。あまりにも物騒な物言いだがこの男ならやりかねない。国を裏切った情報部員など、国家に忠実な軍人には塵芥よりも価値がないだろう。奥手だったコンラートのお陰でディアナは命拾いしたことになる。
「な、──何、どういうこと、フーゴって、警備員の!? フーゴがBND!?」
 知らなかったディアナは驚愕と、そして気のいい警備員のフーゴに多少ならず恋愛相談をしていたことを思い出して真っ赤になった。
「まだくっついてないんでしょ? だったらもういい、好きにして。ナメクジの情報を集めてくれたことは凄く高評価されてるからステイツに戻ったら出世できるよ、はいおめでとう。──とにかくここから出ることだけ考えたい。イロコイとか男女とかもう沢山、そこの馬鹿夫婦がいるだけで予定外なのに、これ以上面倒を負わせないでよ」
「でも、ちょっと、な、何よ!」
 激昂するディアナと本気で嫌な顔をしているグラディスを見て、キリコは不本意ながら口を挟むことにした。
「ミスCIA、少し黙ってくれ。少佐の機嫌が悪くなる」
「もう悪い」
 咄嗟に言い返せないディアナの様子を嘲笑うようにグラディスが真実を言った
「見れば分かる。その辺りで堪えろ。おまえさんのストレスがマックスになると俺がろくな目に遭わない」
「そうだ、CIAと揉めて局員を狙撃したついでにキリコに短機関銃を突き付けた件、忘れてないからな! キリコにCIAの手術までさせて!」
 BJの暴露にグラディスは「何で今言うかなあ」と額を抑え、同僚が狙撃された件を思い出したディアナは「だからデルタなんて嫌いなのよ!」とはっきりと宣言し、コンラートは「お宅のお国も結構なものだね」と半ば感心したのだった。
「あの、すまないんだが」
 フリッツがおずおずと一同に声をかけた。
「正直、みんなの正体──その、何て言うか、本来の立場が映画のようで、認識が追い付かないんだ。私とオイゲンが理解できていることだけで話をさせてもらっていいだろうか?」
 弱気なその声に一同ははっとし、それなりの気まずさを覚えながらそれぞれ口の中で「失礼」と呟いてフリッツを見る。
「今後のことを話して欲しいんだ。その、──我々も少尉──少佐?」
「どっちでもいいよ」
「少佐。きみたちと一緒に脱出できるんだろうか?」
「その話をしたかったんだ」
 コンラートがこめかみを指で押さえ、改めて仕切り直しをしたいと態度で要求した。
「私はそれなりに訓練を受けている。デザートイーグルを構えた時に納得してもらえたと思う」
「あんな姿勢、うちの隊の奴がやったら謹慎だ」
「戦闘のプロの世界と一緒にしてくれるなよ。──自分の身は最低限、自分で守ることができる。何ならオイゲンとフリッツが危険に直面しない努力もできるかもしれない」
 コンラートは言った。オイゲンもフリッツも確かに西ドイツ人であり、自分は東ドイツ人、彼らからすれば裏切り者にすぎない。だがここまで共にあったことも確かだ。最後まで共にありたい。東ドイツの諜報員はそう言った。
「ディアナは?」
「問題になるようなことは言えない」
 言葉にしないが、という意味だ。グラディスは頷いた。
「続けて」
「協力してここから出たいと思っている。もちろん少佐、きみの力を借りることになるだろう。きみは怪我をしているとはいえ、戦闘能力と自国民保護へのプライドは負傷を補って余りある。立場上、手土産があれば尚良いだろう」
「つまり」
「きみに手土産を差し上げたい。私が持つ情報、ここの研究成果だな。それと取引しようじゃないか」
「小麦なんて興味ない」
「小麦ほど人類の役に立つことはないが、きみは絶対に好きなものだ。──ディアナがきみに渡したらしいあのナメクジの情報、彼女が知らない全てでどうだ?」
「あなたの専門は別だったんじゃないの?」
「スパイはいつでも貪欲に情報収集をするものだ」
「なるほどね。ひとつ言っておくけど」
「何だい」
「僕がナメクジを好きみたいな言い方するの、やめてよ。ナメクジとコックローチは大嫌いなんだ」
 それは失礼、と東ドイツの諜報部員は笑い、アメリカの特殊部隊員はしばらく考えた後、「じゃあそうしよっか」とまるで友人とどこかに遊びに行く約束をしたかのような口調で言ったのだった。
「コンラート」
 グラディスがディアナと事務的な話を始めた横で、BJはコンラートを小声で呼んだ。
「何だい」
「私の興味本位の質問ですまない」
「答えられることなら」
「シュタージに入る前は軍人だったんじゃないか?」
 コンラートはBJをじっと見た後、口元をふっと微笑の形に歪める。それからスカーフを引き上げながら、そうだよ、と小さく答えた。
「ありがとう」
 BJは納得した。グラディスが身を呈してキリコを救ったのだと強く教えようとした男は確かにスパイなのだろう。それでも軍人としての何かが堪え切れずに顔を出し、言わずにはいられなかったのだ。それはキリコと同様だったのかもしれない。
 グラディスのことは嫌いだ。キリコも本気で嫌っていることは知っている。だがこういう時に思い知る。根底で理解している。だが互いに個人として理解し合っているわけではない。
 軍という場所を知っていた、もしかすると同じ経験をしたのかもしれない、──生命を選別する瞬間を知っているのかもしれない、その記憶を場所は違えど、時間は違えど、無意識に共有しているのかもしれない。
 嫌だ。そう思った。嫌だ。そんな記憶、なくなってしまえばいい。わたしのキリコの中から消えてしまえばいい。
 わたしのキリコは。強く思った。わたしのキリコは軍人じゃない。もう軍医じゃない。ひとりの医者なんだから。お願いだから。お願い。
 その世界を当然のように思い出させないで。銃の話なんて聞きたくない。ウルスラが殺された話を正当化しないで。
 お願いだから。
 命を選別することを、わたしの前で肯定するキリコなんて見たくない。
 だが分かっている。その記憶が確かに、愛する男の現在を構築する要素であることを。だからこそいつも感情の整理がつかなくなる。罵りたくなる。だから罵る。人殺し。
「マフィン?」
 沈んだ顔のBJに気付き、キリコがBJを抱き直す。
「大丈夫か?」
 今はもう泣く時じゃない、生き延びる──そう決めて、BJは愛する男を人殺しと罵りたい衝動を堪え、強くしがみついた。


 医務室の中で具体的な脱出方法の検討が始まる。上に向かう、とグラディスが断言した。
「無線が繋がれば隊のヘリが呼べる」
「無線?」
「持ち込んだ。妨害電波が酷くて使い物にならないけど、屋上なら分からない」
「随分準備がいいのね。そんな話、何も聞いてなかったわ」
「こんな状況にならなきゃ、僕は大手を振って正面玄関から帰る予定だったからね。あなたに言う必要なんてなかった」
「話の腰を折るようで申し訳ないが、グラディス、立てるなら場所を空けてくれるか」
 キリコが言った。グラディスが先に診察台から立ち上がり、「先生を」と言う。キリコは頷き、BJに診察台に横になるように言った。BJは拒んだが、キリコが半ば無理矢理横にならせた。体力よりも精神的な限界が近いことが顔色の悪さで見て取れた。
「私のことはいいから、話を続けて」
「先に診る」
 キリコが簡単な問診と服の上からの触診を短時間で行い、やはり精神的疲労だろうと結論付ける。多少の貧血が認められた。
「造血剤は? できれば注射で」
「それは第二医務室にあったと思う。ひとつ向こうのフロアだ。俺が取って来るよ」
「一人じゃ危ない。一緒に行こう」
 オイゲンとフリッツが医務室を出た。彼らは彼らなりに役に立とうとしているのだ、とキリコは思った。他の人間たちが自分よりも重宝される立場だと分かっているからかもしれない。見捨てられないように彼らも必死なのだ。三階は取り敢えず安全であるはずだし、一同は特に止めなかった。
「マフィン」
「うん」
「少し休める。もう少し頑張って」
「大丈夫。ちょっと考えたい」
「いいよ」
 BJは診察台の横の椅子に座るキリコの手を取り、思考を巡らせる。何かがおかしいような気がしていた。ずっと引っかかっていること──何かが引っかかっている。
 フーゴを殺したのは誰なのだろうか。グラディス? コンラート? だがいつエレベーターを細工したのだろう? あの生物は二種類、何のために産み出されたのだろう。なぜこんな事故を、暴走を起こしているのか。
 いや、そもそも──事故なのか?
 不意にグラディスが顔を上げ、ドアを見た。銃声が響いたのだ。そのまま何も言わずに銃を手にして医務室を出る。コンラートもその後に続いた。
 それほど長い時間を必要とすることはなかった。むしろ短かったかもしれない。気が遠くなりそう。BJは思った。──気が遠くなりそう。気が狂いそう。
「第二医務室に一匹いた」
 戻って来たのは三人だった。グラディスとコンラート、フリッツだ。オイゲンは、と訊きたい人間は誰もいなかった。
「オイゲンを殺してしまった」
 小口径の銃を手にぶら下げたままのフリッツが力無く呻き、崩れるように床に座り込む。大学からの付き合いだった友人を撃ち殺した衝撃に打ちのめされたフリッツは、やがて嗚咽を漏らし始めた。
「彼が私に質問をしたんだ。この薬でよかったはずだな、って。聴き取れなくて訊き返したら彼はスカーフを外して──そうしたら隠れていたあの生物が飛びかかって来て」
 横たわったままBJは目を閉じる。フリッツが気の毒でならなかった。従姉のカミラは寄生され、その姿を目の当たりにしたばかりか、今は長い付き合いのオイゲンを自らの手で殺したのだ。
「地下三階から上がって確認した時には、水槽にも第二医務室にもあの生物はいなかったのに。どうして」
 フリッツは泣き続けた。ディアナが彼を慰め、祈りましょう、と言う。
「彼はいい人だった。わたしも何度も声をかけてもらったわ。何か困ったことはないか、帰化した頃、慣れないことがあったら知り合いの帰化人女性を紹介するよ、って。本当に優しかったわね」
 その帰化は偽装だったことを思い出し、ディアナは罪悪感を振り払うように溜息をつく。任務のためであり、後悔はしないが、帰化した女性を思いやるオイゲンの親切を汚したような気がしていたのは確かだった。
「そうだ。オイゲンはいい奴だった。それなのに私が撃ったんだ」
「いい腕だよね」
 グラディスの冷たい声にBJは目を開けた。いつの間にかフリッツとキリコの間──キリコを守る位置に立つ背中が見えた。BJは起き上がろうとしたが、キリコは無言でそれを制する。瞬時に凍った医務室の空気の中、何かに気付いたディアナが急いでフリッツから離れ、コンラートが彼女を背後に隠した。グラディスは言った。
「一発で頭を撃ち抜くなんてね」
「偶然だ。あまり言わないでくれ」
「まあ、それだけならラッキーでたまにあるんだけどさ。──オイゲンから飛び出したナメクジを一発で仕留めたのが凄いよね」
「覚えていないよ。無我夢中だった。──頼む、後でどんな話でも聞くよ。今はせめて──」
「なあ、フリッツ」
 コンラートが口を挟んだ。
「少佐も私ももう分かっている」
 俯いたフリッツは何も言わなかった。コンラートは半ば哀れむように言った。
「正直に話してくれ。ここから生きて出るためだ。──知っていることを全て」
 瞬間、フリッツは椅子を蹴って立ち上がり、ドアへ走る。BJはグラディスの背中が溜息をついたように見えた。同時に銃声が響き、臆病なフリッツとは思えないような罵声と共に床へ倒れる。キリコがBJの髪を撫で、「いい腕だ」と言ってから倒れたフリッツへ歩み寄り、グラディスに撃ち抜かれた左脚──吹き飛ばされたも同然の状態だった──の応急処置を始めた。まずは圧迫止血だ。コンラートがそれを手伝った。BJは茫然とそれを見ていた。立て続けに襲い来る光景の数々に、現実味がまるでなかった。
「くそ、──ちくしょう、ヤンキーにゲシュタポが! 触るな!」
「俺が触らないと死ぬぞ。義足の心配をした方がいい」
「誰がゲシュタポだ」
 ナチス政権の暗黒面を象徴する秘密警察になぞらえられたコンラートは憮然とし、シュタージなんて似たようなものだろうにとキリコは内心で呟きながら素早く応急処置をする。ウルスラの頭部を吹き飛ばした銃で撃たれた左脚は膝から下の原形が消え、骨も肉もミンチのように弾けていた。BJは息を吐き、コンラートと代わるために診察台を降りる。
「止血くらいしかできないな。あとは鎮痛剤と輸血くらい。義足の手配は生きて家に帰れたら自分でやるこった」
 BJの診立ては当然だ。キリコも異論はない。流石に医務室で輸血の準備ができるはずもなく、麻酔薬にも使える強い鎮痛剤をキリコが注射してやる程度のことしかできなかった。自殺防止に猿轡を噛まされたフリッツは口の中で全てを罵り、その不幸を願った。
「マフィン、具合は」
「どうにか。現実に戻らないといけないしね」
「そうか。心強いよ」
「──早く帰りたい」
 現実なら家がある。崖の上の家に帰って愛しい娘に会いたい。恋人と手を繋いで海岸を散歩したい。こんな狂った空間から早く逃げ出したかった。キリコが自分とBJのスカーフを降ろし、少し長く唇を合わせてからまたスカーフを戻した。
「カミラ所長の口座に定期的な入金があったことは分かってるわ。スイス銀行を経由した会社からの入金だったけど、おそらくソ連の偽装会社よ。──そんな目で見ないで。ある程度の情報共有はしておくべきよ」
 ディアナは半ば以上真剣な声でグラディスに要請する。情報を漏らしたCIA局員を睨み付けたデルタフォース隊長は無言で顎をしゃくり、続きを促した。ディアナは鼻を鳴らし、再び語り出した。
「カミラ所長がソ連に情報を流していた可能性は高いわ。彼が従弟なら何か知っていてもおかしくないわよね」
「──そうか」
 キリコはグラディスを見た。同行する西ドイツ人を減らしたがっていたはずの赤毛の少佐は視線に気付き、何、と不機嫌そうに返事をする。
「早く言えよ。余計なことばかり考えちまっただろうが、この赤毛」
「赤毛って言うな。──いや、確信はなかったし。あと、ぶっちゃけフリッツとオイゲンの両方がカミラ所長に小遣いもらってたらしいって話を受付の時にフーゴに聞いてたのもあってさ。どっちも殺せないなって思ってて」
「ったく、このざまだ。珍しく任務失敗じゃないか?」
「脱出優先に切り替えたから関係ないし、フリッツとオイゲンの連行はそもそも任務じゃないもん。ヘリに乗れる人数だから連れて行こうとしただけ」
 話が分からないBJはキリコの袖を引き、気付いたキリコはああ、ごめんね、と言って抱き寄せる。
「地下二階のプールから『彼ら』が出た時、赤毛がフリッツを見捨てなかった理由だ。オイゲンと一緒にステイツに連れて帰る──まあ、連行だな。そうするつもりだったんだ。フーゴから二人の情報を聞いていたらしい」
「じゃあ、──オイゲンもフリッツも一緒になって、ソ連に情報を流していたってこと?」
「おそらくな」
「何よ。オイゲンがいい人だったなんて、とんだ嘘ついちゃったわ」
 ディアナが忌々し気に呟き、まあまあ、とコンラートが宥める。ディアナは気まずい顔でコンラートから視線を逸らしたが、彼の傍から離れようとはしなかった。
 床に転がされたままのフリッツが激しく暴れた。猿轡の下で何かを喚き、罵っている。
「傷が開く。輸血できないんだ、おとなしくしておきな」
 BJがうんざりして言ったが、フリッツの暴れ様は止まらなかった。閉口したコンラートが猿轡をずらしてやると、たちまち罵声のオンパレードが始まった。一同は冷めた顔でそれを聞き、フリッツが飽きるまで喚かせておいた。やがてフリッツが勢いを失った頃、コンラートが言った。
「話したければ話せ。黙っていたければそれを宣言しろ。おまえの情報は重要だが、この状況では最重要ではない。どういう意味か分かるな?」
 今までよりも低く冷たい声が、彼がシュタージだと一同に思い出させた。ディアナは無言でコンラートを見上げ、複雑な気持ちになりかけた自分を戒めるために背筋を伸ばした。それを横目で見たグラディスが鼻で笑い、鼻で笑ったグラディスを見たBJが「仲良くしろよ」と声をかけ、空気を読め、とキリコに叱られた。
「シュタージ、あんたは知らなかったのか。東ドイツとソ連は友好国なのに」
 嘲笑するフリッツに黙って銃を向け、コンラートはその目を眇めた。やがてフリッツは「分かったよ!」と叫び、罵声以外の言葉を話し出した。
「ソ連から金をもらって、あのナメクジの情報を渡していた。人体実験が成功したら三人で亡命するはずだったんだ。こんなことになるなんて想像もしてなかった」
「こんなこと?」
「今の状況だよ! まさか制御しきれなかったんて。知的行動? ブレイン? そんなものは予定外だった! フーゴを死体を喰い尽くす行動を確認して終わるはずだったのに!」
 フリッツは重要なことを言った──瞬時に一同は理解した。研究所の惨状は意図的に作り上げられたものであったこと、フーゴを殺したこと、そしてここまでの状況を想定していなかったこと。
「ひとつずつ解決しようか。まずは私の気分をとても悪くしたことを」
 フーゴの遺体を、そしてウルスラの死を思い出したBJは可能な限り穏やかに言った。だが怒りで声が震えたことは誰もが分かった。
「フーゴを殺した理由は? エレベーターをどうやって操作した?」
「フーゴがBNDだと分かったのは先週だ。私たちが逮捕される前に始末する予定だった。あのエレベーターはカミラが警備室で遠隔操作していた。その後、どうしてカミラがあんなことになったかまでは私にも分からない」
「先生、僕のこと疑ってたでしょ」
「まあね」
 煙草を咥えて笑うグラディスの言葉にばつが悪く、悪かったよ、とBJは口の中で呟く。
「赤毛こそ、エレベーターが安全だって分かってるような口振りだったのが悪い」
「赤毛って言うな。一階の警備室で武器庫を探した時についでに見ておいたんだ。フーゴが殺された方のエレベーターには操作跡が残ってた。もう一基のエレベーターは通常通りの設定だった。──その時にカミラはもう警備室にいなかったから、僕が武器庫を探しに行く前に地下二階に移動したって言うのが妥当だろうね。おおかた非常口から出ようとしたんだろうけどさ」
「当たりだよ。デルタフォースってのは多少頭が使えるんだな。筋肉だけだと思って──……っ!」
 潰れた脚の1センチ横の床を銃弾が正確に抉り、フリッツは息を呑んで震え出す。跳弾を計算して床に銃弾をめり込ませたデルタフォース隊長はせせら笑った。
「死んでもいいならそう言ってよ、どうする?」
「フリッツ、挑発するな。デルタ連中は高学歴の高知能のくせに、喧嘩っ早い奴しかいないんだ」
「え、そうなの」
 BJはキリコを見る。キリコは頷き、デルタの大抵は一流の大学、もしくは超難関で有名な陸軍士官学校を出ている連中だ、と教えてやった。じゃああの陽気なベネットや気弱そうに見える大男のタイニーも──グラディスの部下たちの見た目や言動とのギャップを思い起こし、BJは少なからず驚いていた。だがその驚きが良くも悪くもBJを冷静にした。
 冷静になった途端、高速で脳が動き始めた。混乱と恐怖は意図的に退ける。ずっと考えたかったこと、それは何か。何の前触れもなく叩き込まれた非日常の中、霞がかかったかのようにぼやけていた思考能力が一気に戻って来た。
「この状況を作り出したのはおまえたちだという認識でいいんだな?」
 キリコが確認している声が聞こえる。そう、そうだ、と思った。そうだ、この状況、おそらく私たち以外に寄生されていない人間がいない状況──まずはそれだ。
「俺とブラック・ジャックを拉致したのは?」
「そんな話は知らない」
「ふうん?」
「──本当だ! 撃つな! 本当に知らないんだ!」
 グラディスに銃を向けられたフリッツが泣き声を上げる。BJは考え続ける。──カミラがブレインに寄生されたのは予定外だったということになる。でもカミラたちがこの状況を作り出すためにクルトの研究室からあのナメクジを放ったとして──ブレイン型と行動型の。二種類。二種類の──地下三階は一部の研究者しか入れない──それぞれお互い何をしているかは──違和感が──何だろう、この違和感──
 記憶の中を探る。この違和感の正体は。思い出せ、最初から。最初から──目が覚めた時──
「……化学式」
 自分の呟きに電撃を受けたかのような衝撃を覚えた。顔を上げ、コンラートとその隣にいるディアナを見る。
「マフィン?」
 様子に気付いたキリコが声をかけた。大丈夫か、と言われた。大丈夫、と返事をすることもできなかった。言ったのは別のことだった。
「コンラート」
「何だい?」
「ブレイン種を作ったのはおまえだ」
 最も行動が早かったのはグラディスだった。フリッツに向けていた銃を一瞬でコンラートに向けた。コンラートは微動だにしなかった。BJは続けた。
「ディアナもそれを知っていた」
「ごめんね」
 恋人が銃を持つ姿を厭うBJに謝り、キリコはディアナに銃を向ける。ディアナは自分の銃を探ろうとしたが、自分でデルタフォース隊長に渡したことを思い出して唇を噛んだ。
 数秒の沈黙の後、コンラートはふうと息を吐き、観念した顔で言った。
「どうして分かった?」
「私がミーティングルームで見たあの化学式。あれは禁忌の式だった。──ヒトと他生物を融合させるキメラの化学式、その根底たる禁忌の式」
 コンラートは演技めいた態度で拍手してみせた。安い映画の悪役よりは多少ましな姿だった。
「よくご存知で、ブラック・ジャック」
「あの式は私も利用を考えたことがある。だが余りに禁忌が過ぎて手を出せなかった。私にも多少の倫理観が残っていたようでね」
 お嬢ちゃんの身体を造る時か──キリコはすぐに思い至り、そして背筋が寒くなった。その式を考えたということは完全に扱えるという自信があったからかもしれない、と思ったのだ。ブラック・ジャックの頭脳は医者という立場を遥かに超えた次元にあるような気がしてならなかった。
「ディアナがおそらくナメクジについて少し情報を固めたかったんだろうな、ヒトゲノムと多種のDNAの関係について相談して来たんだ。ちょっといいところを見せたくて書いてしまった」
「コンラートがあのナメクジとは別に、キメラの研究をしている情報は掴んでいたの。だからナメクジのことも知ってるかもしれないと思って──でもブレイン種? それはよく分からない。本当よ。銃を降ろして頂戴」
「ドクター、降ろさないで」
「何よ、赤毛野郎!」
 本当にデルタとCIAは仲が悪いんだな、と呆れながらキリコは言った。
「ミスCIA、お静かに。今は話を聞くべき時間だ」
「──話にかこつけてコンラートと二人になりたかったのよ! 恥ずかしいこと言わせないで!」
 男たちが一瞬唖然としてしまうほど顔を真っ赤にし、ディアナがヒステリックに叫んだ。少しクロオに似ている、とキリコは思った。グラディスは「死んで」とうんざりした声で呟き、コンラートは複数回の咳払いをする。BJは少々「あ、分かるかも」と共感しかけた自分を封じ、コンラートへ向かって続けた。
「地下三階の研究者は、同じフロアの他の研究者が何を研究しているかは知らなかった。でもカミラは所長だ、当然知っていた」
「そうだな。私はクルトの研究が何かは知らなかったが、基幹を同じくするキメラの研究だったことは今日分かったよ。大元が同じなのだから、進化の過程によってはブレイン種が行動種を支配できる可能性があってもおかしくない。結果として支配が行われて今の結果なのだから、過程の一部が一致したようだな」
「カミラはクルトが作り出した行動種と、おまえが作り出したブレイン種を研究所に放った」
「カミラの行動は知らない。だがそう考えるしかないだろうな。──私が四階でウルスラと小麦の研究室にいなければ、おそらく私もクルトと同じ運命だったか、それとも他の研究員たちのように噛み殺されていただろうね」
「ブレイン種の人体実験は?」
「今回が初めてだろう。少なくとも私は知らない。カミラが寄生されるとは皮肉なものだ」
「皮肉?」
「彼女は知らなかった。私も未確認段階で、まだ実証と報告をしていなかったから」
「何を?」
「ブレイン種はヒトに似た感情がある可能性が高かった。試験管の中で会話をしたがる様子を見せ、私や研究員の声によく反応した」
「何てことを」
 BJは息を呑み、キリコは思わず呻いた。倫理にもとるどころではなかった。明らかに神の領域を侵す禁忌だった。
「私がシュタージから受けていた任務はその完成と情報の引き渡しだ。これでも本物の科学者でね。軍では生物兵器開発を担当していたんだよ。うちの国には金がないのでね、西ドイツの金で研究をして、祖国へ持ち帰る算段だった」
「その完成した生命に、今こんな目に遭わされてるわけか。ざまあないな」
「完成かどうかは分からない。ただ、生命であることは確かだな。──言えることは以上だ。後はどうにでもしてくれ。フリッツがこのざまだ、少佐が自国民のみの脱出を優先したところで文句は言えない」
「少佐、価値はあるはずよ」
 ディアナが勢い込んで言った。明らかに恋する女の顔だ。グラディスは不愉快そうに眉を跳ね上げ、うるせえな、と口の中で呟いた。ディアナは続けた。
「フリッツはともかく、コンラートの情報は価値がある。ステイツに連れ帰れば東ドイツとソ連への脅威にもなり得るはず。一緒に脱出するべきよ」
「私を置いて行くならいっそ殺してくれ!」
 フリッツが喚いた。確かにこの状況ではそう願うのも仕方ない、と一同は理解する。グラディスが溜息をつき、宣言した。
「コンラートもフリッツも連れて行く」
 ディアナは露骨に安堵の息を吐き、顔を輝かせる。グラディスはキリコに銃を降ろすように要請し、自分も降ろした。フリッツは安堵の余り泣き出した。
「屋上に出て無線が通じればすぐにヘリが来る。通じなかったら僕の部下を待つしかない。明日の朝までに連絡しなければ捜索に来ることになってるから。──その前に地下二階の連中が階段を上がって僕らを襲いに来ないとも限らないけどね」
「ヘリには全員乗れるんでしょうね?」
「ブラックホークは最大15人乗れるよ。──ただしドクターと先生を最優先で搭乗させる。自国民保護の一環だと思って欲しい」
 隠密任務で使われることで有名なヘリコプターの名と乗員可能数を聞き、ディアナはコンラートが置いて行かれる可能性が低くなったことに安堵する。キリコは「あのヘリか」と思い出した。軍事関連では何かと有名だ。自身もベトナムで世話になった記憶がある。可愛い医学生と二人きりの時間を過ごした後、あのヘリで──そこで考えるのはやめた。
「それだけの人数が乗れるなら心配しなくてもいいでしょう。でもそうね、分かったわ」
 もう遠慮する気がないのか、それとも異常な環境での精神の昂ぶりか、ディアナはコンラートの腕に自分の腕を絡めて身を寄せた。コンラートはスカーフの下で苦笑した後、紳士的な顔を崩さない努力をしながらそれに応じる。
「ステイツで拘束されるでしょうけど、わたしが何とかするわ。わたしを助けに来てくれた英雄的行為も弁護材料になるはずよ」
「キャットファイトをアリーナ席で観戦してた英雄?」
「デルタなんて本当にクソだわ!」
 グラディスの茶々にディアナは怒り、いや、いいから、とコンラートが宥める。確かにその通りだったとしか言いようがない立場だった。
「無線が通じなくても明日の朝まで持ち堪えれば、何とかなる可能性が高いってことだな」
「うん。ドクター、あなたと先生は最優先でヘリに乗ってもらう。何があっても」
「分かったよ」
「ヘリは着地しない。一度降りたらすぐ飛行できないんだ。地上50cm位置でホバリングしてる状態に乗り込む。中からベネットが引き上げるはずだ。──先生、ベネットは平気? 乗れそう?」
「もちろん。気を使うなって」
 潜在的な男性恐怖症への配慮の質問だと分かり、BJはこの男でなければ感謝のひとつも口にするところなのに、と思いながら答えた。
「それからフリッツ、コンラート、ディアナの順で。僕が最後だ。もたついたら尻を蹴っ飛ばす」
「セクハラで訴えてやるわ」
「訴える暇があったら東ドイツ人の減刑手段を考えておきな。──エレベーターで五階に上がろう。所長室から屋上に出られる階段ドアがあるから」
 キリコがフリッツに肩を貸そうとしたが、グラディスが強い口調でそれを禁じた。
「保護順位はドクターと先生が優先だ。手を塞がないで。そいつはコンラートに運ばせる」
 キリコが反論する前にコンラートが同意し、フリッツの腕を肩に回して立ち上がらせた。ディアナは軍人の自国民保護義務を分かってはいるが、惚れた男への仕打ちに腹が立ち、小さく赤毛の軍人を罵ってからフリッツの反対側の腕を肩に回した。コンラートは驚いたが「ありがとう」とディアナに微笑みかけ、ディアナは満足そうに笑い返し、挟まれたフリッツは何とも言えない気分になるしかない。
「銃をくれ」
 フリッツが呻いた。
「これでも射撃の五輪選考の最終審査まで残ったんだ。役に立てる」
「なるほど、オイゲンの頭を正確に撃ち抜けた理由が分かったよ」
「撃ちたくなかった」
 この研究所を大惨事に追い込んだ一人は泣き声だった。それは演技でも何でもなく、心底の嘆きを発露する声だった。
「撃ちたくなかった。友達だった。いい奴だった。私とカミラがこんなことに誘わなければよかったんだ。──彼の金回りをよくしてやりたかっただけなのに」
 返事ができる者はなかった。訓練された軍人が無慈悲に言った。
「屋上に出たら渡してやる。それまでは片足で歩くコツを掴めるように努力しろ」
 BJはフリッツについて何も考えないことにした。彼は裏切り者だ。そう思うことにした。そう思わなければ同情してしまいそうだったからだ。
 キリコの手を握り、大きく息を吐き、行こう、と言った。
 もうひとつ、考えることをやめた。
 ブレイン種は感情を持っている。
 絶対に考えるものか。そう思った。
「行くよ」
 グラディスが宣言し、医務室のドアを開けた。そしてそのまま動きを止める。一同は固唾を飲んでその姿を見守る。そしてグラディスは「まじかよ」と呟いた。
「下から上がって来てる音がする。──地下二階にいた連中だろうね」
「おまえがパーティに行かなかったから怒ってるんだろうさ」
 キリコの軽口には場を和ませる効果がなかった。だが軽口を叩けるうちに判断するべきだ、動け──キリコはそう伝えたのだ。軽口を叩けなくなった時、危機は壊滅的な未来を描き出す。それを知っているBJはスカーフの下できつく唇を噛み締めた後、自分を鼓舞するためにも言った。
「早く帰って風呂に入りたい。赤毛、急げよ」
 クソビッチ、とグラディスが笑った。コンラートも笑った。キリコも笑い、スカーフ越しにBJの髪にキスを落とした。ディアナはBJを面白い女だと思い、フリッツは何も言わずに大きく息を吐いた。
 その時だった。息を吐いたフリッツの顔に何かが──あの白黒の生物が飛びかかった。ディアナが悲鳴を上げ、コンラートが手で掴んで引き剥がす。
「どこから来たのよ!?」
 医務室を出ようとしていたグラディスが振り返るが間に合わない。先にBJが動いた。空を切ったメスが地面に落ちて次の獲物を探そうとした生物を貫いた。キリコとグラディスが同時に発砲し、過剰な攻撃を喰らった生物は無惨にメスごと四散した。
「排水口だ」
 フリッツが浅い息で喘ぎながら言った。スカーフで口元を覆っていなければ入り込まれるところだった恐怖に脂汗が出ていた。
「オイゲンの時も排水口から入って来たんだ。あいつら、排水口が繋がっていればどこからでも入って来る」
 一同はシンクを見た。排水口の蓋が外れ、粘液の跡がついている。
「とにかく行こう。本当に連中が上がって来てる。──できるだけ静かに。音に反応して速度を上げられたらまずい」
 グラディスの宣言に反論する者はない。BJはキリコの右手に握られたままの銃を意識しないようにしながら左手に自分の手を繋いだ。すぐに指を絡めて強く握ってくれた。
 フロアを埋め尽くす浅い水槽の奥のエレベーターを目指そうとした時、先頭を行くグラディスが足を止め、すぐに「階段から」と小声で指示を出した。確認するまでもなかった。水槽の中にまたあの生物が入り込んでいる。いくつもの水槽の間を無事に通り抜けられるとは思えなかった。
 階下からは既に複数の気配がゆっくりと近付いていた。BJは息を呑み、思わず指に力を入れる。
「大丈夫だよ」
 他の誰かが言えば根拠もなく無責任な言葉に聞こえたかもしれない。だがキリコが言うのなら、と思えた。根拠も何もなくていい。それだけで安心できるのだから。
「まだ距離がある。みんなは先に上がってくれ」
 階段を上がり始め、コンラートが小声で言った。フリッツを支えながら移動する自分たちの速度が一同の邪魔になると判断した。
「先に無線を試しておいてくれ。私とフリッツもすぐに行く。ディアナ、きみも」
「二人で支えてあげた方が早いわ」
「ディアナ」
 コンラートは自分への想いを隠さないようになった女に言った。
「私はシュタージだ。きみはCIA。今はやるべきことが違うはずだ。──東西の差はあれ、ドイツ人のせいで他国人の安全を脅かすことなど私の恥だ。どうか先に」
「でも」
「──脱出したら話したいことがお互いにあると思うんだ。でも今じゃない」
「ドクター、先生、急いで」
 グラディスが二人に指示を出すことでコンラートの提案を受け入れる返事をした。だがキリコは大きく息を吐き、BJの指を解いてグラディスに言った。
「先に連れて行ってくれ。ミスCIA、あなたも」
「キリコ!」
「俺の方が早い」
「ディアナ、ドクターに従え!」
 コンラートたちの元へ階段を駆け下りるキリコを止めようとしたBJの腕を掴み、グラディスが厳しい声でディアナに指示を出した。
 キリコはディアナを押しのけるようにフリッツの片腕を肩に回し、フリッツの腰のベルト部分を思い切り掴んで持ち上げるように重心を上げた。察したコンラートが同じようにベルトを掴む。それだけで移動速度が相当上がった上に、支える側への重量が分散された。
 行け、とキリコはBJに言った。コンラートもディアナに言った。ディアナは唇を噛み締めて階段を駆け上がり、グラディスに掴まれた腕を離そうともがくBJのもう片方の腕を取った。
「同じ立場よ。支え合いましょう」
 愛する男を待つ立場だ、とディアナは教えた。嫌だ、とBJは言いかけた。だが見下ろしたキリコの姿が医者の──まるで軍医の──ものであると知り、涙を堪えて頷いた。キリコのそれは戦場で軍医が負傷兵を移動させる時の支え方だった。
「所長室にレストルームがある。排水口を塞ぐ」
 階段を駆け上がりながらグラディスが言った。分かった、とBJは返事をしながら不意に気付いた。排水口、──水槽、プール。
「水か」
「何?」
「あいつら、水がある場所に集まってる。そういう性質なのか」
「──いいね、それ」
 グラディスがなぜか心から称賛の声を漏らした。
 五階への階段を駆け上がり、踊り場で一度グラディスが足を止めた。
「安全確認をする」
 階下で行っていたように薄闇のフロアへ姿を消す。BJは階下を覗き、祈るように待った。今すぐキリコの姿を見たかった。ディアナも同様に階下を覗いていた。
「大丈夫よ」
 ディアナが言った。BJは返事ができなかった。何の根拠があるの。そう言いそうになってしまったからだった。