birth 04

 地下三階へはエレベーターでしか行くことができない。しかも一部の人間が持つ特殊な鍵がなければ──ウルスラの説明を最後まで聞かず、キリコはコンラートに冷たく言い放った。
「調達できる、あるいはおまえさんが持っているはずだ」
 ヒトゲノムの研究をしていると言い切った男は諦めたように頷いた。
「よく分かったな」
「何だ、本当に持っていたのか」
「何だって?」
「鎌をかけただけだ。俺が知るはずないだろう」
「──よくもやってくれるよ!」
 コンラートは完全に諦めて天を仰ぎ、襟の下に隠れていたネックレスを引っ張り出した。その先にはエレベーターの鍵がついていた。
 鎌をかけたキリコは内心で「非常口のことを知らなければ怪しいと思わなかった」と呟いた。フォート・デトリックでも一部の人間にしか知らされていない。それはここでも同様の可能性が高い。極秘に近い研究を手掛ける立場で非常口を知っていたということはかなりの中核を成す人物であるはず──そう思って鎌をかけたのだ。
 ウルスラとオイゲン、フリッツがそれぞれ驚いた顔で同僚を見る。ヒトゲノムの研究に関わっていることは知らされていたが、鍵を持つ立場だとは知らなかった。
 彼らの反応でそれを知ったBJは、この研究員たちがコンラートに疑惑を持ったと看破した。それはそれでまずい、と思う。コンラートは明らかに彼らの最終判断を担う立場にいる。コンラートへの信頼が揺らげば、この先また起こり得る危機の可能性に対応できなくなるのではないか。
「──そんな話、誰にも言えなかっただろう」
 研究員たちが驚愕を不信感に変える前に手を打つ。察したキリコとグラディスは「よくやるよ」と思いつつ、何も言わなかった。
「立場はともかく、おまえさんの人と為りが真面目なことは知ってる。私を見付けた時、撃つ前に話を聞いてくれた。判断力も疑う余地がない。ウルスラが何もかもやっていることを指摘したら、おまえさんが真っ先に走った。そのおまえさんが意識的に同僚を騙していたなんて、私には信じられない」
 BJ自身はコンラートを信用できなかった。プールの非常口の件──今の状況では唯一の脱出口──を黙っていたというだけで充分な理由になる。
 だが、今のBJの言で研究員たちがコンラートへの不信感を高めずに済んだことは確かだった。ウルスラが真っ先にコンラートを信じると宣言し、オイゲンとフリッツもそれに続く。彼らが信頼関係の崩壊を回避したと判断し、この場で唯一専門的な武力を発揮できるグラディスが言った。
「一階と地下二階で一度ずつ停めてもらいたい。一階で銃弾の補充、地下二階は安全確認を済ませたらドクターと奥さんをねえさんの研究室に入れる。あなたたちも入りたければご勝手に」
「私たちを見捨てるきみに要請する権利があるとでも?」
「僕は鍵があればいいんだ。何を言っているか分かるよね?」
 手に銃をぶら下げた軍人の要請は覿面だった。コンラートも銃を持っているが、軍人がフーゴ以上に正確な射撃をした姿を見たのはほんの数分前だ。忌々しいといった感情を隠すことなく顔を歪め、「分かった」と言った。
「でも」
 不意にフリッツが呟いた。不安げな声は一同の注目を集める。
「またエレベーターが暴走したら?」
「また?」
 グラディスがつまらなそうに問う。いつまでも動き出さない彼らにうんざりしている声だ。
「彼のことだ」
 キリコがフーゴの遺体を示し、経緯を説明した。そう言えばコートを遺体にかけたままだ。無惨としか言いようのない姿になった彼から取り返す気にはなれなかった。旅立った魂へ自己満足でも添いたかった。
「そうなったら死ぬしかないんじゃない? このままでも八方塞がりなんだしさ」
 話を聞いたグラディスは事も無げに言った。研究員たちは深い溜息をつき、それが事実だと認める。だがキリコとBJは感じた。勘のようなもの、そしてこの男を知っているからこその感覚だった。グラディスはまるで二人の感知を察し、遮るかのように続けた。
「乗りたくないなら地下二階まで先にエレベーターだけを降ろして、そこまでは歩いて行けば? それならあなたたちは乗らなくていいし、地下二階で待ってりゃいい。その代わり鍵は僕に頂戴。そこから僕一人でねえさんを迎えに行けばいい」
 口を開こうとしたBJをキリコが絡めた指に力を入れて止めた。今は話すな、こいつの話に乗れ、──生き残るために。口を覆ったスカーフの下で唇を噛み、BJは指に力を入れ返すことで了承した。何もかも分からなかった。だがひとつだけ確信した。
 ──グラディスはエレベーターの件を知っているんだ。それなのに今、わざと訊いた。
「きみと私で地下三階に降りるべきだ」
 コンラートが言った。
「あなたが? やめときなよ、モンスター──じゃなかったっけ、『彼ら』? いたら対抗できる? 言っておくけど僕は助けないからね」
「ディアナは足に怪我をしていると言っていた。廊下の内線からかけて来ていた。生命に別条があるほどではないが動けないんだ。いくらきみの腕が立つとしても、一人で救助することは推奨できない」
「ノー!」
 その返事はコンラートへのものではなかった。聞いた途端に今度こそ口を開こうとしたBJへの強い拒絶だ。だがBJはもう引かなかった。
「行く!」
「ドクター、止めて。もううんざり」
「気持ちは分かる。俺もうんざりさ」
「真面目に止めてよ」
「おまえさんの義務は自国民とパートナーの保護だ」
「それがどうした」
「医者にも義務があってな」
「奥さんは無免許。ただの思い込み」
「全くだ。ところが俺も医者でね。積極的には行きたくないんだが、聞いた以上は仕方ない」
 積極的には行きたくない。これは本音だ。聞いた以上は仕方ない。これも本音だった。医者として、そしてBJが行くと言い切ったのであれば、他の選択肢はなかった。
「まとめて死ね」
 グラディスはようやくいつも通りの物騒な台詞を堂々と吐いた後、もう一歩も引かないと決めた目でまるで睨むように見るBJに一語一語ゆっくりと、この上なく丁寧に告げた。この上なく腹を立てている、と声に含ませて。
「邪魔になったら真っ先に殺す」
「邪魔にならなきゃいいんだろ。おまえさんが怪我をしたら特別に無料で診てやるよ、クソ赤毛」
「その前にあなたが死んでるよ。むしろ死ね」
「おまえさんのそれは褒め言葉だって、最近ようやく気付いたよ」
 最後は日本語で言った。まだコンラートたちにグラディスと旧知だと知られて良いかどうかの判断がつかない。そもそも知らない振りをした経緯もある。このまま知られない方が良いのかもしれない、と思った。
 結局エレベーターだけを地下二階に降ろし、階段で移動することになった。まずは一階の警備員の詰め所から続く武器庫へ向かう。
 一階へ降りた途端、噎せ返るような血の臭いがスカーフ越しにも鼻腔を襲った。あと数時間もしないうちに死臭で覆われるであろう通路には相当数の遺体が倒れている。いずれも噛み傷、失血死だった。BJははっとしてキリコを窺う。だがキリコはここがあの密林ではないと理解していた。理性で完全にPTSDをコントロールすることができている。BJの心配に気付き、大丈夫だよ、と目を微笑ませ、愛する女の気遣いに感謝した。安心したBJは絡めた指に力を込めた。
 窓から見える景色は既に夜だ。非常灯だけでは足元すら覚束ない暗さになっている。ウルスラが持っていた懐中電灯は三階で水槽に落とし、回収できていなかった。
「奥さん、今は僕のを使う。電池を消費しないで」
 BJがペンライトを出すと、先程のキリコと同じことを言ったグラディスがどこから出したのかマグライトを点灯させた。それが軍用、つまり耐久力に優れた特殊なものだと見抜いたのはキリコだけだった。
 グラディスは数秒悩んだ後、くそ、と呟いてからスカーフを外して口に咥える。両手を塞ぎたくないのだと誰もが分かり、改めて今の状況の異常性を思い知った。
「減らず口が聞こえなくていいや」
 BJの呟きにキリコは無言で頷いて同意した。先を行くグラディスに聞こえていないはずがないが、マグライトで塞がれた口が減らず口を返すことはなかった。快適だ、と二人は同時に思った。
 警備員室から続く武器庫に入り、キリコの銃に補充できる弾倉、グラディスがいくつかの小型の武器をボディバッグに入れる。コンラートは少し迷う様子を見せた後、自分の銃に適した弾倉を手に取った。
「今だけよ」
 ウルスラが呟き、小型の銃を手に取った。オイゲンとフリッツもそれぞれ同様に慣れない手付きで銃を白衣の下にしまう。
「撃てるの?」
 BJは驚く。武器とは無縁にしか思えないウルスラたちに、その銃はあまりにも不似合いだった。
「定期的に護身講習があるの。みんな使い方は知ってる。先生は?」
 好きじゃないから、とは言わず、BJは首を横に振って銃の携帯を拒否した。ウルスラも好きではないことは見れば分かる。それでも身を守るために持つ選択をしたのだ。目の前で「それは好きじゃない」と言う勇気をBJは持ち合わせていなかった。
「非常口の鍵もこれで壊せるかもしれないじゃない?」
「──そうかも。いい使い方」
「でしょう?」
「そんな9パラ程度じゃ無理だよ。絶対に鍵に向かって撃っちゃ駄目だ」
 気を引き立てようとした女二人の会話に赤毛の軍人が無粋に切り込んだ。黙れよ、と腹を立てたBJが言う前にグラディスは真面目な顔で続けた。
「弾が跳ね返って危ない。跳弾って言うんだけど。非常口の鍵の破壊は僕の銃でギリギリだと思って」
「そうなの? 本当に?」
「嘘をついて跳弾の被害に遭いたくない。非常口だけじゃない、普通のドアの鍵だってよっぽど上手くないと壊せないよ」
「あなたと同じ銃はないの?」
「ここにはこれしかなかった」
 もちろん嘘だ。BJもキリコもグラディスが持ち込んだことを知っている。敢えて言う必要はなく、肩を竦めておくに留めた。だがコンラートが言った。
「そんな大きな口径の銃が警備員室にあったなんてね。驚きだよ。50口径だろう?」
「僕だって驚いたよ。文句があるならあなたが使う?」
「冗談じゃない。訓練を受けた軍人でもなければそんなものは使えない」
「詳しいね」
「とにかく急ぎたい。ディアナが心配だ」
 そんなに難しいの、とBJはキリコに囁く。銃は嫌いだが好奇心が顔を出した。キリコは数秒言葉を探し、BJを怖がらせないように簡単に「撃った反動で脱臼や手首の骨折の可能性がある」と説明した。ひぇ、とBJは妙な声を出して特殊部隊員の手の中の銃に目をやる。気付いたグラディスが「デザートイーグルだよ」と訊いてもいないのに銃の名前を教えてくれた。玩具を自慢する男の子みたい、とBJは状況も忘れて少しおかしくなった。
 武器庫を出て地下二階へ向かう。階段を降りたところで足を止めた。ここから先は誰も状況が分からなかった。とにかく安全確認を真っ先に行うことになる。これはグラディスが買って出た。流石にウルスラも「自分が」とは言い出さなかった。
 軍人がマグライトを消したことに誰も疑問を抱かなかった。あの白黒の生物は視認能力があったからだ。グラディスは低い位置で銃を構え、明らかに高度な訓練を受けたと窺わせる動作で非常灯を頼りに音もなく薄暗い通路を進む。
 キリコは違和感を覚えた。グラディスへの違和感ではない。においが、と思ったのだ。上階ではスカーフ越しでも分かったほどの血の臭いがこの場所ではそれほど感じられない。違和感を拭えない間にグラディスは角を曲がり、一度全員の視界から消えた。ウルスラが息を呑み、恐怖を堪えるようにBJにしがみつく。BJはその肩を抱いた。
 やがてグラディスが戻って来た。一切の警戒を解いた歩き方だ。あまつさえ煙草を咥えている。大丈夫か、とキリコが声をかける前に、うんざりした声音で「どうかしてるよ」と言い捨てた。
「何人か死んでる。通路や他の部屋にはいないみたい。密閉されてる部屋はなかった」
「無事で何よりだ。他には?」
 キリコは片手でハイタッチを求める。グラディスもそれに応じた。二人の間に強い結びつきがあるわけではないが、この状況で心理的な安定とある程度の高揚を保つためには有効だとお互いに知っているからこその仕草だった。
「プールでパーティの準備してる」
「楽しそうじゃないか。行って来いよ」
「パートナーもいないのに行けるもんか。ドクターと奥さんがどうぞ」
「こんな服じゃ失礼だ。──で?」
「見たままを言うよ。詳しいことなんて分からない」
「言えよ」
「プールにあのナメクジに高確率で寄生された人たちが目視で28人。殺し合ってはいない。みんなおとなしくプールのエリアをうろついてた」
 一同は沈黙した。寄生された人間が28人と聞いただけでBJは背筋が寒くなる。惨劇を目の当たりにしたキリコもその人数がいかに厄介であるかを理解していた。グラディスがいても到底無理だ、プールを突破して非常口に辿り着くことはできない、とすぐさま予想した。
「プールでリラクゼーションか。随分優雅だな」
「綺麗な水場はそういうものだよね。──プールから通路には出て来てない。理由は分からない。でも」
 あくまで、とグラディスは強く言った。
「あくまで僕の予想なんだけど。中央にブレインらしい個体がいた。女性だったな。彼女が──彼女に寄生した奴が? とにかくあの個体が指示を出して全員プールにいるんだと思う」
「つまり?」
「寄生されていない生存者を非常口から出さないための知的行動をしている」
「そうか。──危険な任務をありがとう」
「気にしないで」
 斥候に対するお決まりのやり取りと握手を交わし、キリコとグラディスは視線を交わす。言葉での話し合いよりも早く意思を疎通させた。──あの生物は知的行動ができる。統率する個体がいる。非常口は封鎖された。次の手を考える必要がある。
 その次の手の中に西ドイツ人は含まれない。危機的状況では選別しなければならないことがある。生命の選別はいとも簡単に行われて来た。それを元軍人と軍人はよく知っていた。口に出せば一人の女が激怒し、死ぬ気で反抗するであろうことも。
「少尉、指示をしていた女性の特徴は?」
 不意にフリッツが言った。グラディスはしばらく正確に思い出す時間を取った後、できる限り詳しい説明をする。瞬く間に研究員たちの顔色が変わり、今日何度目かも分からない絶望の表情になった。
「カミラだ」
「フリッツ、何て言ったらいいか」
 ウルスラが慰めの言葉をかけ、コンラートとオイゲンも続く。「カミラ所長はフリッツの従姉なの」とウルスラが訊いてもいないBJたちに教えた。聞いたBJは彼らに倣って慰めの言葉を口にする以外にできることがなかった。キリコとグラディスは同情を示すことはなかった。西ドイツ人たちとの距離を縮めないようにするためだった。
「どっちにしろ、ここに長くいない方がいいんじゃないか。ディアナのこともあるし、俺たちの存在に気付いたらプールから一斉に出て来る気がする」
「──すまない。一目だけ、遠目からでもカミラを見たい。本当に指示を出しているのか。寄生された『彼ら』に監視されているだけじゃないのか?」
 キリコの提案を聞いたフリッツが初めて一同に要求した。怯えるだけだった彼とは思えないものだ。それは血縁者として理解できる内容だが、誰も積極的に賛同できないものであることも確かだった。
 BJはグラディスが小馬鹿にしきった声で、あるいは上手く同情を演じながら要求を却下するだろうと思った。だがそうではなかった。
「一緒に行くよ。『彼ら』に見つかったらあなたが逃げる時間を稼げる」
「──ありがとう。恩に着る。本当にありがとう」
「ただし、生命の保証はできないよ。あなたを助けられないと思ったら僕は一人で逃げるからね」
「分かっている。きみの義務でもないのに来てくれるだけでありがたいよ」
 まあね、と言いながらグラディスはボディバッグから小さな何かを取り出し、ウエストに挟んだ。小型のプラスチック爆弾だと知る者は実物を見たことのあるキリコだけだった。いくら誤爆の心配がない爆弾だと言っても何て持ち方だ、とキリコは呆れた。
「さっさと行こう。──他の人はエレベーターをいつでも動かせるようにしておいて。エレベーターが暴走したら諦めて死んで」
 その言葉でBJは確信した。直感にすぎない。だが確信だとしか思えなかった。
 ──こいつ、私たちと合流する前に確実にエレベーターのことを知っていた。しかもこの口振り──このエレベーターは安全に地下三階へ──
「マフィン」
 キリコが低く呼び、何かから隠すように抱き締めた。胸元に抱き込んだBJが何かを口にする前に耳元へ囁く。
「エレベーターは安全に動く。そう思ったんだな?」
「キリコ」
「俺もだ。でも」
「ねえ」
「考えるんじゃない。ディアナの怪我と無事に帰ることだけを考えろ」
 だって。そう言いたかった。だって、だって──もしグラディスがエレベーターのことを知っていたのなら? 安全に動くと私が思った理由は? キリコも同じことを考えた? その理由は? ──簡単だ。
 簡単だ。
 国家という存在の性質を知っているからだ。
 特殊部隊員が関わる非合法であろう任務の性質を知っているからだ。
 あのエレベーターは、フーゴが死んだエレベーターの原因不明の暴走は、もしかしたら。そう思った。強く思った。それは確信だと冷静な自分が断定した。
 ──グラディスが仕組んだんだ。
 非常灯だけの明かりの中、グラディスに先導されたフリッツが闇の中へ消えて行く。待って、駄目──そう叫ぼうとした口をキリコの手が塞いだ。信じられなかった。キリコを見上げた。キリコは抱いたBJを離そうとせず、口を塞ぎ続けた。そして日本語で言った。
「グラディスが上手くやる。ホワイトハウスでもロンドンでも見たはずだ。だから俺たちは知っている」
 あいつがパーフェクトな特殊部隊員だということを。
 その呟きに答えることができなかった。酷い混乱に支配されかけた。フーゴを殺した? なぜ? 協力者だったのに? 何のために?
「フリッツを心配してくれているんだね」
 傍から見れば夫に縋りついて大声を出したいほどの不安を紛らわせようとしている女の姿に、オイゲンが遠慮がちに声をかけた。
「ありがとう。俺はフリッツと大学からの同期でね。彼を心配してくれることがとても嬉しいよ」
 そうじゃない、そうじゃないんだ──BJは言いたかった。だが塞がれた口からは何も声を出すことができなかった。
「国が違うのに、西ドイツ人のフリッツのために危険を冒してくれる少尉にもお礼を言わないとね」
 オイゲンの言葉がなぜか、飲み込み損ねた魚の骨のように引っかかった。理由が分からなかった。冷静に考えられなかった。やがて諦めて身体の力を抜き、キリコの腕から抜け出そうと身動きをした。BJが落ち着いたと思ったキリコは腕の力を緩める。
「エレベーターへ。フリッツと少尉が戻ったらすぐに下に行ける状態にしておこう」
 コンラートの提案に反対する者は誰もいなかった。待機していたエレベーターに乗り込み、コンラートが鍵を回して地下三階へのボタンを押す。そのまま閉じようとする扉の隅に足を置き、グラディスとフリッツの帰りを待った。
 銃声が響いた。BJは耳を塞いでキリコの胸に顔を押し付けた。フリッツは死んだ。殺された。なぜか強くそう思った。だがそうではなかった。銃声は断続的に続き、そして複数の気配が一斉に向かって来る音がする。暗闇の中から先に現れたのは必死の形相で走るフリッツだった。
「急げ!」
「頑張って!」
 コンラートとウルスラが叫んだ。キリコも闇の向こうへ叫んだ。
「グラディス!」
「5秒!」
 暗闇の中から現れたグラディスが叫んだ。オイゲンが辿り着いたフリッツを渾身の力でエレベーターの中へ引っ張り込む。同時に信じられない速さでグラディスが背後を振り返り、発砲した。襲い来る『彼ら』の群れ一人が首を撃ち抜かれて転び、他の『彼ら』を一瞬足止めする。狙ったかのようなタイミングで──実際に狙ったのだと分かったのはキリコとBJだけだった──持っていたプラスチック爆弾を床に置き、エレベーターへ駆け込む。同時にキリコは扉を止めていた足を離した。その時にはもうグラディスは片膝を付いて射撃の姿勢を取っていた。扉が閉まる一瞬前、指は引き金を引いていた。
 扉が閉まると同時に爆発音が響く。爆発の振動で揺れながら、エレベーターはゆっくりと下降を始めた。
「6秒だったぞ。鈍ったのか?」
「いいや、5秒ジャスト。何だよ、ドクター。数も数えられないの?」
「少尉、ありがとう。──すまない。すまなかった。あんなことになるなんて」
 息を切らせたフリッツが喘ぐようにグラディスに言った。グラディスは立ち上がりながら「別に」と言った。
「あなたの足が速くてよかった。僕より後ろを走ったらさっきのプラスチック爆弾で一緒に吹っ飛ばしてたよ」
「何があった」
 キリコの問いに肩を竦めたグラディスは、不機嫌に「彼に訊いて」と言った。同時にエレベーターが地下三階へ到着した。
「グラディス」
 開く扉を眺めながらBJは日本語で話しかけた。
「どうしてフーゴを殺した?」
 グラディスはBJを見ず、低く言った。
「勝手な予想で物を言うのはやめてよ」
「タイミングが良すぎるだろうが、クソ赤毛」
「誉め言葉でしょ、最近やっと分かったよ」
 キリコが黙ってBJの腰を抱く。BJは大きく息を吐き、ただ落ち着くように自分に言い聞かせた。なぜ自分はここにいるのか。なぜこんなことが起きているのか。なぜグラディスはフーゴを殺したのか。──なぜキリコは、同じことに気付いているはずのキリコはグラディスを問い質そうとしないのか。何もかも理解できなかった。