女たちは勝手に一件落着だ。ピノコがプール遊びを思う存分楽しんだ後、BJとジャグジーに入っている間に、キリコは駐留軍からの事情聴取と現場検証の協力要請を受けた。事実だけを説明し、パティオの様子を見せると納得した聴取担当の軍人は、現場検証は階下の部屋から行いますのでこちらはもう結構ですと言って姿を消した。
それからもキリコは何かと忙しかった。詫びの名目で訪れた副支配人が、自分が支配人になったことを説明した後、「フランス国内でも国外でも、今後何かあれば、ハザマ様を通さず直接お電話して下さっても結構とのことでございます」と言い、間久部がBJの今の恋人を使える男だと認識したことと、新しい支配人が間久部に買収され、傘下に下ったことを言外に告げる。結局繰り返されるだけなんだな、とキリコは少しおかしくなった。
ユリは夕方に熱が上がることもなく、午後のスイーツもルームサービスの夕飯もしっかりと食べ、名医二人の予想を裏切り、復調が間近である事実を存分に見せつけた。
夕食後はキリコがグラディスに呼び出され、階下で現場検証に付き合わされた。明日家族が来るという部屋は戦闘があったことなど微塵も感じさせず、完璧に整えられていた。今度こそもう関わらないと二人で確認し合ってから部屋に戻り、嫌いな男に恋人を拉致されて不機嫌になっていたBJの機嫌を取ることを楽しもうとする。
「お嬢ちゃんとユリは?」
「どこかの誰かさんが息抜きしてる間に部屋に戻ったよ」
「誰が息抜きだ。赤毛相手にそんなことできるか」
「知らない」
ぷいとそっぽを向いて寝室に行ってしまうBJが可愛いくて、にやつく口元を抑える努力が要された。覗くなよと言われ、風呂にでも入るのだろうと思った。ベッドで本格的に寝てしまうにはまだ早い時間だ。
「──ビーチならもう時間外だぞ」
風呂ではなかった。出て来たBJは例のラッシュガードにトレンカ姿だ。
「プール。ピノコの面倒ばっかりで全然泳いでないから」
「気を付けろよ」
「うん」
ライトアップされているとはいえ、夜のプールは暗い。念のためキリコはプールサイドに出て、BJの泳ぐ姿を肴に少量の酒と煙草を楽しむことにした。昼間はBJがいるパラソルの下で、あいつは魚か、と思ってしまう光景を眺める。楽しむと言うよりは感心していた。
BJはキリコの予想以上に泳ぎが上手く、プールの端から端まで簡単に潜水で泳ぎ切る。姿が見えない時間の方が多い。それでもたまに水面に浮かび上がる姿は何よりもキリコの目を引き付けて、綺麗だな、と思わされた。
何回目かの潜水の時、キリコはぎょっとして思わず「おい!」と叫び、ビーチチェアから立ち上がってプールの縁へ急ぐ。BJの姿がなく、ラッシュガードがぷかりと浮かび上がれば当然だ。まさか溺れて何とか脱いだのではないかと思った瞬間、目の前の水面が揺らぎ、ひょいと顔だけをBJが浮かび上がらせた。
「……驚かせるなよ。溺れたかと思っただろうが」
「幸いにも溺れる要素があまりなくて。置いといて」
濡れたラッシュガードが投げつけられ、部屋着姿だったキリコも濡れてしまう。おい、と文句を言う間もなく、また別の物が飛んで来て、今度こそ水浸しになったが──おい、と別の意味で声を出してしまった。それがBJが着用していたはずのトレンカだったのだから当然だ。
ちょっと待て、と言う前に、BJはまた水に深く沈む。だが遠くには行かず、その場で沈んだだけだった。
水中に揺れる二色の髪を眺めながら、キリコは考える。できるだけ冷静に状況を分析しようと試みる。ここにラッシュガードとトレンカがある。と言うことは、下に何も着ていないというわけでもない限り、今のBJは水着姿のはずだ。
しばらく考え、諦めた。BJの息が切れるまで、ここで待っていてやることにする。互いにどうすればいいのか分からない状況に直面しているのは明白だ。ただ、BJが彼女にしてはひどく勇気を出したということは充分に理解できる。その勇気にどう応じればいいのか。どう応じればベストなのか。キリコは自分が思った以上に不器用な男だったのだと自覚しながらその時を待った。
やがて諦めたのか、息が切れたのか、BJがまた顔だけを水面に出して見せる。上目遣いで見上げた挙句に無言でいられれば、これは俺の忍耐力を試しているのだろうかとキリコが思っても仕方なかった。
「マフィン」
「うん」
「見るぞ」
途端にBJが笑った。だが安堵したことがよく分かる笑い方だった。
「何それ、馬鹿みたい」
「馬鹿で結構」
服のままだろうが何だろうが知ったことではなかった。部屋着のまま勢いよく水に入り、途端に起きた水飛沫にBJが悲鳴を上げて逃げようとする。散々焦らされたことを思い出した男が逃がすはずもない。手を延ばしてあっさりその腕を掴み、引き寄せようと──した途端、引き寄せられ、水中に引き込まれたのはキリコの方だった。沈む瞬間に息を止めた自分を称賛したい。
水の中で抱き合うほどの至近距離で、どんな水着だろうが見えるはずがない。ただ、笑っている──それでもまだ何かを躊躇う──女の顔が目の前にあることだけは分かる。水の中でキスをした。何度もした。
まとわりつく水が身体を冷やしてくれる優しい毛布のようだ。無音の中、毛布に守られている感触をいいことに、呆れるほどキスを繰り返す。息が続く限り唇を重ねて、同時に息が切れて、同時に水面に上がった。
「ったく、何に驚けばいいか分からねえよ」
「驚くことなんてある?」
「何もかもだ!」
首に腕を回して抱き付いてきたBJを抱き締め返して笑う。BJも笑う。もう躊躇いのない笑い方で、キリコは恋人がこの上なく綺麗で可愛いと思う。
「綺麗だし、可愛い」
「見えてないくせに、よく言うよ」
「見せろよ」
「どうぞ」
「上がらないと見えない」
「上がれば?」
「この」
派手にキスをして笑い、今度はキリコが腰を抱き、引きずるように水から上がる。BJは笑いながら引き上げられるままで、上がるなりパラソルの下のビーチチェアに逃げてしまった。キリコはその姿だけでも感嘆する。
眺めるまでもなくその水着は彼女によく似合っていて、文句のつけようがない。たとえBJが「次はキリコが好きな水着にするから」と言っても、いいや、自分で選んでくれよ、きっと俺は好きだから、と言うだろう。
もしビーチに出れば、確かに全身の傷で彼女に奇異の目を向ける者がいるかもしれない。それでもその中の何人かはこの女がひどく魅力的で美しいということにきっと気付くだろう。気付いてしまうだろう。それは──そこまで考えた時、また昏い感情を思い出しそうになり、今は出て来てくれるなよと静かに封じる。
「似合ってる」
「ふうん」
「最高だよ。アンティーヴに来て良かった」
「たかが水着で。大袈裟な奴」
たかが水着をずっと隠していた女は笑う。たかが水着と言い切る勇気を出してくれた女が愛しくて男は笑う。そして女が座るビーチチェアの上から覆い被さるようにキスをして、自分でも呆れるほど素直に言った。愛してるよ。驚くほど素直に、わたしもよ、と返って来た声に沸き上がる感情は間違いなく歓喜で、この女にしか与えてもらえないものなのだと知っていた。
濡れた身体を温めるという名目でBJをバスルームに引っ張り込むことに成功し、ジャグジーの広さを無視して身を寄せて、二人きりの狭い空間に収まる。また明日、着てよ。キリコが言うと、ランドリーサービスが間に合ったらね、と減らず口が返って来た。
ジャグジーが泡立つ中で向かい合って抱き合い、肌を探る指に息が上がることにもうBJは抵抗しない。キリコは煽られるばかりで、脚を跨いで座る女の身体のそこかしこに指と唇で触れる。
目の前で揺れる膨らみがあまりにも魅惑的で、たまらずに、じゅ、と音を立て左の乳首を吸い上げれば、ああ、とバスルームの湿度を上げてしまいそうなほどに熱く湿った声が響く。キャンディのように舌で転がして不規則に強く吸っては甘噛みを繰り返し、そのたびに身を捩り、無意識に逃げようとする女の腰を優しく抑える。
「きり、こ」
ひっきりなしに喘いでいた唇から男の名前が零れた。俺の名前はこんなに甘い響きだったのかと思いながら、キリコは唇を離して顔を上げた。
「キリコ」
「うん?」
「そっちだけじゃ、やだ」
「──こっちも?」
「そう、──あ!」
言うなりきゅうと指で右側の乳首を痛みを感じない程度に捻り上げられ、BJは身を逸らして悦んだ。湯の中のキリコの太腿に熱くなるそこを摺り付けたのは無意識だ。湯の中でもはっきり分かるほどぬるついた潤みは男をひどく興奮させ、キリコは熱い息を吐く。それでも恋人の御所望だ、反対側の乳首も充分に可愛がる。
咥えた乳首を唇で甘噛みしながら舌で先端を転がすと、女は子猫のように甘え切った声で啼き、確かに快楽を得ていると、腰を揺らしながらキリコに教えた。
「きり、こ、そこ──それ、すき」
「ん」
「──ああ!」
好きと言われた愛撫をもう一度繰り返す。何度でもだ。セックスは女性の負担が大きいのだから、少しでも好きにしてやりたかったし、それが快楽に繋がるのならいくらでも時間をかけてやりたいと思う。それはBJと肌を重ねるまで考えもしなかったことで、他の女にやってやろうと思った記憶がないと断言できる。すっかり勃ち上がった自身にもう少し待てよと言い聞かせながら、BJに奉仕する時間が好きになっていた。
「ん、……んん……っ」
BJが目をかたく閉じ、腰を揺らめかせる。キリコは雄の獰猛な欲がはっきりと沸き上がることを自覚し、ああもう、と思った。ああもう、可愛い。可愛くて、入れたくてたまらない。俺の太腿に気持ちいいとこを押し付けて腰を揺らして擦ってぬるつかせて、俺のが腹に当たったらぬるついたとこをひくつかせるなんて、可愛い、入れたい以外に何を思えって?
BJをジャグジーの縁に座らせ、身体を密着させて、抱いた背をゆっくりとフロアに倒す。ジャグジーから溢れた湯に背中と尻を撫でられて、その感覚にすらBJは身を震わせる。そして次にびくりと跳ね上がり、だめ、と言った。
「そこ、舐めるの、だめ……!」
脚を開かされ、とうに溢れているそこに隠れていた秘芯に舌を這わされ、快楽と呼ぶには強すぎる刺激にびくびくと腰ごと下半身を揺らしてしまう。触れられるだけでも声が抑えられなくなるほどの刺激なのに、キリコの唇はそれよりも鋭い、それなのに甘く重い快楽を呼び寄せようとする。
「だめ、きり、こ、そこだめ……!」
「ん」
「──あ、あ!」
だめと言いながらもやめてとは言わないのだ。男がやめるはずがなかった。跳ねる腰を優しく、だが有無を言わせない力で抑え、彼女が嫌だと言う場所に唇と舌を這わせる。ここが彼女の感じる場所だと言うことはもう知っていた。
指で薄皮を剥いて舌先でつついただけでBJは悲鳴を上げ、のたうつように身体を跳ねさせ、キリコの髪を掴んだ。
「だめ、死んじゃう、それ、死んじゃうからぁ……!」
気持ちいいんだよ、死なないよ、と笑いながらも征服感がじわりと沸き起こり、キリコは彼女にはまだ強すぎる刺激だと知りながら、剥き出しのそれを強く吸い上げた。
「ひぃあ……っ!」
途端にのけぞって痙攣し、しばらく何度か痙攣を繰り返した後、がくりとフロアに身を投げ出して熱く荒く、浅い呼吸を繰り返す。腹の奥が熱くてたまらなくてキリコに助けを求めたかったのに、すぐにまた悲鳴を上げ、いや、いや、と力なく啼き、すすり泣くはめになった。
「きり、こ、それ、なに……!」
今しがたいかされたその場所から唇を離さず、今度はちろちろと掠るように舐められ続ける感覚は、達したばかり、しかも快楽に不慣れな身には苦痛と紙一重だ。耐えられるはずがなかった。
すすり泣きながら感じる。飲み込んで締め付けるものが何もなくて物足りなさに泣くようにひくつくそこと、早く早くと言いたげに熱を孕んで行く腹の奥が、もう以前の自分の身体とはまったく違うものだとしか思えない。
──ああ、切り裂かれて神様に繋ぎ直してもらったわたしの身体を、キリコが全て作り直してゆく。
「あ、──あ、……んん……」
苦痛に近いはずの刺激が、徐々にやわらかく、ふわりとした何かを秘芯から全身に広げ始めた。自分でも理解できないほどに柔らかい未知の感覚がじんわりと滲むように身体を、意識を侵食して行く。
「……きもち、い……」
喘ぎの中に無意識の言葉が紛れ込み、そうか、これってきもちいいんだ、と理解した。理解した途端にもっともっととねだりたくなる。
「きもちい……きもち、いいの……」
キリコが身を起こし、唇と舌ではなく指でそこの愛撫を続けてくれる。ゆっくり、くるりくるりと指の腹で撫でられるたび、きもちいい、と惚けたような呟きを止められない。ジャグジーから響くぽこぽこと言う音がリズミカルで、たまに指の動きとずれると、なぜかそれも気持ちよかった。必死で欲を抑える男が自分の痴態を獣のような目で見降ろしていることなど気付きもしなかった。
「ん──あ!」
小さく達するのは突然だ。まだ慣れない。そもそもこの地に来るまで達する経験などなかったのだから、何が起きたのか理解するまでにも時間がかかる。理解する前にキリコの長い指が入り込み、つい先日見付けたばかりの場所でくいと曲げられ、んく、と呻くように喘いで跳ねてしまった。ジャグジーから溢れた湯が背中の下でばしゃりと音をたて、奇妙な現実感をもたらす。
その現実の中で目が合ったキリコが笑ってくれた。彼が自分の獣性と欲を死ぬほどの努力で抑えてくれていることなど分かりはなかったが、熱く、硬くなっている男のそれが見えて息を呑む。息を呑んだと言うよりは喉を鳴らしたのかもしれない。キリコのひとつだけの青い瞳に隠し切れない欲が溢れていて、ああ、とそれだけでBJは喘いだ。──この男がわたしで興奮しているなんて。しあわせ。なんて幸せなんだろう。
「……っ!?」
キリコの指が少し奥に入った途端、潮を噴くほどに感じたあの感覚とは違う、それでも明らかに性の感覚だと分かる何かが急激に腹の中を掻き回した。BJの反応を見逃さなかったキリコの指がとんとんと試すように数度そこを突き、そのたびに知らない感覚に震えたBJは、なに、なに、と混乱に陥った。
「なに、それ、──ちがうの、なに……!」
「この間、また今度ねって言ったとこだね。指でも届くくらいに降りて来た」
「なに、なに……!?」
キリコが微笑む。こんなに嬉しそうに笑うキリコは滅多に見られないとBJが混乱の中でもはっきり思うほどに、本当に嬉しそうに微笑む。
「俺が欲しいって、おまえの一番奥のところがここまで降りて来てくれたんだ。可愛い。──嬉しい」
嬉しいと言う意味が分からない。それでもキリコがそう言ってくれるのなら、わたしもうれしい、と返すしかなかった。キリコの笑みが深くなり、すっと指が抜かれる。
「やだ、……やめたら、やだ」
理性がある時には絶対に言えないことを平気で言える。だって言いたいんだもの、きもちいいんだもの、と言い訳ではなく自分の中に刻み込む。やっと飲み込ませてくれた指を失って切なくひくつくそこも、だって欲しいんだもの、ここにキリコに来て欲しいんだもの、と恥もなく認めることができるようになっていた。
「お願い、──ねえ」
手を延ばすと抱き締めてくれた。顔中にキスをされて、それも気持ちいい。でも今欲しいものはキスではなくて、もっと奥に、キリコにしか届かない場所に来て欲しい。
「欲しいの。して。もっと」
あまりにも隠さずに抱かれたいと訴える女の痴態に堪り兼ね、キリコが熱すぎる息を吐き、深く唇を重ねた。吐息も喘ぎも飲み込むような深いキスを繰り返した後、もうもらえると知って身を起こして抱き付いて来るBJの目元に唇を落とす。
溢れるほどに濡れたそこに入り込むと、起こした上半身を肘をついて支えるBJがぶるりと身を震わせて喘ぐ。キリコも熱い息を吐き、ああ、と喘ぐように呻いた。その途端に秘所がきつく締まり、この女は俺の喘ぎが好きなのだ、とキリコは知った。
「痛かったら言って。肘もね」
BJが頷くと同時に緩く、だが確実に奥に突き上げる。その途端にBJがのけぞり、信じられないほど甘い声をバスルームの湿気の中に響かせた。
「あ、──あ……!」
ひっきりなしに喘ぎ、顎を逸らして、BJは今まで知らなかった感覚を享受する。何度も続けて奥を穿たれるうちに、待って、まって、と泣き声を漏らした。
「どうしたの」
分かっている。だからキリコは動きを止めず、それでも優しく訊いてやった。止めようにももう止められなかった。入り込んだ自身はきつく締め付けられて、それだけでも目眩がしそうなのに──今はもうそれだけではなかった。降りて来た女の一番奥に喰らい付かれている。気を抜けば一瞬でそこに全てを吐き出してしまいそうで、女性の身体を守るための用意ができる寝室ですればよかったと心底思った。
「まっ、って、変だから……」
「変?」
「わ、わかんない。やっぱり、何これ、わかんない……!」
「そっか」
「──ひ!」
分からないと言う言葉があまりにも愛おしい。自分から男を食んでいることも、だからこその感覚──本能に最も近い部分でしか感じられない快感だと分かっていないのだ。
「ん、──あ!」
喰らい付いてくる所にぐいと押し付けるように男からキスをすれば、BJは身を竦ませて大きすぎる快感を享受した。
「分からないなら、覚えて。ここ、俺にこうされるとこうなっちゃうんだって」
「きり、こ、に?」
「そう。俺しかここに触ったことないんだよ。ここ、俺だけの場所だって覚えて」
「……うん」
素直に頷くBJが可愛くて可愛くて、そして愛おしくてたまらない。それから、肘で上半身を支えるBJを丁寧に抱き起こし、見て、と言った。
「見て」
視線でその先を促す。導かれるままに目をやったBJに、これ以上なく甘く、優しく囁いた。
「クロオと俺、繋がってる」
「──っ!」
その瞬間、キリコが呻くほどに強く、強くBJが締め付けて、そして耳まで赤くなる。辛うじて堪えたキリコは笑い、「嬉しいんだ」と言った。
「嬉しいんだ。おまえは?」
「……うれ、し」
嬉しい、とBJが消え入るように答えた。それだけでキリコはまたぞろこの女が愛おしくて愛おしくてたまらなくなる。俺の。他に誰もいないのに、耳元で囁く。──俺の。可愛い。俺のおまえ。おまえだけだよ。いつだって好きすぎて死にそうなんだ。
BJが首に腕を回して抱き付き、キリコはその身体を強く抱き締める。そして、ごめんね、と言った。
「ごめんね、俺が先にいっちゃうかも」
まだ泣くほどに強い快楽としか受け止められない愛撫は、今はしたくなかった。奥深くでこれ以上ないほど繋がっているこの感覚だけを噛み締めたくて、男としては情けないと言われても反論できないことを言ってしまう。するとBJがしばらくキリコを見詰めた後、また少し赤くなって顔を背け、小さな声で言った。
「キリコは」
「うん?」
「キリコは、気持ちいい? わたしばっかりじゃなくて?」
問うた途端にぎゅうと締まり、キリコは息を吐く。いちいち可愛くて困る。本当に困る。こんなに耐えるセックスをこの女を抱くより以前にしたことがない。
「こんなに気持ちいいの、初めてだよ」
「──あ!」
言うなり腰を突き上げる。もう止められなかったし、止める気もなかった。BJはまた襲い来る未知の感覚を今度こそ快楽だと理解して、同時に信じられないほど溢れる嬉しさと愛おしさをコントロールできないことをどう受け止めればいいのか分からない。それでも男の熱い息が、肌に触れる指が、何もかもが、まるで自分と溶け合ってしまうようで──ああ、そうだ、これはわたしが幸せだと思ったあの時と──同じで。
ああそうか、わたしは、わたし、今、凄く──
「キリコ」
自分でも呆れるほど爛れ切った喘ぎの中で、それでも必死に男の名を呼ぶ。どうしても伝えたくてたまらなかった。男が動きを止めないまま、それでも、どうしたの、と優しい声で呼んでくれる。荒い呼吸のせいで少し乱れたその声を聞いただけで腹の奥底が疼き、中で喰らい付かれた男が息を詰めた。
「キリコ」
「うん」
「わたし、今ね、すごく」
「うん」
「幸せで、死んじゃいそう」
言った次の瞬間にはかたく、かたく抱きすくめられて、息ができないほどだった。キリコに強く穿たれて突き上げられ、呼吸もままらないのに喘ぐことを止められない。肌とどちらが熱いかもう分からない湯が音を立てて揺れ、溢れ出るほどに強く抱かれ、気持ちよくてたまらない。嬉しくて、幸せで、腹の奥から全身へ急激に広がった強い感覚で目が眩むことすら幸せで、信じられないほど甘い、おおきな喘ぎを我慢できないと思った瞬間、すべてが弾け飛んで、自分でも訳が分からないほどに身体をびくつかせ、キリコの腕に抱かれたままぐったりと動けなくなった。
同時にキリコが息を詰めた気配を感じて、がばりと身体を離されたと思ったら、急に腹に喪失感が生まれる。僅かに間を置いて下腹部に熱くて粘ついた感触を得て、何だろうと思っていたら、危なかった、と荒い息の下でキリコが呟く声が聞こえた。
キリコがBJの顔を覗き込み、笑ってキスをする。
「俺も、死んじゃいそうだった」
BJも笑い、それから大きく息を吐いて、それが合図だったかのように再び与えられたキスと抱擁に安心しきって身をゆだねる。
そのまま抱いて湯の中に入れてくれて、可愛かった、愛してる、と何度も言われて夢心地から抜け出せない。ガラス張りの一面の壁から夜の海を見ながらキリコに甘え、優しく甘えさせてくれるこの男が愛しくてたまらないと改めて思う。
ジャグジーのぽこぽこと言う音が聴覚にも気持ちよくて、眠ってしまいそう、と感じた時には、ほぼ意識を飛ばしてしまっていた。
風呂の中で眠るのは危険だと知っていたが、キリコはもう少しだけ自分を甘やかしたかった。眠り込んでしまったBJに何度も口付けて、馬鹿げていると思いながら、腕の中から二度と出さない方法はないかと真剣に考えてしまう。
あの感情だ。昏いあの感情を自覚し、理解した今、忘れようとしても常にその感情が、意識があるということを認めなければならないと知った。一歩間違えれば破綻する──俺だけが破綻するだろう。そう思った。
腕の中にいる時には可愛い女でしかない恋人が、あの黒いコートを羽織って外に踏み出せば、そこに自分が入る隙などない。天才と言う言葉では足りないほどの、神の意志を宿した指を持つこの女は、そう、間久部が言った通り、本当はひとりでも生きていける人間だ。
──俺の昏い感情に気付いた時、この女は俺を枷だと感じるだろう。医師である自分を迷わせる存在だと思うだろう。傷付けられると思うかもしれない。こいつは器用な人間じゃない。皆が思うほど強い人間でもない。
キリコとてBJが強い人間だと思っていた。あの世界の中でただ一人、どんな相手にも物怖じせず、不敵に笑うことができる、強く、そして恐ろしい女だと思っていた。関われば鬱陶しいと思っていた。
今は違う。今はとてもそんなことを思えない。
この女は強い。だが弱い。そして、自分を守るためならどんなことでもする。いつの頃か、キリコはそう断じた。
──ユリから距離を取ろうとした時のように、自分を戸惑わせようと──弱くするだろうと思った人間からは逃げ出す。いいや、逃げ出すんじゃない。本当は逃げ出すんじゃなくて、こいつが切り捨てるんだ。自分が傷付く前に相手が縋れないほどの壁を作り上げて、切り捨てる。そしてこいつは被害者の顔をする。
全て分かっているのに、それでも愛していると思える自分に安心した。同時に滑稽だと思った。普通ならそんな女は御免だと距離を置きたくなるだろうに、BJだけにはそう思えない。
知られてはならない。キリコは決めた。決してこの女に、自分の昏い感情を知られてはならないと思った。恋人同士によくある独占欲などではない、愚かで醜い、そして相手を抑え付けてでも自分のものにしたいと願う、病んだ人間、あるいは一線を超えた人間が持つ感情だ。
知られてはならない。俺だけでいいと思っていることは、決して。
おまえに、俺だけが、おまえのことを愛しているんだと思い込ませて、俺から離れられなくなればいいなんて、決して。
休暇はまだ続く。むしろやっと楽しめる。翌朝はパティオで四人揃って朝食を取りながら、今日はあれをしよう、これをしようと大騒ぎだ。正確に言えばキリコは後で決定事項を聞かされるだけなので、女三人が大騒ぎだった。
「わたし、今日はこの部屋にいたいわ。まだちょっとだるいから。──じゃあみんなも部屋で過ごそうなんて言ったら怒るわよ、先生」
「何? 言ったら怒るって知ってるから、言わない予定だったんだけど?」
「あら、そうお?」
二人で丁々発止と見せかけて、すぐに顔を見合わせて笑う。ピノコは二人の会話から敬語が互いに消えていることに気付き、キリコをちらりと見た。キリコは少し笑い、軽く頷いてみせる。ピノコは理解しきれないながらも、どこか大人びた顔を一瞬だけキリコに見せ、またすぐに幼女の顔に戻って、朝食のスクランブルエッグに手を延ばした。
「逆にどこに行こうか迷うね。この辺り、何でもあるんだ。今日はおとなしく美術館でも行ってみるのもいいんじゃない」
「この辺ならペイネ美術館かピカソ美術館が動きやすいな」
「ピカソは嫌だな。縫い直してやりたくなるから」
芸術に異を唱えるとしても酷い視点だ。気持ちは分かると言ったのはキリコだけで、ユリとピノコはノーコメントを貫く。
「初期はそうでもないぞ」
「でも結局縫い直したくなるような絵を描くようになるじゃない?」
「確かにな」
「そうだ、ピノコの新しい水着を買い足したいな。今のピンクのと青のも可愛いけど、オレンジのも可愛いと思うんだ。こっちにしかないデザインもあるし、買っておいていいと思うんだけど」
「黄色も欲しいのわよ!」
「じゃあ黄色も」
「本当におまえはお嬢ちゃんのことになると糸目を付けないな」
いつかのロンドンでも値札を見ずに高級子供服を買いまくり、挙句の果てにキリコのカードで会計をしたことを思い出す。社会的な見栄や人目があったとはいえ、今思えばよく自分もカードを切ったものだ。そのくせBJ自身は相変わらずの着た切り雀で、それが一番似合うと分かってはいても、恋人としては複雑な気分になってしまうことを否め得ない。
「水着ならおまえも買えよ。一着じゃ不便だろう。今だってランドリーサービスからまだ戻って来てないんだし、入りたい時に入れない」
「観光地にラッシュガードとか売ってる?」
「着るのかよ」
「あ、そっか」
ユリとピノコがぴたりと朝食を取る動きを止め、次にお互いにこそりと視線を交わす。見せたのかしら。見せたのかちら。あれは見たわね。あれは見たのわよね。
「──あーあ!」
不意にユリが伸びをしながら少し大きい声を出す。
「わたしも彼氏作らないと! 夏に一人なんてジュニア・ハイ以来だわ!」
「その前に風邪を治せ、今のおまえは病原菌だ」
キリコの声は苦々しい。その苦々しさが言葉の通りの理由ではないと誰もが分かるもので、BJとピノコはつい笑ってしまった。
それからBJとピノコは出掛ける服の選択──無論ピノコの服だけ──で大騒ぎになる。毎度のことだと知っているキリコはぎゃあぎゃあとやり合う二人を無視し、ユリに留守中の健康保持について注意をする。少しばかりしつこかったのか、うるさいわよ、知ってるに決まってるでしょ、と妹が怒り出す。キリコもキリコで医者の言うことを聞かない看護師なぞろくなもんじゃないと言い返し、ユリは更にエキサイトして、結局この部屋にいる女全員がぎゃあぎゃあとかしましいことになった。
キリコは耳を塞ぎたい衝動を堪えつつ、メイン寝室に逃げて自分の支度を終える。男の書斎が欲しいと思ったらまた来いよ──スペインのガリシアでそう言ってくれたレストランの店主を思い出して、今すぐ行きたいよ、と溜息をついた。それでも悪い気分ではなかった。
ピノコの支度が何とか終わり、BJはいつも通り、キリコはサマージャケットを羽織って部屋を出る。ユリも散歩がてらロビーまで行きたいと言い、一緒に行くことにした。
ロビーに降りた時、キリコがコンシェルジュに声をかけられた。諸事情で部屋の料金を無料にしたい、その確認をお願いしたいと言われ、諸事情とやらを理解したキリコは書類のサインのためにフロントへ行く。BJたちが考える間も与えず、控えていたホテルマンがロビーのソファを勧めてくれた。
「こういうのって絶対、男の人に声をかけるわよね。そろそろ時代遅れになるんじゃないかしら?」
「男を立てた方がスムーズに進む状況がある限りは中々なくならないんじゃないかな。私はどっちでもいいと思うけど」
「先生って結構、男を立てる方よね。ちょっと意外だったわ。もう慣れたけど」
「面倒だからやらせてるだけだよ」
「どうだか」
「ピノコ、ユリしゃんみたいなかっこいい女の人になりたくなってきちゃったのよさ。ちぇんちぇいが理想らったのに」
「ユリさんにしておきな。私はろくなもんじゃない」
「ほら、先生、またそうやって!」
「事実は事実じゃない?」
ソファで繰り広げられるのはいわゆるガールズトークだ。キリコがいれば無言を貫いて新聞でも開くかもしれない。
「あ、ギィしゃんら!」
ピノコがロビーに出て来た赤毛の男を目敏く見付け、愛想よく手を振ってみせた。気付いたグラディスも笑顔で手を振り返す。来るんじゃねえぞと言うBJの念も通じず、今度こそ本当に休暇に入った特殊部隊員は三人のソファの元へやって来た。
「おはよう。ドクターは?」
「宿代が無料になるから手続きに行ってるよ」
「そこまでの流れが分かんないけど予想はできた。何だよ、先生たち丸儲けじゃない。昨日のうちに情報料が振り込まれたはずなんだけど」
「別にいいだろ、正当な報酬だし、おまえさんの懐が1セントでも傷むわけじゃなかろうし。──その格好、出掛けるんだろ。さっさと消えな」
グラディスは若い男のリゾートスタイルにしては少し格式ばったジャケットを着ていた。ユリが思い出して「ああ」と得心した顔をする。
「もうご家族が到着するんでしょ? お姉さんが新しい彼氏を連れて来るから礼儀でジャケットなんじゃない?」
「ユリちゃん、当たり。これだけはあの件が長引けば良かったのにって思ってるよ」
「嫌そうね」
「嫌だよ。イギリス人らしいから。旅行中に知り合って付き合い始めたんだってさ。バツイチで子持ちのくせによくやるよ、ほんと」
「ええ、素敵じゃない、それ!」
「しゅてきなのよさ!」
あっと言う間に聞きたい聞きたいと顔中に書いた二人に溜息を押し殺し、BJはキリコを待つ。ちょうどキリコも戻って来て、何をしてるんだと苦笑した。
「あれ、ドクター。おはよう。お帰り」
「おはよう。何を話してるんだ」
「僕の姉さんの新しい彼氏の話。レディ二人が興味津々で」
「捕まったら最後だ、話してやれ。出掛けたいから手短に」
「イギリスに旅行してる時に引っ掛けた年下ってことしか聞いてない。僕と同い年だってさ。そう言えばドクターと先生の馴れ初めってどうなの」
ユリとピノコが顔を見合わせた後、グラディスへの興味を遠くへ捨て去り、新たに興味津々の顔になる。BJはグラディスを睨み、キリコは溜息をついた。それは今話す予定じゃない、とキリコが言おうとした時、ロビーの外に目をやったグラディスが「あ」と声を出して立ち上がった。釣られて視線を追ったキリコが眉を顰める。
「ワシントンから入国する予定だった将校ってのはあのオッサンか?」
「うん。あの人、陸軍の中将」
「知ってるよ。俺が軍にいた時は大佐だったが、随分出世したもんだな」
支配人が自ら恭しく挨拶に行く光景は、金が物を言う世界ではよく見かけるものだ。グラディスが誘拐事件の件を早く片付けたがった理由に、要は将校とその家族の身の安全を測ると言うものがあったのだが、まさかこのホテルだったとはな、とキリコは思った。いかにも上流階級の初老の男と品の良い夫人が支配人と話している。
「二人だけか? 佐官と4歳の子はどうした」
「よく覚えてるね。佐官はドクターの目の前にいるし、4歳の子は姉さんと新しい彼氏が連れて来るんじゃないの」
「……何だって?」
聞いていたBJはまずグラディスの顔を見て、次に遠目に見える中将の顔を見る。そしてなるほどと納得した。骨格が父子のものだ。遅れて納得したキリコは深く溜息をついてしまった。この男の家族のためにあれだけのことをさせられたのか。うんざりすると言う言葉では足りないほどにうんざりした。
「似てる。おまえさん、父親似だな」
「名医のお墨付きとはありがたいね。じゃあまた」
「何がまただよ。もう近寄るんじゃねえ」
「やだな、先生。今呼んだのはそっちでしょ」
ねえ、とピノコに笑いかけ、BJはこの赤毛が嫌いなのかもしれないとようやく感じ始めたピノコは「えへへ」と曖昧に笑って蝙蝠色に徹し、ユリは「でもこの男の子、使い勝手がいいからあまり仲悪くならないで欲しいわ」と密かに思う。
今度こそ家族の方へ歩いて行く男の背中を見送りながら、BJが息を吐き、「さて」と宣言した。
「あいつのことはもういいから、行くか。ユリさん、お土産は期待してて」
「ピノコがしっかり選ぶのよさ!」
「わあ、期待してる!」
またしばらくここで盛り上がってうるさいだろうな、とキリコは思いつつ、きゃっきゃと話す三人を横目にホテルマンを呼び、車のキーを渡して車寄せまでの移動を頼む。
何とはなしに移した視線の先にいたグラディスが、父親の中将と母に挨拶をしている姿を見た。中将の息子が特殊部隊に入るなどと聞いたこともなかった。あの父子はあの父子で何かあったかもしれない。だが内容はともかく、それはきっとどんな家庭でもあることなのだろう。
父と母に向かって笑うグラディスが年齢相応の青年で、しかし少しばかり、彼らの子供と言う立場で少し甘えた顔であることも分かった。何とも言えない気分になったが、こればかりはからかうことではないだろう。
「何だ、親の前ではいい子にしてるんだ? 父親が陸軍の権力者なら何で特殊部隊なんてやってるんだろ」
ユリとピノコとの会話から抜けたBJが恋人の視線を追って言う。
「色々あるんだろ」
キリコはそれだけを言った。あの青年が特殊部隊にいる理由が想像できてしまう身としては、それしか言えなかった。
「あいつも家族がいるなんてね。信じられない」
「そう言うなよ」
「でも、あいつも私たちが家族だって分かればおんなじことを思うかも」
「──うん?」
「あいつらにも家族がいるなんてね、って」
言いそうだな、と笑い、キリコはBJの髪に唇を落とす。スペインから四人がそう感じ始めていることは知っていた。それが正しいことなのかは分からないが、BJがそれを喜ぶのならそれで良いと思う。少なくとも自分を含めた他の三人は、BJが喜べば自らも喜べるのだから。
視線の先で小さな少女がロビーに駆け込み、子ども特有の歓声を上げて、赤毛の叔父に飛び付いて、抱き上げられる光景を見た。グラディスは笑っていて、姉の娘という少女も嬉しそうだ。
「この後にお姉さんと彼氏のご登場かな?」
「そうだろうな。何だ、まるで覗きじゃないか」
「車はまだ?」
「今、駐車場から回してもらってるよ」
「じゃあ見ざるを得ないじゃない? 目に付くんだから」
「目に入るって言ってやれよ」
ユリとピノコもグラディスたちに目を向け、お姉さん綺麗ね、お母さんも、と早速二人してチェックする。女は怖いとキリコが思う瞬間だ。BJも同性ながらキリコと同感なのか、チェック作業には合流しないと決めたようだった。
それからしばらくして、キリコとBJは顔を見合わせる。ピノコも「あれぇ?」と言って、それからBJをつついた。
「ちぇんちぇい」
「うん」
「あのひと──」
「……うーん……」
「……あっちょんぷりけ……」
難しい顔をしてしまったBJとピノコの横で、たまらずキリコは笑い出してしまった。ロビーの人々の注目を集めすぎない程度の笑い声だが、キリコにしては本当に痛快だと思った時にしか見せない笑い方だったものだから、BJは「ちょっと」と諫めつつも、しかし自分も笑い出してしまったのだった。二人の滅多にない大笑いを見てぽかんとするユリには悪いが、後で事情を説明することにした。今はとにかく痛快で、笑いたい。
笑いながらBJが思わず「あれ絶対お互い嫌だろうな」と言って、同意したキリコとまた笑ってしまう。特にBJは、あれだけ嫌な思いをさせられた赤毛の男の今の姿を見るだけで溜飲が下るような気がした。
視線の先には表情筋だけで作った笑顔を貼り付けたグラディスと、おそらく新しい恋人のことを紹介しているのであろう嬉しそうな姉と、そして──イギリス軍特殊部隊SAS軍曹、BJたちにはアンディと名乗っている青年がいる。
そのアンディが洒落にならない量の冷や汗をかき始めたであろうこと、グラディスが義理の兄となりかねない人間をどうやって殺そうかと考え始めたであろうことを見抜き、さてどうなるかと二人の黒い医者はにやにやと黒い笑顔を浮かべて観察する。だがホテルマンがお車をご用意致しましたとちょうど呼びに来てしまい、この先を見ることはかなわなかったのだった。