部屋の電話が鳴る。受話器を取ったキリコはしばらく話をしていたが、違和感を覚え、やがて保留ボタンを押し、グラディスを呼んだ。
「何」
「フロントから。ミラー少尉が俺に会いたいと言って来ているそうだ。何か聞いているか?」
「──いいや、何も」
キリコは自分の違和感が正しかったのだと知り、頷く。親が子の危機を救ってくれた恩人に直接礼を言うことは珍しくない。だが軍に報告が入り、本国の陸軍少佐が関わった以上、当の少佐に無連絡で会いに来ることは考えにくかった。休暇中とはいえ、軍人が関わり、誘拐未遂という性質上、全てを記録に残さなければならない事件だからだ。
「有りか? 無しか?」
「そりゃドクターが好きにすればいいけど。会うならこれ使ってもらっていい?」
「──おい、この部屋に付けてねえだろうな」
「今のところはね」
「ったく」
うんざりしながらキリコは小型の盗聴器を受け取る。グラディスはそのまま、今度はドアを使って部屋を出て行った。それからキリコは保留を解除し、10分後に部屋へ、と言った。
「ロクター」
困り顔で寝室から出て来たピノコを見て、キリコは自分の不覚を認めた。彼女のことをすっかり忘れていた。──何てことだ、最高の女に最低なことをしてしまった!
「ごめん、お嬢ちゃん、ちょっと立て込んでたんだ。待ちくたびれたよな」
「ちぇんちぇいは?」
「あの──そう、赤毛と喧嘩をしてね。気分を直しに外に出てる」
本当は俺と、という言葉は飲み込んだ。ここは赤毛の男に責任転嫁だ。それから、ミラー少尉が来る前に説明してしまうことにした。
もうすぐBJとピノコだけが先にフランスを出国すること、そのための護衛の手配をしにBJが外出していること、ユリの面倒はキリコが診るから心配しなくて良いということ。
全てをおとなしく聞いていたピノコだったが、やがて悲しそうな顔をした。
「ユリしゃんが良くなったら、また一緒に遊べると思っれたのに。リヨンでお買い物ちて、ちぇんちぇいに似合う服を買って、驚かせてあげようって言ってたのわよ」
「そんな素敵な計画があったのか。お嬢ちゃんは最高だね」
買ってやっても着ないだろうに、とは言わなかった。着ないかもしれないが、無下にすることはない女だ。そういえばいつかのロンドンで買ってやった服はどうなっただろう。
「ユリが良くなったら俺たちも出国するよ。またすぐ会える。先生がこの後、どこに行くかはまだ分からないけど、崖の家の上だって他の場所だって、会いに行くから」
「ユリしゃんも?」
「もちろん。まだ夏は終わってないんだ。俺たちを待っててくれるよな?」
ピノコは唇を噛み、大きな瞳を潤ませて頷いた。我儘を言ってはいけないと大人びた彼女が頷かせ、それでも休暇が台無しになってしまうことを悲しむ幼い彼女がせめぎ合っている。キリコはピノコと出会って初めて、彼女を抱き締めていた。
「ちぇんちぇいには内緒にしておいてあげるのわよさ」
鼻をすすりあげていては、その高飛車な言葉も幼い強がりだ。ユリもこんな子だったし、そして今もこんなものだと思い出し、それはありがとう、と笑いながらキリコは言った。
「──まあ、ふたりとも、わたしが知らない間になんてこと!」
わざとらしい驚愕の声を上げたのはBJだ。用事を終えて戻って来た途端に目に飛び込んで来た光景に驚き、それから笑う。ピノコは慌ててキリコから離れ、ちぇんちぇい、違うのよさ、と手を振り回しながら説明しようとして大人二人を笑わせた。
「マフィン、どうなった」
「ああ、ええと──あいつがいないってことはどうせ盗聴器があるんでしょ」
「ここに」
「うわ、ここまで分かりやすくなったのか。あいつ、また何か自棄でも起こしてるんじゃないの」
「これから人と会うって言ったら置いて行ったんだよ」
「人と?」
「まあ、いいから先に。あと5分もすれば来るから」
BJは肩を竦め、指先に乗る程度の小型盗聴器に向かって呼びかけた。
「Hello、聞こえるか? オカマの赤毛ちゃん」
無線機ではないので応答はないが、受信機を前に軍人男性として最大の侮辱を受けて苦い顔をするグラディスの顔が見えるようで、キリコは笑いを堪えた。
「フランスにいる幼馴染に連絡をしたら、明日迎えに来るまではホテルにいて欲しいと言われた。正確な時間は未定だが夕方を過ぎることはない。理由も聞いたがアメリカ人に言う筋合いはない。ただし法に触れるような真似はしない。幼馴染本人が来ることはない。迎えが来たら私たちはワシントンに行く。キリコの家を勝手に使っちゃまずいならロンの家に行くから心配しなくていい」
世界最強の人間の名前をあっさり出したBJの澄ました顔にたまりかね、遂にキリコは笑い出した。釣られたようにBJも笑いながら続ける。ピノコはぽかんとして二人を見ていたが、やがて嬉しくなって一緒に笑い出した。
「ただし私たちも無理矢理ワシントンに行きたいわけじゃないんだ。明日、迎えが来るまでに問題が解決すれば、このままここで過ごす予定だよ。これはどうこう言われる筋合いはないからな、文句を言うんじゃないぞ。──とりあえず以上。おしまい」
キリコに盗聴器を投げ付け、「誰が来るの」と訊く。
「俺が助けた女の子の父親。ミラー少尉。俺に会いたいっていきなり来た」
「え、個人の判断で? グラディスを通すかと思ってた」
「何かない限りあいつらは接触しないらしい。まあ、赤毛の立場が立場だからな。一般兵と関わることはあまりないだろう」
「ふうん。そういうものなんだ? ──どうしよう、私とピノコはいない方がいい?」
「どちらでも」
BJは少し考え、「ピノコとパティオにいる」と告げた。ピノコに先に行かせ、キリコに身体を寄せる。キスして欲しいのかな、とキリコが思うと同時に見上げながら言った。
「ちゅーして」
いきなり言われて何かと驚くほどBJのことを理解していないわけではない。キスをして抱き締め、耳元で「それで?」と囁いた。台詞は違うもののこんな遊びをしていた遠い過去を思い出して、そしてそれがそれほど遠い日々ではないことが不思議だと思う。BJが小声で明日のための連絡を囁き、了承の意味でもう一度キスをした。
同時に部屋のノッカーが叩かれる。キリコの腕の中からするりと抜け出し、上目遣いで見上げてから「叩いてごめん」と言い残し、BJはパティオに消え、本当に可愛くて困る、もう少しきちんとキスをしておけばよかった、と思いながら、キリコはミラー少尉を迎えるためにドアへ向かった。
妻と娘を宿泊するホテルに残し、一人で来たと言うミラー少尉は、軍人らしくきびきびとした態度で挨拶をした。キリコに丁寧に礼を述べ、娘を一人にした自分を恥じる。
「旅行先で気が緩みました。本国では絶対にやらないことです」
「私があなたの行動を評価する必要があるとは思わない。結果としてメラニーに危害が加えられることがなかった、それだけの話だ」
「ありがとうございます」
礼儀としてリビングに通し、コーヒーを出してやる。年の頃はBJと同じ程度だろう。メラニーの年齢を考えれば不思議ではない。俺の恋人にもメラニーくらいの娘がいてね、と言うと、じゃあ連れてくれば良かったとミラーは言った。
「知らないおじさんのホテルに連れて行かれるのもストレスだろう。機会があれば──しばらくはアンティーヴに?」
「ええ、今週一杯は。先週から来てるんですが、良いところですね」
「──他にもアメリカの陸軍兵士がいる。あなたの知り合いかもしれない」
「え」
手に取りかけたコーヒーカップが僅かに揺れ、かちゃりと音を立てた。キリコはそれを見逃さなかったが、盗聴器に向かって説明してやる義理もなかった。
「誰かな。名前は?」
「いや、私の友人と言うわけじゃないんだ」
嘘ではない。あの男が友人などとうんざりするし、BJなら「鳥肌が立つ」とまで言うことだろう。
「有名な避暑地だし、ここで休暇を過ごす陸軍兵士がいてもおかしくないよ」
「そうですね。第7師団も人数が多いから、もし同期でも分からないかも」
「確かに。──せっかくの休暇だ、楽しんで」
手を差し出して腰を浮かせると、察したミラーが握手をして同時に立ち上がる。
「恋人さんのお嬢さんに挨拶をしてもいいですか? 娘に会えることがあったら、遊んでもらえるようにお願いしておきたくて」
同時に恋人にも挨拶したい、ということだ。アメリカ人の礼儀としてはよくある要求で、事情次第ではあるが、特に拒否する必要もないとされる。恋人ではなく娘を指定したあたり、男女の仲についてのマナーを知っている男なのだろう。だからこそキリコは溜息をつきたくなる。
──馬鹿をやりやがって。旅行先で羽目を外すもんじゃない。
「恋人はちょっと、人前に出たがらないかもしれない。待っててくれ」
パティオに出て簡単に事情を話すと、案の定、BJは「面倒くさい」と言って拒否した。傷で驚かれるのも嫌だし、その後に欧米人独特の「気にしないよ!」と慈悲深く上から目線の笑顔を押し付けられることにも飽きている。分かっているキリコは無理を言わず、ピノコが「いいわのよさ」と言って立ち上がった。
ミラーはピノコを何て可愛らしいお嬢さんなんだと褒めちぎり、自分の娘の写真を見せる。同じくらいの歳なんだ、もし会えたらぜひ遊んであげて、と言い、ピノコはBJ譲りなのか、完璧な幼女の演技で恥ずかしがる振りをしてキリコの脚にしがみつきつつ、分かったのよさ、と返事をしていた。
ドアまでの見送りに向かおうとすると、驚くべきことにピノコがキリコに抱っこをせがむ。驚愕を隠して抱き上げたキリコの耳元で、「依頼料は苺のアイスクリームなのわよ」と囁いた。
血が繋がっていないはずなのに、この子は確かにあのクソビッチの娘だな、とキリコはしみじみ思った。だからこの子はいい女なんだな、とも。
「帰ったよ。お嬢ちゃんに苺のアイスクリームをオーダーするんだが、おまえは何かいるか?」
「そんなの食べていいなんて言ってない! ピノコ、キリコに何を言ったんだ!」
「依頼料なのわよ!」
「俺が依頼したからな、払わないと。なあ?」
「ねえ?」
二人で顔を見合わせてにんまり笑う。いつの間にか意気投合していた恋人と娘にBJは溜息をついた。
「お腹を壊しても知らないからね。──ユリさんに冷えてないオレンジを。飲む時に絞って。夜は食べられそうならリゾット、柔らかく炊いてもらって。今から頼んでおいて。私は何もいらない」
「イエス、マァム」
女性の上官に返事をする時の呼称を口にし、キリコはリビングの電話へ戻る。歩きながら胸ポケットの盗聴器を出し、「ドアノブの裏側に貼っておく。早めに持って行け」と言ってから受話器を取った。
ピノコには気が引けるものの、まずは自分は何もいらないと言ったBJのためにチーズとドライフルーツのプレートを頼んだ。何も頼まなければ頼まないで機嫌を損ねる面倒な女だ。そこが可愛いんだけどね、と心の中で呟き、全員分のオーダーを終えてから盗聴器をドアノブの裏側に貼り付けに行った。
ユリは眠り続け、体力の回復に専念している。BJとピノコが出国してからのメンタルケアの医療計画を考えながら、キリコは時間を過ごした。ユリの精神面が現状で深刻であるとは思えないが、念には念を入れておいた方がいい。
ピノコはプールで遊んでいいと言われても、ユリの世話をすると言って譲らない。諦めたBJはピノコを褒め、ワシントンに行ったらホワイトハウスに連れて行ってあげると約束していた。
夕暮れ時に起きたユリにオレンジを絞って飲ませると、少し熱が下がったユリは溜息をついた。
「にいさん」
「うん?」
「先生に、もっと可愛いとか愛してるとか、綺麗とか。言いなさいよ」
「……言ってるよ。何なんだ、おまえ」
「熱のせいよ」
「そういうことにしておいてやるよ。もう黙れ」
「病人の言うことは聞きなさいよ。セックスの時しか言わない男なんて最低よ?」
キリコは唸りたくなる。可愛い妹からそんな単語を聞きたくない。いや、ユリも良い歳だ、言っても構わないのだが、やはり兄心というものが邪魔をする。そして「そんなに言ってなかったっけ」と自問自答した。──いや、ちゃんと言ってる……いや、まずいな、たまには言うけどあまり言ってないな……あれ、フランスに来てからセックスの時以外に言ってないんじゃないか?
「何なのよ。あんなに自分を卑下しちゃって。あんなに素敵なのに、本当にそう思ってるんだから始末が悪いわ。わたし未満の女の前で言ったらはっきり言って嫌味にしかならないわよ」
「何があったんだ」
怒りにも似た感情をBJに向けている妹を初めて見て、キリコは流石に焦る。内容はともかくとして、具合に響かない程度に話を聞くべきだと決めた。何かあったのなら把握しておいた方がいい。いくら気が合っているように見えても、女同士は一度こじれると面倒だと過去の経験からよく知っている。
「にいさんが自信をつけてあげないから、いつまでも先生は自分が劣ってるって思うのよ。もうね、劣等感の塊。水着くらい見せてあげればいいのに、何であそこまで卑下するのかしら。着てるってことは受け入れてるってことなのに、最後の勇気が出せないのはにいさんのせいよ」
何があったかはいまだに分からないが、水着を恋人に見せるかどうかの話でもしたのだろう、という予想はついた。ユリの言いたいことは分かる。だがBJの心が分からないわけでもない。
これはユリの──自らを美しいと知り、美しさを保つ努力に成功している女の傲慢だと思った。どんな分野でも成功者にありがちな、努力を放棄する者を理解できない思考だ。
自分もそんな時期があったからこそ分かる。あのベトナムで経験した挫折の記憶が左目の奥に巣食ってから、初めてそんな自分が傲慢だったと知ったのだ。
「おまえ、それをあいつに言ったのか」
「怖い顔しないでよ。いやあね、先生のことになると目の色変えちゃって」
「ユリ」
滅多に聞かない厳しい兄の声に、ユリは溜息をついた。
「もう少し優しく言ったわ。わたしだって先生を傷付けたいわけじゃないんですからね」
「正しい選択だよ。──分かった、改善する。教えてくれてありがとう」
「水着だけの話じゃないんだから。何もかもよ。自信をつけてあげられるのはにいさんだけなんだから」
「分かった、分かったよ。もう寝ろ。後で薬を持ってくる」
ユリは大きく息を吐き、熱のこもった身体を再び毛布に埋める。まったくもう、と顔を隠して呻いた。
「妹に言わせないでよ。こんなこと、熱がなきゃ言えないわ」
「──悪かった。ありがとう。愛してるよ」
「わたしに言うんじゃないわよ、馬鹿! 愛してるわよ!」
キリコは笑い、毛布越しに家族のキスをして、妹が傲慢なままで人生を送れるようにと心から願った。
夕飯と風呂を済ませ、BJがピノコをメイン寝室で寝かし付けにかかる。ロンドンでも川の字で寝ている三人は、今夜もそうなることに抵抗がなかった。
お嬢ちゃんの心がもう少し成長したら無理だろうなと思いつつ、キリコはパティオのラタンソファに移動する。ユリも昏々と眠っている。あとはたまに様子を見に行けば問題ない。酒だけは我慢して、炭酸水にライムを絞ってから煙草を咥えた。
メイン寝室から静かにBJが出て、そのままコネクティングルームに入って行く気配を知る。しばらくしてまた静かに出て来て、やっとパティオに顔を見せた。手に医学書を持っている。ユリの様子を見る合間に読むつもりだろう。
「熱、少し下がってた。38.5℃」
「助かるな。明日中に37℃台まで下がるといいんだが」
「他も異状ないし、そうなるかもね」
「何か飲む?」
「ノンアルコール。甘いのにして」
「仰せのままに」
妹のために好きな酒を我慢する女に感謝した。髪にキスをしてからミニバーへ入り、さて何にするかと考える。しばらくして思い付いたものを作り、俺は本当に妹に弱いな、としみじみ思った。
「ありがと。何これ」
「『可愛い子猫ちゃん』」
「何それ、可愛い」
BJは機嫌よく笑い、ラタンソファに深く寄り掛かって口に運ぶ。美味しい、と言った。おおよその女性なら同じ反応をするだろう。そんな味だし、そんな名前だ。
「よっと」
「何なに」
ラタンソファに上がったキリコの膝の間に背後から抱き込まれ、BJはまた機嫌よく笑う。ああ、可愛いな、とキリコは思う。だから言った。
「可愛い」
「何、いきなり」
「可愛い。──可愛いんだよ、おまえ」
ふうん、とBJが言い、膝の間でもぞもぞと動く。照れているのだろう。改めて可愛いとキリコは思った。照れた自分を誤魔化すように本を開き、キリコの膝の間で読み始める。まだその本を読んでいなかったと気付いたキリコはBJの肩に顎を載せ、腰に腕を回し、一緒に読むことにした。
そのうち、本の内容よりもユリに言われたことに意識が向いてしまう。家族に、可愛い妹に言われる内容としては少々衝撃が強かった。恋愛で手抜きをしていると言われたも同然だ。手抜きをしているつもりはないし、自分に正直になれば、この面倒くさい女を相手にして随分うまくやっているという自負がある。
しかしユリの指摘はシンプルながらももっともで、そして基本中の基本だったことも分かる。まさかよりによって、BJにそれを怠っていたとは自分でも衝撃だった。むしろこの面倒な女にこそやるべきことだったのではないだろうかとまで思う。
「ちょ、ちょっと」
BJが焦った声を出したが、思考に沈んだキリコの耳には単なる音声としてしか届かず、脳での理解に至らない。
あまり健全なことではないが、昔の女たちを思い出してみる。特にベトナムで負傷する前、自分自身が優れていると無意識に思っていた頃の女たちだ。一人ひとりの名前もほとんど覚えていなかったが、なるほど、確かに、と呻きたくなった。
「ちょっ、と、キリ……」
なぜかもぞもぞとBJは動いているが、思考の淵に立ったキリコは意に介さない。むしろ動きが邪魔だと感じ、膝をぎゅうと閉じてBJの動きを封じ込めてしまった。
なるほど、確かに。キリコは認めた。今よりも若かったということを加味しても、明らかに彼女たちに可愛いだの綺麗だのと褒め言葉を惜しみなく与えている自分が蘇る。それは女の機嫌を良くするための世辞ではなく、本当にそう思っていたからだ。思うたびに口に出す若い自分は、聞いた途端に嬉しそうに笑う女たちが好きだったのだと思う。
「や、……だめ」
押し殺したBJの声が可愛いと思った。だから言った。
「可愛い」
「……っ!」
息を呑んで動きを止めたBJを可愛いと思い、そしてまた思考に沈む。──多分、俺はこいつに甘えてるんだろうな。そんなこと言わなくても大丈夫、って。
だがユリの話で、実際はそうでもなかったのではないかとやっと気付いた。そしてもしかしなくても、BJの容姿に対する劣等感を都合よく解釈していた自分がいる。
「だめ、だ、め、やだ」
ひ、ひ、と声を殺そうとして失敗しながら身体を丸め、本に顔を押し付けている理由がよく分からないが、可愛いと思う。だから言った。
「可愛い」
「──っ!」
声にならない悲鳴を上げるBJが可愛い。また可愛いと言うと、再度声なく悲鳴を上げてびくりと身を震わせた。
劣等感。キリコは考える。容姿に対する劣等感は並ではないし、かと言って整形で傷や肌に触れることは本間教授の芸術だからと拒む。どちらも理解できて、そして日常に馴染み過ぎてしまって、いつの間にか一切触れなくなっていた。意識するのは誰かが彼女の傷を指摘したり、揶揄する時だけだ。彼女は傷付く顔を隠して本当は哀しみ、そして自分は怒りを覚える。──俺はその時にどうして言わなかったんだろう。嘘じゃないことを、俺が思う本当のことをどうして言わなかったんだろう。
そうすればBJは笑ったかもしれないし、笑わないにしても、二人のその時の記憶は哀しみや怒りの感情で終わることはなかったはずだ。言えばいい。今からでも、いつでも。
「可愛い」
「ぁ、もぅ、きり、こ」
「可愛い。──可愛い。クロオ。愛してる」
「──ッ!」
その瞬間、BJの身体がびくびくと大きく痙攣した。その痙攣がキリコにも通じ、何事かと驚いて思考の深淵から立ち戻る。
そして荒い息を付いてぐったりとキリコの膝に身体を預けるBJを慌てて支え、嘘だろう、と青ざめた。
嘘だろう。──嘘だろう、こんなことは初めてだ。
「きり、こ」
荒すぎる息は声を抑え続けたからだ。ゆっくりを顔を上げ、キリコを見上げる──正確には睨み上げる──BJの目元は真っ赤に潤み、明らかに快楽を極めた風情をありありと男に知らしめる。怒りと共に。
「この、変態。──変態!」
病人と眠った娘に配慮してか、抑えた、だが確実に怒りを湛えた声を酷い言葉と共にキリコに投げつける。キリコは言い訳もできず、無論反論などできようもなく、ごめん、ごめん、と真剣に謝りながら、反面、どうして俺の手はその感触を全く覚えていないんだ、と悔しくてならなかった。
「変態!」
「申し開きできない。甘んじて受ける。ごめん」
「この、変態、馬鹿! いくら広いからって、ぴ、ピノコと、ユリさんが、同じ部屋にいるのに……っ!」
「すみません、ごめんなさい、反省してます、ごめんなさい、痛い痛い」
馬鹿、変態、ひどい、最低、とあらゆる言葉を尽くして涙目で罵る女がぼかぼかと容赦なく叩いてくることに任せ、キリコは悔しさから漏れてしまいそうな溜息を必死で堪える。ここで溜息などつけば恋人にこの部屋から追い出される未来が確定するだけだ。
それにしても悔しい。悔しくてならない。──俺の手はいつの間にこいつの胸を好き放題していたんだ。真面目に考えてたってのに。しかも胸だけでこいつがいくなんて信じられないことなのに、何も覚えていないってどういうミスだ!
それから誰かが見ればあれは本当に死神なのかと疑うであろうほど、なりふり構わない努力で機嫌を取り、長い時間をかけて何とか許しを得て、やっと溜息をつくことができた。
その溜息が気に入らなかった女の眉が跳ね上がりかけたが、もはやそれも可愛いとしか思えず、可愛い、と言ったら、生娘のように顔を一気に赤くして、ああ、やっぱり可愛いな、と改めてキリコは強く思う。そして、セックスの時しか言わない男なんて最低よと妹に言われたことを思い出し、本当におまえは最低だと自分に対して言ってやりたくなったのだった。