こんなふうに 05

 翌朝、ユリの熱は38℃前半まで下がっていた。予断は許されないが、安心できる状態になったと言っていい。食欲はないものの、朝食も多少食べ、おとなしく点滴を受けて回復に専念する。点滴の速度を勝手に速めたあたりは流石看護師だ、と見てしまったBJは笑った。見られたユリは恥ずかしそうに笑った。
 それからキリコが今後の別行動について説明する。ユリはひどく残念がったが、体調を崩してごめんなさい、とBJとピノコに謝り、逆に二人を慌てさせた。
「ユリしゃん、元気になったらロクターと会いに来てなのよさ。ピノコ、待ってるのわよ」
「もちろんよ。そう言ってもらえて嬉しい。ありがとう」
 それからユリは溜息をつく。
「先生、ごめんなさいね。にいさんと離れて寂しいでしょう」
「──え、いえ、そんなこと」
「駄目よ」
 ユリがびしりと、だが優しい顔で言った。
「寂しいって言いにくかったら、こんなふうに答えればいいんです。『少しだけね』とか、『電話するからいいの』とかね」
 BJは苦笑し、ユリは笑う。聞いていたキリコは何とも居心地が悪く、ピノコは一同を見回して、ここは何も気付かない幼女の振りを貫いた方が良いと判断し、その通りにした。
「ね、先生」
「はい」
「にいさんと離れて寂しいでしょう?」
 たまらずBJは声を出して笑い、ユリも笑う。それからBJは言ってみせた。
「少しだけね。でも、きっと彼が電話をくれるから平気よ」
「──その言い方、素敵! わたしも真似したい!」
「誰に言うんだ? ユリ、もう少し休め。先生とお嬢ちゃんは荷造りだ」
 思わず口を出したキリコの声は苦々しい。BJとピノコはくすくす笑い、手を繋いでコネクティングルームを出て、自分たちの荷造りを始めることにした。
「にいさん」
「うん?」
「言った?」
「……まあ、うん」
 厳密に言えばあれはセックスじゃないし、セーフだろう──自分すら騙せないと分かっていながら曖昧に返事をする。しかし鋭い妹には通じない。あからさまに不機嫌な顔になり、まったくもう、と呟いた。
「逃げられても知らないからね。先生、劣等感はともかく、一人でも生きていける人だってことを忘れない方がいいわ」
 キリコは深く、深く溜息をついた。
「たまには家族旅行もするもんだな、自分の未熟さがよく分かる」
「でしょう。じゃあ、先生とプールに入ってらっしゃいよ」
「私どものことはご心配なく、ご親切にどうも。どうぞ療養に努めるように」
 妹の追撃にのっぴきならなくなったキリコはドクターの顔を作り、ユリを笑わせたのだった。
 リビングに戻ろうとすると電話が鳴る。キリコが出ようと足を速めたが、先にBJが取った。フランス語でフロントと簡単にやり取りをし、電話の相手が誰かに変わる。誰だと思う必要もないほどすぐに分かった。BJが日本語を話し、そして表情が和らいだからだ。間久部だと当たりをつけ、リビングに置いてあったBJの数冊の本を健気に運ぶピノコを手伝ってやる。
「お嬢ちゃん、レディの秘密だけ荷造りしたら、後は俺がやってあげるよ。最後にプールに入っておいたらどうだ。ワシントンで俺が使ってるフラットには流石にプールがないからな」
「あらぁ、ロクターったらジェントルメェンなのよさ! れもピノコは荷造りをしたらユリしゃんのお世話を最後までするのわよ。ピノコのプライドなのわよ!」
「流石だね、何も言えないよ。ありがとう」
 とはいえ、ここには医者が二人もいるのだ。ユリ自身もかなり動けるようになっていることだし、ピノコがそこまで精を出す必要はない。BJが電話を終えたら話をしてもらおうと思った。BJもピノコを少しでも遊ばせたいと思っているはずなのだから。
 そのBJは電話の向こうに頷く一方だった。うん、うん、と日本人独特の相槌を打ちながら煙草に火を点け、灰皿が傍にないことに気付いて慌てる。ミニバーに行くために通りすがったキリコは灰皿を置いてやり、頬にキスをしてミニバーへ向かう。ピノコに少し洒落たノンアルコールカクテルを作ってやりたかった。
「──分かった、じゃあそうしてくれると助かるよ。また連絡する」
 電話を終えたBJがミニバーへやって来る。材料を揃えていたキリコはグラスをもうひとつ用意し、同じものをふたつ作ることにした。
「間久部が」
「うん?」
「17時に、ここに迎えを寄越す予定になったってさ。今のとこ」
「今のとこ」
「うん」
「そうか。まだだいぶ時間があるな、ゆっくりしてろよ。お嬢ちゃんをプールに入れてやれ。俺が言っても聞かなくてね」
 先にひとつ作ったノンアルコールカクテルをBJに渡す。
「ありがと。──赤毛に言った方がいいのかな? あいつ、盗聴器仕掛けてないみたいだし。電話に雑音が入らなかった」
「あいつの任務は俺の護衛だけなんだし、おまえが義理立てしてやる必要もないだろう。──おまえは優しいな。いい女だよ」
「……何、いきなり」
「思ったままだ。可愛い」
「──やめてよね、ピノコが起きてるんだから」
「もうあれはしない、悪かったよ」
 昨夜の蛮行をまだ根に持っている女に苦笑し、ユリのアドバイス通りにするには中々の労力が必要になりそうだと知った。
 プールに入らない、ユリしゃんの看病をすると気炎を上げ、プール遊びを拒んだピノコだったが、BJに「キリコのカクテルをプールサイドで飲んでいいよ」と言われると表情に迷いが生じた。キリコが作ってくれるノンアルコールカクテルは洒落ていて、大人びているし、ピノコが知る他の場所では飲めないほど珍しくて美味しい。どこに行っても単なる果汁ジュースが精々の身としてはかなり魅力的だ。
 見た目通りの年齢ではない女の迷いに気付いたキリコは、飾り切りをしたフルーツを少しグラスに足してみせる。ぐうう、とピノコは唸った。
「……ちぇんちぇいがいたパラソルのとこで、飲んでいい?」
「もちろん。それ、素敵じゃない?」
 BJが笑って抱き締め、頬ずりをすればピノコも笑って決まりだ。可愛い水着に着替えてプールサイドに出てパラソルの下に陣取り、わざとらしいまでに恭しくキリコが運んでくれたカクテルを手に、こまっしゃくれた態度で彼女の考え得る限りの「いい女」を気取る。何であんなに可愛いの、と親馬鹿を発揮するBJに、キリコは笑ってキスをした。
「ユリのことはいい。もう俺が引き継ぐ。お嬢ちゃんを見ててやれ」
「うん、ありがと。着替えて来る」
「ああ」
 ピノコが水に入りたがった時のために水着になるのだ。しばらくしてやはりあのラッシュガードとトレンカ姿で現れたBJは、キリコを見ないでプールサイドへ向かう。たちまちピノコが「何れ水着じゃないのよさあ」と不満を言い、BJは下に着てるんだからいいんだよと答えていた。
 コネクティングルームが近いリビングのソファでユリの気配に気を付けつつ、プールを眺める。ピノコが浅い場所で水遊びを始め、BJもパラソルの下から出て付き合っていた。キリコから見ればこの上なく可愛い光景だ。BJも楽しそうだった。それでキリコは満足し、水着のことは頭から消えてしまった。
 水に膝まで浸したBJが視線に気付いたように不意に顔を上げ、キリコと目が合う。キリコが微笑むと微笑み返された。可愛いな、と思った。可愛い、と唇を動かすと、BJは目を見開き、それから赤くなって、慌ててキリコから視線を逸らす。それもまた可愛くてキリコは満足した。ノッカーが叩かれたのはその時だ。グラディスだった。
「どうした、寂しくなったか」
「そんなわけあるか、死ね。ユリちゃんの具合は?」
「38℃台まで下がった。あとは寝てればいい」
「よかった。──ちょっといい? 玄関でいいから」
「遠慮するおまえさんが気持ち悪いんでな、リビングに来い」
 ユリの部屋からあまり遠い場所にいたくないんだ、と付け加える。得心したグラディスは中に入り、勝手にミニバーへ寄ってミネラルウオーターを引っ張り出した。キリコはこの男の所業にはとうに諦めがつき、文句を言う気にもならなかった。
 プールにいたBJがグラディスに気付き、本気で嫌な顔をする。キリコは苦笑し、グラディスは笑顔で手を振って今日最初の嫌がらせを完了させた。
「ミラー少尉とお嬢さん──メラニーが姿を消した」
 キリコが話を促す前にグラディスが口を開いた。キリコは言葉の意味を充分に理解してから「それで?」と問う。
「奥さんが大使館に連絡して、ちょっとイレギュラーだけど駐留軍の方で奥さんを保護した。少尉のとメラニーの行先は奥さんも知らない」
「白状な男だな」
「それで」
「うん?」
「何か知ってるんでしょ」
「どうしてそう思う」
「先生とピノコちゃんが出国することにしたのに、いくらマクベの迎え待ちだからって、のんびりプールなんか入るはずがない」
「ふむ、そういう見方もあるにはあるな」
 相変わらず無駄に頭が回る男だ、とキリコは面倒になる。部屋に入るまで二人がプールに入っていることなど知るはずがなかったのに、入っていると知った途端にキリコへ話す内容を再構成したのだろう。
「頼む。──何か知ってることがあれば教えてくれないか」
 キリコはつい、まじまじとグラディスを見た。この男の言とは思えなかったし、声音にいつもの軽さがない。真剣な声は陸軍少佐そのもので、キリコの過去にいた彼、あるいは彼らを思い出させるものだった。
「知りたい理由は?」
「自国民保護」
「ミラー少尉とメラニー?」
「それもある。ただ、明日ワシントンから入国する一家の中に4歳の女の子がいる。今回の誘拐で狙われやすいタイプだ。ミラー少尉とメラニーが誘拐組織に拉致されたとしたら、すぐ入国をストップさせたい」
「今後来る観光客も全員ストップさせるのか?」
「そこまではまだ。ただ、その一家は米軍の将校が一人、佐官が一人いる。これで察して欲しい」
「なるほど、そういうことか」
 キリコは呆れることもなく頷いた。正義の国の正義の軍でもそんなものなのだ。よく知っていた。
 要は軍の高官一家が入国する、その娘なり孫娘なりに何かあっては大変──そんなところなのだろう。自由奔放だが軍に忠誠を誓うグラディスが真剣である理由も分からなくはない。
「俺が言うのは礼儀にもとる。あいつが知ってる情報だからな」
「またロクロー・マクベかよ。できてんじゃないの、あの二人」
「俺にバレなきゃいいさ」
「わあ、オッサンのやせ我慢」
「大人の余裕の間違いだ。ユリが呼んだら教えてくれ」
 確かにこいつから見れば俺もオッサンだろうよ、と苦々しく思いつつ、プールサイドへ向かう。
「マフィン」
 ピノコを少し深い場所でビニールボートに乗せてやっていたBJに「そこにいていいから」と前置きしてから話を振る。
「グラディスにいくらで売る?」
「ここ、一泊いくら? 円で」
「無理を言った分を足してこの部屋が28万、お嬢ちゃんたちの部屋が12万」
「じゃあそれ全部、今日までの分。わたしの口座に」
「俺のカードで前払いしたのに、何でおまえの口座なんだ」
「ハン、細かいこと言わないで。男らしくないわ」
「可愛く言っても無駄だ、侮るなよ」
 言いつつ、間違いなくそうなるのだろうと溜息をついてリビングへ戻ろうとする。ちょうどユリがナイティ姿でコネクティングルームから出て来て、グラディスを見て「やだ!」と女性らしい態度で飛び上がり、慌てて戻ったところだった。グラディスがミネラルウオーターのボトルを持って立ち上がり、「男が落ち着けない家だな」と溜息混じりにキリコに言ってパティオに出て来る。
 キリコは苦笑して場所をパティオに移す。ユリも一人で動けるようになったのなら安心だ。やがて着替えたユリがリビングに出て、グラディスを睨み付けてからパウダールームへ消えた。
「ノーメイクでも美人だね、びっくりした」
「我が妹ながらそう思う。──情報料がとりあえずこれだけだ」
 指で示すとグラディスは大きく溜息をつき、それでも「分かった」と答えた。
「先生がくれる情報ならその価値がある。けど、高いなあ。また経理に文句言われるよ」
「別に俺たちはおまえに情報を売るほど困窮してないんだ。ボランティア意識だぞ」
「アウトローの図々しさは僕の殺意を殺ぐよ。──で、教えてくれる?」
 普段なら現金で先に寄越せと言うところだが、この男ならプライドにかけて必ず金を手配するだろう。良くも悪くも目の前の軍人を理解しているキリコは頷いた。
「まずミラー少尉なんだが──」
「きゃーっ!」
 プールからピノコの悲鳴と派手な水音が響き、男二人はぎょっとして視線を向ける。BJが水の中に消えた瞬間だった。ビニールボートが引っ繰り返り、ピノコが落ちたのだと理解したキリコは、ピノコの体質と水の関係を即座に思い出し、物も言わずに走り出した。グラディスも続こうとした瞬間、今度はレストルームで悲鳴が上がる。ユリだ。キリコが足を止める前にグラディスが「行くよ」と宣言し、素早く部屋の中へ入った。
 キリコが服のままプールに入ると同時に、BJがピノコを抱えて浮かび上がる。キリコは引っ繰り返ったボートを戻し、BJからピノコを抱き取ってその上に乗せた。
「水、飲んでる!?」
 BJが悲鳴のような、怒ったような声で問う。キリコは無言でピノコの背中を一度だけ強く叩いた。途端にピノコは大声で泣き出し、それで水を飲まずに済んでいたことをBJとキリコに教え、二人に安堵の溜息をつかせたのだった。
「立っちゃいけないって言ったのに! 二度とプールに入れてあげないから!」
「やらあ、ごめんなしゃいー!」
 派手に泣くピノコを宥め、怒っている顔でも内心では泣きそうに違いないBJの肩を抱き、キリコは「一度上がろう」と言った。そう言えばフランスに来て初めて水に入ったな、と思い出した。女たちの面倒ばかりですっかり忘れていた。
 プールサイドでまだ泣くピノコを慰めつつ、着ていたシャツを脱いで絞る。それからリビングの方を見る。なぜか服がひどく濡れているユリがパウダールームから出て来て、「にいさん」と呼んだ。
「水道のパッキンが外れてたの。グラディスくんが直してくれてるんだけど、彼もずぶ濡れなのよ。にいさんの服を貸してあげていい?」
「俺たちは本当に28万の部屋に泊まってるのか?」
 高級ホテルにあるまじき出来事にキリコは深く溜息をつく。そして数分ほど経った頃、髪からボトムまでずぶ濡れのグラディスが、絞ったシャツを片手に不機嫌そうに出て来た。
「ほんっとに男が落ち着けない家だな!」
「俺はもう慣れたが、流石にこれはイレギュラーだ。済まなかったな、世話をかけた。ありがとう」
「パウダールームのパッキンが外れるって有り得なくない? これで一泊900ドルって嘘でしょ」
「本当だ。無理を言った分、上乗せはしてあるが」
「電話貸して。文句言ってタダにしてやるから」
「おまえさん、そういうのは得意そうだな。──着替えて俺との話を終わりにしてからにしろ。とりあえず俺の服を貸してやる」
 キリコも上は脱いだがボトムはずぶ濡れのままで、服が置いてある寝室に入れば絨毯が汚れるが、この際仕方ない。流石に今回は後でフロントにクレームを入れると決めて着替え、グラディスにも予備の服を持って行ったが、既にその場にいなかった。
「帰ったのか?」
「着替えてからまた来るって言ってたけど──グラディスくん、本当にデルタなのね」
「本当にって? 何かしたのか」
 シャツを脱いでいたから、ボトムに収めてあるはずの銃でも見えたのだろうか。だがユリは別のことを言った。半ば呆れた声だった。
「パティオの柵を乗り越えたと思ったら、もういなくなっちゃって。わたし、また熱が上がりそう」
「──おまえはもう寝ろ。着替えてからな」
 グラディスが乗り越えたとユリが示した柵に近付き、視線を下に落とす。なるほど、と納得できた。グラディスは昨日の午後にここを上って来たが、警備上の不備を口にしたことは間違ってはいないようだ。気付かなかった不覚を認め、下の客室が偶然とはいえグラディスで良かったと思う。そして二度とこのホテルを使うことはないと決めた。
 やがて着替えたグラディスが下のバルコニーからひょいと顔を出し、自分を見上げて来る。声が届くほど近いわけではないが、グラディスが「上る」と軍隊独特のサインで示したので意思を疎通させることができ、キリコは頷いた。
 そしてすぐに溜息をつくことになる。本当にここは一泊28万円の部屋なのか、と。
「ひどいもんだな。二度とこのホテルは使わない」
 肉眼では見えにくいが確かにある壁の突起やへこみを足場に、ボルタリングの要領で簡単に上がり切って、再びパティオに現れたグラディスに言う。グラディスも肩を竦めた。
「僕もそうするよ。姉さんがこのホテルが好きだから毎年ここにしてたけど」
「来年からリヨンにしたらどうだ。まだましだろう」
 パウダールームの不良もあり、もはやこの部屋に敬意を払う気になれず、灰皿がないと知りながら、二人は柵に寄り掛かったまま煙草に火を点けた。それからやっと情報の売買を成立させる。
「ああ、──なるほど。そういうことか」
 情報を手に入れたグラディスは得心顔で頷き、煙を吐き出す。それから、馬鹿じゃねえの、と呟いた。同感だったキリコは無言で肯定を示す。俺も日本人のような癖がついたもんだ、と思った。
「別にミラー少尉はどうでもいいけど、メラニーが可哀想だな」
「そうだな。とにかく俺たちはこれ以上、そっちの都合には関わらない」
「僕も関わらないけど、今の情報は上に回す。それはいいよね」
「おまえが買った情報だ、好きにしろ。ただ──」
 その必要もなかったと思うがな、とキリコは呟き、煙草を深く吸って煙を吐き出した。聞こえていたグラディスは何も言わなかった。
「バカンス先のマフィアの店でギャンブル、借金で、娘を借金のかたにされるかどうかの瀬戸際。不名誉除隊に離婚に慰謝料養育費ってところか」
「ドクターも気を付けなよ」
「俺はギャンブルが嫌いでね。その心配はない」
「先生を彼女にした時点で充分ギャンブラーだ」
「久し振りに言う気がするが、口を縫うぞ」
「御免だね」
「にいさん、──グラディスくん、どこから来たの? まさかパティオの下から上って来たの?」
「まさかだよ」
「ああ、神様、この人おかしいわ」
 寝ているように言われたはずのユリが神に愚痴を零す。
「先生とピノコちゃんと、軽食を頂くことにしたの。二人は何にする?」
 気が付けば10時だ。どんな騒ぎがあってもスイーツにありつくチャンスを逃さない女たちに苦笑し、キリコは煙草を床に落として踏み消す。グラディスも同じことをした。兄がそんな不作法な真似をする姿をあまり見たことがないユリは不審に思ったが、あまり見ないからこそ何も言えなかった。
「先に熱を測れ。37℃台になってたら小麦の菓子を食べていい。38℃台なら水菓子だ」
「先生と同じこと言わないで! 37.6℃まで下がってたわ!」
 本気でうんざりした声に男二人は笑い、女たちの御相伴にあずかることにした。
「僕はドクターと同じものを。ちょっと家族に電話してくる、また後で」
「ドアから出て頂戴、心臓に悪くって」
 また柵を乗り越えようとしたグラディスにユリが素早く言い、軍に電話をしたいのだろうと分かったキリコは肩を竦め、「そうしてやってくれ」と言ったのだった。
 グラディスが消えて数分後、まだスイーツのオーダーすらしていないのにノッカーが鳴る。誰かと思えば支配人だった。BJたちにはパティオにいるように言い、キリコはドアを開けてその場で対応する。
「パウダールームのパッキンが壊れていたとのことで──」
 本当にグラディスが電話したんだなとキリコは意外に思いつつ、いくら無理を言わせてもらってここに泊まったとしてもあれは流石に酷い、二度とないようにして欲しいと穏やかに伝える。銃はどこだったかな、トランクに入れっぱなしか、と溜息を隠しながら思ったが、俺が使わなければいいだけか、と考え直した。
 その考えを肯定するかのように、開けたままのドアの向こうから音もなく現れた赤毛の男が笑顔で支配人の後頭部に銃を押し付け、「喋ったら殺す」と事も無げに言った。
 キリコは「お気の毒さん」と言って支配人の腕を強く引いて部屋に引きずり込む。後はグラディスが音もなく支配人の動きを封じる作業をあっという間に片付けて、女三人がかしましくメニューを決めているパティオからは見えないパウダールームに放り込んだ。
「予想通りだ。こういうのが得意そうだと思ってた」
「隊の中じゃ一番下手なんだけどね」
「駐留軍に任せるか、警察に任せるか、それとも間久部にくれてやるか」
「駐留軍だと僕が絶対もっと仕事しなきゃいけない。嫌だ」
「警察は──ここいらじゃ揉み消すだろうな」
「じゃあマクベ? 僕は聞かないことにするよ。一応公務員だから関われない」
「俺がやる。パティオであいつらのオーダーの相談に付き合ってやってくれ。20分くらいで決まれば理想的だ」
 20分ほど時間を稼いでくれと言うことだ。理解したグラディスが無言でパティオに行ってから電話をかける。間久部の連絡先は知らないが、闇の人間に依頼をすればすぐに分かる。BJに言えば一切の手間がかからないと知っていたが、今は煩わせたくなかった。パティオのBJがピノコを膝に乗せて座っていたからだ。
 水に落としてしまったと自分を責めて、同時にピノコに何もなくて良かったと安堵したものの、今更落とした時の衝撃を思い出し、最悪の事態を想像して怖くなっているのだろう。今BJに何かを頼むと言うことは、決して良い行為だとは思えなかった。
 依頼をしてから僅か5分後、電話が鳴る。電話の前で待っていたキリコが応答すると、フロントを通さず、直通での会話が始まった。
『初めまして、ドクター・キリコ。お噂はかねがね』
「きみの名前を今誰かに聞かれたくないので呼びかけは失礼する。初めまして。こちらこそ御高名はいつも」
『クロちゃんを通さないってことは、クロちゃんは知らないって認識でいいのかな』
「そうだな。あいつは知らない」
『ドクター』
 不意に受話器の向こうの間久部の声が低くなった。
『俺の前で、クロオのことをあいつって呼ぶのはやめてもらいたいな。そんな安い女じゃあないよ』
 並の人間なら背筋を震わせるほどの声だったが、あいにくキリコは並の人間ではない。
「それは失礼。訂正するよ。彼女は知らない」
『日本語上手だね』
 自分の怒りを感じても怯えを見せなかった男に気を良くしたのか、間久部の声の調子が戻る。明るく、好青年と勘違いしてもおかしくないような、人好きのする声だった。この声でどれほどの人間を惑わせて来たのだろうとキリコは思う。
 同時に今のやり取りだけで、BJへの執着が常識外れであろうということも知る。
「夕方までに彼女とお嬢ちゃんを迎えに来てくれる話についてなんだが、俺は彼女から詳細を聞いていると言う前提で話したい」
『聞いてないはずがないだろうね。いいよ、話そう』
「ホテルの支配人を確保した。パウダールームに転がしてある。部屋のドアを開けてすぐ、左へ。鍵は開けておく。出る時はかけて行ってくれ」
『──さすが高級ホテル、サービスがいいね。支配人まで客にサーブするなんて』
「他の従業員が探しに来る可能性があるし、あまり長く拘束できない。それから、もうすぐルームサービスをオーダーする予定だ」
『急がせるよ。何かお礼をしないと。希望は? 出来る限り恩返しをさせてくれ、クロちゃんの手前もあるし、ドクターにだけは不義理ができない。ガルデールの連中を潰せるチャンスを整えてくれるなんて最高だよ。クロちゃんに相応しい彼氏だ』
「それはどうも」
 話が早くて助かる。どうせ間久部も見返りを求められることは予想していたはずだ。間久部のプライドを傷つける結果になるか否かは知ったことではないが、面倒な恋人の面倒そうな幼馴染に、おまえの幼馴染を抱く男はこういう人間なのだと教えておくことにした。
 別に、敢えて教える必要はないと思っていた。だが今は──間久部が知りたがっている。声の端々からそれが分かる。不愉快な思いをするだろうに、それでも知りたくてたまらないのだろう。
 だからこそ暗黒街の皇太子となったのだ。キリコは知った。不愉快を、傷付くかもしれない可能性を避けるより、必要かもしれない情報を求める。貪欲に何もかもを手に入れて来たからこそ、自らの心をコントロールし、暗黒の世界で一人成りあがったのだ。
「今、世間話に少し付き合ってくれれば充分だ」
『へえ、どんな? 死神の世間話なんて面白そうだね』
「きみも既に名前を知っているはずの、ミラー少尉と娘のメラニー。二人とも、今朝ガルデール一家の誘拐組織に拉致された」
『怖い話だねえ』
「アメリカの軍人相手に何をどうしろとは言わないが、誰かが何かをすればきみの大切な彼女は娘の身の安全のために休暇を諦めて出国しなくて済むし、幼馴染が見守ってくれるフランスで、安心して恋人と一緒に休暇を楽しめる。俺は最高だと思うんだが、きみはどう思う?」
『そうだね、とりあえず俺の感想を聞いてくれるかい?』
「喜んで」
『俺とドクターは絶対に会わない方がいい。きっと仲良くなれない』
「馬鹿を言うもんじゃない」
 キリコは笑った。
「会う予定も、仲良くなるつもりも、お互いに最初からなかったんだから。そうだろう?」
 それが間久部に嫉妬することが一度もなかった理由だ。どうせ関わるつもりなどなかったのだから。いつかの未来で関わる時があったとしてもそれは確実にビジネスで、どこかの依頼で会う可能性があるか、ないか。その程度だ。そう思っていたし、これからもそうだ。BJを挟んで何をどう気にすれば良いのかすら分からない。
 ビジネスが絡んだ今、初めて彼と話した。接触を持ちかけたのはキリコだが、女のことを絡ませて来たのは間久部の方で、キリコはそれに付き合っただけだ。
 暗黒街の皇太子の弱点だ──キリコは記憶の中にだけある情報の棚にそのメモを入れる。だが、決してマイナスの情報でもなければ、かと言って今後何かに利用するわけでもない情報だった。ただの事実として覚えておけばいいことだ。そして、キリコにとっては有用なのだ。
 ──俺の女のためならおよそ何でもする男がいる。しかも力を持っている。最高じゃないか。俺の女は安全だ。
 自分が愛する女を全てのことから守れるなどと思っていない。そんな男は夢物語と映画にしか存在しない。だからこそ今、間久部の存在が心強い。俺の女は安全だ。たとえ闇の中にいようとも。
 俺が死ぬようなことがあっても。
『仲良くなれないけど、でも、ドクターがクロちゃんの恋人でよかった』
 今度は間久部が笑った。
『俺が死んでも、クロちゃんは守ってもらえるってことが分かったからね』
「暗黒街の皇太子からお褒めに与るとはね」
『クロちゃんは究極、ひとりでも生きて行ける人だけど──本当は守られるのが向いてる子だからさ』
 キリコは無言でその言葉を肯定した。
 会えないのが残念だよ、と間久部が言った。それは決して会わないという宣言だった。
 俺も残念だよ、とキリコは答えた。やはり決して会わないという宣言だった。