電話を切ってドアの鍵を音無く開け、パティオに行くと、ユリがBJの指定席であるラタンソファに座っていた。BJが譲ったことは一目瞭然で、こんなことがきっと日々の中で積み重なって、また愛おしさが増していくのだと感じる。
「決まったのか?」
「まだ全然。赤毛の話が頭悪くて笑ってばっかり」
「ギィしゃん、明日はお姉しゃんの新しい彼氏が来るんらって!」
「初めて会うんですって。ちょっと大胆よね、お姉さん」
途端にグラディスが嫌な顔をして肩を竦める。それを見た女たちは笑い、キリコは話の内容とグラディスの気持ちを想像してつい同情する。
「なるほど、だからムカつく休暇って言ってたのか」
昨日、二人きりで話した時にグラディスが零した言葉を思い出す。自分もユリが家族旅行に唐突に新しい恋人を連れて来たら似たようなことを言うだろう。
「それに加えて緊急でこんなオッサンの護衛だもん、嫌になるに決まってんだろ」
「こんなガキに命を預けなきゃいけないとは俺もヤキが回ったもんだ。──ああ、そうだ、マフィン」
「うん?」
「大体片付いた。あとは連絡が来てからでいい」
「何それ」
BJが眉をひそめる。すぐに内容を理解し、今の時間にキリコが何か手配したことを知ったのだ。だが間久部が関わる件にキリコが手を出すとは想像もしていなかった。ユリやピノコの前でキリコに質問しても答えは得られないと分かっている。だから八つ当たりと知りながらもグラディスを睨み、にこりと微笑まれ、またぞろこいつが嫌いだと思った。
「僕の実家の話なんだけど。まあ、結構格式ばった家でさ」
「いきなり何だよ、訊いてねえだろ」
「じゃあ先生は聞かなければいいでしょ。──何かトラブルがあった時って、全部男が片付けるんだ。古い考えだけどね。そういうのもいいんじゃない」
「──早く決めよう、このままじゃランチになっちゃうから! はいまずピノコ、どれにする!」
グラディスが言いたいことが分かり、しかしそれを素直に受け入れるのも業腹で、BJはメニューを手にして宣言した。
ユリは自分の家もそうだったと思い出して懐かしくなり、それから兄を見る。視線に気付いた兄は僅かに苦笑し、それから優しい目で妹に向かって頷いてやって、妹の涙腺を少し緩めたのだった。
ほんの一瞬、グラディスが室内に目をやる。次の瞬間にはメニューと格闘する女たちをからかう作業に戻っていた。その動きでキリコは間久部の部下たちが支配人を──ガルデール一家の連絡役を──速やかに連れ出したことを知った。これも間久部からの情報だった。
「ユリ、来るまで寝てろ。また夕方に熱が上がるだろうからおとなしくしててくれ」
やっとオーダーが決まり、キリコがユリを促しながら内線電話をかけるために席を立つ。
「ピノコ、ユリさんの熱を測っておいてくれないか。38℃を超えてたら水菓子に交換してもらわなきゃいけないから」
「あらまんちゅ!」
「もう、名医は心配性だわ。わたし、絶対エクレアを食べますからね!」
ユリとピノコがコネクティングルームに向かい、キリコが電話をかけに席を外してから、「さて」とBJは言った。
「話せよ、少佐さん」
「先生の彼氏に全部話したし、もうほとんど終わったよ」
「それが気に入らねえんだよ。蚊帳の外にしすぎだろ。間久部も関わってるのに」
「僕はマクベが関わろうが何だろうが、国から指示がない限りは自分の仕事しかしないし。ドクターの護衛。今の任務はそれだけ」
「キリコはさっき、何をしていた?」
「知ってるけど言わない」
「言えよ」
「仕事中なんだよ。民間人に言っちゃいけないっていうか、言っていいかどうかの判断は僕の上がやるから」
「デルタの隊長ってのは随分権限がないんだな、オカマの赤毛ちゃん?」
それはBJの挑発だが、デルタフォースの隊長は薄く笑って無視をした。それから立ち上がり、パティオの柵に寄り掛かる。
「知ったからって何ができんのさ?」
「──You suck」
最低野郎、と口汚く吐き捨ててグラディスを呆れさせ、BJはリビングに入る。ちょうど電話を終えたキリコが振り返り、どうした、と言った。
「何をした?」
「何? ──今オーダーしたよ。飲み物は? もう酒でも平気だろ、どうする」
「その『もう』の意味は?」
キリコは少し考える顔をし、それから「分かった」と言う。BJが本気で気分を害していることが分かったからだ。
「作りながら話すよ。何を飲む?」
「水」
「仰せのままに」
ミニバーでまずミネラルウオーターを出し、自分の炭酸水用に切ってあったライムを絞ってやる。立ったままキリコの隣で一口飲んだBJは息を吐き、「いい加減にしてよ」と恋人の声で言った。
「ユリさんやピノコに言わないのは分かるけど、わたしにも言わないなんておかしいと思わない?」
「時間がなかった。急がないとメラニーが危なかったんだ」
「メラニーが?」
「今朝、ミラー少尉と一緒にガルデール一家に拉致されたんだ。借金のかたにメラニーを渡すか、他に何か話があったんだろう」
「いつ知った?」
「赤毛が来て知らせたんだ。おまえたちがプールに入ってる時」
なぜグラディスが部屋に来たのか、情報の売買をする必要があったのかを説明した。BJは黙り、確かにあのタイミングでは説明のしようがなかったことを認めた。かと言って気分が良くなるわけではない。
「メラニーはどうなる。アメリカの軍人とその娘なんだから軍が動く? フランスの国民警察は?」
「警察はあてにならない。大丈夫、駐留軍が動く。もう終わりだし、俺たちにできることは何もない」
「それがキリコのしたこと?」
「うん?」
「──どうして酒を飲んでいいなんて言える? わたしはまだ、間久部から何も連絡を受けてない。確かに間久部はできるだけ出国しなくてもいいように、ガルデールの方に働きかけてみるからって言ってくれたけど、どうしてキリコが先にそんなことが言える?」
先の電話でミラー少尉のギャンブルのこと、そして出国しなくてもいいようにできるかもしれないと言われていた。だから急がずに待っていたのだ。キリコはそれ以上のことを知っている、わたしは知らない、とBJは訴える。
キリコは迷った。言うべきか、言わざるべきか。言ったところで何か問題があるわけではない。このフランスですぐにマフィア関係の問題を解決できる男に連絡を取った。それだけだ。
だがBJに言うことは躊躇われた。BJのためではなかった。間久部のプライドやBJへの執着を考えると、これはBJが知らなくてもいいことだと思ったのだ。
傍から見れば異常なほどに大切にしている──執着している──幼馴染の恋人に、自分と幼馴染だけの領域に無遠慮に入り込んだ異物から、BJのためにではなく、「BJと俺のために働け」と言われたも同然なのだ。そして間久部はそれを飲まざるを得なかった。それをBJに知られることを善しとするだろうか。否、逆の立場なら納得できないはずだとキリコは断じた。
「クロオ」
だから言わない。そう決めた。
「間久部からの連絡を待つんだ。きっともうすぐ電話が来る」
BJは俯き、手にしたグラスを弄ぶ。明らかに混乱していると見て取りながらも、こんな姿すら可愛いと思ってしまうのだから、俺も大概頭がおかしいのかもしれないと思った。
「さっき、赤毛が言っただろう。俺の家もそうだったんだ」
トラブルは男が片付ける。キリコの家は確かにそうだったし、それが当然だと思って育った。いつからか自分がユリ以外にまるで家族のような存在を得ることは諦めたが、今は得たのだと分かった以上、刷り込まれた伝統を捨てる勇気は持てなかった。
だが、これは自分のミスだと思った。伝統を守る男を気取って片付けるのなら、全て気付かれないようにするべきだったのだ。代々の男たちが知れば鼻で笑うミスだろう。あの父でさえも、きっと。
「まだ慣れなくてね。うまくやれなかった。悪かったよ。後できちんと話すから、時間をくれないか」
グラスに目を落とすBJの髪を撫でた。妹の髪を撫でる時とは違う、この女にしか抱けない愛おしさが生まれる。
BJがぽつりと言った。
「ユリさんは」
「うん?」
「ユリさんは、わたしとピノコを家族だと思ってくれてる?」
何を言えばいいのか──だがその感情が呆れや蔑するものであるはずがなく、キリコはただ、うん、と何度も頷くしかできなかった。
「うん。──うん。もちろんだよ。どうしたんだ」
「昨日」
「うん」
「キリコに、おまえがユリを家族だと思ってないなら、って言われた時」
「……うん」
思い出して後悔した。口論の延長とはいえ、酷いことを、言ってはならないラインを超えたことを言ったと、今になってやっと気付いて自分を呪う。
「何だか、急に哀しくなっちゃって」
「悪かった」
「ユリさんが優しくしてくれたからって、わたしはいい気になって、調子に乗ってたのかもしれないって」
「違う。おまえはいい気になんてなってないし、調子に乗ってもいない。俺が間違ったことを言ったんだ」
キリコは焦る。これはBJの悪癖とも言える一面で、自分から壁を作って逃げる時の──自分を守ろうとする時の考え方だ。過去に何度か目にして呆れもしたし、ふたりになってからは、彼女が過去に負った傷はどれほどのものだったのかと想像するだけで胸が痛くなる。
「おまえが家族だと思ってくれてたのに、俺が酷いことを言った。俺が間違ってた」
「喧嘩しても、もう言わないで」
「言わないよ。悪かった」
「お願いだから、あんまり酷いこと言わないで。どうしたらいいか分からなくなる」
「分かった。ごめん。俺が馬鹿だった。二度と言わないよ」
BJの手からグラスを取ってカウンターに置き、何度もごめんと言いながら何度もキスをした。潤んでいたBJの目元を指で拭い、酷い後悔に襲われながら、額を合わせて「もう絶対言わない」と誓う。
少し落ち着いて甘えるように抱き付いて来たBJを抱き締め返し、腕の中に収めた時、目の端で、コネクティングルームから出た少女が抜き足差し足でリビングを横切り、だが無念にもパティオに出る寸前に転びかけ、すかさず赤毛の男に抱き上げられて、二人揃ってさっとパティオに消えて行った。
「他に何か作ろうか。何か飲みたいものは?」
ピノコとグラディスには後で感謝を示すとして、キリコは我ながら甘い声で言う。ぶつかった後の恋人の機嫌を取って甘やかすことは嫌いではない。むしろ好きだった。
BJが顔を上げ、じゃあ、と可愛く言いかけた時だった。
「……ちぇんちぇい、ロクター、ごめんなしゃいなのわよ」
まるで自らを罪人とでも言いたい声を出しながら、パティオに行ったはずのピノコがやって来る。両目を手で覆う姿は何とも愛らしいが、BJが慌てて身体を離し、危ないから手を外しなさいと焦って言った。
「お嬢ちゃん、見ちゃいけないものじゃないんだよ」
「キリコ!」
そこは文化の差、育った環境の差だ。親や親類の大人たちの愛情表現を見て育った男はさらりと言い、秘めてこそ、滲み出てこその文化で育った女は真っ赤になる。
「どうしたんだ、ピノコ。何かあった?」
「ギィしゃんが、ちぇんちぇいのとこ行って、ロクターにあれもって来てって言ってって。あれって何なのよさ?」
「──ユリの部屋に。鍵と窓を閉めて、部屋から出るな」
瞬時にして理解したキリコはBJに言い、BJは理解できないものの、肌で異変を察して返事もせずにピノコを抱き上げ、コネクティングルームへ文字通り走る。施錠した音を確認し、キリコはメイン寝室に急いだ。自分のスーツケースをひっくり返して銃を取り出し、弾倉を確認してからパティオへ急ぐ。
パティオの柵に寄り掛かって床に座り込み、銃を手に耳を澄ませているグラディスが、キリコがパティオに出る前に手と視線で「出るな」と止めた。次に指だけで合図をされ、理解したキリコは弾倉を抜いて床に滑らせる。神業のような速さでグラディスが自分の銃の弾倉を抜き、キリコの弾倉と付け替え、それから嬉しそうな顔をした。二人の銃には弾倉の互換性があったのだ。違う種類の銃でも同じ口径なら同じ銃弾を使えると思われがちだが、実際は個体差が影響し、互換性が否定されるケースが非常に多い。今この瞬間はかなりの幸運だったと言ってもいい。グラディスはまた弾倉を自分のものに戻し、キリコから受け取った弾倉をベルトに挟み込んだ。
どうするか──キリコとグラディスが視線を交わし合った時、グラディスが苦笑した。同時にキリコの袖を誰かが引く。確認するまでもない。キリコは小声で「出るなって言っただろう」と叱り付けたが、いつもの服に着替えてコートを羽織ったBJは悪びれずに、やはり小声で「何人?」と訊く。
「まだ分からない。ユリとお嬢ちゃんは?」
「ユリさんが動けたからメイン寝室に行かせた。コネクティングルームより奥だし、鍵もかかる。ベッドの下に隠れるように言ってある」
「完璧だな。よくやった」
「ルームサービスがもうすぐ来るのに」
「そう言えばそうか。おまえがフルーツヨーグルトで、ユリがエクレアで──それから何だったかな」
「ピノコがアイス。溶けちゃうから来たらすぐ食べさせてあげたいんだ」
瞬間、空気に殺気が走った。同時にグラディスが立ち上がり、柵の向こう、階下の自分の部屋のバルコニーに向けて銃を構える。2発続けて発砲し、再び身を屈めるまで数秒の出来事だった。階下から聞こえた銃声は侵入者たちのものだろう。キリコはグラディスが持つ残弾数を、自分が渡した分を含めて最大21発だと算出し、相手の数次第では足りないかもしれないと考える。
グラディスがキリコに向かって笑い、普通の声で言った。もう声を顰めなくて良いという意思表示でもある。
「だから言っただろ。防犯が甘いって」
「──本当か?」
「ウケるよ。本当に上って来ようとしてた」
「いい的だな。撃ち落としてやれよ」
途端にBJがかなり強い力でキリコを叩く。BJの前では失言だったと自覚し、ごめん、と言った。BJは唇を噛み、大嫌い、と呟く。
「多分ガルデールの連中だ。マクベだったら先生がいるところに襲撃なんてかけないでしょ?」
「さあね。必要があればやるだろうさ」
冗談とは思えない声音にキリコはやや背筋が凍る感覚を味わった。二人の関係を理解しているつもりだったが、自分には見えていない部分があるのかもしれないと思う。
「赤毛、何人いた?」
「見えた限りで6人。1人に2発ぶちこんで使い物にならなくしておいたから5人。でもまだ僕の部屋の中にいるかもしれない」
「あの状態で当てたのか。このキチガイが」
「こういうのは隊で一番上手いんだ。──敵襲、該当ルーム。相手はおそらくガルデール一家、居場所は直下。僕の部屋だ。正確な人数が分からない。ドクター・キリコは無事。家族3名も当面無事。現状でコンディション2」
ポケットから出した無線機──否、昨日キリコに貸した盗聴器だった。一方的に話すしかないが、どこかで確実に聴いている味方がいると言うことだ。
コンディション2って何、とBJがキリコに問う。確か敵襲に対応できる状態かどうかを三段階で知らせる言い方だったはず、とキリコは答える。流石にそこまで特殊部隊のことを知り尽くしているわけではない。だがBJはそれでも納得した気になれたのか、コマンドーの映画みたい、と無邪気に言ってキリコを笑わせ、グラディスを苦笑させた。
「残弾21。直下から該当ルームまでの侵入ルート、昨夜の連絡通り。僕の部屋は──」
「ルームサービスが来る前に何とかして。ピノコのアイスが溶けたらどうしてくれる」
「──もういいや。ドクターの女がうるさいから、僕の部屋がどうなってもいいから全員殺しちゃって」
「馬鹿、殺すなよ」
「殺すなよって女王様が言ってるから半殺しに変更! コンディション1か2なら各自判断、デルタ全員突っ込め! ──もう、うるせえな、この女! 何様なんだ!」
「お医者様だよ」
言うなり立ち上がり、コートの裾が踊る。風を切る澄んだ音が心地良いほどに鋭く響いた。キリコが称賛の言葉を口にする前に、柵の向こうに顔を出した男の額にメスが直撃する。そしてキリコは気付いた。
「──ミラー少尉?」
BJの動きに気付いて発砲を止めたグラディスが素早く、直撃したメスの衝撃で落ちそうになった男を片手で掴む。キリコも走って男を掴んだ。そしてグラディスが階下に2発発砲してから、二人で男を──ミラー少尉をパティオに引きずり上げた。
「速やかな回答を期待する。本名、所属、階級、軍籍番号」
グラディスが床に制圧したミラーの後頭部に銃口を押し付け、BJが今まで聞いたことがないほどに感情のない声でミラーに命じる。同時に階下で銃声と複数の怒鳴り声が響いた。グラディスの指示に従った誰かたちが任務を遂行しはじめているのだろう。
「フラッド=ミラー、アメリカ陸軍第7歩兵師団、少尉、軍籍番号──」
「もう一度」
「フラッド=ミラー、アメリカ陸軍第7歩兵師団、少尉、軍籍番号──」
BJは息を呑み、ビッグフォーと呼ばれる最低限の個人情報を求める軍人と応じる軍人を見るしかできない。ニューヨークやロンドンでキリコがこんなことをしていた覚えがある。だがその時々とは全く違うと感じた。
「見なくていい。よくやってくれた」
キリコはBJにキスをする。過去に自分がしてみせたような尋問遊びではなく、生命を奪うこと、奪われることを覚悟した軍人たちの本気の尋問を見せたくなかった。闇の連中の暴力の方がまだましだと思えるような光景になることもあるのだから。
「お嬢ちゃんとユリのところへ行って安心させてやってくれ。ここはグラディスに任せればいい。もうすぐルームサービスが来る、それまでに終わってるよ」
いつの間にか階下も静かになっている。これだけの騒ぎですぐにルームサービスなど来るはずがない。本当は分かっていたのに、銃声と暴力の予感から逃げるためにBJが言い続けていたことを、キリコは知っていた。
それからの始末はBJたちが驚くほど早かった。キリコだけが軍と闇社会の両方を知り、そのどちらもがプライドに賭けて競うように後始末をしたからだと理解していた。
「メラニーはロクロー・マクベの部下たちが保護した」
「間久部が? 本当に? どうして?」
「さあ、そこまで知らない」
すっかり静かになったパティオで説明していたグラディスは、ラタンソファのBJの隣でくつろぐキリコをちらりと見る。キリコは敢えて反応しない。
「ついでに、今まで誘拐された子たちも全員保護したそうだ。みんな無事で怪我もない。売り物だから大事にされてたらしい。売られる前で良かったよ」
「──不幸中の幸いだ。本当にそれだけは」
心からキリコは呟き、BJは男にもたれかかって同意であることを示した。死神と呼ばれる男が見知らぬ誰かに愛を向ける姿がとても愛しいと思った。
「全くだ。後はマクベとフランス国家警察の交渉になるだろうね。マクベがこの辺りの警察に恩を売るにはちょうどよすぎるチャンスだった」
「売られときゃいいのさ、やる気がない警察なんて」
BJが吐き捨てるように言った途端、部屋の電話が鳴った。リビングで改めてオーダーしたルームサービスのスイーツにユリと共にありついていたピノコが出ようとしたが、「わたしが出るから!」とBJが速足にリビングに向かう。
「ドクターもお疲れ様」
「おまえさんほどじゃないが、まあ、疲れたよ」
「オッサンだもんね」
「やかましい」
「これ、返しとく。ありがとう」
「使うことにならなくて良かったな」
「そうだね。それを使う状況になってたら、ドクター以外は守るつもりがなかった。うちの連中が間に合って良かったよ」
だろうよ、と呟き、キリコは受け取った弾倉をポケットにしまう。銃本体はすぐにスーツケースに移動させようと決めた。BJが嫌がるものを敢えて出しておく必要はない。
階下、グラディスの部屋に侵入した男たちはガルデール一家の10人だった。突入した4人のデルタフォース隊員に瞬く間に制圧され、今どこに連れて行かれたかはキリコには分からない。グラディスも言う気がないようだった。
「ミラー少尉はメラニーと引き換えに、ピノコちゃんを連れて来るように言われたらしい。他の連中は監視を兼ねたお供のようなものだ」
「お嬢ちゃんを?」
「それで借金をチャラにするのと、メラニーを無事に返すって話になってたんだって」
「どうしてお嬢ちゃんなんだ。確かに可愛いが、あそこまで騒ぎにして誘拐する必要があるのか」
「ガルデール一家の上の人間が気が付いたんだろ。ピノコちゃんの保護者が誰かってことを」
「──クソッタレ」
ピノコを誘拐するのは人身売買目的ではなく、その保護者であるBJが目的だったと言うことだ。確かに闇社会では群を抜いた有名人であり、天才医師であることは知れ渡っている。そんな女をファミリーに引き込めればかなりの箔付けになるし──そこまで考えてキリコは思い至った。
「ここでも間久部か。フランスだし、縄張りも近いんじゃなかったか」
「その通り。先生とマクベが懇意なのは知ってる奴も多いし、マクベに対する牽制なり、人質なりにしたかったんだろうね」
「命知らずだな。間久部が皆殺しにしそうな話だ」
「やりそうで笑えないや」
互いに笑うに笑えず、煙草に火を点けて、闇社会の縄張り争いの一幕を忘れることにした。ピノコは無事だった。キリコにとってはそれだけで充分だったし、グラディスにとってはフランス国内のマフィア同士の対立などどうでも良かった。
そしてこの件をBJに言おうかどうか迷う。言えば自分の責のように思ってしまうだろう。それなら闇医者などやめればいい──だがそんな単純なことではない。ロンドンでも似たようなことがあった。その時のBJの嘆きを考えれば言いたいとはとても思えない。それでも悩む。
「多分、ドクターにもう危険はないと思うんだけど」
考え込みそうになった時、グラディスが現実的な話に切り替えた。それでキリコは考えることを一時やめようと決める。正確に言えば──キリコの感覚としては──逃げたのだが、今は仕方ないと自分に言い訳をした。
「どうする、ユリちゃんが動けるようなら出国する? 今ならデルタが僕を含めて5人いるから、ついでに先生たちを護衛してあげてもいいよ」
「ユリはまだ動かせない。夕方になったら副交感神経の都合でまた熱が上がる。──電話次第だな。まあ、まだあいつも出ないよ。多分」
多分と言いながらキリコは予想していた。メラニーや先に誘拐されていた女児たちが間久部によって保護されたのなら、無論他にも様々な結果が出ているはずだからだ。極端な話、この辺りの勢力図が既に塗り替えられた可能性もある。そうであれば間久部の保護を受けられるということにもなり、BJとピノコが出国する必要はないのだ。
「きゃーっ! ちぇんちぇい、大好き!」
唐突にピノコが悲鳴を上げた。プールで上げたようなものではなかった。嬉しい悲鳴だ。一緒に喜ぶユリの声も聞こえる。それだけで、BJが出国しないと告げたことが分かった。
「良い休暇を」
「お互いに。世話になった」
軽く握手をすると、グラディスはパティオの柵を乗り越えて姿を消した。不作法と言うよりは、盛り上がり過ぎた女たちがいるリビングを通りたくなかっただけだろうとキリコは見抜いた。
「あれ、グラディスは?」
「もう行った」
「ふうん、忙しない奴。──あ、それで、間久部だったんだけど」
「うん」
隣に座ったBJを抱き寄せると、BJも身体を預けて来る。パティオから見えるプライベートビーチは少し客が少ない。先刻の騒ぎと混乱の騒音を副支配人が映画の撮影だと苦しい言い訳を携えて客室を周り終えるまでは、警戒した宿泊客たちが浜辺に出ることはないだろう。
「アンティーヴ、この辺。ガルデール一家の縄張りを譲り受けることになったみたい。礼を言われたけど、何か複雑だな」
「祝っておいてやればいいさ。彼の世界では彼なりに重要なことなんだろうから」
BJはしばらく黙り、やがて頷く。こういう時、キリコが自分とは違う人生を送り、違う物の味方を養って来たという当たり前のことを思い出す。それでも他人だと思わないことが不思議だった。他人と思わなくなる日が来るなどと、過去の自分に言ったらきっと呆気に取られることだろう。
「このホテルの支配人がガルデールに買収されてたなんてね。明るみに出てないこともまだありそう」
「そこまでは与り知らぬ、だな。警察が何もしないなら観光客が気にすることじゃない」
それから、とキリコは言った。
「このホテルは二度と使わない」
柵を目で示すと、BJは溜息をついて頷いた。高級ホテルならではの防犯を期待していた部分もあったのに、まさかこんな穴があったとは予想外もいいところだ。ピノコに何もなくて本当によかった、と改めて思った。
「まあ、ここまでの短期間で片付いて良かった。赤毛に恨まれなくて済む。明日、家族が来るって言ってたからな」
「何であいつ、下の部屋なの。消えればいいのに」
「そう言うなよ。防犯を考えればあいつの方がましだ。明日以降は家族と楽しみたいだろうし、もう関わることもないさ」
廊下やビーチで顔を合わせたら挨拶くらいしてやれ、とキリコが言うと、BJは露骨に嫌な顔をして爪を噛み、こら、とキリコに指を抑えられた。
「あいつ、嫌い。挨拶なんかしたくない」
「知ってるよ。ろくなことをされてないだろうからな」
「いや、世話になったのも認めるけど」
「いつ?」
「ワシントンでキリコと別れてマンハッタンに戻った時、自棄酒させてくれた」
「……ああ、そういやユリに聞いたな」
アンバランスで都合のいい関係が破綻した時のことだ。思い出したくもない。BJがキリコの銃を嫌がる原因になった件でもある。
俺はどれだけこの女を傷付けているんだろう、と自分で自分が嫌になった。
「でも嫌だ。あいつは嫌いだ」
「そこまでか?」
キリコも好きではないが、同性として、元軍人として理解できないわけではない。そこは性差なのだろうかと思った時、BJが唇をひん曲げてから小さな声で言った。
「あいつに会うと、キリコがどこかに連れて行かれるから。だから嫌い」
何を言おう。キリコは考える。考えても答えは出ない。──この女にかかると、俺は俺が思っている以上に未熟な人間だと思い知らされちまう。
「……可愛い」
「はぁ?」
「無理。可愛い」
心底の本音を呟き、抱き寄せる力を強くしてから髪にキスをする。可愛いと言われて照れたBJは嫌がる振りをしたが、無論悪い気分であるはずがない。髪に落とされる唇を唇で奪い、リビングの娘と妹に聞こえないように小さな声で笑い合った。可愛い。好きだよ。愛してる。恋愛に浮かれる若い男の台詞のようなのに、ずっと真実味のある声がBJを幸せにする。
「悪趣味」
「何だよ」
「わたしが可愛いとか、悪趣味」
「じゃあ、それでいいさ。可愛いよ。俺が可愛いって言うんだから、何か問題あるのか」
「ない。わたしが嬉しいことくらい」
「嬉しい?」
「うん」
「そうか。──可愛い」
こんなことで嬉しいならいくらでも言ってやれる。どれほどこの女を傷付けたかと言うことより、どれほど喜ばせてやれるかと言うことを考えたかった。これで自信を持たせられるかどうかは定かではないが、少なくともこの世に一人は確実に、本気で可愛いと思う人間がいると教えたかった。
そして心の奥底で、不意に昏い感情が産まれる。あるいは以前から持っていた感情かもしれない。それでいいじゃないか、何が悪い──そんな感情だ。
何が悪い。本当に唐突に、信じられないほどに昏い、黒いと言っても良い感情かもしれない。何が悪い。──劣等感は間違いだ。俺はそれをよく知ってるし、こいつを知る連中だってよく知ってる。でもこいつがそれに気付かなければ? 誰もが、数少ない近しい皆までもがその劣等感を当然のものだと思っていると勘違いしていたら?
何が悪い。
「可愛いよ。本当だ。俺を信じろよ」
俺しかその劣等感を否定しないと勘違いしていたとしたら。
何が悪い。
醜いのは俺だ。俺は醜い。だってそうだろう。今の俺は最高に醜い。
「昔からずっと、可愛いって思ってた。言っておけばよかった」
「そう言えば言われてなかった。クソビッチばっかり」
俺だけがこの女の劣等感を否定し、愛する者だと勘違いさせることができれば──
「悪かったよ。でも可愛いのはずっとだ。ベトナムで会った時からずっと思ってた」
この女はきっと、永遠に俺のものだ。
俺から離れられなくなる。
何が悪い。
別にいいよ。俺はいいんだよ。
おまえがどんなに間違った劣等感を持っていようと、自分を卑下しようと、俺は全く構わないんだ。
ああ、俺は最高に醜い。可愛いおまえを愛する資格なんてないほどに醜いに違いない。
「可愛いよ」
でも、そうだ。
「愛してる」
何が悪い。
何が悪いんだ。
あれだけの思いをしてようやく手に入れた女を、
女が、
俺から離れて行くかもしれない未来なんて全部潰さないといけない。
「そんなの、キリコしか言わない。悪趣味だ」
BJが嬉しそうに笑う声で、昏い感情が弾けるように霧散する。だがキリコは自覚し、背筋に冷たい何かが走る感覚を得た。
霧散したのではない。姿を隠しただけだ。嫌な汗をかきそうだった。いやらしい。そう思った。いやらしい。俺はなんて──いやらしくて惨めで、愚かなことを考えてしまったんだろう。
「キリコ?」
不意にBJが心配そうに顔を覗き込んで来る。思わずキリコはびくりとし、BJの心配を煽ってしまった。
「どうした。具合が良くないところでも──」
「違う、──ああ、いや」
姿を隠した感情を伝えられるはずがない。必死で考え、そしてあながち嘘でもない言葉を見付けることができた。
「ユリとお嬢ちゃん──怖い思いをしただろうから、過度のストレスになってなければいいと思って」
「うん、わたしもちょっとそれが気になってて。二人と少し話をした方が──」
「おくつろぎのところ、悪いんだけど」
悪戯げに笑うユリがパティオの入り口から声をかけた。驚いたBJは身体を離そうとしたが、キリコが腕に力を入れてそれを阻む。気付いたユリの笑みが深くなり、その笑みの理由を知った兄は苦笑した。
「わたしとピノコちゃん、今夜から元の部屋で寝るわ。もうね、二人とも、議論も言い訳も無しよ。わたしの体調は自分で管理できる程度に戻ったし、ピノコちゃんの誘拐の心配もなくなったわ。ちょっとしたトラブルはあったけど、今のところはピノコちゃんも怖がってないし、問題ない。そういうことでいいわね?」
「ユリさん」
キリコが文句を言う前に、BJが口を開いた。どうせ文句を言うのだろうと思ったキリコの予想を裏切り、BJは穏やかに言った。
「どんな時間でも何かあったら、私たちに遠慮しないで、必ず電話をすることを約束してくれれば」
「──もちろん。何かあったら飛んで来てくれるって信じてます」
ユリはもう一度笑顔を向け、様子を窺っていたピノコの元へ戻る。やがてピノコが嬉しそうに笑う声が聞こえ、二人が相談して決めたことだったのだと知らせた。
「何かあったのか」
「ん?」
「ユリと。あいつ、ちょっとな。うるさかったんだ」
「うーん」
BJはキリコの肩にもたれかかり、恋人の妹との会話を思い出す。人魚のように泳いで来た彼女の言葉の全てに納得できたわけではなかったが、それでも、もしかすると、といつか思える日が来るのではないかと言う希望を持たせてくれたことは確かだった。
「女同士の家族の話」
「──おお、怖」
大袈裟に身を震わせてから安堵して笑い、BJの顎を持ち上げて少し深いキスをする。愛の種類は違っても、確実に愛する二人が理解し合っている姿は何よりも嬉しかった。その嬉しさを噛み締めて、浮かびかける昏い感情から目を背けた。