昼にしては時間をかけて丁寧に抱いた後、キリコはうとうとし始めたBJを寝付かせてから寝室を出る。そう言えばさっきの電話は誰だったのだろうか──考えながら一服のためにパティオに出る。そして今ここに銃があれば俺は間違いなくぶっ放していた、と強く思った。
「電話に出ってって言ったでしょ」
パティオのテーブルで堂々と煙草を咥え、ミネラルウオーターのボトルを前に、拳銃の分解掃除をしていた特殊部隊員は呑気に言う。キリコが口を開く前に付け加えた。
「聞いてないし覗いてない。でも予想できたからここにいただけ」
「それはご親切に、どうも」
「そりゃあね、プライバシーに配慮するべき時代だしね」
「プライバシーに配慮する前に、不法侵入について勉強して来い」
「持ち家でもない限り、パティオやバルコニーって共有スペースなんだよ。不法侵入の対象外だよね」
ああ言えばこう言う男に溜息をつく。この男にはどんなに非常識なことをされようと、もはや怒る気にもなれなかった。
「一人が寂しくて構って欲しいのか? ビーチで女を引っ掛けて来い」
無論、そんなはずがないと知っている。どうせ込み入った話をされると予想し、先にミニバーから飲み物を取って来ることにした。冷蔵庫を開けてライムフレーバーの炭酸水を探す中、ミネラルウオーターのボトルが一本減っていることに気付き、ミニバーは共有スペースじゃねえぞと毒付きたくなってしまった。
「鍵がかかってただろう。ピッキングか?」
「いや、僕の部屋がここの真下だから」
「鳥肌が立つような偶然だ。だから?」
「僕の部屋のバルコニーから上がって来た。ここまずいね、道具なしで登れた。防犯、少し緩いんじゃない?」
「道具なしで下から上がって来る赤毛なんぞ滅多にいないから、大丈夫だろうよ」
呆れ果て、嫌味を言おうにも我ながら切れがない。だがグラディスは予想外に嘲笑せず、相変わらず銃を掃除しながら穏やかに言った。
「マフィアにも赤毛がいるかもしれないよ」
聞きたくねえよ、とキリコは言おうとしたが、どうせこの男は勝手に喋るだろう。傍若無人な手段での入室だが、一秒でも早く死神の耳に入れたかったからこその蛮行だとキリコは理解した。グラディスの向かいに座り、炭酸水を一口飲んでから煙草を咥える。
「話していいぞ」
「ありがと。ちょっと待って」
グラディスは煙草を灰皿で揉み消し、それからものの数秒、キリコの体感ではほんの一瞬で、ほとんど音をさせずに銃を組み立ててしまった。キリコは思わず軽く拍手をする。特殊部隊員の銃の扱いは昔から噂で聞いていたが、目にしたのは初めてだった。グラディスが新しい煙草に火を点ける。
「フランスのマフィアって言ったら、まあ、先生の幼馴染のとこが有名だけどさ。今回はそこじゃないんだ」
「その前に確認したいことが数点」
「どうぞ」
「デルタフォースが正式に出動したと言う認識でいいのか?」
「──正確にはフランス駐留中のうちの国の軍。僕は今日付けでフランス駐留軍に出向したことにされた」
「公僕の苦労にはたまに同情するね」
キリコはつい考える。フランスにアメリカ軍が展開していたという記憶はない。キリコの疑問を見抜いたのか、グラディスが先回りして教えてくれた。
「軍事力そのものは展開してない。でも軍人が配備されてる。人員が少数──ええと、今は67人だったかな。70人未満なのは間違いない。66年にフランスがNATOの軍事部門から脱退して、これが精一杯なんだ」
「政治部門からは脱退していないはずだから、多少の人員なら置けるってことか。不幸中の幸いか、おまえさんの休暇を潰す単なる不幸か。気の毒に」
「お心遣いには感謝するけど、ドクターの休暇だって潰れそうだよ」
「俺の家族のためにも避けるべき事態だ。次の確認。俺がアメリカ軍と接触する理由になっている、フォート・デトリックから依頼されたプロジェクトに関係しているのか?」
「してない。フォート・デトリックは無関係」
ふうん、とキリコは頷き、そしてあっさり言った。
「ろくな持て成しもできずにすまない。帰る時はドアから出て行ってくれ」
「どうしても聞きたくないって言うなら構わないよ。まだ正式にドクターを巻き込めって命令は来てないから」
「冗談でも笑えやしない」
本気で眉を顰め、キリコは少しアメリカに対して自分の待遇の改善を申し入れる必要があると思った。ソフィアの件からあまりにも扱いが悪いし、不愉快だ。
「まあ、帰れって言うなら帰るけど。防犯さ、本気でしっかりした方がいいよ。この部屋だけじゃなくて、ユリちゃんとピノコちゃんの部屋もね」
今度は違った意味でキリコは眉を顰める。グラディスはキリコから視線を外し、パティオの向こうに広がる海を見る。まだランチタイムの最中にあるビーチは人がまばらで、静けさが波の音を連れて来ていた。
「メラニーのお父さんね、休暇でこっちに来てた第7歩兵師団の少尉なんだ」
「陸軍少尉?」
「そう。そりゃあ僕にも話が回って来るよね。僕は彼と接触する予定はないけど、一応ね。何かあれば会う、って程度」
キリコは椅子に深く腰掛け直し、口の中で罵りの言葉を吐いた。それから腹を決め、陸軍の特殊部隊隊長に言った。
「ブラフも隠し事も駆け引きも無しだ」
途端ににこりと表情筋だけで笑顔を作ったグラディスを、心底鬱陶しいと思う。
「あいつが起きる前に全部話せ」
「何時に起きるの」
「知るかよ。腹が減ったら起きるだろ」
「ランチ抜きでセックスかよ。いい歳して盛り過ぎじゃない?」
「話せ、少佐」
これ以上冗談を言ったら叩き出す、と言う意思を声に載せる。理解したグラディスは軍人の顔で話し始めた。
「まず、僕はついさっき、本国から連絡が来るまで一切知らなかった」
「理解した」
「流れとしては──ドクターがメラニーを助けて、その父親、ミラー少尉だ。彼が軍人の義務として駐留軍に報告した。ドクターの素性もここで分かった」
キリコはやや考え、メラニーを少しでも安心させるために泊まっているホテルを教えたことを思い出した。ならばすぐに素性が明らかになった理由も予想できる。フォート・デトリックに連絡しておいた情報や、自分の見た目がメラニーやスタッフの証言と一致したのだろう。
「理解した」
「本来なら軍を通じるなり何なりして、ミラー少尉があなたに礼を言えばこの件は終わりだ。でもひとつ問題があった。──同じような児童誘拐事件が4件、短期間で起きている。未遂に終わったのは今回だけで、他は全部誘拐されてフランス国家警察が捜査中だ」
「似たような事件が起きているのはスタンドのスタッフから聞いた。だが観光客に対して注意喚起がされていない。フランス国内でニュースになっているのか?」
「僕が知る限り、なってないね」
「アメリカ軍が乗り出すような事件なら、一言あって然るべきじゃないのか。いくらビジネス面での痛手を考えたとしても無責任だし、ミラー少尉の娘が本当に誘拐されていたらもっと大事になっていただろう」
「マフィアがこの一帯の自治体に圧力をかけていたら?」
「──なるほど、理解した」
どうしようもねえな、とキリコは罵りの言葉を吐いた。グラディスも似たような言葉を吐く。
「人身売買か?」
「そこまでは分からない。でもその可能性が高い」
「どこのファミリーだ。暗黒街の皇太子ならBJを通じて連絡できないこともないが」
「現在のロクロー・マクベが人身売買に手を出してないことは確認できてる。まあ、宗旨替えしたなら話が変わるけど、可能性は低い」
「確かに。──ああ、そうだ、間久部はないな。ここにあいつがいることを知ってるはずだし」
「何それ。先生のこと?」
グラディスが情報を求める目になる。キリコはBJのプライバシーに配慮すべきかやや迷ったが、面倒のひとつを回避できる可能性があるのなら話してしまうことにした。
「あいつに言うなよ」
「必要がなければね」
「ここに来て一回、確実に連絡を取ってる。内容は完全にプライベートだ」
「プライベートの保証は?」
「水着のことを相談した」
「男相手によくやるよ。なるほど、ここまで理解した。それでマクベじゃない理由は?」
「間久部はお嬢ちゃんのことも知っている。万一でも巻き込まれるようなことはしないはずだ」
「ああ、そんな感じ。マクベって、先生を怒らせるくらいならもっと無茶苦茶やっていっそ嫌われた方がいいってタイプだもんね。あいつの性格って破綻しすぎ」
溜息をつき、グラディスはこめかみを指で押す。キリコは苦笑し、アメリカがそこまで調べ上げていることに感心すらしてしまった。
「この辺に圧力をかけてるファミリーと言えば、ガルデールって一家なんだって。元はマルセイユから流れて来たコルシカ系。この辺からリヨンは完全に抑えてるらしい」
「なるほど」
「問題は警察なんだ。圧力をかけられているだけなら仕方ないんだけど、長年、フランス軍やNATOの介入を異様に拒んでる。観光地と伝統の意地だって話だけど、僕らの休暇を潰す理由にはならないと思う」
「おまえさん、休暇が潰れそうで本気で怒ってるだろう」
「そりゃそうだよ、明後日に家族が着くってのにさ。ただでさえムカつく休暇なのに何で働かされるんだ」
「ムカつく?」
「僕のプライベート、知りたい?」
「いいや、全く。失言だ」
プライベートなら知りたくもない。キリコはそれで話を戻し、「それで?」と言った。
「俺に何をさせたいんだ?」
「僕の意見としては、ピノコちゃんを徹底的に守って欲しい。正直言うとあの子は滅茶苦茶高く売れる」
嫌な話だ。BJが聞けば激怒して、筋違いだと分かっていながらもグラディスを殴りかねない発言だった。だがキリコは同意はしないものの、闇を知る者として理解できてしまう。
「アジアンの美少女ならそうだろうな。反吐が出るぜ」
「ほんっと、ロリコンとコックローチって今すぐ滅んで欲しい」
グラディスもキリコ同様、幼児への虐待を嫌う顔を見せた。社会的な事柄に対する嫌悪を強く見せるこの男を初めて目にしたような気がして、キリコはやや意外な気分になってしまった。それからこの男が黒光りする昆虫を嫌うことを覚えておこうと思った。
「ちょっと調べれば、ピノコちゃんが先生の──マフィアにも知られた医者の秘蔵っ子ってのは分かるだろうけどさ。誘拐の実行犯なんて下っ端も下っ端だし、そんなことまで知ってるとは思えない。今までの情報を分析すると、とりあえず目についた可愛い子を狙ってる可能性が高い。はっきり言っちゃえば彼女はホテルから出ない方がいいし、ホテルの中だとしても一人で歩かせない方がいい」
キリコは頷いた。既にBJとも話してあることだ。ユリとピノコが昼寝から覚め次第、すぐに話しておくべきだと強く思った。
「一番いいのは出国することだね。強制はできないけど、僕はそっちを強く勧める」
「正直言えば俺もそれが最善だと思う」
「だろうね」
「ったく、ガリシアの休暇も強制的に終わりにしたってのに。たまったもんじゃない」
「ユリちゃんたちから聞いたけど、その辺は同情する。今年はもう諦めてワシントンにでも籠ってれば? ドクターのアパートメント、通年で使えるんだからホテルの心配もないし」
「お嬢ちゃんが楽しめそうな場所がなくてな」
「いや、小さい子でも──うん、結構行くとこあるよ」
グラディスはその場でいくつかの人気スポットを羅列した。キリコが意外な顔を隠せないほど詳しく、子供向けのアトラクションや施設、イベントを教えてくれる。
「……ワシントンに行くことにしたらぜひ参考にさせてもらうよ。ありがとう」
「どういたしまして」
「詳しいな」
「家族と行ったんだ」
「ああ、そうか」
年の離れた弟妹か、小さな甥姪がいるのだろう。自分自身が年の差のある妹を持つ身として、キリコはすぐに納得した。
「出国さえすれば、うちの国も流石にドクターに何かしてくれとは言えないよ。僕としては痛手だけど、ピノコちゃんの安全を考えれば仕方ない」
物分かりが良いグラディスに首を傾げたくなる。今までのグラディスなら、ピノコなど知ったことではないとばかりにトラブルに巻き込んだはずだ。疑問であることは確かだったが、藪をつついて蛇を出しかねない愚を犯す必要はない。触れないでおくことにした。
「俺が巻き込まれるとなったらどんな役割だ」
「本当に巻き込んだら言うよ。一応極秘だし」
「確かに。それだけはありがたいよ」
話は終わりだとグラディスが立ち上がりかけた時、寝室のドアが開く音がした。キリコはテーブルの上の銃を見て「しまえ」と声無く仕草で伝え、グラディスが肩を竦めつつ素早く従う。
「驚くタマでもないでしょ」
「色々あるんだ、口を出すな。──マフィン」
リビングへ行き、バスローブを羽織っただけの姿で寝室から出て来たBJにキスをして、「赤毛が来てる」と告げる。途端にBJは眉を跳ね上げ、無言で寝室へ戻った。ほどなくしてジャグジーの作動音が聞こえる。
「僕が話す? ドクターが話す?」
「おまえさんから話してもらった方が事情を汲みやすいと思うんだが、あの不機嫌に耐える自信は?」
「どうってことないよ」
キリコやピノコでさえもお手上げになることがあるBJの不機嫌に、その不機嫌の原因であるはずの男は鼻で笑ってみせた。
「不機嫌に付き合ってやるから調子に乗るんだ。無視して話を進めりゃいいのさ」
「やってみたいが、俺がやったら色々最後になるだろうな」
溜息混じりの吐露に今度は素直に笑い、グラディスは新しい煙草に火を点けた。
「他人だからできるんだよ。ドクターがやったら宣戦布告でしょ」
「七人目の天使が大急ぎでラッパを鳴らすだろうよ」
それだけは御免だね。キリコは心底呟いた。
たっぷり時間をかけて風呂から上がったBJに、グラディスはキリコへと同様の説明をする。BJは確かに不機嫌だったが、相手が意に介さないと分かり、不機嫌を貫く自分が急に愚かな気がして、ある程度は社交性を復活させた。
何より、話の内容がダイレクトにピノコに関係あるという点がBJの意識を外の世界へ向けた。
「そういうことなら今日にでも出国した方が良さそう。誘拐されたお子さんたちには悪いけど、ピノコに何かあったら冗談にもならないし、関わりたくないし」
「僕もその方がいいと思うし、ドクターも同じこと言ってた。いつ出る? 一応僕と、間に合うならすぐ来られるデルタの隊員が護衛に就くからさ、時間を決めてもらえるとありがたいんだ」
護衛と聞いてBJは首を傾げる。何で、と言う顔をするBJに、キリコは「正確に言うと俺の護衛」と言った。グラディスは「何で知らないの」と言いたいような顔でキリコをちらりと見た。
「うん、ドクターの護衛。炭疽菌関連のメインメンバーだから当たり前なんだ」
「そう言えばそうか」
自分の恋人が合衆国で重要視される立場であることをやっと思い出す。闇医者が何でこんなことになっているんだ、と思わなくもなかったが、今それを言っても仕方ない。
「だから緊急時は先生もユリちゃんもピノコちゃんも守れないけど、恨まないでね。僕たちはドクターさえ無事ならいいんだから」
「言い方がいちいちムカつく。いざって時は私の男のために死にな」
「一気にこの任務が嫌になって来た。ぜひ無事の出国を」
「キリコに掠り傷ひとつ負わせてみろ、キンタマ切り落としてやるぜ」
キリコは聞こえない振りを貫き、受話器を手に取る。ユリとピノコに早急に知らせる必要がある。流石にもう昼寝から起きているはずだ。
「Hello?」
『Hello──にいさん?』
寝起きなのか、ひどく気だるい風情の妹の声が聞こえる。だが医者の勘と言えば勘、そしてすぐに確信に結び付き、溜息をついた。
「熱は?」
『流石ね。39℃ちょっと。咳もくしゃみもないけど、熱で関節が痛いわ。病気かもしれないから、ピノコちゃんにそっちに行ってもらっていい?』
『ユリしゃん、ピノコは大丈夫なのわよ。看病するのよさ』
『ありがと。でも先生が心配しちゃうから、先生のお部屋に行って頂戴ね』
「迎えに行く。一人で部屋から出さないでくれ」
『どうしたの。ピノコちゃんなら──』
「いいから待ってろ。いいか、一人で部屋から出させるなよ」
ユリの返事を待たずに電話を切り、訝しむ顔をするBJとグラディスに簡単に説明する。二人は同時に眉を顰めた。BJは医者として疾病に対する危機感、グラディスは緊急出国の護衛任務を担う者としての危機感からだ。
「39℃はすぐに動かせない。最悪の場合は病院に連れて行く必要があるかもしれない。とにかく診て来る。ついでにお嬢ちゃんを連れて来るよ」
「ユリさんも」
BJが厳しい声で言った。
「ユリさんも連れて来てよ。39℃の人を一人にするなんて医者のすることじゃない」
「コネクティングルームを使えるようにしておけ」
後から連れて来るつもりだったんだよ、とは言わず、実用的な指示を出してからキリコは部屋を出た。すぐにBJがグラディスに「気が向いたらよろしく」と言い置き、医療鞄を持って付いて来る。
「普段から熱を出しやすい人?」
「いや、俺が知る限り看護大学以来だと思うが」
とにかくユリとピノコの部屋へ急ぐ。エレベーターで乗り合わせた宿泊客がぎょっとしたように二人の傷を見比べたので、キリコはまた眼帯を忘れて来たことに気付いた。部屋から出る時には着用しておいた方が良さそうだ。
「ちぇんちぇい、ロクター、早く診てあげてほちいのわよ」
泣き顔のピノコが駆け出して来た。BJは彼女を抱き上げ、うん、すぐに、と言った。
「大丈夫、すぐ診るから。おまえさんも一緒に部屋を移ろう」
「ユリ」
寝室のベッドに沈む妹に歩み寄り、キリコは声をかける。ユリは眠ってはいなかったが、返事をするのも億劫だと言うことは見て取れた。だが女としての意地か、それとも羞恥心か、「にいさんは嫌よ」と言い放った姿はいっそ天晴だ。キリコは苦笑し、妹の女としての顔に敬意を抱く。
「先生に診て欲しいわ」
「分かったよ。──頼んでいいか」
BJに声をかける。ピノコから様子を聞いていたBJは頷いた。
「依頼料はにいさんが払ってね。それからあっちに行って。見ないでよ」
「それだけ減らず口が叩ければ大丈夫だろうよ。──頼む」
妹に家族のキスをして、待っていたBJに頼んで場所を譲る。診察の間はピノコの相手をすることにした。ピノコは「昼寝から先に起きたらまだ寝てたユリしゃんが凄く熱かった」と説明し、それから自分がしたことを懸命に教えてくれる。看護師ならそうしたであろう処置の数々を聞き、BJの日頃の教育の成果も無論あるのだろうが、この娘自身が非常に高い知能を持っているのだとキリコは実感した。そして妹のために力を尽くしてくれたピノコを、やはりいい女だと思って感謝する。
BJはいくつかの問診をユリに行っているようだった。漏れ聞こえる声は優しい医者のもので、聞いている家族のキリコまでをも安心させてくれる。ああ、そういえば父の時は──思い出しかけ、やめた。今はどうでもいいと思った。
「キリコ」
時間をかけて丁寧な診察を終えたBJが寝室から出て来る。駆け寄ったピノコを抱き上げて背を叩きながら、患者の兄に「深刻な病状じゃないけど、でも」と言った。
「でも、すぐ移動するのは無理」
「見立ては?」
「蓄積疲労か、あるいはビブリオ・バルニフィカス。それから貧血」
「──前者であって欲しいもんだ」
状況によっては重篤な病状を招く感染症の名前を聞き、キリコは溜息をついた。多いわけではないが、水温が高くなる時期の海なら誰でも罹患する可能性がある。
「貧血はともかく、蓄積疲労となると──やっぱりワシントンからかもしれない」
BJの声が曇り、闇社会の人間ではないユリにソフィアの件、そしてセルゲイの死を見せてしまったことを後悔しているとキリコに教える。キリコはピノコごとBJを抱き締め、髪に唇を落とした。
「言い切れないさ。それは本人しか分からない。他に問題は?」
「採血したから解析してみる。それで何も出なければ、熱が下がりさえすれば移動はできると思うけど、でも──」
体力的なこと、蓄積疲労を考えると、復調するまで推奨はできない、とBJは言った。キリコも同じ意見だった。さて、グラディスにどう言えばいいのか──そう考えかけた時、BJが言い捨てた。
「赤毛に配慮する必要なんかねえだろ」
「──うん?」
「デルタが動けるならここに来させればいい。ユリさんに無理をさせるくらいなら、間久部に何もかも頼んでデルタの顔なんか潰してやったっていいんだから」
「そうら、そうら!」
BJばかりかピノコまで、事情が分かっていないはずなのに騒ぎ出す。
「患者しゃんが一番大事なのよさ! ちぇんちぇいが診たんらもの、ユリしゃんはもうちぇんちぇいの患者しゃんらし、ピノコがお世話するのわよ!」
降参だ。キリコは少しだけ笑い、改めてピノコとBJを抱き締めた。
それからコンシェルジュに連絡を入れ、ピノコをユリから隔離する可能性を考慮し、部屋はまだ借りておくことにして、荷物の移動だけを依頼した。支配人が病院の手配について伺いを立ててくれたが、キリコとBJが医者であることを告げると、「お手伝いできる時にはすぐにご用命を」と言って引き下がった。
「ユリさん、血液検査の結果が出たら支配人にも教えます」
患者に選択させるのではなく、決定事項としてBJは通達した。
「伝染性感染症の危険性を心配しているはずです。プライバシーに関わることだけど、集団施設にいるわけだから──」
「わたし、看護師ですから。分かってます」
苦しい中、ユリは気丈に微笑んで承諾する。BJも微笑み返し、キリコに「部屋に運んで」と医者の声で命じた。兄に抱き上げられたユリは息を吐き、休暇なのにごめんね、と小さな声で言った。気にするな、と言う兄の声がぶっきらぼうで、それでも優しくて、戦地に行く前の兄の声は確かにこうだったと思い出して、少し泣きそうになった。
グラディスがコネクティングルームを整えてくれていたことに、BJとキリコはやや驚く。抱かれて入って来たユリを見て「弱ってる姿は悪くないね」と軽口を叩いてから、キリコに向かってコネクティングルームを顎で示した。
「一応、窓は開けてある。後の環境は医者が整えて。余分の毛布と氷枕はフロントに持って来てもらった」
「ありがとう。助かるよ」
「ユリちゃんには悪いんだけど、後で病状とか教えて。言える範囲でいいから。感染するやつかどうかだけでも」
「血液検査の結果が出たらすぐに」
「よろしく。──やあ、ピノコちゃん。先生たちが落ち着くまで僕の相手をしてくれない?」
ピノコはBJの判断を仰ぐためにちらりと視線を送る。気付いたBJは頷いた。
「その赤毛、寂しがり屋なんだ。相手をしてやって。ケーキでも注文して」
まだピノコに児童誘拐の件を話す時間的な余裕がない。それまではグラディスに目を光らせてもらうことに決めた。グラディスがピノコに話しかけたということは、今はその役目を担うという意思表示だと分かっていた。
とにかく血液検査の結果を出す必要があった。危惧している病気に万一でも罹患しているのなら、早急に設備が整った病院に移さなくてはならない。最悪の場合は手術になる。
「一時間程度で分かります。それまで薬は出せないんですけど、頑張って」
「はい」
それからユリは少し笑った。
「わたしが先生の患者になるなんて。兄妹揃って先生にはお世話になりっぱなし」
グマの一件を思い出したBJもつい笑った。そう言えばあの時も海ばかりの場所だった。そしてあの場所で気付いたことも思い出した。そう、初めて気付いたのはあの時だった。死神であるはずの男が、誰よりも生命を──自分以外の生命をも、全て、誰よりも愛しているのかもしれないと。
今はそれが正しかったことをよく知っている。
それから、この兄妹の父のことを思い出す。キリコやユリが自分から口にしない限り、BJも触れるつもりはなかった。だがもし触れた時、ただ頷いてくれるだけの聞き役が欲しいのであれば、それはきっと自分にしかできないことだと分かっていた。もはやその程度にはこの二人を愛していたし、そして愛されているという確信があった。
──自惚れと勘違いしているのかもしれない。でも、私はそれでもいい。
人の心を疑うことなど日常茶飯事で、心から信頼されることもなければ、心から信頼することもほとんどないと言っていい。間久部すら裏切った。それでも今は信じられる、信じる振りをしても良いと、自らに言い聞かせる勇気を持てている。自分にしては大きな一歩を進んだのではないかと思う。
それは何がきっかけだったのか、誰の力だったのか。考えるまでもなかった。考える必要がもはやないほど、自分の中に深く入り込み、信じても良いのだと教えてくれた男のお陰だった。
──あの男がいる限り、私は誰かを信じる勇気が持てる。
一時間後、メイン寝室で検査を終えたBJは思い切り溜息をついてキリコを呼ぶ。検査結果のメモを渡されたキリコは時間をかけてそれを見た後、念のために、と言い添えてからBJに問うた。
「おまえを疑うわけじゃないが、数値に間違いは?」
「私を誰だと思っている」
「名医さ」
「おまえさんの女じゃなかったのか」
「言うまでもないね」
そしてキリコもBJ同様、溜息をついた。BJよりかなり深い溜息だった。
安堵の溜息だ。
「蓄積疲労と風邪ってところか。我が妹ながら運がいい」
「ああ、よかった。ビブリオだったらオペになるところだった。あんな綺麗な身体にメスを入れる役目なんて御免だよ」
「ありがとう、安心した」
BJにキスをしてからユリのいるコネクティングルームへ行く。だがすぐに追い返され、苦笑しながら戻って来た。
「主治医に聞きたいとさ。頼むよ」
「我儘な患者さんだ!」
重篤な病気ではなかったからこそ言える軽口を叩き、BJは笑った。
BJがユリに説明をしている間、キリコはピノコとグラディスを探す。パティオでルームサービスのケーキを前に何やら話し込んでいたようだった。ビーチで子供の扱いに慣れている様子を見せていたグラディスなら、今回も妙な話はしないだろう──キリコの予想はすぐに裏切られることになる。
「ロクター」
キリコに気付いたピノコが顔を上げ、強い意思を湛えた目をしながらキリコを呼ぶ。嫌な予感がしつつもキリコはパティオに出た。
「お嬢ちゃん、待っててくれてありがとう」
「それはいいのよさ。ユリしゃん、どうなの」
「蓄積疲労と風邪。寝てれば治るし、寝るしかない」
「本当に?」
「もちろん。先生が診断したんだ、間違いあるもんか」
「──よかったぁ」
心底安堵した声で言ってくれる少女に感謝する。彼女がどのような未来を目指すかはキリコの知るところではなかったが、もし医療に携わる道を進むのなら、間違いなく優秀な、文字通り、優しく秀でた医療者になることだろう。
「じゃあね、ロクター」
「うん?」
「ギィしゃんに聞いたんらけど」
「ギィ?」
「あ、僕」
グラディスが軽く挙手する。グラディスの愛称、と短く説明した。キリコは納得する。ピノコの発音能力ならその方が言いやすいだろう。子供には案外譲歩する奴なんだな、と思った。
「ピノコ、迷惑はかけないのよさ。一人で歩かないし、海に行くのも我慢できるのわよ」
キリコはグラディスを見る。グラディスは頷いてみせた。
「今言った。先送りにしても良いことなんてないでしょ」
「何を言った?」
「誘拐されたら十中八九売られるよって話」
「Fxxk」
思わず口汚く罵った。ピノコは驚いて死神を見上げる。こんな汚い言葉を使う姿を初めて見たのだ。ピノコの驚愕に気付いたキリコは「失礼」と大人への態度でピノコに謝罪する。
「そこまで話す必要があったのか」
「僕なら娘にそこまで話す。子供でも自衛しなきゃいけない時代だし、今はまさにその状況だ」
「ピノコ、怖くないんらから。誘拐犯なんれぜーったい負けないんらから!」
ちょうどコネクティングルームから出て来たBJが娘の宣言を聞き、まず娘を見て、それから恋人を見て、恋人が肩を竦めた姿を確認してから、射殺すかのごとき視線を赤毛の男に向けたのだった。
「お嬢ちゃん、ユリが起きているようなら身体を拭いてやってくれないか。寝てたら部屋の窓を閉めて、熱を測って記録して欲しいんだ」
「あらまんちゅ!」
手回しの達人は恋人のために舞台を整えてやる。ピノコがコネクティングルームに元気よく向かってから立ち上がり、パティオに出て来たBJにすれ違いざまにキスをして「やり過ぎるなよ」と言い置き、ミニバーでBJのノンアルコールカクテルを作ってやることにした。
予想外にBJは怒鳴らなかった。コネクティングルームの病人と娘に配慮したのかもしれない。偉い偉い、と彼女にしてはかなりの自制を心の中で称賛し、ライムジュースをベースにしたカクテルをパティオに持って行ってやる。
「──だからおまえさんなんか大嫌いなんだ。自分が正しいと思い込みやがって、本当に腹が立つ」
「例えばここで僕と先生が殺し合うとするでしょ、高確率で僕が勝つ。はい、僕が正しい」
「東京裁判を思い出すよ。戦勝国の傲慢だ」
話の方向がややずれているようだが、キリコは口を出さずにカクテルグラスを置き、今度は自分のアイスコーヒーとグラディスのミネラルウオーターを持って来る。
「東京裁判はさあ、あれはさあ──いや、僕の立場じゃ言えないこともあるからアレなんだけど」
「オフレコにしてやるから言ってみろ。おまえさんの国が残した不発弾でツギハギになった身としちゃ聞いておきたいね」
「先生の口から初めて僕の国への文句を聞いた気がする。でもオフレコなんて信じないよ、アウトローを相手に金も絡まない約束なんか信用できるもんか」
「なるほど、バレたらまずい思想ってことか。ロンに相談しなきゃ」
「ドクター、このお姉さん怖い」
「怒ると俺より怖いぞ、気を付けろ。まだ怒り切ってないからな」
グラディスにミネラルウオーターのボトルを渡し、自分も座って一口飲む。ピノコがいないことを思い出して煙草に火を点けた。釣られたようにBJとグラディスも同じことをする。ふとBJが言った。
「ムカつくが別の話だ。配慮してくれてありがとう」
「何?」
「煙草。ピノコがいる時に吸わなかった」
「子供の前で吸わないのなんて当たり前でしょ」
不快そうに眉を顰める男を見ながら、そう言えばそうだったとキリコも気付く。グラディスが結構なヘビースモーカーであることを知っているキリコは、あの傍若無人な男の意外な一面に少しばかり驚いていた。
「でも、それとこれとは別。ピノコに不安がらせるようなことを言ったのは許せない」
「自衛しろってことだよ。前から思ってんだけどさ、日本人の防犯意識っておかしよ。大人の言い付けを守らなかった場合の最悪のケースについて教えておかないでどうする? いくらあの子が見た目通りの年齢じゃないって言ってもね。不安を持たせるべきなんだよ。不安は防犯意識を向上させて、向上した防犯意識は不安を払拭する」
「精神面への影響は? 言うべき年齢とそうじゃない年齢もあるだろう。あの子が見た目通りの年齢じゃないって言っても、理解力や直観力、学習能力の話だ。他は見た目相応なんだ」
「だからこそじゃないか。理解力があるって言うなら──」
キリコは敢えて口を出さない。そしてやはり驚いていた。グラディスが本気で子供の防犯について意見している姿が意外すぎたのだ。BJも途中で気付いたのか、カクテルを口に運びつつ、キリコに視線を送って来た。それから日本語で言った。
「何こいつ、ロリコン?」
「おまえ、流石にそれは──」
「私は幼女趣味を持っていません」
グラディスの口から飛び出した日本語に、BJは再び口に運んだカクテルを噴き出し、キリコは思い出した。デルタフォースの人員は任務の特性上、数ヶ国語を操る能力が入隊条件のひとつとされる。ソフィアの件で日本の諺を口にしたこともあった。
「え、何、日本語喋った? 嘘、やだ、こいつ気持ち悪い」
気持ち悪いって何だ、とキリコは笑った。グラディスも理解したのか、明らかにむっとして口を開く。
「私は日本語が少しだけ喋れます。でも嫌いです。発音しにくい。文法を面倒くさい」
「文法を、じゃなくて、文法が、だな」
「──いや、本格的に使う予定はないからどうでもいいけど。日本語はヒアリングができりゃいいだけだし、嫌いだし。でも覚えとく、ありがと」
グラディスは米語に戻して短くなった煙草を消し、もう一本咥えてから、「結局さあ」と言った。
「甘いんだよ。娘可愛いも結構だよ、確かに可愛いもんね、理解するよ。でもさ、可愛い可愛いで守り切れる? 最悪の事態を想定させておくんだよ」
「うちの方針は私が決めるし、今までもそうやって来た。変える気はないよ。大人が守ればいいだけだ。子供に責任を押し付けようとするなんてとんでもない」
「そういう話じゃなくて──」
どうしてこの男はここまで子供の防犯に熱心なのかと内心で首を傾げつつ、キリコは支配人にユリの検査結果を伝えるためにリビングの電話へ向かった。電話をしながら視界の隅でユリの世話を終えたピノコの姿を見付ける。途端にパティオの喧々囂々が収まったことに笑いそうになってしまった。やはり一番のいい女はどんな時でも最優先で扱われるべきなのだ。
「ユリしゃん、お熱が39.2℃よ。起きてたけど少し寝るって言ってたのわよ」
「ありがとう、さすが私の助手だ。──グラディス、出国はできない。ユリさんの主治医として許可できない。今動かしたら脳症や肺炎になる可能性がある」
「解熱剤は」
「一時的には下がる。でも薬が切れた時の反動が怖いから、移動を目的とした用途には使いたくない」
「分かった。主治医は先生だから僕は何も言わないし、いざって時はドクターだけ出国してもらう」
「おい」
「僕の決定じゃない」
電話を終え、話を聞いて口を開きかけたキリコの機先を制し、グラディスは強い口調で言った。
「国の決定だ。不満があるなら駐留本部に言ってくれ」
「──先生とお嬢ちゃんだけ出国するとなったら、護衛を手配してくれるか?」
BJはぎょっとしてキリコを見る。ちょっと、と言いかけたBJを手で軽く制し、グラディスに「どうだ」と問う。グラディスは数秒考えた後、頷いてみせた。ピノコは理解が追い付かず、BJの袖を引っ張る。BJは少し困った顔をした後、ピノコに「寝室で待っていて」と言い付けた。
ピノコがおとなしくBJの指示に従って姿を消した後、グラディスが口を開く。
「僕は賛成する」
「お嬢ちゃんが出国すれば、俺を護衛する理由もなくなるだろう。ここのマフィアと俺たち兄妹は全く関係ない」
「おっしゃる通り」
「おまえも休暇に戻れて万々歳だ。俺はユリが回復したら出国するし、問題ないだろう」
「二人とも、勝手に話を決めるな。私とピノコの考えはどうなる」
「これが最善だ。俺はそう思う。他に策がなければ黙るんだ」
キリコに珍しく強く言われ、BJは息を吐いて視線を逸らす。キリコの提案が正しいことは分かるが、こうも蚊帳の外のまま話を進められては感情が付いていかない。
「ユリさんは誰が診る」
「俺がいる」
「家族が診るのは間違ってる。病気への怯えで目が曇る」
「じゃあおまえが診たのも誤りだったな」
「本気で言ってる?」
「おまえがユリを家族だと思っていないなら、俺が間違っているんだろう」
肉を打つ音と、少し遅れてグラディスがひゅうと唇を鳴らす音が響く。
「痛ェな」
「最低」
罵りの言葉を吐き捨て、BJは乱れかけた感情を収めるために一度その場を離れることにする。キリコは唇を拭い、今回は切れていないことを確認した。以前この平手打ちを喰らった時には見事に唇が切れたものだ。
「先生、どこ行くの」
「幼馴染に電話する。デルタの顔なんて気にしてやるんじゃなかった」
夏のリゾートホテルには不似合いなコートと医療鞄を持ち、BJはそのまま部屋を出た。キリコは軽く溜息をつき、グラディスは苦笑した。
「ま、ピノコちゃんと二人で出国するってことでしょ。良かったじゃない。うちの顔、立ててくれようとしてたんだ?」
「そうなんだが、本当にあいつはいちいち面倒くさい」
「そう言うなよ、いい女じゃない」
「おまえさんがあいつを褒めるのは珍しいんじゃないか」
「僕の役に立つ女性はいい女だ」
「いつか刺されるぞ」
間久部なら連絡を受けてから最速で動くだろう。フランスならすぐに手配も終わるはずだ。ついでに上手いこと機嫌を直しておいてくれ、と、キリコは会ったこともない間久部に願ったのだった。