「……他に人もいないんだし、普通でいいんじゃないか?」
「……これが私の普通なわけだし、おまえさんと基準が違ったって受け入れる気はないね」
燦々と降り注ぐ陽光、陽光を受け止めて輝く青い水面、砂浜に押し寄せる波に歓声を上げてはしゃぐ美少女と美女。パラソルの下には抜かりなく、クーラーボックスでこれでもかと冷やしたミネラルウオーターや炭酸水、果実のジュースが用意され、おまけとばかりに洒落た盛り付けのフルーツが鎮座する。
夏だ。海だ。金に物を言わせれば、ハイシーズンでもサービスが行き届いたプライベートビーチを確保できる。だからキリコは金に物を言わせた。モグリの無免許医のような無茶苦茶な稼ぎ方をしないから目立たないだけであって、死神は高所得者だ。しかも普段は贅沢に興味がない。よってそれなりに貯まる。しかし吝嗇と言うわけではなく、こんな時には気前良く放出する。
だからこそ言いたい。大いに言いたい。
「……コートを脱いだのは評価するし、嬉しいよ。熱中症のリスクが減るのは医者にとって喜ばしいことだ」
「そうだろう。私にしてはかなり譲歩した。だからおまえさんも譲歩するべきだ」
「譲歩したからプライベートビーチを借りたんだ。相場の2倍だ、かなりの無理をした」
「バカンスに金の話なんて。無粋な男」
「バカンスにその格好は無粋な女じゃないのか」
ハワイでも着込んでいたと言うあの暑苦しいコートを脱いだことは心から評価するし、嬉しい。だがもう少し、あと一歩の譲歩──いや、BJにとっては勇気かもしれない──を見せて欲しい。
「下は水着だから全く無粋じゃないし、日焼け防止って考えられないのか?」
「日焼け防止にも色々あるってのに、よりによってラッシュガードとトレンカはないだろう。ママが子供の夏休みのプールに付き合うわけじゃないんだから」
「子持ちと言えば子持ちだけど?」
パラソルの下に陣取って冷えた炭酸水に手を延ばすBJに、キリコはつい溜息をついた。その溜息にむっとして、BJはキリコを睨む。
「アイパッチの形に日焼けしちまえ。少しは男振りが上がるだろうよ」
「お嬢ちゃんが怖がらなければ外すんだがな。まあ今年は仕方ない」
「嫌味で言ったんだけど」
「嫌味に聞こえなかった」
「ユリさんは? 見てもいいのか? ガリシアで見せてなかったじゃないか」
「義眼を入れろってうるさいから見せないだけだ。しかもおまえにやってもらえって言うし」
「それねえ、癒着してるから手間なんだよなあ。一度切開して──」
「そういう話はいいから。とにかくその格好は俺の期待を著しく外れていてね」
「ああ、そう。それは残念だったな」
綺麗にカットされたオレンジに噛り付き、BJは鼻で笑う。キリコの要望を受け入れる気がないことは明白で、これ以上言えば機嫌を損ねると分かったキリコは諦めるしかなかった。
「大体、私の裸も見てるんだ。そんな相手の水着姿なんか見なくたっていいじゃないか」
「違う、そうじゃない。違うんだ。水着はまた別なんだ」
「……どうして力説するの。気持ち悪い」
やや本気で引いた顔をしたBJに、思わず熱くなった自分を自覚して恥じる。良い歳をして表に出していいことではない。心の中に秘めるべきだった。
「幼馴染くんに訊いてみな。俺の今の気持ちを心から分かってくれると思うよ」
「それはない」
「あるって。男だから」
「だって、この格好にしろって言ったのは間久部なんだから」
「──何だって?」
BJは飲みかけの炭酸水とトレイにあった新しいオレンジをキリコの前に押しやる。キリコはオレンジを炭酸水に絞ってやりながら、もう一度「何だって?」と言った。
「ガリシアから内陸に出た時、キリコがここを抑えてくれて──もうちょっと」
新しいオレンジを渡し、BJは続ける。
「でも、ピノコは特殊な環境を作らなきゃ泳げないから、いくらユリさんが相手をしてくれる時間が多いって言っても、ずっと波遊びに付き合わせておくわけにはいかないし。私も海に入らなきゃいけない時もあるわけで」
「別に俺が入ってもいいわけだが、それで?」
「でも、ユリさんが用意してくれた水着は──何て言えばいいのか」
「どんな水着かも聞いてないんだが」
「何て言えばいいのか」
「うん?」
「……ハードルが高かった。私には、とても」
キリコはやや沈黙した後、男の力にものを言わせて目一杯絞り切ったオレンジの残骸を皮入れ代わりの小皿に入れ、果汁を足した炭酸水をBJの前に戻す。一口飲んだBJは「ありがと、おいしい」と呟き、それから話を再開した。
「でもわざわざ買ってくれたユリさんの手前、着ないなんて選択は許されない。試着の時にユリさんに見てもらったし、それでもういいかなって。だから間久部にアドバイスをもらったんだ」
「異性の幼馴染にする相談かよ」
「そういう話に持って行くならもう話さない」
「今後は持って行かない。それで?」
異性の幼馴染と言うには距離感が一般的な常識と剥離していることは確かだが、間久部のことで喧嘩をしたことは一度もない。キリコはそれほど間久部の存在を気にしていなかった。BJと間久部が男女の仲であれば、そもそもBJはキリコを恋人だとは思わないはずだ。目の前で二人ならではの何かを見せつけられれば話は別かもしれないが、今のところ、キリコと間久部が顔を合わせる予定は全くなかった。
「それで、相談したら。ラッシュガードとトレンカなら海辺でも目立たないって教えてくれたんだ。間久部は部下に調べさせたらしいけど」
「さすがCIA以上の情報網を誇るマフィアだな。真夏のビーチのライフハックもお任せと来たもんだ」
キリコはそれで話を切り上げることにした。水着姿が見られないことは残念だが、強制することではない。そもそもコートを脱いだだけでかなりの勇気が必要だったはずだ。その勇気を称賛するべきだ。自分も言いたいことは言ったし、互いの着地点を引き寄せることにした。
「コートを脱いだだけでも御の字だしな。ありがとう」
「……いや、礼を言われることじゃないけど」
「ラッシュガードとトレンカも可愛いよ、って意味だ」
BJは唇をひん曲げて軽く頷き、ああそう、と呟くと、少し赤らんだ顔を隠すようにビーチチェアに深くもたれ、煙草に火を点けた。ビーチに来た時よりも少し強くなり始めた海風が煙をあちこちに撒き散らしてしまう。
「波も荒れるな。一回戻すか」
BJに一度キスをしてから立ち上がり、キリコは波打ち際で遊ぶユリとピノコの方へ行こうとする。
「キリコ」
「うん?」
「怖がらないよ」
それだけで何を言われたか分かり、微笑んでからアイパッチを取ってBJに投げた。受け取ったBJも微笑んだ。
一度海から離れるように言ったキリコの露わになった左目を見て、ユリは驚きはしなかったが、ピノコが飛び上がった後、目を輝かせて、かっこいい! ロクター、かっこいいのよさ! と大声で歓喜し、ビーチチェアにいたBJは「あの子は私と男の好みが似ているのかな」とあながち見当違いではなさそうなことを思ったのだった。
「ホテルのプライベートビーチなんて初めて。にいさん、よくこんなハイシーズンに抑えられたわね。しかもアンティーヴなんて」
海から上がった客たちが暫しの休憩をすると察したスタッフが音もなく近付き、飲み物とスイーツを追加して、また音もなく消える。
「札束で頬を引っ叩く紳士もいるってことだ」
「あ、私もたまにやる」
「便利だよな」
「うん」
兄と兄の恋人の会話を聞き、ユリは笑顔で「そうなんだー」と適当な相槌を打つ。やや顔が引き攣ったことは否定できないが、恩恵に与っているのだから文句を言うなどとんでもない。ガリシアでの休暇があまりにも残念でやや気落ちしていたところ、内陸に入った途端、助手席の兄の恋人が「アンティーヴしか抑えられなかったんだけど、いいですか」と言い、ピノコと顔を見合わせたのだった。
兄が全て手配してくれたと聞き、そういえばにいさんはこういうことが凄く得意だったわ、と久し振りに思い出せた。家族旅行の時もそうだった。両親が何もかも任せても、完璧で快適な旅行をさせてくれたものだ。
「プライベートビーチって言っても、私たちだけで使えるのは今だけらしいですけど。ここは時間貸しで、あとは予約分が回って来るまではホテル客の共有ビーチになるそうです」
「共有って言ってもホテル客しか入れないからな。性質の悪いのはいない」
それからキリコは妹に「おまえたちが泊まる方にジャグジーと専用プールがあるから」と言った。ユリは首を傾げる。
「わたしたちって? わたしとピノコちゃん?」
「先生はどこに泊まるんだ」
「どこって」
ユリはついピノコを見る。ピノコもついユリを見た後、大人顔負けの深い溜息をついた。
「ロクター、結論から言うわのよさ。ちぇんちぇいとロクターはおんなし部屋じゃないとダメなのよさ」
「……俺の部屋はね、お嬢ちゃんたち用に取ったエグゼクティブスイートじゃないんだ。広くないし、寝られればいい程度だから普通の部屋なんだよ」
「あら、それでもこのホテルならダブルベッドかクイーンベッドくらいはあるでしょ。ねえ?」
ユリとピノコは顔を見合わせ、同時にうんうんと頷く。理解がありすぎる娘にぽかんとした後、BJは耳まで赤くなった。自分はまだどうしても慣れないのに、なぜ娘の方が、しかもキリコを恋敵と認定しているピノコの方が慣れてしまっているのだろう。
「ロンドンではみんなでおんなし部屋で寝たのよさ。れも、このホテルはロンドンの時みたいに広くないのわよ? らったら、おっきいドクターが広い部屋を使うのわよ」
「そうよ。それにわたし、にいさんと同じ部屋なんて嫌だわ。普通の部屋でにいさんと二人? 狭いじゃない。アンティーヴまで来てそんなの冗談じゃないわよ」
「れしょ? そちたら、消去法でユリしゃんとピノコは普通の部屋れしょ。ちぇんちぇいとロクターは広い部屋れしょ!」
二人の怒涛のような波状攻撃に、BJは顔を抑えて俯き、「分かったから」と呻いた。キリコはとうに敗北を認め、BJに敗戦処理を任せる始末だった。気を使った自分たちの何と愚かなことか。理解ある女性たちを侮っていたようだ。
「分かったから。私とキリコが広い方の部屋を借りるけど、寝る時以外は使ってくれないか。チェックイン前だし、まだ聞いただけだけど、かなり広くて設備も凄いみたいだから」
「早く見たいわのよ! チェックインはまだれきないのよさ?」
「14時からだから──もういいか。キリコ、もう行く?」
「そうだな。──チェックを」
アイパッチをしてから控えていたホテルスタッフに合図をし、利用を終了することを告げる。訓練されたホテルスタッフはすぐに手続きを終えた。どんな部屋かな、とはしゃぐピノコを見て、BJは我知らず微笑んでいた。恋人が可愛い妹に「にいさんと同じ部屋なんて嫌」と言われて傷付いていたことには気付かなかった。
ピノコとユリの部屋には荷物だけを運び入れ、夕飯まではBJとキリコの部屋で過ごすことにした。部屋に入った途端、女三人は歓声を上げる。足を踏み入れた瞬間に目の前に広がる光景は陽光を浴びて輝くオーシャンビュー、広いリビングスペースから続くパティオがあれば当然の反応かもしれない。あまりこういったことに情熱を傾けないキリコでさえ感心した。船舶スペースがよく見える。ヨットやジェットスキーが思い思いの動きをして夏の光景に彩りを加えていた。
白い内装を基調にしたリビングを抜けてパティオに出れば、専用のプールが目に入る。既に透明度の高い水が宿泊客を待っていた。浅い場所ならピノコも入れるな、とBJは目視で確認した。
荷物を運ぶベルボーイの他、上級の部屋を使う客に付いて来たホテルマンが部屋やホテルの施設について様々な説明をするが、女三人は部屋の探索に夢中でそれどころではない。キリコが詳しく聞き、うるさくて失礼、と礼儀として謝罪すると、ホテルマンは「どこのご家庭もお父様が一番頼りになるようですから」と言葉を選び、実際には遠回しに「どこの家もこんなもんだ」と教えてくれた。キリコは肩を竦め、無理を言って部屋を取った詫びも込めて多めの紙幣を渡しておいた。
ホテルマンたちが退室してからアイパッチを外した。長年着けているものの、やはり外した時の肉体的な解放感にはほっとする。ピノコが怖がらないでいてくれることは僥倖だ。流石名医の娘と言うべきだろうか。
ロンドンで使ったフォーシーズンズほどのグレードではないが、充分すぎるほど高級な部屋にキリコも満足する。まずは自分の居場所を確保してしまうことにした。女たちに占領されそうもない場所と言えば寝室くらいだ。とはいえ、ここもピノコが昼寝をする可能性が高い。いわゆる男の書斎の作るには向いていない場所だろう。
パティオに出ると、日陰にあった二人掛けのラタンソファを既にBJが陣取って海風に当たっていた。あそこでいいか、とやっと決め、時計を見る。もうすぐ15時だ。ピノコかユリが気付けばお茶とお菓子を所望することだろう。ルームサービスのメニューを開くと抜かりなく、ずらりと夏のスイーツが紹介されていた。
「ほら」
BJにメニューを渡し、自分はリビングの片隅にあるミニバーへ入る。高級ホテルのお約束と言えばお約束の施設だが、これが有ると無いとでは、酒を飲む人間の休暇の楽しみが少し減るのだろうと思った。
「ねえ」
パティオからBJがメニューを持ってやって来た。
「うん?」
「何か食べる?」
「おまえたちは決まったのか」
「まだ訊いてない」
「訊いて来いよ、頼んでやるから」
「だからキリコが最初に決めて」
何が「だから」なのかはよく分からないが、BJなりの優先順位を示したことは分かった。ピノコよりも上位になったことにやや驚いたが、よく働く男への褒美のようなものだろう、と思った。BJの髪に唇を落としてメニューを覗き込む。
「じゃあこれ」
「フムスとピクルスのピタパン? ヴィーガン用って書いてあるけど」
「スプリッツァが飲みたいんだよ」
「ライム濃い目かな」
「正解」
白ワインのカクテルに合うと納得し、BJはパティオでようやく落ち着き始めたピノコとユリの元へ向かった。キリコの予想以上に時間をかけて──女三人集まれば、と言うやつのせいだ──戻って来たのはBJではなくユリだった。
「先生が季節のフルーツプレートで、ピノコちゃんがマンゴープリンとベリーのミルクシェイク。それでわたしがこれ、プレーンのワッフルがいいんだけど、それにクリームチーズとマスカルポーネクリームを5対5で8にして、そこにメイプルシロップを2の割合で、最後にベリーコンポートを添えて──」
「おまえが注文しろ」
スイーツに並々ならぬ情熱を見せるユリに白旗を上げ、ルームサービス用の電話を示す。ユリは意気揚々と受話器を手に取り、担当部署への直通コールボタンを押した。ユリはフランス語が話せないが、高級ホテルなら高確率で英語が通じるものだ。
未知の言葉にしか聞こえない妹の注文を耳にしつつ、どうやらスムーズに注文できているようだと確認してからパティオに出る。
ラタンソファのBJの膝枕でピノコが眠りかけていた。心得た男は別のソファに座り、遊び疲れた小さな娘が眠るまで待つ。波の音が心地よく響き、潮風に頬を撫でられ、かしましい女三人のツアーコンダクターを続けて予想以上に疲れている男の眠気まで誘われ始めた。だが眠りの国への競争はピノコが勝利を収め、キリコはどうにか意識を手放さずに戦線を離れた。
眠気覚ましも兼ねて寝室へピノコを連れて行く。寝室と繋がったバスルームの窓一面がガラスで、海を眺めながらジャグジーを楽しめるのだと知った。これは後でユリが占拠しそうだな、と苦笑した。
「ルームサービスが来たら起こせばいいか」
「どうだろうな。無理に起こさなくてもいいんじゃないか。移動疲れもあるだろう」
BJの隣に座って肩を抱き寄せ、女が何か言う前に少しばかり深いキスを仕掛ける。BJは素直に受け入れ、キリコに与えられる心地良さに酔った。この男と唇を合わせるまで、奪うのではなく、与えてくれる優しいキスもあるのだと知らなかった。
「後は食って寝るだけか。今日は夕飯もルームサービスにして、早めに寝た方がいい」
「そうかも。わたしも眠くなってる」
「俺も」
「さっき寝かけてた?」
「お嬢ちゃんが羨ましかった」
二人で笑いながらまたキスをする。ホテルのゲスト専用の共有プライベートビーチから徐々に人が減り始め、夕暮れ時が迫りつつあることを感じながら、何度もキスをした。パティオに入りかけたユリが回れ右をしたことも知らずに。
ルームサービスの後は部屋の中で思い思いに過ごす。キリコは持って来ていた本を読み、ユリはミニバーから持ち出したシャンパンをお供にジャグジーへ、ピノコは明日の希望をBJに話し、BJはそれをうんうんと聞く。夕飯はまたルームサービスをパティオで取って、レストランで食べるよりもずっとだらしない時間を過ごした。
「ちぇんちぇい、ロクター、明日は朝いちばんれビーチに行くのよさ!」
「分かったよ。でも、おまえさんは水際までだよ」
「分かってるのよさ。れも、お部屋のプールは浅いろこならいいれしょ?」
「それはもちろん」
日本の家では精々ビニールプールだ。BJが特別に用意してくれたプールは生身部分の肌が荒れるため、長時間入れない。ここのプールなら大丈夫と知ってから、ピノコは楽しみで仕方ない。
「じゃあ、わたしたち、もう寝ます。お休みなさい」
ユリがピノコを連れて部屋を出て行く。途端に訪れた静寂に、思わずキリコとBJは顔を見合わせて笑ってしまった。
「いる時はそんなに思わなかったけど、いなくなると賑やかだったのが分かる」
「いや、いる時から充分賑やかだったが」
言いつつ、その賑やかの中にBJ自身がいたのだから分からなくても仕方なかっただろう。
キリコはBJの顎を指で持ち上げてキスをする。触れるだけの軽いキスかとBJは思ったが、下唇を甘く噛まれた途端、びくりと身体に熱が走った。キリコは分かっているかのように舌を忍び込ませ、吐息を逃がす女の舌を絡め取って、柔らかく優しい、だが明らかに性感を高めるためのキスを繰り返す。
これだけで陶然となってしまう自分が情けない──BJは自分にすらそんな建前を言いたくなる。本当は嬉しくてたまらないのに。この男に本当に意味で抱かれるのはまだほんの数回、片手の指で事足りる程度だ。一度目はとにかく夢中で、細かいことはよく覚えていない。溶け合って、泣くほど幸せだったことしか思い出せない。
キスの合間にいつの間にかリボンタイを外され、ベストとブラウスのボタンをくつろがされていたことに気付かなかった。片腕で抱きすくめられ、空いた片手がブラウスの隙間から入り込んで来る。
「……ん、ふ」
男の指とてのひらに優しく乳房を揉まれる。キリコの手に少し余るくらいのふくらみが弾み、すぐに尖った乳首に指が掠るたび、BJは身を捩り、唇を噛んで声を抑えた。どうしてこんな声が出るんだろう、と不思議でならなかった。
止め切れない声と上がった息が、男と、そして自分を煽る。今わたしはこの男と、ふたりでしかできないことをしているんだ。そう思うだけで身体の奥底に湿った熱がたちまち溢れ、思わず「ああ」と熱い吐息と共に声を漏らした。
同時に唇を強く塞がれる。今度はBJから舌を絡めた。うまくできない。それでもきっと男が怒らないことは分かっていて、そんなキスをしたいからした。男が優しく導いてくれるままにキスを繰り返す。飲み込み切れなかった唾液が唇の端から溢れ、キリコの指が乳首をきゅうと甘く摘まんだ途端、身を震わせて思わず唇を離し、ふぁ、と情けない喘ぎを熱くなった空気の中に流してしまった。可愛い、とキリコが囁く。それだけでまた喘いでしまいそうなほど熱い。
抱き上げられて寝室に運ばれた。今時映画だってこんなことはしない──そう思うのに、男が歩きながら仕掛けるキスに抗えない。もう身体が蕩けそうに熱くて熱くて、全身がキリコに触れて欲しいと悲鳴を上げていた。
キリコは自分の欲を優先しない。最初はそれに戸惑った。そんな男を知らなかったし、映画で観るような優しくあたたかいセックスなど、そこいらの女たちの願望だと思っていたのに──思い込もうとしていたのに、今は違う。
触れて来る指も唇も優しくて、あたたかい。優しく、そして慣れない女がまだ恥ずかしがる様子に苛立たず、責めないで、時間をかけて服を脱がせてくれる。床に突き飛ばされることもなければ恫喝されることもなく、抑え付けられて服を破かれることもない。
ただただ優しくて、熱い。
「あ、……ん」
優しい指と唇を肌に落とされるたび、堪え切れない喘ぎが漏れる。恥ずかしくて唇を噛んで堪えようとしても、目敏い男は許してくれなかった。
「可愛い」
唇を舐められて、それすらも愛されていると分からせてくれるようで、安堵のあまり、ふうと息を吐いた。
キリコは微笑み、顔中に唇を落として一度BJを落ち着かせる。またキスをして始めからだ。
BJに言うことは決してないが、他の女にこんなことをした記憶がない。男の欲の優先に慣れている割り切った女の方が楽で好きだったはずなのに、今はどうだ。どんなに慣れていなくてもどんなに面倒でも、たまに無意識に何かの記憶に怯えるような顔をしても、溢れかえるのは愛しさだけだ。こんな女は知らなかった。それがまさかBJだったとは夢にも思っていなかった。
「──ん」
濡れた秘所に入り込む指の圧迫感に思わず顎を逸らせる。キリコの長い指がゆっくりと中を探索し、そのたびにぐちゅりと濡れた音がして、わたしはどれだけこの男を待ち望んでいるのかと恥ずかしくなりながら、それでもまた熱くなる身体を止められない。いつの間にか腰を揺らしていることにも気付けない。
頬に唇を落とすキリコの息が熱いことは分かって、背筋がぞくりとするほどの、それでも熱すぎる歓喜が走った。この男がわたしで興奮してる──そう思うだけで嘘のように嬉しくて、指が入り込んだ場所がきゅうきゅうと締まった。
「きついよ」
「ひ、あぁ!」
キリコが笑いながら指を曲げ、ある一点を引っ掻くように動かした。途端に経験したことがない深い快感が全身に走り、BJは自分でも驚くほどの声を上げて身を捩る。
「ここか」
キリコが呟いた声が聞こえたような気がしたが、新たに増やされたその場所を舐る指がもたらす感覚があまりにも強すぎて、はっきりと分からなかった。
「だめ、──そこ、だめ、──あァ……!」
未知の感覚が快感だと知識では分かる。きっとあそこだ、あの場所だ、女が凄く感じる場所──医者ならではの知識もある。だがそんなことをこんな快感の中で理性的に考えられるはずもない。
「だめ? 気持ちよくない?」
暴れそうになる女の身体を抑え付けるのではなく脚を絡ませて動きを封じる。指を締め付けるきつさと、未知の感覚に怯える、だが確実に快感を覚え始めている女の表情に獰猛な男の本能が牙を剥きそうだった。それだけは──それだけは、と必死で堪える。BJには余裕のある顔を見せながら、その実、キリコも水際に等しかった。
「わ、わかんな……わかんない……っ!」
「大丈夫、可愛い」
「ひ……っ!」
言うなり指で秘芯をくるりと軽く撫でるように触れられる。それでだけで痺れるような、信じられないほど強い感覚が走り、ぎゅうぎゅうと指を締め上げながら蜜を溢れさせた。恥ずかしいなどと思う余裕も吹き飛んだ。意識が全て男の指がもたらす未知の快楽を追おうとする。ひっきりなしに喘ぎ、身を捩り、可愛いと囁かれて額や頬に何度もキスをされる。男が唇にキスをしないのは声を聞きたいからだなどと分かりはしない。
「まだ、いったことなかったね」
キリコが囁き、身を起こす。何を言われたのかよく分からないまま、んん、と呻きながら頷き、キリコが入りたいのかな、とぼんやりと思った。
「少し頑張ってみようか。大丈夫、怖くないから」
「──きゃぁ、あ!」
何を言っているの──問おうとした瞬間、薄皮を剥かれた秘芯を強く弾かれて悲鳴を上げた。キリコが獰猛な目を隠し切れなかったほどに甘く濡れた雌の悲鳴だ。自分では分かりはしない。何度も弾かれ、そのたびに悲鳴を上げる。あまりに強い感覚に涙が出る。入り込んだ男の指が傍若無人に動き、蹂躙されていると見せかけて喜んで飲み込む秘肉はぐちゅりと音を立ててそれに貪欲に絡み付く。
「キリ、きり、こ、変、なんかへん……っ!」
ぞくぞくと震える何かが身体の奥底から絶え間なく沸き上がり、悲鳴のような喘ぎが止まらない。キリコの指が動くたびにいやらしい音がしても、もう恥ずかしいなどと思う余裕はなかった。これは快感だ。きっとそうだ──BJは遂に泣き出しながら知る。泣いているのに目の前の男は怖くない。酷いことをされているわけではないと分かっている。
「変、もう、だめ、変になっちゃうからぁ……!」
「いいよ。変になっちゃって。俺しかいないんだから大丈夫だよ」
言うなりキリコの指が秘芯を強く摘まみ上げた。
「ァ、あ──!」
絶叫のような悲鳴を上げてBJの身体が痙攣し、それから──最高、とキリコは呻くように呟く。女から噴き上がった透明の水が指と腕だけではなく顔にも飛び、唇の端についたそれを思わずぺろりと舐めた。
「潮、噴けるのか。──すごい。可愛い。最高」
「や、……見ないで、やだ……っ」
知識としてしか知らなかった強すぎる絶頂を男に見られた恥ずかしさが、理性と共に一気に駆け戻って来る。まだ溢れて止まらないそこから男の指を外したくて身を捩り、逃げようとした。どこへ逃げるんだ、逃がすはずないだろう──辛うじてその言葉を飲み込み、キリコは雄の笑みを浮かべないように必死で自制しながら、それでも怖がられない程度に力を込めた腕で背後から腰を抱え上げた。
上半身をシーツにくたりと投げ出すしかないBJが嫌がる間もなく再び指で中を捏ねて、そのたびにまたとめどなく、喘ぎと透明な愛液を溢れさせる。寝具はびしょ濡れで酷いありさまだ。それでもそんなことには構っていられない。
「きり、こ、お願い……っ、もう……っ」
「ほら、ここだ。気持ちよかったね」
「あァ!」
喘ぎと泣き声が一体化した声は、キリコが自制の限界を感じるほどに男を絡め取って行く。我ながら荒い息を吐いている自分がみっともなくて滑稽だと思いながらも、それがどうした、とも思った。──それがどうした、何が滑稽だ、好きな女を初めていかせたどころか潮まで噴かせたってのに、冷静でいられる男なんか男じゃない。
「ねえ」
逃げることを諦めて、男にされるがままになる女をシーツに横たえ直し、正面から見降ろして何とか微笑んでみせる。
「俺を中に入れて」
男に残った最後の理性が懇願する。荒い息を吐いて余裕のない、みっともない懇願なのに、やはり荒い息のままの女は可愛らしく、だが切羽詰った顔で頷いてくれた。可愛くてたまらない。自身に手早く薄いゴムを被せながら何度もキスをした。
ああ、最高、俺の女──身体をのけぞらせ、甘く蕩けた声を漏らしながら迎え入れてくれる女を眺め、キリコはこの上ない快感と幸福を全身で味わう。ああ、と思わず吐息を漏らした。男の吐息にすら感じてぎゅっと締まる、繋がった場所から与えられるものは快感だけではなくて、根底にあるのは愛しさだ。
滴るほど濡れた柔肉は媚びるようにキリコを咥えこみ、もっと、もっとと絡み付いては奥に誘い入れたがる。軽く腰を揺らすだけで蕩け切った甘すぎる喘ぎといやらしい水音が寝室に響き、それすらも二人を煽るだけだった。
「ひん……!」
BJがひときわ高い声を上げて身を跳ね上げる。途端に強い締め付けをお見舞いされたキリコは僅かに呻いたが、歯を食いしばり、何とか堪えた。
「どうした? 痛い?」
「ちが、痛くな、い、けど──奥……っ」
「奥──ああ、ここかな」
「きゃあっ!」
指で秘芯を捏ねながら奥の一点を突いた瞬間、悲鳴と共にBJが痙攣し、小さく達した。可愛い、俺の、とキリコは呻き、覆い被さるようにかたく抱き締めて唇を塞ぐ。強く舌を絡ませて突き上げるたび、抱き締めたBJの身体が何度も小さく痙攣することに気付き、少しやり過ぎたかな、今日はここまでか、と冷静な自分を取り戻してしまった。
「ここはまた、今度ね。そのうち中だけでいけるようにしよう」
経験が少なすぎるBJにそこまで急がせることはない。むしろ許容しきれない快感に怯えてしまうかもしれない。時間をかけて抱いて行く幸福を味わいたいのも本音だ。
可愛い、最高だよ、たまらない、愛してる──何度も囁きながらやっと欲望のまま動くことを自分に許し、聞いているだけで男を絞り取ってしまいそうな悲鳴混じりの喘ぎと、絡み取り、締め付けるそこに目眩を覚えるような快感を与えられながら、過ぎた快楽で遂に失神したBJを見た途端、耐え切れずに熱を叩き付けていた。
バスルームの窓から見える海は既に夜だ。周辺は最低限のライトアップで、品の良い観光地を保っている。ジャグジーが湧き出るぽこぽことした音にセックスの余韻を流しながら、BJは溜息をついた。まだ頭がぼんやりとしているし、自分の身体が自分のものではなくなってしまったような気がする。
「はい」
「ありがと」
バスローブ姿のキリコがミニバーで作った薄いカクテルを持って来てくれた。一口飲んで少し甘い液体が全身に染み渡る感覚を楽しみ、グラスをジャグジーの縁に置いてからキリコを指で招いてキスをしてもらう。
「キリコは入らないのか?」
「後でいいよ。一緒に入ったらまた抱きたくなるから」
それを聞き、そういう意味で言ったんじゃなくって、と顔を赤くするBJに笑ってもう一度キスをする。
「明日はどうしようか。何も決めてないな」
「ピノコがプールと海に入りたいって言ってるくらい。ユリさんはどうなんだろう」
「あいつはあいつで勝手にするんじゃないか。危ない場所に行かなけりゃいい」
「ユリさんが海に出る時はキリコも行ってよ」
「分かってるよ」
身内から見てもとんでもない美女だ。スタイルも群を抜いている。そのユリを水着姿で一人、夏のビーチになど出せるはずがない。
「まあ、あいつも自衛はできるから。どこかで休暇限定の下僕を見付けて護衛代わりにするかもしれないし」
「……本当に、ユリさんってすごい」
スペインのガリシアでそんなユリを見たばかりだ。初めて会った時は礼儀正しく穏やかな美女だと思ったのに、まさか女の人生の達人だったとは。
「明日、お嬢ちゃんが昼寝から起きたら市街に出てみるか。女の子が好きそうな街だからな」
「この辺、詳しいんだ?」
「何度か仕事で通ってる」
「聞かなかったことにする」
二人が二人になってから、こんな譲歩もするようになった。今でも前もってキリコが本業を請けると知れば全力で止めるが、過去のことまでを責めてはならないと分かったからだ。選ぶ手段は違っても、患者の生命に全身全霊で愛を捧げ、最期まで添うことだけは知っている。だからこそできる譲歩なのだろう。
「パティオでちょっと飲もうかな。何か作ってよ」
「何にする」
「ちょっと甘いの。マカロンに合いそうな」
「おいで」
贅沢でだらしない時間を楽しむためにバスルームを出る。キリコがルームサービスでマカロンを頼み、ミニバーで酒を作り始めた。
パティオに出たBJが煙草に火を点けた時、室内の電話が鳴った。キリコが応答する声が聞こえる。──いや、繋ぐ必要はないよ。手間をかけるが休暇中はここにいると伝えて欲しい。聞いていたBJは眉を顰める。
「誰」
「ああ、うん」
カクテルを持って来たキリコは僅かに肩を竦めた。
「フォート・デトリックの連絡係。一応緊急事態に備えて、プライベートの移動の時は毎回連絡してるんだ。本業の時は絶対教えないけどな」
「──何かあったってこと?」
「さあ。聞いてないし、聞く気もないよ。俺が連絡した時に担当者が出なかったから伝言にしておいたんだが、その確認のためじゃないかな」
休暇中だから、と付け加え、キリコはラタンソファのBJの隣に腰を下ろして引き寄せる。
「場所は教えてやってるし、向こうで何かあったらデルタがとっくに俺を攫いに来てるだろ。放っておいていいさ」
「デルタが来たらメスダーツの的にしてやらなきゃ」
本気の呟きにキリコは笑い、ああ、可愛いな、と思って、何度しても飽きないキスをした。