Never End 06

 パーティションの奥にみたびクリードとアビゲイルが消え、キリコもそれに続いた後、BJは医者として急いでグラディスに注射をした。グラディスは減らず口を叩きもしない。
「赤毛」
「何」
「大丈夫か」
「大丈夫」
「ジョイ、おまえさんだけで任務続行はできないか? 赤毛の口数が少ないんだ、限界だ」
「どんな判断基準だよ」
 そう突っ込む声にも力がない。常人ならまだ入院していなければならない怪我なのだから当然だ。BJに脈を取られ始めたグラディスは「平気だよ」と呟いたが、ジョイはBJの判断基準に同意した。
「普段の隊長ならさっきの台詞に『馬鹿じゃないの』か『死ね』がつくのに。確かに限界だ」
「ジョイ、覚えてろ」
「そんなオリジナリティのない台詞をあんたが吐いたら心配されるだけじゃないですか。誰か代員を指名して下さい、すぐ手配するから」
「必要ない」
「グラディス、ドクターストップだ。これ以上は活動を認めない」
「無免許のクソビッチのくせに、偉そうに」
 BJの宣言にようやく吐いた毒にも力がなかった。だが流石に自分でも限界を認めざるを得ず、深く息を吐き出した後、ジョイに誰かの名前を言った。ジョイは頷き、BJに「すぐ戻ります」と言って非常階段を駆け下りるようにして姿を消した。
「ジョイ、もう行った?」
「行ったよ」
「──くっそ痛いんだけど、もう。何とかしてくれない? ほんっと痛い、やだもう。みんな死ねばいいのに」
 部下がいなくなった途端に痛いと言い出す姿を見るのは久し振りだ。これが隊長ってものなのかな、とBJは漠然と分かり始めていた。
「ブロック注射が一番かな。尻から打つ」
「だったらドクターにやって欲しい。僕にも恥というものはある」
「じゃあもう少し我慢するんだな。まあ、そういう種類の注射はキリコの方が得意だし。それか麻酔」
「どっちがお勧め?」
「そりゃあ注射だよ。麻酔で痛みを止めて動き回るなんて本来はするべきじゃない」
「この間は麻酔だったじゃない」
「非常時だったからだ。普通はしない。──あんな場所の話なんてもうしたくない、黙れよ」
「ごめん。軽率だった」
 グラディスは素直に謝った。西ドイツのあの件は関係者のメンタルに深い傷を残している。大体の事情を前もって理解していたグラディス自身でさえ、カウンセリングに行くよう上層部に命じられたほどだった。
「ところでレディシュの少尉」
「もうその呼び方だけで察した。嫌だ。痛い」
「おまえさんの仕事の後始末だと思わないか」
「もう仕事できない。ドクターストップさせたのは先生でしょ」
「そう。だから断るなら断ればいい」
「物分かりがいいな。何を企んでるの」
「やだぁ、どうしてそんなこと言うのよぉ」
 あっさり見抜かれたBJは敢えてふざけて言ってみせる。グラディスは「死ね」と気力で毒気を復活させた。デルタの気力はすごい、とBJは感心する。
「何も企んじゃいない、人聞きの悪いことを言いなさんな」
「何か考えてる。さっさと言って」
「じゃあ結論から」
「どうぞ」
「アメリアが話したがってる。嫌なら自分で断るように。ただし優しく誠実に」
「嫌」
「断るだけならどうってことないだろう。それで彼女は諦められる」
「少佐さん」
 いつの間にかそばに来ていた玲太が日本語で割り込んだ。グラディスが鋭い視線を向け、一瞬で痛みなど微塵もない顔を作り上げる。その気概に内心で舌を巻きつつ、BJはグラディスの代わりに「どうした」と言った。
「ごめん、ちょっと真面目な話」
「日本語で?」
「先生に聞かせていいか知らねえけど、ここの連中にはまずいかも知れねえから」
「勝手に話せ」
 グラディスが低く吐き捨てる。BJが多少ならず身構えたくなるほど非友好的な声だったが、玲太は互いに友好的な関係になるはずがないと理解しているので気にもしない。
 そしてあっさりと重要なことを告げた。
「さっきの復員兵」
「……?」
「demobilised soldiers」
 復員兵、という日本語を聞いたグラディスが一瞬眉をひそめた理由を察し、BJは小声で訳してやる。グラディスは得心した顔で「ありがとう」と呟き、玲太に視線で話を促した。
「あいつ、爆発物を作れる奴だ」
「demobilised──復員兵なら珍しくない」
「言い換える。これからでっかい花火を上げる奴だ。おそらく今日中。ブロードウェイあたり」
 BJは思わず玲太をまじまじと見つめ、グラディスは表情を動かさずに考える。そして陸軍少佐はいとも簡単に決断し、持っていた小型無線を口元に当て、米語で発信した。
「USSOCOM(特殊作戦群)少佐よりニューヨーク市警へ。違法有害情報、緊急、実際。ブロードウェイに爆発物の可能性。実際。繰り返す。USSOCOM少佐よりニューヨーク市警へ。違法有害情報、緊急、実際──」
「映画みてえ」
 何がおかしいのか笑う玲太にBJは溜息をつく。だがこれが玲太なのかもしれないと思った。彼は爆破に対して罪悪感を持っていない。だがあの日、エミリーにつけられた爆弾を命懸けで解除した。そして今、他人が爆破テロ行う可能性を申告した。
 彼なりの感覚、彼なりの基準はどこにあるのだろうか、とBJは思わざるを得なかった。玲太を見る。目が合った。玲太は笑い、わざと米語で言った。BJの疑問を見抜き、グラディスに聞かせるためだった。
「俺は意味もなく爆破しねえよ。正義がねえとただの殺人だ」
 無線に向かって矢継ぎ早に指示を出していたグラディスが一瞬憎悪の目を向ける。その目の色に息を呑み、BJは玲太に言った。
「せめて彼の前では言うべきじゃないし、正義の定義を簡単に持ち出すことも適切とは言えない。よく考えて」
「ふうん」
 玲太はまた笑う。何がおかしいのかとBJが腹を立てかけた時、呟くように少年爆破犯は言った。
「キリコさんと同じこと言うね。あんたたち、似てるよ。おんなじだ」
 思わず言葉に詰まる。思い出したからだ。過去に二人で診た患者が言った。──『先生とドクターって、びっくりするくらい、おんなじよ』。また二人がふたりになる前、愛し合わないと決めていた頃、その言葉が愛し合っても良いのだと二人に教えてくれた。
 今日は何て日なんだろう。そう思った。何て日なんだろう、こんなに──昔のことばかり。まるで一気に思い出せって言われているみたい。
 だがそれが苦しいとは思わなかった。全てが懐かしく、そして今の自分に、自分たちに繋がる時間なのだと改めて愛おしくなるだけだった。
「先生」
 今はそれどころではない、と無線を切ったグラディスの声で現実に引き戻された。
「さっき言ってたブロック注射お願い。尻でも何でも出すからすぐに」
「……実はおまえさんの負傷部位なら腕神経叢、ここからの注射でいいんだ。ふざけてごめん」
 BJはばつの悪い顔で鎖骨から少し上の部分を示してみせる。グラディスはしばらく冷ややかにBJを見つめた後、心の底から「死ね」と言った。同時に玲太が遠慮なく笑い、BJはますますばつ悪く「ごめんってば」と繰り返すはめになったのだった。
「でもキリコの方が得意っていうのは本当だし──先に他の注射をしてたから重ね打ちをしたくなかったのってのもあるんだ」
「分かったよ。市警に主導権移す手続きとかしたいから取り敢えず打って。玲太の護衛のFBIとも話さなきゃいけないし」
「ええと、キリコが──」
 BJはキリコたちが話し合っているはずのパーティションの方へ視線を送る。その途中に不安そうな顔をしたアメリアといい加減本気で退屈そうなエミリーを見つけてグラディスへの本来の用事を思い出し、ええと、と医療以外では案外ゆっくりと動くことも多い脳が止まりかける。玲太がまた笑い、「先生が打ちゃあいいんじゃねえの」と言い、ああそうか、とようやく思い至ったのだった。


 それからの処理はBJにはよく分からなかった。グラディスは注射の効果も出ないうちに、戻って来たジョイ、そして玲太と共にどこかへ姿を消した。玲太は嫌がることもなく付いて行った。離れて監視をしていたFBI職員たちは慌ててそれを追い、待っていたアメリアは目を白黒させてBJに事情を聞きたがった。クリードに説明してから、とBJが告げた時、ちょうど話を終えたキリコたちがパーティションから姿を現した。アメリアが早速兄と姉にグラディスや玲太が消えたことを訴える。クリードとアビゲイルは黙って聞いた後、BJを見た。
「俺に断りもなく赤毛が消えたってことは」
 BJが説明を始める前にキリコが口を開く。
「俺の身の安全より優先するべき緊急が生じた、ってことだな」
「当たり。言っていいのか分からないけど──」
「さっきの復員兵だろう。ロバート、35歳、テト攻勢の経験者だと言っていた。ここへ来たのは今日が初めて」
「──どうして?」
 どうして分かった、とBJは低く問う。キリコは少しばかり何かを思い出すような目をした後、煙草、と言ってBJの腰を抱き、喫煙スペースへ向かった。
「レイタが市警に協力する気ならもうすぐ俺に連絡が来る。それまで待っててくれ」
「いつもそうやって説明の手間を省くからわたしが怒るって、そろそろ学習すれば?」
「これからしようと思ったんだ。手間を省くなんてとんでもない」
 笑って煙草に火を点け、キリコにしては珍しくふっと短く煙を吐いてからBJにひとつキスをする。
「彼は俺のカウンセリングで、ベトナムで決意したことを実行する勇気が出たと言っていた。新しい人生を生きるために」
「そう。それで?」
「彼は爆発物処理部隊にいた。要は爆破担当だった。小さな頃から花火が好きで、それが嵩じたたと言っていたよ」
 BJは自分も煙草を加えて火を点ける。キリコはBJがはじめのひと吸いを終えるまで待ってから続けた。
「ベトナムで彼は思った。『この国は間違っている』」
「──読めた。B級映画じゃあるまいし」
「俺の患者のリアルな人生だ。出来損ないの映画と一緒にするのはやめろ」
 口論ではない時に強い口調での叱責は珍しい。その通りだと思ったBJは息を吐き、ごめん、と言った。キリコも強い口調を詫びた。
「身柄確保は市警なりFBIが入ればすぐだろう。その前にロバートが目的を達成できるかどうか」
「この国が間違ってるから観光地を吹っ飛ばそうって奴の話を、随分落ち着いて話すもんだ」
「彼の気持ちが分かるからさ」
 煙草を灰皿に投げ入れ、キリコは静かに言った。
「かと言って犯罪は見逃せないが。見逃すのはブラック・ジャックの無免許診療だけで充分だ」
「自分なんか殺人犯のくせに!」
「はいはい、平行線、平行線。行くぞ。グラディスの痛み止めは?」
「腕神経叢から入れた」
「相当だな。あいつも気の毒なもんだ」
 こればかりは心から同情し、キリコは「先に行くぞ」と言ってBJを置いてクリードたちが待つフロアへ戻る。BJは慌てて煙草を消してそれを追った。患者が関わる医者の顔になった時のキリコはあまり優しくしてくれない。


「ああ、その──隊長がもうガチで動けなくなって市警で寝ちまったんで、俺で失礼」
 1時間後、苦笑いを隠す努力を放棄したジョイがBJとキリコ、クリードに説明した。その隣では玲太が遠慮なくにやにやと笑っている。嬉しそうだな、とキリコが言うと、ちょう嬉しい、と満面の笑顔を見せた。ジョイは玲太をやや睨み、話を始める。
「ロバートはすぐ見つかった。ドクター、協力をありがとうございました」
 キリコは玲太から話を聞いた市警に電話での協力要請を受け、ロバートが行きそうな場所をいとも簡単に割り出したのだった。場所はブロードウェイ、ロバートは歩行者天国になっている劇場街の中で人々に埋もれていた。
「国民の義務だ、気にするな」
 涼しい顔で答えるキリコの横で、どの口が、とBJは苦々しい。だったら始めから止めれば良かったのに、と。
「大量の花火を購入しようとしていました。購入寸前で市警と隊長、俺で確保したので被害はありません」
「被害どころか犯罪者もいない。ロバートは爆発物の購入さえまだしていなかった」
「ドクターの言う通りです。事前に止められた。ドクター・キリコとレイタのお陰で」
「俺は花火が見たかったけど、まあ、あと1時間もすりゃブロードウェイでつまんねえミュージカルを見なきゃいけねえし。騒ぎで予定が潰れるのも面倒だったもんで」
 玲太が相変わらずにやつきながら言い、そう言えばアメリアがそんなことを言っていたな、とクリードも頷く。
「ロバートはどうなる? 俺の患者だ、聞く権利はある」
「隊長が『僕が意識を取り戻す前にぶち込んでおいて』って言って気絶したから、まあ、そういうことなんじゃないですかね。テロ容疑が成立しなければすぐ出られます。そこは弁護士次第かな」
「被害者は赤毛だけだな」
「間違いないです」
「腕神経叢からの注射が効く前に解決か。大したもんだ」
「確かにそうだけど、流石に赤毛が可哀想になった」
 BJはぼやき、これなら最初からあの注射をしておいてやれば良かったと思った。注射から40分程度してから効果が現れる方法の選択を医療ミスだと自分の中で断定した。
「それにしても」
 クリードが半ば苦笑しながら口を開く。
「復員兵が国家の過ちと平和を説くために、ブロードウェイで大量の花火を打ち上げようとしたなんてね」
 玲太以外は顔を見合わせ、つい苦笑した。ロバートとの共同カウンセリング中、彼の爆発物への情熱を聞き、最初から花火だと気付いていた玲太はまた笑った。花火と言っても場所や扱い次第では大量の死傷者が出る。だからこそ玲太は事前に防げる可能性が高い地位にいるグラディスに申し出たのだった。
「彼は彼なりのメッセージを伝えたかった。手段は彼としては平和なつもりだった。ちょっとした行き違いさ」
 キリコが言う。BJは肩を竦めた。
「大量の花火が平和?」
「そこはレイタの方が理解できるだろう」
「殺傷力は爆弾も花火も変わんねえけど、まあ、ロバートの中じゃ違ったんだろ。花火は綺麗だし楽しい。だから人目を集められる」
 プロ爆破魔は笑顔だ。とにかく嬉しそうだった。その理由が分かるジョイとしては苦々しかった。グラディスが倒れたことを喜んでいるガキに一発くれてやりたいとまで思った。
「花火の方が怖がる人が少ない。爆発物に慣れた人間が計算を間違えなければ事故も起きねえし。それなら目立つし、話を聞いてもらえると思ったんじゃねえの」
 BJはちらりと玲太を見る。だが何も言わないことにした。──つまり、爆発物に慣れた人間が計算を敢えて間違えれば──否、当人にとって正確な計算をすれば──言えなかった。言う必要もなかった。
「それにしても、私の家にとっては良い結果だ。レイタの評価が上がる」
 クリードはビジネスマンの笑顔で言った。
「レイタの通報で騒動を未然に防げたのは事実だ。これは政府からのプラス評価になるはずだね」
「アーリントンに行くまでもねえや」
 玲太も笑う。ジョイは上司と玲太の会話を思い出してまた苦々しいが、今日はこの少年に花を持たせてやるべきだとどうにか自分を納得させた。見守っていたキリコが流石に玲太に釘を刺す。
「おまえがグラディスの母親を殺した事実は消えない。法的に罪を償ったからグラディスはおまえを殺さないだけだ。次に何かやらかせば事故を装って殺されるぞ」
 西ドイツの一件で、ディアナを最後に殺したのはグラディスだとキリコだけは知っていた。そしてそれを躊躇いなく実行できる人間だということも。脱出時の混乱に紛れて殺すことなど特殊部隊員にはお手の物だったはずだ。
「ああ、やりそう、あいつ」
 玲太が口を開く前にBJがしみじみと頷き、ジョイは心の中で「やりそう」と同意しながら無反応を貫いた。玲太は顔をしかめ、しかしそれでも「分かったよ」と返事をした。クリードはますます「あの少佐とは距離を取ろう」と心に決めた。
 キリコが壁の時計を見上げ、それからクリードに言った。
「じゃあクリード、少し頼む」
「──ああ、分かった。仰せのままに」
「オールドマネーとは思えない口を利くなよ」
「敗北者の卑屈な遊びさ。少しは楽しませてくれ」
「自虐的な遊びだな」
 BJはキリコの手をがしりと掴む。さっきどんな話をしたんだ、今の会話は何だ、説明しろ、と言おうとしたが、先にキリコが髪を撫でてくれたので機を逃した。
「マフィン」
「何」
「俺はこれからロバートの面会に行く。ついでにグラディスの容態も見て来る。おまえはアビゲイルたちとブロードウェイを楽しんでおいで」
「──何言ってるの?」
 本気で言っているとは思えない。あれだけ嫌っている、憎んでいるクリードと出かけろと言うとは信じられなかった。だがキリコは言った。
「俺への償いに、俺の女を精々もてなせって話をしてやったのさ。彼もアビゲイルも快諾してくれた」
「ちょっと──」
「話はついた。彼らはおまえを害さないし、もし何かあれば今度こそそれなりの手段に出るって言ってある」
 許すわけではない。だが譲歩はしよう。いつまでも纏わり付かれるくらいなら、今日数時間の同行は許してやる──話し合いの中、キリコはクリードたちにその態度を示した。クリードはそれを受け入れ、アビゲイルは当主の決定に従った。
 キリコはそれでBJ関連の話を打ち切り、玲太の話をクリードから聞いた。クリードは場を完全にキリコが支配していると認め、キリコの意思に従った。この男に何度敗北感を感じれば良いのかと思った。
 話が進むにつれ、キリコは玲太も少し長く診る必要があると思った。結局クリードたちとはその分、付き合いが続くことになる。クリードたちをあまり頑なに拒絶することは玲太──キリコの患者にとって良くないと判断した。
 キリコにその話を聞いたBJはしばらく考え込むしかなかった。それでキリコが良いと言うのなら。そしてキリコの患者が関わると言うのなら。だが本当にそれでいいのだろうか。キリコは自分が他の男、よりによってクリードと時間を過ごしても良いと言っているのも同然だ。そんなこと──だがキリコが不意に「あ」と言った。妙に慌てた声に顔を上げると、二人の時にたまに見せる焦った顔になっていた。
「おまえと一緒に行っていいのはクリード以外だ。言うのを忘れてた、ごめん」
 BJはしばらくキリコを見つめていたが、やがて笑って頷いた。キリコは自分に苦笑してもう一度「ごめん」と言い、人前で慌てた自分を恥じたことを隠すために好きな女にキスをした。
「ねえ、そろそろ行かなきゃ。もう開場の時間!」
 アメリアがグラディスのことを言い出すかと思ったが、吹っ切れたかのように何ひとつ口にしなかった。良かった、とクリードとアビゲイルは安堵の息を漏らす。キリコは言わなかったが、彼女の恋の対象がもっと厄介な相手に変わりつつあるのだろうと予想していた。
 BJも何となく察し、キリコを見上げる。気付いたキリコは目を合わせてからゆっくりと玲太に視線を移し、BJもその視線を追う。これから観る舞台について楽しそうに話すアメリアと面倒そうに生返事をする玲太の横で、幼いエミリーですら何かを感じ取ったのか、BJを見て肩を竦めた。思わずBJとキリコは笑った。
「赤毛の方がましだろうに。あの歳で陸軍少佐なんてこの国じゃエリート層だ」
「玲太も将来は国家の開発に入るみたいだし、いい勝負かもね」
「クリードが気付いた時が面白いな。おまえ以外の黄色人種が嫌いな奴なのに」
「そこは理性で抑えるでしょ。伊達にオールドマネー様じゃないんだから」
「俺の前で他の男を褒めるなよ」
「褒めてない」
 途端に慌てるBJにまた笑ってキスをし、行っておいで、と言った。BJは笑って頷き、キスを返してからとんだ騒ぎで事務所を占拠され続けたスタッフたちに説明と謝罪に向かった。
 クリードが寄付金について事務局長と最後の話を始め、キリコがジョイにグラディスについての確認をしようとした時、アビゲイルが静かにキリコに歩み寄り、明らかに意志力で整えた美しい声を発した。ジョイが二人の間に入ろうと動きかけたがキリコが目で制した。
「さっき、あなたはわたしと一言も話そうとしなかったから黙っていてあげたけど、今は諦めて頂戴」
「しつこい女だ」
「どうしても言いたいことがあるのよ」
「ご勝手に」
 キリコはアビゲイルを見もしなかった。アビゲイルはその横顔を見ていた。あの日々に見た優しげで柔和な顔立ちよりも、何かを守ることを知った──否、守ることに執着した男の顔だった。初めて会った時にこの顔を見ていれば、自分は醜い恋をしなくて済んだだろうとなぜか思えた。
「ごめんなさい。謝って済むことじゃないけど、これだけは」
 どうしても言いたかった。アビゲイルはそう呟いた。キリコは答えなかった。アビゲイルはそれに失望せず、当然だと自分に言い聞かせ、その場を去ろうとする。
 キリコは軽く息を吐き、それから言った。俺も甘いもんだ、と思いながら。
「あいつはブロードウェイが初めてだ。楽しませてやってくれ」
 アビゲイルは振り向き、相変わらず自分を見ない男の横顔を見た。そして顔をしかめ、鼻の奥の痛みと滲む視界を困ったものだと思いながら頷いた。
「ベンジャミン・ステーキハウスで夕飯にする予定なの」
「随分と高級店だな」
「迎えに来てあげて。必ずよ」
 キリコはゆっくりとアビゲイルを見る。アビゲイルもキリコを見る。それからキリコは静かに、この上なく静かに告げた。
「寂しがる前に、必ず」
 アビゲイルは頷いた。微笑めた自分を褒めたかった。キリコは微笑み返しこそしなかったが、涙を滲ませながらも微笑んでみせた女を内心で褒めた。
 行きましょう、とジョイがキリコに声をかけた。


 グラディスの傷は悪化していたわけではなかったが、とにかく続く激痛が体力を奪うには充分過ぎた。市警の医務室で深く眠っていたグラディスをそのまま診察し、これで捕り物をしたのか、化け物だな、とキリコは思わず呟いてしまった。聞いたジョイはまるで自分がミスを犯したかのように落ち込んでいる。キリコは敢えて気付かない振りをした。
「ワシントンに戻すのはまだやめておいた方がいい。できることならフォートライリー基地内の医療施設で一週間の安静、無理なら市内の病院へ」
「フォートライリー基地なら俺が手続きできるんで、交渉します」
「じゃあそうしてくれ。──命に別状はないし、後遺症も残らない。あまり心配するとこいつが恥ずかしがる、いつもの顔をしてやるんだな」
「この人を心配しない任務なんてないですよ」
「あまりいい隊長じゃないな」
「そうかも。でも必ず俺たちを家に帰してくれるから、俺たちはこの人が隊長で良かったと思ってますよ」
 それは最高の隊長だ。キリコは内心で呟き、フォートライリー基地に申し送りをするためにカルテ代わりの書き付けを作り始めた。途中でグラディスが起き、「煙草頂戴」と言ったので、書き付けに「化け物並の体力のため脱走に要注意」と追記してから自分の煙草を1本分けてやった。
 それからしばらくしてクリードが手配した弁護士が現れた。
「弁護士だけで良かったんだが」
「私は暇なんだ。姉妹たちとレイタと好きな女性に置いて行かれてしまったんだから」
 呼んでもいないクリードは上流階級の笑顔を向ける。キリコは相手にせず、弁護士にロバートと会うように依頼した。クリードから破格の報酬を約束されている弁護士は快く請け負った。
「ドクター、相手をしてくれないか」
「するわけがないだろう」
「私は無害だぞ。あなたといる限りね」
 誰に対して、とまでは言わなかった。キリコは横目でクリードを見、そして鼻で笑う。クリードがここにいる理由など分かっている。上流階級の顔を捨て、恋に破れた男として、せめて一矢報いたいのだ。だがキリコにはそれに付き合ってやる義理がなかった。
「俺がいようがいまいが、あいつと密室で二人きりになろうが、おまえはあいつに手を出せないさ」
 クリードは僅かに黙り、そして小さく何度も頷きながら、「腹が立つね」と言った。
「まったく、医者ってのは──どうして分かるんだ?」
「医者も何も関係ない。おまえはあいつが嫌がることが二度とできない」
「どうしてそう思う?」
「あいつに嫌われたくないから」
「シンプルだね」
「当たりだろう?」
「──こんな時、汚い言葉で罵れれば気が済むんだろうなあ!」
 今日初めて余裕をかなぐり捨て、本当に悔しそうに顔をしかめたクリードを見て多少なりとも溜飲を下し、キリコは特別に彼に笑いかけてやった。クリードがますます腹を立てると知っていながら。
 面会室のロバートはすっかり気落ちしていた。そんなつもりじゃなかった、と何度もキリコと弁護士に言った。キリコは頷く。
「分かっています。あなたと一緒にカウンセリングをした彼も分かっていましたし、何よりあなたは何もしていない。この先生が最適な弁護をしてくれます」
 気落ちをしてはいるが、取り返しの付かない精神状態ではないとキリコは判断した。どうせすぐに釈放されるだろう、しばらくあのNPOに通うように、とアドバイスした。
「あなたはあなたの声を届けようとした。素晴らしい進歩だ。人は変われるということを、あなたは身をもって教えてくれた。──ただ、次はもう少し穏やかにね」
 反省しきりのロバートを励ますように握手をし、キリコは弁護士に後を任せてようやく市警を出た。BJを迎えに行く時間までホテルで少し休むことにした。
「ったく、どうしてこうなるんだか」
 穏やかな休暇を。ただ二人きりで好きな時間を好きに過ごしたいだけだと言うのに。明日から向かうエルーセラではせめて穏やかに過ごさせてくれよ、と誰に願えばいいか分からないことを願ってしまった。
 それでも悪い気分ではなかった。医者として満足していた。問題が自分とBJにとって良い方向へ解決した。
 穏やかではない一日にしては悪くない。そう思えた。


 別れの時間はまた大騒ぎだった。迎えに来たキリコを尻目にアメリアとエミリーがBJと同じホテルに泊まりたい、自分たちの部屋に来て欲しいと駄々を捏ね、アビゲイルがどうにか宥めている隙に玲太が二人をタクシーに押し込んでくれた。ろくな別れも言えないままタクシーは発車し、車内から振り返ったBJは、アメリアとエミリーに食ってかかられている玲太が見えた。アビゲイルが切なそうな顔で見送っていたことは敢えて考えなかった。
「楽しかった?」
「──うん」
「それなら良かった。どんな舞台?」
 別段興味があるわけでもないだろうに、話をさせてくれる男を好きだと思いながら笑い、BJは見たばかりの舞台の話をする。華やかで楽しかった、みんな素敵だった、歴史ある高級ステーキハウスでの夕食も楽しかった。聞きながらキリコは自分が夕飯を食べていないことに気付いたが、後でルームサービスを取ればいいと考えた。
「キリコは何してた?」
「赤毛の様子を見てロバートと面会して、ホテルで寝てた」
「──何もしてない」
「いや、結構しただろう」
「仕事ばっかり。わたししか楽しくなかったじゃない。どこかに行くかと思ってたのに」
 たちまち申し訳なさそうな顔をするBJに、ああ、まったく、と思った。──ああ、まったく。俺はこの女に惚れすぎてていけない。
「ニューヨークなんて何回も来てる。今更観光って気にもならないよ。気にしないで」
「やっと二人になれたのに」
 どさりと勢いよくもたれかかってくる女に笑い、肩を抱いてキスをする。
 それからふと思い出した。窓の外を流れる夜景を見ながら、こうやって肩を抱いた時がある。急に黙り込んだBJもそれを思い出しているのであろうことも分かる。
 だから言った。あの時とは全く違う、すべてのいとしさを込めて呼んでもいいことが幸せだった。
「ベイ」
 窓の外を見ていたBJがキリコを見る。また愛しいと思った。だからあの日言えなかったことを言った。
「愛してるよ」
 BJははにかんだように笑い、それから言った。
「ねえ」
 あの日と同じ言葉を口にしながら、あの日と違う夜が待つことが嬉しくてたまらなかった。
「ベイ、って。どういう意味?」
 キリコは笑う。
 あの日と同じことを訊かれながら、あの日と同じ答えを返すのに、まったく違う感情を返せる夜が幸せだと思った。
「Before Anything Else」
 嬉しそうに笑う女が可愛かった。
 キスをねだるように可愛い唇が声なく動いた。

 I love you.

 もちろん、キスをしないでいられるはずがなかった。






 Before Anything Else / 何よりも大切
 I love you / 愛しています