・「Nothing's Going to Change My Love For You」の続きです
・「色んな人が歌ってきたように」に出ていたオリキャラたちが絡みます
・↑の人間関係の清算のような話です
・現実では観点が分かれるトピックが扱われていますがフィクションとしてお読み下さい
何卒ご理解の程頂ければ幸いです。
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起き抜けに軽い二日酔いを感じた。昨夜は飲み過ぎた、とキリコは速やかに認め、まだ眠るBJをベッドに残してシャワーへ向かう。少し熱めの湯で振り払える程度の酒の残り方だったが、今日のナッソー行きの飛行機の中ではアルコールを控えようと思うには充分な効果があった。
やがてよろめきながらBJがシャワーブースへ入って来た。キリコよりも酷い二日酔いであることは一目で分かる。額に唇を落としただけでアルコールのにおいがした。昨夜のBJの飲酒量を思い出し、少しコントロールしてやるべきだったと反省する。
「今日は一段とセクシーだね。香水を変えた?」
もちろん挨拶代わりの揶揄だ。BJは揶揄に怒る気配すら見せず、うう、と呻きながら勝手にシャワーの勢いを強くした。思い切り顔にかかったキリコは声なく罵りの言葉を発する。
「こんなに酷い二日酔いは久し振り」
「飛行機で飲むのはやめておけよ」
「そんなの迎え酒だ」
「俺が面倒を見ると思うな」
「見るくせに」
「クソビッチが」
シャワーブースにBJを残し、バスタブに湯を張りに行く。何だかんだで面倒を見るのは事実だが、惚れた弱みだと諦めていた。
湯を溜めながら備え付けのいくつかのバスボムを選んでいると、背後からぴたりと抱き付かれた。可愛いが、うう、とその途端に呻くのだから苦笑せざるを得ない。
「置いて行かないでよ」
「同じバスルームなのに?」
「洗ってくれると思ってたから腹が立った」
「ふむ、それは──」
「えろいこと抜きで」
「もちろん」
先に釘を刺されたようなものだが、流石にこの状態のBJに手を出そうとは思わない。湯を溜めている間に希望を叶えてやることにした。
「朝食いらないかも」
「まあ、それが無難だな。外に出て腹が減ったらどこかで食べればいい」
「ねえ、アイ・キャンディ。今最高に欲しいものがあるの」
「ゴージャス、俺にできることなら」
湯が降り注ぐシャワーブースの中、芝居がかった女言葉にやはり芝居めいた声音で返す。互いのペットネームが初めて演技をした夜のもの──昨夜夕食を取った店で過去に口にしたものだとは思い出すまでもなかった。
「あなたにしか用意できないわ、間違いない」
「言ってみて」
可愛らしく声を作り、上目遣いをする女に笑う。BJはそこで演技をやめ、酒臭い息を深く吐いてから言った。
「グルタチオンとグリチルリチン」
「……点滴?」
「スピード重視」
「システインも追加してやるよ。温まってから出てこい」
二日酔い解消を促進する成分を要求され、キリコは呆れながらバスルームを出た。そこまでしたがるとは見た目よりも酷い目に遭っているんだろうな、と思った。
点滴が終わるまで一時間はかかるだろう。フライト前に銀行とタイムズスクエアに寄る予定だが、果たして実行できるかどうか。便を変えようにもナッソー行きは一日に一便しかない。
「普段なら」
観光名所でもあるミッドタウンの見事なビル街を見下ろせる豪奢なリビングで、ソファに埋もれて点滴を打たれるBJは溜息をつきながら言った。
「もう酒なんて飲まないって思うくらいの二日酔い」
「だろうな。こんな点滴、まともな飲み方じゃ使わない」
「そんなの知ってる。わたしだってこんなの滅多に処方しない。──でも昨日は仕方ない」
「ふうん?」
「初めてキリコに真正面から誘われた店だったから」
嬉しかったのを思い出しちゃって。だからはしゃいで飲み過ぎちゃった。本当に具合が悪い声で真実を漏らした女に笑い、俺もだよ、と言ってキスをした。
部屋の電話が鳴ったのはその時だ。フロントから外線の取り次ぎだった。応答したキリコは用件を予想し、ある意味では天の采配だと思い、そしておそらくBJの悪運の強さが健康を回復させる方向へ発揮されたのだと苦笑したくなった。
「おはよう、わざわざありがとう。用件の予想はついているよ」
『おはようございます。わたくし、デルタ航空フロント担当の──』
受話器の向こうから男性の訛りを含んだ英語が流れ出し、気流の問題でナッソー行きの便が欠航になったと教えてくれた。本来なら空港へ足を運んで初めて知る情報だが、おそらくナッソー行きの乗客が極端に少なく、上級の座席を利用する客だけになら対応可能な状況だったのだろう。そもそもナッソー行きの便が欠航になりやすいことを事前に知っていたため、キリコは予約時に宿泊先を教えておいたのだった。
明日の同じ時間の便、同条件での振り替えを確約され、礼を言って電話を切る。まだソファに沈んでいたBJに声をかけた。
「欠航だ。明日に振り替えだよ」
「誰に感謝すればいい?」
心底安堵したその言い方に、キリコは声を出して笑ってしまった。
フロントに電話をかけ、延泊を希望する旨を伝えたが、生憎次の宿泊予定が入っている、他の部屋は空いているがグレードが落ちてしまう、とこの上なく申し訳なさそうな声で言われた。こういった声を出せるのも優秀なホテルマンの証だと評価し、キリコは他のホテルの手配を依頼した。
フロントからホテルの手配が完了したという連絡が来る頃には、BJの二日酔いもほとんど解消していた。あの点滴はよく効く、と上機嫌で再びシャワーを浴びに行く。そりゃあそうだ、請求するなら日本円で一回一万円はするんだぞと溜息をつきながら、キリコはチェックアウトの準備を始めた。
銀行へ行ってNPOを訪ねると言うのなら、普段のあの黒尽くめの格好──BJにとっては戦闘服、かつ礼装だ──で行くのかとキリコは思っていたが、シャワーから出たBJが選んだのはマスタードカラーのノースリーブの膝丈ワンピースだった。薄着の季節には仕方ないが、脚を出す時の定番の厚手のカラータイツがない。傷はいいのかな、とキリコが思う横で、BJは華奢な──それこそキリコが好きそうな──ストラップサンダルをスーツケースから引っ張り出している。
「そんな服と靴、持ってたか」
「ユリさんとピノコと買った」
「ああ、水着と一緒に買った時の?」
「うるさい、馬鹿!」
キリコとしては他意なく言ったつもりだったが、やや際どい水着のための手入れをされたことをまだ根に持っているBJはたちまち顔を赤くして悪態をついた。キリコは笑い、似合うよ、と言ってベッドに座らせ、BJが履くにしては少しヒールの高い──履けばキリコが喜びそうな──ストラップサンダルを履かせてやった。健康な爪先を見て可愛らしいと思ったが、ペディキュアを塗るべきだと思ったのもまた事実だった。
「爪を出すならペディキュアを塗るのがセオリーだ。この国ではね」
ストラップの長さを調節しながら言う。そんなの知るか、嫌だ、と返ってくるかと思ったが、ふうん、と妙に素直な声が聞こえた。
「キリコが」
「うん?」
「一緒に歩いてて恥ずかしいって言うなら、塗ってもいいけど?」
「恥ずかしくはないよ。塗らない女性もいる」
サンダルを履かせ終えた足を撫でてから立ち上がり、笑って腰を折りながら髪にキスをする。女の言い分が可愛く、愛おしかった。好きでもないことを男のためにならしても良いと口にする愚かさ、そして男にとって都合の良い可愛さたるや。これがかの天才外科医だと誰が信じるだろう。
「塗れば可愛いと思っただけだ」
「今は?」
「今も充分」
「もっと可愛くなったら?」
「最高の休暇の二日目を過ごせるとしか言えないね」
男の本音混じりのリップサービスに気を良くし、うふふ、とBJは上目遣いに含み笑う。
「塗ったことないし、持ってない」
「サロンがある」
「手配してよ」
「次のホテルにサロンがあると思うんだが。ちょっと電話してみる」
BJは嬉しそうに頷き、それから物言いたげな顔をしてみせた。気付いたキリコは「どうした」と普段通りの声で問う。こんな顔のBJは大抵、自身にとっては言いにくい、他者からすれば「何だ、そんなこと」と言われるようなことを口にすると分かっていた。
「あの」
「うん?」
「脚が出てるんだけど。カラータイツを持って来てないから」
「もう暑い季節だし、いいんじゃないか。ネイルも見えた方が可愛い」
キリコはそう答えた。敢えて傷のことには触れなかったし、自分が「じゃあカラータイツを手配しようか」と言い出すことをBJが期待している、だが否定したい感情の狭間にいることも分かっていた。見抜けないほどこの女を理解できていないわけではなかった。
しばらくキリコを見上げたまま数秒ほど黙り込み、それからBJは不意に「ひひ」と笑った。
「そっか。暑いか」
「暑いさ」
「言われてみればそうだ、暑い」
「全くだ。電話をしてくる、用意してからおいで」
もう一度腰を折って与えたキスが少しばかり深かったことは確かだ。本人にとってはおそらく高過ぎたのであろう、ハードルをひとつ乗り越えた女への称賛のキスだった。
次の宿泊先のホテルへ電話をし、女性の美容関連のサロンについて質問をしていると、後ろから勢いよく抱き付かれた。よろけそうになる衝撃と笑いを堪え、受話器の向こうのスタッフと話を続ける。傷のことも言っておいて、驚かせちゃうから、と言ってBJはミネラルウォーターのボトルを持って窓際に向かう。夜景とはまた違う光景を見下ろして楽しむBJを眺めながら、キリコはサロンの予約を終えた。
「もうチェックアウトする?」
「行けるなら行くか」
キリコがTシャツの上にサマージャケットを羽織った姿を眺め、BJが不意に片付けたばかりのスーツケースをまた開き始めた。できるだけ荷物を広げないようにしながら何かを探す姿に首を傾げるキリコの前で、やがて「あった!」と得意げな顔で何かを探し出した。
差し出されたそれを受け取り、キリコは笑ってBJを抱き寄せる。BJも笑った。
「そのジャケットを見たら思い出した。似合うと思って」
「いつ作ってくれたんだ?」
「キリコがフォート・デトリックで仕事してる間にね。することもなかったし」
「知らなかったよ」
「生地はピノコが日本から持って来てた手拭い、もちろん使ってないやつ」
洒落た和柄の手拭いで作ったアイパッチだ。和柄でもキリコが身につけたサマージャケットに品良く似合い、そして少しばかりの遊び心を足してくれる。
今までも作ってくれたことは幾度かあるが、いつも崖の上の家でのことで、外で渡されるのは初めてだった。塞ぎ込んでいた時期、こんなことをしていたとは知らなかった。整った縫い目にはいつも感心するばかりだ。
「ありがとう、嬉しいよ。──今日は世界一いい男になれそうだ」
「馬鹿じゃないの」
BJが笑い、いつものくせに、と言った。キリコがキスをしないでいられるはずがなかった。キスをした女の唇がそのまま動き、ねえ、と甘え声を漏らす。
「ねえ」
「うん?」
「指輪していい?」
「しちゃいけない理由でもあるのか?」
キリコはそう言い、もう一度キスをしながらBJの服の下に隠れていたネックレスを外し、その先にある指輪を取り出した。BJも背伸びしてキリコの首に手を回し、同じことをする。指輪交換です、とふざけながらBJが好きな男の手に指輪をはめ、キリコも好きな女に同じことをしてやった。ひひ、とまたBJが喜んで笑った。キリコは微笑む。こんなことで喜ぶ女が可愛くて仕方なかった。
タイムズスクエアは朝から、否、朝も賑やかだ。眠らない街と称されるだけあって人々は早い時間からエネルギーを持て余したかのように早足で歩き、大声で喋る。通勤する人々、夜間の仕事を終えて帰路につく人々、そしてブロードウェイに夢を見る人々が行き交う場所だった。無論観光客も多いが、朝食の時間帯に足を運ぶ旅行者は少ない。
次のホテルはタイムズスクエアまで徒歩5分、明日利用する空港まではやや遠いが、車を使えば問題ない。かの有名なロックフェラーセンターまでも近く、立地は悪くなかった。チェックインにはまだ早いため、フロントに荷物を預けて外に出る。
「サロンの予約は何時?」
「11時」
「じゃあ、行く前に何か食べたい。銀行とNPOはその後」
「先に済ませるかと思った」
「せっかく爪を塗るのに?」
見せびらかしたっていいでしょう、と言わんばかりのBJが可愛いくて、キリコは絡めた指に力を入れて微笑んだ。誰に見せびらかすわけでもなく、単なる女心であろうことは分かっている。それだけに可愛くて仕方ない。昔の姿が嘘のようだった。
行き交う人々がたまにちらりとBJを見るが、気になるほどではなかった。あからさまな悪意や差別意識を持った相手が傷のことを口にすると知っている。悪意を向けられずに歩けることは嬉しい。そもそもこの季節にコートを羽織っていれば見られて当然なのだから、と最近では思えるようになっていた。それは手を繋いで歩く男のおかげだと分かっていた。
「何が食べたい?」
「炭水化物。二日酔いの後は炭水化物って決まってる」
「まあ、肝臓の回復には必要だからな」
神様に繋ぎ合わされた外見を恥じるわけではない。だが救いようのないほどに人格の奥底を支配していた美醜への劣等感がいつも息苦しかったことは確かだ。それがいつの頃からか、好きな男さえわたしを可愛い、綺麗だと言ってくれれば充分なのだと思い始めた。すると不思議なことに、自分の見た目を馬鹿にする人間は、敵対する立場でもない限り、案外周囲にいないと気付いた。
ひとは変わる。気付いた時に自分でも驚くほどの歓喜を得て、そして変わるきっかけをくれた人をあらゆる意味で愛するようになるのだと知った。
全ての始まりはベトナムだった。だが以前、このニューヨークで命のために駆け回った時間、それから想い出をなぞった昨夜の中にある記憶が、間違いなく自分たちの別のひとつの始まりだったのかもしれないと思う。
「ああ、待って」
不意にキリコが足を止める。つられてBJも止まった。タイムズスクエアの真ん中、行き交う人たちは立ち止まった無作法者にも怒らずに──観光客ならよくやることだ──器用に避けて歩いて行く。
「どうしたの」
「ここに来たかったんだ」
「何?」
首を傾げてキリコを見上げる。ひとつだけの青い瞳の中に自分が映っていると知ると同時に、ゆっくりと額にキスをされた。
何をしているんだろうと思ったが──不意に思い出した。それから口元が緩んだ。
あの日の夜、初めて、こうやって額にキスをされた。
それこそ今立っているこの場所で。
笑って飛びつくように首にしがみつく。キリコも笑って抱き締めてくれた。身体が折れそうなほど強く抱き締められて、それから、今だからできるキスをした。通りすがる周囲の人々が冷やかしの口笛を鳴らしたり、好意的に避けて歩いてくれる。観光客の男女の悪乗りだと思ったのか、面白がってカメラを向ける者もいた。
「──おなかすいた!」
唇を離した途端に言ったBJにキリコは笑い、俺もだ、と言ってもう一度唇を掠め取った。
キリコが選んだ店はユダヤ料理のレストランだった。知っていたわけではなく、たまたま開店したばかりの店が目に入り、ここがいいと思うよ、と言ったのだ。何がいいんだろうと首を傾げつつ店内に入ったBJは、なるほど、とすぐに納得した。要は身体にいい料理ばかりだったからだ。
他の店では朝食の時間帯にあまり見かけない生野菜のサラダやピクルスをはじめ、薄味のチキンスープ、ポテトパンケーキがアルコールと戦い終えた身体を癒やしてくれる。特にポテトパンケーキにつけたアップルソースの酸味と甘みがじわりと味蕾を覆った時、BJは我知らず嘆息した。
「美味しい。二日酔いになってよかった」
「二日酔いにならなくてもきっと美味しいだろうけどね」
キリコは自分がオーダーしたパストラミサンドウィッチを口に運び、赤身肉と塩味、ライ麦パンの神のようなバランスを堪能する。
徐々に客が増え始め、店内が賑やかになった。通勤客や観光客が入り交じり、空気が急激に活気づく。早めに入ってよかったね、とデザートのゼリーを待ちながらBJが言った。
緩いゼラチンの中で色とりどりのフルーツが泳いでいるようなゼリーがBJの前に、湯気を立てたコーヒーがキリコの前に置かれた時、エクスキューズミー、と日本人独特のカタカナ英語が隣のテーブルからかけられた。その客を見たキリコとBJは顔を見合わせ、それからもう一度その客を──日本人の少年を見る。彼は無愛想に「久し振り」と言った。
キリコは思わず周囲を窺う。すると少年が肩を竦めた。
「その勘は悪くないと思う」
「そうか」
「俺たち、あまり会わなくていい関係だもんな」
「レイタ」
「何」
「ストレートに言ってくれ」
「何から言えばいいのか」
玲太はオムレツのサンドウィッチを一口囓り、ろくに噛まずに飲み込んだ。BJは溜息を堪える。この少年には世話になったのだから、悪意を持つ必要はない。例え彼が稀代の爆破魔、爆発物製造者で、彼が作った爆弾が幼い少女をあと数秒で爆死させるところだったとしても。そういえばエミリーは元気だろうか。崖の上の家に半月に一度は届く兄のクリードからの手紙には、家族全員元気でやっているよ、と必ず書かれていた。
「もうすぐここに次女が来る」
「──アメリア?」
「当たり。家族旅行だけど別行動の時間」
「家族旅行」
「一家で来てる。俺はお供」
「親切をありがとう。──マフィン、コートを着て」
伝票を持って立ち上がったキリコに驚きつつ、だがキリコの様子と事情からすれば仕方ないと理解してゼリーを諦める。ああ、こんな美味しそうなゼリー、人目がなければ──ここが自宅なら──ひとくちで飲み込んでしまえるのに!
「キリコさん。どうして俺がニューヨークにいるのか気にならない?」
「ならないね、全く。おまえさんがあの一家と関係しているのは薄気味悪いが」
「今、三女の家庭教師してるから、慰安旅行みたいな?」
「留学生のアルバイトには悪くない話だな。じゃあこれで」
キリコはBJを促し、会計カウンターへ向かう。後を追おうとしたBJはふと玲太を振り返り、短く訊いた。
「エミリーは元気?」
「滅茶苦茶元気」
「よかった。それだけ知りたかった。さよなら」
「さよなら」
「これ美味しいと思う、食べて」
手つかずのゼリーを玲太のテーブルに置いて苦笑させ、BJはようやくキリコを追った。だが会計カウンター、つまり出入り口近くにいたキリコが絶望の顔をして自分を振り返った瞬間、いっそワシントンで傷病休暇中のグラディスを呼んでやろうか、と思った。任務のためにグラディスがいいように扱った少女が店に入り、キリコを見て目を丸くしていれば当然の感情だったかもしれない。
過去に車でBJを跳ね、隠蔽のために自宅に軟禁した家の次女、アメリアがそこにいた。
「ドクター? ドクター・キリコ!?」
「静かに。大声はマナー違反だ」
「ルルは? ──ルル!」
久し振りにその名前で呼ばれたBJは苦笑を押し隠し、肩を竦めて返事に代える。途端にアメリアは歓喜の悲鳴を上げて店内中の視線を集めながらBJに飛びつき、BJは抱き締めてくる少女を抱き返せざるを得なかった。迷惑だと突き放さない自分を困ったものだと思った。その程度にはこの少女のことが好きだったのだと思い出していた。
「どうしてここにいるの? ドクターと来たの? ああどうしよう、神様!」
アメリアは目に涙を浮かべながら興奮しきり、一方的にまくし立てる。毅然とした態度で口を開こうとした店員の機先を制し、キリコは溜息混じりに「あの彼も会計をする、四人で出て行く」と宣言して玲太を指で招いた。面白そうに見ていた玲太は一瞬目を丸くしたが、すぐにゼリーを一口で飲み込んでBJを内心で羨ましがらせ、数秒後にはキリコに押しつける伝票を手に立ち上がった。
店を出たところでキリコがBJの肩を抱き、二人に別れを告げようとしたが、アメリアがBJの手を引いた。
「もっと話したい。わたしからは連絡しちゃいけないってにいさんに言われてるし、もう会えないかもしれないじゃない」
「アメリア、会えて嬉しかった。でもクリードの言う通りよ」
「にいさんはルルに手紙を書いてるのに、ずるい!」
アメリアが思わず声を荒げると周囲の視線が集まる。場所柄、あまり良いことではない。観念したキリコは「10分だけ」と宣言した。
「20分よ!」
「分かった、構わない。とにかく手短に」
「ここじゃ何だろ、ブライアントパークにでも行けば?」
玲太の提案に誰も反対しなかった。徒歩5分のところにある大きな公園は観光名所にもなっているが、近辺のオフィス街で働くビジネスマンや地元住民の憩いの場になる程度には広い場所だった。
「移動時間は20分に入れないでよね」
「馬鹿を言うな」
「ねえさんを呼ぶ? ホテルはすぐ近くよ」
「好きなだけゆっくり歩いてくれ、もちろん20分は公園に着いてからだ」
闇の者ですら畏れるドクター・キリコを一瞬で封じ込めたアメリアは、BJの手を離さず、自分がどれほどルルに会いたかったかを話しながら歩き始める。BJは困ったような、だがどこか嬉しそうな微笑を浮かべ、頷きながら聞いていた。
「一応、ボディーガードがいるから安心しろよ。俺のだけど」
BJとアメリアの後ろを歩きながら玲太が言った。
「おまえさんの場合は監視だろう」
「まあね。でも身の安全は保証付き」
「クリードはおまえさんの前科を知っているのか」
「知ってる。あいつ以外は知らない」
キリコは僅かに視線を動かし、それらしき人物を確認しようとする。気配が掴めなかった。それなりの訓練を受けた人間なのだろう。
「どこの奴らだ?」
「FBI。デルタを回してもらえるほど重要人物じゃないんでね」
「FBIだって結構なものだろう。それに俺とおまえさんを一緒にされても困る」
「厄介具合はキリコさんの方が上だろ」
方や政権の秘密を知る厄介な安楽死医、方やロサンゼルスの爆破テロ犯。今はただの高校生なんだけどな、と玲太は笑った。
「だからクリードもそいつらをあてにして、今日はアメリアにボディーガードを付けてねえんだ。オールドマネーのお嬢さんに何かあったら大事件、FBIの連中も大変そうで面白いぜ」
「なるほど。元気そうで何よりだ。早く消えてくれ」
「俺だってキリコさんたちと一緒にいたいわけじゃねえよ。アメリアと二人きりよりはマシって程度」
「感謝しろ。──旅行先でわざわざ待ち合わせまでする関係なのに、二人きりになるのが嫌なのか。酷い奴だな」
「さっきのはあいつが別の用事を済ませてただけだ。──俺はクリードに虫除けにされてんのさ。それもあってエミリーの家庭教師をやらされてるようなもんだし」
BJと手を繋いで歩くアメリアの後ろ姿を見て、なるほど、とキリコは納得した。前から可愛らしい少女ではあったが、あれから更に美しくなっている。超がつく上流階級独特の美貌は姉のアビゲイルによく似ていて、誰もが一度は彼女を振り返るはずだ。実際、すれ違う人々がかなりの確率で視線をアメリアに向ける。学校でも男子生徒の注目を集めていることは間違いないだろう。
「妹の虫除けに爆破犯を使うなんて、クリードもよくやるよ。黄色い猿を家の中に慈悲深く入れてるってことでご近所さんの評価が上がったらしいぜ」
「オールドマネーのご近所さんなんぞ何マイル離れていることやら。──家の中で差別的な扱いでもされているのか?」
「逆差別。まじで快適」
「だろうな」
予想通りの答えにキリコは笑い、玲太も笑った。逆差別、つまり今まで被差別者とされていた肌の色の人間を過剰に優遇し、白い肌の人間を差別しかねない逆転現象だ。差別を解消しようとするコミュニティの中で問題視され始めていることだったが、玲太自身が納得できているのなら構わないとキリコは思った。そこまでこの少年に心を砕いてやる必要がない。心を砕く相手は愛している家族だけでいい。そしてこの少年も──異様に高い知能を持つと言われる少年も、キリコの親切など期待しているはずがなかった。
「興味本位で訊くんだが、どうして家庭教師なんぞやってるんだ。金に困ってるわけじゃないだろう」
「クリードに俺の前科がバレただろ。じゃあちょうどいい、って喜ばれてさ」
「喜んだ?」
「人種差別を許さないオールドマネー様の演出のために、家で飼う黄色い猿が必要だったんだとよ。俺は将来的にはこの国で軍事兵器の研究をすることになってるし、いわば司法と軍のお墨付きの身元だろ。前科がどうだろうと安心して利用できるってはっきり言われた」
随分開き直ったものだ、とキリコはクリードの変化にやや驚いていた。だがルルの存在で自らの内側にあった差別心と向き合い、彼なりに対処しようとしている最中なのだと予想する。正しい方法とは到底思えなかったが、クリードに心療的なアドバイスをしてやる義理はもうなかった。
「前科を知った上で家に入れるなんて、あいつもつくづく頭がおかしいな。おまえもよく引き受けたもんだ」
「正直言うと金がいい。闇で小遣い稼ぎするより儲かる」
「なるほど。悪いことに使うんじゃないぞ」
「核融合炉を作りたいんだ。小さいやつ」
「俺は何も聞かなかった」
「庭でできるんだぜ、知ってる? 20万ドルあれば──」
「黙れ、聞かせるな」
唐突に目を輝かせて語り始めようとした天才少年の言を本気で封じる。小型の核融合炉などを個人が作れば明らかに法律違反だ。明るみに出ればクリードは資金供与の疑いをかけられるだろう。どうせ揉み消すだろうが、その時の騒ぎを考えるといい気味だと思った。かと言って玲太の講義を聞きたいとは思えなかった。