三姉妹はどこかのカフェで、何なら自分たちが泊まっているホテルで話をしようと口々に言ったが、クリードがこの事務所内でと宣言したために諦めざるを得なかった。
「みんなの気持ちは分かるさ。私だってもっと広くて、声に配慮しなくて良い場所がいいよ。でもルルはそうじゃないだろう?」
「ここからは出ない」
「ドクターと離れるわけにはいかないから?」
「カウンセリング中にわたしの手伝いが必要になるかもしれない。そういうこと」
「そういうことにしておくよ」
パーティションの席の中、クリードはやはり控え目な声で笑う。諦めた三姉妹はそれぞれに肩を竦めたり、唇を尖らせたりしながら、それぞれの不満をどうにか飲み込んだ。何より彼女たちが不満だったのは、その話し方がルルではなく、確実に距離を窺わせる、女性にしては荒いものであることだった。
「レイタが被爆三世なんて初めて聞いた」
アメリアが難しい顔をしながら言った。戦争の影響が少ない世代ではあるが、自国があの兵器を使った経緯、自国なりの正義を学校で学んでいた。BJは眉をひそめて微笑むにとどめた。だがアメリアはBJに問う。
「これから、あいつに何か言っちゃいけないこととかあるの?」
「言っちゃいけないこと?」
「だから──多分、わたしとあいつじゃ、あの兵器の認識が違うと思う。喧嘩したいわけじゃないし、言っちゃいけないことがあれば知っておきたいんだもの。ルルも日本人だから分からない?」
BJはしばしアメリアを見つめた。それから静かに言った。この子はなんて優しい子なのだろうと思いながら。
「何を言ってもいいし、喧嘩をしてもいいと思う」
「そうなの?」
「ただ、それをふたつの国の人々が憎み合う理由にしてはいけない」
「憎み合うって、それは──」
「彼がエミリーを救ったことは忘れないで欲しい」
アメリアは黙り、アビゲイルが頷く。そうね、と言った。直接見たわけではないが、クリードと母からその話を聞いた時、目の前にはいない玲太に心からの感謝を述べた記憶がある。
「彼は」
覚えている、忘れることなどできないクリードが静かに言った。
「少し問題を抱えている。──ルル、大丈夫、三人は知らない。聞いてはいけない約束になっている」
玲太の過去を知る家の者はクリードしかいない。薄々何かがあると勘付いているアビゲイルたちは視線を交わし合ったが、この家では家長の決定が絶対だ。クリードが教えないと言うのであれば、自分たちが知りたがってはならないと思っていた。そんな家に生きている。
「それでも今はエミリーの家庭教師として素晴らしい先生でいてくれている。学校でもいつもトップで、日本に帰らずにこのまま大学に進学するのはほぼ確定だ。おそらくマサチューセッツだろうね。彼が私に保証人になって欲しいと言うなら喜んでなるよ」
それだけでいい。クリードは言った。
「それだけいい。──それだけでいいと思わないか。彼が被爆三世だろうと、私たちとあの兵器に対する考えが異なろうと、私たちは同じ時間を生きていける」
口には出さなかったが、クリードには打算もあった。それだけの人材が自分の──オールドマネーである家の後見を受けている中、功績を残せば家のためにもなる。彼の犯罪歴は見逃すことができないが、何かあればすぐさま切り捨て、何も知らなかった、そんな人間を押しつけられた我々の方が被害者だと貫き通す考えもあった。それが許される財力と権力を持っている自覚もあった。この国におけるオールドマネーとはそういう存在だ。
「憎み合うなんて嫌よ」
エミリーが言った。
「わたしが怖かった時、助けてくれたのは先生と玲太だった。──二人とも日本人でしょ。でも先生が病気を治してくれて、玲太が爆弾を取ってくれた」
「彼はいい子よ」
アビゲイルがエミリーを抱き寄せながら言った。そして一同の気を引き立たせるように悪戯げな顔を作って言う。
「アメリアの我が儘にも付き合ってくれるんだもの。レディシュの彼への恨み言もよく聞いてくれてるわよね?」
「──あいつ! もう! こんなところにいるなんて!」
たちまちアメリアは憤慨する。クリードは笑い、BJはアビゲイルの手腕を流石だと思った。あの家のいる頃から、アビゲイルのこういうところが羨ましいと思っていた。
「恨み言って言うか──だって悔しいじゃない。処女あげなくて良かった!」
「──待て、アメリア、そういうことを少佐と!?」
「してない! そうじゃなくて、だから──」
クリードの驚愕の追求にアメリアは顔を真っ赤にし、アビゲイルは自分の恋心を思い出しかけながらもBJの手前それを封じる。エミリーは「処女って何?」とBJに訊き、BJは「私には分からない単語だな!」と慌てて誤魔化し、それからクリードに言った。
「少佐はそんなことをしていないはず。任務のためなら何でもするけど、言い逃れのできない犯罪は極限までしないタイプだから」
「仕事柄そうだろうね。──なるほど、安心した。ハイスクールじゃ珍しいことでもないけど、それでも彼が相手では肝が冷えるよ」
クリードは心底から安堵の溜息をつく。妹の恋愛にそこまで口を出すつもりはないが、やはり軍籍にある人間、しかも特殊部隊隊長という立場の男は遠ざけたかった。そしてグラディス自身がアメリア──自分の家と縁続きになりたいと思っているとは到底考えられなかった。
「そうだ、そもそもドクターがねえさんに手を出していない。あの二人でそういう線引きをしていたのかもしれないな。助かるよ」
「そんなこと、エミリーの前で言わないで頂戴!」
「ねえさん、それくらいショックを受けているんだよ。分かってくれ。思い出すだけで頭痛がしそうだ。まさか我が家で一番しっかりした女性がドクターに誑かされるなんて」
「ルルにも失礼よ、もうやめて!」
アビゲイルも真っ赤になる。にいさんはデリカシーがない、と怒り出すアメリアの加勢を得てクリードを糾弾し始める光景を見て、ユリさんとピノコを怒らせた時のキリコみたい、とBJはつい思った。それでも大声を出さない彼らの育ち、この場の理解へ敬意を抱いた。
「ところで」
クリードはBJに微笑を向ける。家に「ルル」がいた頃よりも遠くなった距離感を嘆かない自分に満足していた。きみは幸せそうだ。そう思えたからだった。それがあの男の力であることは認めたくなかったが、認めざるを得ないことも分かっていた。
「きみはどうなんだい。噂を聞くよ、ブラック・ジャック」
「闇の噂なんて聞かない方がいい」
「エミリーの病院の小児科部長が教えてくれるんだ。たまに連絡を取っているんだって?」
「彼? ──ああ、昔馴染みではあるけど、今は私よりキリコと親しいはずだよ」
それからはそれぞれの近況報告になった。アメリアは先に聞いていた通り、エミリーは学校へ通えるようになった。アビゲイルはボランティアに精を出し、クリードは資産管理、そして政権との付き合いを密にしている。誰もが自分なりの道を生きていることを報告し合う時間は、誰にとっても嬉しいものだった。特にエミリーが元気になっている様子は何よりもBJを喜ばせた。
だがどうしても、アビゲイルが言いたいことがあると分かっていても、水を向けることができない。アビゲイルも分かっていて、敢えて違う話を次々と場に提供した。再会できて嬉しいことは互いに本当だと分かっている。それでも触れるには勇気が必要なことが目の前に横たわっている事実も本当だった。
クリードは穏やかな笑みを浮かべながら女性たちの世間話を静かに聞いていたが、アメリアとエミリーの興奮が一頻り落ち着いた頃、鷹揚に、彼の育ちでしか出せないような声で言った。
「ルルとねえさんと私だけで話すことがあるんだ。アメリア、エミリーを連れて少し外しなさい」
エミリーはきょとんとし、察したアメリアは不本意ながら──わたしだって事情が分かっているのに、という顔だった──頷く。エミリーを促してパーティションを出て行った。BJは諦め、一度パーティションを出て、キャシーに彼女たちの世話を頼んだ。
「あの」
沈黙が降りる前にBJは口を開いた。一度沈黙が生まれれば更に話しにくくなるものだ。どうせ話をしなければならないのであれば、できる限りスムーズに進めておきたかった。
「さっき、サロンではありがとう」
「さっき──ああ、いいえ、当たり前よ!」
アビゲイルはどこか安堵したように笑った。そしてあの直後、キリコとグラディスの登場で興奮し、我を忘れたかのような態度を取ってしまったことを謝った。
「あなたと話したかったのに、横から奪われるような気持ちになってしまって。──しかもドクターと少佐だったから、その──どうしても──」
「あなたが言いたいことは分かるし、逆の立場だったら私もそうだったと思う」
クリードは黙って聞いているだけだ。サロンでの事情はアビゲイルから既に知らされていた。姉の正義感は正しかった。だがやり方や態度は決して褒められたものではなく、もう少しやり方を考えてくれと少しきつく言ったばかりだった。
「アビゲイル、あの、──私、先に言いたい。適した話じゃなければクリードが止めてくれると思うし」
「話して欲しいわ」
「ありがとう」
最後の夜を思い出す。クリードのバースデーパーティが終わった後、キリコに連れて帰ってもらう前に、本当はクリードやアビゲイルと最後に話すはずだった。その時に言おうと思っていたことを今言うべきなのかどうかは分からない。だがクリードが席を作った以上、これは話しておくべきだと感じる。
「キリコが迎えに来てくれることは、クリードのバースデーパーティの前から決まっていることだった。エミリーの薬の効果を確認しに来た日──キリコがわたしをバルコニーに連れ出して、カウンセリングをした時に約束したから」
アビゲイルの反応を待つ。ドクター・キリーと名乗る男に恋心を手玉に取られた上流階級の美しい女はしばらくBJの言葉を理解しようと努め、やがて息を吐き、そう、と呟いて笑った。自嘲だった。
「続けてくれる? 恨み言を言ってしまいそう」
「あなたが羨ましかったし、妬ましかった。迎えに来るっていうことは、キリコに口止めされていたのもあったけど、私があなたに言いたくなかった」
「ルルが? わたしを? 何言ってるの? あなたを迎えに来る男に入れ揚げて、バースデーパーティの日のためにあんなに浮かれていたわたしを見て、愚かだと思わなかったの?」
「羨ましかった」
本心だった。今でも思い出せる。こんな感情を抱く自分は何て醜いのかとあの時に思った。──思い出した今も思った。思い出すだけでいまだ胸がざわつくほど、あの時の自分は醜かった。
「私の好きな人と電話をして、彼をパートナーにしてフォーマルのパーティに出るあなたが羨ましかったし、妬ましくてたまらなかった」
だから言いたくなかった。そう続けた。
「キリコが私のために、あの家に入り込むために、あなたとアメリアを利用したことを言いたくなかった」
「そう。とんでもない男たちだったわ。──あなた、ずっと知ってたわけよね」
「あなたに言ってやりたかったこともあった」
BJはアビゲイルを見る。アビゲイルもBJを見た。互いに、これが最後の会話になるかもしれないと分かった目をしていると思った。
たかがこんな話で、たかが男を挟んだ話で──誰かが言うかもしれない。だが少なくとも、今の二人にとっては重要なことだった。
BJは言った。
「『彼が愛しているのはわたしなのよ。彼はバースデーパーティが終わったらわたしを連れて帰るの』」
「──ああ、おかしい」
アビゲイルは笑い出した。それでも場所を考え、辛うじて声を潜められた姉をクリードは内心で称賛した。そして自らの醜い感情を正面から告げる勇気を見せたBJを美しいと思った。
「何ておかしい話。──言えばよかったのに」
「言えなかった」
「そうよね。事情が事情だったもの。言えなかったはずよね。──でも言ってくれればよかったのに」
「言ったら、私が惨めだった。きっとあなたは事情を察してキリコを諦めて、私はもっとあなたを妬んだと思う」
「意味が分からないわ」
「綺麗で育ちが良くて賢くて、私みたいに醜い女にも優しくしてくれたあなたに、そんな酷いことを言ったって、それでもあなたはそのまま優しくしてくれたと思う。──私はそんな人間になれない。妬むのは当たり前のことだと思わない?」
「賢い女がまんまと男に騙されるはずがないでしょう。それからあなたは醜くないわ。わたしが入れ揚げた男が愛した女が醜いってこと? やめて頂戴、過ぎた自虐はただの嫌味よ」
泣くまいとして強い言葉を選ぶアビゲイルを見て、BJはこれ以上言ってはいけないと思った。だが止められなかった。ああ、と思った。ああ、これほどまでに──わたしはあの日々、寂しかった。確かにアビゲイルが好きだった。でも確かに──
「今思えば言えばよかった。──あなたはクリードたちと一緒にわたしを騙してた。だから少しくらい傷付けてやってもいいって、私は確かにそう思った」
わたしは確かに、アビゲイルが羨ましくて妬ましくて、悔しくて、少しでいい、傷付けてやりたかったんだ。
「泣かせようとしたって無駄よ」
アビゲイルは宣言する。目に浮かんだ涙を認めるまいと、丹念に施したアイメイクが崩れるほど強く目元を拭った。
「わたしに泣く資格なんかないのはよく分かってるわ」
だから、とアビゲイルは言った。だから、ルル、あなた──
「泣きたければお泣きなさいよ。泣くのを我慢した顔で恨み言を言われたって、痛くも痒くもないんですからね!」
その声が少しばかり大きく、そして感情的だったことは否定できない。クリードが僅かに右手を動かし、パーティションの陰から──最初から気配を消してそこにいたのだろう──覗き込んだジョイに待つよう要請した。ジョイは頷きもせず、再び気配を消して見えなくなった。
「そんな顔してない」
「してる。──いいわ。次はわたしが話す番よね」
泣くのを我慢した顔だと言われたBJは唇を噛んで頷く。仕事ならどんな荒れた話し合いの席でも泣きはしない、泣く気も起きないのに、どうして今は鼻の奥が痛いのだろうと思った。
「ドクター・キリーに恋をしたのは本当よ。それにわたしは傲慢だった。──彼もわたしを愛するだろうと思った。オールドマネーのわたしを愛さない男なんていないと思ってた。とんでもない思い上がりだったわ」
アビゲイルからすれば目の前のBJは恋の勝者だ。そのBJを前にした告白に胸が痛まないはずがない。だからこそBJは嫌になる。──嫌になる。嫌えない。わたしにひどいことをした家の一人なのに、それでも──彼女が優しくて誇り高くて、善の人だと思い出してしまうから。こんな話をするなんて。正面から自分の醜い部分をさらけ出すなんて。
「今日だって、わたしはあれだけドクターに食ってかかったけど、本当は心のどこかで彼がわたしを見てくれるんじゃないか、言い訳くらいしてくれるんじゃないかって思ってた。あなたに会えて嬉しいのは本当だけど、そんなことも思ってた」
アビゲイルは深く息を吐いた。自分に勢いを与えるためだった。そして言った。
「醜いのはどっちよ。賢い? 美しい? 冗談じゃないわ。わたしたちに閉じ込められていたことを知っても、クリードを助けるために家に戻ったあなたの方がずっと美しいじゃない。ドクターがあなたを愛するのは当たり前よ。──いいえ」
いいえ、いいえ、とアビゲイルは何度も呟いた。そして堪え切れなかった涙を流し、崩れた泣き声で呻く。
「わたしなんて、最初から比較対象にもならなかったくらい、あの人にとっては醜かった」
そんなこと言わないで──そう言えればどれほど楽になれるだろう。BJは思う。言えない。そんなことを言ったところでアビゲイルの救いにはならない。キリコを知っているからこそ、パートナーだという自負があるからこそ分かる。
──キリコはわたしを取り戻すために、医療で培った人心操作を使った。患者のため以外には使ってはいけないはずの技術を使うほど──
「あの人は、わたしを憎んでいたのよ」
涙に震える声に、BJは何も言えなかった。その通りだとしか言葉が見つからない。だがそれを口にできるほど、アビゲイルを憎むことはできなかった。
「ねえさんだけではないよ」
クリードが静かに口を挟んだ。
「私もドクターに憎まれた。当然だ。私が入院した時、ドクターに主治医になってもらった。その時に何て言われたか想像できるかい?」
しばらく考えた後、BJはゆっくりと首を横に振った。クリードは眉をひそめて笑い、言った。
「『俺がおまえを憎まないと思ったか』」
流石に驚いたBJは目を見開く。あのキリコが口にする言葉だとは到底思えなかった。患者になればどんな事情があろうとも、理想的な医者であろうとするあの男が──信じられないといった顔をするBJにクリードはまた眉をひそめて笑い、もうひとつ付け加えた。
「彼はこうも言った。──『殺意を持ったよ』」
「何てこと」
思わずBJは呻いた。自分の知らないキリコをクリードは見ていた。自分の知らないキリコがいた。それが酷い衝撃だった。
「彼に言われるなんて洒落にならないね。あの時は私もまだ落ち着いていなかったから、むしろ良かったかも知れない。冷静な時なら肝が冷えたはずだ」
「彼がそんなことを患者に言うなんて信じられない。初めて聞いた」
「死神と呼ばれるのに?」
「絶対に認めたくないけど、客観的に言えば彼は患者にとって救いの神だから」
医療者同士の領分には踏み込まないと決めているのか、クリードは「そうか」と頷いただけだった。BJはその態度に感謝した。
「ねえさんも私も、あの時の選択を心から悔いている。母の車に跳ねられたきみのために、すぐに救急車を呼ぶべきだった。事故を隠すために軟禁するなど愚かなことだった。──だが悔いたところで許されるわけではないし、ドクターが私たちを許さないのは当然だ。むしろこうやって話をしてくれるきみが珍しい部類だと思うよ」
「変わってるってよく言われる。──私はあなたたちを憎んでいないし、怒りもない」
BJの言葉に偽りはなかった。
アメリカ国内で逆らう者などいないオールドマネーの女性として、アビゲイルは誰かの心を手に入れられなかった経験などなかっただろう。それを女性として、恋をする人間として最も残酷な手段で経験させられた。
クリードの苦痛は想像したくもなかった。あの時にも思った。恋人としての贔屓目ではなく、クリードではキリコに勝てない、そう感じた。およそ全ての男性よりも恵まれた人生であるはずなのに、地位も財力も教養も産まれながらに最上位であるはずなのに、そんなものが通じない男がいるのだと思い知らされた上に、その男に命を救われたも同然だった。それは男として、一人の異性を巡る男同士として、女には分からないほどの屈辱と敗北なのだろう。
そんな二人にこれ以上何かを言えるほど、断罪できるほど、BJは自分を高潔な人間だとはとても思えなかった。だから思ったままを言うことしかできなかった。
「犯した罪の分、あなたたちは苦しんだことが分かったから。──だから、もういい」
私だって、と小さく言った。
「会えて嬉しかったのは本当なんだから、これ以上、私のことで苦しんで欲しいとは思えない」
言いながら、本当は違うのだと分かっていた。クリードもアビゲイルも、自分のことが直接の原因で苦しんでいたわけではなかった。自分が許したところで苦しみが軽減されるわけではないだろうということも。
善であろうとする、善であると思って生きて来た彼らは、BJ──ルルという人物に関わることによって自らの内側にあった醜悪な、あるいは傲慢過ぎた自分と向き合うはめになった。それは彼らが目指す善の性質とは大きくかけ離れたものだったろう。
彼らはルルという女を思い出すたび、醜悪で傲慢過ぎる己の姿をも思い出すことになる。
それが全てではないか。BJは思う。それが全てではないだろうか。それが、彼らに与えられた罰なのではないだろうか。
「はっきり言うと、この問題──キリコと私のことについて、それからあなたたちについて、解決する方法がさっぱり思いつかない。私たちの感情ばっかりがぐるぐる回って、二度と会わないって決めてるキリコだけが解決してる」
「そうかもしれないね。ただ、私は──きっとねえさんも。きみに言いたかったことが言える機会を持てて感謝している」
「言いたかったこと?」
「すまなかった」
クリードの声は真摯で、そして何ひとつ偽りがなかった。ああ、とBJは思った。ああ、──ああ、本来の彼だ。善であろうとする、素晴らしい、正義の人の声だ。
「謝りたかった。ずっとね」
クリードは眉をひそめて微笑む。それがやり場のない感情を封じる笑い方だとBJは知っていた。自分も同じ笑い方をする時がある。──否、誰もが、誰かに対してやり場のない感情を抱く時、そんな笑い方をするものだ。
「ルル、──ごめんなさい」
アビゲイルが泣き崩れた。BJは耐え切れずにソファを立ち、アビゲイルの前に膝をついて手を握る。パーティションの向こうからジョイが覗いたことには気付かない振りをした。
「アビゲイル、泣かないで」
「ごめんなさい。先にそう言うべきだった。何てことなの。──何て醜いの。先にドクターの話をするなんて、わたし、何て醜いのよ」
「だったら私も醜い。そんなこと言わないで。私だってキリコの話ばっかりだったんだから!」
最後はわざと軽い口調を作って言った。損な性格だ、と自分で思った。目の前で泣いている女性を慰める義務などない立場なのに、むしろ彼女をもっと強く責めても良い立場であるはずなのに、それでも泣かれるのは嫌なのだ。それは彼女の本質が善──善であろうと足掻く本質であることを知っているからだろう。
「解決はきっと難しい。私たちが望む解決方法がそれぞれ違うから。それでもこうやって話ができたし、必要な整理ができたと思う。ベストとは言えないけど、ベターな結果になったと思わない?」
「あなたがお医者様なのを実感しているところよ。メンタルケアも仕事のうち?」
BJの言わんとするところを察し、アビゲイルは無理に笑う。BJも少しばかり無理をして笑い返した。多少の無理をしてでも二人で着地するべき場所があった。それを理解し、努力したアビゲイルを美しいと思えた。そう思えた自分に満足できた。
「ねえさん」
クリードが言った。この上なく優しく、家族を思いやる声だった。
「ドクターに恨み言を言わないのなら、改めて頼んでみないか。少しでいいから話をしたいって。もちろん、ルルが嫌がらなければね」
「私は嫌がらない」
BJは眉をひそめて笑う。後はキリコとアビゲイルの話になる。自分が嘴を突っ込むべきことでも、そしてキリコのパートナーとして心配することでもなかった。キリコがイエスであれば話をする時間を取る。そうでなければそれで終わり。ただそれだけの話だった。
そして思う。ほんの少し前のわたしなら。アビゲイルと話をする前のわたしなら。キリコがアビゲイルを拒否したら、少しだけ、ううん、きっと、心から、ざまあみろって思っただろう。でも今は違う。もしアビゲイルが傷付くことになっても、──キリコが嫌な思いをするとしても、どうか二人にとって少しでも納得のいく結果になればいいと思えている。
人は変わる。こんな短い時間でさえ。今日は何度驚けばいいのか、そして、ひとというものがいかに不安定で、それから、きっと多くの可能性を秘めた生き物なのだろうと何度思えばいいのか分からなかった。
ひとつの問題を乗り越えたのはBJとクリード、アビゲイルだけではなかった。玲太と、そして自ら話をしようと申し出た復員兵も同様だ。玲太は決して明るい顔とは言えなかったが、明らかに何かしらのストレスを解消した人間独特の柔和な顔つきになっていた。復員兵も似たようなもので、彼は目に泣いた跡があった。
「旦那さん、凄すぎるわ」
キャシーがBJに囁いた。旦那じゃないって、とBJが訂正する前に更に続けられる。
「あんな、いかにも込み入った二人を同時にカウンセリングしちゃうんだもの。同席してたうちのカウンセラーなんて出番がなかった」
「まあ、彼に殺されたい人と話すよりは簡単だと思う」
「え?」
「何でもない。──それにしても凄い。尋常じゃない」
感嘆の息を隠すBJの視界の先で、復員兵はキリコと玲太と握手をし、エレベーターではなく非常階段から出て行った。問題を解決した訪問者にはよくある帰宅方法だった。彼らは自分の足で歩けることを思い出し、人生を踏み締めるように帰る。その後ろ姿を見るのはスタッフにとって何より嬉しいことのひとつだった。
「レイタ、いい顔になった」
「猿にしては?」
「人前で反応しにくいことを言わないでくれ」
クリードは笑い、玲太の肩を叩いた後にキリコに声をかけた。
「私たちは話をするべきだ。誰もが問題を解決している。あなたと私、それからねえさんの関係以外はね」
「解決する必要がないと思っている人間には無意味なんだよ、オールドマネーの坊や。レイタの件なら話してもいい。それは俺からも申し出る。だが過去の件なら御免だ」
「──頼むよ。私はあなたと話がしたいんだ。聞き入れてくれないか」
初めて正面からクリードはそう言った。キリコに対して依頼をしたことはある。だがその時でさえこんな言葉を選びはしなかった。キリコは心療的な立場でそれに気付き、僅かに眉をひそめる。クリードは続けた。
「そうだ。きっと解決しない。私と姉があなたに言いたいことを言うだけになる。──でも、もしかしたらあなたも何かを言いたくなるかもしれないじゃないか」
「交渉決裂だ」
「ドクター」
「まだ終わんないの? ──レイタ、ちょっと、何話したのよ」
フロアの奥で女性スタッフに相手をされていたアメリアとエミリーがやって来る。アメリアは喫煙スペースに逃げた玲太を追いかけ、エミリーは兄たちの話を聞いているBJに抱きついた。BJは静かに抱き返しながら言った。
「キリコ、わたしは赤毛──少尉に注射をしてくる。もう切れてるはずだから」
少し離れた場所でジョイとラフな立ち方をして待っているグラディスの顔色が悪かった。目をやるとグラディスよりもジョイが縋るような顔でキリコに訴える。キリコはジョイに僅かに頷いてみせた。
「俺がやるよ。おまえは帰り支度をしておいてくれ」
「キリコ」
「マフィン、いい加減に──」
「ここで終わりにしたい。お願い」
「だったらもう終わっただろう。おまえがこの二人と話したなら、それで」
「彼らはロンのスポンサーだし、キリコはロンと直接契約してるようなものなんだし」
だから、とBJは建前を口にした。無論キリコはそれが建前だと、そしてBJが言わんとするところが分かっていた。BJはキリコ自身も心の整理をするべきだと言っているのだ。
彼らを憎み続ける意味があるのかどうか、その結論を出せと言われている。
憎み続けた存在を知るBJだからこそ言えることなのだろう。キリコは冷静に思った。
「あの、悪いんだけど」
玲太に喫煙スペースを追い出されたのか、アメリアがばつの悪そうな顔で戻って来た。兄に目で許可を求めてから話し始める。
「わたし、ギィ──少佐と」
「少尉だよ」
クリードが静かに訂正する。この場ではそう認識するべきだと言外に教えたつもりだったが、軍の階級があまり理解できていないアメリアは「そっか」と素直に頷いた。
「少尉と話したい。そしたら、今日で全部思い出にする」
大人たちは顔を見合わせ、やがてそれぞれが苦笑する。苦笑された少女は自分が笑われたのだと恥ずかしくなったがそうではなかった。ハイスクールの少女が思い出にする努力をしているのに、年嵩の自分たちは何と愚かな醜態を晒しているのだろうかと自嘲したのだ。
だからキリコは言った。諦めたのだと自分に言い聞かせた。
「マフィン、少尉に注射を」
「わたしでいいの?」
「その後は任せたよ」
「その後?」
「俺が彼らと話をする間、だな」
「──分かった」
BJは笑顔を浮かべて頷き、キリコも笑い返してキスをした。アビゲイルは複雑な顔を押し隠し、クリードは目まで笑える作り笑いを浮かべてその光景を眺めたのだった。