ブライアントパークはアメリカの都市部でよく見られる公園のご多分に漏れず、ビル街の中に突然現れる緑のオアシスだった。人工的に配置された木々や芝生は視覚を癒やし、実際に生成される酸素と共にリフレッシュ効果を与えてくれる。名所のセントラルパークほど広くはないが、ベンチやカフェの充実度は負けずとも劣らないほどだった。
公園中央の芝生スペースを囲むテーブル席をひとつ陣取る頃には、アメリアはすっかり近況報告をBJに済ませていた。BJはもう困った顔をしておらず、穏やかな表情で、相変わらず話し続けるアメリアの話を聞いていた。
ああ、とキリコは不意に思った。ああ、嫌だな。──ルルの顔になってやがる。あの家の中の人間に愛された女の顔だ。
「今から20分よ。いいわね、ドクター?」
「きみが時間にストイックだと信じてるよ」
「先に訊きたいんだけど」
「何だ」
「結婚したの?」
ポップカラーで可愛らしく塗られた爪がぴしりとキリコとBJの指輪を指す。
「ご想像にお任せするよ」
「何よ、詐欺師。ルル、結婚したの?」
「してない、してない」
BJが苦笑ついでに否定する。するとアメリアはにやりと笑い、詐欺師と呼ばれて眉をひそめるキリコを見た。
「にいさんがまだ足掻けるってことじゃない。ドクター、気を付けた方がいいわよ。かなりいい男になったから」
「ああ、心配だ」
「どうしてそんなに棒読みなのよ!」
憤慨したアメリアを宥めながら、BJがアメリアと話を続ける。あの家にいた頃には話すタイミングがなかった話題だった。
「アメリアがミュージカル好きだなんて知らなかった。ブロードウェイに観に来たの?」
「そうよ。進級したからお祝いにニューヨークに旅行に行こうって、にいさんが言ってくれたの。昨日からタイムズスクエアにいるのよ、来たばっかりなの。ルルはいつニューヨークに来たの?」
「奇遇ね、昨日よ。──家族みんなで来たの?」
「きょうだいだけ。かあさんは家にいる。ニューヨークは混雑しすぎて疲れるって。わたしはそれも素敵だと思うんだけどね」
「おかあさまの気持ちも分かるわ。ここは人が多すぎるもの」
BJが笑い、アメリアもつられたように笑う。
キリコはBJの口調がいつの間にかあの日々のルルのようなものになっていることに気付き、早くこの時間が終わればいいのにと思った。たまにわざと選ぶ女言葉ではなく、あの日々の記憶に引きずられて自然と出て来たものだと分かってしまった。
「にいさんたちは夜にブロードウェイに行くつもりだったらしいんだけど、わたしはどうしても昼に観たいのがあって、みんなの分のチケットを取りに来たのyお。レイタを連れて行くなら行っていいってにいさんが言ったから」
それからふと、アメリアは視線を彷徨わせる。どうしたの、とBJが訊く前に、やや潜めた声で言った。
「あの、──レディシュの少佐は一緒じゃないの?」
BJは思わずキリコを見やり、キリコは無表情を貫いた。BJを救出するためだけに未成年の少女の恋心を手玉に取った特殊部隊員の話をしてやる必要はなかった。彼は今、陸軍病院に入院しているよ──言ってやる義理などどこにある?
「彼の話は必要ない」
咄嗟に答えられなかったBJに代わり、キリコが静かに言った。するとアメリアは綺麗に整えた眉を不愉快そうに跳ね上げる。
「詐欺師になんて訊いてない、ルルに訊いてるの」
「誘拐犯が何だって? 調子に乗るのもいい加減にしろ、俺がおまえの顔を見続けて気分がいいとでも思ってるのか? 俺たちにも予定があるんだ、さっさと終わりにしろ」
少女への気遣いを削ぎ落とした声と表情で吐き捨てると、さしものアメリアも言葉に詰まった。唇を噛んで俯いたその姿を見て、そんな言い方しなくていいじゃない、とBJが小声で言うが、事実だろう、とキリコは答える。すると玲太が声を上げて笑った。
「詐欺師だの誘拐犯だのすげえな。このテーブル、犯罪者しかいねえや」
「犯罪者は詐欺師だけよ、馬鹿じゃないの?」
玲太が空気を変えるために言ってくれたのだと思ったアメリアは憎まれ口を礼に代える。キリコは無論玲太がそんな気遣いをしたのではなく、本気で面白がっているのだと見抜いた。玲太は爆破犯、BJは無免許医。アメリアを誘拐犯、自分を詐欺師だと仮定すれば確かに全員犯罪者だ。
「アメリア、キリコの言う通りなの。ちょっと今日中に済ませたい用事があって」
「どうしても今日なの? どこに行くの? そんなに時間がかかるの?」
アメリアは必死とも言える声音と表情でBJに食い下がる。お願い、と手を握って言う様子は我が儘この上ないお嬢様だが、二度と会えないと思っていたルルと少しでも長く一緒にいたがっていることも確かだった。BJは困った顔で笑い、思わず言ってしまう。
「銀行に行って、その後は寄付をしにNPOに行かなきゃいけないの。今度はいつ来られるか分からないし──」
馬鹿、と思わずキリコは口の中で呟き、察した玲太は小さく笑った。
アメリアは途端に目を輝かせる。
「そんなの、にいさんの出番じゃない!」
「え?」
「銀行もNPOも、にいさんを連れて行けば箔が付くわよ。いいじゃない、それならわたしも一緒にいられるし──」
「もうやめとけ。キリコさんが怒ったらデルタフォースが来るぜ」
玲太が笑い混じりに冗談を口にし、だが笑わない目でアメリアを止めた。キリコは玲太を評価する。玲太自身がこれ以上自分たちと行動を共にしたくないという意味もあるだろうし、アメリアの無神経な我が儘にうんざりしている様子も見て取れる。互いにここが引き時だと判断した。
「クロオの前で怒りたくない。せっかくの旅行だ、楽しい気分で別れて舞台を観るべきだと思うね。──あと5分だ、楽しい話を」
「キリコ」
「今は俺よりアメリアを優先してやれ。二度と会えないんだ」
「──もういい!」
アメリアが顔を真っ赤にして立ち上がった。我が儘を撥ね除けられた子供が癇癪を起こす一歩手前の顔だが、どうにか爆発を自制している。
「ルル、今度連絡する。にいさんの言いつけなんて聞かないわ」
「アメリア、そんなこと言わないで。正しいのはクリードよ」
「ルルはわたしが嫌いなの!?」
「そうじゃないの。でもお願いよ、クリードの言うことを聞いて」
「とにかく、絶対連絡するから! 詐欺師が邪魔したって絶対するから!」
誰が詐欺師だ、と不快感を隠さずに眉を跳ね上げるキリコを睨み付け、アメリアは足早にその場を立ち去る。玲太が舌打ちしてから二人に「じゃあな」と言い、アメリアを追った。
「キリコ、もう少し言葉を選んで。いくらなんでもアメリアが可哀想よ」
「クロオ」
「──何」
いつもこういう時にはペットネームで呼びかける男に名を呼ばれ、BJはやや及び腰になる。男の声が不機嫌だったという理由もあった。キリコの不機嫌は珍しいのだ。
「今日はその話し方をしないでくれ」
BJはしばらく黙り、それから軽く唇を噛んで俯いた。意図的に続けていたわけではなく、アメリアとの会話からいまだ切り替えられていなかったからこそ自分自身の言動に衝撃を受けた。
「怒ってない」
キリコは溜息をついて自分の不機嫌を恥じた。たかがハイスクールの小娘の言動でここまで不機嫌になるとは思ってもみなかった。──ルルの姿になった恋人を見て、あの日々の不安を思い出したからだとは考えたくなかった。
「おまえを怒ってるわけじゃない。怖がらないで」
仕事以外でキリコが怒るとBJは怖がる。あの天才外科医だとは思えない一面はキリコしか知らない。キリコはどうにか自分の感情をコントロールし、BJの手を握った。BJを慰撫するためではなく、自分を落ち着かせるためだった。それを情けないと自分で思った。
「悪かった。おまえがあの家に戻るような気がして嫌だったんだ」
「そんなの、有り得ないのに」
「そうだな。俺が勝手に不安になったんだ。ルルの話し方だったから」
男の不機嫌の理由を知ったBJは息を吐き、何度も頷く。それから言った。
「わたしだって」
不意に顔を歪めて涙を堪えながら言うBJを見て、ああ、可哀想なことをした、とキリコは思う。──可哀想なことをした。俺は最低だ。今日は楽しい一日になるはずだったのに。
「あんな寂しい家に戻りたくない」
瞬間、キリコは思い出す。記憶を失ったBJとどうにかカウンセリングの名目で二人きりになって迎えに来たと告げた時、ルルと言う名を与えられていたBJは泣きながら言ったのだ。──『わたし、寂しいの』。あの言葉にどれほど旨を抉られたか、今でも鮮明に思い出せるほど後悔した瞬間だった。もっと早く迎えに行ってやりたかった。それができない事情があったとはいえ、泣くほど寂しがらせた事実は変わらない。
「悪かった。俺のミスだ」
「キリコは悪くないから」
「俺が悪いってことを受け入れてくれ。謝れなくなる」
BJはしばらく黙った後に静かに頷き、じゃあキリコが悪い、と照れ隠しのように拗ねた口調で断罪した。だからキリコは謝ることができたし、BJは許すことができた。
「ゼリーが食べたい」
不意にBJが言った。
「ゼリー?」
「さっき食べられなかったから。玲太にあげちゃった」
それで手打ちだ、という意思表示だった。理解したキリコは安堵の溜息を微笑に隠し、そうか、と言った。
「サロンの予約までまだ時間がある。どこかのカフェで食べようか」
「うん」
キリコが笑ってくれたことで安心したBJはほっとして頷き、差し出された手を取って立ち上がった。
「カフェにゼリーなんてあるのかな」
「なかったら他の場所に探しに行けばいい。今日は用事が終われば暇なんだから」
「そっか」
アメリアと会えたことは嬉しい。だが思い出してしまったとてつもなく寂しかった日々は早く忘れたかった。今日はずっと手を繋いでいたいと思った。好きな男がそうしてくれると分かっていた。
それなりに美味しいゼリーを食べ、それなりにBJは満足する。サロンに入る時だけは手を離さなければならないが、我が儘を言えるものでもなかった。この時代、やはり美容サロンは女性の園だ。
宿泊するホテルの中にあるサロンはいかにも高級で、こういった場所には無縁のBJを圧倒するには充分すぎる迫力があった。品のある調度品にリラクゼーションソファ、ハイクオリティなサービスを提供してくれるだろうと一目で分かる上品なスタッフたち全てから、敢えて強調した女性独特の良い香りがする。
「彼女はこういう場所が初めてでね。緊張しているかもしれない」
受付をするソファまで送ってくれた──ここから先は男子禁制だ──キリコに言われた担当スタッフはアジア系に対する侮蔑を隠し損ねた微笑を浮かべ、BJに頷いた。
「アジアンを担当者にした方が良さそうですね。脚の形も歪んでいるから、ベストなケアが難しいんです」
BJが溜息をつく前にキリコが笑った。スタッフは驚いてキリコを見る。笑いながらキリコは小声で言った。
「典型的だな。店長を呼びなさい。あまり騒ぎにしたくない」
これはキリコの厚情だ。BJは理解した。いつのもキリコなら厳しい口調でスタッフに抗議をするところだが、今日は穏やかだった。穏やかとはいえ、不快であることは見て取れる。この辺の塩梅が上手い、とBJは思わず感心する。自身への侮蔑の発言はもう気にならなかった。慣れていると言えば慣れているが、自分のために怒ってくれる男がいればそれだけで良かった。それでは他の人のためにならないと誰かに誹られようと、今は自分と好きな男の世界だけで生きていい時間であるはずだった。
言われたスタッフは自分の発言が不適切だったと思い至り、だがBJに謝罪したいとは思わないのか、そのまま動きが固まる。様子を窺っていた受付ブースのスタッフが動き、ほどなくして連絡を受けた店長が厳しい顔でやって来た。
「お客様、ご事情を伺いました。お話しするお時間を頂けますかしら」
「彼女ではなく私が聞いた方がいい。手短に」
全ての会話をキリコに任せ、BJは紅茶を飲み干すことに専念した。昔はこんなキリコを見た時、抗議なんかしたって無駄なんだ、早く立ち去ればいいだけなのに、と思っていた。
だが今は違う。これはアジア人をパートナーにしたキリコにとっての侮辱でもあり、抗議は当然の権利なのだ。
そして時代は変わりつつある。心から差別意識を撤廃できる者は少ないとしても、知識として、意識として、倫理として撤廃するべきだと思う欧米人が確実に増えていることを、BJは肌で感じていた。
人は変わる。
以前なら、差別されるのは当然だ、仕方ない、わたしはアジア人だし醜いし──そんな捻くれた気持ちで店を後にしただろう。だが今は違う。わたしはアジア人だし醜い。でもこんな扱いをされる理由なんてない。そう思うようになっている自分に気付く。
人は変わる。それを自分でも実感する。
「ここは観光客も多い。もちろん日本人も来るだろう。他の国のアジアンもね。まさか同じことを?」
「私が知る限り、このようなことは過去に存じません。ですが今のお話をお聞きする限り、おそらくあったのだと予想するしかございません。恥ずかしいことですわ」
「そう思ってくれるなら救われるよ」
人は変わる。自分も変わった。BJはキリコを見上げる。視線に気付いたキリコが僅かに微笑んでくれた。だから微笑み返した。人は変わる。わたしは変わった。このひとのお陰で。
「ねえ」
「うん?」
「店長がそう言ってくれるならわたしはこのサロンを嫌いにならないし、これから来るアジア人のお客さんもみんなここを好きになると思う。──でもわたしには敷居が高いから、もう少し上手に振る舞えるようになってからまた来たい」
「なあ、マフィン、そういう──」
「お客様、そんなことはございません。このサロンは──」
口を開こうとしたキリコを制するわけではないだろうが、結果としてそうなった店長はサロンの意義について熱心に話し出した。自分の店に対するプライドと情熱、そして非礼を詫びる姿に嘘はない。それが嬉しくてBJは微笑み、ぜひこのサロンで施術させて欲しい、と言う店長の話を真摯に聞いた。最初のスタッフはいつの間にかいなくなっていたが、それならそれでいいと思った。
「マフィン」
キリコが穏やかに言った。
「どうする。ここでいい?」
人は変わる。BJは思う。ああ、変わった。──ああ、キリコも変わった。以前の彼ならきっと、店長がどれほど真摯に話をしても今頃それをはね除け、もう行こうと言ってわたしを連れ出していたはず。そして店長は哀しい思いをしただろう。わたしは後ろめたかっただろう。キリコも嫌な気持ちで終わっただろう。
でも今は違う。わたしと店長、二人を救う道を作ってくれている。
だから心から言えた。
「ここがいい」
「──そういうことだ。あなたさえよろしければ」
キリコに言われた店長は真剣な顔で頷き、ぜひ、と言った。
「俺も丸くなったもんだ」
施術の準備をしに店長が一度席を外した時、キリコが自嘲混じりに言った。BJは笑った。
「変わった」
「そうかもな」
「もっと素敵になった」
キリコは苦笑し、BJにキスをした。おまえのお陰かもな、と言って。
人は変わる。それが嬉しいこともあるのだと、二人は同時に思っていた。
店長自らの施術になると聞き、キリコは安心してサロンを出た。終わるまで二時間程度かかるという話だが、女性の美容には金と時間がかかるものだと知っているので気にならなかった。どこかで適当に時間を潰そうと思ってホテルのエントランスへ向かう。
このホテルはハイクラスだがまだ歴史が浅く、今の時代に即した現代的な造りをしている。デザイン性が高く、非日常で洒落た気分を楽しませてくれることは間違いなかった。
歴史と伝統を楽しませてくれるロンドンのフォーシーズンズのような老舗も良いが、タイムズスクエアのような賑やかで現代的な観光地に近いのであればこんなホテルもいいとキリコは思う。
ホテルの中庭にあるオープンエアのカフェで時間を潰そうか。そう思ってエレベーターを降り、ほんの数瞬遠い目をして、そして後から降りる客の邪魔にならないように横へ数歩どいてから改めて溜息をついた。
「痛み止め頂戴」
溜息は当然だ。ワシントンで傷病休暇中のはずの赤毛の軍人がなぜかそこにいて、辛そうな声で要求したのだから。
「鎮痛剤か」
「冗談抜きで痛くて。余裕ない。まじで痛い」
「だろうな。待ってろ」
演技ではなく、真実として痛みを堪えていることは医者でなくても分かるほどだった。そしてここにいる事情をすぐに察したキリコとしては手持ちの鎮痛剤をくれてやるしかない。フロントに預けた荷物のひとつを手元に戻し、フロントマンに水を持ってくるように頼んだ。
それからロビーで待たせていたグラディスにかなり強い薬を選んで渡す。すぐにロビー担当のホテリエがミネラルウォーターを運んで来た。グラディスの様子に「お医者様をお呼びしましょうか」と声をかけたが、自分が医者だ、彼はすぐに落ち着くとキリコが言ったため、それ以上は何も言わずに立ち去った。
「予備もくれてやる。場所が場所だ、注射ができないのは我慢しろ」
取り急ぎ薬を飲んだグラディスは大きく息を吐き、ソファに深く座って背もたれに寄りかかる。
「ありがとう。予備まで悪いね。請求書は陸軍で」
「飲むたびに必ず水を180。飲まないと胃壁がやられる。請求書を書くのが面倒だから今回はサービスだ。──早いな。アメリアと会ってから二時間も経っていない」
「ワシントンからなら空路で一時間で着くからね。報告を受けて15分後に乗った」
「そうか。何に乗った?」
「リトルバード」
高速飛行が可能な軍用ヘリで移動をした、と短く伝え、グラディスは襲い来た痛みの波に呻く。薬が効くまでは仕方ない。キリコは流石に同情した。負傷部位は右の脇腹、重要な体組織の損傷はなかったが、負傷の原因である弾丸が潜り込んだ箇所は弾丸の熱で周囲の筋肉や血管を焼き、皮膚に引き攣れた銃痕を残している。BJの手術であったとはいえ、その痕をなくすことは不可能だった。端的に言えば激痛、常人ならまだベッドで一日の多くを過ごしたい痛みのはずだ。それが高速ヘリでここまで運ばれたのだから痛がっても仕方ない。
「リトルバードか。速いがよく揺れるな」
「お陰で痛い。乗る前に注射打ってもらったのに切れた」
「そうか」
「……まじで痛い」
「……だろうな」
グラディスが西ドイツで負った怪我はそれなりに深手だった。一時的に主治医となったBJが一ヶ月の入院を言い渡したほどだ。あれからまだ一ヶ月経っていない。キリコがざっと観察した限り、傷は塞がっているだろうがまだ痛みが出る段階であることは確実で、飛行機、しかも軍用ヘリでの移動などもってのほかだ。職場復帰までは更に一ヶ月が必要になるだろう。
「ほんと痛いし困るしめんどくさいし」
「どれかひとつにしてくれ」
「めんどくさい」
「痛みよりそっちが優先か」
キリコは予想する。玲太の監視を兼ねたFBIの護衛が、闇医者二人との接触を報告したのだろう。無論、かつて揉めたオールドマネー一家の次女と一緒であったことも。そこからデルタフォースに連絡が行くまではそれほど時間がかからないはずだ。他の隊員とブリーフィングをしている暇はなく、全ての事情を理解している──同じ小隊でも共有する情報は限られているものだ──グラディスが痛み止めを注射して軍用ヘリに飛び乗ったとしか考えられない。
「ベネットじゃ駄目だったのか。あいつなら他の隊員より事情が分かるだろう」
「西ドイツの後からタイニーと休暇中。明後日まで。うちは国外任務の後に必ず特別休暇があるから」
「おまえさんもだろうが」
「仕方ないでしょ」
部下に休暇を切り上げさせるくらいなら、と顔に書いてある。キリコは溜息をつき、軍人ってのはこういう部分が面倒でいけない、と思った。
「ドクターと先生がレイタと接触しなけりゃどうでも良かったんだよ。勝手にクリードとドクターが火花散らして、アビゲイルがドクターに纏わり付いて、先生がいたたまれなくなって泣きべそかいてりゃいいだけだもん。アメリアとエミリーはどうでもいい、馬鹿と年齢的無垢で合わせて無害」
「やめろ、想像できて気分が悪い」
まさかクリードとアビゲイルまでが自分たちの前に現れるとは思っていない。彼らも互いの関係を理解しているはずだし、キリコはクリードの担当医としての契約が終わった時点で「不要の接触は避ける、接触する場合には陸軍を通す」という書面を取り交わしている。クリードほどの階級の人間が書面による誓約の重大性を理解していないはずがない。
「明日にはナッソーに行くし、乗り換えですぐエルーセラだ。おまえさんが来る必要はなかった。しかもその状態じゃあいつが気にする。来てくれた労には礼を言うが、このまま消えろ」
「単刀直入すぎて怒る気にもなれない。僕だって帰りたい」
「帰れ」
「そうもいかなくて。レイタと──要観察の元重犯罪者とドクターの接触が完全に消えるまで監視しないといけない。それかドクターと先生をワシントンに一時連れて帰る」
「必要ない」
「僕の上に言うか諦めるか死ぬか言うこと聞くかどれかにして」
クソッタレ、と口の中でキリコは呟き、ソファに深く沈んだ。医者としてはグラディスの状態を放っておきたくない。だが私人としては今すぐ消えて欲しい。まともな休暇を過ごしたい、と心の底から思った。去年のスペイン、フランス、そしてロンドン。トラブルのない休暇をBJと過ごしたことが一度もない、と、気付かない振りをしていた現実を流石に認めざるを得ず、俺たちが一体何をしたんだと嘆きたくなった。
「痛い」
グラディスが呻いた。お大事に、とキリコは無感情に呟いた。
ペディキュア、フットネイル、呼び方は様々だが、いずれにせよBJは初めての経験だった。ほどよく温められた湯に足を浸けることから始まり、あれやこれやと手際よく、だが丁寧に進められていく。店長がたまに投げかける世間話もそつがなく、座ったソファのクッションも最高に気持ちがいい。女の人っていろんな楽しみがあるんだな、とユリが聞けば「もっとあるわ!」と騒ぎそうなことを思った。
他の客も同じフロアにいるが、ここはパーティションでそれぞれが広めに区切られ、ほぼ個室状態で施術を受けられる。これもBJには有り難かった。パーティションは薄く、小声の会話でも隣や周囲の声は聞こえるが、不思議なことにそれはサロンの心地よいBGMの役目を果たす。
足の爪が過去にないほど綺麗に整えられてから、お似合いになりそうなお色です、とサンプルを目の前に並べられた。ううん、とBJは真剣に悩む。
「どうしよう。わたし、本当に初めてで分からない」
「迷った時はお好きなお色が一番です。あとは──ご主人がお好みになりそうなお色を選ばれるお客様も多いですね」
うふふ、と店長は女同士の内緒話をするような顔で笑う。BJも釣られて笑った。結婚してないけど、とはもう面倒で、正面から問われない限り誰にも訂正しなくなっていた。
「どうしようかな。キリコが好きそうな──ううん……」
「ご主人がお召しのお洋服ですとか、お目のお色でも喜ばれますね」
「あ、そういうのもあるんだ。じゃあ青かなあ」
「青ですと、こちらからこちらの列で──」
「こんなに?」
ひとくちに青と言っても濃淡や色の具合で10数色ものバリエーションがある。サンプルを見せられたBJはいっそ感心してしまった。女性の美への探究心たるや! ──ああ、わたし、楽しいって思ってる! こんなので楽しいって思うなんて初めて! このわたしが!
「こういうのって」
「ええ」
「今まで、本当にしたことがなくって」
「そうですのね」
「でも──楽しいかも」
何となくはにかみながら言ったBJに、店長は心からの笑みを浮かべた。
時間をかけて選んだ色を基調に、シンプルだが可愛らしい──BJの足の小さな爪によく似合う──デザインを施していく店長の指先を眺めながら、BJは半ばうとうととし始める。それもサロンの醍醐味だということは知らなかったが、眠りそうになっても注意されないということは、眠っても構わないのだろうと思い、眠気に身を任せていた。何くれとなく世間話を振っていた店長も客の変化を見て取り、話を止めて指先の施術に集中する。
足に触れる店長の指先と体温、サロンを満たす良い香り、他のブースの女性客やスタッフの密やかな話声がBJを眠りの国へ連れて行こうとする。
女性客たちの小声のおしゃべりは肝心な部分が聞こえない。だがそれが心地よい。彼女たちの楽しそうなさえずり、笑い声がなぜか安心を運んでくる。安心の中で意識が完全に溶けかけたその時、少しばかり大きな声が鼓膜に飛び込んで来た。
「あなた、何を言っているの。そんなの許されることじゃなくってよ」
強い口調で誰かを非難する声だ。何かトラブルかな、客商売じゃ珍しくないことだ──睡魔に手を引かれながら考える。睡魔は不満そうに早く早くと誘ったが、誰かのその声がBJを引き止めようとしていた。──誰の声だろう、聞いたことがある。優しいけど誇り高い、でもとても女性らしい──
「こんなサロンでネイルをしてもらうなんてとんでもないわ。そのアジアンの方、もしかしてまだこのサロンにいらっしゃるの? 冗談でしょう、他のサロンを紹介して差し上げなくては!」
親切は親切なんだろうな、でも自分の正義感だけが基準の人かな──睡魔を押しのけ、BJは溜息をつきながら目を開けた。どう考えても自分のことを言われている。誰かが先ほどのトラブルを彼女の前で口にしたのだろう。
「少々失礼します、申し訳ございません」
「必要なら呼んで」
「とんでもございませんわ」
店長がBJに詫びてからブースを出て行く。その間、BJは自分の足の爪を見る。うとうとしている間にターコイズブルーとホワイトを基調にしたグラデーションで彩られ、小さなパールと貝のパーツがアクセントに置かれている。
座ったまま両脚を高い位置に上げてぴんと伸ばし、しげしげと爪を眺めた。おお、わたしの足じゃないみたい、浜辺みたいで可愛い、と悦に入った。ピノコに大人の身体を作る時にはこんなネイルが似合う指にしてあげようと思った。
早くキリコに見てもらいたかった。キリコはきっとこの爪を褒めて、可愛いね、似合うよ、と言ってくれるだろう。そういう男だ。
「こちらにいらっしゃるの? 嫌な思いをなさったのならお連れしなくちゃ」
「とてもリラックスして下さっている最中です。それはおやめ下さい」
「こんなスタッフがいるサロンで? わたしを担当したスタッフが何て言ったと思う? 自分がアジアンの客を差別したくせに、彼女のご主人にクレームを入れられたのを迷惑だって言ったのよ」
ああ、あのスタッフが担当になったのか、とBJは理解する。それから数秒考え、白いラックにまるで展示品のように丁寧に置かれていた自分のストラップサンダルを手に取った。
早くキリコに会いたい。そのためには早くサロンを出たい。だがこの女性は厄介だ。押しが強く、声の調子からして上流の人間だろう。自分が正しいと思えば周囲の迷惑を省みない性格らしい。店長が気の毒だった。
サンダルを履き、爪の色がよく似合うと分かって一人で満足の笑みを漏らす。それから軽く頬を叩いて表情を引き締め、ややビジネスモードで対人スキルに喝を入れてから、まだ何やかやとご高説を口にする女性と店長がいるフロアへ出た。女性は背中を向けていたが、一見しただけで上質だと分かる服を着ている。確実に金持ち、とBJは断定した。
「たぶん、わたしの話だと思うの。怒って下さってありがとう。でも大丈夫、充分お詫びは言って頂いたし、夫も納得してくれる対応を──」
ああ、と言いながら後悔した。正確には「夫」の「お」を言った瞬間に後悔した。
「そうなの? でもあなた──」
夫の「お」の直前にBJを振り返った女性は絶句し、次に目を丸くし、そして唇を戦慄かせる。明らかに全てを悟った顔だ。頬が一瞬で紅潮した。
平手打ちの一発も覚悟した──何しろ自分を助け出すためにキリコは彼女の恋心を利用したのだから──BJは、それでも「久し振り」と口にする。
彼女の腕が動いた。身体への衝撃を覚悟したBJは思わず目を瞑る。
そして衝撃を確かに感じた。
「ああ、神様!」
ぶつかるほど急いで近付いたアビゲイルに抱き締められていた。
「ルル、会いたかった」
アビゲイルは泣き声だ。抱き締める腕の力は強く、ああ、とBJは思い出す。ああ、この人はあの日々もわたしをこうやって抱き締めてくれた。わたしを軟禁した犯人の一人ではあるけれど、記憶を失って不安なわたしを抱き締めてくれた人であることも揺るぎない事実だ。
「アビゲイル」
BJは驚き顔の店長に視線で謝ってからアビゲイルの名を呼んだ。
「ありがとう」
何に対してそう言ったのか、自分でもよく分からなかった。だがアビゲイルが声を詰まらせ、そしてまた「神様」と呟いてから激しく泣き出したので、それはきっと正解ではないとしても、少なくとも間違いではなかったのだと思えた。
それからしばらくした後、キリコがBJを迎えに来た。そこにいたアビゲイルを見て眉をひそめ、アビゲイルは泣いた跡が残る目元で決まり悪く苦笑し、BJはキリコの後ろにいたグラディスを見て「また勝手に退院したのか」と怒る。ようやく痛み止めが効いてきたグラディスは溜息をつき、取り敢えず場所を移動しようよ、と誰にとっても有益な提案をした。