幸いと言うべきか、一同が乗り込んだエレベーターには他の客がいなかった。エレベーターボーイが姿勢正しく階数パネルを見ているだけだ。
アビゲイルと改めて話すことはその場でキリコが強硬に拒否した。BJはそれが正しいと分かってはいたが、アビゲイルの気持ちを思うといたたまれない。アビゲイルは手酷い失恋を──男にとっては恋ですらなかった──させてくれた男に恨みを隠し切れず、しかしBJの手前、どうすればいいのか分からないような顔をして言った。
「ルルと話をさせて。──心配しないで。危害を加えないと誓うし、あなたへの恨み言も言わない」
「失せろ」
キリコの返事は低く、短く、そして冷たかった。大きな喧嘩をした時でさえこんな声を出されたことがないBJはちらりとキリコを見上げ、グラディスはBJの様子を見て小さく息を吐く。
だがアビゲイルは気弱な女性というわけではなかった。上流ならではの傲慢さは、彼女が生来持っている慈愛と、そして気の強さにも繋がる。今は気の強さに作用した。人に命じることに慣れた女の顔になった。
「どうしてあなたに許可をもらおうなんて思ったのかしら! ──ルルはわたしと話をします。これは決定よ」
「断る」
キリコの返事はやはり低くて短い。腹を立てたアビゲイルが尚も口を開きかけた時、グラディスが小声で割って入った。
「先生が混乱してる。やめるべきだよ」
引き合いに出されたBJはグラディスの言を意外に思いながらも──見抜かれるとは思ってもみなかった──、キリコの袖を引いてぞれが事実だと伝える。アメリアの時といい、今といい、キリコが誰かに対して怒りを隠さない姿にはあまり慣れていなかった。アビゲイルが驚いた顔をし、キリコが溜息をついてBJを抱き寄せると同時にエレベーターがエントランス階に停まり、扉が開く。エレベーターボーイの到着のアナウンスが終わる前に、キリコはBJをまるで抱えるように強く抱き、早足で降りた。
「お待ちなさい!」
「ドクター、先生、先に行って。アビゲイル、契約をお忘れになった?」
「あなたがいるなら陸軍を通したことになるでしょう!」
グラディスがアビゲイルに触れないよう、だが確実に進路を妨害しながら言った。キリコは返事もせずにBJを連れて歩いて行く。ホテルを離れようと思った。
ホテル前に列を成すタクシーに乗り、当初の予定の銀行へ向かうようドライバーに告げる。走り出してからようやくBJが口を開いた。
「どうして赤毛が? まだ入院してるはずなのに」
「気の毒な話さ」
キリコは経緯を説明する。BJが深く、深く溜息をついた。グラディスの負傷を西ドイツで最初に診て処置をし、アメリカに入国後──キリコとグラディスにとっては帰国後──入院と治療計画の指示を出したのは自分だ。あれから二週間、まだ安静にしているべき時期だったのに。
「アビゲイルが同じサロンにいた」
「そうみたいだな。狙ったわけじゃないだろうし、仕方ない」
「キリコは」
「うん?」
「あれから、アビゲイルと話をした?」
「必要ない」
「本当に必要ないと思う?」
「必要だとしたら、赤毛もアメリアと話をすることになる」
BJは答えず、下唇を噛んでうつむいた。キリコは溜息を堪えてBJを抱き寄せる。今日はお互いにとってあまり良い日ではなさそうだ。これから挽回できるといいのだが。
「──赤毛の容態は? あのヘリに乗って来たなら相当痛いはず」
「鎮痛剤を飲ませた。予備も持たせてある。注射が最適だが、場所が場所だけにできなかった」
患者を気にする様子を見せたBJにキスをする。今はグラディスに感謝しようと思った。医者としての意識がBJの感情の混乱を収める手助けになる。自身の混乱は──混乱と言うよりも思い出した怒りは──BJのケアをすることによって忘れられそうだった。なるほど、と思った。
なるほど、俺たちはどこまでも医者なのだ。
「後で合流する?」
「聞いてない。必要なら勝手に来るさ。今日の予定は言ってあるから、銀行かNPOでまた顔を見せるんじゃないか」
「玲太と関わらなきゃいいだけなら、NPOに行ったらホテルに帰ろう。グラディスをコネクティングルーム入れよう。──休ませないと。傷はもう塞がってるだろうけど、まだ入院してなきゃいけない時期なんだから」
「そうだな。──大丈夫、あいつは痛い時は痛いって必ず言う奴だ。さっき俺と会った時もうるさかった」
「あいつはいつもそうだ。軍人のくせに!」
BJがようやく笑った。キリコは微笑んでおいた。医者に向かって痛いと素直に言う軍人こそが優秀であり、生き延びる奴なんだ、と今は言う必要がなかった。
「夜はブロードウェイに連れて行こうと思っていたのに。とんだ邪魔が入ったよ」
BJの気を引き立たせるために真実を言った。BJが顔を上げ、実現はできないものの、男が用意してくれていたプランに顔を輝かせる。
「今日は無理だけど、次は連れてってよ」
「もちろん」
「わたし、ブロードウェイで観たことない」
「俺も多いわけじゃないよ。でも観ておいて損はない」
「もう、赤毛なんていなければいいのに!」
いつもの調子を取り戻したBJに安心して笑い、まったくだ、とキリコは言った。それからようやく大切なことを口にした。
「可愛いくしてもらったな。似合ってる」
一瞬何を言われたのか分からない顔をしたBJが、すぐに足の爪のことだと理解して嬉しそうに笑った。サロンなんて初めてだった、楽しかった、あのね、と機嫌良く話し出すBJを可愛いと思いながら、キリコは自分の機嫌も良くなっていくことを実感した。
銀行はタイムズスクエアから少し離れた場所にあった。タイムズスクエアに部屋を買うなんて考えていなかった頃に来た銀行だから、とBJは笑う。目と鼻と先にかの有名なエンパイア・ステート・ビルがある銀行だった。
「これが見たいからこの銀行にしたんだけど、滅多に来ないからあまり意味がなくて」
この時代、世界で二番目に高いと言われる塔は観光客に愛されている。展望台から一望できるニューヨークの景色は圧巻だ。塔の下部と高層部を彩るアールデコ調のデザインは時代にそぐわないが、それが歴史を感じさせる効果を発揮していた。
銀行内で順番を待ちながら窓の外の塔を眺める二人の前で、観光客や内部施設で働く人々が面白いほど塔の中へ吸い込まれて行った。
NPOへ金額を記入して渡す予定の小切手帳を発行してもらい、銀行を出たところでグラディスに会った。顔色が悪い。早く帰ろうね、とBJは小声でキリコに言った。キリコは頷き、必要なことをグラディスに聞いた。
「長女は?」
「陸軍に弁護士から連絡させるって怒ってた。ドクターとルルちゃんと話をする手続きを取るってさ。どうする?」
「どうするもこうするも、法的措置を執られれば対応しますよってところだな。手続きが終わる頃には俺たちはエルーセラだ。その後もアンティーヴに行く。帰国するまで連絡がつかないさ」
「明日、無事に飛行機が飛ぶといいんだけど」
「嫌なことを言うなよ」
「赤毛、タイムズスクエアに戻る。NPOの事務所がそっち」
BJが立ち話を嫌い──当のグラディスの傷が心配だったのだ──早く、と男二人を促す。するとグラディスが言った。
「赤毛って言うな。──どうしても今日行かなきゃいけないの?」
「そういう訳じゃないけど、あまりニューヨークに来られないから行っておこうと思って──」
「寄付金なら振込にしてもいいんじゃない? 様子を見たいのは分かるけど、今日はいい日とは言えない気がする」
それでキリコはぴんと来た。この男、既に情報を掴んでいる。要は自分たちをタイムズスクエアのNPOに行かせたくないと思っているのだ。
「赤毛」
「何」
「さっさと結論を言え」
「クリードが三姉妹を引き連れて、先生のNPOに向かったって話でいい? もちろんレイタも」
「振込にしよう」
男たちの会話は早い。キリコは即座にBJに提案した。否、提案を装った決定事項の通達だ。BJは頷きかけたが、でも、と思った。──でも、わたしだって──あのNPOは──
「わたしが作ったのに」
「マフィン?」
「わたしが作ったのに、──何でもない」
BJは言葉を切った。言えばキリコを困らせると分かっていたからだ。わたしの名前なんて表に出せないけど、でも、まるで行っちゃいけないみたい。まるで──否定されているみたい。
だが言うことはできない。ただでさえ今日のキリコは普段よりも精神的な疲労を感じているはずだ。アビゲイルとアメリアへの態度は心底の憎悪を感じると言っても過言ではなかった。その彼女たち、そしてクリードがいるはずのNPO事務所へ行きたいはずがない。──しかもあのNPOはベトナム帰還兵のための──するとキリコが静かに言った。
「そうだな。おまえが作ったんだ。行かない理由がない」
BJは顔を上げる。青い、優しいひとつだけの瞳が自分を見ていた。和柄のアイパッチで隠されたそこにも、かつて同じ色の瞳があった。それを落として来た場所を思い出したのか、それとも無意識か、キリコの指がアイパッチをなぞった。
「いいよ。行こう。──この暑さだ。あの場所を思い出して助けを求めている連中が増えているかもしれない。俺にもするべきことがありそうだ」
あの密林の暑さとは質が違うものの、気温の上昇で傷となった記憶を呼び起こされるケースも少なくない。キリコはそれを知っている。BJは頷いた。ごめんね、と言う代わりに、ありがとう、と言った。キリコは答えず、微笑んでBJの髪に唇を落とした。
「行くなら」
黙って聞いていたグラディスが口を開く。
「会話せざるを得ないよ。アビゲイルが偉そうに喚いてたけど、クリードは真面目に寄付金の相談をしに行ってるらしいからね。今回の旅行の目的のひとつなんだってさ。事務方と話し込んで時間がかかるはずだし、先生を見つけるはずだ」
「あのオールドマネーが? 先代がベトナム批判派だったくせに」
キリコが眉をひそめる。BJのことはもちろんだが、クリードの家のその立場も嫌悪感を増幅させる一因になっていた。グラディスは肩を竦めて説明した。
「宗旨替えしたんだ。今はロンの──肯定派のスポンサーだよ」
「あ、脅してたやつ」
「先生、人聞きの悪いこと言わないで」
テロリストが屋敷を占拠し、クリードとキリコを人質に取った時、クリードの救出条件として現大統領陣営への転向を迫ったのだ。ルル、すなわちBJの前で行われたグラディスの交渉はクリードの命を楯にした脅迫としか言えないものだった。
「なるほど」
キリコが得心して頷いた。それならあのNPOがクリードの目に留まるのも当然だと思った。彼は男性としては粗のある人間だが、経済人としては抜け目がない。現職大統領が後押しをしていることで有名なNPO、しかも多くの国民が肯定せざるを得ないベトナム帰還兵のケア団体とあれば、オールドマネーとして関わっておいて損はない。富裕層の義務である社会的奉仕活動の一環として高く評価されるだろう。
「キリコ」
「うん?」
「怒らないで聞いて欲しい」
「言ってみて」
「わたしなら、クリードから金を引き出せる。もちろんやらずぼったくりでね」
「うぐっ」
キリコよりも先にグラディスが噴き出し、衝撃で脇腹の傷が鎮痛剤の努力を無視して激痛を訴える。声もなく悶絶するグラディスが掴んで肩を埋め、痛みを堪えるための肩を貸しながら──戦地ではよくあったことだ──キリコは笑った。BJも笑った。
「流石だな。悪くない」
「いい提案だと思わない?」
「最高だ。奴の資産を空にしてやれ」
「強盗馬鹿夫婦め。──電話してくる。少しいちゃついてて」
どうにか痛みをやり過ごしたグラディスが電話を探しに行った。
「ねえ」
「うん?」
「──赤毛に嫉妬しちゃった」
「馬鹿言え」
グラディスが肩を掴んで顔を埋めたことにすら嫉妬する女と、それすらも可愛いと思う男は、図らずも同時に自らを馬鹿だと思う。そう思えることは精神的な余裕がある証明だと分かっていて、安堵の材料になると知っていながらも。
それから改めて顔を見合わせて笑い、どちらからともなくキスをしていた。
NPOの事務所があるアパートメントはタイムズスクエアの中、しかしメインストリートから少し外れた場所にある。メインストリートの華やかな空気が薄れ、観光客よりは近辺の大企業で働くエリート層や軍事施設に配置された軍人たちの姿が目に入る通りだった。
アパートメントの上層階は富裕層がセカンドハウスとして購入している部屋が多い。その下は企業や各種のNPO団体の事務所が入り、人の出入りがそれなりに多かった。
「ここにしたのは正解だったな」
キリコがエントランスをくぐりながら言った。
「近くに退役軍人の職業斡旋事務所があるし、少し離れればフォートライリー基地もある。おまけに観光地も近いしな。ベトナム帰りの復員兵が人目を気にしないで入りやすい」
「ああ、それ、上の人間も言ってた。いいとこに作ってくれたもんだって」
現役の軍人であるグラディスがキリコの言を肯定し、BJは得意げに「まあね」と言う。キリコは微笑み、繋いでいた手に力を入れた。
アメリカで社会問題になっている復員兵のPTSDを支援する団体は他にもあるが、どうしても人目を気にした復員兵が足を運びにくいという事情も問題視されている。ケースワーカーの努力も中々実らない。サポートしようにも充分な力を発揮できないという嘆きもよく耳にする。
BJはそれを逆手に取り、この場所を選んだ。人目についても誰も気にしないような観光地が近ければ、そして過去に理解を示して当然である軍人が多く行き来する場所であれば、まだ自らの力で移動ができる復員兵が訪れやすい。そしてそれは功を奏し、今では類似のNPO団体の中では最も効果を上げている。
「でも、ここまで来られないくらいに悪くなってる人がいるのも知ってる。得意になってばかりでもいられないんだ」
「こう言っちゃなんだけど」
エントランス内のロビーのソファから立ち上がった、人好きのする笑顔を浮かべた迷彩服姿の男に軽く手を挙げながらグラディスが言った。
「そういうのは本来、うちの国の人間がやることなんだよね。金持ちほどあの戦争を否定したがってるから中々資金が集まらなくて嫌になるよ。──先生には感謝してる。ありがとう」
口の悪い男の礼に咄嗟に返事ができず、BJは戸惑ってキリコを見上げる。キリコはBJに向かって穏やかに頷き、感謝の意を込めて額に唇を落とした。
「少尉、元気ですか?」
近付いて来た迷彩服の男がグラディスに話しかける。それが偽装階級であることを知っているキリコとBJは、彼がおそらくグラディスの部下であり、先ほどの電話で呼び出されたのだろうと予想する。グラディスは二人に彼を短く紹介した。
「准尉。『少佐』の部下」
「ジョイです、どうも。『所属部隊』のローテーションでこの近くの基地に出向してる期間でね。ええと──ドクター・キリコと奥さん?」
小柄だが明らかに訓練を受けた身体つきだ。そしてBJはすぐに彼を思い出した。クリードの屋敷が襲撃された時、救出部隊にいた男だった。それを小声の日本語でグラディスに言うと、「よく覚えてるね」と肩を竦められた。
「僕はワシントンからこの近くのフォートライリー基地に転任してきたばかりで、このNPOには勉強を兼ねてお邪魔しに来たんだ。ジョイ、偶然って面白いと思わない? 僕がフォート・デトリックで一緒に仕事してたドクター・キリコとここで会ったなんて」
それは『設定』の説明だった。特殊部隊の人間であることをわざわざ言う場所ではない。理解したキリコとBJは頷き、受け入れる意思を示す。協力してやる義理はないものの、協力しない理由もない。
「面白いですね。俺は一度、二人に会ってみたかったんです。今日はよろしく」
「どうも」
笑みを浮かべながら差し出された手を握って軽い握手をし、キリコは彼がフォート・デトリックの警備任務には参加していないことを知った。知らない顔だったからだ。クリードの屋敷の件で会ったはずだが、BJほど記憶していなかった。そもそもBJの記憶力は驚異的なものだ。
エレベーターへ向かって歩く中、ジョイが世間話のように言った。
「ところで少尉、怪我は平気なんですか」
「どうってことない。無理なら来ないよ」
「そうかあ。まあ、ドクターと奥さんがいるなら心配しないでおきますよ」
BJは何とは無しに居心地が悪くなる。言ったジョイは笑顔で口調は穏やかだったが、明らかに心配した目を一瞬だけ見せたからだ。できるだけ早く用事を済ませてしまおう、と改めて決めた。
誰かの不調はその誰かを知る人間をも不安にさせる。医者としてよく知っている。そもそもグラディスが詳細な事情を知らないはずの部下を呼び出したのは、自分自身の負担を減らすためだろう。アシスタントが必要だと判断した程度には体調が悪いのだ。
「赤毛──少尉」
「何?」
「事務所なら注射が出来る」
「一本いくら?」
「打つのはキリコだから交渉しろ」
「俺かよ」
唐突に指名されたキリコは溜息をついたが、日米いずれもの医師免許がないBJが、自分が設立したNPOの正式な事務所で医療行為をすることを極限まで避けたいのだと察した。この団体は良くも悪くも注目されている。マイナスに捉えられる可能性がある行為は控えるべきだった。
「ドクターなら堂々と経費申請できるな。痛くないやつにして」
グラディスが茶化すと同時にエレベーターが到着し、軽快なベルを鳴らしながら扉を開いた。他には誰も乗らなかった箱に乗り込み、扉が閉まるなりジョイが笑みを消して言った。
「少佐、すぐ打ってもらって下さいよ。──ドクター、お願いします。この人、絶対痛いって言わないから困るんだ」
「──痛いって言わない?」
BJは思わずグラディスを見る。何度痛いと聞いたことか。グラディスは無視して階数パネルを見上げていた。キリコは笑いを隠し、上官はそんなものだ、と思った。部下の前では意地でも不調を顕わにしない。しかし軍医と二人きりになった途端、とにかく痛いから何とかしてくれと訴える軍人を数多く見たものだった。
「この人は見栄っ張りの意地っ張りで。俺たちに心配をかけるのが趣味だから嫌になる」
「ジョイ、もうすぐ査定だ。楽しみだね」
「パワハラじゃないですか!」
ジョイの嘆きにキリコとBJは思わず笑った。同時にエレベーターが停まり、また軽快なベルを鳴らしながら扉を開いた。
「──ああ、なるほど」
そこにあった光景を見て、キリコは思わず声を漏らした。これは相当考えられた上で作られた事務所だ、と思ったのだ。エレベーターが開いた瞬間、そこはもう事務所だった。廊下も入室のためのドアもなく、足を一歩踏み出せば、復員兵のための場所へ降り立つことができるのだ。入り口のドアをノックできずに引き返してしまうこともない。迷う暇もない。
それから、やはり今日来て良かったと思った。それほど広いわけではない事務所内に、明らかに復員兵と思しき男たちが10人近くいる。全員が沈んだ顔をし、何かに怯える表情を隠し損ねていた。BJが集めた優秀なスタッフたちが対応しているが、この人数では彼らでも手に余るだろう。
「キリコ、先に少尉に注射をしてあげて。奥に個別面談用のブースがあるから、そこで」
キリコがすぐにでも復員兵たちの対応に加わろうとしたことを見抜き、BJが要請する。グラディスが拒否する前にキリコは頷く。一同に気付いて近付いて来た女性スタッフへの説明をBJに任せ、グラディスを引きずるようにして奥のブースへ向かった。グラディスはジョイに「先生の護衛を」と目で命じ、ジョイも目で承諾した。
「先生、来るなら連絡をくれればよかったのに!」
「キャシー、突然でごめん」
「いいえ、嬉しいわ」
NPO設立時から運営を任されているそのスタッフは笑顔でBJと抱き合う。
「彼はジョイ。准尉さんらしいよ。フォートライリー基地の人なんだって」
「キャシーよ、よろしく」
「ジョイ。よろしく」
「先生、さっきの二人はどなた?」
「ドクター・キリコとフォートライリー基地の少尉さん。少尉さんの調子が良くないから診察をね。先に紹介したかったんだけど急ぎだったんだ、ごめん」
「あら、そうなの。心配ね。──お医者様?」
「心療内科と薬の分野ならトップクラスだと思う。──後で対応に加わってくれるから、対応マニュアルを一応見せてあげてくれるかな。使わないかもしれないけど、でも彼には自由にしてもらって」
「分かったわ。──准尉や少尉は相談に来たわけじゃないわよね?」
キャシーのそれは揶揄ではなく確認だった。年齢的にベトナムに行っているはずがないと分かっていても、軍人であれば必ず確認を行うルールになっている。ジョイは頷いた。
「俺も少尉も見学に。もちろん邪魔はしないし、迷惑ならすぐ帰るよ」
「迷惑なんてことないわ。でも、できれば手伝って欲しいかも。彼らの話し相手になってくれない? 常駐のカウンセラーがランチに出てるの。その間だけでもいいから」
「OK、少尉が来たら一緒に説明を聞かせてくれる?」
「分かったわ」
快く引き受けてくれた現役の軍人にキャシーは微笑む。だがすぐに表情を引き締め、BJに小声で言った。
「オールドマネーは知ってる? この国の──」
「もう来てる? 会いたいわけじゃないけど、必要があれば会ってもいい」
「え?」
「知り合いなんだ。心配しないで、金持ってる奴からぶんどるのは得意だから」
「──大統領といい、先生の人脈ってよく分からないわ!」
キャシーは心底驚いた後、「もう来てる」とフロアの最奥にある応接スペースを示した。背の高いパーティションで区切られ、周囲からは一切見えなくなっている。重要な話をする時だけに使われる場所だった。
「今、事務長が話してる。凄く興味を持ってくれてるから、うまくいくといいんだけど」
「ああ、平気平気、絶対お金出すから」
「そうなの?」
不意にパーティションの陰から一人が出て来た。玲太だ。BJを見てしばらく動きを止めたが、肩を竦めて喫煙スペースへ歩いて行ってしまった。興味がなくてつまらないんだろうな、それにしても未成年のくせに、とBJは思った。
やがて処置を終えたキリコとグラディスが戻ってくる。改めてキャシーに二人を紹介した。キャシーはキリコとBJの指のリングにめざとく気付き、なるほどねえ、とにやにや笑ってBJをつついて恥ずかしがらせたのだった。
「結婚したの?」
「してない、してない」
「早くすりゃいいのに」
溜息交じりにグラディスが呟くとジョイが苦笑する。まさに今ここにいるオールドマネーの一件で、BJとキリコが未婚ゆえに生じた国籍の問題が任務を複雑にしたことをよく覚えていた。キリコは素知らぬ顔を貫いた。それよりもキャシーが用意してくれたマニュアルを読む方が重要だ。BJがキリコに言った。
「わたし、クリードと話してくるから」
「何かあったら呼べ」
「え、ドクター、先生と行かなくていいの?」
「やることがある」
グラディスの問いにカウンセリングの順番を待つ復員兵たちを目で示す。グラディスは「タダ働きだね」と揶揄の言葉で敬意を表し、BJは笑って優秀な医者にひとつキスをしてからパーティションへ向かって歩いて行った。
「来たんだ?」
喫煙スペースから戻って来た玲太がキリコに声をかけた。キリコは肩を竦め、まあな、と答えた。
「あいつが話をする。邪魔をしないでやってくれ」
「そうするよ。──どうも。何もしねえよ。早く帰りたいからな」
厳しい目で見ていたグラディスに言い置き、玲太はBJが消えたパーティションへ向かう。
その姿を確認し、キリコはマニュアルをキャシーに返す。それから常駐カウンセラーの休憩時間の終わりを待っている復員兵たちに一人ずつ声をかけ、待っている間に話でもしませんか、と持ちかける。マニュアルにはない行動だったが、本格的な医療行為でなければ構わないと勝手に判断した。その判断をBJが否定するはずがないということも分かっていた。
「フォートライリー基地から若い兵士が二人来ています。ベトナムを知らない彼らに学ぶ機会を与えてくれませんか」
復員兵たちはやや戸惑ったが、「私もベトナム帰りです」というキリコの言葉を聞き、やがて一人、また一人と頷く。簡単なグループカウンセリングだと察したグラディスとジョイが勝手に椅子を動かし始め、キャシーや他のスタッフたちも慌ててそれに倣ったのだった。