流石と言えば流石と言うべきか。クリードはBJ──ルルに会えた喜びを押し隠し、上流の男性らしい笑顔で「久し振りだね」と穏やかに言った。事務長の隣に座ったBJは微笑む。キリコには見せたくない交渉の始まりだ。だがエミリーが飛び上がってBJの首にしがみつき、大人の話を初手から中断させた。
「先生、会いたかった!」
「元気そうでよかった。旅行ができるくらいに元気になったなんて」
「なったわ! もう学校にも行ってるの。まだ運動はできないけど、他のことは何でもできてるのよ!」
「そう。本当によかった、嬉しい。──クリードと話があるから、アビゲイルたちと一緒に座っていて」
そのアビゲイルとアメリアは今日二度目の邂逅に目を丸くしていた。ここに自分たちがいると分かっていて、キリコがBJを来させるはずがないと思っていたのだ。
「ルル、あなた──」
「失礼、ブラック・ジャック先生とお呼びすればいいのかな?」
口を開こうとしたアビゲイルを遮り、クリードが言った。BJはしばし考える振りをした。これは使える、と瞬時に判断した。
「ではそれで。──アビゲイルとアメリアにはさっき会った。玲太も。偶然もいいところだけど」
「まったくだ。二度と会えないと思っていたのに。──このNPOを作ったのは先生だということは知っていた。旅行のついでと言っては語弊があるが、ぜひ訪問しておくべきだと思ってね」
「気持ちにはありがとう。私にとって大切なNPOだから、理解してもらえることは光栄だよ」
「ドクター・キリコは?」
「一緒に来てる」
「私と先生が話をしてもいいって?」
「私が誰かと話すことに彼の許可はいらない。それに、彼は今ゲスト(復員兵)のカウンセリングをしているから」
「なるほど」
過去に自分がカウンセリングをされたこと、そして非常に効果があったを思い出し、クリードは苦笑を隠しながら頷いた。目の前の女を怖がらせたことで始められたカウンセリングだったのだ。苦笑の振りをした自嘲を漏らしたくなって当然だった。
「彼の能力は私もよく知っているよ。このNPOにとっても頼もしい存在だね。彼は常駐?」
「スタッフにさえなってない。今日は完全にボランティアでね。その予定もなかったけど、待っている彼らを見たら放っておけなかったみたいで」
「正直、私は彼が好きではないが──医者としては心から尊敬している。私が生きているのは彼のお陰と言ってもいいし、その後に担当してもらった時も完璧なケアをしてくれた。間に先生という存在があったのにね」
「そう。──あの、クリード。さっきはああ言ったんだけど」
さて、使いどころだ──そう判断したBJは先ほど掴んだばかりの材料を早速放出した。
「え?」
「あなたに『先生』って呼ばれるのはくすぐったいかな」
BJが少しばかり照れた笑いを浮かべてみせると、クリードは数度瞬きをした後、どこかで隔絶した距離を意識していた今までのビジネス混じりの微笑よりも、柔らかく、親しみを見せることを許された喜びの笑顔を浮かべた。BJの小技が功を奏した瞬間だった。
「じゃあ、何て呼べば?」
「あなたの好きにしてくれて構わない」
「──ルル、そんな言い方をしたって私からはそう簡単に金を引き出せないぞ?」
「ばれたか」
それから同時に笑い出す。控えめな笑い声にとどめたクリードにBJは内心で感心した。この場所の意義を理解している証明だったからだ。パーティションの向こうではカウンセリングが行われている。そんな中、楽しげな笑い声を響かせるのは無作法だ。やはりこの男は上流階級、かつ与えるべきものを持つ種類の人間なのだと思う。
「本当は、あなたに営業をかけるつもりだった。でもやめておくよ」
「そちらの業界じゃブラック・ジャックの営業は有名なんだってね。価値のある人間にしかやらないって。営業をかけられたら名誉と思えって話じゃないか」
「利用価値がある人間にしかやらないのは確かだね」
「その営業を私にはやってくれないのかい?」
「腹を割った方が早いと思って」
「それはそれで名誉かもしれないな」
「ルルじゃないみたい」
アメリアの呟きは憮然としたものだった。家にいた時とあまりにも違う距離感と、兄への親しみはあるが金を絡ませた話に失望したのだ。そして午前中に会った時とは全く違う口調はまるで違う人間のようだった。アビゲイルは黙って上の妹の肩を抱き寄せた。エミリーはつまらなそうに座っている玲太を見、金蔓、もとい、教え子の視線に気付いた玲太は肩を竦めてやる。
「アメリア、邪魔をするなら外に出ていなさい。エミリーとカフェにでも行っておいで。レイタ、連れて行ってやってくれないか」
「嫌よ、にいさん。出て行ったらルルにもう会えないじゃない」
「邪魔をするなら、という話だ」
「──しないわ。ごめんなさい」
「クリード、あまりきついことを言わないであげて。さっきキリコにも厳しく言われたばかりだから」
こればかりは本心でBJが言った。クリードはしばらく考える顔をし、分かった、と呟いた。
「きみがそう言うなら。──こればかりはドクターの許可がいるな。今日だけでも私たちと食事をしてくれないか。それならアメリアも納得できる」
「わたしも!」
エミリーがすかさず主張し、アビゲイルも頷く。ええと、とBJはやや困った。キリコが許可するとは到底思えなかったし、何よりグラディスの具合が気になっている。
「アメリアの前で言いにくいけど、それはあなたたちで処理して欲しい。──レディシュの彼が一緒で、彼は今、具合が良くない」
「え……っ」
アメリアが思わずといったように声を漏らし、立ち上がりかけた。だがアビゲイルに「駄目よ」と囁かれ、唇を噛んで動きを止める。BJは敢えてアメリアを見なかった。正確には見ることができなかった。真実を知ったあの時、泣いて怒ったアメリアの姿を思い出したくなかった。
「彼の仕事の都合でここにいるけど、本当はすぐにでも休ませる必要がある。わたしの患者でもあるから付き添いたい。食事はできない。いつかまた機会に恵まれることを祈ってくれれば助かる」
「そんな事情じゃごり押しはできないね。アメリア、エミリー、それからねえさんも。納得してくれたかい。次の機会を祈ろう」
「あなたが一番納得しなくちゃいけないと思うわよ」
アビゲイルの悔し紛れの言い分に礼儀として渋い顔を作り、クリードは「では話を戻そう」と宣言した。
「NPOの理念自体は素晴らしいと思うし、資金を寄付する価値は十二分にある。これは私の結論だし、揺るぎないと思ってくれていい」
「ありがとう。でもわざわざそう言うってことは、何かあるとしか思えないな」
「流石の眼力だ。簡単だよ。この条件を飲んでくれれば継続的に寄付をする」
「言ってみて」
クリードほどの階級の男が品のない要求をするはずがないと分かっている。無理を言われたらロンに言い付けてやろうと軽く考え、BJはクリードを促した。クリードは笑みを深くし、その条件を口にした。
「毎回じゃなくていいし、もちろんドクター・キリコの検閲があっても構わない。たまには手紙の返事をくれないか」
BJは思わず目を丸くし、それから深く息を吐いてソファに沈み込んだ。半月に一度は崖の上の家に届くクリードからの手紙には、確かに一度も返事を返したことがない。
初めて手紙が来た時には取り敢えず返そうかと思ったのだが、それよりも先にピノコがキリコに報告するようにとしつこく勧めた。首を傾げつつもキリコに報告したら、返事はいらないと思うよ、と口調は優しく言われたが、要は返事を出すなと釘を刺された。あの時ほどピノコに深く感謝したのは虫垂炎のセルフオペ以来だったかもしれない。
「それは──すぐに結論は出せない」
「そこにドクターがいるのに? もちろん、今しているケアが終わるまで待たせてもらうとも」
「すぐには無理。PTSDのカウンセリングの後はカウンセラーもメンタルを落ち着かせる必要がある。こういう話をするタイミングとしては良くない」
「──それは失礼した。知らなかったとはいえ申し訳ない」
クリードは心からの詫びを口にした。
変わった、とBJは不意に思った。クリードは確かに正義を善しとする人間であり、そう生きていたことは事実だ。過ちに対しては謝罪する姿も覚えている。だが上流階級特有の傲慢さをごく自然に持っていたことも確かだったはずだ。それが今の謝罪には欠片もなかった。クリードは変わった。BJはそう信じた。
「あなた」
「え?」
「変わった。──前はもっと傲慢だった」
クリードは何を言われたのか分からない顔をしたが、やがて理解し、そして苦笑しながら頷いた。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。傲慢は悪いことじゃないと思うが、隠せるなら隠した方がいいものだしね」
「隠しただけ?」
「さあ、それはまだ秘密だ。知りたければ返事を書いて」
「難しいな」
「営業をかけてもらった方がましだったなあ」
また声を潜めながら笑う。BJも笑った。人は変わるのだ。今日は何度そう思えばいいのだろう。それが嬉しいと思えるのは自分が幸せであるからだと知る。
「条件を変えるよ」
「何?」
「これからも手紙を書き続ける許可が欲しい」
BJは微笑み、もちろん、と言った。
BJが心配したほど、キリコは精神的な疲労を得てはいないようだった。BJがパーティションから出るとほぼ同時にグループカウンセリングが終わり、やっとランチ休憩から戻って来たカウンセラーが一人ずつのケアに入る。
カウンセラーは彼らの表情が明るいことに気づき、ここに来る人たちにしては珍しいなと首を傾げるが、グループカウンセリングを見ていたスタッフから話を聞いて得心したように頷いた後、即座にその対処をしたキリコに感服する。この時代、まだ積極的には取り入れられていないケア方法を躊躇いなく取り入れて確実に効果を上げるなど、畏怖に値する行為だった。
「グラディスとジョイの聞き方も上手かった。復員兵が話したいことを聞きたがってくれたから、みんなスムーズに話せた」
「そういう訓練もあるしね」
グラディスが短く言い、ジョイも頷いた。特殊部隊員は人心操作の訓練も必須となっている。
「特に最近はPTSD持ちへの対処法についても訓練内容に組み込まれるようになってきたし、これからはこういうやり方のNPOが必要になると思う」
「そうか、俺にも優しくしろよ」
「ドクターは先生に優しくしてもらえばいいでしょ」
確かに、とBJは頷く。そしてやはり、このNPOは必要なのだと実感した。
兵士のPTSDというものは、軍事がある限り消えることはないはずだ。いつかこのNPOはベトナム戦争の復員兵だけではなく、未来の傷付いた兵士をも受け入れることになるかもしれない──そんな日は来なければいい。戦争なんてなければいいのに。そうとしか思えなかった。
「あのさ」
不意に声をかけて来たのはパーティションから出て来た玲太だった。クリードたちはまだ出て来ない。事務長と寄付金の金額について話している。
「何」
返事をしたのはグラディスだった。BJとキリコは黙っておくことにする。何しろグラディスの任務が自分たちと玲太の接触を断つことだからだ。
「俺、まじで何もする気ねえから。そこは分かっといて」
「僕じゃなくて上に言いな」
「んなこと言われてもなあ。──まあ、本題。クリードがキリコさんと話したいって」
「断る」
一瞬の間もなくキリコは答え、玲太は「だろうなあ」と言い、グラディスは溜息をつく。BJはちらりとキリコを見上げ、あ、これは本気の拒否だ、とその表情で悟り、口を出すことにした。
「さっき言った通りで、これ以上ここにはいられない。クリードにそう伝えて。みんなによろしく」
「分かったよ。俺もそうしてもらえると有り難い」
「玲太も?」
「あんたたちと接触するとデルタが来る。会いたい相手じゃねえ。特にそこの赤毛」
BJはグラディスを振り返る。そして思わず息を呑むところだった。闇で多くの武力を、武力を行使する人間を目にして来たが、ここまでの憎悪を隠さずに犯罪者を見る軍人を見たことがなかった。
「知ってるのか」
グラディスの声はまるで絞り出したかのように低く、重い。キリコとBJは二人を注視する。ジョイがさりげなく動いたことには気付かなかった。
「まあね。取り調べの時に散々聞かされたよ。俺が爆破したビルに、陸軍中将の前の奥さんがいたってことをね」
ジョイが鋭く、最低限の動きで隊長の腕を掴んだ。まだ動いてすらいなかった腕には明らかに何かを堪える力が入っていた。部下が触れたことによって堪える力に助けが与えられた。そしてグラディスは静かに、だが確かに感情を意図的にコントロールした声で言った。
「あの日の朝、母と電話をしていた。残念だったよ」
BJは今度こそ息を呑んだ。陸軍中将はグラディスの父だ。玲太が犯した爆破テロで命を落とした被害者の中に、陸軍中将の前妻、つまりグラディスの母がいたと言うのか。アンティーヴで会った今の母は父の再婚相手だったのか。その事実を予想した。キリコはグラディスと玲太の間に入るように一歩前へ出て、玲太に小さく「もうやめておけ」と言った。
「FBIにカウンセリングの手配を頼め。おまえには必要だ」
「そう?」
玲太は飄々としたものだ。自らの罪、自らが今口にした言葉に何の罪悪感も抱いていない顔をしている。ああ、とBJは思った。ああ、この少年は──病気じゃない。頭がおかしいわけでもない。でも誰にも理解されない。同じだ。わたしが過去に見たあの種類の人間たちと──テロリストたちと同じだ。
同じだ。──同じだ。テロリストと呼ばれる種類の人間たちと。──同じだ。
言葉ではもう乗り越えられない壁の向こうに行ってしまった、自らの世界を正義と信じる人間と、決して分かり合えない彼らと同じだ。
そして玲太ははっきりと、そしてゆっくり、日本語訛りの強い英語で言った。フロアにいる全ての者が分かるように。
「I’m a third bomb victim」
ひっ、と喉が鳴るように息を呑んで口元を抑えたBJの肩をキリコが抱き、「そうか」と低く言う。瞬時にしてフロアが凍り付いていた。聞こえたスタッフたち、そして個別カウンセリングの順番を待つ復員兵たちが一斉に視線を向ける。グラディスは表情を動かさず、玲太を変わらぬ憎悪の目で見続ける。ジョイが「神よ」と呟き、隊長の腕を掴む手に力を入れた。玲太はグラディスをやはり飄々と見つめていた。
俺は被爆三世だ。
玲太はそう言った。それがこの時代のアメリカで、そして日本でどんな意味を持つのか、ここにいる誰もが知らないはずがなかった。
「お袋はばあちゃんの腹の中で被爆した」
「レイタ」
キリコは静かに言った。
「もうやめろ」
アメリカ人と日本人の間で、あの兵器に対する認識の溝は決して埋まらない。グラディスが何も言わないのはそのせいだ。日本人に言ったところで仕方ない、それを理解しているからだ。キリコも分かっている。この話は安楽死の是非についてと同程度には、BJと積極的に話したいとは思えないことだった。
「やりたいことがある。だからおとなしくしてるし、将来はおまえらの国で働いてやる」
でも、と玲太は続けた。
「でも──この国の国歌だけは歌わねえし、アーリントン墓地に足を踏み入れることもねえ。墓地で大戦中のこの国の戦死者に祈れば政府からの俺の評価が上がるのも知ってる、監視が減る理由になることも。──でも絶対行かねえぞ」
「誰も頼みやしない。英雄の安息の地をテロリストに穢されてたまるか」
「少尉、車の手配をしませんか。ドクターと奥さんをホテルに送ってあげなきゃ」
提案の形を取りながらも、ジョイはそうするべきだと手に込めた力で隊長に強く主張した。いかな優秀な男であるとはいえ、実の母を殺した人間を目の前に、これ以上冷静な会話を続けられるとは思えなかった。グラディスは頷き、目で部下に礼を言った。
「ジョイはここに。僕が行く」
「イエス、サー」
「一生だ」
エレベーターへ向かうグラディスの背中に、玲太は初めて──BJとキリコが彼を知ってから初めて──憎悪の感情を込めた声をぶつけた。
「一生忘れない。俺の恨みは消えない。変わらない。忘れるんじゃねえ。──俺をこうしたのはおまえらだってことを」
「玲太、もう──」
「先生だって」
止めようとしたBJに玲太は強く言った。BJは唇を噛み、首を横に振る。もうやめろ。そう告げるために振る。だが玲太はやめなかった。
「恨んでるはずだ」
「もういいから、玲太、もうやめよう」
「恨んでねえなんて言えるのか。あんたの傷の話は知ってる、闇の奴が噂してた。──あの不発弾を落としたのはどこの国だ? あんたの人生を踏み躙ったのは? 俺のお袋とばあちゃんとあんたの──」
「やめろ」
キリコが低く、だが厳しく言う。そして止めたのは玲太のことではなかった。明らかに怒りを持って動こうとしたジョイのことだった。ジョイは日頃の訓練を忘れかけた自分を恥じながら、失礼、と言って一歩下がる。エレベーターが到着する音が聞こえ、グラディスがジョイを呼んだ。
「ジョイ、一緒に行こう。そこはレイタの連れが面倒を見る、問題ない」
「──イエス、サー。失礼しました」
グラディスとジョイがエレベーターに消えると同時にフロアの隅にある非常階段から二人の男女が現れ、それが自分の監視のFBIだと気付いた玲太は忌々しげに息を吐いてから呟いた。
「盗聴してんじゃねえ、クソが」
「──何でもない。消えてくれ」
BJはFBIに小声で要請した。
「彼は雇用主と旅行中だ。中断するのは望ましくないし、この年齢の少年が不安定になるのはよくあることだよ。すぐに落ち着くし、問題ない」
FBIの男女はBJをちらりと見遣り、それからキリコを見る。その態度にキリコは苛立ちを覚え、だが復員兵やスタッフたちの視線が集まっている状況を考えて、できるだけ穏やかな声を出すように努めた。
「ここでは彼女の言うことが絶対だ。俺に判断を求められても困る」
同国人だから、男性だから、そしてBJの事実上の夫だから、最終判断を──そんな目で見られたことに酷く苛ついた。これがFBIか、とすら思った。──これがFBI? 最新の情報を扱うはずの機関に所属する人間がいまだ旧い時代の感性だなんて笑わせてくれるじゃないか。
「出てきゃいいんだろ。別に来たくなかったんだしちょうどいい」
「レイタ、落ち着け。おまえが不利になるだけだ」
「落ち着いたって変わらねえよ」
「やりたいことがあるんだろう? 俺にさっき言ったはずだ」
「だから我慢してる。クソつまんねえ学校にも行ってる。これ以上どうしろって?」
少年は吐き捨てた。BJはまた唇を噛んだ。そうじゃない、そうじゃない──言いたかった。だが何を言えばいいのか分からなかった。
「落ち着いたって変わらねえ。俺は許さねえし、あの赤毛に絶対に謝らねえ。この国の国家は歌わねえ。アーリントン墓地にだって絶対に行くもんか!」
玲太の気持ちが分かってしまう自分を無視してしまいたかった。彼は何ひとつ間違ったことを言っていない。だがこんなことを、よりによってこんな場所で。どうしたらいいのか分からなかった。
「邪魔していいかい」
FBIの男女が玲太に声をかけようとした時、復員兵の一人が勇気を出したように立ち上がり、ゆっくりと歩み寄って来た。そして玲太に言った。
「聞こえてた。俺と話さないか。──俺の父は真珠湾で死んだ」
表情をこわばらせた玲太に、彼は慌てたように付け加えた。
「きみを恨む気はないし、そんなのは間違いだ」
「恨めばいい。俺は日本人だ」
「じゃあ、きみは俺を恨むか」
「はあ?」
「俺はアメリカ人だ。しかも軍人だった。恨む理由になると思わないか」
「……それは」
玲太が言葉に詰まる姿を初めて見たBJは、復員兵と玲太を交互に見る。キリコも同様に、そして心療内科医の目で二人を見た。結論はすぐに出た。少年の過去の犯罪行為の根源にあるものが見えた以上、見過ごすことはできない。その少年に手を差し伸べようとした復員兵の彼も。──二人とも俺の患者だ。そう思った。
「さっき、俺はこのドクターにグループカウンセリングをしてもらった。その時に分かった」
復員兵はキリコに視線で礼を伝えてから、目の前の少年に偽りのない声で言った。
「忘れることはできない。でも新しい記憶を積み重ねていくことはできる。俺もきみも忘れられないことがある、それは決して悪いことじゃない。だからこそ、新しい人生の道を明るく照らすためにも、記憶を整理する行為は有効だ。──ドクターの受け売りだけどな」
最後はわざと茶化すような口調と表情を作って肩を竦める。
これは勇気だ──キリコは彼を心の底から称賛したくなった。彼は自らの悪夢だけではなく、ここにいる少年の傷を気にしている。自分の父を殺した国の少年だと知っていても、声をかけられずにはいられなかったほどに。何という勇気か。称賛せずにいられようか。
「三人で話そう。そこのブースを使おうか」
キリコが言い、様子を見ていたスタッフたちが素早く準備に動いた。そしてキリコは復員兵に握手を求める。彼の言葉と表情に、医者として何にも代えがたい喜びを感じていた。同時に自分の記憶に驚くほど明るい色彩が足されたことを知った。──あの世界の悪夢の中にいた一人の患者を、俺は生きるべき方向へ、今、案内することができたのだ。
死をもって案内する穏やかな安息の道ではなく、生への、波乱に富むかもしれない、だが確かに生命が紡がれる未来への道を。
「玲太」
BJが口を開いた。日本語だった。玲太は眉をひそめ、アメリカ人を恨んでいてもおかしくないはずの女を見る。
「変わらない、って言ってたけど」
「変わらねえよ。忘れねえ」
「変わらなくても、忘れなくてもいい。──だからあの日、エミリーを命懸けで救おうとしたことも忘れないで欲しい」
玲太の顔が一瞬、ほんの一瞬だけ歪んだ。そしてそれはすぐに何かの力に奥深くへ押し込まれるように消えた。BJはそれでいいと思った。あの日、例え玲太自身が小遣い稼ぎにテロリストへ流した爆弾だったとしても、それを身体につけられたエミリーを救うため、爆発の僅か10秒前まで防護服もなく命懸けで作業をし、解除した姿を覚えていた。解除の後、自力では立ち上がれないほどに疲労していた姿も。
まだ間に合うのかもしれない。思い出したからこそそう思えた。壁の向こうへ行ってしまったテロリストを、少年として引き戻すことができるのかもしれない。わたしは見ている──見ているんだ。あの日、必死で一人の少女を助けようとした彼の姿を見ている。子供に使うなんて聞いてなかった、って呟いた、わたししか知らない言葉をどうして忘れていたんだろう。
変われるかもしれない。人は変わる。それならこの少年が変わらないと誰が断言できるだろう。
見ていたキリコは敢えて何も言わなかった。だがこのカウンセリングが終わり次第、クリードと話をするのも良いかもしれないと思った。BJについてでもなく、クリードが話したい何かについてでもない。玲太の家の中での過ごし方、あの家の家族への態度について聞く必要があった。──俺の患者が増えた。だから情報が必要だ。
「ドクターと話したかったんだが、どうやらまだ時間がかかるようだね」
いつの間にかパーティションから出て来ていたクリードが背後から声をかけ、BJは危うく飛び上がるところだった。その様子にクリードは笑い、可愛い、と心の中で呟く。こいつ今可愛いって思ったな、とキリコは表情を動かさずに看破する。
「それなりに聞こえたよ。──うちの家庭教師だ、よろしく頼むよ。優秀で将来が楽しみな学生でもあることだしね」
「なるほど」
庭に小型原子炉を作りたがっているという話は黙っておこう、俺の女にいつまでも懸想する罰だ──心に決めながらキリコは頷く。
「で、その間は誰が私たちの相手をしてくれるのかな?」
クリードは品のある顔を意地の悪い笑顔にし、BJを見る。BJは肩を竦めてキリコを見る。キリコは苦笑し、クリードの背後のパーティションの陰から顔を出して様子を窺う三姉妹を見て、これはもう諦めるしかないようだ、と思った。患者と女とどちらを優先するか──自分に問うまでもない。BJに問うまでもない。問えば激怒されることも分かっている。
「マフィン」
「うん」
「ここからは出ないで。それと少尉がもう戻ってくると思うが、迷惑をかけないように。彼は具合が良くない。──あと30分で次の注射を。できればベッドに」
「彼はわたしの患者なんだから口を出さないで!」
キリコの言いたいことを理解したBJは敢えて怒った振りをし、キリコは笑いながらBJを抱き込んでキスをした。見せつけるつもりはなかったが、結果としてクリードが意思の力を総動員して笑顔を保っている様子を知り、小気味良いと思って、そして俺も大人げないものだと反省した。
そして戻って来たグラディスとジョイに事情を説明しようとすると、全部聞いた、としたり顔で言う。どういうことだと訝しむBJに、これだよ、キリコの肩口につけてあった小型の盗聴器を示し、二度と肩を貸してもらえると思うな、医者の義務を利用しやがって、とBJを怒らせたのだった。キリコはBJを宥めつつ、そんなことは銀行から予想していたよ、こいつが何も対策せずに警備対象から離れるはずがない、と心の中で呟いたのだった。