病室に入ったのはBJとグラディスだけだった。まずBJがソフィアに説明をする。できるだけ言葉を選んだつもりだったが、ソフィアの頬が紅潮し、涙を浮かべる姿を見て、興奮のあまり発作を起こす可能性を危惧せざるを得なかった。ユリも同じ心配をしたのか、すぐに動けるようにさりげなくドアの傍へ移動する。緊急時、最速でヘルプを呼ぶためだった。
グラディスは部屋の隅にある見舞客用の椅子に座り、つまらなそうな顔をしている。だがそのグラディスにソフィアが言った。
「ありがとう。──ありがとう、少佐さん。本当に連れて来てくれたのね」
「約束したしね。今までのお詫びと、それからお礼だよ」
「嬉しい。本当にありがとう。わたし、すごく幸せよ」
BJはここでも内心で首を傾げることになる。二人の会話が理解できない。キリコはグラディスへの警戒を解いた様子を見せていたが、自分としてはまだ信用する気になれなかった。これが深い場所での軍属経験のあるキリコと、稼業以外は一般人でしかない自分との差なのだと思い知る。キリコに説明を求めても、きっと何も教えてくれないということも分かっていた。
「先生、アレンは? いるのよね?」
「ドアの外にいます。あなたが落ち着いて話せるなら入ってもらえますけど、どうでしょうね」
「落ち着いてるわ。ねえ、車椅子に乗りたい。その方が彼もわたしを抱き締めやすいわ、お願いよ」
どこが落ち着いているのかと苦笑しつつ、BJは許可を出した。発作の兆候が見えた瞬間にアレンを叩き出すつもりだった。グラディスにもその話をし、同意を取り付けている。
車椅子に移ったソフィアはただドアを見詰め、その先にいる愛しい男を待つ。綺麗な姿だとBJに、そしてユリに思わせる。それも当然だろうとも。女なら分かる感傷なのかもしれない。
「花を持つ? その方がもっと綺麗だ」
気を利かせたのか、グラディスが言った。ソフィアが頷く前に窓際に歩き、少し前に自分が持って来た見舞いの花を花瓶から取り出して、水を切ってからソフィアに抱かせた。それだけで更にソフィアは美しくなり、常に美しさから無意識に遠ざかろうとしているBJにある種の憧憬を抱かせた。
グラディスがBJに目で許可を求める。BJはもう一度ソフィアの様子を目で確認し、それから頷いてみせた。
ユリがドアノブを回した。
「腕がいいな」
手術室で淡々と処置をしながらキリコは呟く。サポートの看護師が「何か?」と言った。
「撃った奴の腕が異様にいい。少しでも外れればとっくに死んでるんだが、これなら動けない程度で済む」
「それは幸いですが──怖いですね。陸軍病院の駐車場で撃たれるなんて」
「二度とないだろう」
「そうですね、警備を厳しくするはずですし」
キリコは答えなかった。二度とないことは確かだ。──デルタフォースの隊員たちが一斉に、CIA職員たちを狙撃するなどというとんでもないことは。
処置そのものにはそれほど時間がかからなかった。相手が誰であれ、医師として手術室に入った以上、出来る限りのことをする。サポートをしながら看護師は感嘆の溜息を漏らした。非合法の安楽死医と聞いていたが、外科的な能力も高いと感じたのだ。しかも片目でやってのけるのだから相当なものだと言える。普段はアイパッチで隠れている潰れた左目が衛生上の理由で露わになっていることも、視覚的な感情効果を与えているのかもしれない。
「終わりだ。後はよろしく」
「お疲れ様でした!」
処置を終えたキリコは手術室を出る。医者としてするべきことはしてやった。後は知ったことではない。早くソフィアの病室へ行きたかった。
術衣を脱ぎ、所定の場所へ放り込む。エマージェンシーのサイレンが院内中に響いたのはその瞬間だった。
アレンは無言で腰を折り、車椅子のソフィアを抱き締めた。それだけでソフィアの美しい瞳から涙が溢れ出す。嘘で塗り固められていたと分かっても、会いに来てくれたというだけで女の心を慰撫したのかもしれない。
BJは二人をじっと見ていた。ソフィアを怖いと感じたことは嘘ではなかった。だが、今はその感情が間違っていたのではないかと思うほど、ソフィアは喜んで男を受け入れ、男は強くソフィアを抱き締めている。
「ごめん」
アレンが言った。
「ごめん。俺はアレンじゃない。セルゲイだ」
「本名?」
「そうだ。きみを騙していた。本当にすまなかった」
「ソ連の人なんでしょう。知ってるわ。取り調べで聞いたから」
取り調べと聞いてアレン──セルゲイは後悔の呻きを漏らし、ソフィアの手を取って車椅子の前に膝まづく。ソフィアは困ったような顔で「いいのよ」と言った。
「いいのよ。命令だったんでしょう」
「そうだ。──確かに命令だったけど、きみを辛い目に遭わせたことは変わらない」
それからセルゲイは語った。もう嘘はつかない、と言った。
「きみにもらった情報は嘘だった。FBIかCIAが、先に俺たちのことに気付いてすり替えていた可能性が高い」
「そうなのね。あなたに迷惑をかけてしまったかもしれないわね」
「確かにそれが原因で国を逃げるはめになったけど、後悔はしていないし、むしろきみに感謝してる」
「感謝? 変なこと言わないで。ソ連にもう帰れなくなってしまったんでしょう?」
「帰る気なんてないよ。俺はもう、きみのそばを離れるつもりはない。あの少佐が確約してくれた」
BJとユリはグラディスを見た。信じられなかった。それこそグラディス自身が背反罪に問われることになるのではないかとすら考えた。グラディスは表情を変えず、引き裂かれたはずの恋人同士の姿を眺めていた。
「最初は確かに、任務のために──FBI職員の名簿を手に入れるために、きみに近付いた。これは本当だ。謝っても謝り切れない」
セルゲイの必死とも言える説明を、ソフィアは穏やかに頷きながら聞いていた。BJはその姿に急激に違和感を覚え、我知らず背筋を伸ばした。あれほど興奮していたソフィアだと思えなかったのだ。
「でも俺は、本当に。本気で、きみを愛したんだ。そんなつもりはなかったのに、本気できみを愛してしまった。ソ連に連れて帰りたかったんだ」
「でも、置いて行ったでしょう?」
ソフィアの声は男を責めるものではなかった。ただの事実の確認だ。だがそれは男の心を効果的に抉る。セルゲイは何度も「ごめん」と繰り返した。
「言い訳できない。でも聞いてくれ。俺がきみに全てを話して、ソ連に行こうと言いたかった日に、きみは発作を起こした」
心臓が悪いという話は聞いていた。だが発作を起こすたびに死が近くなるほどだとは考えてもいなかった──セルゲイは言った。身内がいない彼女の代わりに入院手続きをし、主治医に話を聞いた時、目の前が真っ暗になるほどの恐怖に襲われたことを今でも忘れられない。
「その時にもう、俺はCIAにマークされていた。本国から数時間以内に脱出するように言われたんだ。きみを置いて行くしかできなかった。きみにもらった情報を渡すために帰ったんだ」
「そう」
「迎えに来ようと思っていた。あの情報を手に入れて、俺は任務の報酬として上層部にきみをソ連に迎え入れるよう申請するつもりだったんだ」
「思っていた?」
「そうだ」
「つもりだった?」
「──そうだ」
ソフィアがうふふと笑った。場にそぐわないほど美しく優しい笑い声に、セルゲイは思わずソフィアを見上げる。
「何も実行していないじゃない。嘘つき」
優しい女の顔で、本当に優しい声で、ソフィアは愛した男を断罪した。優しくてあたたかいとまで言えるほどの声なのに、聞いていたBJは背筋が凍る。こんな声を聞いたことがなかった。憎悪ではない。愛情でもない。ただただ、真実を突き付ける声がこれほどまでに優しく、あたたかいということが恐ろしかった。
「ソフィア──」
「いいのよ。アレン。──セルゲイね。いいの。どんな理由でも、一緒にいてくれた時間は嬉しかったし、愛していたし、今だって愛してるわ」
セルゲイには神の許しの言葉にも等しかった。ああ、ああ、と呻いてソフィアの膝に縋る。花を手にしたままのソフィアは優しくその髪を撫でた。愛してるわ、と何度も言った。
「セルゲイ、ねえ。立って。さっきみたいにわたしを抱き締めてくれる?」
「もちろんだとも」
「強くね。お願い。ぎゅうって、今までで一番強く抱いてね」
美しい光景であるはずなのに。BJは思った。美しい光景であるはずなのに──怖い。何だろう。怖い。
セルゲイが立ち上がり、ソフィアを強く抱き締めた。ソフィアはこの上なく幸福そうな顔で抱擁を受け入れている。
その時、セルゲイが呻いた。苦痛の呻きだった。ソフィアは変わらず幸福そうに、そして微笑んだ。グラディスがゆっくりと立ち上がった。
瞬間、BJはセルゲイに飛びかかった。飛びかかると言う言葉が相応しい速さで抑え、そしてソフィアから引き離したのだ。腹部を深く刺されたセルゲイは呻き、仰向けに倒れ込む。恐るべき速さで腹部が、下腹部が赤く染まり、BJがユリにストレッチャーを持って来るよう指示を出す。ユリはすぐさま動き、そして一瞬で全身を怒りで満たしながら足を止めた。BJは叫んだ。
「どけ!」
ユリも叫んだ。どいて頂戴! BJはもう一度叫んだ。
「どけ! ──グラディス、間に合わない!」
ユリに銃を向けたグラディスは表情ひとつ変えず、嫌だね、と言った。そしてソフィアが言った。
「少佐さん、約束は果たしたわ」
ソフィアはグラディスに微笑みかける。グラディスは微笑み返す。
「お疲れ様」
ソフィアの手には花がある。花と──血に染まったナイフがある。グラディスが花の中に紛れ込ませていたナイフだと、この時はまだBJにもユリにも分からなかった。
「どいて!」
ユリは叫んだ。ソフィアとグラディスの事情など関係なかった。あるのはただ、明らかに生命の火が消えかけている負傷者だけだ。医師の指示通りにストレッチャーを運び入れ、手術の手配を緊急で行わなければならなかった。
「どくよ。あと5分くらい待ってね」
そうすりゃ死ぬだろ、とグラディスは呟く。BJはグラディスへの呪詛を吐くよりも早く判断し、セルゲイの傷に直接手を突き入れた。大出血を塞ぐ最後の手段だと言っても良かった。ソフィアはその姿をじっと見降ろしている。穏やかな笑みを湛えたまま、自分を助けてくれるはずの主治医を尊敬の眼差して見ていた。
「グラディス、おまえさん、何をしているのか分かってるか」
「分かってる。そいつを何としてもあと5分、放置しておきたい。僕としては先生にその手を離してもらいたい」
「お断りだ。銃を降ろせ。ユリさんを行かせろ」
「それこそお断りだ。その手を離してくれ。殺すんだ」
「私が受け入れると思うか」
「受け入れてもらわないと困るんだよ」
銃口の先がBJに移動する。その瞬間だった。ユリが動いた。グラディスは罵りの言葉を吐き、素早く床に転がり、ユリの鋭すぎる一撃を避けた。その隙にユリは病室を走り出る。数秒もしないうちにエマージェンシーのサイレンが院内中に鳴り響いた。廊下の非常ボタンをユリが押したのだ。
「合気道やってたんだっけ。あいつこそクソビッチだ」
口汚く呟き、転がった時と同様に素早く立ち上がったグラディスは改めてBJに銃を向ける。BJは笑った。
「こいつは死なないよ、残念だったな」
「先生」
困ったような声だった。ソフィアだった。BJはぞっとしながら彼女を見た。
「困るわ。少佐さんの言う通りにして頂戴」
「ソフィア、──落ち着いて。あなたのことは必ず良いようにはからってもらうから、お願いだからもう何もしないで。ナイフを置いて」
「大丈夫よ、先生を刺すことなんてできないわ」
「そうじゃない。大丈夫だから、とにかくナイフを置いて」
セルゲイが大きく痙攣し、BJは唇を噛む。ユリが間に合わないかもしれない。ソフィア、と既に回らなくなった呂律でセルゲイが呼んだ。
「すまなかった。──すまなかった」
何度も謝る。何度も。それは本気での謝罪だと誰もが分かった。廊下の向こうから多くの足音が聞こえた。間に合え、とBJは願う。腹の中で掴んだ全てはまだ温かい。まだ生きられる。生きろ。BJはセルゲイに言った。生きろ。償うんだ。死んだら償えやしない。
「先生」
ソフィアが言った。相変わらず優しい声だった。
「セルゲイが償う理由なんて、ないわ」
「ソフィア──」
「あのね。わたしがセルゲイに渡したFBIの名簿ね。あれ、偽物で当たり前だったのよ」
美しく優しい女が、美しく優しい声で告白した。愛した誰かに愛を告げるような、美しい声だ。
その声でソフィアは告げた。
「わたしが適当に作ったんだもの。偽物に決まってるじゃない?」
セルゲイの目が見開かれた。口が数度動いたが、意味のない呻きが漏れ出るだけだった。
「途中から、分かっていたの」
知っていたの。ソフィアは初めて表情を曇らせた。
「セルゲイがソ連と連絡を取っていたことも、わたしをハニートラップに仕掛けただけなんだってことも、全部分かってた。わたしだってFBIの職員だもの。事務員だけど長く勤めていたし、そういう訓練はされてたわ」
ごめんね。ソフィアの瞳から大粒の涙が溢れ出す。
「ごめんね。──ごめんね。あんなに愛してくれて嬉しかった。でも、裏切れなかったの」
グラディスが立ち上がり、部屋の外に到着しつつある人々に「怪我人」と言う声が聞こえる。その声に重ねるように、ソフィアは最後の告白をした。
「わたし、この国を裏切ることなんて、できなかった」
ごめんね。ソフィアは呟いた。セルゲイはしばらくソフィアを見上げていたが、やがて掠れた声で、いいや、当たり前だよ、と言った。そして力を振り絞って、確かに愛した女に告げた。
「愛してるよ」
愛してるわ。ソフィアが泣きながら告げた。
次の瞬間、乾いた音がした。
BJは茫然と、自らに降りかかる血を、脳漿を、その持ち主であったはずの男の潰れた顔を眺めるしかできなかった。セルゲイの頭部を撃ち抜いたグラディスが銃をしまう姿には気付けなかった。
ストレッチャーとスタッフたちを引き連れて来たユリが息を呑み、悲鳴を堪える。スタッフたちはあまりの惨状に顔を背け、目を覆った。その中でユリだけが、先生、と呼び、駆け寄った。
「先生」
BJは返事をしない。
「先生。──先生、手を」
ユリは涙を堪え、言った。死んだ男の腹部に手を突き入れたまま茫然とする血まみれのBJの腕に、自らも血に汚れることを厭わず、そっと手を添える。
「わたしが替わります。先生は手術の準備を」
手術と言われてBJは戸惑う。救えなかった患者が目の前にいる。手術? もしかしてこの患者はまだ死んでいないのか?
ユリは言った。今度こそ泣いてしまった。それでも告げなければいけなかった。
「にいさんがもう、待ってます。移植手術をするんです」
ソフィアの心臓を。ユリはそう言った。
ああ、とソフィアが呻いた。歓喜の呻きだった。
「夢みたい。本当にアレンが心臓を持って来てくれた!」
やりやがった。キリコは医局が禁煙にも関わらず、煙草を咥えて呟く。ソフィアの手術計画表を探した。BJのデスクから引っ張り出し、戯れで計算した麻酔量を頭に叩き込む。やりやがった。あの野郎。怒りに震えそうになる手を抑え、ソフィアに関する数値を全て覚えようと努めた。
あと一時間もしないうちにドナーから移植用の心臓が届けられる手筈になっています、ドナーは交通事故に遭った方だそうです、と事務局員から伝えられた。
そのドナーの名前など知らないはずだった。
そう、知らないはずなのだ。移植コーディネーター以外、提供者の名前を知ることはない。
だがキリコは知っていた。この件が相当前から仕組まれていたことも同時に知った。
アパートメントに届いていた封筒。その中身。既に燃やした。だから他に知る者はない。だが情報は記憶として残っている。BJに言うことは決してないと決めたし、これからもそうだと改めて決めた。あの封筒さえなければ、奇跡のような確率でドナーが現れたのだと喜んでやれたかもしれない。だができないと分かってた。
ソフィアはこれから移植手術をする。提供者は健康な女性だ。既に脳死状態であることとドナーバンクへの登録が確認され、あとはBJが手術準備を完了させるだけだった。
だから言ってやったのに。キリコは思い出していた。
──だから言ってやったのに。あれは俺の最後の親切だったんだ。旅行に行けって言っただろう。少なくともここから4時間以上離れた場所へ、って。
提供者から取り出した心臓は4時間以内に移植される患者の体内へ移し、血流を再開させなくてはならない。それが過ぎれば全てが無に帰してしまう。
だから言ったのだ。4時間以上離れた場所へ行けと。
知っていた。差出人不明の手紙に全て書いてあった。
提供者はアリーチェだった。
最初から用意されていたドナーは、彼女だった。
何が起きたのかをユリから聞いた。キリコは全てを呪った。だがその全てが一体何であるのか、もう分からなくなっていた。赤毛の男は確実に仕事をしただけだった。騙された美しい女は自らの秘めた望みを果たし、そして国への忠誠を貫いただけだった。ソ連から逃げた男は愛を告げて死んだ。そして自分の妹は明らかに、己に関係のないことで傷付いていた。
「分かった。よく話した。おまえは少し休め」
「わたしはいいわ。どうにでもなる。──わたしより、先生が」
「分かってる。それでもおまえも休むんだ、いいな」
最大の後悔だった。後悔するべきは自分ではないと分かっている。だが一体誰が後悔するべきなのだろうか。
BJは一度シャワーを浴び、陸軍少佐に射殺された男の血と脳漿、その他のものを全て流し落としていた。新しいスクラブに着替え、禁煙の廊下で煙草を咥えている。少なくとも火を扱う程度の精神的余裕はあるようだと知り、キリコはやや安堵した。
「先生」
「──ああ、うん」
「ユリから聞いた。災難だったな」
「そうかもね」
「怪我は?」
「ない」
「不幸中の幸いだ」
抱き寄せて髪に唇を落とす。病院のシャワー室の味気ないシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。
「移植だ。できるか」
「できるって、何が」
「手術。執刀できるか」
男が自分の精神的ショックを心配しているのだと気付き、BJは眉を顰めて微笑んだ。
「私を誰だと思ってるんだ」
「俺の女だよ」
「──ここは天才外科医って言うところだろ、馬鹿キリコ」
無理にでも笑う。今は移植手術以外のことを考えてはならない。何とか、嘘でもいい、無理に笑うことでもいい、とにかく気分を切り替えなければならない時間だ。もう心臓が到着する。到着してから移植限界時間までを考えると、ひとつのミスも許されなかった。
「問題はチームメンバーだ。移植経験があるスタッフがいないのと、第一助手とまだ連絡がつかない。間に合わない」
「俺が入るよ」
「でも」
「文句を言う奴がいたら赤毛に殺してもらえ。心臓が無駄になる方が罪だ」
「──セルゲイの罪よりも?」
キリコは黙り、自分も煙草に火を点けた。
「先生」
「うん」
「グラディスは軍人として正しいことをした」
「分からないよ」
「認めてやってくれ。そうやって軍人は生きて行くんだ」
分からなくていいから、とキリコは言った。分からなくていい。分かってもらう必要はない。
「軍人を本当の意味で理解できるのは、軍人だけなんだ。あるいは軍人だった人間」
「……分からないよ」
「分からなくていい。でも──否定はしないでやってくれ。そうじゃなければ」
軍人はただの人殺しになってしまう。キリコのその言葉にBJは黙り、煙草を床に落として踏み消した。
「考えてみる。すぐにイエスとは言えない」
「そうしてくれ」
「……人に対して誠実なのは、分かったよ」
「うん?」
「軍人ってやつ。彼らは誠実だ。結局、あいつはソフィアに、信じられないくらい誠実だったんだ」
「──それだけでも嬉しがると思うよ」
それだけでも過去の俺も嬉しいよ、とは言わなかった。言う代わりに抱き寄せ、キスをした。
「セルゲイも──きっと、誠実に死んだんだと、思う」
「そうか。おまえがそう思うなら、きっとそうなんだろうな」
現場を見ていないキリコとしてはそれしか言えなかった。BJが正しい答えを求めているわけではないとも分かっていた。
「ソフィアも、彼女なりにね。誠実だったよ」
「そうか」
「でも、みんな。ソフィアもセルゲイも、グラディスも。みんな少しずつ嘘をついていた」
「そうか」
「誰も嘘をつかなかったら、どうなっていたんだろう」
少し考える振りをし、キリコは「分からないよ」と言って誠実な恋人の顔をした。BJがそう思い、そう考えるのなら、それでいいのだと思う。自分が知る最後の情報──ドナーについて言う必要はない。おそらくそれはソフィアへの報酬だったのだということも。
──グラディスがソフィアに話を持ちかけたのかもしれない。
いつか現れるセルゲイを殺せば心臓移植ができるように取り計らうこと。あの男なら言いかねない。だがこの話が本当だとしても、決してBJに教えてはならないと思った。
「先生、ソフィアのバイタルチェック完了です!」
廊下の向こうから呼んだのはユリだった。術衣を着ている。BJとキリコは顔を見合わせた。そんな二人を見てユリは少し怒った声を出した。
「オペ看です! こんなに大きな手術なのに時間が時間だから手が足りないんです! 先生も早くなさって! ──にいさんも入るならアイパッチは外してよね!」
精神的ショックを受けたことはBJと同様のはずなのに、敢えて明るく、少し厳しい声をくれる妹が、愛する男の妹が愛しいと同時に思う。もう一度顔を見合わせて笑い、キスをして、いつまでやってるの! とユリに叱られて、また笑った。
移植限界時間まで1時間以上を残し、ソフィアの移植手術は完了した。居合わせたスタッフたちは口々にBJの神の手を褒めたたえ、素晴らしい手術に立ち会えた喜びをBJに伝えようとする。BJは一人ずつに応えることはなく、集中しすぎた代償としての強い疲労に襲われ、いつも通り手術室の外の長椅子に倒れ込んだ。キリコが早々に見付け、俺だって疲れてるんだ、立て、と言いながら結局は抱き上げてBJの部屋に連れて行く。
手術の話を聞き付けた麻酔医が遅れて現れ、キリコが既にBJと共に休みに行ってしまったと知って酷く悔しがった。あんな量でこのオペをやり切るなんてとんでもない、一体どうやったんだ、しかも第一助手をやりながらなんて! 本気で悔しがる姿に周囲も改めてキリコの技術の凄まじさを思い知り、キリコの代わりにユリを質問攻めにしようとする始末だった。無論ユリに答えられるはずもなく、何とかあしらい、後でにいさんに償わせてやる、と物騒なことを思ったのだった。
そしてそれきり、BJはソフィアの件に関わることはなかった。BJではなくソフィアが拒否したのだ。それはBJを嫌ったのではなく、これ以上わたしと関わらない方が良いはずだから、という理由だった。BJは何度か彼女へのコンタクトを試みたが、全て失敗に終わった。最終的にはしゃしゃり出て来たグラディスに「やめときな」と言われてうんざりした。
「本当にもう、関わらない方がいい」
病院からキリコのアパートメントにとりあえず移っているBJに土産のケーキを渡しながら、開口一番グラディスは言った。
「おまえさんが何を言おうが信じられるか」
「信じなくていい。じゃあ適当に嘘を言うよ。──ソフィアはこれから一生、CIAの監視下に置かれる。でも一切の事情聴取はない。国への貢献が大統領によって認められた。一生安泰だ。CIAの監視は彼女の安全のため。あれだけの美人だし、また変な男に言い寄られたら面倒の種になりかねない。今後の治療費も全て国が負担する。国内外を問わず、どこへ行っても在米大使館と軍の保護が優先で受けられる。ただし一切、闇と関わらないことが条件だ」
一気に「嘘」を語ったグラディスを眺め、BJは「つまんねえ嘘」と言ってキリコを笑わせた。そりゃどうも、とグラディスは苦笑した。
「まあ、嘘にしちゃいい出来だ。闇って?」
「鏡見てみれば?」
「口を縫ってやる、くそ」
聞いていたキリコはまた笑いそうになり、かと言って笑えばBJが怒ることが分かり切っている。煙草でそれを誤魔化しておいた。BJはしっかりキリコの誤魔化しを見抜き、ひとつ小突いてからケーキの箱を開け、手掴みで喰らい付く。
「報酬さえもらえば後はいいけど、それにしても急な展開すぎて付いていけないよ」
「後は免疫抑制剤とうまく付き合えればいい。拒否反応は出ていなかったはずだし、どちらにせよ、先生の出番はもうないよ」
「確かにね。──あの状況でドナーが現れるとは思わなかった。奇跡だよ」
しみじみと言うBJに曖昧に頷き、キリコは勝手に淹れたコーヒーを飲んでいるグラディスをちらりと見る。視線に気付いたグラディスは涼しい顔で「これ美味しいね」と言った。
「──先生、手掴みで食べるな。皿とフォークで」
「面倒」
「俺の家でやるな。キッチンにあるから」
「うるさい男」
言いながらケーキの箱を持ち、BJはキッチンへ消える。そしてキリコはグラディスに言う。
「手紙をありがとう、とでも言えばいいか?」
「──ポストに入れたのは僕の部下だけど、どういたしまして」
いけしゃあしゃあと言う言葉がこれほど似合う返答もないだろう。キリコは悪びれない男に苦笑した。
「やらないんじゃなかったのか」
「話が変わった。ソフィアの国家貢献に報いるために心臓を用意しただけさ」
「国家貢献?」
「偽物の名簿を敢えて渡した時点で勲章物だ。それから──セルゲイを殺したこと」
「やっぱりおまえさんが唆したか」
「ソ連がダブルスパイだなんて疑ってる奴を国内で生かしておきたくないし、今後の使い道もない。ついでに僕を使い走りにしやがったCIAの奴らは能力を疑われてざまあみろ。──ソフィアは嫌がらなかったよ。女って分かんないな」
「男の方が女々しいさ」
愛した男を殺すと決めたソフィアの気持ちは永遠に分かりそうもない。自分が同じ立場なら、と考えかけて、意味がないと気付いてやめた。
「アリーチェの人権は?」
取って付けたような口調で言われたその質問に、グラディスがキリコを見る。キリコもグラディスを見る。キッチンからBJが戻って来る気配がした。そしてグラディスが言った。
「フォート・デトリックの金を抜いてたクソ女の人権なんか知らないね。女性の権利なんたらの団体に寄付してたみたいだけど、持ってった金は税金だよ?」
「……知らないことばかりで恐ろしいな、このプロジェクトは」
「恐ろしい? ドクターが? 何それ、美味しいの?」
余りの言い草に苦笑していると、戻って来たBJが「結構美味しい」と皿の上の食べかけのケーキを示して言った。それなら良かった、とグラディスは笑った。
「コーヒーをご馳走様。僕はノースカロライナの原隊に戻るから当分もう会えないと思うけど、寂しくなったらいつでも電話してくれていいよ」
「誰がするかよ。口を縫ってもらいたくなったらおまえさんこそ電話しな。あと、二度と会わなくても差し支えないよ。さっさと帰れ」
「はいはい、お邪魔で失礼しました。早く早漏じゃないって証明してもらえるといいね」
「ああ、そうでもなかった」
さらりと答えたBJの言葉にキリコは思い切り煙草に噎せ、グラディスは数秒考えた後、「ああ」と得心した顔で頷いた。そしてキリコをまじまじと見た。
「そうでもなかったそうで。良かったね。っていうか──いや、おめでとう、そうか、うん。こういう時、日本で何するんだっけ」
「いいから帰れ、──帰れ、おまえ、もう帰れ!」
キリコは本気でグラディスに強く言う。グラディスは「帰るけど」と言い、それから思い出して手を叩いた。
「オセキハン! お赤飯炊くんでしょ、日本だと!」
「いらん、帰れ!」
二人は何でこんな話を、とBJは不思議に思う。だが少ししてから思い至った。──当たり前のように答えてしまったが、私は何を言った!? 何てことを言った!?
「──ち、違う、違うから!」
「違う? え、やっぱり早漏? でもまあ赤飯は──」
「せ、赤飯も! 違う! そうじゃない!」
「え、どうなってんの? やったの、やってないの? どっちだよ」
「そうじゃなくて、だから違うんだって!」
「えーっとどうなの、やっぱり早漏ってことでいいの、それともやっぱりやってないの?」
「先生もグラディスも黙れ! グラディス、おまえは帰れ! とにかく帰れ!」
「にいさん、どうしたの、外まで聞こえて来たわよ」
夕飯の食材を抱えて帰って来た、やはり居候中のユリが訝しげにリビングへやって来る。グラディスを見て「あらこんにちは」と挨拶をした。
「ユリちゃん、こんにちは。──いや、何かさあ、よく分かんなくて」
「分かんない? 何が?」
「グラディス、帰れ、とにかく帰れ。二度と来るな!」
「何で怒ってるのよ」
「だからね、この二人がやったっぽいんだけど、先生が言うには違う違うって言って、それがやったことへの違うなのか、ドクターが早漏じゃないことへの違うなのかがちょっと分かんなくて──」
「え、結婚までしないんじゃなかったの!? え、待って、早漏!? え、にいさん、早漏なの!?」
その言葉が可愛い妹の口から出ると、凄まじい衝撃を食らうものなのだとキリコは知った。BJは顔が真っ赤になる域を通り越し、縫った部分が赤く浮かび上がるほどに血が巡り切っている。
グラディスは大笑いをし、ユリは兄の手を取って、わたしの知り合いに良いお医者さんが、と言って兄に追い打ちを掛ける。そこへ電話が鳴った。
妹から逃げるように電話に出る。電話の相手は分からないがきっと救世主だ。そして名乗られた瞬間にその考えを遥か彼方に投げ捨て、電話を叩き切りたくなる衝動を必死で堪え、お電話を恐れ入ります、先日は失礼を、分かりました、光栄です、明日にでも二人でホワイトハウスまで御挨拶に伺いますよ、と何とか返事をすることができた。
俺が何をしたって言うんだ──電話を切った途端に「キリコの馬鹿!」と八つ当たりをしてきた涙目の可愛い女を見て苦笑いもできず、深く、深く溜息をついたのだった。