抱き合いし恋人 04

 ソフィアの様子を見たその後、チームメンバーを招集した。手術の日程と条件を伝えると、チームメンバーは一様に頷いた。やっとBJ先生の執刀が見られるんですね、と口に出して喜ぶ者もいる。
「見学希望者が殺到しますよ。もうその話で持ち切りですしね」
「そこは病院の都合で。私は関わらないよ。ただ、患者に必ず事前許可を取って欲しい」
 ソフィアの同意があり、かつ手術室に入らないでくれれば勝手にしてくれて構わなかった。ドラマや映画のように上階の窓から見降ろすということはなく、ここではモニターでの見学になるという説明を受けた。それもどうでも良かった。
「手術は明後日の午前10時から、ソフィアの状態によっては延期ということでよろしいですね」
 最終確認にBJは頷き、それまでは各々自分の本来の職務に励んで頂きたい、と言い置いた。BJ自身はソフィアの状態管理に集中する予定だった。
 ソフィアの状態は彼女の心臓の状態を考えれば非常に良いと言えた。特に手鏡を手に入れてからずっと、身だしなみを整えることに熱中している。誰かが見ればやり過ぎだと言うかもしれないが、BJは彼女の胸中が分からないわけではなかったし、元々美貌を誇った女性として気分が上向きになり、健康状態に良い影響をもたらすことも期待できた。
「さっき髪を洗ったんだけどね、ユリさんがギブソンタックを教えてくれたの。どうかしら」
「素敵ですよ。女優さんみたい」
 新しいまとめ髪のスタイルへの褒め言葉にソフィアは喜び、やり方は簡単なのにバランスを取るのが難しいのよ、とBJに説明する。BJ自身は興味がない話だったが、ふと、少し自分も考えてもいいかもしれないと思い、脳裏に隻眼の男が浮かんで慌てて思考を追い払った。患者の前で考えるべきことではなかった。
「手術は明後日になります。──大丈夫、今までの通りに過ごしてもらえれば何も心配なく手術室に入れますから」
「明後日ね。分かったわ。先生がわたしを少しでも元気にしてくれるって信じてる」
「ええ、信じてもらって大丈夫。目が覚めたらずうっと楽になっていますよ」
 ソフィアは嬉しそうに笑った。彼女はよく笑う、とBJは初めて思った。彼女の笑顔を何度も見ているはずなのに、今初めて思ったことが意外だった。余裕がなかった自分を反省した。
「ねえ、先生。ちょっとお聞きしたいの」
「何でしょう。答えられることなら何でも」
「先生は結婚してる?」
「ご縁から見放されてて」
「恋人は?」
 BJはやや困る。あの男は恋人と言ってもいいのだろうか。ただ、期待に満ちたソフィアの目に抗えず、医者として患者の話に付き合うべきだから、と自分に言い訳をしながら答えた。
「まあ、いると言えばいる、と思います」
「日本人は照れ屋さんが多いって聞いたことがあるけど、先生もそうなのね」
 悪気のないソフィアの揶揄にBJは苦笑した。性格だと思っていたが、これからは国民性のせいにしても良いのかもしれない。
「もし、先生が」
「ええ」
「わたしと同じ病気で、わたしと同じ状況でね」
「──ええ」
「恋人が会いに来てくれたら、どうする? 会う?」
 BJは考える。考えるまでもなかった。同時に、それをこの患者に言っても良いのか迷った。この患者の今の立場はあまりにも厳しく、詳らかな事情を知らない者が聞けば同情に値するものだ。数秒真剣に迷ったが、ソフィアの顔から笑いが消えたことを知り、素直に答えるしかないと知った。
「可能なら会いますよ」
「会った時、彼に言いたいことって、何かしら」
「それは」
 薄々分かっていた。ソフィアとアレン──セルゲイの間にある、おそらくセルゲイは気付いていなかった女の情念とプライド、そして愛情。
 だって私も。そう思った。──だって私もきっと、同じことをしてしまうから。
「どうして一人で行ってしまったの、って言うかもしれないですね」」
 ソフィアが微笑んだ。その表情を見たBJは眉を顰めて微笑んだ。
「先生」
 二日後、生命を非合法医師に預ける女が穏やかな声で言った。
「わたし、ちょっと違うわ」


 報告を受けたキリコは苦笑を通り越して本気で笑ってしまった。キリコがフォート・デトリックで仕事をするようになってから初めて笑った顔を見たスタッフたちは驚き、無言で視線を交わし合う。笑える話ではないはずなのだが、闇を知る男は何か違うのだろうか、と思った。
 だがキリコはごく普通の感性の範囲内で笑っていた、と自分では思う。これは笑うしかない。
「プレイメイトのお門違いか」
 それからスタッフの中の女性をちらりと見て、「あなたに言ったわけではない」と付け加える。滅多に話しかけられない彼女はどう返事をすれば良いか分からず、とりあえず頷いた。
「でもドクター、そのままにしておくとドクターの立場が──」
「非合法の安楽死医の立場なぞ、あなたたちが考えることではないだろう。お気遣いにはありがとう」
 話は簡単だった。休職扱いになっているアリーチェが、キリコをセクシャルハラスメントで軍の法務部に訴え出たのだ。ご丁寧にフォート・デトリックの同僚に電話をし、涙ながらに話をするというおまけもついた。お陰でスタッフ全員が知るところになっている。
「無理矢理アパートメントに連れて行かれ──なるほどね。私と彼女の現実は相当剥離していたらしい」
「正式な訴状ではないですから、早いうちに申し開きをすれば問題ないかもしれません」
 スタッフたちはアリーチェの言い分を信じていなかった。アリーチェを信じないと言うより、キリコがセクシャルハラスメントをするとは考えられないという印象が理由だった。そして何より、今のプロジェクトからキリコがいなくなることが痛い。少ないスタッフの中で異彩を放つ有能な男が、闇の人間であることを惜しみたくなるほどだった。
「どこに申し開きを?」
「軍の法務部、その報告書の差し出し元ですね」
「そんなものはこの国の軍人だけがすればいい。私は関係ないし、何なら契約を切られても構わない立場でね」
「──それは私たちが非常に困りますので、できれば避けて欲しい未来ですね」
 キリコは鼻で笑ってみせた。彼らの言い分が分からないこともなかったが、部外者の、しかも非合法の世界に生きる自分に頼っている事実そのものを笑った。
「別件になりますけど、訴え返すこともできるはずですよ。外部のドクターがどんなルートで扱われるかは分かりませんが、フォート・デトリック内部のことなら一応必ずチェックされます」
 まさかアリーチェを訴えるのか、と期待の目で見られ、キリコは彼女が思った以上に嫌われていたのではないかと感じた。なまじ美しかっただけに足りない能力が際立ち、生粋の科学者である彼らの不興を買ったのかもしれない。
「そんな気にはなれない。必要なら事情聴取なりには応じるが、そこで証明できれば問題ないよ」
「そうですか」
 少し残念、と言った空気に包まれるスタッフたちにも何か問題があるのではないかと思わざるを得なかったが、遠い過去、確かに自分もこんな表社会のエリートの中にいたことを思い出しそうになり、考えないようにした。
「まったく、方向を間違えた女の情念の邪悪さと言ったら面倒でいけない」
 方向を間違えない女の情念も面倒だが、少なくとも邪悪ではない。微笑んでいるソフィアを思い出し、キリコは溜息をついた。
「失礼、時間だ。また明日」
 イレギュラーが起きない限り、契約時間を超えた仕事はしない。まるで権利にうるさい会社員だなと自分でもやや不思議な気分になりながら、キリコはフォート・デトリックを後にし、恋人と呼ぶべき女がいる病院へ向かった。


「にいさん」
 到着した途端、待ち構えていたかのようにロビーにいたユリが呼んだ。頷き、入館手続きをしてからユリに近付く。
「どうした」
「先生が」
「──どうした」
 途端に少し低くなった兄の声にある意味で安心し、冷静に話すことができる気がした。
「ソフィアの手術を明後日に決めたの。それからずっと自分の部屋にいらっしゃるんだけど──具合が良くないみたいなの」
「誰かに診せたか」
「誰にも。先生が嫌がったから」
「部屋は? ──誰も寄越すな。おまえも」
「分かってるわよ」
 院内にあるBJの宿泊部屋を教え、ユリは溜息をつきながら、こんな時でも速足にならない兄の後姿を見送った。ここが病院だから、兄は患者を驚かせないように静かに歩くのだと知っていた。
 ──それでも、こんな時くらい、少しくらい、ほんの少しくらい急いだっていいじゃないの。でもこれはわたしが女だから思うのかしら。
 何となく自分が嫌な生き物に思え、ユリは大きく息を吐き、ソフィアの様子を見に行くことにした。
 妹の心など知らず、キリコはBJの部屋へ向かう。廊下の窓から夜の帳を感じ、部屋に閉じこもるようなことになるのなら、軽く食べられるものを買って来てやればよかったと思い至る。
 ドアをノックしても返事はなかった。ノブを回すと鍵が開いている。いくら陸軍病院とはいえ、この国では不用心が過ぎるミスだ。いや、BJにしては不用心が過ぎると言えばいいのか。
「入るよ」
 一応「声をかけた」という事実を作ってから部屋に入る。ベッドとデスク、少ない家具だけの簡易な部屋だ。具合が悪いと聞いていたBJの姿そのものは見えなかったが、ベッドに何かが丸まったような毛布の塊が存在感を主張していた。
「先生、何してるんだ」
 ベッドの横に立ち、塊に声をかける。返事はない。予想していたキリコはもう一度「何してるんだ」と問い、今度は「気にかけた」という事実を作った。気難しい女が最大の気難しさを発揮している今、念には念を入れて悪いことはない。
「具合が悪いって? 診るから起きよう」
 返事はない。無論予想済みだ。とはいえ時間は無限ではない。手っ取り早く進めることにした。
「俺より他の医者が良ければ呼んでくる。どうする」
 効果覿面とはこのことだ。塊ががばりと起き上がり、毛布の間からBJが顔を覗かせる。怒ったような、泣き出したいような顔で睨まれた。可愛いな、と思いながらも顔には出さない。
「何で?」
「うん?」
「何で?」
「他の医者は嫌か?」
「早漏のくせに馬鹿言うな」
「早漏じゃないけど、謝っていいかな?」
「馬鹿」
「ごめんね」
 無茶苦茶な態度で怒りながらも甘える声に惹かれて軽くキスをし、ベッドに腰掛ける。毛布に丸まったままBJが肩に頭を預けて来たので好きにさせておいた。
「どうした。ソフィアの手術を明後日に決めたのに、先生の具合が悪いんじゃ本末転倒じゃないか」
「具合が悪いんじゃないんだ。それは平気」
「じゃあどうした」
「怖い」
「──何が?」
「怖くて」
「どうしたんだ?」
 身動き、毛布ごとBJを抱き寄せる。BJが口にする「怖い」という言葉が本音であり、流してはいけない反応であることをようやく学んだばかりだった。
「ソフィアが怖い」
 一瞬、キリコは我が耳を疑った。患者を怖がるBJなど知らない。しかも相手があの穏やかなソフィアとなれば、驚いて当然だった。
「何があった?」
「よく分からない。でも怖い」
 BJほど思考能力に長けた人間とは思えない不明瞭な言い分だ。怯えているようにも見えた。キリコ自身はソフィアと直接言葉を交わしたのは一度だけで、その時にはBJのような感情を持たなかった。だがBJは主治医として近くにいる。その距離でしか見えない何かを感じ取ったのだと分かった。
「怖いのか」
「うん」
「どんなふうに?」
「今まで、あんな女性を知らない」
「うん?」
 BJが大きく息を吐いた。自分を落ち着かせるための深呼吸であることは明白だった

「セルゲイに会えたら」
「ソフィアが?」
「『わたしの心臓を頂戴』って。彼に会えたら言いたいって」
 背筋が凍るとはこのことだ。キリコは絶句した。臓器移植に関わる闇の世界は何度も見て来た。そこにあったのは生命への貪欲な執着、金と力があるがゆえの許されない傲慢だった。
 だがソフィアのそれは違うと直感した。そしてその直感がBJの恐怖の理由であることも知った。
「そうか」
「うん」
「それは俺も怖い」
 わざと少し明るい声で言うと、BJは安堵の息を吐いた。自分の恐怖が受け入れられ、認められたことへの安堵だった。キリコはBJの恐怖を和らげるために抱いた腕の力を強くする。
「無意識で、ソフィアを侮っていたのかも。騙されて、正しい情報さえ渡せなかった、捨てられた可哀想な女性なんだって。でも──」
 そうじゃないのかもしれない。BJは呟いた。キリコは答えなかったが、きっとおまえの言うことが正しいだろう、と思った。
 優しく微笑む患者が最期の時まで微笑んでいられれば、それは医者として力を尽くしたひとつの証明になる。だがその微笑みの意味に気付きそうになっている今、愚直に証明を求める存在であって良いのかどうか、天才と呼ばれる外科医とその恋人は明らかに迷い始めていた。


 BJを落ち着かせてからアパートメントに戻り、ポストを確認する。切手と差出人のない封筒が入っていた。あからさまに怪しい手紙だと主張するそれを躊躇いなく持って家に入った。テーブルの裏の銃の弾倉を確認し、シャワーを済ませ、煙草に火を点けてから改めて封筒を手に取る。
 毒物を警戒し、薄い手袋を着け、キッチンのシンクで慎重に開封した。
 にわかには信じられなかった。何度か読み返した。何かの悪戯ではないかとすら思ったが、今このタイミングで直接ポストに入れられたという事実が、悪戯ではない上に火急の判断を覚悟させるものだと教えた。
 咥えた煙草の火種が手紙の上に落ち、無残に焦げを作ってから燃え広がって行く。煙草ごとシンクに落とし、燃える紙を見ながら新しい煙草に火を点け、この話はBJに決してしないと決めた。他人にすぎない女たちの情念などよりも、怖いと言って自分に縋る女の方が比べるまでもなく大切であることは疑いようもないのだから。


 翌朝、早くに起きたソフィアは手鏡を前に身だしなみ整える。本名がセルゲイというらしいアレンがよく褒めてくれた目元は特に念入りに手入れをした。
 明日になれば手術ができるという事実が更に心を浮き立たせ、血色を良くしている。健康だった時ほどではなものの、多くの人に振り向かれた美貌が少し戻っているような気分になれた。手術が成功すれば、きっともっと美貌を取り戻せる。そう、とても親切に世話をしてくれているユリのように、また美しくなれるだろう。
 とても綺麗だ。アレンはよく言ってくれた。──きみはとても綺麗だ。最初は綺麗だからつい声をかけてしまったんだ。でも今はそれだけじゃない。俺はきみの内面にすっかりやられたよ。
 どんな男でも、付き合えば必ず口にする台詞だった。通りすがりの人間にまで注目されるほどの美貌を持った女なら、きっと誰しも経験があるはずだ。きっとユリもそうだろう。
 手鏡の中の自分が微笑む。きっとアレンがよく見ていた微笑み方ができていると信じた。
「心臓を頂戴」
 愛しているわ。呟いた時ドアがノックされ、ユリが顔を出して微笑んでくれた。ソフィアも微笑み返した。


 朝一番、ソフィアの様子を見に行く前に事務員に呼び止められた。面会希望者がいると告げられ、BJは首を傾げる。ソフィアへの面会ではなく自分への面会だと聞けば当然だ。
「女性と弁護士の二人です」
「どこの誰さん?」
「ええと──」
 名前を聞いてもすぐに思い出せなかった。だが数秒後思い切り嫌な顔になって事務員を驚かせてしまう。驚かせたことには悪いと思ったが、これは止められない顔だったと内心で自己弁護した。
「お知り合いですか? もしまずいようでしたら警備担当の兵士をつけますよ」
「お知り合いって言うか──会わないよ。忙しいから無理って言っておいてくれないか。明日も明後日もその先もずーっと無理」
「分かりました。──要注意者のリストに入れておきます」
「そんなものあるのか」
「どこの病院にもありますよ。特にここは陸軍病院ですからね」
 事務員はBJを安心させるように片目を瞑り、時間外の訪問者を叩き帰すためにその場を去った。
 BJはそのままソフィアの病室へ向かおうとしたが、ふと気を変えて電話をかけることにした。数コールで出たキリコは出勤直前だったようだが、BJと知ると優しい声で「どうした」と言ってくれた。BJはその声が嬉しい。だが嬉しさに流されないぞと自分に言い聞かせた。
「我儘を言わせて欲しいんだけど」
『おお、怖。お手柔らかに』
 怖いと言いながら笑っている。恋人の可愛いお願いだとでも思ったのだろう。男の喜びなど踏みにじるため、BJは無慈悲に告げた。
「金髪のおねえちゃんが弁護士連れて来た。会ってない。何とかして。さっさと」
『──アリーチェが?』
 てっきり慌てた声を出すのではないかと期待していた。だがキリコの声が急に真剣味を帯び、BJは瞬時に意識を切り替える。こんな声を出す時のキリコは決して冗談を言わないと知っていた。
「目的は知らない。どうせ弁護士云々かと思うし、会いたくないし」
『悪いんだが、病院のスタッフかユリにでも相手をさせて引き留めておいてくれ。今から行く』
「──どういうこと?」
『二度と近付くなって言ってやりたいだけさ。先生は相手をしなくていいから、とにかく頼むよ』
 BJが返事をする前に電話を切られてしまった。慌てている様子ではなかったが、火急だと認識されたことは分かる。複雑な感情が沸き上がりそうになり、それが嬉しいと言えるものだと理解して、誰にも見られていないのに唇をひん曲げて、何となく照れる心を隠してしまった。
「あ、BJ先生、すみません」
 先ほどの事務員が足早にやって来る。ちょうどいい、頼んでおこう──そう思ったBJよりも早く事務員が言った。
「どうしても帰らない、とにかくBJ先生に会うまではってしつこいんです。弁護士も一緒だからちょっとやりにくくて。どうしましょう、警備兵を呼びましょうか?」
「面倒くさい女だな。知ってたけど」
「はい?」
「何でもない。警備兵はいいよ。私は部外者だから、あまり世話になりたくないし。──キリコがもうすぐ来るからしばらく待たせておいて。キリコが来るのは言わなくていいから、とにかく待つようにって。飲み物とかは出すなよ」
「はい」
「あ、キリコが来たらキリコにだけ出して」
「もちろんです」
 最後の要請に事務員は笑い、今度は親指を立ててその場を去った。やっとソフィアの病室へ行ける、とBJは溜息をついて歩き出す。そして今度はアメリカ人よろしく天を仰ぎ、神様、と言った。いつの間にかそこにいたグラディスが「おはよう」と挨拶して来たので、とりあえずおはようと返しておく。
「暇なのか、隊長さん」
「暇じゃないよ。お仕事中」
「仕事?」
「ソフィアの警備。マンハッタンから継続中」
「よく言うよ。監視だろ」
「そうとも言う。まあ、陸軍病院だから何かあるとは思いにくいけど、一応僕も税金から給料もらってるんで」
「ノースカロライナの原隊に戻るんじゃなかったのか。かなり長く空けてるだろう。おまえさんの職場、そんなのでいいのかよ」
「任務だから仕方ない。僕だってもう嫌だ」
 軍人にあるまじき言葉にBJはやや用心した。キリコに聞いたグラディスの言葉を思い出したからだ。──『こんな件、もう終わりだ。全員死ねばいい』。
「まあ、ストレスが溜まる仕事だろうしな。おとなしくしておいてやるよ。ソフィアの手術は明日だし、もうすぐ少しは楽になるんじゃないか」
「明日? 何時くらい?」
「関係あるのか」
 用心した色を隠せただろうかと一瞬不安になったが、グラディスが「うん」とあっさり言ったので、おそらく成功したのだと思えた。
「何時にどんな手術を開始したのかってのを明日の報告書に書かないといけないからさ」
「ふうん。──真面目な話、守秘義務があるんでね。知りたければ開示請求書を持って事務局長にコンタクトするんだな」
「面倒くさい」
「知るかよ」
「みんな死ねばいいのに」
「病院で言うな!」
 BJが怒るとグラディスは笑った。こうやって笑っていれば、とBJは思った。──こうやって笑っていればただの若い男なのに。でも確かにこいつは気狂いだ。
 ソフィアもこの男も、ただ笑っていれば。そう思った。ただ笑っていれば、ただの人たちなのに。なぜ何かが絡み合って、気が狂ってしまったのだろう。それとも──はじめから狂っていた人たちが国家というものに関わるのだろうか。BJには分からなかった。分かりたいとも思えなかった。


 ノックもせずに応接室へ入った瞬間、驚愕してソファから立ち上がったアリーチェを見て鼻で笑いたくなったが、今は適した態度ではないと考えてやめておく。
「ドクター?」
「素晴らしい報告をありがとう。ご機嫌いかが?」
「良いはずがないわ。ありのままを報告させてもらったので悪しからず」
 出鱈目の訴えをしながらも、当のキリコの前で「ありのまま」と言えるアリーチェは今日も美しかった。キリコが知る彼女よりもきついメイクで、一方的に会うと決めていたBJを威圧、あるいはリードしようとしていたことが見て取れた。悪いことではない。一種のテクニックだし、賢い女性ほど有効に使う手段だ。だがキリコが好きな類のものではないことも確かだった。
「それはお疲れ様。中々笑わせてもらった。どうぞ座って」
「あなたと話すために来たんじゃないんです。あなたがここにいる必要はありません」
「きみが話したいと思っている人から拝命してね。とにかく何とかしろと仰せ付かったんだよ」
「失礼、私は彼女の兄で──」
 同席の弁護士が割って入り、自己紹介をした。差し出された名刺をとりあえず受け取り、情報を一瞬で記憶してから丁寧に礼を言い、丁寧に返した。受け取られなかった弁護士は鼻白んだが、相手が表社会の人間ではないと考え、気にするほどではないと決める。
「失礼します。ドクター、コーヒーをどうぞ」
「ああ、ありがとう」
 絶妙と言えば絶妙のタイミングで現れた事務員がキリコの前にだけコーヒーを置き、笑顔で退室して行った。こんな性格の悪い真似をするなんてBJの入れ知恵に違いないとキリコは断じた。
「妹の代理人として申し上げます。ドクターはBJの先生の代理人としてこの場におられると理解してよろしいですね?」
「構わない」
「イエスかノーで」
「イエス」
「今日はBJ先生の、過去の尊厳の件でお伺いしているんです」
「A州の警察署で集団暴行された件かな」
 弁護士は表情を変えなかったが、恋人と聞き及んでいた男の口から出るには余りにも酷い言葉に、キリコへの印象を悪くしたことは明白だった。しかも妹がセクシャルハラスメントを受けたと言う訴えにも関わっている。性に関してまともではないのだと弁護士は判断した。
「彼女はA州を訴える権利があるし、彼女の勇気で同様の被害者を励ますことができます」
「なるほど」
「だからBJ先生にそのお話をするため、今日は伺いました。ここに呼んで頂きたいし、必要なら私がどこにでも行きます。彼女には協力者がいることを教えてあげる必要がある」
 弁護士の隣のアリーチェは熱心に頷いている。キリコは溜息を押し殺した。
 ──俺のことはともかく、悪人じゃないんだよな。本気であいつを救ってやろうとしてるんだからたちが悪い。いいや、俺のことだってこの女の中じゃ真実に書き換えられているのかもしれない。この女の世界に住む『可哀想な女性たち』を救うために。
「彼女はアリーチェに一度その話をされ、断っている」
「聞いています。怒ったあなたが妹を衆目の前に叩き出したことも」
「私を訴えても構わないよ」
「後ほど検討します。──少し話を変えましょう。あなたが彼女の尊厳を回復させようとしない理由は何なのですか?」
 回りくどい言い方にキリコは少し黙り、考える振りをしてやった。弁護士のこういった話術が嫌いだ。言葉で翻弄し、失言を引き出そうとする。正面から話してくる弁護士も無論多く知っているが、アリーチェの兄のような弁護士は好めなかった。
「彼女が本当に回復させたいと思った時、私よりも適した人材がこの国にいる」
「既に弁護士が付いている、という理解でよろしいですか?」
「さあ?」
「イエスかノーで」
「ノー」
「ではどんな人材が彼女に?」
「知らない方がいい」
 キリコとしては親切で言ってやった言葉だった。だが弁護士は虚勢の可能性があると解釈した。アリーチェは兄の勝利を疑わず、既に勝ち誇った目でキリコを見ている。正義の国の正義の兄妹だ、俺とユリとは大違いだ、とキリコはおかしくなり、笑いそうになる表情筋のコントロールに努めた。
「知らない方がいい理由は?」
「正義の女神に文句を言える人間もいるということさ」
 この国の正義、弁護士の象徴とも言える存在が闇医者の口から出たことに、弁護士は流石に眉を顰めた。既に悪印象しかない男に言って欲しい存在ではない。
 だがアリーチェが表情を変えた。やっと思い出したか、馬鹿な女だ。フォート・デトリックにいる俺に電話をかけて来た人物は? ──溜息をつきそうになる口元を抑えるために煙草を咥える。二人が吸わないことは見て取れたが、許可を取る気にもなれなかった。
「私自身はその恩恵に与るつもりはないし、セクシャルハラスメントとやらの訴えに関してその存在に頼むつもりもない。こんなに馬鹿馬鹿しい件で時間を使って良い人ではないからね。ただ、彼女の件は違うだろう。それこそ尊厳に関わることだし、受けるべき被害ではなかった」
 嫌な話だ。そう思った。そして腹が立ってたまらない。敢えて忘れようとしていたのだ。BJが言葉では表せないほどに傷付いた話を蒸し返そうなどと、誰が考えるものか。彼女自身がそうしたいと言う時が来たら考えれば良かっただけだ。それをこの二人が──ただただ、腹立たしい。
 アリーチェを見る。明らかに青ざめていた。また溜息をつきたくなった。心底嫌うタイプの人間であったことを実感し、改めて家に招き入れてしまったことを後悔した。──正義と女性の権利を振りかざす気分は心地良かったか? 俺たちが相手でなければ心地良いまま勝者になれただろうに、残念だったな。
「はっきり言わせてもらう。あなたたちがしようとしていることはセカンドレイプに過ぎない」
「──それは私たちへの侮辱だ。訂正して頂きたい」
「お断りだ。嫌がる本人を引きずり出して、公衆の面前で性被害について話させるのか? 何の罰でそんな仕打ちをされなきゃいけないんだ?」
「罰なんてとんでもない。権利と尊厳を守るために必要です。もう泣き寝入りをしなくても良いことを他の女性にも教えてあげられるんです」
「アリーチェにも言ったが、それはやりたい連中でやってくれ。私は彼女の代理人として、あなたたちを彼女に会わせることはできない」
「いいですか、ドクター。現状──」
「私の話を聞くべきだ」
 何事かを演説しようとした弁護士を制するように、キリコは少し語調を強くして話を続けた。腹が立って仕方がない。電話ではその気配を見せなかったが、この瞬間、BJが過去の被害を思い出していないとは限らなかった。思い出したところでポジティブな感情になれるはずもない記憶であることは間違いない。とにかく腹が立ってどうしようもなかった。
「彼女は、彼女自身が望めばすぐにでも尊厳を取り戻す──この表現は良くないな。そもそも無体を働かれた女性の尊厳が奪われた、と言う発想が無礼だ」
 自分で言いながら納得した。そうだ、無礼だ。乱暴した側が自ら人間としての尊厳を捨てたと言うべきであり、被害を受けた女性が尊厳を失することなど有り得ない。
 ベトナムでも散々聞いた。軍医で後方にいざるを得なかった自分には無縁だった。だが衛生兵として前線に出ていたらどうだったろう。あの狂気の中で正気を保ち、尊厳を捨てずにいられただろうか。今になって思う。ベトナムは間違いではなかった。それは確かだ。だが間違いを犯したことも確かだった。たとえ強い国に立ち戻ろうとも、その事実には向きあわねばならない。愛した女を得たからこそ知った。ああ、と思った。──ああ、あの女はどれほどまでに、俺の人生を変えて行くつもりなのだろう。
「とにかく彼女自身が望めば手を貸してくれる存在がいる。そういうことだ。後はアリーチェに聞くといい。誰のことかを思い出して、ここに来た自分を反省しているようだからね」
 兄は妹を見る。青ざめている妹を見て、目の前の男が本当のことを言っているのだと察した。
「アリーチェ、誰だ」
 妹は答えない。アリーチェ、ともう一度兄が促すが、やはり答えられなかった。キリコは今度こそ鼻で笑い、煙草を灰皿に押し付ける。
「賢い妹さんをお持ちで結構なことだ」
「……賢い、と評する理由は?」
 キリコは立ち上がる。これ以上の話は無駄だし、もう結論は出たも同然だった。アリーチェは二度とここには来ないだろう。BJに自分なりの正義を強制しようとも思えないはずだ。そしてキリコへの告発も取り下げるだろう。
 軽蔑する気にはなれなかった。これが普通だ。これが表社会で正義を唱える人間の一面だ。闇の世界にいる人間に関わったばかりに、決して見たくなかったであろう自分を見付けてしまうはめになっただけの話だ。
「大統領に訊いてみるんだな」
 全てを悟った弁護士は深く息を吐き、手を額に当ててソファに深く沈み込んだ。そして呻くように「失礼を」と言って己の正義の敗北を認めた。キリコはアリーチェを見ることなく、兄だけに向かって「構わないよ」と言ってやった。
「本当に賢い妹さんだよ。私の妹とは大違いで新鮮だね」
 ──少なくとも俺の妹は、自分が正義と信じたことなら、相手の背後にどんな人間がいようと怖気付くことがない無鉄砲な女だから。
 声高に正義を振りかざさなくても、静かに、誠実に、正義に生きる人間はいくらでもいる。自分の妹がそうであることに誇りを覚え、こんな誇りを持てたことだけはアリーチェに感謝しても良いかもしれないと思った。
 それから最後の、本当に最後の親切心をアリーチェに向けた。
「きみは旅行に行くべきだ。ここから4時間以上離れた場所がいいだろう。すぐにでもね」


 スクラブ姿のBJを喫煙所で見付けた。何かを言いたげに見て来た彼女を片手で抱き寄せてキスをした。それで理解したBJは息を吐いて力を抜き、ありがとう、と小さく呟いた。やはり思い出してしまっていたのだろうと察し、キリコは抱く腕に力をこめた。
 周囲にいた喫煙所の利用者たちは見て見ぬ振りをしてくれている。むしろ気にしていないのだろう。この国の国民性に二人が礼を言いたくなった瞬間だった。
「もう来ない。安心していい」
「うん」
「今日は一緒にいよう。何か手伝うことは?」
「仕事は?」
「行った方がいい?」
 BJは暫く黙った後、首を横に振った。キリコはもう一度キスをして、大丈夫だよ、と言った。うん、とBJは頷き、ありがとう、とまた呟いた。