抱き合いし恋人 02

 転院することが決まったと告げられた途端、ソフィアは表情を曇らせた。
「本当に? すぐにしなくちゃ駄目?」
「したくない事情があるのなら、少し考えますよ」
 本音としてはすぐにでも転院させたいが、BJは敢えてソフィアに譲歩する姿勢を見せた。ソフィアは暫し黙った後、意を決したように小さな声で告げる。
「アレンが来てくれるかもしれないじゃない?」
 最初から裏切っていた男をまだ愛していると言うのか。BJは表情に出さず、これが女と言う生き物の特性なら一体私はどうなってしまうのだろう、と思った。だがすぐに、患者のケア以外のことを思考から追い出した。
「彼はこの病院を知っているんですか?」
「知ってるわ」
「入院するまでは一緒だったということ?」
「わたしが発作を起こして、救急車を呼んで、ここの入院手続きをしてくれたのはアレンだったの」
「──そう。それなら知っていて当然ですね」
 ソ連の情報部員がそこまで親切だったとは意外だった。BJとしては想像する以外にできることがなかったが、ハニートラップを仕掛ける情報部員など、用が済めば対象を打ち捨てるのだと思っていた。それこそ生死が関わろうが、だ。だがアレンと名乗っていた男は違うとソフィアは言う。
「でも、ここだとあなたの手術ができないんです。陸軍病院に転院すれば簡単に実現することが、ここではほとんどできない」
「陸軍病院なんて──軍の関係じゃない? アレンが絶対に来られないわ」
 BJはすぐに返事をしなかった。正確にはできなかった。本当はこの女も分かっているのだ。愛した男は二度と自分の前に現れないことを分かっているのに、有り得ない可能性を勝手に、そして健気に夢見ている。誰かが聞けば愚かだと言うかもしれない。だがどうしても、BJは彼女を愚かだと思うことができなかった。
「この病院に、彼が来たら連絡してもらいましょう。陸軍病院では会えないかもしれないけど、あなたが動けるようになれば外で会うことができるかもしれない」
 この会話がどうせ盗聴されていると分かっている。あの赤毛か、それともCIAの情報部員か。今頃彼らは会話を聞いて笑っているかもしれない。それでもBJは自分が嘲笑に値することを言っているとは思えなかった。
「できるの? アレンは逮捕されないかしら?」
「されるかもしれないし、されないかもしれないし。私には何とも言えない」
「そんなの嫌だわ」
「でもね、もし逮捕されても、私がどうやったって会わせてみせます」
 これだけは確信と自信を持ってBJは言った。まずあの赤毛に要求を突き付け、それが無理なら大統領に直接頼む。アレンの生死はまだ分からないが、もし生きていればその機会がないと言い切れない。ならば自分ができる限りの手段を行使する準備をするべきなのだ。目の前の女は自分の患者だ。普通の医師ならできないことを、非合法の自分ならできるのだから。
「本当に?」
「本当です。約束しますよ。もしもアレンが会いに来たら、必ずあなたに会わせます。──だからあなたはそれまでに、出来る限り元気になっていなくちゃいけないと思うんですけど、その点は同意してもらえますか?」
 急にソフィアは笑い出した。元々感情が豊かな女性なのだろうとBJは思った。感情が豊かで、それを表に出すことを躊躇わない。美しくて素直に感情を出すこの女を、どこかで羨ましいと思った自分がいた。
「転院すれば元気になる?」
「今よりもずっとね。元気になる可能性があるし、正直言うと、私もここより出入りしやすいんですよ。陸軍には伝手があるからね」
 先生も大変ね、とソフィアは笑った。その笑顔は何かの希望に彩られていた。その「何か」が何であるか、BJは考えたくなかった。患者の容態のことだけ考えればいいのだ。自分にそう言い聞かせた。
「じゃあ、先生が一番良いようにして下さる? 先生がベストだと思う方法が、きっとわたしにベストなことだと思うから」
「ありがとう。移動で少し疲れるけど、ずっと私が一緒だから安心して」
 ソフィアは頷いた。主治医への信頼に満ちた目を見て、BJは満足し、そして安心した。いつもそうだ。患者が全幅の信頼を見せた時、患者の生命を救うために戦おうと思える自分を見付けて安心できる。患者に求めることではないと分かっていても、人を救うことで自分を救い続ける自分には、どうしても必要な、誰にも言えない密かな儀式だった。
「どこの陸軍病院なのかしら。ここから近い?」
「正確には、ウォルター・リード陸軍医療センターになります」
「ワシントンね。わたし、ワシントンに最後に行ったのはいつだったかしら」
 ソフィアは笑った。BJも笑った。フォート・デトリックからそう遠くない場所だということは努めて忘れた。
「それから、あなたの移植の登録順を確認しました。あまり良いニュースではないけれど、言ってもいいですか」
「待って、わたしに言わせて」
「どうぞ」
「移植の順番待ちがずうっと後なんでしょう?」
「──そういうことになります」
「先生の前の主治医に言われたわ。完全に適合する提供者がいない限り、回ってくる可能性はほとんどないって。完全に適合するなんて天文学的数字だってこともね」
 ソフィアは口元に薄い笑みをたたえていた。何もかもを受け入れ、だが諦めたわけではないという微笑みに、BJは心底思う。──医者はあくまで、患者が生きる手助けをするしかできないのかもしれない。救おうとする私は傲慢なのかもしれない。
 死に直面しながらも、生きようと決めた患者の生命力の何と強いことか。何と美しいことか。
 ねえソフィア、なぜ生きようと思えたのですか。──訊きたくはなかった。本当は答えを知っていた。だが認めることができないだけなのだ。
 あの死神が本当は死神なのではなくて、連綿と続く生命の糸に手を添え、生命の持ち主が望む生き方に優しく糸の方向を導こうとする生命の案内者なのだと、認めることだけはできなかった。


 余計な世話を焼くな、わきまえろ──産まれて初めて、妹を感情的に怒鳴ったかもしれない。歳の離れた妹を愛していることは確かだし、過去に声を荒げたことはあるものの、怒鳴り付けるなどと経験したことがなかった。
 電話の向こうで妹が少なからずショックを受けていることも分かり、すぐに謝った。我が強いはずの妹も謝ったが、動揺した感情が声に滲み出て、兄の自己嫌悪を増幅させるには充分過ぎる力があった。
『二度と言うなって怒鳴られても仕方ないわ。余計なお世話なのは分かってるの。でも──ごめんなさい、にいさん。どうしても、最後に一度でいいのよ。二人で話をして欲しいのよ。ソフィアの転院に付き添って、明日ワシントンの陸軍病院に向かわれるの』
「おまえの気持ちもお節介も理解した。だから俺の気持ちも理解してくれ。もう煩わされたくないんだ。切るぞ」
『切らないで。──切らないでよ。教えてよ。煩わせるって何なの? グマの時だってそうだった、先生を遠ざけようとして。必死で遠ざけようとしてたじゃない。あんなにいさん、他のどこにいるのよ。どうして先生にはそんなことをしたの』
「覚えてねえよ」
 嘘だ。自分でも分かった。あの時、ただただ、自分から遠ざけようとしたことを覚えている。だがあの時の理由は──そうだ、あんな天才外科医を失うなど、どれだけの人間の生命の行先を奪うことになるのか。ただそれだけを思った。相容れない部分があるなど、あの時は完全に忘れていた。ただ、彼女の指先にある生命の行く末を閉ざすわけにはいかないとしか思えなかったのだ。
『嘘よ。──嘘。お願いだから。あと一度、一回だけ。先生に言ってよ』
「何をだよ。言うことなんてもう──」
『愛してるって言えばいいじゃない! わたしを怒鳴り付けるくらい納得できてないって、愛してるって、先生に縋ればいいじゃないのよ!』
「恋愛映画の見過ぎだ。鬱陶しい」
 電話を切ればいい。妹の鬱陶しい、女からの視点からの説教なぞ聞くに値しない。分かってるのに切ることができなかった。分かっている。──分かっている。妹が兄への愛情から言っているということ。完全に決着をつけるべきだと告げていること。そこには、──BJの心情など何も慮っていないということ。ただただ、究極まで妹という立場であることを、キリコに強く教えた。
『ウォルター・リード陸軍医療センターなの。にいさんが手配したんでしょう? 今のにいさんの家からだってそんなに時間がかからないはずよね』
「必要ない」
『お願いよ』
 ユリの声は泣いていた。キリコはそれが酷く不快だった。──ふざけるな。俺のことなんかで泣くんじゃない。いいんだよ、俺のことなんか。何でおまえはそうなんだよ。何で俺のことなんかで泣くんだよ。
『わたし、先生を好きでいたいのよ。ずっと会えなくなったとしても、好きなままでいたいのよ。──わたしの大事なにいさんを一方的に振った、腹の立つ女だなんて思ったまま終わるなんて、そんなの絶対嫌なのよ』
 最後まで先生を好きでいさせて。妹は泣きながら我儘を兄に押し付けた。兄妹なんてどうでもいい。そんなことが言える人間でありたかったとキリコは思った。
 どうやって妹を宥め賺したかは覚えていない。だが気付けば電話を切り、リビングのソファで煙草を手にして長い時間を過ごしていた。テーブルの裏にはあの銃が隠してある。あの時、せめてアリーチェがいる間は銃を手にするべきではなかった。習慣とはいえ考えるべきだった。
 あれさえなければ。あれさえ──違う。本当は知っている。切り捨てられない自分が一番の罪人だった。傷の手当がどうした? そんな理由でたかが仕事先の女を家に入れるべきではなかった。
 ああすれば良かった、こうすれば良かった。そんな過去への仮定は無意味でしかない。敢えて考えないようにしていたのに、妹という存在がそれを許してくれなかった。何もかも切り捨てることができれば。出会う患者のこと以外、何も考えないでいられれば。だがそれはできないことだ。自分がそこまで何もかもを捨て去ることができないなどと、自分がよく知っていた。捨て去ることができるほど器用なら、こんな生き方をしているはずがない。
 そうだ。よく知っている。銃を向けた時のあの顔。無表情だった。だが知っていた。彼女は傷付いた。それから過去の大きすぎる傷を口にした時、彼女は傷付いた。あの時、なぜ自分は抱き締めてやらなかったのか。──簡単な話だ。本能が覚えている、決して忘れられない記憶が銃を手に取った。動くなと怒鳴った、全ての責任を過去の記憶に押し付けて、抱き締めなかったことを、さよならと言った彼女を引き留められなかったことから目を背けたかっただけだ。
 自分を過去の悪夢から守ろうとしたのだからそれは正しかったんだ。自分の中の理性がそう言ってくれる。だが違う自分が顔を出す。そんなのは彼女に関係ないだろう。彼女が傷付かなきゃいけない理由なんかどこにあった? どこにもなかった。おまえが、俺が悪いんだ。見知らぬ美しい女と一緒にいた自分の男に銃を向けられて、傷付かない女なんかいるはずがないだろう。動くなと怒鳴られて、傷付かない女なんかいるはずがないだろう。見ただろう。覚えてるだろう。俺の手にあった銃を見る、あの可愛い女の泣きそうな目を、さ?
 ちくしょう。呟いた。ちくしょう、──ちくしょう。こんな歳になって馬鹿馬鹿しい。俺に別れを告げた女なんか切り捨てればいい。そうだ、詫びは終えた。転院の手続きの根回しをしてやった。ワシントンの陸軍病院に転院だなんて、いくらあの女でも簡単にはできない。それを俺はやってやった。それで充分だ、充分だろう。そこから先は──国のためなら何でもするような気狂いがそこにいても、どんなことがあろうとも、俺が関知することじゃないんだ。もう終わったんだ。
 どうしてこんなことで。何度も自問する。どうしてこんなことで、俺は──
 何度自問しても答えはひとつしか出なかった。分かってる。ああ、分かってるよ。
 俺はあの女を愛してるんだ。別れを告げられても。俺が悪かったとしても。
 未練がましくあの女をまだ愛していて、どうか傷付かないように、これ以上苦しまないようにと、必死で願う自分が滑稽で、愚かだと思った。
 滑稽で愚かだと思うくらいなら、最初から守り切れば良かったのに。もしくは──愛さなければ良かったのに、と。


 幼馴染は淡々と事実を告げた。いくらだ、と問うと、クロちゃんから金なんかもらえるはずがないだろう、と少し不機嫌な声で言われた。こんな時、幼馴染はどうしてこんなにも甘やかしてくれるのかと思う。
 いつか報いが来るのだろうか。いい気になって愛する男を作ってしまった時のように。
 ねえ、と幼馴染は言った。
『少しこっちに来たらどうだい。慣れてないだろ』
「慣れてないって? 何が?」
『失恋さ。悪いことじゃないけど、クロちゃんはそういうのを処理するのが苦手だって知ってるよ。こっちで少しゆっくりしなよ。可愛いおくたんも連れて来て、しばらく何もしないで過ごしてみるといい』
 仕事があるんだよ、とBJは言った。そうか、と幼馴染は言った。それ以上押し付けない声だった。だから素直に言えた。
「ありがと、間久部」
『何言ってんのさ』
「いつだって感謝してるし、どう伝えたらいいか分からないんだ」
『やめてくれ、素直で可愛いクロちゃんなんて雨が降りそうだ!』
 電話の向こうで彼が軽快な笑いを演じてくれた。ありがと、と心の中でまた呟いた。
 いつかこの幼馴染とも永遠の別れの時が来るのだろうか。一度BJに裏切られたと言っても誰もが納得せざるを得ないはずの彼は、なぜ自分を責めずに今も無償の心を傾けてくれるのか。理由は分からなかった。だがこの幼馴染はいつか自分を打ち捨てるまで、自分を無償で愛してくれることを知っていて、それに感謝しながらも利用する自分が愚かで醜く思えて仕方なかった。
『ちょっと、クロちゃん』
 不意に幼馴染が戸惑った声で呼びかけて来た。こんな声は珍しい。どうしたんだと問う前に、彼は言った。
『そんなに辛いなら、あの死神のとこに行ってさあ、抱いてェー! って言って来なよ』
「……セクハラはいらねえぞ」
『セクハラじゃないってば。セックスって即物的だけどさ、即物的だからこそ飛び越えられるボーダーラインってあるんだよ。──こんなこと言って自分でも驚いてるけど、やっぱりクロちゃんが泣くのは嫌な意味でたまんないや』
 BJは笑った。そこでようやく、自分が泣いていたことに気付いた。幼馴染の声にこんなにも、心を慰撫する力があったのだと子供の時以来に思い出した。
「間久部」
『何だい?』
「ごめんね」
『ありがとうって言ってね。クロちゃんは何も悪いことをしちゃいないんだからさ』
 そうなのかな、悪いことをたくさんしてるんだけどな、とBJは言った。全然知らないから俺の中では一切そんな事実がないね、と幼馴染は答えた。ありがとう。BJは言った。ありがとう。
「ありがと。──わたし、凄く幸せな人間なんだね」
 幼馴染は少し黙った後、これ以上ないほどに優しい声で言った。
『俺に聞かせる言葉じゃないよ。分かってるよね?』
 分からない。BJは言った。分からない振りだった。幼馴染は少し悲しそうに、いいんだよ、分からない振りなんかしなくていいんだ。そう言って電話を切った。


「隊長、すげえ機嫌悪くねえ?」
「だよな、近年稀に見るくらいのアレ」
「女かな?」
 年上の部下たちがからかい半分、本気で気にしている風情半分で軽口を投げ付けてくる。グラディスは「まあね」と言っただけで黙っていた。
 ソ連の情報部員にたぶらかされ、国家機密を流したと推測される女を陸軍病院に転院させるよう、フォート・デトリックの全てを知る死神に要請された。それはむしろ喜ぶべきことだった。軍の管轄下に入るのなら監視の手間が省けると思ったのだ。
 だがあの死神は正面から脅しをかけて来た。──心臓移植の順番待ちは相当かかるようだな。国の都合と倫理、どちらを優先するかは俺の知った話じゃあないが、俺としては主治医が納得する方を期待したいところだよ。そう言えばフォート・デトリックの件で気になることがあるんだ、おまえさんの右腕と胸の具合はどうだ?
 つまるところ、倫理にもとる行為を確認次第、フォート・デトリックの件を世間に詳らかにするという脅しをかけてきたわけだ。殺してやろうかと思ったが、あの死神のことだ、自らが死んだ時、それこそ米国が隠しておきたい件が世間に公表される手段を既に手配しているに違いない。
「振られた女に尽くす男ってさあ、世の中のスタンダードなわけ?」
 年若い隊長の不特定多数への質問に、隊員たちは顔を見合わせた。その中でも年長の隊員が代表して答えることにする。
「一回振られてみりゃあ分かるんじゃねえの?」
「じゃあ当分分かんないや」
 役立たずばっかり。グラディスがそう言うと、隊員たちは笑った。
 だが死神にキチガイと言われた気狂いは考えていた。──倫理にもとる? 倫理? 倫理って何だ? 自分の女も守り切れない男が考える倫理なんて、一体何の価値があるって言うんだ?


 陸軍病院への転院を急いだのはソフィアの体力を考慮してのことだった。少しでも体力が残っているうちに転院し、環境に慣れさせながら術前検査をする必要がある。BJとしては延命処置のための手術を一両日に行いたかった。
 半日かけて車で移動したワシントンの陸軍病院では、既に受け入れの体制が整っていた。BJが驚いたのは既にサポートチームが発足していたことだ。何もかも一人で行う覚悟さえあったのに、まさか到着するなりチームを紹介されるとは考えてもいなかった。
「先日のホワイトハウスの一件の恩人が来ると言うなら、軍としてできる限りの協力をするのは当たり前です。恩返しのチャンスを狙っていたんだ」
 チームの一人である医師が言い、BJに手を差し出す。BJは微笑んでその手を握り、彼らが頼れるチームだと直感した。
 ソフィアの容態を確認し、問題がないと分かってからチームでのミーティングを行う。BJが説明する術式に彼らは唸り、あるいは眉を顰め、最後には感嘆の溜息をついていた。執刀は無論BJで、チームメンバーは徹底したサポート行う立場であると納得していた。
「正直な感想としては」
 第一助手を務める医師が言った。
「僕なら無理ですね、この手術。心臓まで3分で行くなんて考えられない」
「余裕を持たせてるよ。最速で2分だ」
「──神よ」
 彼は呻き、他のメンバーたちも似たようなものだった。だがBJへの敵意が一切なく、BJ自身は普段よりも気を回す部分が少なくて済むことが分かり、手配をしてくれたグラディスに礼の電話をしようと思った。本当に手配をしたのは他の人間だと知っていても。
「ただ、心臓移植が出来る可能性がないとは言い切れないですよね。天文学的な確率になりますけど、臓器バンクに登録している以上、どうなるか分からない」
「そうだな。その時には問答無用で移植手術をする」
「可能性を考慮すると、オペのタイミングによっては相当な負担がかかりますよ。今回のオペの直後に移植が実現するとなったら──体力はどうですかね」
「だから今回のオペで心臓まで3分なんだ。閉じるまでの時間が短ければ短いほど体力を温存できる」
「理屈としては分かりますが──」
 反論から議論になっても、チームの空気が悪くなることはなかった。誰もが納得した上で自分の仕事を果たそうとしている。これなら安心だとBJは判断し、ようやく一息つけるような気がした。
 ミーティングを終え、ソフィアの様子を見に行く。移動で疲れたのか眠っていた。転院直後にはなかった小さな花束を窓際に見付け、誰かが来たのだろうかと訝しんだ。ソフィアには身内がいない。数少ない友人たちとはアレンの一件の直後から連絡もしていないと聞いた。誰だろう。考える間もなく、背後の扉が開いた。振り返り、溜息を堪えた。
「ソフィアの見舞いか」
 花を活けるための花瓶を手にした男はBJの問いに僅かに頷き、窓際の花を手際よく飾る。死神はこういったことが得意で、そしてセンスがいい。それを知っている自分が嫌になる。
「眠っているから放っておいてくれ」
「先生も外した方がいい」
 そのまま病室出るキリコの背中にBJは今度こそ溜息をつき、ソフィアのバイタルを素早くチェックしてから、やはり病室を出た。そこにキリコがいなければ良いと思ったが、その願いはあっさりと打ち砕かれた。
「ユリがうるさい」
「何の話だ」
「先生ともう一回話せって」
「私は話す必要がないと思うし、今はソフィアのことで精一杯だ」
「俺は分からない」
「──え?」
 キリコはBJを見ていなかった。俯き、BJを視界に入れないようにしていることが分かる。こんな姿を見たことがなく、BJは戸惑い、同じように彼から目を逸らした。
「話をする必要があるのかどうか、俺には分からない」
「じゃあ話さなくていいと思う」
「──If you say so」
 あなたがそう言うなら。──その瞬間、BJは怒りを自覚した。止められなかった。怒鳴らなかっただけ褒めて欲しいと思ったほど、感情に身を任せた。避けられたはずの男は女の平手打ちを甘んじて頬に受け、いてえ、と呟いた。
「最低野郎」
「知ってるよ」
「何が分かる」
「分からない」
「じゃあ、分からなくていい。話さなくていい」
「どうして?」
「分かる気もない、話す気もないんだから。そんな男と話す時間なんてないし、意味がない」
 キリコは唇の端を拭い、BJの平手打ちで血が出ていたことをようやく知った。舌でぺろりと舐めてからBJを見た。頬が紅潮しているのは怒りだろう。捨てたはずの男がよくものこのこと──そんな感情なのかもしれない。
 だが本当の感情など分かりはしない。だからキリコは言うしかなかった。
「意味がある時しか、話しちゃいけないのか」
 BJは眉を顰め、男の言葉を考える顔をする。キリコは続けた。
「分からないことがあれば、話すことがあれば、俺かおまえのどちらかがそう思うなら、話すべきだし──話すべきだったんだ」
 馬鹿な遊びを仕掛けたのはどちらだったのだろうか。最初は単なるカモフラージュだった。いつの間にか愛し合う恋人同士の真似が楽しくなって、ボーダーラインで言い訳をしながら、これは演技だ、遊びだと自分たちに言い訳をしながら遊び続けた。
 今になれば分かる。その場しのぎの会話すらしなかった。演技だから、遊びだから、相手もそう思っているから。それは言い訳にすぎなかった。言い訳であることも分かっていたのに目を逸らして、逃げていた。
「さよなら、っておまえは言った。でもおかしいと思わないか」
「……何が?」
 BJの声は絞り出したかのように掠れていた。乱れる感情を抑えているからだ。それが分かり、俺はこんなことまで分かるのに、どうして肝心なことが何ひとつ分からなかったのかとキリコは思う。
「始まってもいなかった」
 愛していると言いながら、愛し合わないと決めながら、そんなものは一人の感情だ。相手の心が分かっていても、結局は一人きりの感情にすぎなかった。
「関係が始まっていたわけでもないのに、さよならって? 勘違いじゃないか」
 再びBJの顔が紅潮し、キリコは自分の言葉の選択ミスを認めた。そうじゃない、と言った。
「おまえの勘違いじゃない。俺とおまえの勘違いだ。何で俺はおまえを俺の女だなんて思えたんだ?」
「知るもんか。私に訊くなよ」
「じゃあ何で、おまえは俺の女の顔をしていた?」
 BJが唇を噛み、視線を逸らせた。ああ、とキリコは思う。ああ、この女を知る誰もが、きっとこんな顔を見れば意外に思うんだろう。視線を外して答えを躊躇うなんて。でも俺は知ってる。初めて見たこんな顔でも、こんな顔をするこいつが全く不思議じゃないし、意外じゃないって。
「俺を追いかけて空港に来て、ワシントンまで一緒に行って、急な仕事で置いて行かれるからって馬鹿みたいに拗ねて、まるで俺の女じゃなか」
「答えなきゃいけないのか」
「知りたいね」
 BJは黙り、目を逸らせたまま、また唇を噛む。顔はまだ赤い。怒りなのか、それとも別の感情なのか、そこまではキリコも分からなかった。
 やがてBJは言った。その声が震えていたことに、キリコはどんな顔をすればいいのか分からなかった。
「──したかったから、したんだ」
「意味が分からない」
「好きな男と少しでも離れるのが嫌だった。迷惑だったら悪かったよ」
「そんなこと言ってない」
 キリコは全力で自分を制した。嬉しいと思った自分がいた。今すぐここで抱きしめたいと思った自分がいた。だが今はその時ではないと思う自分もいた。
「分からないのは私もだ。何であんなことしたのか分からない。馬鹿みたいだ」
「俺が好きだからだろう?」
「知ってるくせに」
「知らなかったよ」
「嘘ばっかり」
「知らなかった。──俺を愛してるのは知ってた。でも、そうだな、──いわゆる恋をしたかったなんて、知らなかった」
 そんな感情があったなんて。おまえに。それから──
「俺もそうだったんだろうな。きっと」
 いい歳をして。それは自分への言い訳だったし、子供でもない歳から始める恋の面倒さ、ある意味では恐ろしさを予想して、敢えて考えなかっただけだ。全くの他人から手を繋ぐまでの時間、少しでも離れたくないと熱に浮かされる時間、少しずつ愛に変わって行く時間、きっとその間に起こり得る行き違い、生まれるであろう哀しくなる瞬間、相手との恋を愛として育てて良いのかを悩む時間。
 その全てから目を逸らして、逃げていた。
 愛している、愛されていることだけを、物分かりの良い大人の振りをして眺めていた。
 全くの他人から始めるにはあまりにも立場が違いすぎた。譲れないものが大きすぎた。だが今なら分かるのだ。
 言い訳だ。全て言い訳にすぎなかった。
 恋すら満足にできていなかった二人が愛しているなんて、何て滑稽だったのだろう。
「馬鹿みたい」
 BJが言った。泣き声だった。そうだな、とキリコは言った。それから、ごめんね、と言った。
「俺が馬鹿だった。おまえも馬鹿だった。それに気が付かなくて悪かったよ」
「私は馬鹿じゃない」
「そうか。じゃあ俺だけが馬鹿でいいよ」
 大粒の涙が零れ落ちる頬に手を延ばす。この頬に触れることには慣れているはずなのに、なぜか今、とても緊張した。指先が震えないように見栄を張る自分に笑いそうになった。
「ごめんね。俺が悪かった」
「いつもキリコしか悪くない」
「そうなのか」
「いつもそうだ。──自分ばっかり悪いって言う。だから私はいつも謝れない」
 どうしたらいいのか分からなくなる。BJはそう言った。ごめんねとまた言いかけて、キリコはその言葉を飲み込んだ。
「私が言いたいことを、ごめんって言葉で封じてしまうのは、やめて」
「──分かった」
 ボーダーラインの嘘でも演技でもない、少しばかり女めいた言葉に頷く。拗ねた女の声になりかけていることに、それを可愛いと思えたことに安心する。
「本当は怖かったから、追いかけた」
「──怖かった?」
「キリコの周りには綺麗な人ばっかりで。日本人じゃなくって。白い肌の、綺麗な」
「誤解もいいところだ。人種なんか関係ないだろう、俺は──」
「ユリさんとグラディスと、キリコと。あのフラットにいる時、何だか急に怖くなってしまって」
 何が、とキリコは出来る限り優しい声で問う。怖いと言う言葉を口にするBJを見たのは三度目だと思い出した。慣れていなかった。だがこれから慣れて行くのかもしれないと思えた。
「みんなこの国で、綺麗って言われて、大切にされる肌の色で、全然人見知りじゃなくって、社交的で。私は日本人で、こんななりで、それにどうしても、仕事の時以外は少し人の目が嫌で──ユリさんやグラディスみたいに、たくさんのことをすぐに言えない」
「それがどうして怖い?」
「警官は誰に銃を向けた?」
 その顔が余りにも悲痛で、余りにも可哀想で、そして余りにも申し訳なくて、キリコは静かに「そうだな」と返すしかできなかった。悲痛な顔のままBJは頷いた。
「それなのに、キリコはどうして私を愛してるんだろうって、急に思ってしまって。だから怖くなって。だから追いかけた。そうしたらあんなことになって、あんな話もしてしまって」
 あんな話。A州で──キリコは思い出さないようにした。BJが話したいと言うなら聞くが、自分から聞きたいなどとは到底思えなかった。
「どうしたらいのか分からなくなって、もう、──どうすれば良かったんだろう」
「またごめんって言うけど、これは言っていいな。ごめん。あれは俺が全部悪かった」
 BJは答えなかった。あの時の衝撃を思い出しているのだろうとキリコには分かり、後悔するしかなかった。きっと彼女が思い出していると気付くたびに、これからも後悔していくのだろう。
「どうしたらいいか、分からない。好きだし、好きなんだと思うし、きっとキリコと恋をしたかったんだと思う。でも、もうどうしたらいいか分からない」
「俺も実のところ、分からない」
 キリコは苦笑した。BJも泣いた顔で少し笑った。ああ、可愛いな、とキリコは思った。
「でも俺は、──そうだな、手を繋いで歩いたのは楽しかった」
「私も」
「ガキ以下だったけどな」
「それでも楽しかった」
「そうだな」
 キリコは息を吐く。BJも同じことをした。それから急に気まずくなり、二人して少し笑う。それでも嫌な気まずさではなかった。
 誰かが見ればただの痴話喧嘩だと言ったかもしれないし、闇の中に生きる人間としては余りに幼稚で情けない時間だったかもしれない。だがそれでも満足した。相手も満足したことを互いに理解していた。
「先生」
「うん」
「今日はもう帰るよ。宿は?」
「当分ここに泊まり込み」
「そうか。また連絡するし、顔を見たくなったら見に来る」
「うん」
 BJは返事をし、それから、私もそうする、と言ってキリコを微笑ませた。
「正面玄関まで送ってくれよ」
「──うん」
 キリコにしては珍しい要求だが、言いたいことを言い合った今、少しばかり互いに寄り掛かった気分になっていることは確かだ。BJも納得して頷いた。
「分からなくても、何とかなるさ」
 キリコが言った。BJは僅かに考えて、そしてすぐに考えることを放棄し、うん、と頷いた。二人して無責任でいい加減だと思ったが、それの何が悪いかも分からなくなっていた。
 その片手をキリコが取り、BJは照れ隠しのように唇を噛み、絡められた指を絡め返して、並んで歩いた。