入院病棟に入り、看護師姿のユリを見付けて、眉を顰めて笑ってしまった。ユリは泣きそうな顔で笑ってくれた。
「おはようございます、先生。ここでお仕事ですか?」
「そういう話になるかも。ユリさんがここで働いてたなんて知りませんでした」
「わたしだって、先生がこの病院にいらっしゃるなんて驚きました。何かあったらおっしゃって下さいね」
「ありがとう」
ユリはそのままBJを見送った。重症患者、そしていわゆる「訳あり」の患者のためのエリアに歩いて行く後姿に、おそらく最上階の一番奥の部屋に隔離されるように入院している患者だろうと予想をつけた。あの患者は長くない。心臓移植をしなければ確実に死ぬと言われていた。
──先生なら、どうなさるのかしら。
ユリの疑問など知る由もなく、BJは指定された部屋へ向かう。一目で軍人だと分かる男たちが私服で警備をしていたが、挨拶する理由もなく、彼らの一人にボディチェックを要求されるまでごく普通に歩いた。そしてコートを脱ぐように要請され、おまえさんたちに何の権限があるんだ、強気に返す。彼らは無線でしばらくどこかと通信していたようだが、やがて、コートに関しては失礼した、どうぞ中に、と打って変わって丁寧な態度で通された。
患者はソ連の情報部員に誑かされた情報漏洩者で、現在完全に監視下に置かれている。軍人はCIAあたりと連絡をしていたのかもしれない。
患者は美しい女だった。誰もが彼女に目を奪われるような美貌は典型的な白人女性で、進行する病気で血の気が失われ、ある意味では神秘的な青白さが整った目鼻立ちを際立たせる。
「依頼をありがとう、ブラック・ジャックです」
「来て下さってありがとう。酸素マスクが必要になる前にお話できて嬉しいわ」
「起き上がらないで。そのままでお話を」
「起き上がれるうちに起き上がりたいの。これからはできなくなるんだもの」
制止を受け入れなかった彼女にそうですか、と答え、BJは室内にあった椅子をベッドの脇に置いて腰掛ける。
「改めて。ソフィアよ。よろしくお願いします」
「お名前をありがとう。ではソフィア、あなたのカルテを見せて」
一度見ているが、今はソフィア個人の依頼だ。形式としても改めて目を通したかった。目の前で医者がカルテを見れば、患者が安心することも知っていた。ソフィアが用意していたカルテは多くの部分が塗り潰されていた。病院側の抵抗であることをBJは見抜き、国家権力と無免許医に振り回される彼らが少し気の毒になった。だがそれはすぐに怒りにも似た感情に打ち消される。──患者が外部に助けを求めるほどに切羽詰っているのに、どうして邪魔をするんだ。おまえたちじゃ救えやしないくせに。
「塗り潰されてるでしょ。わたしもびっくりしたの」
「問題ないですよ。実はあなたのカルテ、もう先に見せられたから」
「一応訊こうかしら。誰に?」
「あなたの回復を望む人」
「CIAか軍人ね。わたしが生き延びればソ連の情報を引き出せると思ってるんでしょうから」
「私に見せたのは軍人だったけど、それは病状には関係ないでしょう。私の頭の中にあなたの病状が書き込まれている。それだけの話だから」
ソフィアは微笑んだ。患者が医者を信頼する時の微笑み方だった。
「それで、どうなの。わたしは生きられる?」
「何もしなければ余命2ヶ月、外科的処置でもう少し長く。どちらにせよかなり長く、となると無理でしょうね」
「はっきりおっしゃるのね」
「そういう方針だから」
「どうしても無理? 生きられる可能性が上がる方法はない?」
「心臓移植をすれば。でもその心臓はきっと、あなたの余命には間に合わない」
「──そうかあ。仕方ないか。わたし、それだけの罰を受けるようなことをしたんだから当たり前ね」
「罰として与えられる病気なんざありませんよ。勘違いしなさんな」
言いながら、BJは彼女の外科的延命処置について考える。グラディスに話を聞かされて以来、既に何度かシミュレートしたが、処置そのものについては問題なかった。気になるのは彼女が正式に依頼をするかどうかだ。
「あなたの症状で可能な限り長く生きる方法を考えると、どうしても外科手術は必要です」
「分かりやすく言ってね」
「努力しましょう」
資料を出し、専門外の人間が分かるように丁寧に説明する。ソフィアは賢い女性だった。たまに質問をする以外には特に口を出さず、自分の残りの生命の行方を考えている顔をBJに見せ続けた。
「これが成功すれば、退院できる?」
「──回復すれば、私が退院許可を出すことができるでしょうね」
「もったいぶった言い方ね」
分かっていながらソフィアは笑う。BJは困った顔で笑い返した。
既に情報漏洩者として身柄を抑えられているソフィアが、たとえ退院できるまでに回復したとしても、余命の間に外に出られることは決してないだろう。情報を絞り取られるだけ絞られ、そのまま朽ちて行くだけだ。
「アレンにもう一度、会いたいの。ソ連に帰っちゃったんですって。お別れもできなかったわ」
「そう」
彼女を騙していたソ連の情報部員の名前だろう。確実に偽名だと予想できるが、BJは頷いておいた。
「一度だけ会わせてくれたら何でも喋るって、外にいるあいつらに言ってくれない? あいつら、信用しないのよ」
「私はそういうことに関わらないことにしているから、それはできない」
「嫌な目に遭ったことでもあるの?」
「それなりに。あなたに比べればきっと大したことじゃないけどね」
「人によって大したことって違うわよ。そんな言い方しちゃ駄目だわ」
返事に困り、BJは溜息を堪えて頷いておいた。柔らかい物言いと人好きのする笑顔が乗るソフィアの美貌は、きっとどんな人間──それこそ男女を問わず──の心をも掴んでしまいそうだと思った。
「すぐに結論を出せとは言わないけど、あなたはあまり時間がない。私に依頼するかどうかもう一度考えて、でも、できれば早めに連絡を頂きたいんです」
「お願いするとしたら、おいくら?」
「日本円で三千万円。最近のレートなら15万ドルくらいかな」
「ああ、それなら平気。小金持ちなの」
株で当てたの、とソフィアは教えてくれた。疑う要素はなく、BJは現実的な問題をクリアできそうなことを喜ぶ。
「先生はこの手術、やりたい?」
「依頼内容と報酬が釣り合えば、私はどんな手術でもしますよ」
「違うわ。やりたいか、やりたくないか。やりたくない手術だったら怖くてお願いできないもの」
「……そういう発想はなかったなあ。やりたくない手術なんて滅多にないし、うん、その言い方に準ずるなら、やりたいですね」
「そう」
ソフィアはまた笑った。BJもつられるように笑った。魅力的な女性だ、と思った。
「来て頂いて申し訳ないんだけど、もう少し時間をくれる? 先生を信用しないわけじゃないの。分かってくれる?」
「もちろん。いつでも連絡して下さい。どこにいても、どんな時間でも飛んで来るから」
「素敵。──入院して初めてよ。そんなこと言ってくれる先生」
何を言えばいいのか分からなかった。いつもなら何かしらの言葉をかけてやれるのに、今は何も言葉が見つからなかった。だから普段は決して患者にしないことをした。
「ありがとう。──泣いちゃいそう。これだけでも先生にお会いできてよかったわ」
アレンがいなくなってから、誰もこんなことしてくれなかったの──ソフィアは笑いながら泣いて、進んだ病気のせいで力が入らなくなった腕に必死の力を込めて、抱き締めてくれたBJを抱き返した。
「もう少し一緒にいましょう」
BJは言った。
「不思議なんだけど、これだけでもね。──ひとりで泣くより、寂しくないんですよ」
ソフィアは何度も頷き、それからしばらく泣き続けた。
ソフィアの病室を出て正面玄関へ向かう途中、またユリに会った。暇でもないだろうに、ユリはBJを見付けると速足で近付いて来る。
「先生、お話は終わりました?」
「ええ。保留になったから、これからどうなるかは分からないけど一応。──私とあまり話さない方がいいですよ。私を嫌う人の方が多いから、どんなとばっちりを受けるか分からない」
「じゃあわたしも嫌われればいいだけですから、そんなことおっしゃらないで。好きな人とは話したいの」
堂々とした宣言にBJは苦笑する。自分も開き直って似たようなことを言うことはあるが、彼女のような自分に自信があるからこその言い方とは違うと思った。
「にいさんに連絡先──お泊りのホテルを教えていいですか?」
BJは彼女を傷つけないよう、辛うじて笑顔を作れた。彼女を嫌いになりたいわけではなかったし、嫌われたいわけでもなかった。
「私たちは元々、付き合っていたわけでも何でもないから。教える必要なんかないんです」
「分からないわ。あれで付き合ってなかったなんて、じゃあ、にいさんは先生を都合よく扱っていたってこと? それともその逆?」
「やめましょう。もう終わったことなんですから」
「終わったことなんて、それなら付き合ってたってことじゃないですか」
「──お願いだから、もうやめて。元々おかしい関係だったんだから。昔に戻っただけ。これが正しい関係なんです」
「正しいって──」
「どこかで会って、話をする必要があればするし、必要がなければしない。それだけです」
「先生、でも」
「お願い。──あなたにまでさよならを言いたくないんです。私に親切にしてくれる人にお別れを言うのはとても辛い」
そう言われればユリは黙らざるを得ない。やがて同僚の看護師に呼ばれ、今行くわ、とユリは返事をするしかなかった。その返事が終わらないうちにBJは歩き出し、あの優しくて、細いのに節くれ立った男らしい指と、もう二度と触れることがないのだと決めてから初めて思い起こした唇の感触が蘇るような気がして、大きく息を吐き、忘れるようと努めた。今は患者のことだけを考えるべきだと自分に言い聞かせた。
公衆電話からフランスに電話をかけた。電話先の幼馴染は久し振りの連絡に喜び、それからすぐに、何を知りたいんだい、と核心を突いてくれた。無駄が省けてありがたい。
「アメリカに潜り込んでたソ連の情報部員のさ。アレンって名前。まあ偽名なんだろうけど。生きてるかどうかだけ確認してくれないか。私は接触しない、とにかく生死だけ」
『いつまで?』
「早ければ早いほどいい」
『いいよ、調べさせる』
「ありがと」
二つ返事で引き受ける幼馴染に礼を言い、電話を切ろうとしたら、彼は急に何かを面白がる声になった。
『あのベトナム帰りの死神と別れたって本当?』
「もう回ってんのか。昨日の話だってのに何て速さだ。──ってか元々付き合ってなかったし、別れるも何もあるもんか」
『情報は鮮度が命だしねえ。付き合ってなかったってのは意外すぎ』
「予想を裏切って悪かったな」
『まあ、確かにあいつが前に遊んでた女のタイプって分かりやすい白人の巨乳が多かったからさあ、何でクロちゃんなのかなーってずっと思ってたんだ。だって人種はともかく、クロちゃんのおっぱいって巨乳ってほどじゃ──』
「次は指じゃなくてキンタマを切るぞ、さっさと調べろ!」
電話を叩き切り、いつかこの幼馴染を正面から殴ってやるべきだと考える。だが彼が敢えておどけた態度でいてくれたことも充分すぎるほど分かっていて、もしかすると自分は幸せな人間なのかもしれない、と思えた。
翌日、ユリは同僚に「あの人、あなたに似てる」と言われ、彼女が示す男性を見て呪いの言葉を口にした。小さな花束を持った兄は明らかに自分に気付いたが、風景の一部として認識したにすぎない態度で入院病棟の方へ歩いて行く。今、医者の目をしたわ、と看護師の妹は一気に腹が立った。この時代、看護師を風景だと思っている医者は少なくないし、兄もそのきらいがあることは充分に分かっていた。
「ミスター、失礼しますわ。そちらは入院病棟です。お身内がいらっしゃるの?」
背後からわざとらしく声をかける。兄は足を止め、うるせえ、と呟いたようだった。ユリは更に腹が立った。──振り返りもしないなんて、わたしに何か言われるって分かってるからだわ!
「ワシントンからわざわざお越しになられたようですけれど、行先が違うのではありません?」
「私の行先は私が決めますよ、看護婦さん」
その呼び方にユリは唇を噛み、それから聞こえよがしに溜息をついてやった。看護婦という呼び方が女性差別だと叫ばれ始めている昨今、ユリももちろん同意だ。それを揶揄するかのように、兄はわざわざ自分を看護婦と呼んでみせた。
「わたしの気分を悪くさせようったってそうはいかないわよ。先生と別れた話を聞いた時からとっくに気分が悪いんだから」
「当事者より引きずる奴も充分気持ちが悪いな」
「にいさんは引きずってないとでも? 言ってりゃいいわ。──にいさんが行こうとしてる部屋は分かってるわよ。ソフィアでしょ?」
ようやくキリコは振り返り、妹を見た。妹は兄の顔がまだ死神のものではないと分かり、安堵する。良くも悪くも今日は話を聞きにきただけなのだろう。
「おまえの担当か?」
「違うわ。ここはオペ看で契約してるから、病棟の担当患者は持たないの。その代わり、時間が空いてる時に呼ばれればどこにでもヘルプに入ることになるけど」
「だったらオペに備えて待機しているべきだ。呼ばれない限り病棟をうろつくんじゃない。万一の時、不測にならない保証はない」
急な説教にユリは眉を顰めたが、だが確かに兄の、医者の言うことは正しいと思った。素直に「分かったわ」と答えると、キリコはそれ以上何も言わずに病棟へ向かおうとした。その背中にユリは言葉を投げ付けた。
「昨日、先生が先にいらして話をお聞きになってるわ。きっとにいさんの出番なんてありませんからね!」
うるせえ、と兄がまた呟いたような気がした。
ソフィアは正直に、「昨日はBJ先生にお話を聞いたの」と申告した。そうですか、とキリコは優しい死神の顔と声で言った。BJと──他の医師と天秤にかけられていたとしても、気分を害したことは一度もない。よくある話だ。その上で死神のエスコートを選ぶと言うのなら、その瞬間から全身全霊で患者を愛し、最期まで手を離さない約束をするだけだった。
「ドクターはどう? わたしはBJ先生とドクターのどちらに相応しい患者だと思う?」
「どんな患者が誰に相応しいか、と言うのは、患者本人だけが決めることです。私が何を言う資格も必要もありませんよ」
「そうなの?」
「あなたの病状で、あなたがどんな人生を送りたいか。それで決めれば良い。私は殺すためにあなたのもとに来たわけではない」
「でも、安楽死の専門医なんでしょう。殺すのではないの?」
キリコは微笑んだ。よく訊かれることだった。そして、この女は俺の患者にならないだろう、と思った。
「どんな人生を送りたいか。あなたが決めて、私の手が必要だと言うのなら、私はあなたの人生に最期まで添うでしょう。それは私があなたを殺すことでもなければ、無論あなたが自殺するということでもない」
「そうなの?」
「自然の営みの中で誰もが迎える瞬間をあなたが決めて、少し踏み出すために、私がお手伝いをするだけの話ですよ」
ソフィアは静かに聞いていたが、やがてふっと笑った。
「何だか難しいわ」
「それは失礼」
「でも、心地が良いわ。ドクターの声は凄く優しいのね」
「ありがとうございます」
「昨日いらしたBJ先生もね、優しかった」
「そうでしょうね」
「ご存知なの?」
「狭い業界ですから。あなたのように、私と同時に呼ぶ人も多いですよ」
そうなの、とソフィアは驚き、それから急にばつが悪い顔をしてみせる。
「商売敵ってことかしら。失礼な真似をしてしまったかもしれないわ。ごめんなさい」
「失礼などでは全く。よくある話ですし──私がBJ先生に患者を紹介することもあるんです。そんなものです」
「患者を紹介? だってあの先生、延命処置もする人でしょう? 安楽死とは対極じゃない?」
キリコはBJの話をしたいわけではなかった。だがBJの話になった途端に輝いたソフィアの目を見て、ああ、あの女は既に患者を一人救っている、と思った。だからこそ自分はこの依頼を請けることはないだろうし、この患者も自分に依頼をすることはないと強く確信した。
「患者がまだ生きたいと願うのなら、私はBJ先生をお呼びします。彼女よりも優れた医者を私は知らない。──彼女は飛んで来ますよ。どんな時でも、どこにいても」
素敵ね、とソフィアは呟いた。そしてその瞳に涙を溢れさせた。キリコは敢えてそのままにしておいた。
「昨日、BJ先生がね」
「ええ」
「同じことをおっしゃったの。どこにいても、どんな時間でも飛んで来る、って。それから抱き締めてくれたの」
「彼女らしい」
BJが患者を抱き締めるという話は聞いたことがなかったし、医療現場でもそれは行き過ぎではないかと思われる行為だろう。だがBJが必要だと思って行ったのであれば正しかっただろうし、身寄りもなく、愛した男が敵国の情報部員で、今は置いて行かれて独りきり、その上で死を目の前にしているこの女の心を考えれば、キリコから見てもそれは批判するに及ばない行為だった。
「あなたに、私のエスコートは不要ですね」
キリコは言った。
「あなたは最期まで、自分の足で歩きたいのでしょう。BJ先生に支えてもらって、最期まで」
ソフィアは答えなかった。それがキリコへの答えだった。
「歩き疲れた時、また私をお呼びなさい」
そして微笑み、患者にはならなかったが、自分の手をひとときでも求めた対象に、死神は全ての愛を込めて告げた。
「生きなさい」
定期的に服用する薬の効果でソフィアが眠るまで傍にいた。完全に眠ったことを確認してから、眠ったままの彼女に深く礼をし、病室を出る。そして眉を顰める。
私服の軍人たちに交ざり、同じく私服のユリがいた。勤務上がりだろう。ユリは口を開きかけたが、キリコは人差し指を唇の前に立て、沈黙を要請して歩き出す。患者が眠っていると察したユリは頷き、兄に付いて行った。
「依頼は請けたの?」
エレベーターで二人切りになり、ユリが口を開いた。
「おまえに仕事の話はしない」
「請けたかどうかくらい、教えてくれてもいいじゃない」
「もうすぐクソビッチがひと騒ぎ起こすだろうよ。あいつの騒ぎ方は酷いぞ、一見の価値がある」
うるさそうに返すと、ユリはしばらく考えた後、じゃあ、と言った。請けなかったのね、そうなのね、と何度も問うが、キリコは答えなかった。ユリが嬉しそうな顔をする時は、キリコも兄としていつでも嬉しいのだが、仕事の話の時だけは見たくない顔だった。
「先生が騒ぎを起こすって、どういうこと」
「この病院じゃ手術はできない。あの状態で軍の監視付きの患者の延命手術なんてまともな医者なら御免だろうよ。転院させる云々でまず揉める。それから──まあ、色々あるんだ。根回ししておかないと。ったく、俺だって暇じゃないってのに。あの女は本当に手がかかる」
エレベーターの扉が開く。じゃあな、と言い置き、キリコは歩き出した。ユリはその腕に飛びつくようにして勢いよくしがみついた。エレベーターを待っていた患者や同僚たちが驚き、見目の良い大人の兄妹のじゃれ合いだと気付いて微笑む。兄は驚いていることも知らずに。
「愛してるわ、にいさん。ご飯奢らせてあげる!」
「前後の関係がおかしい、理解できない。俺はすぐワシントンに戻るんだ、そんな暇はない」
「わたしの中では繋がってるわ。ねえ、だって、にいさんが根回しするんでしょう?」
「──そんなことを言ったか?」
「言ったわよ!」
確かに言ったな、とキリコは後悔した。ついいつもの癖が顔を出した。一度関わった患者だし、今の仕事と両立できないわけでもない内容だし、と言ってもユリは嬉しそうで、あれが食べたい、これが食べたいと騒ぎ出したのだった。
本当に飛んで来てくれた、とソフィアは喜んだ。BJは笑い、約束したから、と答えた。それでソフィアはますます喜ぶ。
「全部お任せするわ」
「良かった。喜んで」
ソフィアは昨日よりも顔色が良く、想像する余命よりも長く生きられそうな生命力を見せつけていた。無論それは気のせいにすぎないのだが、生きる意志を持った患者が、予想よりもずっと長く生きるケースが多いことをBJは良く知っている。
「最期まで頑張りたいの。自分で、歩けるところまで歩いてみるわ」
「──最期まで必ず付き合いますよ。私の患者になったんだから」
あの男は鼻で笑うだろう。BJは死神を思い出した。所詮は延命に過ぎない、患者を苦しめるだけだ──そう言うだろう。だが今、最期まで、歩けるところまで歩いてみると言った患者の言葉を聞いても同じことを言うのだろうか。
不意にソフィアが声を上げて笑った。
「全然違うと思ってたけど、おんなじなのね」
「同じ? 何が?」
「最期まで添うって、ドクター・キリコはおっしゃったの」
咄嗟に言葉を失った。患者が既に安楽死医にコンタクトを取っていたことに少なからず衝撃を受けたが、よくあることだ、と何とか自分を落ち着かせた。その名前と、最期まで添う、と言う言葉は敢えて考えないようにした。
だがそれは患者が許してくれなかった。患者は無邪気に、信頼できる主治医に言った。
「それで今、先生は、最期まで必ず付き合うっておっしゃったでしょ。素敵だわ」
おんなじなの。彼女は言った。
「二人とも、最期まで、一緒にいてくれるのね」
おんなじなのね。先生とドクター・キリコはおんなじことを言ってくれたのね。
「わたし、きっと、幸せな生き方ができるんだわ。死に方じゃなくて、生き方が選べるなんて思わなかった。何て素敵なの」
こんなに嬉しいことはないわ。ソフィアは笑い、それから泣いた。笑いながら泣いた。
ああ、とBJは思った。
ああ、あの男は既に患者を一人救っていた。
泣きたくなった。
患者の前だけでは泣くものかと必死に堪え、ソフィアを抱き締める。
おんなじなのね。その言葉をどうやって忘れればいいのか分からなかった。
忘れればいいのかも分からなかった。
翌日、ユリは怜悧と言う言葉が相応しいほどに強い意思をたたえた顔で現れたBJが、ソフィアの主治医と喧々囂々を超えた勢いで口論し、怒鳴り合い、医者に、そして女性にあるまじき口汚さで交渉する姿を見た。休憩中の同僚たちと医局を覗きつつ、確かに一見の価値がある、と兄の評価に同意せざるを得ない。
主治医は優秀な男だったが、百戦錬磨のBJの口と押しにかなうものではなかった。BJの口から次から次へと飛び出す言葉は確かに汚いが、ユリは感心することしきりだった。相手を侮辱することを言わないわけではないものの、直接的に貶める単語を決して口に出さない。相手が民事的な名誉棄損を持ち出そうにも証明がしにくいのだ。
「私はソフィアから依頼されて請けた、それだけだろうが。ここじゃ生きられないって彼女がおまえさんたちを切り捨てたんだ、限界を認めてさっさと手を引くんですな!」
「冗談じゃない、彼女がどんな状態か分かっているのか!? 我々だって手をこまねいているわけじゃない、とにかく臓器移植以外で生きる道はない! あなたがすることはただの延命じゃないか!」
「延命中に心臓移植ができたらどうする? できなくたって、生きようとする彼女の心はどうなる? あの時彼女に手を差し伸べていれば、って、後悔した振りしてカルテを棚にしまって終わるんだろう? 『冗談じゃない』はこっちの台詞ですぜ!」
「延命措置の手術だとしてもかなりの難易度だ。絶対に許可できない、殺すつもりだとしか思えない!」
「──医者が馬鹿な口利いてんじゃねえ、二度と抜かすな!」
見ていただけのユリが身を震わせるほどその声は大きく、そして怒りに満ちていて、まるで吠えたと言っても良かった。こんなBJを見たことがなかった。いつもは少し人見知りで、何かを言われても言い返さずに引いてしまう時もあるほどなのに、今のこの姿はどうだ。
医者なのだ。ユリは知った。──この人は今、存在全てが医者なんだ。
「あんたじゃ殺すってんなら私に寄越せ! 私は生かす! 彼女は自分で最期まで歩くって決めたんだ、生き方を自分で決めた彼女の邪魔をするな!」
「いいか、現実的に考えろ! モグリは現実なんか考えないだろうがな! あの患者は普通の患者じゃないんだ、万一何かあったらどうするんだ!」
「万一があったら私が腹を切ってやるよ! ──ここでできないって言うならさっさと紹介状を書け、転院先は私が探す!」
「転院先なんか見つかるはずがない! どこの病院だって彼女の事情を知ったら──」
「あ、陸軍病院で預かるから気にしないで」
主治医はびくりと、BJはぎろりと、不意に立ち入って来た制服姿の赤毛の男を見た。ユリはまた驚いた。思わず「グラディスくん?」と呼ぶと、グラディスはユリに向かって手を振って笑う。
「わざとらしく制服なんか着やがって。何の用だ」
高揚した精神状態のまま問うBJの声は棘だらけだ。主治医は突然現れた軍人の襟に少佐の記章を認め、瞬時に戦闘意欲を消失する。制服と記章の効果を確認したグラディスはあっさり「転院しよう」と言った。
「ここで手術したら何やかやで面倒だ、ってドクターから電話があってさ」
「キリコから?」
「そうそう、先生の元彼」
「いちいちムカつくんだよ、口を縫うぞ」
「やなこった。──僕は医者同士のあれこれってよく分かんないんだけど、患者の生命より大事なものがあるなら仕方ないじゃない? 陸軍病院でもう準備してあるから、転院しちゃえばいいよ。ええと、いるものって何だっけ。これ、陸軍病院からもらったメモ」
患者の生命より、と揶揄された主治医は少なからずショックを受けた顔で、それでも突き付けられたメモを受け取る。BJは主治医の様子を見て冷静になった。主治医に同情するつもりはないが、部外者に言われると医者としてかなり堪える台詞であることは間違いなかった。
主治医は冷静になり、患者の容態と自分のキャリアを天秤にかけ、キャリアを取らざるを得ないと判断した。決して患者を見捨てるつもりはない。だが時として医師の熱を貫けないこともあると学んでしまっていた。
「BJ先生、あなたの勇気が羨ましい」
BJは答えなかった。言われ慣れているよ、と目で語った。
「メモにある通り、紹介状と意見書をすぐに書きます。彼女のカルテの写しも。BJ先生、必要なものは全てお持ちになって下さい」
主治医の声に滲み出る敗北感に気付かない振りをし、BJは頷いた。