抱き合いし恋人 03

 翌日、BJの朝一番の仕事はソフィアを訪ねて来た情報部員を叩き帰すことだった。事情聴取だと言い張ったが、許すはずがないと頑として突っぱねた。
「マンハッタンでも散々訊いて、何も成果がなかったんだろう。だったら諦めろ。これ以上は彼女の体調に障る。主治医として絶対に許可できない」
「国の急務だ。日本人には関係ない」
「日本人には関係なくても主治医にはあるのさ。手術前に患者の容態が悪くなったらどうしてくれる。さっさと失せな!」
「あなたにも少し訊きたいことが──」
「答えることなんざ何もねえ、失せろって言ってるんだ!」
 伝説の天才外科医の剣幕に陸軍病院のスタッフたちは顔を見合わせ、こりゃあすごい、と貴重なものを見た気分になる。明らかに軍人、あの患者が目的ならおそらく情報部員だと分かる相手に一歩も引かず、質問すら封じる勢いだ。
「とにかくそこをどいてくれ。悪いが、力尽くでも我々は許される資格が──」
「私に指一本でも触れてみろ、可愛い悲鳴を挙げてやる。得意だぜ?」
「それが何だ」
「ここをどこだと思ってる。陸軍病院だ。お巡りどころか武装した軍人がすっ飛んでくるぞ」
 散々怒鳴っておきながらこの言い草だ。だがにんまりと笑う女の顔は情報部員の神経を逆撫でし、野次馬になるしかないスタッフたちの溜飲を下す。
「大統領の命令でもお断りだ。もう一回だけ言ってやる、失せな」
 情報部員は暫く何事かを考えていたようだったが、やがて諦めたように頷いて歩き去った。スタッフたちは安堵し、それぞれの仕事に戻る。
「おはようございます、ソフィア」
「おはようございます。──すごい声だったわ。先生、強いのね」
 病室に入るなりソフィアが言った。BJは苦笑する。
「性分でね。大きな声を出してごめんなさい」
「いいのよ。頼もしいし、嬉しいわ」
 ソフィアの朝のバイタルチェックをし、現状では悪化の様子がないことを確認した。数日中に手術ができそうだ。延命処置にしかならないが、それでも生きるために力を尽くす彼女に敬意を抱いた。
「先生、少し病院の中を見てみたいの。しばらくお世話になるし、どこに何があるか知っておきたいわ」
「ああ、それもそうですね。──ええと、車椅子なら」
 どうしようかな、とやや迷った。看護師は忙しい時間帯だし、患者の雑務をしてくれるヘルパーも数が少なく、ほとんどが一般病棟の担当だ。身内がいれば案内を頼めるのだが、ソフィアは一人きりだった。あれこれの仕事を後回しにしてBJ自身が付き添うことを決めた時、ドアがノックされた。
「どうぞ」
「おはようございます」
「──え」
 BJは驚愕し、ソフィアは「あら!」と嬉しそうな声を挙げた。ユリは二人に向かって笑顔を見せた。
「今日からソフィアの担当になりました。よろしく」
「嬉しいわ。マンハッタンの病院で、担当じゃないのによく見に来て下さったわよね」
「気分はどう? BJ先生が主治医なら安心ね。先生、お仕事がおありでしょう。ソフィアのことはわたしに任せて下さい」
 BJにちらりと視線を送り、目で「今は何も言わないで」と要請する。BJは受け入れるしかなく、「よろしく」と言って病室を出た。
 ユリは今月末でマンハッタンの病院との契約が切れると言っていたが、まだ月末にもなっていない。まさか出向というわけでもないはずだ。院内を歩きながらどういうことかと考えていたが、医局に入った途端、軍服姿で憮然とした顔の赤毛の男を見付け、謎は全て解けた、と呟いてしまった。
「勝手に医局に入るな」
「おはよう」
「おはよう。おまえさんの手配か?」
「ごり押しされたんだよ。ユリちゃんが昨日の夜に押しかけて来てさあ。飛行機が取れなかったから車で6時間。馬鹿じゃねえの。僕、そろそろノースカロライナの原隊に戻らないといけないのに」
「おまえさんの都合なんかどうでもいいんだが、ユリさんが?」
「僕にとっては僕の都合はどうでもよくない。そう、ユリちゃんが。ソフィアは身寄りがないから世話をする人間が必要だって。それならこっちで手配させるって言っても聞かないし、ドクターに電話してぎゃあぎゃあ喚くし。ドクターが面倒くさがって僕に押し付けやがった。全部手配したよ」
「そいつはお疲れ様だ」
「先生のねぎらいなんて珍しい」
「キリコにだよ」
「Fxxk。別れた男なんかねぎらうなよ」
「たぶん別れてない」
「は?」
 グラディスの眉が跳ね上がる。またうるさくされたら面倒だと思い、BJは手短に言うことにした。
「続きはキリコに」
「口を縫われそうで嫌だ」
「私とキリコの話より、おまえさんたちにとって面白い話がある。聞きたくないか?」
「──凄く聞きたいね」
 ソフィアの関係だと直感し、グラディスは軍人の目で即答した。BJは頷き、今度は悪気なく手短に言うことにした。
「アレンの本名はセルゲイ・オルローフ。34歳。一度ソ連に戻ったがダブルスパイの容疑をかけられて逮捕前に間一髪で出国した。──ここまでの情報料はサービスでタダにしてやる、追加情報は一項目につき日本円で100万。情報部の経費で落とせる内容だと思うよ」
 グラディスはBJを見詰めた。眺めたと言ってもいい目付きだった。そう言えば、とBJは思い出した。──そう言えばこいつは最初に会った時から、私の見てくれを微塵も気にしていなかった。同じ特殊部隊のアンディのように、色んな人間を見ているから気にしないだけかと思っていたが──違う。こいつの目は絶対に違う。
 興味がないんだ。こいつは。見た目も人種も、こいつの仕事の前にはどうでもいいと思ってやがる。それすらも思ってないのかもしれない。ただただ、興味がないだけなんだ。
 こんな奴もいるのか。私があの夜に抱いた劣等感が馬鹿馬鹿しくなるような奴が。
「暗黒街の皇太子。先生の幼馴染」
 当然のように口にしたその言葉に、BJは表情を消した。この男は決して味方ではない。世話になりもしたが、所詮は国家の軍人だ。どれほど親しい風情を装っても、慣れ合うことは好ましくない、この件が終われば実質上縁を切ると強く決めた。
「さあね」
「極秘で司法取引して、もう外に出てるはずだ」
「さあね」
「ロクロー・マクベが情報源なら信用できる」
「評価が高いんだな。幼馴染として鼻が高いよ」
「真実は?」
「とある幼馴染が教えてくれた」
 グラディスは得心したかのように何度か頷き、それから不意に困った顔を見せた。
「アレン──セルゲイ・オルローフの今の居場所とダブルスパイ容疑のことを知りたいからあと200万円になるんだけどさ、ドルだといくら?」
 円になんか興味ないから分かんない。グラディスは言い、日本人のBJを少し複雑な気分にさせたのだった。


 キリコは思わず「良い」と唸りそうになった。ウォルター・リード病院をはじめ、先進的な病院では最近医師の動きを重視する風潮が出始め、白衣ではなく半袖とVネックのスクラブと呼ばれる医療用衣料の着用が認められる時代になっている。色は様々だが、思ったより、とキリコは思った。──思ったよりネイビーが似合うんだな。
 キリコが声をかける前に、病院職員と話していたBJが気付いた。少し驚いた顔になり、それから少しはにかんだように笑ってみせる。ああ、可愛いな、とキリコは普段よりも少し柔らかい感情の中で思った。
「何、昨日の今日で。──凄い荷物」
「顔を見たくなったのが半分、ユリの用事を仰せ付かったのが半分」
 しばらくはユリも泊まり込みになる。着替えや生活雑貨を持って来て欲しいと頼まれ──キリコからすれば命令に等しかった──ユリのマンハッタンのマンスリーまで取りに行くなど冗談でも面倒だったので、適当に買い込んで届けに来たのだ。さすがに下着は病院の売店で買えと言うつもりだった。
「似合うな」
「あ、──うん、首と腕の傷が隠れないけど、ここなら傷痍兵が多いから平気かなって」
「傷はどうでも、似合うって話だよ」
「──あ、りがと」
 唇をひん曲げてみせたが頬が赤くなる。可愛いな、言ってよかった、と思いながらキリコは微笑んだ。
「ユリさん、びっくりした。マンハッタンの方は大丈夫なのかな」
「陸軍少佐様が突っ込んだ案件だ、問題ないさ。この国じゃ先生が思ってるより、佐官ってのはごり押しが利くんだよ」
「あいつが少佐ねえ」
「元々ユリもオペ看でね。あっちじゃ手術が少なくてあまり遣り甲斐がないってうるさかったからな。契約終了前に逃げたかったんだろうさ」
「え、オペ看? 知らなかった」
 ユリの意外な一面をまた知り、BJは驚く。この兄妹は何かと意外な面が多い気がした。
「BJ先生、お客様なら応接室をどうぞ。ユリさんに御用なら呼んで来ますから」
「ああ、ありがとう。そうさせてもらうよ」
 気を利かせてくれた職員に礼を言い、キリコを応接室に案内する。BJがソファを勧める前に荷物を投げ捨て、BJを引き寄せて軽いキスをした。
「スクラブ、いいな。少しエロい」
「エロ親父かよ」
「エロいもの見りゃエロくなるさ」
「エロキリコ」
「先生がエロいのが良くない」
「エロがゲシュタルト崩壊しそうだ、やめて」
 笑いながら軽いキスを繰り返していると、ドアの向こうからわざとらしい咳が2回ほど響き、何もかもお見通しのユリの来訪を告げた。キリコが鼻で笑ってドアを開けると、あらどうもお兄様、とユリはやはりわざとらしく言った。
「ここでグラディスくんなら『いちゃついてんじゃないよ、死ね』って言うんでしょうけど、わたしは独り身でも優しいから言わないわ。──先生、ソフィアは寝てます」
「他人の名前を使って本音を言うんじゃない。おまえ、この間の彼氏はどうした」
「誰のことよ」
「名前なんか知るか。今年に入って何人目──」
「余計なこと言わないで! 荷物を置いたら帰ってよ!」
 この数日でユリへの印象が変わったような気がしてならないBJは、止めるタイミングを逃し、兄妹ならではの殺伐とした会話をしばらく聞き続けることになったのだった。
「そういえばグラディスはまだこっちにいるのか。用事があるんだ」
「仮眠してから帰るって言うから空いてる病室を貸してあるわ。呼ぶ?」
「いや、それも悪いな。俺が行く。どこだ」
 ユリが病室を告げると、キリコはBJの頬に唇を押し当ててから応接室を出て行った。
「俺が行くって言っても、叩き起こすってことじゃないかしら」
「まあ、あの赤毛なら叩き起こしても罪悪感がないから」
「そうなんですか?」
「ユリさんには良い人ぶってるみたいで良かった。ほとんど徹夜でこっちまで運転して来てくれたんでしょう」
「お陰様でわたしはぐっすり。良い人って言うか、あの人──わたしに興味がないから、使い勝手がいいんですもの」
 咄嗟に言葉が出ず、BJは「え、え?」と我ながら間抜けな声を出してしまった。ユリは一般的な女性が聞けば反感を持つに違いないことを飄々と続けた。
「わたしに気がある男性に何かを頼むのは後が面倒なの。でもグラディスくんはわたしに全く興味がないから後腐れがなくていいんです。お礼に煙草を1カートンくらい渡せばそれで済むもの。もちろん感謝はしてますよ、それは当然。わたしに興味がない人は、それ以上のものは受け取ってくれないってこと」
「……あ、そういう……そういうこともあるんですね……」
 美しい女性には美しい女性にしか分からない面倒とライフハックがあるものなんだ──BJは新しい知識をユリに対する新しい印象と共にインプットした。
「先生とにいさんには良い人じゃないんですか?」
「……良い人だった印象が凄く……なくて……多分親切にしてもらった気もするんだけど」
 ユリが噴き出した。やだ、先生、と笑い続ける。何かと思ってユリを見ると、笑い過ぎたとしてもいやに早く、目尻に涙が浮かんでいた。
「あんなに泣かせてくれたのに忘れちゃうなんて。──でもいいわ。素敵。よかった」
 よかった、よかった、と何度も繰り返す。応接室に入る前、兄とBJが同じ室内にいると知って緊張した。だが鼻で笑いながらドアを開けてくれた兄を見て安心した。
「ソフィアのところに戻ります。何かあったらコールしますから、先生はゆっくりなさって」
 BJが返事をする前にユリは荷物を拾い上げ、速足で応接室を出て行った。
 わたしは本当に幸せな人間なのかもしれない。BJはそう思った。考えている以上に多くの人の手を借りて生きている。
 借りられることが不思議でならなかった。


「……妹の我儘に付き合ってくれてありがとう、お礼にもう少し寝ててくれていいんだよって言え」
「軍人なら20分刻みで充分だ。起きろ」
「ムカシトッタキネヅカなんて披露するな、死ね」
「流石デルタだ、多言語対応だな。──短時間で済ませてやる。起きろ」
 口の中で何やら呪いの言葉を呟き、グラディスは身を起こす。煙草を出しかけたがキリコに「禁煙だ」とすかさず言われ、さすがにここが病室だと思い出して溜息をついて諦めた。
「手っ取り早く言うとな。ドナーの問題だ」
「ああ、殺すなってんだろ。分かってるよ」
「信用できるか」
「だからさ、ドナーなんて現れるわけがない状況なんだから、もしソフィアの移植手術が実現したら殺したって思えばいいだろ」
「分かりやすいが随分素直だな。気持ちが悪い」
「そもそも、実行を決定するのは僕じゃないからね。CIAだ」
「──おまえが首謀者じゃないのか?」
「首謀者って言うのやめてくれる? 悪いことしてる気分になる」
 キリコは薄く笑い、グラディスはその笑いに苛立ちを覚えた。
「悪いことだろう」
「特定秘密保護法違反。ソフィアがね」
「FBIの事務員が?」
「FBIの名簿を持ち出した疑いがある。CIAはれっきとした容疑者を追ってんのさ。僕はドクターと先生に繋ぎが取りやすいからって理由と大統領との絡みで入れられただけだよ」
「なるほど。デルタ隊長にしては本来の任務外の安っぽい仕事だと思っていたが」
 グラディスが怒るのではないかと期待したが、期待通りの結果は得られなかった。それどころか同意するように頷かれ、こいつも不本意だったんだな、とキリコは知る。
「でも、これからちょっと状況が変わるかもしれない。先生に訊けば?」
「なんであいつが知ってるんだ」
「ロクロー・マクベから情報をもらったんだとさ。僕は先生から200万円で買った」
 一瞬、キリコは目の前の男から意識を逸らしそうになった。間久部のことは知っている。接触したことはないが、BJと幼馴染と言う話は闇社会でもよく知られた話だった。BJが彼を警察に通報し、一度死刑判決に繋げたことも。
「高い買い物だな。──たまにはフォート・デトリックに遊びに来いよ、赤毛の坊や」
「何を知りたいんだ。脅しはもういい、お腹いっぱいだ」
 既にフォート・デトリックの件での脅しは受けている。まだ何か要求があるのかとグラディスは眉を跳ね上げた。キリコは「物分かりの良い坊やだ」と言ってグラディスを更に苛立たせた。
「簡単な話だ。ドナーにされるはずだった人間の名前と所在を教えろ。闇の連中に保護させる」
「手は出さないって言っただろ」
「信用できない」
「僕が違う人間を教えたらどうする。別人だなんて分かるわけないしね」
「ソフィアのデータとドナー候補のデータを照会すれば本人か別人かなんざすぐに分かる。分かり次第、俺はフォート・デトリックからマスコミにでも電話をかけるよ。なあ坊や、あんまり医者を舐めるもんじゃないぞ」
「好きでドクターより若いわけじゃないんだ、死ね」
「名前を教えろ」
「知らないね」
「冗談はやめろ。こっちは本気なんだ」
「本当に知らないのさ。CIAの連中でも知ってる奴は一部だ。実行される時に初めて知らされる。それだけ」
 おしまい、と言ってグラディスは両手を広げる真似をし、それが事実だとキリコに知らしめた。これだけ仕事をさせられながら全貌を知らないということにキリコは疑問を抱きかけたが、これは万一外部に任務が漏れた時の用心であると思い至った。
「手間をかけたな。寝直してくれ」
「今更寝直せるか。出てくよ」
 忌々し気に答え、グラディスは煙草を咥えた。禁煙だと言う気にもなれず、キリコは病室を出る。
「こんな件、もう終わりだ。全員死ねばいい」
 ドアを閉める前に聞こえた声に、案外あの気狂いは仕事のストレスが溜まっているのかもしれないな、と思える程度には、彼が不自由な立場であり、不本意な任務に就いていることを理解した。同時に胸がざわついた。


 午前中のソフィアの状態をチェックし、安定していることを確認する。チームメンバーはソフィアだけに関わっているわけにはいかず、他の業務に出ていたため、医局に不在だった。BJは自分に割り当てられたデスクでソフィアのカルテを眺め、医者としてできること、するべきことをもう一度頭の中で整理する。
 手術のタイミングはいつにするべきか。数日中には行うべきであり、手術室も空いているという報告を受けている。術式を改めて考え、最善であるかを何度も自問した。
 大体の答えを自分自身に与え、一息ついて喫煙所へ向かう。将来的には病院の敷地内の全てが禁煙になるだろうと予想できるほど、近年の喫煙者への風当たりは強かった。有害物質を振り撒いているんだから当たり前さ、と医者として納得し、喫煙者として不自由を感じる。
「火、頂戴」
 火を点けた途端に声をかけて来たのはちょうど出くわしたキリコだった。まだいたのかとは言わず、素直に嬉しいと思いながらシガーキスで火を渡す。
「ありがとう」
「グラディスと話は?」
「終わった。ユリを連れて来てくれた礼を言いに行っただけだし」
 そう言えばそれだけは言わなかったな、と思い出したが、BJに教える必要もない。
「ところでさ、先生」
「うん」
「200万って何だ」
「ユリさんを連れて来てくれた礼を言っただけなんじゃなかったのか?」
「グラディスが話したんだ」
 嘘ではない。口にしたのはグラディスだ。BJは肩を竦め、「小遣い稼ぎさ」と言った。無論それで話が終わるはずがないと知っているため、キリコが質問する前に自分から説明する。まずはアレンの本名、現在ダブルスパイの容疑でソ連にすら追われていることを教えた。
「ダブルスパイってことは最終的にアメリカ側の人間ってことになるわけだろう」
「うん。つまりソフィアは無罪になる可能性が高くなる」
「ソフィアが知っていたとも思えないんだが」
「それは私も。分からないことが多すぎるよ」
 BJは溜息をついた。キリコは暫し考える。もしこの情報に間違いがなく、アレンがダブルスパイだとしたら、今回の一件は根本からひっくり返されることになりかねない。
「でもアレンを追ってるのはCIA、アメリカのスパイの巣窟だしな。ダブルスパイとは考えにくい」
「そこなんだ。それだけが辻褄が合わない気がして」
「辻褄?」
「200万円の内容なんだけど。──まずひとつ。アレンは今、アメリカ国内にいる可能性が高い。私が情報を知った時点でモントリオールにいた。そこからアメリカは近い」
 カナダね、と呟いてキリコは煙草を灰皿に投げ入れた。BJも同じことをする。そして不意にキリコの首に両腕を回して抱き付いた。キリコが驚く暇もなく、喫煙所に近付いて来ていた男性医師二人が「失礼、少し待つよ」と笑いながら足を止める。もう昼が近い。休憩を取る人間が増える時間だと気付き、キリコはBJの身体に腕を回し、BJはそのまま小声で続けた。
「もうひとつ。ソフィアが渡した情報はFBIの名簿だった。でもそれが──出鱈目だった」
「出鱈目?」
「偽物だったんだ。確認したソ連側が激怒して、アレンをダブルスパイの容疑で逮捕しようとして直前で逃げられた」
 BJが身を離し、キリコは頬にキスをして理解したことを伝える。それから待っていた医師二人に軽く手を挙げ、どうも、と言って場所を譲った。BJが手を繋いで来たのでそのまま指を絡めて歩く。
「さすがにフォート・デトリックで仕事をしないとまずいから俺は一回帰るが」
「うん」
「何かあったらすぐ連絡してくれ。どっちにしろ仕事が終わったらまた来る」
「──何か知ってるのか」
「取り越し苦労だよ。多分」
 言葉を濁そうとした時、繋いだ手の指に力が入れられた。BJの顔を見ると明らかに怒ったような顔をしている。怒ったような──いや、違う、とキリコは知った。それから状況も忘れて口元が緩みそうになり、目を逸らせて意志力で抑えた。にやけたくなる程度にはBJの拗ねた顔は可愛いのだ。
「何だよ」
「知りたい」
「考えすぎだから」
「ねえ」
 飛び上がるかと思った。心臓は飛び上がった。ソフィアならこれだけで心不全だ、と不謹慎なことまで思ってしまった。ねえ。ただそれだけの短い言葉なのに、普段の彼女より少しばかり女性めいた言葉というだけなのに、ボーダーラインにいないだけでこんなにも──子供のように甘い気持ちを抱いてしまうなんて。
「ねえ。教えてよ」
 わざとやっているなら犯罪の領域だ。だがBJにそのつもりがないことは明白で、キリコは様々な感情を抑えなければならなかった。
 ──恋に目覚めた女ってのが無意識に厄介だってこと、忘れてた。
 それから何とか意識を目の前の問題に戻す。切り替えた意識が冷静さを連れ戻し、気になったことを穏やかに口にできた。
「グラディスがぼやいてね」
「あいつが? 何?」
「──『こんな件、もう終わりだ。全員死ねばいい』」
 BJが足を止め、キリコを見上げる。キリコもBJを見た。この短いセンテンスだけで、二人は理解し合った。
「あいつ、全容を理解したってことか? 私たちに分からないことも?」
「可能性は高いし、──怒っている可能性もある」
「あいつが怒るとまずいことでも?」
「……何をしでかしてもおかしくないってことさ」
 BJには話していないが、キリコは思い出す。グラディスがフォート・デトリックの一件を仕組んだのは怒りからだった。弱くなったアメリカへの怒り、ベトナムを悪と刷り込もうとした世代への怒り。BJに言うつもりはない。だが彼の怒りがどれほど性質の悪いものであるかは理解させておきたかった。
「そもそも、SASのアンディと同じだ。情報部と特殊部隊員が組むなんてことは滅多にない。イレギュラーだし、特殊部隊員からすれば本来の任務じゃない。プライドが相当傷付けられていてもおかしくない」
「軍人の気持ちは分からないよ」
「──それでいいんだ。先生はそれでいい」
 心の底からキリコは言った。分からなくていい。知識としてそういうこともあるのだと知っておけば良いのだと思った。
「とにかく注意しておいた方がいい。怒った気狂いなんて何をするか分からない」


 ソフィアが目を覚ました時、ちょうどユリが昼食のトレイを運んで来てくれたところだった。ソフィアが目覚めたことに気付き、ユリが微笑む。ソフィアも微笑み返した。
「寝起きじゃ食欲がないかしら。ゆっくり食べましょう」
「そうね。少し時間がかかりそうだけど、でも食べたいわ」
 まだ起き上がれる身体を嬉しく思い、ユリがベッドに用意してくれる食事を待つ。白身魚のムニエルを見てまた嬉しく思った。
「これ、好きなの。嬉しいわ」
「そう、良かった。もうすぐ手術だもの、今のうちに食べて体力をつけておかなきゃね」
「まだ手術の日程が分からないの」
「BJ先生も考えてらっしゃるのよ。午後の診察で訊いてみたら?」
「そうするわ」
 ソフィアはまだ、食事の介助を必要とするほど弱ってはいない。食べ終わった頃にまた来るわねと言い置き、ユリは病室を出る。
 ソフィアの手術の日程が決まり次第、見学を申し入れようと思っていた。おそらく見学したがる医療者は山ほど出るだろう。自分もその中の一人だ。神の手と呼ばれるBJの手術がどれほどの奇跡を見せるのか、例え延命処置の手術だとしても目にしておきたかった。
 兄のグマの件を思い出す。あの時知ったのだ。あの二人はいがみ合ってなどいないし、むしろ兄はあの時から既にBJを愛していたのではないかと思う。
 いつの頃からか、兄の表情が柔らかくなる時があった。たまに会って、最近何をしてたの、どこにいたの、と訊くと、いつの間にか「BJ先生の面倒に巻き込まれた」と言うことが増えていた。兄の診療所にBJがいた気配を感じたこともあったし、兄の車にも同じ気配を感じた。それを言うと兄の表情は柔らかくなった。
「……あの店でわたしの義姉って言ったのは、冗談じゃないのよ」
 誰にともなく呟く。あの二人が生きる世界に男女、もしくは同性での結婚に意味があるかどうかは知らない。ただ、あの人は姉だ、と思いたくなっていた。
「大丈夫よ。にいさんなら年の功と女性経験があるもの」
 少しくらい人見知りでも、自分では隠しているつもりなのにたまに見えてしまうコンプレックスを持っていても、意地っ張りで凄く気難しくても、患者のことになれば一歩も引かない獣のようでも。
 ──にいさんなら大丈夫。だからにいさんも大丈夫。あなたがいてくれれば。
「ほんと、先生ってすごいわ」
 ──恋愛するだけでにいさんを救っちゃったんだもの。笑ったり、わたしに怒ったりするにいさんにまた会えるなんて、思わなかった。
 だからよかった。本当によかった。ユリは心の底から思った。あの二人がまた手を取り合ってくれたことに、抱き合ってくれるだろうことに、心の底から感謝した。


 ソフィアの病室からグラディスが出て来る姿を見て、BJは一瞬警戒した。グラディスもBJに気付いたが、すぐに目を逸らせて歩いて行ってしまった。BJはソフィアが気になり、気狂いの男を追うより病室へ急ぎ足で入る。
 車椅子に座って窓から外を見ていたソフィアが振り返り、穏やかに笑いかけて来た。窓際にはキリコが置いた花に加え、小さな鏡が増えていた。女性用の手鏡ではなく、折り畳みで、男性が普段持ち歩くような、掌に収まるサイズの味気ないものだ。
「今、陸軍の少佐さんが来てたの。若いのに凄く礼儀正しい人だったわ」
「そうみたいですね。──何の話を?」
「世間話ばっかりだったわ。少佐なんて言うからアレンのことで尋問されるかと思ったのに、ちょっと拍子抜けよ」
 でも楽しかった、とソフィアは笑った。血色が良く、見知らぬ男の礼儀正しい見舞いに喜んでいることは明白だった。
「鏡をくれたの。買いに行く暇がなくてごめんなさい、って言ってね、わざわざ彼が使っているものをくれたのよ」
「彼の私物を? あいつ──いえ、彼が置いて行ったんですか?」
 するとソフィアはうふふと笑った。好きな誰かに内緒話をする時のような笑い方で、BJも全ての疑問を置いて微笑み返したくなるような笑い方だった。
「アレンがいつ来てもいいように、身だしなみを整えておくといいって。考えてみればそうよね、入院してるからって汚い格好でいたら、アレンにがっかりされちゃうわ」
「そう。それは素敵なことだと思いますよ。気付かなくてごめんなさい」
 本来なら主治医が気付くことでもないはずだが、身寄りがなく、他人のユリに世話を頼まなければならない状況のソフィアには重要だったと思い至り、BJは素直に反省した。これだけのことでソフィアは血色を取り戻し、浮き立った心になっている。用心しなければならないはずの男に、今だけは感謝した。
「他に必要なものがあれば手配するから教えて下さい。私にでもいいし、ユリさんにでもいいし。すぐに用意するから」
「ありがとう。先生は少佐さんのお知り合い?」
「──彼がここへの転院を手配してくれたんです」
「そうなの!? そんなこと一言も言わなかったから──お礼が言えなかったわ。先生、もしお会いすることがあったらお礼をお伝えして下さる?」
「ええ、伝えます」
 BJは約束し、それからソフィアのバイタルチェックを始めた。見舞いと鏡の効果か、今までよりもかなり良い数値が確認できた。
 ──今なら手術ができる。2日後までこの状態が続けば問題ない。
 大体の手術日程を算出し、チームに伝えることにした。一般の病院では考えられないタイミングだが、軍の管轄下にあるこの病院ならかなりの無理が利く。そもそも無理を利かせるために既に環境が整えられている。
 だがどこかで、何かが引っかかった。疑問が次々と脳裏をよぎる。
 ──どうしてあの気狂いが見舞いなんかを? どうして鏡を渡した?
 疑問の数々をソフィアに気付かれないよう笑顔を保ち、とても調子がいいですよと告げて彼女を喜ばせ、タイミング良く現れてくれたユリにソフィアを任せて病室を出た。
 アレンがいつ来てもいいように。捨てられた女の心を慰撫するだけにすぎないはずのその言葉が、BJの心に異様に引っかかっていた。


 ユリが髪を洗ってくれた。この看護師さんは本当に優しいわ、とソフィアは嬉しい。転院してから嬉しいことばかりだ。手術が終わればもっと嬉しいことが増えるだろう。ソフィアは主治医が必ず手術を成功させてくれると確信していたし、もし失敗したとしても、あの主治医なら恨むことはないと決めていた。
 突然見舞いに来た少佐の男を思い出す。だいぶ若く、まともな人間ではないとすぐに分かった。職場だったFBIでたまに見かけたような、辛うじて一般社会との繋がりを保つ、ぎりぎりの人間の目をしていた。だが嫌な印象はなかった。
 訊きたいんだけど、と彼は言った。訊きたいんだけど──あなた、もしかして──
 彼の問いにソフィアは答えなかった。笑ってみせただけだった。だがあの少佐はそれで分かったのだろう。そうか、今までごめんなさい、と言って鏡をくれた。他に必要なものは、と訊かれ、素直に答えた。BJやユリには言えないものだったが、この男なら分かってくれると思って、言った。そして彼は分かってくれた。──今度来る時があれば必ず持ってくるよ。
 優しい人ばかり。何て幸せ。ソフィアはつい、ふふ、と笑って、髪を洗ってくれているユリに「何かいいことがあったの?」と問われる。こんな問いをもらえることだって幸せなのね、と思った。