抱き合いし恋人 05

 ソフィアの術前準備は着々と進み、微笑んでいた彼女は次第に不安げな顔を見せるようになった。そのたびにユリが優しく励まし、何か楽しい話をしましょう、と患者の気分のコントロールを助ける。午後には少し深く眠り、BJは慎重にソフィアのバイタルチェックを行った。数値的には問題がない。理想的な手術ができそうだった。
「このまま行ければいいんだけどな」
「そうですね。凄く安定してる」
「ユリさんのお陰ですよ」
「そう言って頂けると嬉しいわ」
 それからユリはBJの様子を窺った。昨日は具合が悪いと言っていたが、今はそうでもないようだ。明日の手術を控えているということもあるが、何よりもBJ自身を好きな人間として安心した。
「にいさんはどこに? 仕事をさぼってここにるって、喫煙所にいた人から聞きました」
「医局。勝手にソフィアのカルテを見て文句言ってた」
「文句?」
「延命処置なんかするべきじゃないのに、って、ぶつぶつうるさくって。笑っちゃった」
「──そうなんですか」
 笑っちゃった、と笑って言うBJが意外だった。兄がそんなことを口に出せば、どんな時でも口論になるはずだ。少し二人の関係が変わったのだろうかと疑問を持ったが、BJに訊いても答えは得られなような気がした。兄のことを話したBJの顔が女のものだったからかもしれない。彼女のこんな顔を見たことがなかった。
「にいさんの出番なんてないんだから、黙ってればいいのに」
「そのうちどうせ赤毛が顔を出しますよ。一番の出番になる」
「──あ、うるさいし?」
「そうそう。相手をしてもらいましょう」
 ユリがグラディスを「うるさい」と評したことに笑ってしまう。ユリも笑った。
 医局へ戻るとBJのデスクでキリコが手術計画表を見ていた。チームメンバーの一人の男性と話している。二人の様子からして、今回の手術の是非について話しているのだろう。どちらかと言えばキリコが男性の話を聞き、とりあえず頷いてあしらっているようにも見えた。口を挟むべきか迷っているとデスクの上の電話が鳴る。キリコが取る前に自分で取った。お帰り、と言うキリコに目で「ただいま」と言い、受話器に向かって挨拶をする。
「BJです」
『フランスのヒデヨシ・トヨトミ様から外線です』
「あの馬鹿」
 指の伝説に絡めた偽名に苦笑し、電話を切り替える。苦笑したものの、間久部からの電話なら明るい話ではなさそうだと思った。幼馴染を相手にそう思うのも残念だが、今はそういう関係だ。
『クロちゃん、元気? 彼氏とまたうまくやってる?』
「……もうその話回ってんのか、ってのは言うのも馬鹿馬鹿しいからどうでもいいんだけど、何の用だ」
『もうちょっと優しくしてくれよ。女王様のためにあくせく働く下僕なんだよ?』
「その下僕が図々しくも何の用だって?」
『冷たくて最高。──いや、大した話じゃないんだけど』
「うん」
 間久部が「大した話ではない」と言う時、大抵は大した話だ。
『アレン──セルゲイだっけ。アメリカに入国してる可能性が高い。モントリオールでワシントン行きの長距離バスに乗ったのをうちの奴が確認した』
「──いつ?」
『ワシントンで言えば昨日の21時』
「そう」
『うん。それが一件。あとはもう一件』
「もう一件は?」
『たまには飲みに行かない?』
「下僕が生意気を言うもんじゃないよ。じゃあさよなら、ありがと」
 間久部の返事を待たずに電話を切る。
「下僕?」
 隣の彼氏が不思議そうな顔をしていたが、そんな顔をしてる場合じゃないぞと言いたくなった。
「ワシントンにいる」
 それだけで話は通じた。キリコは「ふうん」と呟き、再び手術計画表に目を落とし、やっぱりこれは不要だ、とまた言った。
「おまえさんの意見なんか聞いてねえよ」
「感想を言ってるだけだ。──で、どうするんだ」
「私にどうにもできないことは手を出さない主義でね。ここでクローズだよ」
「それならそれで。──煙草」
 セルゲイがワシントンに入っている話は一切しないと少ない言葉で確認し合い、手術計画表をBJに渡してからキリコは医局を出て行った。勝手に見やがって、とやや腹を立てつつも、赤字で一部に修正が加えられていることに気付く。
 修正部分の周囲には様々な数字が書かれ、キリコが計画表にあるソフィアの数値から何かを計算したことは明らかだった。詳しく修正内容を見て眉を跳ね上げ、ふざけんな、とつい口にしてしまった。
「こんな少ない麻酔量でコントロールできるのは死神だけだ、馬鹿」
「何ですか? ──ええ? これでやるんですか?」
 覗き込んだチームメンバーが驚愕の声を挙げたが、やらないよ、とBJは肩を竦めた。
「キリコが勝手に書いた。麻酔医でもないくせにこういうのが得意なんだよ」
「死神の意外な一面と言いますか。でも理想の数値ではありますよね。患者の負担が少ないのは確かだ。俺はやりたくないですけどね」
「現実的にはコントロールが難しすぎる。私だってやりたくないね」
 二重線を引いて消してやろうとも思ったが、想像よりも綺麗な字を消すことが何となく忍びなくなり、「参考」と書き足してデスクに置いた。今後の資料として使えることには間違いない。そしてあるいは、と仮定するまでもなく、死神ならこの数値の通りにコントロールをするのだろうということも知っていた。
 それからセルゲイについて少しだけ考える。彼は何をしに来たのだろうか。まさか偽の情報を渡されたことを恨み、ソフィアに復讐をするのではないだろうか。そう考えることが最も正解に近いような気がした。
 そしてセルゲイはソフィアがマンハッタンからワシントンへ移動していることを知らないはずだ。大方、ワシントンからマンハッタンへ向かうだろう。それならそれで良いと思った。これ以降はCIAが独自に情報を掴み、動くべきだった。もうソフィアの治療以外のことを考える必要はないと決めた。


 モントリオールからは順調に移動できた。途中で長距離バスを乗換え、服も替え、祖国で訓練した通り、人目につかない方法で完璧に隠れられている。祖国へはもう帰れない。まさかあの女が偽の情報を自分に渡すとは思いもしなかった。
 ──知らなかっただけなんだろう。俺も確認してから祖国へ帰れば良かった。
 お陰でアメリカ側に寝返ったかと疑われ、逮捕される一歩直前だった。気付いた瞬間に身一つで逃げ、カナダに入国し、今はやっとワシントンだ。マンハッタンまで飛行機にするか長距離バスにするか悩んだが、急な逃亡に直面した時の危険を避けるため、バスでの移動に決めた。
 カナダからの観光客になりきり、チケットセンターへ向かう。人気都市へのバスチケットを求める人たちでごった返していた。これならすぐさまCIAに気付かれる可能性が低い。
 だがそれは間違いだとすぐに理解し、絶望した。
「Hello、セルゲイ。お帰りって言ってやろうか?」
 完璧なまでの生粋の米国英語がかけられると同時に肩を抱かれ、周囲を数人の情報部員たちに囲まれたことを悟り、大きく息を吐き、自ら両手を軽く上げる仕草を選択した。
「言う通りにする。ただ、質問させてくれ」
 喋るな、動くな、と言われたわけでもない。だから言った。まだ死なない、殺してもらえないという予想と確信があるからこその態度だった。殺す前に彼らは、自分を拷問にでもかけてソ連の情報を極限まで引き出そうとするだろう。
「ソフィアはまだ生きているのか?」


 夕方の診察に行くと、ソフィアはまた手鏡を前に身なりを整えていた。少し化粧もしているようだ。ほんの僅かに色を差すだけで、彼女は驚くほど美しくなっていた。
「メイクを? とっても綺麗」
「ありがとう、嬉しい!」
 BJの言葉にソフィアは笑って喜んだ。
「今のところ、体調に変化は? 何でも教えて下さい。どんな小さなことでも」
「小さなことでも?」
「背中が痒いでも何でも」
「それはないわ!」
 冗談だと思ったのか、ソフィアは声を上げて笑った。BJも付き合って笑ったが、実際のところ、それで分かる異変もある。
「本当のことを言うと、心臓以外、あなたはとても元気な状態なんです。心配する必要がなくって、明日まで私の仕事がないくらいにね」
「嬉しいわ。先生はわたしを喜ばせてくれるのが本当に上手よね」
「あなたが自分の力で管理して、健康だからですよ。結局はあなた自身のお陰」
「上手すぎるわ。優しいのね。──本当に優しい人ばっかり。先生も、ユリさんも」
「そう」
 自分はともかく、ユリは優しいだろう。今回初めて彼女の仕事振りを間近で見ているが、看護師として優秀であることは疑いようがない。どこへ行っても仕事に困らないのは資格のためだけではなく、ユリ自身の能力が大きいという確信があった。
「わたし、この国に迷惑をかけたんでしょうけど、それなのにこんなに優しくしてもらえるなんて思わなかった。先生でしょ、ユリさんでしょ。それから少佐さんと、──ドクター・キリコにも。ドクターがいなかったら、きっと先生にお願いする勇気は出せなかった」
 何を言えばいいのか分からなかった。不意に、おんなじなのね、とソフィアに言われたことを思い出した。おんなじなのね。二人とも、最期まで、一緒にいてくれるのね。
 おんなじ。同じ。そうなのだろうか。どこまでも分かり合えないからこそ、正面から認められなかった感情があった。今は感情そのものを認め合っていると思うし、さりとて愛し合うわけにはいかない。キリコ自身もそう考えていることは分かる。だがあまりにも──近いようで遠い、決して重ならないひとつのことを、二人でいようとする限り、永遠に考え続けなければいけない、考え続ける勇気を持つ時がいつか来ることも分かっている。
「本当に、おんなじ。先生とドクターって、びっくりするくらい、おんなじよ」
「そう」
 患者の感傷的な戯言だ。簡単に相槌を打ち、流してしまうことにした。だがそれはソフィアの無邪気な報告が許さなかった。
「生きなさい、って」
「え?」
「おっしゃったの」
「誰が?」
 ソフィアは笑顔になった。この女性が死んでも私はこの笑顔を一生忘れられないかもしれないとBJが思うほど、美しい笑顔だった。
「生きなさい、って。ドクター・キリコが、わたしにおっしゃったの」
 一生忘れない。BJは思った。


 キリコを探して医局に戻る。何かを言わなければならない。何を言えばいいのかは分からない。ただ顔を見なければ、自分は何かを喚いてしまいそうだと感じていた。
 医局に飛び込んで来たBJを見て、キリコや周囲のスタッフたちが驚いて振り返る。周囲の視線など気にもせず、BJはキリコに速足で駆け寄り、キリコ、と呼んだ。
「うん?」
「キリコ」
「どうした」
「あの──どうしよう」
 どうしよう。何も言えない。まるで馬鹿みたいだ。BJが焦る中、異変を察したキリコが立ち上がってBJの肩を抱き、周囲に「先生の部屋」と言い置いて医局を出た。昨日もこの時間にBJが不調を見せた件を思い出した周囲は得心し、キリコに任せることにする。
「先生、どうした」
 医院内ではなくBJの部屋へ行き、昨日と同じようにベッドに座る。混乱したBJはキリコの肩に額を押し付け、だから、と言った。
「だから」
「うん」
「──だから、どうして。どうすればいいのか分からなかったんだ」
「何を?」
 天才の乱心にはいい加減慣れた。これが自分の前でしか見せないだろう甘えの一環であることも、キリコは薄々気付き始めていた。この程度なら全く問題ない。キリコの負担になるほどではなかった。安楽死を求める人々を相手にする時の方がよほど複雑で、そして気を使う。BJの甘えなど可愛い範囲だった。
「違うと思ってた」
「何を?」
「そんなこと言わないって、キリコは」
「紳士的なことしか言わないようにしてるよ。クソビッチなんて言わないしね」
 少し冗談混じりの声を演じてみせるが、BJは肩に押し付けた額を離し、首を大きく横に振った。それから顔を上げ、キリコの腕を強く掴む。
「どうして言ってくれなかった?」
「何を?」
「今まで、色んな人に言ったのか?」
「何を?」
 優しい声で返しながら、キリコは考える。過去の話だろう。色んな人に言った? 何を? そこまで考え、溜息をつきそうになった。まさかユリが何事かをまた吹き込んだのではないかと邪推したほどだった。まったく、と思った。──まったく、昔の女に言った愛の言葉だの、そんなのを勝手に想像して嫉妬してこれだとしたら少し問題だぞ。
 だがそんな話ではなかった。キリコを見上げるBJの唇が震え、長い睫毛の淵が濡れた。泣くほどのことなのか──キリコが流石に驚いたその瞬間、BJは言った。血を吐くような声としか言いようがない、キリコを抉る声だった。
「『生きなさい』」
「──っ!」
 キリコが絶句する。途端にBJの目から涙が溢れ出した。どうして、と泣き声が言った。まるで男を詰るような泣き声だった。
「そんなことを、どれだけの人に言った?」
「……そんなことを言ったかも、覚えてないよ」
「嘘だ。──嘘。絶対に嘘だ」
「覚えてないんだ。先生、この話は──」
「──やめて!」
 BJが叫んだ。泣きながら叫んだ。キリコは何も言えなくなる。
「やめて。──いやだ、いや! ──やめて、やだ、やめないで、やめるな、馬鹿!」
「どっちだよ」
 思わず苦笑する。自身への衝撃が二の次になるほど、今のBJは無茶苦茶だ。だがそれが恐ろしく愛しかった。こんな話をしながら泣いて縋り、怒る女を愛しいと思わない方がおかしいのだ。少なくともキリコにとってはそうだった。
「私が初めてソフィアに会った次の日、ソフィアはキリコに会った」
「うん」
「その時に。生きなさい、って」
「そうだったかな」
「どうして?」
「どうしてって言われても」
 ソフィアにそう言った事実は覚えている。だがあまり、BJに説明したいとも思えなかった。それでも、自分が──自分とBJが目を逸らせていたことに、正面から向かい合わなければならない時間が唐突に産まれたことを直感していた。
「先生」
「うん」
「じゃあね、俺が話す。納得できなくても怒るなよ」
「……善処する」
「もっと可愛く言えないのかね、この可愛い子は」
 唇を指で軽く弾く。BJは怒った顔をした後、諦めたようにふっと息を吐き、少し落ち着いた様子を見せた。
「安楽死の是非について、先生と一致することは絶対にないって分かってるよ。それを前提に聞いて欲しい。議論は今は無しだ。いいね」
 キリコは静かに優しく、言葉を選んで話し始めた。
「俺がソフィアに会いに行った時、ソフィアはもう救われていた。俺の──死神のエスコートの必要がなかった」
 BJはじっと聞いている。一言一句聞き逃すものかと言わんばかりのその顔が可愛くて、キリコは僅かに微笑んだ。
「俺は殺すためにこの仕事をしてるんじゃない。──救うためなんだ」
 きっとBJは顔を嫌悪に歪めるだろう。そう予想していた。だが信じられないことが起きた。
 数瞬の逡巡を明らかに見せた後、──BJが頷いた。
 それはキリコの感情に、信じられないほどの揺さぶりを与えるものだった。衝動に身を任せた。BJを力の限り抱き締めていた。きっと女が苦しがる力だと分かっていても止められなかった。苦しいはずの女は文句ひとつ言わず、腕を男の背に回し、強くかき抱き返した。
「先生が生きる希望をソフィアにもうあげていて、彼女は救われいて、生きようと決めてたんだ」
 ああ、俺は──キリコは知った。俺は。──俺もまた、今、救われた。
「最期まで生きることが患者を救う結果になるのなら、俺が手伝うことは何もない。だから──」
 だから言ったんだ。キリコは言った。
「生きなさい。──生きることで救われるなら、それしか言えないんだよ」
 胸元があたたかく濡れ始めて、着替えがないのに、とおかしくなった。その程度に意識を逸らさなければやり切れなかった。こんなにも嬉しいことがあるだろうか。こんなにも、誰かに救われたと心方実感できたことがあっただろうか。なかったはずだ。知らなかった。今この瞬間に存在する女と知り合い、誰かに話すことなど決してなかったはずの言葉を紡いで、そして救われたと自分は思った。この女に出会わなければ知り得ないままの瞬間だったはずだ。
 BJが顔を上げた。キリコの予想通り、涙に濡れ、酷い顔だった。それでも可愛いとしか思えないことを不思議に感じる。
「おんなじ」
「うん?」
「私は、正式に依頼を請けた時──キリコがソフィアをもう救ったと思ったんだ」
「──逆だよ」
「違う。──違う。キリコがいなかったら、ソフィアは手術を受けなかった。きっとそうだ」
 生きる気があったのか、なかったのか。あの時に限って言えばノーだろう。
「死に方じゃなくて、生き方を選べるって、喜んでた」
 キリコがいたからだ。やっと分かった。BJはそう言って、また泣いた。そんなこと言ってたのか。キリコはそう言って、幸福感に支配されたままBJを抱き締め直した。
「安楽死は、駄目だ。人殺しだ」
 呻くその言葉に、キリコは反論しなかった。今はするべきではない。だからBJは話し続けた。
「でも、──キリコが、私の好きな男が、生き方を誰かに選ばせてあげられる人だって分かって、今すごく、すごく──嬉しくって、苦しい」
 嬉しくて苦しい。言葉としてはおかしいのかもしれない。だがBJはそれしか言えなかったし、キリコはそれが嬉しくてたまらなかった。
「おんなじだって、ソフィアが」
「何が?」
「私とキリコはおんなじなんだって」
 いつかのシンポジウムを思い出し、キリコは言葉を失う。あの時感じたこと。俺たちは根本が同じものであること、患者を愛し続ける医者でありたいこと、それでも行く先で添えることは決してないということ──それが絶望に繋がると分かって、この女と愛し合ってはならないと決めた。
 あれは間違いだったのだろうか。不意に思った。あの時の俺は間違っていたのだろうか。愛し合ってはならないと決めた俺は間違っていたのだろうか。
 もし間違っていたのなら──俺は無意味にこの女を突き放して、ひどく傷付けて、いらない感情に翻弄される時間に叩き込んでしまったのではないだろうか。
 同じなのか。何を目指す。何を思うのか。何に添うのか。
 生きなさい。
 ああ。──ああ、同じだ。
 同じだった。どうして今まで気付けなかったのか。

 生きなさい。
 最後まで。最期まで。さいごまで。
 そのためにわたしは、
 わたしたちは、
 患者という存在に、医者に命を預けるという勇気ある決断をした誰かに、
 あなたに、
 最期まで必ず添うでしょう。

「泣かないで」
 俺の声はこんなに高かっただろうか、と思った。すぐにそれは勘違いで、BJが言ったのだと気付いた。
「泣かないで。──泣かないで」
 奇跡を生み出す指が、男の右の目元を何度も拭う。キリコはその指を優しく握った。この指が繋ぎ止める命の行く先は、自分が案内する命の行先とは違うと思っていた。そうでなくてはならないと思っていたのかもしれない。
 そうではなかったと、本当は同じであるのだと、信じられない思いでBJを見る。
「信じられる? わたしたち、おんなじなんだって」
「──信じられるもんか」
「わたしも。でも──信じたい。わたしは信じたい。ねえ」
 キリコは? そう問われた。すぐに答えた。ああ、もちろん、もちろんだとも。
「──If you say so」
 あなたがそう言うなら。一度口にした時に女を怒らせた言葉が、今は同じ女をひどく喜ばせた。喜ぶと言う言葉では足りないほどに、声も出せないほどの歓喜の悲鳴を上げて男の首に強くしがみつく。
 それから子供のように、声を上げて泣き始めた。
 どうして泣くんだ、泣かないで、と言えるほど、キリコは身勝手になれなかった。抱き締めて背を撫で、そして自分も泣いていることを自覚しながら、愛するなと突き放した瞬間を、愛し合わないと決めさせた瞬間を、曖昧なボーダーラインに立ったままで相手を独占しようとしていた身勝手な感情を、全て後悔した。
 そしてその全ての瞬間と感情を抱え続けて、今その全てを流し切るように泣いているBJに愛していると告げたかった。だが何を言えば、どんな言葉で伝えれば、どれほど強く愛しているのか、彼女に余すところなく分かってもらえるのか、見当もつかなかった。
 だから結局、言えることはひとつだけだ。愛してる。何度も言った。愛してるよ。本当だ。愛していると口にするだけで、経験したことがないほどの幸福感が増していく。BJも何度も言ってくれた。愛してる。愛してるわ。本当よ。もうあの演技もわざとらしい呼び方も何もいらないのに、甘い女の言葉で泣きながら告げる存在がどれほど愛おしいことか。
 いつか雨の日に言った、言われた、抱けよ、抱かせてよ、という言葉など、会話など、もう陳腐なものにしか思えない。そんな言葉を交わす暇などあるはずがなかった。
 服にかける指に要らぬ力が入りそうで、行為に深い傷を持つ女を怯えさせないように必死で制御した。それをもどかしがった女が「馬鹿」と減らず口を叩いて自分で上衣を脱ぎ捨てて、男に見惚れる瞬間さえも与えず、掴みかかる強さで抱き付いて、噛み付くように深いキスを仕掛けた。
 ここがどこだろうが、ここでどんな仕事をしていようが関係なかった。考えることすら馬鹿馬鹿しくて、それより今はただ、目の前の恋人と溶け合う方が重要で、それ以外にこの世でするべきことが何もなかった。
 セックスをしているとはとても思えなかった。肌に触れている気がしなかった。ただ、熱くて溶ける、溶け合う、境界線がなくなってしまうとしか分からなかった。愛してるよと何度も言った。愛してるわと何度も言った。声すらも溶け合って、どちらが愛していると言っているのか、言われているのか、またひとつ境界線を失っていく。
 身体が奥底から熱くて熱くて、どこまでが自分でどこまでが恋人なのか分からない。分からないまま、ただ熱くて、このまま、きっと死んでしまっても気付かないほど、溶け合う恋人しかこの世界に存在していなかった。


 鼓動が聴こえた。ああ、キリコだ、と知った。それで溶け合った時間は終わり、またひとりの個人として形を取り戻していたことに気付く。それから少し眠っていたことにも気付いた。キリコはまだ眠っていた。眠っていながらもBJを抱き締めたままの腕が重い。その重みも心地良くて、BJは再び目を閉じたい誘惑に駆られる。
 だが時間は無情だ。思い出さなければ良かった。もうすぐ夜の診察に行かなければいけない時間になっていた。あと少しだけ、もう少しだけ、とキリコに身を寄せる。キリコが身動き、目を開けて、ああ、と息を吐いた。
「寝てたか」
「うん」
「何時」
「19時半」
「寝過ぎたかな」
 医局を出てから結構な時間が経過してしまっていた。幸いと言えばいいのか、電話のメッセージランプは点いていない。BJを呼ぶようなトラブルが起きていない証明だろう。
 二人の時間を諦めて起き上がろうとしたが、キリコの腕が許さなかった。時間が、と言う唇が塞がれ、ゆっくりと舌が入り込んで来る。キリコのキスは優しい。今まで何度もして知っていたつもりだったのに、改めて知った。互いの気が済むまで深いキスを繰り返して、しかし身体が再度熱を帯びる前に離した。
「──朝までしけこみたいんだがな」
 キリコのぼやきが本当に残念そうで、BJはつい笑った。笑いながら、わたしもそう、と言ったらまたキスをされて嬉しくなった。
「もう行かないと。ソフィアの夜の診察の時間になるし」
「そうだな」
 起き上がってもう一度軽くキスをすると、BJは医者の顔になった。綺麗なもんだ、とキリコが思う顔だった。
 二人して煙草を吸いながら服を着るという不作法な真似をする。身体を重ねた後の恥じらいを楽しむ歳ではなかったが、だからこそ楽しめる時間がある。遠慮のない態度でいられる今の時間がそうなのだろう、と二人は同時に思った。悪い気分ではなかった。
「明日、仕事が終わったら来るよ。ソフィアの手術は午後には終わってるだろ、何か美味いもの持って来る」
「助かる。ここの食堂の食事はちょっと苦手」
「ボンカレーがないから?」
「そう!」
 笑いながら身支度を終え、部屋を出ることにする。ドアを開けた途端に、また閉めて鍵を掛けた。二人で顔を見合わせ、同時に溜息をつく。
「見なかったことにしたい」
「俺も同じ気持ちなのは認める。でも無理だろう」
「何で私たちのところに来るんだ、巻き込まれたくない」
「ソフィアの手術を受けた時点で巻き込まれてるんだから、それは多分通用しないだろうな」
 嘆く二人を嘲笑うわけでもないだろうが、明らかに急かすためのノックが響いた。もう、と呟いてBJはキリコにしがみつき、好きな男のにおいを体内に補充してから答えた。
「用事があるなら大統領か赤毛の陸軍少佐を通しな。私は関係ありませんぜ」
「その必要はない。我々の権限であなたに接触して良い案件だ」
 ドアの向こうから聞こえた声は、先日BJが叩き返したCIA、情報部員の男のものだった。先ほどすぐにドアを閉めたために人数の把握に少し自信を持てず、何人いた、とキリコに問うと、4人、全員男、と答えられた。
「うち1人、スラブ系」
「──ふうん?」
「多分、東スラブ」
「ウクライナ?」
「ベラルーシ、ロシア」
「お出ましか」
「CIAが仕事をしたってことだな」
「赤毛はいなかったよな?」
「いたらとっくにドアノブを撃って俺たちを引きずり出してるよ」
「キリコはあいつのことを理解し過ぎてると思うよ。──おまえさんたちの権限なんぞ知ったこっちゃない。これから仕事だ、邪魔をするな。警備兵を呼ぼうか」
 女の声は強かった。ほんの少し前までの甘えた顔はもうどこにもない。それが残念だと思いつつ、俺の方も気分を切り替えなきゃな、とキリコは思う。我ながら女々しいものだ。
「呼んでもらってもいいが、結果は変わらない。むしろ先に話を通しに来た我々を褒めて欲しいものだね、女王様」
「何の話だ、なんて言うのも白々しいな。私がどんな話を聞けばいいんだ」
「とにかく開けてもらえないか。確認してもらえば分かるはずだ」
「開ける理由がない」
「銃を使いたくない。頼むよ」
 BJが答える前にキリコが動いた。CIAの男が本気だと分かったからだ。鍵を開け、ノブを回す。ちょっと、とBJが言うことにも構わずにドアを開けた。銃を抜いて待っていた男が「スミスだ」と名乗り、他の男たちは無言のままだった。BJは「野蛮な奴ら」と呟き、キリコの行動を肯定した。
「器物損壊は公務でも後始末が面倒なんだ。開けてくれてありがとう、ドクター」
「そいつはどうも、ミスター・スミス。俺たちの本名は知ってるだろうに、おまえさんは偽名か」
「偽名という確証は?」
「フルネームを言ってみろ」
「ジョン・スミス」
「本名なら名付け親のセンスを恨むところだろう。──しまえ」
 銃をしまうように要請する。スミスは頷いてコートの中のホルスターに収め、改めてキリコとBJに「ジョン・スミス、CIA」と名乗った。
「お名前をありがとう、山田太郎さん」
「ヤマダ?」
 BJの皮肉が通じないスミスに笑い、キリコは廊下にいる男たちをぐるりと見まわした。スラブ系の男に目を止め、名乗るまでもなくこの男がセルゲイだろうと検討をつけた。逃亡の間の疲労からか少しやつれているものの、美貌のソフィアに声をかけ、恋仲になるには充分な容姿を持っていた。
「彼がアレン──セルゲイだ。情報をありがとう」
「何のことやら」
 わざとらしくとぼけるBJに冷たい目を向け、スミスは続けた。
「我々より優れた情報網をお持ちのようだが、どんな方法で知った?」
「──グラディスに訊きな」
 答えながら意外だった。グラディスは情報の出どころが間久部だと知っている。だがスミスは知らないようだ。CIAに言わなかったということなのだろうか。それともスミスが何らかの目的で知らない振りをしているだけなのだろうか。
「少佐は扱いが難しくてね。コンタクトを取るのもひと苦労なんだ。本題に入っていいか?」
「勝手に話しな」
「許可をありがとう、女王様。簡単な話だ。ソフィアをセルゲイに会わせてやって欲しい」
 BJは動じなかった。キリコも同様だ。セルゲイを見た時から予想していたことだった。先ほどから身動きひとつせず、一言も話さないセルゲイは、初めて視線を動かしてBJを見た。BJはポーカーフェイスに溜息を隠した。
「会わせないとは言わない。だが少なくとも3日後、それ以降だ」
「理由は?」
「ソフィアは明日、手術をする。予後が良くても3日は安静にする必要がある」
「──ドナーが見つかったのか!?」
 セルゲイが食い付くかの勢いで口を開いた。他のCIAの男たちが僅かに身動くが、害意がないと分かってそれ以上のことはしない。BJは首を横に振った。キリコはスミスに目をやり、ドナーのことは話すな、と視線で伝える。察したのか、スミスも目で頷いてみせた。
「彼女のドナーを見付けることは絶望的だ。神の気紛れか天文学的な確率の偶然がなければ無理だと思っていい。明日の手術は延命処置になる」
「死ぬのか」
「生きるための手術だ。勇気ある女性だよ」
「それで治るのか? ソフィアの心臓は──」
「セルゲイ」
 BJは冷淡とも言える声でセルゲイの話を遮る。この男に腹を立てていた。ソフィアの話を聞けば腹を立てない女などいないという、確信めいた怒りまで感じていた。その横でキリコは黙って二人を見守っていた。
「おまえさんに何の関係がある。黙ってろ」
「俺は──」
「口を縫われたくなきゃ黙れ。とにかくしばらく無理だ。許可できないし、病室に無理に入り込んだらおまえさんたちを全員、措置入院でぶち込むぞ」
 BJの脅しにスミスが眉を顰めた。
「措置入院?」
「患者の同意なしで強制入院させる制度さ。精神科の十八番だ」
「それは困る。セルゲイ、黙っていてくれ。──どうしても無理かな。彼の身柄を長時間保護するのが難しくなる可能性があるんだ」
「私が考えることじゃない。長時間保護も何も、もう逮捕されたんだろう。あとは留置してゆっくりすればいいだろうに」
「違う。あまり恥ずかしい話をしたくないが、この際仕方ない。──グラディスが任務を一方的に放棄した。昼過ぎから行方が分からない。セルゲイに何かをするとは考えにくいが、用心しなければならないのも確かなんだ」
 BJはキリコを、キリコはBJを見た。BJはグラディスの行為の意味が分からない。キリコは──分かるような気がした。グラディスは彼なりに、一人でこの件に決着を付けるのかもしれないと思った。
「おまえたちのやり方がまずかった」
 キリコが言う。グラディスへの同情からではなかった。過去に何度も見た、理不尽な任務に心をすり減らす兵士たちを思い出したからだった。
「あいつはデルタフォースの隊長だ。おまえたちが護衛だの何だのに使って良い立場じゃなかった」
「彼は文句を言わなかった。正確には、正式な文句は一度も言わなかった」
「あいつの減らず口を本気にしなかったってことか?」
「そうだな。彼の口は回り過ぎる」
「昨日、おまえたちの誰かがあいつに最後の情報を教えた。そうだろう?」
 スミスは黙った。他の男たちも黙る。BJは話の流れが分からず、ただキリコとスミスを交互に眺めるしかなかった。
「口を割った者は既にチームから外したよ。中々口を割らなくて少佐に半殺しにされていたから労災が適用されるだろう。なぜ知っている、ドクター?」
 ようやく発されたスミスの声は友好を全て捨て去ったものだった。目の前の闇医者が敵になったのかどうかを探る目で見る。キリコは続けた。
「俺がどうやって知ったかは、おまえさんたちに関係がない。とにかく言えることは、そちらのミス──特殊部隊員のプライドを軽んじたのはミスだ。そのミスのツケを先生に押し付けることは間違いで、おまえさんたちが自分で始末を付けるべきだってことだな」
「耳が痛いよ」
「とにかく、先生は断っている。俺も正しい判断だと思う。おまえさんたちはセルゲイを連れて失せるべきだ。──話は終わりだ」
 スミスはBJではなくキリコを見ている。キリコもスミスを見る。BJは二人の男の静かな睨み合いを見、次にセルゲイを見る。セルゲイが視線に気付き、BJを見た。BJは眉を顰めた。
 セルゲイの目が縋るものだったからだ。
「……キリコの言う通りで。それに、今セルゲイに会わせたらソフィアは興奮する。発作を起こすかもしれない。そんなことになったら明日の手術はできないし、生命の危険も否定できない。おまえさんたちにとっても良い結果が遠ざかることになる」
「先生からひとつだけ、ソフィアに質問をしてもらうことはできないか?」
「うるせえな、山田」
「スミスだ」
「何を質問しろって?」
「──セルゲイに渡したFBI職員の名簿を、どこから入手したのか。彼女の閲覧権限では手に入れられなかったはずなんだ。他にも内通者がいる可能性が否定できない」
 BJは瞬時にしてポーカーフェイスを自らに命じた。キリコも同様だった。おかしい、と二人は同時に知った。
「そんな話もお断りだ。私は何も関わりたくない。私の仕事は彼女の心臓を可能な限りベストな状態に持って行くこと。おまえさんたちの疑問なんぞ知ったことじゃないね」
 そしてBJはセルゲイを見た。セルゲイの表情がいつの間にか消え、一切の反論をする気がないと知らしめている。
 なるほど、とBJは思った。──なるほど。誰もが、みんな──

 少しずつ、きっと嘘をついている。


 配置に着いたぞ、とインカムから部下の声が聞こえた。グラディスは無感動に答えた。
「待機」
『了解』
『って言うか隊長、大丈夫なのかよ』
 他の部下が無線に割り込んで来た。軍用双眼鏡を覗き込み、あぐらをかいたまま、グラディスは「何が」とやはり無感動に答えた。おお怖い、と無線の向こうにいる部下たちが笑い混じりに本音を漏らす。普段はうるさいほどに感情豊かな隊長の不機嫌は滅多になく、それだけに部下たちの背筋を伸ばすものだった。
『あの任務、細かいことは知らねえけどさ、勝手に抜けたなんて言っちゃって平気なのか?』
「知らない。平気じゃなければ何か連絡あるだろ。CIAが『Dボーイズ(デルタフォースの愛称)に逃げられました』なんて報告する勇気があれば、だけどさ」
『ねえだろうなあ』
「だろ。僕なら死ぬ気で隠蔽するね」
 隊長ならそうだろうよ、と無線の向こうの部下たちが小声ながらも一斉に笑った。
「大体、僕がやるような任務じゃねえっての」
『だよなあ』
「ったく、ロンもロンだよ。どっかの闇医者二人が関わるからって僕に押し付けやがって」
『そこで大統領に文句を言う隊長がおかしいよ』
「すっごいストレス溜まってる。飲みの時に聞いて」
『聞き流す準備はいつでもできてる。隊長は俺たちの飲み代の用意だけしておきな』
「割り勘に決まってんだろ。──Ready」
 用意、と低く告げた瞬間、無線越しにも緊張が走った。双眼鏡をしまい、グラディスはライフルを構える。あぐらをかいたままの撃ち方──数ある狙撃姿勢の中でもトップクラスで安定した体勢だと言われる座り撃ちで、殺す、と呟いた。


「話が変わって悪いんだが、明日の手術が終わるまでここにいる」
 CIAとセルゲイを追い返し、ソフィアの病室へ向かう途中、キリコが不意に言った。BJは疑問にも思わずに頷く。嫌な予感がしている。取り越し苦労であれば良いが、万一予感が何らかの現実となってしまった時、キリコがいてくれた方が助かることは確かだった。
「日本語で」
「──いいよ」
「名簿の件。気付いたか」
「そりゃあな。先生の情報がCIAまで上がってなかったってことだ」
 ソフィアが持ち出したとされるFBIの名簿は偽物だった。だからこそソ連は持ち帰ったセルゲイを自国の情報部を混乱させようとしたダブルスパイではないかと疑い、逮捕に踏み切ったのだ。間一髪で逃れたセルゲイはワシントンでCIAに身柄を確保されたが──おかしい、とBJとキリコが思うまでもなかった。
 CIAはソフィアがセルゲイに渡した名簿が偽物であると気付いていなかった。
「赤毛がCIAに黙ってた?」
「そうとしか考えられないね。──こうなったから言えるが、分からなくもない」
 その言葉にBJはやや黙る。キリコはあの若い男の──兵士の気持ちを分かり過ぎている気がしてたまらなかった。
「キリコ」
「うん?」
「グラディスの何を知っている?」
「──知っている、ってわけじゃない。ただ、分かるってだけだ」
「でも」
 続けようとしたBJの問いを拒否するため、アイパッチに隠れた左目があった場所をなぞる。BJは「そう」と小さく答えることで、これ以上は追及しないと示した。
「とにかく、何があっても先生は手術のことだけを。他の面倒は俺がやる」
「おまえさんが暇で終わったらありがたいね」
「俺もだよ」
「おまえさんの患者でもないのに、ご苦労なこって」
「ソフィアのためじゃない。おまえのためだ」
 ダイレクトに、そして当たり前のように言われた恋人の言葉に、BJは不覚にも顔を赤くする。その顔を見たキリコはきょとんとしていた。そうか、これはこいつにとって当たり前なんだ、と理解したBJはますます赤くなる。
「……やっぱり、あれだ、こういう時は人種とか、文化の違いを感じる。困る」
「慣れてくれないと俺も困る。──俺はソフィアに会わない方がいい。病室のフロアのリラクゼーションスペースにいる」
 笑ってBJの頬を指で撫で、何かあったらすぐ呼んでと言い置いて別れた。その背中を見送ってから、赤みが消えるようにと願いながら頬を軽く自分で叩き、BJはソフィアの病室へ急いだ。
「遅れてごめんなさい、ソフィア。ちょっと来客があって」
「寂しかったわ」
 いつもの時間より遅くに現れたBJに、ソフィアは笑顔で言って遅刻を許してくれた。ソフィアの寝支度を手伝っていたユリも「お疲れ様です」と言って笑ってくれる。寝支度だと言うのに薄い化粧をしているソフィアを見て、BJは少なからず切なくなった。いつアレンが来てもいいように──ソフィアのいじらしさが垣間見えたからだ。そのアレン、セルゲイはほんの少し前までこの病院にいた。それを告げてはならないことが、急に苦しく思えた。私だったら、ソフィアと同じ立場だったら──考えそうになり、すぐに脳裏からその思考を追い出す。
 ソフィアの状態は最高だと言っても差し支えがないほどだった。このまま穏やかに眠り、明日の朝もこの状態であれば執刀医としてかなりの結果を期待できる。それを告げるとソフィアは喜び、じゃあ今日はしっかり寝なくちゃね、と言った。
「新しい花?」
 病室の窓に飾られている花が新しいものに変わっていた。ユリが持って来たのだろうかと思ったが、ユリ自身が「ああ、それは」と説明する。
「一時間くらい前に、グラディスくんが持って来てくれたんです。明日の手術がうまくいきますように、って。わざわざ自分で飾って行ったんですよ。そんなことするなんて意外だわ」
「──グラディスが?」
 行方が分からなくなっているはずの特殊部隊員がここに現れていた。どういうことだ──つい考え込んだBJの様子にユリとソフィアは顔を見合わせる。
「何かあったんですか?」
「え」
「先生とにいさんのところに顔を出したかと思ったんですけど、そうじゃなかったのかしら」
「──え、ああ、来客で立て込んでたから、気を使って帰ってくれたのかも。もしそうなら悪いことしちゃったな」
 つい考え込んだ顔を誤魔化せただろうか。ユリとソフィアはそれ以上追及することなく、疑念からBJを解放してくれた。BJは後でキリコに教えた方が良さそうだと思った。
「じゃあ、ソフィア。明日の10時には麻酔に入ります。少し緊張するかもしれないけど、何かあったらすぐに言って下さいね」
「ありがとう。先生にお任せできて嬉しいわ。──手術が終わって元気になったら、きっとお礼をするから」
「報酬だけで──それから、あなたが元気になるだけで充分ですよ」
 ソフィアが嬉しそうに笑い、BJにベッドの上から腕を広げる。BJも笑い、ソフィアを抱き締めた。ユリはそれを意外に思ったが、BJの知らない一面を見たような気がして、少しばかり嬉しくなった。
 ではお休みなさい──そう言いかけた時だった。BJは総毛立ったことを自覚した。ユリとソフィアには何も変化がない。だからこれは、と分かった。
 何かが起きた。闇を知る人間にしか分からない何かが、近くで。
「ではお休みなさい。また明日」
 悟られないように挨拶だけはそつなくこなす。病室を出た瞬間、速足で廊下を進んだ。
 リラクゼーションスペースにいるキリコを探したが、探すまでもなかった。角を曲がったところでぶつかりそうになった男は当のキリコだった。ぶつかる前に両腕を抱かれ、くるりと身体を半回転させられて事なきを得る。
「何があった」
「俺も分からない。何かあったんだな?」
「あったんだと思う」
 誰かが聞けば奇妙な会話だ。だが闇の世界に沈む二人はそれで分かった。
 病院の中は静かだ。だが確かに、何かが起きている。どこで、誰が──
「肝心な時にいやしねえんだから、あの赤毛」
 様々な危機に対応する能力を持っているはずの特殊部隊員がここにいない。あれほどうるさく纏わりついていたくせに、とBJは苦々しい気分になる。だがそれでキリコが顔を強張らせ、BJを驚かせた。
「どうした?」
「先生、──ソフィアを移動させるんだ。すぐに」
「──どうして?」
「グラディスの行動が分からない以上、何が起きるか分からない」
「……一時間前に」
「何?」
「一時間前に、ソフィアの見舞いに来た」
 キリコは黙り込む。BJも同様だ。互いに何かを考える時の癖だと分かっていた。先に口を開いたのはキリコだった。
「セルゲイを確保したのかもしれない」
「どうやって? CIAの連中が確保してるのに──」
「違う。──待ってくれ、考える。あの状況で──」
 プライドを傷つけられた気狂いが何をするか。キリコは考える。想像する。簡単ではないができなくはない。患者の心に添う時と同じだ。もしこの状況なら、俺なら、同じ立場なら。何を望むか。何をするか。導き出された答えは自分自身でも信じたくないものだった。
「殺すよ」
「え?」
「CIAを殺せばセルゲイを確保できる」
「──まさか。いくら何でも──同じ国で、同じ任務に就いていたのに? 有り得ない」
「そうじゃない。先生。──そうじゃないんだ。そんなの、関係ないんだ」
 特殊な環境で生きる兵士ってのは。キリコは言った。BJが納得できないと分かっていながらも言わずにはいられなかった。
「部隊は家だ。その家を踏み躙られたら誰だって怒る。普通の兵士なら我慢するか、訴え出て改善を求める。でもあいつは──普通じゃないんだ」
「分からない。普通じゃないのは分かるけど、でも──」
「とにかくソフィアを移動させてくれ。可能性は全部排除するんだ。ソフィアにセルゲイを会わせちゃいけない」
 理解しきれない。だがキリコの声が滅多にないほど切羽詰ったものであることを悟り、BJは頷いた。ユリはまだ病室にいるだろうか。移動の手伝いを頼んで──そこまで考えた時だった。不意に強く抱き締められ、クソッタレ、と抱き締めたキリコが呟いた。BJは腕の中でふざけやがってと呟いた。
「禁煙だ」
 キリコが言った。
「次から気を付ける」
 咥え煙草で短機関銃をキリコとBJに押し付けていたグラディスが声無く笑った。既に周囲を3人の男たちに囲まれていることに気付く。グラディスを含めて4人だ。全員が私服だったが、グラディスといる以上、彼らがデルタフォースの人間であるとすぐに分かった。
「何もしないよ。安心して」
「この状況で何を安心しろって?」
「訂正。何もしなければ何もしないよ」
「何かしたら何をする」
「殺す」
 グラディスは笑ってさえいた。この状況が楽しいというわけでもないだろうに──だがキリコは気付く。こんな患者を、兵士を何度も診ている。極限まで大きくなった負の感情に支配された時、なぜか彼らは笑う。
「でも先生には借りがあるから殺したくない。ドクターもフォート・デトリックでまだ働いてもらわないと困るから殺したくない」
「じゃあどうしろって?」
「黙って見ててくれればいいよ。無意味に殺したくないんだよ、後始末も面倒だし」
 周囲の男たちは何も言わなかった。隊長であるグラディスの気が狂っていると分からないはずもないだろうに、ただ従う目をしている。これだから──キリコは思った。これだからたちが悪い。部隊を家だと思う兵士たちは、これだから。
「何をしたいんだ」
 BJが言った。途端に男の一人が銃口をBJに向けるが、グラディスが「やめろ」と言って方向をキリコに変えさせた。妙なところでフェミニストなんだな、とキリコは苦々しい。
「何をしたいんだ。こんなことをして」
「セルゲイをソフィアに会わせる」
「お断りだ」
 確実にセルゲイの身柄を確保したということか。BJは断じたが、同時にCIAの人間たちの生命の行方を危惧する。キリコの予想が正しければ、彼らは既に死んでいる。この気狂いに、あるいはこの気狂いとその部下たちに殺されている。
「先生が立ち合いたければ立ち合ってくれてもいい。できればその方がいい。ソフィアが発作でも起こした時にすぐ対応してもらえる」
「断ったら?」
「先生とドクターを殺す」
「二人を会わせる理由なんてどこにある。いくら国の都合でも──」
「国の都合なんか話しちゃいないよ」
 グラディスが眉を跳ね上げた。キリコはBJを抱く力を強くし、BJは息を呑む。話の流れが一気に変わったのだと理解した。国に忠誠を誓う特殊部隊員が国の都合を無視する発言をした。これがいかに異常なものであるか、キリコは過去の経験と知識からよく分かる。BJはグラディスという男の何もかもが分からなくなる。
「僕とソフィアの都合だ。──出て来い」
 グラディスが振り返らないまま背後に声をかけた。角から現れた男を見て、BJとキリコは全てがもう遅いのだと理解した。
 現れたセルゲイは二人の闇医者に向かって丁寧に会釈をし、申し訳ありません、と言った。
 同時に遠くからサイレンが聞こえ始めた。警察車両のものであることはすぐに分かった。
 キリコはグラディスに問う。
「殺したのか」
 グラディスは笑った。
「死なないとこを撃っといた。腎臓域とか肩甲骨の端とか」
「縫いにくい部分を選ぶんじゃねえよ、クソども。腕がいいにも程がある」
 BJの言葉に、今度は隊員たちも笑った。BJはこの状況で笑える彼らを理解したくないと思ったが、キリコは理解できているのかもしれない、とも思った。
「夜の陸軍病院の駐車場で撃たれたなんて最高だろ。見つかり次第すぐ手術してもらえる」
「複数人のオペ対応なら私も呼ばれる。夜間は医者が少ないからな。ソフィアの立ち合いなんかやってる暇がない」
「それは困る。ドクターが行けばいいじゃない。先生は僕たちと行こう」
 次の瞬間、デルタフォースの男たちは隊長を残して音もなく夜の病棟に消えた。実際は角や物陰に移動しただけだ。だが、消えたとしか言いようのない動きにBJは戦慄した。
「BJ先生!」
 廊下の向こうから控えめな、だが確実に叫ぶ声でBJを呼ぶ看護師が現れる。
「急患、3人です。契約外で申し訳ありませんが──手が足りないんです、お願いします!」
 急患が3人、確実にCIAの男たちだと知り、BJとキリコは溜息を堪える。BJが返事をする前にグラディスが言った。
「ドクター・キリコが行く」
「てめえ──」
 BJが口を開いた瞬間、キリコの額に短機関銃が押し付けられた。見ただけで余りあるほどの恐怖をもたらす光景に、BJは全ての動きを止めざるを得ない。看護師が足を止めて大声を上げようとしたが、音もなく現れた隊員に銃を見せつけられて断念した。
 キリコはグラディスから目を逸らさなかった。おまえは間違っていない。だが──おまえを正しいと言う者もいないだろう。気狂いの目は気狂いの色を湛えていた。だが分かる。この男は確かに気狂いだ。それでも間違えていない。全てを悟った。
 俺が間違っていた。間違えていた。この男は気狂いなんかじゃなかった。
 気狂いの振りをした、忠実な軍人だ。
「俺が行く」
「キリコ!」
 嫌がろうとしたBJの唇に強く自分の唇を押し当て、言を翻すつもりがないことを教えてから腕を離した。
「また後で。──赤毛、もういい」
「もういいって?」
「キチガイの振りはもう結構だ」
 途端にフロアのあちこちから隊員たちの笑い声が上がった。グラディスは肩を竦め、短機関銃を降ろし、悪戯げな目で死神を見る。BJは訳が分からない。ただ、キリコに指摘されたグラディスの表情が穏やかに──気狂いのものではなく、ごく普通の、任務を前にした軍人のものになったことは分かった。
「随分長い間、騙してくれたな」
「別に騙してないけど、勘違いされてんだろうなーって気はしてた。それはそれで便利だから訂正しなかったけど」
 キリコは深く深く溜息をつく。してやられたと言うよりも、こんな仕事をしている自分をよくも騙し切ってくれたものだ、と半ば感嘆の気分だった。特殊部隊員の訓練は細部に及ぶ。対人の印象を操作することもその訓練の一環であると、もっと早く思い出しておくべきだった。
「連中を撃ったのは大統──ロンの指示か?」
「僕の独断。それくらいの決定権はある」
「CIAを撃つことも決定権のうち、か?」
「理由はあるけど言わない。──行ってくれ。協力の承諾をありがとう。悪いことしたね、後で埋め合わせするよ」
「請求書を送るから振り込んでくれればいい。おまえさんの埋め合わせなんぞ恐ろしくてお断りだ」
「ソフィアのことは先生に謝るよ」
「そうすればいい。俺の患者じゃない。ただし」
 グラディスを指で呼び、耳打ちをする。何事かを伝えられたグラディスは思い切り嫌な顔をし、BJをちらりと見てから溜息をついた。
「はいはい、分かりました。ドクターの女を泣かせるような真似は今後一切致しません」
「耳打ちしてやった意味がないな。──その誓いは死ぬまで守れよ」
「って言うか、今まで泣かせたことなんてないけど」
「馬鹿言え。今の話だ」
 キリコが苦々しく吐き捨て、二人のやり取りを眺めるしかなかったBJの目元を指で拭った。
 それで自分が泣いていたと悟ったBJは羞恥と、そして自分でも信じられないという驚愕で真っ赤になった。グラディスが本気で、心底、本当に嫌だ、と言う顔になった。
「彼氏が銃を突き付けられたくらいでパニくって泣くなんて、普通の女の子みたいじゃないか。信じらんない」