君は薔薇より美しい 05

「俺の仕事じゃないような気もするんだが」
「何を今更」
 部屋に戻り、明日の飛行機の時間を確認しながらぼやくキリコにBJは肩を竦める。どうせ請ける気だったくせに、と口にするのはやめておいた。この死神はああまで人の素直な一面を見てしまえば、決して突き放せない性質だ。
 だったら見合った報酬をもらうべきだとBJは考え、先に口を出したのだった。下手をすればあの半額、あるいは数分の一以下で仕事をしてしまいかねない男だからだ。安楽死の依頼ではない限り、わたしの男を安く使うなんて許さない、とBJは思う。
「3日って、普通に旅行しても忙しないな。2日は移動で潰れるし」
「日本じゃ珍しくない長さだけど。仕事と仕事の合間に家族連れで近場の温泉行くのが贅沢」
「戦後の復興の勢いが納得できるデータになりそうだな。──ロンドンでは平和に過ごしたい」
「流石にもう何もないんじゃない? 依頼の予定もないし」
 支配人が就寝前の紅茶を淹れに来た。この紅茶とも明日の朝でお別れだと思えばキリコも付き合えた。とはいえ、ロンドン行きの飛行機に乗ったらアルコールよりも何よりも、甘くない紅茶をサーブしてもらおうと決めたことも確かだった。
 支配人が退出し、荷物をまとめ始めながら、キリコはまだBJが片付けていない香油の瓶に気付く。琥珀とローズのブレンドは一歩間違えると残念な香りになるんだよな、と思いながら蓋を開けて香りを嗅ぐと、驚くほどバランスの取れた調合になっていた。アルコールを一切使わないからこその甘みのある香りで、調合主の技術もさることながら、原材料の精油そのものの品質がかなり高いことを窺わせる。これを無償でもらったBJの人たらしぶりに感心してしまう。商業ルートに乗せても結果が期待できる出来栄えだったのだ。
 これはすごいものだ、とBJに教えたくて振り返ると、荷造りをしていたはずの女はいなかった。香油の瓶はしまい忘れただけだったようだ。キリコは肩を竦め、とりあえず自分のスーツケースに入れようかと思ったが、BJが風呂に行ったことに気付いて考えを変えた。保湿に使うために出しておいたのかもしれない。
 一緒に風呂に入っても良かったが、あれでBJは風呂好きだ。お伽噺のように広い風呂を一人で堪能したいのだろうと思って放っておく。寂しくなれば呼ぶだろう。
 だがしばらくして、キリコの予想より短い時間で風呂から上がって来たBJは、風呂上がりに似つかわしくない青ざめた顔でふらふらとソファに倒れ込んだ。
「マフィン?」
 訝しんだキリコが声をかけると、BJはこの世の終わりのような声で呻いた。
「……絶対増えてる」
「何が」
「……やばい。……あっちゃいけない場所にあっちゃいけない肉が産まれてた……」
「……そりゃおまえ、あれだけ飯だの菓子だの馬鹿甘い紅茶だの飲み食いしてりゃ……」
 覚悟の上での飲食だったのだろうと思っていたキリコは流石に呆れる。なるほど、あのXXキロが破綻したということか。
「まあ、昨日今日の分なら明日控えれば戻るだろ。まだむくんでるだけだ。水飲んで寝ろ」
「明日控えるなんて無理!」
「何で」
「明日はカタールで最後の朝ごはんなんだから目一杯食べたいし! 飛行機に乗ったら絶対ワイン飲むって決めてるし! ワインならチーズとナッツとクッキーがいるし! ロンドン着いたらギネスとチップスだし! 無理! 絶対無理!」
「勝手に悩んでろ。俺は風呂に入る」
「薄情者! 馬鹿! 早漏! 死神!」
「早漏じゃねえし本業の紹介なんか頼んでねえだろ、クソビッチ!」
 溜息をつきながらキリコは風呂へ逃げる。自制に失敗した女のヒステリーに付き合う趣味はない。拗ねたら機嫌を取ればいいだろう。もう慣れたし、面倒だと思わない自分と、それから自分の前では感情のままに振る舞う恋人の姿に満足した。
 風呂から上がり、BJがいるはずのリビングへ向かう。甘い香りが漂っている。恐るべき菓子や紅茶のにおいではなく、昼に女たちからもらった香油だとすぐに分かった。リビングに入るとBJが瓶の蓋を開けた理由がすぐに分かり、珍しい、と思いながらも「可愛い」と本音を呟く。脚のマッサージをするBJを初めて見たのだ。はだけたバスローブから覗く脚をソファに投げ出し、熱心に揉み解している。あの香油をマッサージオイルに使うとは贅沢なものだった。
 香油は少量でも相当香る性質があるため、明日はホテルを出る前に身体を洗わなければ機内で迷惑になる。それを言おうとした途端、BJがキリコに気付いて慌てて脚を隠した。
 乱暴で粗雑な言動も平気でする蓮っ葉医師のくせに俺の前じゃこれだもんなあ、こいつのこういうところがたまんねえんだよなあ、と一人の男として内心で呟きつつ、恋人の顔で「何してるの」と分かり切っているのに問う。BJは照れ隠しのように唇を尖らせた。
「むくみ取り」
「いじましいね」
「しないよりましだろ」
「そりゃそうだ」
 投げ出した脚を自分の太腿に乗せ、隣に座る。間髪入れず握り込んだ中指の関節でふくらはぎの一点に圧をかけると、BJが悲鳴を上げて脚を引こうとしたが、予想していたキリコがしっかり脚を抱え込んでいて逃げられない。
「痛い、痛いって! 馬鹿! 痛い!」
「何だこれ、酷いむくみ方だな。靴、きつくなかったか」
「ちょっときつかったけど、ちょ、痛い、いたーい!」
 かけられた圧に耐え兼ね、ソファに引っ繰り返ったBJが本気で悲鳴を上げる。構わずにキリコは的確に圧をかけた。
「痛いってば!」
「むくんでるから痛いんだよ。痛くなくなったら脚がすっきりするぞ」
「脚っていうか増えた分がチャラになればいいなって、もう、痛い!」
 痛みに生理的な涙が浮かぶ。じたばたと悶えるように痛みに耐えているうち、バスローブの裾が乱れ、太腿があらわになったことは分かったが、直す余裕もない。
 キリコが香油を足し、英国式の施術を続けているうちに、やがて痛みが小さくなって来た。小声の呻きは出てしまうが悲鳴を上げるほどでもない。むくみが消え始めた証拠だ。顔を横向け、クッションに半分埋めて唇を噛み、外科的とも内科的とも違う痛みを堪える。
 キリコは溜息を堪え、たまったもんじゃない、と思いながらマッサージを繰り返す。絶対にBJをマッサージの店に行かせてはいけないと決めた。たとえ施術者が女性だろうと禁止だ。キリコがそう決めたくなるほど、マッサージ中のBJは危うい。簡単に言えば性的な連想を容易にさせる。
「ん──……っ……!」
 触れるたびに小さく呻く声、漏れる吐息はもちろん、頬を赤らめて耐える顔はまるでベッドにいる時のものだ。外科を知る者なら芸術だと分かる縫合痕は血行の急激な改善で赤く浮かび上がり、そこに触れて欲しがっているかのような錯覚が生まれる。ベッドの中で触れれば実際に悦ぶことを知っているキリコとしては錯覚と思えなかった。
「……っふ……」
 それに加えて今は香油の香りが充満している。どんな国でも伝統にあるような香を焚きしめる方法よりも濃密で甘い香りが、BJの体温と喘ぎのような呼吸で部屋中に広がっていた。その香りが自分の香水の琥珀、女がこの国に来てからずっと纏っているローズが混ざりあったものなのだから、それだけで理性にぼんやりした膜が掛かりそうになって当然だ。
 自分を制するためにも触れる場所を変える。足の甲、指、裏に香油を広げ、肌が少し沈む程度の力で手指の腹をなぞらせた。このままでは太腿を撫で上げて、辛うじてバスローブに隠れている奥に指を進めてしまいそうだった。それではただの痴漢と変わらない。
「……くすぐったい」
「痛い方がいい? できるよ」
「やだ。それがいい」
 性に対してあけっぴろげな女相手ならそれも楽しみのひとつにできるだろうが、蓮っ葉な外面を裏切る性意識のBJ相手には無理な話だ。嫌がられればまだしも、蹴りのひとつも覚悟するはめになる。
 それなのに、と不意にキリコは全ての努力が馬鹿馬鹿しかったのだと気付いた。それなのに、何だっておまえは──俺が我慢してやってたのに、どうしておまえは。
「どうした」
 どうしておまえは、そんな目で俺を見るんだろうね。そんなふうに。ほら、言いたいのに言えないって顔で。目元を赤くして、目を潤ませて、そんなに可愛い顔をしているくせにね。
「マフィン」
 俺はおまえが可愛くて仕方ない。ふたりになったんだから、色んなことを共有していきたい。おまえが好きなもの、好きなこと、反対のことも全部覚えて行くよ。好きなだけ甘やかしてやるよ。
 だからおまえも覚えようよ。こうすれば俺がもっとおまえを甘やかせるってことを。
「どうしたの」
 キリコの低く、甘い声に、BJはびくりと身体を震わせた。無意識の反応に驚いて、そしてそれだけで奥がじわりと熱くなった事実から目を背けられない。優しく足に触れていた指が僅かに、ほんの僅かに違う熱を含んだことが分かる。
 ひとつだけの青い瞳が優しく、それでも明らかに欲を湛えた色で視線を合わせてくる。この目がどんな時、どこで自分を捉えるか、意識するまでもなく思い出して、思わず小さな吐息を漏らした。すると男は口元に笑みを浮かべ、そして言う。
「言ってごらん」
 いつもなら言わなくても分かってくれて、まるで男が求めることに女が付き合ってやるかのような始まりをくれるのに、今日は違う。察したBJは唇を噛み、キリコを見た。途端に踵を指の腹できゅっと圧される。
「──あっ!?」
 たったそれだけで下半身から力が抜け、それなのに急激に熱を意識する。力が抜けたはずなのに奥の熱さは消えることがなく、それどころかじわりじわりと大きくなり始めた。性感だということは分かる、だがどうしてこうなるのかが分からない。
「クロオ」
 混乱するBJに、キリコはもう一度優しく言った。
「言ってごらん」
 ああ、とBJは思った。ああ、もう──もう。名前を呼ばれるだけで駄目。
「……キリコ」
「うん?」
 名前を呼ばれるだけで頭が真っ白になるくらい、わたしはぐずぐずにキリコに溶けたくなってしまう。そう、身体も、頭の中もぜんぶ、名前を呼ばれるだけで溶けちゃうんだから──何を言ったって、それはわたしのせいじゃないんだから。
 でもなんて言えばいいの。こんなこと誰にも言ったことがなくって、気持ちを確かめ合いたくて、もっとそばにいたいから、そうしてって言ったことはあるけど、こんな時は──分かんない。分かんない、どうしよう。
「……あの」
「うん」
「……は、恥ずかしくて、何て言えば、いいのか。分かんない」
 素直に口にするしかなかった。途端にBJは後悔し、自己嫌悪に陥る。どうしてわたしは気が利かない真似をしちゃうんだろう。キリコが作ってくれたいやらしい、でもこんなに素敵なのは他にないってくらい、素敵な空間をどうしてぶち壊しにしちゃうんだろう。
「いいんだよ」
 キリコは少し笑ってみせる。BJの心境などお見通しだ。失望するはずもなかったし、ましてや気が削がれることもない。もう一度指の腹で踵を圧し、BJの身体をびくりと跳ねさせてから、この上なく甘く、優しい声で言った。
「可愛がって、って言ってごらん」
 もうたまらなかった。溶ける、と思った。キリコが好む琥珀の香りとローズの香りが甘い声と一緒にわたしを溶かしてしまうと思った。唇がわなないた。零れた声は自分でも信じられないほどに甘えた声だった。
「……きり、こ」
 かわいがって。
 声にした途端、男が満足そうに笑い、いい子だね、と言ってくれて、信じられないほど嬉しくて、泣いた。


 泣くほど恥ずかしかったのか、ごめんね、と謝られて、そうじゃない、と必死に説明した。嬉しくて泣いたと言ったら少し驚いた顔をされた後、それから嬉しそうに、俺も嬉しいよ、と言って抱き締めて、ベッドに行こうと誘ってくれた。
 キスをしながら脱がされて、指と唇で柔らかく愛撫される感覚が好きだ。熱がこもる、熱くなる、そんなのは当然で、他の男の指も唇もこんな熱をくれたことがない。比べるのも馬鹿馬鹿しいほどに、キリコの指と唇だけを覚えていたい。吐息を漏らし、喘ぐたびに、身体に残った香油が空間に満ちていく。与えられる漣のような快楽の中、ああ、この香油の香りは少し重いのだ、と気付いた。嫌な重さではなかった。纏わり付くような、まるで抱き合っているような。
 香油のせいでいつもよりも滑らかな肌は、いつもよりも感覚を拾いやすくなっている。普段と同じように男の指がなぞるだけで、普段よりも大きな熱が生まれ出してしまう。声を抑えることもできなくて、まだベッドに入って数分も経っていないのに、BJは喘ぎ、身を捩り、それだけでキリコの男としての自尊心と征服欲を満たした。
 煽られた男が普段よりも肌の探索に熱心になるのは仕方がない。喘ぎを止められないままいつもと違うとBJは気付いたが、自分とていつもと感じ方がまるで違う。唇にキスをされるたびにしがみついて、自分から舌を絡めて、自分で呆れるほど熱い息を零して、いやらしい水音を立ててはまた熱が上がる。上がるたびに甘い香りがまた漂って、まだ触れられているだけなのに、まるでもう無我夢中と言っていいほどにキリコの熱がいとおしい。
 可愛い、最高だよ、綺麗だ、本当に可愛いよ。何度も、それこそこの男以外が言ったら白けてしまうような言葉すら心地良い。キリコのその言葉にいつもより湿った熱が感じられて、ああ、この男もわたしとおんなじ、今すごく感じてるんだ、わたしを見て感じてるんだ──そう思うだけで甘い幸福感に襲われ、そして奥の奥がぎゅうとうねる。
 いつもよりも時間をかけて胸のふくらみにキスをして、執拗と言っていいほどに、とうにかたくなった乳首を唇で愛される。舌先で転がされ、いやらしい音を立てて吸われて、唇で甘く噛まれれば、恥ずかしいと思う余裕もないほどに啼いて喘ぐ。
 自分の喘ぐ声が切羽詰まっていて、もうだめ、と今にも達してしまいそうだった。早くきて、早く触って。そう言っているようにうねるそこから溢れ出す滴りがシーツをすっかり濡らしていて、溢れた滴りのせいでびしょ濡れになった秘芯が痛いくらいに疼く。
 ねえ、と呼んだ。湿った甘い声だと思った。彼にも少しは甘く聞こえているだろうかと思いながらもう一度、ねえ、と呼ぶ。キリコが顔を上げてどうしたのと訊いてくれる。だから太腿を男の腰に擦りつけて、覚えたばかりの言葉を口にした。ねえ、かわいがって。途端にキリコが大きく息を吐いて乳房に顔を埋め、たまらねえ、とスラングを零した。
 滴るほどに溢れかえっていた中にキリコの長い指がゆっくりと入り込んで行く。濡れ切ったその場所を通る指をすぐさま絡め取ろうとする柔肉が自分のものだと信じられない。指が進むたびに蕩け切っただらしない声が漏れる。一回いっちゃおうか、とキリコが言うと指が増え、まただらしない喘ぎを止められない。
 だがキリコの唇が、薄皮を剥がして剥き出しにした秘芯をじゅうと音を立てて吸い上げた途端、自分では悲鳴を、キリコには歓喜する雌のものにしか聞こえない喘ぎを部屋に響かせた。これはおまえにはまだ強すぎるから、とキリコが普段あまりやらない愛し方で、BJはされるたびに死んでしまうのではないかと思うほどに違う種類の快楽に叩き込まれる。
 強すぎる快楽に慣れないBJが、この愛され方は快楽なのだと知識と感覚を一致させるまでは拷問のように苦しい。一致するまでの時間が辛く、泣き出してしまうことも珍しくない。
 それでも今日は違った。最初から、これは快楽だ、快感だと、肉体の全てが歓喜していた。飲み込んだ指を締め上げながら、だらだらとはしたない滴を零し続けて、止まらない喘ぎを止めようとも思えないまま腰を揺らした。女の身体が確実に育っていたことと、その反応を知った男は普段の遠慮をかなぐり捨てて、思うままに強く愛していく。
 指を飲み込んだ秘所が大きく、きつくうねる。顔を上げて身を起こし、指はそのまま、女が好きな場所を強く探った。BJが悲鳴を上げ、だめ、ふかい、と喘いだ次の瞬間、また派手な悲鳴を上げて大量の透明な飛沫を飛ばした。
 断続的に何度も零しながら、とろんと目を蕩けさせて荒い息を吐き、やがてくたりと身体の力を抜く。いつもなら恥ずかしいと泣き出してしまう絶頂の仕方なのにそんな様子はかけらもなくて、キリコはまだ蕩けたままのBJを見下ろし、可愛いね、と呟いた。
「クロオ」
 ゆっくりと指を抜く。その感覚に身悶えするBJを今すぐにでも犯してやりたい衝動を堪え、できるだけ優しく、それでも聞こえるようにはっきりと言って、そっとBJの下腹部をてのひらで撫でた。
「これからもっと、すごいことしてあげる。どれだけいっちゃってもいいからね」
 何、とBJが蕩けた意識から戻りかけると同時に、キリコは女の下腹部をくっと押す。BJが目を見開き、あ、あ、と短く呻いた。それを確認し、キリコは再び力を入れた。途端にBJの身体が跳ねる。
「──ひっ……!?」
 今まで知らなかった何かをされるたび、これはなに、知らない、わからないと啼いていた。まだ知らないことがあるなんて想像もしていなかった。キリコが腹を押すたびに、深いという言葉では足りない何かが奥の奥、身体の芯、まるで核の部分から知らなかった性感が湧き上がろうとする。
「あ、──ぃ、あぁ、ぁ……」
 蕩ける声でもない、自分でも初めて聞くような情けない声が勝手に唇から溢れ出していく。決して強く押されているわけではないのに、キリコがくっとそこを押すだけで、徐々に徐々に、ああ、これ、すごいのがくる、と、じわりじわり、意識が騒ぎ始めた。
「ふぁ、ん、ぁ……!」
 強すぎる快感でもなくて、繋がって穿たれるような快楽でもなくて、それでも腰が揺れて声が止まらない。開きっぱなしの唇から声と一緒にだらしなく唾液が溢れても、口を閉じることすらできない。広がり続ける性感が腹から腰を包み込み、あぁ、と上げてしまった声は動物の雌が垂れ流すもののようだ。
 止められなくて何度もその声を自分で聴いた。なんて汚い声だろう、なんていやらしい声なんだろうと思いながらも止まらないのだからどうしようもない。腰が揺れて大きく跳ねる。声を止められない。可愛いね、とキリコが言ってくれているような気がするけれど分からない。ただ腹から溢れかえりそうになる感覚を追うだけで精一杯だった。
「あぁぁ……っ」
 また腹を押されて、腹の中の何かがキリコの手に当たった感触があった。それも腰が跳ねるほどの性感で、ああ、と思った。だらしない声を止められないまま思った。すごく感じた時に、降りてきてるよってキリコがいっつも言うところ。ああそうか、これは、この感覚は──
「……きもちい」
「うん?」
「きもちい……これ、きもちいいとこ……」
「そうだよ。よく分かったね」
「──ああぁっ!」
 優しく答えてくれた次の瞬間、ぐっと強く押されて、どこかでまだ塞き止められていたそれが溢れ返った。獣のように絶叫して、快楽の頂点に叩き上げられた。
「ひぎ……っ!」
「可愛い」
「あ、あぁ、あ……っ!」
「可愛い。──可愛い。最高だよ」
 目を見開けば涙が溢れる。声が止まらない。ああ、ああ、と意味のない絶叫を上げながら、何度も強く腹を押されて、経験したことのない、もうこれ以上の快楽はきっとないと思っていたはずなのに、それを軽々と超えてしまう絶頂を何度も与えられる。
 逃げたいわけではなのに暴れてしまう脚を、空いた手で男が抑える。逃げられない。逃げたいわけではない。それでも大きすぎる、こんな感覚がこの世にあるのだろうかと混乱する中でも溢れかえるこれは確かに快楽だ。今までのように襲い来る波のようなものではなくて、波の中に飲み込まれるような深い深い、抗えない、本能からの快楽だ。
「あ、ぁあ、ぁ──!」
 不意にその深い場所がどくりと波打った。それだけで絶叫した。察したキリコが微笑み、いいよ、と言ってくれた。何を許されたのか分からないまま、それでも、いいよと言ってくれて嬉しかった。
「あ、──ひ、ぁぁ、──ん、ああぁっ!」
 深すぎる場所から爆発するように急激に広がった感覚は、快楽と呼ぶにもあまりにも未知のもので、信じられないほど大きすぎた。指先、細胞のひとつまでを支配するように一瞬で染み込んでいく。確かに達してもう動けないと本能が分かっているはずなのに、身体はびくびくとひどい痙攣を起こしていた。
 やっと手を止めたキリコが覆い被さり、顔中にキスをしてくれても、あ、ぁ、と小さく漏れる声は止まらないし、不規則な痙攣も止められない。キリコは分かっていると言わんばかりにキスを繰り返し、髪と頬を撫で、耳をくすぐる。そのたびにまた声が漏れて身体が痙攣し、分かってるならやめてよと言いたいのに言葉が出ない。
 やがて痙攣が落ち着いてBJの理性がじわりと戻りそうになった瞬間、今度はキリコが解れ切って滴るそこに入り込んだ。
「ん──っ!」
 みっともなく声を引きつらせて悶え、先程まで外側から触れられていたそこにぐっと男が触れた途端にまた達する。待って、もうだめ、と言いたかった。
「もう、もう──」
「うん?」
「もう、らめぇ……」
「──ごめん、無理だ、それ」
 キリコがいやに真剣な声で呻き、何が無理なのかと考える間もなく奥を突かれ、また深すぎる場所が身体に痙攣を起こさせる。
「死んじゃう……っ、からぁ……、やらぁ……っ」
「気持ちいいだけだよ、死なないよ」
「あぁっ!」
 両方の乳首をきゅっと摘み上げられて跳ね上がる。途端に締め付けられたキリコが息を詰まらせ、どうするかな、と楽しそうに言った。
「じゃあね、マフィン」
 今度は繋がった部分に手を添えて、秘芯を押すのだからもうたまらない。ひぃ、と情けない喘ぎを漏らして身を捩る。
「起きられる?」
 どうにか頷く。繋がったままで肘を立て、よろめきながら上半身を起こした。繋がった部分が滑って抜けそうになった。おっと、と言ってキリコが軽く突いてまた深く繋がり、BJは不安定な態勢で喘ぎ、のけぞるはめになる。キリコが笑って抱き起こしてくれた。繋がったまま向かい合って座るのは初めてだ。男の甘いにおいにたまらなくなって、BJはその首に腕を回してしがみつき、自分から深く、いやらしい水音を立ててキスをした。キリコはもちろんそれを受け入れてくれる。
 キスを繰り返しているうち、キリコが身体を倒す。唇が離れ、すぐにその喪失感は唇だけではないと気付いた。しがみついて密着していた肌が遠い。
「──ちょっ……!」
 気付いた瞬間、一気に理性が戻った。驚いて身動き、だがそこはまだ快楽に支配されていて、角度が変わって抉られた感触にまた喘ぐ。
 いつの間にかBJを上に乗せていたキリコが笑いながら言った。
「自分で動いて。いい運動になるよ。増えた分、チャラになるまで頑張って」
「……馬鹿じゃないの!?」
 言った途端に赤くなり、そして勝手にぎゅうと秘所が閉まる。う、とキリコが短く呻いてBJの腰を抱いた。
「こうすると」
「──ぁ!」
「ほら、気持ちいい」
 俺もね、と言い、女の腰をぐっと回してみせた男は親切めいた笑いを漏らす。余裕があるように見える男に悔しさを感じ、BJは反対側に腰を動かした。キリコが息を吐き、BJはその顔を見てなぜかぞくりとした。咥え込んだ中が切ないのと言わんばかりに勝手にうねる。キリコが今度は息を詰めた。
 ああ、と思った。ああ、──きもちいいんだ、このひと。
「ねえ」
「うん?」
 キリコを呼ぶ。優しく返事をしてくれるのは何も変わらない。それなのにまた腹の中が切なくうねって、キリコは少し眉をひそめて耐える顔になった。
「きもちいい?」
「いいよ。──すごく。ここがうねって、俺を食べちゃってる」
 キリコの指がつっと腹を撫で、BJはあの感覚を思い出し、それだけで力が抜けて達しそうになる。慌てて力を入れて身体を支えると、今度こそキリコが感じ入った息を吐いた。それだけで、ああ、たまらない、と思った。わたしできもちいいんだ。わたしできもちいいんだって、このひと。
「ほら」
 指を絡めて両手を握られる。
「支えててあげるから、好きに動いて。自分で気持ちいいところ、探してみるといい」
「……キリコは?」
「うん?」
「それじゃ、キリコがきもちよくないのに?」
 言った途端、んっ、と息を詰めた。中にいた男が不意打ちのように力を増せば当然だ。キリコがやや真剣な顔で、あのな、と言った。
「俺はおまえとしてて、気持ち良くなかったことなんか一瞬もないよ」
 嘘ばっかり、と言いたかった。嘘ばっかり、いつもわたしばっかりなのに。そう言ってやりたかったのに、快楽とは違う場所からぶわりと生まれでた歓喜の感情がそれを阻んだ。それなら、と言った。それなら嬉しい、と言った。キリコは笑って、俺も嬉しいよ、今のは可愛すぎて参っちゃったけどね、と言ってくれた。
 初めて男を見下ろして自分で好きにしていいと言われても、やり方が分からない。それでもキリコに少しでも喜んで欲しくて身体を動かせば、不安定な態勢になりそうで、絡めた指につい力を入れてしまう。そのたびにキリコが力を入れ返してくれた。
「……ん」
 キリコの視線を感じて、恥ずかしくて目を閉じてしまう。ほんの数分前まであれだけ嬌態を見せつけていたのに、今更恥ずかしいと思う自分が滑稽だった。それでも自分の身体の下から、明らかに熱を持って見上げて来る男の視線を涼しい顔で受け止めることなどまだできない。そもそもまともな性体験などこの男に与えられたものしかないのだから、二人の間で初めてすることは、ほぼ全てがBJにとって初めてのことばかりだ。
 おまえはいつまでも慣れないねとキリコが笑ったことがあるが、だって初めてのことばっかりなんだから、キリコと何回もしないと慣れるわけがない、と答えるしかなかった。そうか、そうなんだ、と言ってキリコが抱き締めてくれたが、その直前の数秒間、彼がフリーズしていた理由はいまだに分からない。
「……ん、う」
 目を閉じているからかもしれない。中にいる男のかたちがはっきりと分かって、潤み切った自分の中のどこにどう触れているのかが実感できる。熱くて硬い。少し膝を立てて繋いだ場所を浮かせる。それだけでくちゅりと濡れた音が漏れて、腰が震えそうだった。
 散々蕩けさせられた奥の部分には怖くて当てられなかった。またあの信じられないような嬌態を晒すには躊躇ってしまう。わざとそこを避けて前に僅かに傾いてみると、思わず、ああ、と声が漏れた。分かるのは男のかたちだけではなくて、自分のかたちもなのだと分かった。
 じんじんと疼く奥は相変わらずで、あれだけいったのに、何回なんて分かんないくらいいったののに、と呆れ半分、そして恥ずかしくなる。自分のかたちを意識すると、それだけでまた疼きが強くなった。同時に気付く。ここ、──こっち、ここも。きっとここにキリコが当たったら、きもちいい。
「ん──っ……、ぁ……っ」
 恐る恐る腰を揺らす。その場所に控えめに男を押し付けるとたちまち腰が甘く痺れ、腹の奥がきゅうと動いたのが分かった。キリコがふっと息を吐いてから「上手」と短く褒めてくれる。それが嬉しくてまた揺らし、今度はもう少し前屈みになってそこに当ててみた。
「……あぁ……っ!」
「……っ」
 前屈みになると同時に秘芯がキリコの下腹部に擦られ、まだ過敏すぎるほど敏感なままだった感覚に高い悲鳴を上げる。同時に前触れもなく締め付けられたキリコが絡めた指にぐっと力を入れて息を詰めた。やばい、と呻く男の声が聞こえ、何かしてしまったのだろうかと慌てて目を開けた。
「ごめん、これ……こんなのって分かんなくて……」
「謝らなくていいよ。気持ちよくっていきそうになっただけだから」
 そんなことを言われたら嬉しくなるだけだ。嬉しくて笑うとキリコも笑う。好きに動いて、と優しく言われて頷く。顔を見られているのはまだ恥ずかしいし、キリコの顔を見るのも恥ずかしく、それでももう目を瞑らなかった。
 身体が熱くて熱くて、腹の奥から広がった熱が体温そのものを上げてしまう。湿った空気と湿ったいやらしい音の中、肌がじっとりと濡れていく。塗り込んでいた香油がまた重くて甘い香りを空気の中に撒き散らした。
 ここ、きもちいい。ここも。揺らした腰が的確に快感を拾うようになり始める。キリコに任せるばかりのいつもと違い、自分が望んだところに、きっとここはきもちいいと思ったところで思うがままに男を擦り付けようと、秘芯をキリコに押し付けながら腰を前後に揺らした。高い声が出てしまうことももう止められなかった。止めようとも思えなかった。──だってきもちいい。きもちいいまんまに声をだすとこんなにきもちいい。キリコがたまに息を詰めるのも、息を吐くのも、ああ、やだ、いつの間にキリコを見ていたんだろう。
 広がる熱をコントロールするのは初めてだ。好きなところに好きなように。いつもはキリコが全ての主導権を握っているのに、今は自分が思い通りにできるのかと思うと、それだけで背筋がぞくぞくするほど興奮する。──わたしが動いて、中のいいところに当てると、キリコは眉を顰めて息を詰めて、ちょっと顎がのけぞるの。なんていやらしいの。このひと、なんてセクシーなの。ああ、ねえ、すごい。すっごいいやらしい音がするの。キリコがわたしに入ってるところが、動くたんびにぐちゅぐちゅって、奥まで当ててないのに、こんなにいやらしい音が。
「キリコ」
 どうしよう。きもちいい。どうしよう。──どうしよう。腰が止まんない。きもちよくって。
 キリコを見る。もっと顔を見たくて、ぐっと上半身を傾けた。角度を変えたせいで中の違う場所を突き、んん、とBJは息を詰める。
「キリコ」
 もう一度呼んだ。香油の香りを含んだ汗がキリコにぽたりと落ちた。ああ、汗をかいているのか、とキリコは深くなった快感の中で思った。そして同時に、この態勢は良くないなと断じる。
 形の良い胸が弾むように揺れるさまと蕩け切ったBJの顔を下から見上げるのは喉が鳴りそうなほどに悪くないが、如何せん男としてのコントロールが難しくなる。予想以上にBJが貪欲に腰を振る姿はあまりにも刺激的で、喘ぐ声を聴いているだけで持って行かれそうだった。
「キリコ」
「うん、──ん」
 重くて甘い香りの汗がぽたぽたと零れて来たかと思ったら、BJが覆い被さってキスをしてきた。汗で濡れた背に腕を回して噛み付くように、それでも深くキスをしながら、指で背筋から腰を撫でる。んく、と合わせた唇の奥でBJの喉が鳴り、身体を震わせてキリコをぎゅっと締め付けた。
「キリコ」
「うん?」
「きもちいい?」
「──いいよ。すごくいい」
 そんなことを気にしないで好きにしていればいいのに。もう夢中だろうに。それでも男のことを考える女が何て愛しいことだろう。自分のいつもの琥珀と恋人に似合うローズの香りに溶かされる錯覚すら感じながら、ぐっと腰を突き上げる。途端に首筋に顔を埋めて喘ぐ恋人が可愛くて可愛くて、俺の中にこんな感情があったのだろうかと驚くほどに幸せだった。
「クロオ」
「うん」
「ごめんね、もう限界」
「え、──きゃっ……!」
 言うなり汗みずくの身体を抱え起こし、驚いて悲鳴を上げた女をまた可愛いと思いながら、だが明らかに凶暴な欲を抑え切れず、自分の下に組み敷いていた。BJが何かを言う前に強く腰を叩きつけると高い悲鳴が、喘ぎが響く。
「あ、あぁっ!」
「……っ、すっごい、きもちいいよ」
「──あぁ! あ、ぁ、あ──!」
 自分では避けていた奥に容赦なく叩きつけられる熱で、またぞろあの狂うような快楽が戻って来る。BJは喘ぎ、身を捩り、自分を強く抱く男から落ちる汗があの琥珀とローズの香りだと気付く。これ好き、と思った。──これすき、この香りすき、わたしのローズと混ざってるの、ねえ、溶け合っちゃうわたしとあなたみたいに。すき。──好き。大好き。愛してる。
 奥に潜り込んで傍若無人に暴れるかたくて熱い熱に翻弄される中、その奥から急激に湧き上がる快楽に、ああ、と目を見開いた。もう分かる。今まで分かっていなかった、いつも突然訪れて叩きつけられていた絶頂の瞬間が今は分かる。
「あ、きり、こ、いく、──いく、いっちゃう……!」
「いきそう? 分かるの? このままいけそう?」
「うん、──うん……っ、あ、ぁ!」
「いいよ。俺もいくから、一緒にいこうか」
 できるかな、と荒い、獣じみた呼吸の中でも笑う男が憎らしい。そして愛しい。組み敷かれて絶頂の手前まで叩き上げられて、抱き締められて、重くて甘い香りと快感に強い目眩を感じながら、ああもう、もうだめ、いっちゃう、と啼く唇を塞がれる。
「──ん──!」
 ひとつの隙間もないほど唇を深く合わせ、ごり、と音がしそうなほどに強く奥に押し付けられ、覚えたばかりの場所を意識した瞬間、熱が弾けた。男が息を止めて身体を放した数瞬後には腹と胸に熱いものがかかって、あぁ、と熱さに呻く。過呼吸になってしまったかのように息が浅くて荒い。もう指一本動かせないと思った。身体の隅々まで広がって行き渡った快楽が染み込んで、意識までぼんやりする。
 隣に身体を投げ出した男が、呼吸を整えながら抱き寄せてキスをしてくれた。その身体が汗で濡れていて、自分も全く同じだと気付く。
 繰り返すキスの中の琥珀とローズの香りがいつまでも二人だけの空間に居座っていて、だからいつまでもこの香りが消えなければいいのに、とBJは思った。


 翌日の朝食もガンナームとハーディがロビーに準備をして招いてくれた。今日は昨日よりもずっと穏やかに、世間話も楽しめる席だ。甘すぎる紅茶にやっと別れを告げられることを内心で密かに悦ぶキリコは、甘いパンや飲み物を最後の務めとして口に運ぶ。初めて見る料理が供され、これは何、とBJはガンナームに問う。
「バラリート。これはアラブでよく食べるんだ。でも家庭料理でね、本来ならこんな席に出すものではないんだが、先生が好きかと思って用意したよ。ハーディも好きだしね」
 最後は訊いてない、と心の中で突っ込みつつ、キリコは自分とBJの前に供された、オムレツの乗ったパスタを見る。ごく普通のパスタ料理だ。カッペリーニに香辛料がまぶされていて、一番の香りとしてサフランが鼻腔をくすぐる。
 流石にこれは甘くないか、と安心してキリコはフォークを手にとった。ハーディは早速口に運び、「素晴らしく美味しい」と言ってガンナームを微笑ませる。
「二人の世界」
「国元に帰ったらそうも行かないんだ、放っておいてやれ」
 日本語で応酬し、BJは「まあね」と頷いてパスタを食べる。
「あ、美味しい!」
「ふうん」
 それならよかった、とキリコも口に運ぶ。だがBJが「あ」とキリコをはっとして見るのと、キリコが咀嚼したことを全力で後悔したのは全く同じタイミングだった。
「オレンジウオーターとカルダモン、あとはサフランを使って、砂糖で整えるんだ。こちらでは朝食にすることも多いんだよ」
「バーレーンには同じような料理でインディラというものがあって──」
 文化を説明するガンナームと、自分の好物をアラブ圏外の人間に食べてもらえて嬉しいハーディは、客人たちの密かなるパニックに気付かず、笑顔で言いたいことを言い続けたのだった。
「ドクターも先生も、本当にありがとう」
「気持ちが固まったらいつでも連絡を。俺は大抵日本かワシントンにいる」
「ありがとう。きっと遠くないうちにお世話になるよ」
 カウンセリングの場所は欧米か日本だ、おまえらが来い、二度と中東の飯は食わねえ、とキリコは貼り付けた笑顔の下で強く決意したのだった。貼り付いた笑顔だと知っているBJは特に何も言わず、キリコの皿に残ったバラリートをそっと引き取る。増えた分は起きたら減っていたし、滅多に食べられない料理だし、と自分で自分に言い訳をした。
 豪華で広すぎる部屋は、結局水回りと寝室、リビングしか使わなかった。チェックアウトの準備をしながら二人で溜息をつく。
「私たちは所詮、庶民なんだ。こんな広い部屋なんて快適に使い切れない」
「そもそもここは大家族や一族用だ。二人で入る部屋でもないさ」
「前に使ったロンドンの部屋くらいが理想かな。広すぎるけど持て余さない、って感じで」
「今日の夜からあの部屋だぞ」
「──ほんと!?」
 旅行の手配を全てキリコに任せ切りにしていたBJは破顔した。今すぐ行きたい、とまで思った。あのホテルだと言うだけでも思い出せることがたくさんあるのに、あの部屋で、あのバルコニーで、またこの男と同じ時間を過ごせると考えると、それだけで嬉しかった。
 あのバルコニーでは悲しい時間もあった。それでももうそんな記憶も埋もれてしまうほど、あの場所ではキリコと二人で、それからピノコもいて、と楽しかった時間ばかりを思い出せる自分がいる。
「ここもまた来たいな。今度はスイートね」
「食事が……いや、せめて甘くない紅茶かコーヒーがあれば、もう少し観光してもいいとは思うんだが」
 心と味覚の死活問題だと呟くキリコに同情していると、支配人が最後のサービスとして紅茶を淹れに来てくれた。嫌がる素振りを見せずに飲むキリコにBJは感心する。少しくらいホテル側に我儘を言えばいいのに、と思ったが、この男はきっと「これがこの国の文化なら」と答えることだろう。その分ミニバーのミネラルウォーターの減りが早いだけだ。誰かが聞けばもっと自己主張をしてもいいはずだと言うかもしれないが、BJは言おうとは思わなかった。
 宿泊料の精算は既に終わっていた。正確に言えばガンナームが自分に請求書を回すようにホテル側に指示したと言う。断る理由もなかったキリコは気持ちよくそれを受け入れ、彼によく礼を伝えて欲しいと言った。
 数々の手違いと無礼を詫びたがる、買収に応じたホテルマンたちをいなしながらチェックアウトをする。買収ってつもりじゃなかったんだから金持ちって怖いよね、とヒジャブ代わりのスカーフを整えながらBJが呟き、キリコは苦笑した。
 親切なタクシードライバーが笑顔で待っていて、今日でさよならなんて寂しいよと言いながら荷物をタクシーに積み込んで行く。サレハは本当にタクシードライバーで食っていけるんじゃないだろうか、とキリコが思うほど手際よく、常連客を掴めそうな人当たりだった。人見知りのBJですら警戒心を解いているのだから。
 空港に到着し、別れる間際、サレハがBJに香油をくれた。
「奥さんが気に入ってたみたいだって言ったら、喜んで分けてくれたよ」
 あの女たちの家に行って同じものをもらって来てくれたと聞き、二人は驚きつつも礼を言う。特にサレハの正体を知っているキリコとしては驚くどころではなかった。サレハは笑った。
「また来ることがあったら俺を呼べよ。もっと面白い場所に連れてってやる。──元気で」
「世話になった。元気で」
 サレハはキリコと握手をした。次にBJに手を差し出し、やはり握手をして別れの挨拶をする。
 ジャーシムは今日も入国管理官として働いているのだろうと思いながら、キリコはBJを促してチェックインカウンターに向かう。
「ビジネス?」
「いや、ヒースローまではファースト」
「贅沢」
「ファーストでパーティションを外せる席がある便なんだ。嫌ならビジネスにするか?」
「やだ、嘘。意地悪」
 冗談に決まっている申し出にBJは頬を膨らませ、おまえは何歳だよ、とキリコは笑ってしまう。ひとしきり笑い合った後、BJが静かに言った。
「ねえ」
「うん?」
「サレハって、誰」
 キリコは歩みを止めずに僅かに考え、やがて言った。
「気になることでも?」
「さっさと結論を言えば? どうせ答えは同じなんだから」
「タクシードライバーだ。俺たちがカタールにいる間はね」
「それでいいと思ってる?」
「面白くない話だとは思う」
 今度はBJが僅かに考え、やがて言った。
「じゃあそれでいい」
「何が気になったんだ?」
 なぜサレハが身分を偽っているという直感に至ったのか、と質問をする。BJは事も無げに言った。
「私と握手した。この国の男性は妻以外の女性の手を握らない」
「──気が緩んだんだろうな。赤毛を通して伝えてやるか」
 二人がよく知る嫌いなアメリカ軍少佐の存在で、BJはサレハが軍の関係者なのだと理解して溜息をついた。アメリカ人でキリスト教徒だよ、とキリコは心の中で呟き、話を終わりにした。
「俺だって分からないことがある」
「何?」
「どうしてこの国じゃ、女が大切にされるってことが分かったんだ」
「──ああ、それ?」
 BJがまた、事も無げに言った。まるで明日の天気は晴れだよとでも言うように。
「ジャーシムはともかく、誰も私の傷や皮膚の色を気にしなかった。ほんの一瞬もね。こんなこと、欧米圏じゃ絶対にないことなんだ」
「……ふうん?」
「あとは直感かな。ホテルのスタッフもガンナームも、私たちに色んな強制をしたけど──まあ、勘違いの強制だったけど。でも誰ひとり私を乱暴には扱わなかったし、ヒジャブをつけた途端に敬意を見せてくれたし。少なくとも、外見や性差で見下されて差別されるようなことが何もなかった。支配人の演説にはびっくりしたけど」
「あの演説は確かにな」
 言おうかどうかやや迷ったが、言わなくてもいい、と決めた。サレハの姉のことをBJに言っても仕方ない。BJは確かにトラブルに遭遇したが、外見のことなど何ひとつ触れられることなく、女性として大切にされた。恋人の中に残るこの国の記憶はそれでいいと思った。
 ファーストクラス専用のチェックインカウンターで手続きを終え、他の手続きも済ませてからラウンジで時間を潰す。機内じゃなくてもここで酒が飲めるじゃないか、と思い出したBJは、サレハのことを瞬時に忘れて目を輝かせた。甘くない紅茶が飲めると分かったキリコも感動の涙を堪える。
 だがすぐにBJは酒を諦め、機内で飲むからいいもん、と拗ね切った声で呟き、キリコを苦笑させた。カンドゥーラ姿の男性とブルカ姿の女性、いかにも敬虔なイスラム教徒と言った先客たちがラウンジ内に集っていたからだ。BJもキリコも何ら禁じられるべき立場ではないが、彼らの前で酒を飲む気になれないのも確かだった。
 じゃあせめて紅茶を、と二人で決める。
「暑いし、アイスティ飲みたいな」
「そうするか」
 アラブ圏内には冷たい茶はないが、空港内のラウンジともなれば話は別だ。
「やっと俺が知る普通の紅茶が飲める」
「よかったね。おまえさん、すっごい幸せそうな顔してるよ」
「考えるだけで幸せだね」
 幸せな気分のまま、ウエイターが笑顔で運んで来てくれた紅茶を口に運ぶ。
 そしてしみじみ思った。
 ──噴き出さなかった俺を褒めろ。
「……あの、炭酸水かミネラルウォーターがあれば彼に。ライムを絞って」
 一口飲んで全てを悟ったBJがウエイターを呼ぶ。俺の女は素晴らしく気が利くよ、と思いながらキリコはもはや何も言う気力も沸かず、上等のソファに埋もれるように深く座り直して長い脚を組んだ。
 どうすればこの国で甘くない紅茶が飲めるのか。答えが分かる日はいつだろうか。それとも諦めた方が早いのか。
 新たにサーブされたライム入りの炭酸水を手に取り、溜息をついてから一口飲む。そして大量のガムシロップの襲来に、もはや抵抗を諦め、噴いた。
 早くロンドンに行きたいね、とBJが心から同情した声で言った。